第77話 偽りに反応した影
朝の酒商会には、いつもと変わらない慌ただしさが広がっていた。
荷車の到着を知らせる声が正面口から聞こえ、倉庫では木箱を運ぶ音が絶え間なく続いている。酒の受け入れを担当する者たちは帳面を片手に数量を確認し、取引先から届いた書状を抱えた書記たちが長い廊下を行き交っていた。
誰もが目の前の仕事へ追われているように見える。
だが、その中でグレゴールだけは、普段とは異なるものへ意識を向けていた。
正面入口。
裏口。
幹部たちの執務室へ続く廊下。
そして、カイルが日頃から使っている書記や使いの動き。
表面上は通常の配置に見えるよう、人員は慎重に分けてある。見張り役同士にも、必要以上の事情は伝えていない。
ある者には、商会内部から無断で情報を持ち出す者がいないか確認するためだと説明した。
別の者には、最近増えている荷の取り違えを防ぐため、出入口の記録を細かく取るよう命じた。
すべてを知っているのは、バルドとグレゴールを含めたごく僅かな者だけだった。
「配置は終わった」
小さな会議室へ入ってきた部下が、扉を閉めてから低い声で報告した。
「正面と裏口に二人ずつ。廊下には書類整理を装って一人置いています。カイル幹部がよく使う書記にも、気づかれない距離で人を付けました」
「外部との接触があれば?」
「止めずに追います」
「それでいい」
グレゴールは短く答えた。
ここで焦って誰かを捕らえても意味はない。
必要なのは、カイルが何かを隠していると疑う材料ではなく、今ある記録と、これから起きる行動をつなぐことだった。
ヴァレンティーニ家の債権記録を閲覧した署名。
その同じ日に、裏口から出入りした雑用係。
用件欄へ残された『カイル幹部の依頼』という記載。
そして、記録を閲覧した直後から街へ広がり始めた噂。
一つひとつなら、どれも言い逃れはできる。
幹部が過去の債権記録を閲覧すること自体は不自然ではない。
雑用係を呼ぶことも、それだけなら珍しくない。
噂が広がった時期が近かったとしても、偶然だと言われれば完全には否定できない。
だからこそ、グレゴールたちはカイル自身に動いてもらうことを選んだ。
しばらくして、限られた幹部たちが会議室へ集められた。
バルドの正面には数名の幹部が座り、その中にはカイルの姿もあった。
カイルはいつも通り整った服装をしている。姿勢も崩れておらず、表情にも目立った変化はない。
「急に集めてすまない」
バルドが全員を見回した。
「まだ確定した話ではないため、ここにいる者だけに伝える」
幹部たちの顔が僅かに引き締まる。
「セレナさんに関する噂を広めた可能性がある男について、近隣の街から連絡が入った」
カイルの視線がほんの僅かに動いた。
それは、よく見ていなければ気づかないほど小さな変化だった。
バルドは続ける。
「雑用係らしき男が、街道沿いの宿で目撃されたらしい」
「すでに拘束されているのですか」
真っ先に口を開いたのはカイルだった。
声は落ち着いている。
だが、噂の真偽や男の身元ではなく、拘束の有無を最初に確かめた。
「いや」
バルドは首を横へ振る。
「目撃したという話だけだ。まだ本人だとは断定できていない」
「どの街でしょう」
カイルが続けて尋ねる。
バルドは、あらかじめ決めていた街の名を答えた。
雑用係が向かっていないことを、すでに確認している街だった。
「酒商会から、誰かを向かわせるのですか」
「こちらで確認役を決める」
バルドはそれだけ答えた。
「まだ誰も捕らえてはいない。本人である可能性も高いとは言えない。確認が終わるまでは、外部へ漏らさないでもらいたい」
「分かりました」
カイルは一度頷いた。
「私からは誰にも話しません」
表情は変わらなかった。
しかし、グレゴールが気に留めたのは、無表情だったことではない。
男が捕らえられたか。
どこで目撃されたか。
誰が確認へ向かうか。
必要な情報だけを順番に拾おうとする、不自然なほど整った質問だった。
無関係な者であれば、噂の内容やセレナへの影響を尋ねてもよいはずだ。
けれどカイルが確かめたのは、男がどの程度自由に動ける状態なのかということばかりだった。
会合は長く続かなかった。
ほかの幹部たちにも情報を外へ漏らさないよう念を押し、全員を部屋から出す。
カイルもほかの者たちと共に廊下へ出た。
彼は誰にも声を掛けず、自分の執務室へ戻っていく。
廊下の端で書類を整理していた男は、顔を上げなかった。
ただ、カイルが部屋へ入ったことだけを確認する。
扉が閉じられた後、カイルは机の前へ立ったまま動かなかった。
男が見つかった。
まだ拘束されてはいない。
しかし、酒商会が確認へ向かう。
それが事実なら、時間は多く残されていない。
雑用係が自分の名を口にすれば、面倒なことになる。
金を渡したこと。
ヴァレンティーニ家の過去を酒場や市場で話すよう頼んだこと。
完済については触れないよう伝えたこと。
すべてを話されれば、記録の閲覧と噂がつながる。
だが、あまりにも都合よく情報が入ったことも気に掛かる。
グレゴールが自分を疑っている可能性は高い。
男が見つかったという話そのものが、反応を見るための罠であることも考えられる。
自分が直接商会を出れば、尾行されるかもしれない。
誰かへ伝言を持たせれば、その者が調べられる可能性もある。
何もしない方が安全か。
カイルは椅子へ腰を下ろし、指先で机を叩いた。
もし偽情報なら、動かないことで罠を避けられる。
しかし本当だった場合、雑用係が拘束される。
男は忠誠心で動いたわけではない。
金を渡したから仕事をしただけだ。
自分を守るためなら、簡単に依頼主の名を口にするだろう。
普段使わない使いを急に雇えば、それ自体が不自然になる。
いつもの書記へ、通常の仕事を装って封書を届けさせる方が、まだ目立たない。
やがてカイルは机の引き出しを開け、紙を一枚取り出した。
雑用係の名は書かない。
噂についても触れない。
単に、指定された街へ向かい、特徴の一致する男がいないか確認するだけ。
見つけても声を掛けず、居場所と宿だけを報告させる。
それなら後から、市場で問題を起こした人物の所在を調べていたと説明できる。
逃亡を助ける指示ではない。
金を渡すとも、街を離れさせるとも書かない。
カイルは短い文を書き終えると、封をした。
呼び鈴を鳴らす。
ほどなくして、普段から使っている書記が部屋へ入ってきた。
「お呼びでしょうか」
「市場にいる商人へ、これを届けろ」
カイルは封書を差し出した。
「中身について尋ねる必要はない。渡したら戻れ」
「どなたへ?」
カイルは外部商人の名を告げる。
酒商会へ所属している者ではない。
個人的な取引で何度か使ったことがあり、余計なことを聞かずに動く男だった。
「承知しました」
書記は封書を受け取る。
そのまま部屋を出た。
廊下で書類を整理していた見張り役は、書記の手に小さな封書があることを確認した。
書記は自分の机へ戻らず、そのまま裏口の方角へ向かう。
普段なら、この時間は内部の書類整理をしているはずだった。
見張り役は別の廊下へ入ると、待機していた仲間へ短く告げる。
「動いた」
報告はすぐにグレゴールへ届いた。
「止めるな」
グレゴールは迷わず命じた。
「誰へ渡すのか、そこから先まで確認しろ」
書記は裏口から商会を出ると、市場の方角へ歩き始めた。
尾行役は距離を空けて後を追う。
市場は昼前の客で賑わっていた。
野菜や肉を売る声。
荷車の車輪が石畳を擦る音。
行商人たちの呼び込み。
人通りが多いため、尾行するには都合がよい一方で、見失う危険もある。
書記は何度か通りを曲がり、小さな倉庫の前で足を止めた。
そこにいたのは、酒の輸送や仲介を個人で請け負っている商人だった。
書記は周囲を気にする様子もなく、封書を渡す。
二人は短く言葉を交わしただけだった。
書記はすぐに酒商会へ戻る道を選ぶ。
尾行役の一人が書記を追い、もう一人が外部商人の動きを見る。
封書を受け取った商人は、その場では開かなかった。
倉庫の中へ入り、しばらくしてから再び姿を現す。
今度は小さな鞄を持っていた。
商人は市場の中を移動し、荷運びを請け負う者たちへ声を掛け始める。
一人目とは短く話して別れた。
二人目とは行き先が合わなかったらしい。
三人目の荷運び商人と話した後、何かを書き留め、金を渡す。
尾行役は近くの露店で品物を見るふりをしながら、会話の一部を拾った。
翌朝出発。
行き先は、バルドが偽情報として告げた街。
すべてが一致していた。
その日の夕方、グレゴールは報告を受けた。
「明朝、東門から出る荷車へ同行するようです」
「封書の中身は確認できていないな」
「はい」
「なら、まだ止めるな」
そばにいたバルドがグレゴールを見る。
「街を出るところまで待つのか」
「ああ。封書を受け取っただけなら、別件だと言える。だが、偽情報で示した街へ本当に向かおうとしたなら、反応したことは明らかになる」
「逃げられる可能性は?」
「東門にはこちらの者を置く。荷車へ乗る前に止める」
バルドは静かに頷いた。
翌朝、東門の周辺には、商人や荷運びの者たちが集まっていた。
日が昇り切る前から荷車が並び、門の開く時刻を待っている。
外部商人は小さな鞄を抱え、前日に手配した荷車のそばへ立っていた。
荷運び商人へ何かを確認し、荷台へ乗ろうとする。
「少し待ってもらいたい」
声を掛けられ、外部商人の動きが止まった。
振り返ると、酒商会の者が二人立っている。
「何でしょう」
「確認したいことがある」
「私はこれから仕事で街を出るところです。急いでいますので、戻ってからではいけませんか」
「どこへ向かう?」
外部商人は、偽情報で示された街の名を答えた。
「どのような取引だ」
「個人的な仕入れです」
「昨日になって急に、この荷車へ同行を申し込んだと聞いている」
荷運び商人が居心地悪そうに視線を逸らした。
外部商人の顔に僅かな緊張が走る。
「急な話が入っただけです」
「商会内部の情報が外へ漏れた可能性がある。その調査へ協力してもらいたい」
「私の個人的な取引まで調べるのですか」
「封書を受け取ったことは確認している。任意で見せてもらいたい」
「拒否したら?」
「情報漏洩に関する調査へ応じなかったものとして、酒商会を介した取引を一時停止する」
脅しではなく、商会として当然の対応だった。
この街で酒に関する仕事を続けるなら、酒商会との関係を完全に断つことは難しい。
外部商人は唇を引き結び、やがて鞄を差し出した。
中には着替えと簡単な食料、帳面、それに封書が入っていた。
封はすでに開かれている。
書かれていたのは、男の特徴だった。
年齢。
髪の色。
痩せた体格。
頬に残る古い傷。
使っている可能性のある偽名。
安い宿を選ぶ傾向。
見つけた場合は接触せず、宿と居場所だけを知らせること。
雑用係の名は、どこにも書かれていない。
「これは誰から受け取った」
「仕事を仲介した者からです」
「誰だ」
「それを話せば、私は取引先を失います」
「話さなくても、調査が終わるまで取引は止まる」
外部商人の顔が歪む。
「私は、男を探すよう頼まれただけです。危害を加えるつもりも、逃がすつもりもありません」
「誰から頼まれた」
しばらくの沈黙の後、外部商人は書記の名を口にした。
「その書記は、誰の指示で動いた」
「そこまでは知りません」
嘘ではない可能性もある。
書記から直接渡されただけなら、命令の出所を明言されていないことも考えられる。
外部商人は酒商会の建物へ連れていかれ、バルドとグレゴールの前へ座らされた。
封書を机の上へ置き、グレゴールが尋ねる。
「この仕事を受ける時、報酬はいくらだと確認した」
外部商人の目が僅かに動いた。
「まだ、詳しくは」
「滞在日数は」
「男を見つけるまでです」
「見つからなかった場合は?」
「それも、戻ってから相談するつもりでした」
「何も決めずに、翌朝には出発しようとしたのか」
外部商人は黙る。
グレゴールは封書を指先で軽く押さえた。
「普通なら、報酬も滞在日数も、見つからなかった場合の扱いも確認する。だがお前は何も聞かず、封書を読んだその日のうちに荷車を手配した」
「急ぐように書かれていたので」
「急げとはどこにも書かれていない」
外部商人の表情が固まる。
「男の特徴を見ても驚かず、追加の説明も求めなかった。以前にも、同じ男に関する仕事を受けたことがあるな」
「なぜ、そう思うのです」
「今言った通りだ」
グレゴールの声は落ち着いている。
「初めて見る男を探す仕事としては、お前の動きは早すぎる」
「それだけでは――」
「では、以前にはなかったと言い切れるか」
外部商人は視線を机へ落とした。
グレゴールは急かさずに待つ。
やがて男は小さく息を吐いた。
「以前、一度だけ金を届けました」
「誰へ」
「名前は知りません。今回の封書に書かれた特徴と同じ男です」
「何を届けた」
「金袋と、折り畳まれた紙です」
「誰の依頼だ」
外部商人はすぐには答えなかった。
バルドが口を開く。
「嘘を重ねれば、関与した者として同じ扱いを受けることになる」
「私は中身を知りませんでした」
「依頼主を聞いている」
「……カイル幹部です」
部屋の空気が重くなる。
「直接頼まれたのか」
「最初の話は、あの書記から受けました。ただ、報酬はカイル幹部との個人的な取引の中から支払われました。依頼主が誰かは分かっていました」
「紙の内容は」
「読んでいません」
「本当に一度も見ていないのか」
外部商人は迷った。
「雑用係へ渡した時、男がその場で開きました。私は受け渡しを確認する必要があったので、近くにいました」
「何が見えた」
「全部ではありません」
外部商人は念を押すように言った。
「本当に、一部だけです」
「覚えている言葉を話せ」
「『完済には触れるな』と」
グレゴールの目が細くなる。
「ほかには」
「『同じ場所で繰り返すな』というような言葉です。正確に同じだったかまでは分かりません」
「何の完済かは?」
「知りません。私には関係のない仕事だと思っていました」
「噂を広める仕事だとは思わなかったのか」
「そうかもしれないとは思いました」
「それでも届けた」
「カイル幹部との仕事を失えば、私の商売に響きます」
外部商人は俯いた。
「金を届けただけです。私自身が噂を話したわけではありません」
「だから責任がないと?」
グレゴールの声は低かった。
外部商人は答えられない。
バルドは封書を手に取り、改めて内容を見る。
男の名はない。
噂についても書かれていない。
カイルの署名もない。
だが、別々だった事実が少しずつつながり始めている。
カイルがヴァレンティーニ家の債権記録を閲覧した。
その直後、雑用係が『カイル幹部の依頼』として商会へ出入りした。
カイルと関係のある商人が、その雑用係へ多額の金と紙を届けた。
紙には『完済には触れるな』という言葉があった。
そして今、限られた幹部しか知らない偽情報を聞いた直後、カイルの書記が同じ特徴の男を探させた。
「一つずつなら、別の意味を付けられる」
グレゴールが呟いた。
外部商人が顔を上げる。
「だが、すべてを偶然と呼ぶことはできない」
その頃、Club Moon Dropでは昼営業を前に準備が進んでいた。
ノアは市場から戻ると、持っていた包みを厨房へ運び、そのままレンを探した。
「レンさん、少しよろしいですか」
「何かあった?」
「市場で、またセレナさんの話を聞きました」
近くにいたセレナの手が止まる。
「今度は、どのような話ですか」
ノアは言いにくそうに視線を揺らした。
「以前とは少し違います。ヴァレンティーニ家が借金を返したという話を信じる人は増えています。でも、それを聞いた人の中に、酒商会がClub Moon Dropから圧力を受けたのではないかと言う者がいました」
「私たちが、酒商会へ圧力を?」
リリアが眉を寄せる。
「ほかにも、レンさんが正規会員へ口裏を合わせるよう頼んだとか、セレナさんのご家族が記録を変えるために金を払ったとか……」
ノアの声が小さくなる。
「店が元貴族の娘を守るために、真実を隠しているという話もありました」
セレナの顔から血の気が引いた。
正しい事実が広まり始めれば、噂は弱まると思っていた。
少なくとも、借金を踏み倒して逃げたという話は否定できると思っていた。
しかし、否定された噂は消えず、今度は否定した者まで疑う形へ変わっている。
「申し訳ありません」
セレナが小さく言った。
「なぜセレナが謝るの」
エルナがすぐに反応する。
「だって、私のことで」
「あなたが流した噂ではないでしょう」
「ですが、店の皆さんまで疑われています」
レンはセレナの様子を見た。
このままでは、彼女は自分の責任ではないものまで背負おうとする。
「セレナ」
「はい」
「何を考えてる?」
セレナはすぐに答えなかった。
やがて、覚悟を決めたように顔を上げる。
「私が、人前ですべてを話すべきなのかもしれません」
「すべて?」
「父が領民の税を軽くしたこと。そのために資金が足りなくなり、借金をしたこと。信用した商人の提案へ資金を出し、裏切られたこと。屋敷と領地を売り、借金を返したこと」
セレナの声は震えていた。
「父と母が今どこで、どのように暮らしているかも話します。私が家を出た理由も、持っている物も、すべて説明すれば――」
「それは駄目だ」
レンははっきりと言った。
セレナが息を止める。
「ですが」
「嘘を否定するために、家族の傷まで街の人へ見せる必要はない」
「それでも、疑われたままでは」
「説明すべきなのは、債務を完済したことと、正式な手続きを終えたことだけだ」
レンは静かに続ける。
「父親が誰に騙されて、どれほど苦しんだか。両親が今どこで暮らしているか。それは、街の人へ差し出さなければならない情報じゃない」
セレナは唇を噛んだ。
「すべてを話せば、分かってもらえるかもしれないと思いました」
「今、記録まで疑っている人たちは、セレナが何を話しても別の理由を作る」
レンの言葉に、セレナは目を伏せる。
それは、彼女自身も感じていたことだった。
「セレナが一人で証明し続ける話ではない」
「では、どうすれば」
「記録を管理していた酒商会が正すべきことだ」
レンはそう答えた。
「返済が終わっていることも、爵位と家名を正式に返上したことも、記録を持っている側が公にすればいい」
セレナはしばらく黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「父が逃げたという嘘だけは、正したいです」
「ああ」
「父の判断がすべて正しかったと言ってほしいわけではありません。ですが、最後まで責任を果たしたことだけは……」
「その事実は、必ず正される」
レンは言い切った。
その言葉がどこまで現実になるのか、まだ確かなことは言えない。
それでも、セレナ一人へすべてを背負わせるつもりはなかった。
一方、アルフレッドの商会では、オスカーが倉庫の隅で荷札を整理していた。
以前より作業は速くなっている。
数字を確認する時も、同じ場所を何度も見直さなくなった。
それでも、頭の中からClub Moon Dropが消えたわけではない。
ミーナに会いたい。
もう一度、話を聞いてほしい。
自分が仕事へ向き合っていることを知ってほしい。
その気持ちは、今も変わらず残っていた。
だが、父に隠れて店へ向かうことはしない。
それだけは、もう繰り返してはいけないと分かっている。
オスカーは荷札を一枚ずつ並べ、数を確かめる。
今日も失敗しなければ。
昨日より正確に働ければ。
父は、少し早く店へ行くことを許してくれるかもしれない。
そんな考えが心の奥にあった。
仕事へ向き合うようになったつもりでいても、まだ目的は来店許可を取り戻すことだった。
オスカー自身は、その考えが再び自分を崩す可能性に気づいていない。
ただ、目の前の仕事を終えようとしている。
ミーナが歌えることも。
スタッフたちの前で歌ったことも。
自分が戻った時に聞かせたいと考えていることも。
オスカーは何も知らなかった。
酒商会では、外部商人の証言が記録へまとめられていた。
書記が封書を届けた時刻。
外部商人が荷車を手配した時刻。
行き先。
封書に記された男の特徴。
以前に金と紙を渡したという証言。
そして、外部商人が覚えていた二つの言葉。
どれも、単独では決定的な証拠にならない。
だが、バルドとグレゴールは、それで十分だと考えていた。
直接的な命令書がなければ追及できないわけではない。
説明のつかない行動を一つずつ並べ、そのすべてを同時に説明させればよい。
「幹部会議を開く」
バルドが告げた。
「カイルへは、どこまで分かっているか伝えない」
「ああ」
グレゴールも同意する。
「ヴァレンティーニ家の噂と、内部記録について確認したい。それだけでいい」
「外部商人と書記は?」
「別室で待機させる。必要なら呼ぶ」
その日の昼過ぎ、本来なら荷車へ乗る直前に届くはずだった簡単な連絡が、カイルのもとへは来なかった。
外部商人には、街を出る前に書記を通じて、出発したことだけ知らせるよう伝えてあった。
しかし、昼を過ぎても何の報告もない。
書記は通常通り自分の机で仕事を続けている。
呼び出された様子も、問い詰められた様子もない。
それがかえって不気味だった。
外部商人が単に連絡を忘れただけかもしれない。
荷車の出発が遅れた可能性もある。
だが、酒商会が何かを掴み、あえて書記へは触れずにいる可能性もあった。
夕方、カイルの執務室へ通知が届けられた。
『ヴァレンティーニ家に関する噂と、商会内部の記録について確認したいことがある』
書かれているのは、それだけだった。
カイルは通知を読み終えると、机の上へ置いた。
やはり外部商人は止められたのかもしれない。
封書も見つかった可能性がある。
だが、封書には雑用係の名を書いていない。
噂についても触れていない。
男を見つけても接触するなと指示している。
危険人物の所在を調べただけだと言える。
以前に渡した金も、市場調査の報酬だったと主張できる。
外部商人は指示書の全文を読んでいない。
書記も中身を知らない。
まだ逃げ道は残っている。
カイルは立ち上がり、上着の皺を整えた。
表情を崩してはならない。
感情的にならず、一つずつ別件だったと説明すればよい。
記録を見たこと。
雑用係を呼んだこと。
金を渡したこと。
男を探させたこと。
それぞれに異なる理由を与えれば、一本の線になることはない。
カイルはそう信じ、廊下へ出た。
幹部会議が開かれる部屋の前まで来ると、一度だけ足を止める。
扉の向こうには、バルドとグレゴールが待っている。
どこまで知られているのかは分からない。
それでも、自分から崩れさえしなければ、まだ切り抜けられる。
カイルは呼吸を整え、何事もないような表情を作った。
そして、会議室の扉へ手を掛ける。
カイルは、一つひとつの事実なら、まだ別の意味を与えられると考えていた。
だが扉の向こうでは、別々だった事実を一本の線へ結ぶための準備が、すでに整えられていた。
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