第76話 誰にも聞かせるつもりのなかった歌
朝のClub Moon Dropには、夜の華やかさとは異なる静けさが満ちていた。
窓から差し込む柔らかな光が、まだ客を迎える前のテーブルを淡く照らしている。磨き終えたグラスは棚の中で整然と並び、昨夜の酒や料理の香りも、開け放たれた窓から流れ込む風に押され、ほとんど残っていなかった。
夜になれば、ここには客たちの笑い声が響く。
氷がグラスへ触れる澄んだ音や、酒を注ぐ音、料理を運ぶ足音が重なり、店全体が一つの生き物のように動き始める。
しかし、今はまだその前だった。
客のいない店内には、これから始まる一日に備える静かな時間だけが流れている。
レンは一階の確認を終えると、二階へ続く階段へ足を向けた。
昼営業まではまだ時間がある。
ロイとディーノは倉庫で酒杯や備品の数を確認している。ルークは金獅子亭から届く料理について打ち合わせへ出ていた。リリアたちも、それぞれ身支度や清掃を始めている頃だろう。
階段を半ばまで上ったところで、レンは足を止めた。
かすかな声が聞こえたからだ。
最初は、誰かが話しているのだと思った。
けれど、耳を澄ませているうちに、それが会話ではないと気づく。
声には一定の調べがあった。
高く、細く、それでいて弱くはない。
朝の静かな空気を震わせながら、二階の奥からゆっくりと流れてくる。
レンは足音を立てないよう、残りの階段を上った。
歌声は、キャストたちが休憩や身支度に使う待機室から聞こえていた。
扉は完全には閉まっておらず、指一本ほどの隙間がある。
その向こうで歌っているのが誰なのか、確かめるまでもなかった。
ミーナだった。
レンは彼女を雇う前から、歌に関わる特別な資質を持っていることだけは知っていた。
鑑定によって示されたのは、ただ一つ。
歌声に高い魅力があるということ。
しかし、それは彼女の中にある性質を短い言葉で示しただけのものだった。
どのような声なのか。
どれほどの技量なのか。
何を思い、どんな表情で歌うのか。
実際の歌を耳にしなければ分からないことばかりだった。
そして今、扉の向こうから聞こえてくる歌は、レンが漠然と思い描いていたものより遥かに完成されていた。
音の高さがほとんど揺れない。
無理に声量を出している様子もないのに、細い声が部屋の隅々まで届いている。
高い音へ移る時にも苦しさはなく、低く沈む部分でも声が薄くならない。
何より、言葉の一つひとつに感情が込められていた。
歌われているのは、遠くへ旅立つ者の無事を願う歌らしい。
家を離れる者へ、いつか帰ってくるよう願いを託す。
見送る者は寂しさを隠し、旅立つ者は振り返らずに歩き出す。
その両方の思いが、短い歌詞の中へ静かに重なっていた。
技術が優れているだけではない。
ミーナ自身が、歌に込められた寂しさや願いを理解している。
だからこそ、声が心へ届くのだろう。
レンは扉の前に立ったまま、最後まで声を掛けることができなかった。
やがて歌声が静かに消えた。
部屋の中には、音がなくなった後も余韻が残っていた。
その直後、小さく息を吐く音が聞こえる。
「ミーナ」
驚かせないよう、レンは扉の外から声を掛けた。
室内で何かが倒れそうになる音がした。
「れ、レンさん?」
「入ってもいい?」
「は、はい」
扉を開けると、窓のそばに立っていたミーナが慌てて姿勢を正した。
まだ営業用の衣装には着替えていない。簡素な服のまま、両手を胸元で重ねている。
顔には、隠しようのない動揺が浮かんでいた。
「申し訳ありません。準備の邪魔になるほど大きな声を出したつもりはなくて……」
「邪魔ではないよ」
レンはすぐに否定した。
「むしろ、最後まで聞いてしまった。勝手に聞いてごめん」
「最後まで……」
ミーナの頬が赤くなる。
客の前で言葉に詰まることは減ってきたが、今の彼女は働き始めた頃のように視線を落としていた。
「歌うのが好きなの?」
「好き……だと思います」
「思います?」
「昔から、家で時々歌っていました。妹や弟が眠れない時や、怖がっている時に。母が忙しい時は、私がそばにいることが多かったので」
ミーナは窓の外へ目を向けた。
「歌えば、少しだけ静かになってくれました。私が上手だったからではなく、知っている人の声を聞くと安心したのだと思います」
「今の歌は、子供を眠らせる歌には聞こえなかったけど」
「あれは、旅に出る人を見送る歌です。私の家の近くでは、商隊に加わる人や、遠くの街へ働きに行く人がいると歌うことがありました」
「誰かを思い浮かべていた?」
尋ねた直後、ミーナの指がわずかに動いた。
分かりやすい反応だった。
レンは答えを急かさず、静かに待つ。
「少しだけ……オスカーさんのことを」
やがてミーナは、小さな声で答えた。
「オスカーさんは旅へ出たわけではありません。それでも、今はここへ来ることができませんから」
「そうだね」
「お仕事を頑張っていらっしゃるでしょうか。お父様との約束を守れているでしょうか。そう考えていたら、あの歌を思い出しました」
ミーナは困ったように笑った。
「でも、聞かせるつもりはありませんでした。一人で歌っていただけです」
「それは、もったいないと思う」
レンが言うと、ミーナが顔を上げた。
「とても上手だった」
「そんなことは……」
「お世辞ではないよ。音もほとんど外れなかったし、歌詞の気持ちもよく伝わってきた。きちんと歌を学んだことがあるの?」
ミーナは首を横へ振った。
「ありません。誰かが歌っているのを聞いて覚えただけです」
「それだけで、あれほど歌えるの?」
「自分では、よく分かりません」
ミーナは本当に自覚がないらしい。
レンは、彼女の面接をした時のことを思い出す。
緊張しながらも質問をよく聞き、言葉を選んで答えていた。
声は小さかったが、耳に残る柔らかさがあった。
「面談の時から、声が綺麗で聞き取りやすいとは思っていた」
「面談の時からですか?」
「ああ。ただ、歌うとここまで印象が変わるとは思わなかった。実際に聞くのは初めてだからね」
鑑定のことを口にする必要はない。
それはレンだけが知っていればよいことだった。
ミーナは照れたように俯いた。
「ありがとうございます」
「みんなにも聞いてもらっていい?」
「み、皆さんにですか?」
ミーナが明らかに身構える。
「嫌なら無理にとは言わない。でも、自分ではよく分からないなら、ほかの人の感想を聞いてみてもいいと思う」
「お客様の前ではなく、皆さんだけですか?」
「もちろん。歌うかどうかを決めるのはミーナだから」
ミーナはしばらく悩んでから、小さく頷いた。
「皆さんだけでしたら……」
昼営業の準備が一段落した頃、レンはスタッフを二階の待機室へ集めた。
リリア、エルナ、セレナ、ノア、ロイ、ディーノ。
金獅子亭との打ち合わせから戻ったルークも壁際に立っている。
突然呼ばれた理由を知らない全員が、不思議そうな顔をしていた。
「何かあったの?」
リリアが尋ねる。
「ミーナが歌を聞かせてくれる」
「歌?」
エルナが目を丸くした。
全員の視線が集まると、ミーナは今にも逃げ出しそうな顔をした。
「そんなに緊張しなくてもいいわ」
リリアが優しく声を掛ける。
「失敗しても、ここにいるのはみんな身内みたいなものだから」
「それはそれで、余計に緊張するんじゃない?」
エルナが笑い、室内の空気が少しだけ軽くなる。
ミーナは胸の前で両手を組み、一度深く息を吸った。
それから、先ほどと同じ歌を歌い始めた。
最初の一音が響いた瞬間、それまで笑っていたエルナの表情が変わった。
リリアも、何か言おうとしていた口を閉じる。
セレナは椅子へ座ったまま、瞬きさえ忘れたようにミーナを見つめていた。
朝に一人で歌っていた時より、ミーナの声はわずかに硬い。
聞いている相手を意識し、緊張しているのだろう。
それでも音は崩れない。
歌が進むにつれ、その硬さも少しずつ消えていく。
部屋にいる者たちは、やがてミーナが歌っているという事実より、歌そのものへ意識を奪われていた。
声は決して派手ではない。
大きく響かせて、人を驚かせる種類の歌でもない。
けれど、聞こうと意識しなくても自然と耳が向く。
静かなのに遠くまで届き、柔らかなのに芯がある。
最後の音が消えた後も、誰もすぐには口を開かなかった。
最初に動いたのはエルナだった。
「え……終わり?」
「は、はい」
「もう一曲ないの?」
「エルナ」
リリアが苦笑する。
「まず感想でしょう」
「だって、驚いたのよ。こんなに上手いなんて聞いてないもの」
「私も驚いたわ」
セレナが静かに立ち上がった。
「実家にいた頃、宴席へ歌い手を招くことがありました。もちろん、正式に学び、人前で歌うことを仕事にしている方々です」
ミーナが緊張した様子でセレナを見る。
「ミーナの歌は、その方々と比べても劣っていません」
「そんな……」
「本当よ。技術だけなら、もっと華やかに歌う方もいました。でも、言葉がこれほど真っ直ぐ伝わってくる歌は多くありませんでした」
ロイも感心したように頷く。
「下で聞こえなかったのが不思議なくらいだ」
「二階で、そこまで声を張っていなかったからだと思う」
レンが答えた。
「大声ではないのに、近くではよく届くんだ」
「酒を飲んでる客が聞いたら、泣く奴が出るかもしれないな」
ディーノが冗談めかして言った。
しかし、その声には本気の感心が混じっている。
ルークは腕を組みながら、少し考えるようにミーナを見ていた。
「料理も酒も、味だけで印象が決まるわけじゃない」
「急に料理人らしいことを言うわね」
エルナが言う。
「料理人だからな」
ルークは気にせず続けた。
「誰と口にするか、どんな声を聞きながら味わうかでも変わる。この歌を聞きながら飲めば、同じ酒でも違う味に感じる客はいるだろう」
「ルークまで……」
ミーナはますます困ったような顔になった。
レンは全員の反応を見てから尋ねた。
「ミーナは、客の前で歌ってみたいと思う?」
室内が静かになる。
誰も答えを急かさない。
ミーナは自分の指先を見つめた。
「今すぐには……少し怖いです」
「それでいいよ」
「でも、いつかは歌ってみたいとも思います」
リリアが柔らかく微笑む。
「その時は、自分で決めればいいわ」
「はい」
ミーナは頷いた。
その後、全員が一階へ戻り、昼営業の準備を再開した。
けれど、ミーナの歌を聞いた余韻は簡単には消えなかった。
エルナは何度も、
「本当に知らなかった」
と繰り返し、ノアは歌っている時のミーナの表情が普段とまるで違ったと話した。
セレナは、もし客へ聞かせるなら、店内の照明や席の向きまで考えた方がよいのではないかと真剣に提案し始めた。
「まだ歌うと決まったわけではないよ」
レンが言うと、セレナは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「分かっています。ただ、あの歌を聞いてしまうと、考えたくなってしまって」
昼営業が始まると、Club Moon Dropはいつもの穏やかな空気へ戻った。
ミーナも通常通り客を迎え、酒を運び、会話に耳を傾ける。
歌のことを知らない客たちの前では、何も変わらない。
それでよかった。
ミーナが自分で歌うと決めるまでは、その歌は彼女自身のものだ。
午後になり、客足が途切れた短い時間に、ミーナはリリアへ声を掛けた。
「少し、お話ししてもよろしいですか?」
「もちろん」
二人は客席から少し離れた場所へ移る。
「さっき、レンさんに聞かれた時、いつか歌いたいと答えました」
「ええ」
「その時、最初に誰に聞いてほしいかを考えてしまいました」
リリアは答えを予想しながらも、何も言わずに待った。
「オスカーさんに、聞いていただきたいです」
「そう」
「でも、歌えば戻ってきてくださるかもしれない、とは思いたくありません」
ミーナは言葉を選びながら続けた。
「オスカーさんが、お父様との約束を守って、ご自分の意思で戻ってこられた時に聞いてほしいんです。歌で呼び戻すのではなくて」
「それなら、待っていていいと思うわ」
「待つ……」
「オスカーさんが戻ることだけを考えて、何もできなくなるのはよくない。でも、自分が初めて客前で歌う時に聞いてほしいと思うことまで、否定する必要はないでしょう?」
ミーナは少し考え、頷いた。
「ただし」
リリアの声がわずかに真剣になる。
「聞かせたからといって、何かを返してほしいと思わないこと。特別な答えや約束を求めてしまえば、オスカーさんが以前あなたへ求めていたことと同じになってしまうから」
「はい」
「歌いたいから歌う。その場にオスカーさんがいてくれたら嬉しい。それくらいでいいのよ」
ミーナの表情が少しだけ和らぐ。
「ありがとうございます」
一方、その頃、オスカーは父アルフレッドの商会で荷札を並べていた。
倉庫へ届いた荷の数と、紙に記された数を一つずつ照合する。
以前なら、作業の途中でもClub Moon Dropのことを考えていた。
今、ミーナは誰と話しているのか。
自分がいないことに気づいているのか。
次に会った時、何を話せばよいのか。
そのようなことばかりが頭を占め、目の前の数字を見落としていた。
今もミーナに会いたい気持ちは消えていない。
それでも、オスカーは荷札から目を逸らさなかった。
父に隠れて店へ向かったことで、自分はさらに信頼を失った。
今度こそ、同じことを繰り返すわけにはいかない。
「三十五……三十六……」
小さく数え、記録へ印を付ける。
確認を終えたところで、アルフレッドが倉庫へ入ってきた。
「終わったのか」
「はい。こちらの荷だけ、記録より一つ少なくなっています」
オスカーは不足している箱を示した。
「搬入した者にも確認しましたが、荷車へ積む段階からこの数だったそうです」
「では、相手先の記載違いか」
「その可能性が高いと思います。ただ、こちらの受け取り時の確認も足りませんでした」
アルフレッドは記録を受け取り、息子の顔を見た。
「店へ行かせてもらうために、そこまで調べたのか」
オスカーの胸が詰まる。
図星だった。
仕事をきちんと終えれば、父は少し早く許してくれるかもしれない。
そう考えていた。
「……その気持ちが、なかったとは言えません」
オスカーは正直に答えた。
アルフレッドは怒らなかった。
「ならば、まだ任せられるのはここまでだ」
「はい」
「だが、隠さなかったことは覚えておく」
それだけを告げて、アルフレッドは倉庫を出ていった。
オスカーは残された記録を見つめた。
父に認められるため。
Club Moon Dropへ戻るため。
ミーナに会うため。
今は、そのために仕事をしている。
では、もし店へ戻ることを許されたら、自分はどうなるのか。
目的を達成した後も、同じように仕事へ向き合えるのか。
答えは、まだ分からなかった。
ただ、その疑問が初めて自分の中に生まれたことだけは、オスカーにも分かっていた。
夕方、Club Moon Dropでは昼営業を終え、夜の準備が始まっていた。
セレナはテーブルを拭きながら、昼間に訪れた客の言葉を思い返していた。
その客は、直接セレナを責めなかった。
ただ、帰り際に連れの者へ、
「記録など、力のある商会ならどうにでもできる」
と囁いていた。
正規会員たちが事実を伝えてくれたことで、露骨な言葉は減った。
しかし、噂そのものが消えたわけではない。
誰かが否定すれば、その否定自体を疑う者が現れる。
形を変え、より見えにくい場所へ潜り始めただけだった。
「セレナ」
呼ばれて顔を上げると、レンが立っていた。
「手が止まってる」
「申し訳ありません」
「責めているわけじゃないよ。何かあった?」
セレナは迷った末、昼間に聞いた言葉を話した。
「私が何を言っても、信じない方は信じないのでしょうね」
「そうかもしれない」
レンは安易に否定しなかった。
「でも、信じない人がいるからといって、事実が変わるわけではない」
「はい」
「それに、酒商会の記録まで疑う人がいるなら、セレナ一人が説明しても終わらない」
「バルドさんたちが動いてくださるのでしょうか」
「何かを調べているとは聞いている」
詳しい内容までは、レンも知らされていない。
ただ、バルドとグレゴールが酒商会内部の記録を確認し、噂がどこから始まったのか探っていることだけは聞いていた。
「私のことで、店だけでなく酒商会の方々にまで……」
「セレナのせいではない」
レンははっきりと言った。
「記録を悪意のために使った人間がいるなら、その人間の責任だ」
セレナは黙って頷いた。
まだ自分から何を明かすべきかまでは決められない。
けれど、少なくともすべてを一人で背負う必要はないのだと、わずかに思えるようになった。
その夜、営業を終えたClub Moon Dropで、ミーナは再び二階へ上がった。
今度は歌うためではない。
窓を閉め、翌朝使う布を整えるためだった。
けれど待機室へ入ると、朝に歌った時の感覚が蘇る。
誰にも聞かせるつもりのなかった歌。
それをレンに聞かれ、仲間たちにも聞いてもらった。
恥ずかしさはまだ残っている。
それ以上に、自分の中にあったものを認めてもらえた嬉しさもあった。
ミーナは窓辺に立ち、声には出さず、心の中だけで歌詞をなぞった。
遠くへ行く人の無事を願う歌。
いつか戻ってきた時、迎えられるように待つ歌。
ただ待つだけではなく、自分も自分の場所で日々を生きながら。
その頃、酒商会の奥では、バルドとグレゴールが小さな会議室で向かい合っていた。
机の上には、裏口の出入りを記録した帳面と、ヴァレンティーニ家の債権記録を閲覧した者の署名が置かれている。
「カイルは、グレゴールへ疑いを向け始めている」
バルドが低い声で言った。
「ああ。俺が最初にセレナさんの素性へ気づいたことを、何人かへ話している」
「自分が何かをしたとは言わず、聞いた者に考えさせる」
「噂を広めた時と同じやり方だ」
グレゴールは帳面へ目を落とした。
雑用係の名の横には、
『カイル幹部の依頼』
と記されている。
しかし、それだけでは依頼の内容までは証明できない。
カイルは別の仕事だったと言うだろう。
債権記録の閲覧も、幹部として必要な調査だったと言い張れる。
「男が見つかれば早いが、すでに街を出ている」
バルドが言う。
「カイル自身に動いてもらうしかない」
「動くと思うか?」
「自分の身が危ういと感じればな」
グレゴールはしばらく考え、ゆっくりと口を開いた。
「では、男が見つかったことにする」
バルドの目が細くなる。
「偽の情報を流すのか」
「ああ。近隣の街で、雑用係らしい男が見つかったと伝える。知る者は限定する」
「カイルを含めて」
「もちろんだ」
もしカイルが噂と無関係なら、情報を聞いても動く理由はない。
だが、雑用係が自分の指示を知っているなら、所在を確かめようとする可能性がある。
「本人は動かないだろう」
バルドが言う。
「書記か使いを使う」
「だから、周囲も見張る」
二人は、監視する場所と人員について話し始めた。
カイルの執務室へ続く廊下。
商会の正面入口と裏口。
普段からカイルが使っている書記や外部の商人。
情報を流してから見張りを置くのでは遅い。
カイルへ偽情報を伝える前から、すべての配置を終えておく必要がある。
「一つの証拠だけで決めつけるつもりはない」
バルドが言った。
「だが、反応が出れば、今ある記録とつながる」
「何も起きなければ?」
「別の方法を探す」
グレゴールは頷いた。
その表情に迷いはなかった。
翌日、限られた幹部へ偽情報を伝えることが決まった。
カイルの執務室へ続く廊下にも、正面入口にも、裏口にも、監視役を置く。
本人ではなく、周囲の者が動くことも想定する。
準備を終えてから、初めて罠を仕掛ける。
歌声は、まだClub Moon Dropの客へ届いていない。
オスカーも、ミーナが歌うことすら知らない。
セレナの名誉も、いまだ完全には取り戻されていない。
けれど、それぞれが見えない場所で次の一歩を選び始めていた。
ミーナは、誰かを呼び戻すためではなく、自分の意思でいつか歌うために。
オスカーは、店へ戻りたいという思いを胸に、まずは目の前の仕事を続けるために。
そしてバルドとグレゴールは、隠された悪意を表へ引き出すために。
まだ客へ届けられていない歌と、まだ罠だとは知られていない偽り。
二つは異なる場所で、次に動き出す時を静かに待っていた。
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