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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第4章 育つ店、広がる縁

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第75話 揺れる心と噂に抗う言葉

 オスカーが父親に連れ帰られ、さらにClub Moon Dropへの来店を禁じられた翌朝も、店ではいつも通り昼営業へ向けた準備が進められていた。


 ミーナはテーブルを拭き終えると、並べたグラスの位置を一つずつ確認した。


 椅子の向き。


 卓上の小物。


 客が座った時に窮屈にならない距離。


 普段なら何も考えずにできる作業だった。


 それなのに、その日は入口の近くを通るたび、扉へ視線が向いてしまう。


 まだ営業すら始まっていない。


 オスカーがこの時間に来たこともない。


 それでも、扉の向こうに誰かの気配があるような気がして、何度も顔を上げてしまった。


「そこは、もう整っていますよ」


 背後から声を掛けられ、ミーナは驚いて振り返った。


 リリアが、少し困ったような笑みを浮かべている。


「え?」


「そのグラス、先ほどから三度ほど位置を直しています」


 言われて初めて、ミーナは自分の手が同じグラスへ伸びていたことに気付いた。


「すみません」


「謝ることではありません」


 リリアは隣の席へ目を向けながら、静かに続けた。


「オスカーさんのことが、気になっていますか?」


 ミーナはすぐに否定しようとした。


 しかし、言葉は口から出なかった。


 前夜、オスカーは父親に隠れて店へ来た。


 レンと入口で話しただけで、ミーナの席へ来ることなく帰っていった。


 その後、レンから伝言を聞いた。


 しばらく来られないかもしれない。


 だが、ミーナを嫌になったわけではない。


 急に帰ることになったことも謝っていた。


 その言葉を聞いた時、胸の奥が軽くなった。


 それが何を意味するのか、まだ自分でも分かっていない。


「……気になっています」


 ミーナは正直に答えた。


「来られないことは分かっています。それでも、扉が開いたら、もしかしてと思ってしまって」


「前夜のことがあったからですか?」


「それもあります」


 ミーナは手元の布を畳んだ。


「初めて来られた時のことを思い出していました」


 オスカーはアルフレッドの隣で、ほとんど自分から話そうとしなかった。


 何を尋ねても短く答えるだけで、父親が話を振れば頷き、否定する時も小さく首を横へ振る程度だった。


 それでも、ミーナが無理に会話を続けようとせず、黙って待っていると、少しずつ言葉を出すようになった。


 一人で店へ来た日には、自分から仕事の話をした。


 褒められたこと。


 緊張しながら取引先へ挨拶したこと。


 失敗して落ち込んだこと。


 日を重ねるたび、オスカーの言葉は増えていった。


「少しずつ自分から話してくださるようになったことが、嬉しかったんです」


 ミーナの声には迷いが混じっていた。


「でも、来られないと聞いて寂しいと思いました。嫌いになったわけではないと聞いて、安心しました」


 リリアは何も急かさず、続きを待った。


「それは、キャストとして普通のことなのでしょうか」


「大切に接してきたお客様が来られなくなれば、寂しく感じることはあります」


 リリアは穏やかに答えた。


「その方が自分を嫌いになったのではないと分かって、安心することもあるでしょう」


「では、私は今まで通りでいいのでしょうか」


「今すぐ決めなくてもよいと思います」


 ミーナが顔を上げる。


 リリアは、入口へ向けられていたミーナの視線を思い返すように、少しだけ間を置いた。


「私も、お客様が来られなくなれば寂しく思うことはあります。ただ、営業前から何度も扉を見てしまうことは、あまりありません」


 ミーナの表情が僅かに変わる。


「それは……」


「だからといって、すぐに特別な気持ちだと決める必要はありません」


 リリアは穏やかに続けた。


「ミーナさん自身が、これから少しずつ考えればよいことです」


「私にも、まだ分かりません」


「分からないままでよいと思います」


 リリアはそう言った後、声を少しだけ落とした。


「ただ、自分の気持ちが分からないうちは、オスカーさんが特別な意味に受け取りそうな言葉は控えた方がよいかもしれません」


「特別な意味に受け取る言葉……」


「『いつでも来てください』『ずっと待っています』。私たちにとっては接客の言葉でも、相手にとっては違う意味になることがあります」


 ミーナはこれまで自分が口にした言葉を思い返した。


 またお待ちしています。


 明日はどんな話を聞かせてくださるのでしょう。


 少しでも気持ちが楽になるなら、良かったです。


 どれも嘘ではなかった。


 だが、オスカーはそれを、自分だけへ向けられた特別な言葉として受け取っていたのかもしれない。


「次にお会いした時、どう接すればいいのでしょうか」


「オスカーさんが、自分で考え、父親ときちんと話したうえで来られたのかを見ればよいと思います」


 リリアは答えた。


「隠れて来たのではなく、自分の行動に責任を持って来られたのなら、その時に改めて向き合えばよいのではないでしょうか」


 ミーナは小さく頷いた。


 会いたいという気持ちだけで、オスカーを再び店へ向かわせてはいけない。


 自分が寂しいからという理由で、相手の家庭や仕事へさらに負担を掛けることもできない。


 それでも、会いたくないわけではなかった。


 その矛盾を抱えたまま、ミーナは再び入口へ視線を向ける。


 扉は閉じたままだった。


     ◇


 同じ頃、オスカーは父親の商会で、倉庫の品数を確認していた。


 前日まで任されていた帳簿や取引書類は、机の上から姿を消していた。


 代わりに与えられたのは、荷札の整理と在庫の確認だった。


 木箱の数。


 袋へ入った穀物の種類。


 棚へ置かれた油や香辛料の残量。


 どれも家業を覚えるために必要な仕事ではある。


 だが、少し前までよりも明らかに責任の軽い内容だった。


「この棚を数え終えたら、荷札と照らし合わせろ」


 アルフレッドが指示を出す。


「分かりました」


 オスカーは反論せずに答えた。


 その態度を見て、アルフレッドはしばらく息子の顔を見つめた。


「不満はないのか?」


「あります」


 オスカーは正直に言った。


「ですが、今の私に重要な書類を任せられないと考えていることも分かっています」


 アルフレッドの目が僅かに動く。


 これまでのオスカーなら、不満を口にした後、黙り込んでいたかもしれない。


 あるいは、自分は失敗していないと言い張っただろう。


「今のお前に必要なのは、店へ行く許しを得ることではない」


 アルフレッドは静かに告げた。


「目の前の仕事を、一つずつ確実に終えることだ」


「はい」


「今日一日きちんと働いたからといって、すぐに許可するつもりもない」


 オスカーの手が僅かに止まった。


「分かっています」


 本当は、すぐにでも許してほしかった。


 一日失敗せずに仕事を終えれば、父親が考えを変えるのではないかと期待していた。


 だが、今それを口にすれば、結局は店へ行くことしか考えていないと証明することになる。


 オスカーは木箱へ付けられた印を確認し、紙へ数を書き込んだ。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 今度は、数字をただ目で追うのではなく、何がどこにあるのかまで意識する。


 午前中は、それだけで過ぎていった。


 昼を過ぎると、倉庫の窓から差し込む光の角度が変わった。


 やがて夕方が近づく。


 オスカーは無意識に時間を数えていた。


 いつもなら、仕事を終えて店へ向かう準備を始める頃だった。


 Club Moon Dropの夜営業が始まる。


 ミーナも支度を整え、客席へ立つ。


 自分がいなければ、別の客と話すだろう。


 店で見た光景がよみがえる。


 ミーナは別の客へ笑いかけ、自分へ向けていたものと同じように、穏やかな表情で話を聞いていた。


 当然のことだった。


 ミーナはClub Moon Dropのキャストだ。


 オスカーだけのためにいるわけではない。


 分かっている。


 それでも、自分がいなくても何も変わらないように見えたことが寂しかった。


 オスカーは手にしていた荷札を机へ置いた。


 レンから問われた言葉を思い出す。


 また会いたくなった時はどうするのか。


 その時は答えられなかった。


 だが今なら、少しだけ分かる。


 自分はミーナへ、話を聞いてほしかっただけではない。


 褒めてほしかった。


 失敗しても受け入れてほしかった。


 父親には言えない弱さを見せても、嫌われないと思いたかった。


 そして、自分がいない時にも、自分のことを考えていてほしかった。


 同じ時間を過ごすために金を払い、決められた時間が終われば帰る。


 その関係だけでは、満足できなくなり始めていた。


(私は、ミーナさんの優しさに甘えていたのか)


 認めると、胸が痛んだ。


 ミーナは仕事として優しくしてくれていた。


 もちろん、すべてが作られた笑顔だとは思いたくない。


 だが、その優しさを理由に、自分だけは特別だと思い込もうとしていたのかもしれない。


「オスカー」


 呼ばれて顔を上げる。


 アルフレッドが倉庫の入口に立っていた。


「終わったのか?」


「はい。品数と荷札の確認が終わりました」


「見せてみろ」


 アルフレッドは紙を受け取り、記された数字へ目を通す。


 何も言わず、実際の棚と照らし合わせていく。


 しばらくして紙を返した。


「間違いはない」


 それだけだった。


 褒める言葉はない。


 許しを与える言葉もない。


 それでも、オスカーは少しだけ息を吐いた。


「ありがとうございます」


「今日は帰れ」


「はい」


 仕事場を出た時、足は一瞬だけClub Moon Dropのある方角へ向きかけた。


 前に使った細い道へ入れば、店の前まで行ける。


 中へ入らなくてもよい。


 遠くから灯りを見るだけなら、父親の言葉に背いたことにはならないのではないか。


 そんな考えが浮かぶ。


 だが、オスカーは足を止めた。


 事情を伝えるだけだから来店とは違うと考え、父親に隠れて店へ向かった。


 結局、自分に都合のよい理由を作っていただけだった。


「次に会う時は、隠れて行かない」


 小さく呟く。


 ミーナへ会いたい気持ちは消えていない。


 諦めるつもりもなかった。


 だからこそ、自分で店へ行ける状態を取り戻す必要がある。


 オスカーはClub Moon Dropとは反対の道へ向かい、まっすぐ自宅へ帰った。


     ◇


 噂を広めていた男が街から姿を消しても、一度人々の口へ渡った話は消えなかった。


 それどころか、話し手が増えるほど内容は変わり、最初にはなかった悪意まで加えられていった。


 ヴァレンティーニ家は、多額の借金を踏み倒した。


 屋敷と領地を没収され、当主は処罰を恐れて逃げた。


 セレナは家の財産を持ち出し、その金を隠している。


 Club Moon Dropは、元貴族の娘という珍しさを利用して客を集めている。


 どれも事実ではない。


 だが、事実ではないからこそ、人々は好きな形へ話を変えられた。


 昼営業を迎える少し前、ノアは金獅子亭から届く料理の確認に向かった帰り、市場へ立ち寄っていた。


 必要な香辛料と果物を買い、店へ戻ろうとした時、近くの商人たちの会話が耳へ入る。


「元貴族の娘を置いている店があるらしいな」


「Club Moon Dropだろう?」


「家の金を持って逃げてきた女だという話も聞いたぞ」


「それを店主が匿っているのか?」


 ノアの足が止まった。


 すぐに振り返り、違うと否定したくなった。


 セレナはそのような人間ではない。


 レンも、誰かの金を目的に匿うようなことはしない。


 何も知らない者たちが、勝手な言葉で仲間を傷つけている。


 胸の奥に怒りが湧く。


 だが、ノアは拳を握ったまま、その場では口を開かなかった。


 ここで感情的に反論すれば、周囲にさらに人が集まる。


 Club Moon Dropという店名を知らなかった者まで、噂を聞くことになるかもしれない。


 ノアは話の内容と商人たちの顔を覚え、その場を離れた。


 店へ戻ると、すぐにレンへ報告する。


「家の財産を持ち出したという話まで出ています」


 レンの表情が僅かに険しくなる。


「そこまで変わっているのか」


「その場で違うと言いたかったのですが……」


「言わなくてよかった」


 レンはノアを責めなかった。


「市場で大きな声を出せば、余計に広がった可能性がある」


 近くにいたセレナも、話を聞いていた。


 顔色は変わらなかったが、膝の上で重ねた手に力が入っている。


「私だけでなく、お店まで悪く言われているのですね」


「今は、噂を面白がる人が勝手に話を足している」


「ですが、私がここにいなければ、店が巻き込まれることもありませんでした」


「それは違う」


 レンはすぐに否定した。


 セレナは顔を上げる。


「噂を流した人間が悪い。さらに勝手な話を加えている人間も同じだ。セレナが店にいることが原因じゃない」


「それでも……」


 セレナは一度目を伏せた。


「しばらく、表へ出ない方がよいのではないでしょうか」


 店で接客をしなければ、噂を聞いた者が姿を確かめに来ても、話題は続かないかもしれない。


 自分がいなくなれば、Club Moon Dropが元貴族の娘を客寄せにしているという言葉も弱まる。


 そう考えた。


「セレナが本当に休みたいなら、止めない」


 レンは静かに答えた。


「でも、噂を止めるために隠れる必要はないと思う」


「私が出続ければ、さらに何か言われるかもしれません」


「姿を消せば、噂が本当だったから隠したと言う人もいる」


 どちらを選んでも、悪意のある人間は自分に都合よく受け取る。


 ならば、噂を基準に働き方を決めるべきではない。


「悪いことをしていないのに、セレナが自分の場所を譲る必要はないよ」


 レンの言葉に、セレナはしばらく黙っていた。


「つらい時は休んでいい。でも、それは噂に負けたからじゃなく、セレナが自分を守るために選ぶことだ」


「……はい」


 セレナは小さく息を吸った。


「私は、今まで通り働きます」


 不安がなくなったわけではない。


 それでも、誰かの勝手な言葉によって、ようやく見つけた場所から離れたくなかった。


 昼営業が始まると、最初に訪れたのはエミリアだった。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ、エミリアさん」


 セレナが迎えると、エミリアは普段と変わらない笑顔を向けた。


「今日もあなたにお願いしていいかしら」


「もちろんです」


 エミリアは以前から、昼営業ではセレナを指名することが多かった。


 その日もいつもと変わらず、窓際の席へ案内される。


 ほどなくして、商家の女将が来店した。


 市場で複数の店を取りまとめ、長く商売を続けている女性だった。


 女将はエミリアとも古くからの知り合いで、同じ時間に店を利用することも珍しくない。


 席へ着くなり、店内を見回し、不快そうに鼻を鳴らした。


「随分と勝手な話が広がっているようですね」


 その言葉に、近くの席にいた者たちが視線を向けた。


 次に訪れたのは、定期的に昼営業を利用している女性冒険者だった。


 依頼へ出る前や、街へ戻った後に立ち寄ることが多い。


 さらに少し遅れて、女将の紹介で正規会員になった男性商人も姿を見せた。


 四人が同じ時間に揃うことは多くなかったが、互いに顔を知っている者ばかりだった。


 エミリアの席には、彼女の紹介で初めて店を訪れた仮会員の男性も同席していた。


 男は周囲の会話を聞きながら、何度かセレナへ視線を向けていた。


 しばらく迷った後、声を落としてエミリアへ尋ねる。


「失礼ですが、一つ伺ってもよろしいでしょうか」


「何でしょう」


「セレナさんが、没落した貴族家の娘だったという話は本当なのですか?」


 店内の会話が僅かに静まる。


 セレナもその言葉を聞いていた。


 エミリアはグラスを置き、仮会員をまっすぐに見た。


「以前、貴族家に生まれたことは事実です」


 仮会員の表情が変わる。


「では、やはり……」


「それが何か問題になるのでしょうか」


 静かな声だった。


 だが、問い返された男は言葉を詰まらせる。


「家が借金を残したと聞きました」


 そこで、すぐ近くの席にいた商家の女将が会話へ加わった。


「その話なら間違っていますよ」


「ご存じなのですか?」


「商売をしていれば、支払いを残して逃げた者と、財産を処分して責任を果たした者の違いくらい分かります」


 女将は腕を組み、厳しい表情を浮かべた。


「屋敷と領地を売却し、借金はすべて返済されています。支払いを残して逃げた者と、財産を手放してでも責任を果たした者を一緒にしてはいけません」


 女将の紹介で会員になった男性商人も頷いた。


「私も酒商会と取引があります。完済の記録が残っていることは、取引先を通じて確認しています」


「本当なのですか?」


「少なくとも、酒商会への支払いは最後まで済んでいます」


 仮会員は戸惑ったように周囲を見た。


「では、なぜそのような噂が……」


「人は、事実より面白い話を好むからでしょうね」


 女将は冷たく答えた。


「商人なら、確認もせずに話を広げることがどれほど危険か分かるはずです」


 女性冒険者は、飲んでいたグラスを卓上へ置いた。


「私は貴族の事情も、商人の記録も分からない」


 そう言いながら、セレナへ視線を向ける。


「でも、ここへ来て何度もセレナと話した」


 仲間が大きな怪我を負った時。


 次の依頼へ向かうことが怖くなった時。


 女性冒険者は、その不安を誰にも見せたくなかった。


 セレナは無理に励まさなかった。


 勇気があるとも、大丈夫だとも言わなかった。


 ただ話を聞き、迷っていること自体を否定しなかった。


「私は噂より、自分で会って見た人間を信じる」


 その言葉に、店内へ短い沈黙が落ちた。


 エミリアも静かに続ける。


「セレナさんがここで働いているのは、誰かに利用されているからではありません」


 セレナへ向けられる目が、少しだけ柔らかくなる。


「自分の意思でこの街へ来て、自分でこの場所を選んだのです」


 セレナは、すぐに言葉を返せなかった。


 自分が何かを説明したわけではない。


 レンが客へ弁明したわけでもない。


 これまで店で時間を過ごしてきた者たちが、それぞれの言葉で話してくれている。


 商家の女将がセレナへ顔を向けた。


「あなたが一人ずつ説明して回る必要はありません」


 男性商人も頷く。


「事実を知った者が、間違った話を訂正すればよいのです」


 女性冒険者は少し笑った。


「今度、酒場で妙な話を聞いたら、私も言い返しておく」


「感情的になりすぎないでくださいね」


 セレナが思わず言うと、女性冒険者は肩をすくめた。


「努力はする」


 その返答に、店内へ小さな笑いが生まれた。


 張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。


 セレナは四人へ深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 噂が消えたわけではない。


 街では今も、勝手な話が広がっている。


 それでも、これまで一方的に流れていた言葉の中へ、真実を語る声が生まれ始めていた。


     ◇


 昼営業を終え、夜営業の準備が始まる少し前、Club Moon Dropの扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 ロイが迎えた相手は、バルドだった。


 普段なら誰かを伴うか、客として酒を求めて訪れることが多い。


 だが、その日の表情は硬かった。


「レンさんに話があります」


「私に?」


「ああ。できれば、ほかの客が来る前に」


 レンはバルドを店の奥の席へ案内した。


 ロイにも同席してもらい、周囲へ声が漏れないよう距離を取る。


「噂について、調べていたのですか?」


 レンが尋ねると、バルドは頷いた。


「グレゴールが、酒場で妙な話を耳にした」


 そこから、バルドはこれまでに分かったことを順番に説明した。


 噂を広めた可能性がある雑用係がいること。


 その男が、短期間に何度も酒商会へ出入りしていたこと。


 用件はいずれも、カイルからの依頼として記録されていたこと。


 そして、その男が最後に商会へ来た日、カイルがヴァレンティーニ家の古い債権記録を閲覧していたこと。


「男は、今どこにいるのですか?」


「宿を出た」


 バルドの声が低くなる。


「グレゴールが宿を訪ねる前の夜、突然別の街へ仕事に行くと言い、荷物をすべて持って姿を消したそうだ」


 ロイが眉を寄せる。


「調べられていると気付いたのでしょうか」


「その可能性はある」


「カイルさんが、逃がしたと?」


 レンの問いに、バルドはすぐには頷かなかった。


「まだ断定はできない」


 カイルが記録を見た理由は分からない。


 雑用係へ何を頼んだのかも、用件欄だけでは判断できない。


 男が宿を出たのも、本当に別の仕事が決まっただけかもしれない。


「ただ、偶然として片付けるには、重なりすぎている」


 レンは黙って話を聞いた。


 貸切営業の夜。


 セレナの名が明らかになった時、カイルは明らかに不快そうな態度を見せていた。


 Club Moon Dropへの敵意も隠していなかった。


 それでも、態度が悪かったという理由だけで犯人とは決められない。


「なぜ今、私に話してくださったのですか?」


 レンが尋ねる。


「疑いだけの段階では、店へ伝えるべきではないと思っていた」


 バルドは正直に答えた。


「酒商会の者が関わっているかもしれないとだけ聞かされれば、レンさんたちは商会の人間全員を警戒することになる」


「そうですね」


「だが、記録が一人の名前へ重なり始めた以上、黙っている方が危険だ」


 もしカイルが関わっているなら、グレゴールたちの調査に気付いた時、新たな手を打つ可能性がある。


 別の人間を使って噂を広める。


 Club Moon Dropへ客を装った者を送り込む。


 あるいは、店の中で問題を起こし、噂に現実味を持たせる。


「店でも警戒してほしい」


「分かりました」


 レンは頷いた。


「来店した方の確認を、これまで以上に慎重に行います」


 鑑定を使えば、悪意の有無を確認できる。


 だが、鑑定だけに頼るつもりはなかった。


 紹介者との関係。


 来店した理由。


 これまでどのような場所で商売や生活をしてきたのか。


 話の矛盾も丁寧に見る必要がある。


「セレナさんにも伝えるのか?」


「伝えます」


 レンは迷わず答えた。


「本人だけが知らない状態にするべきではありません」


 バルドが帰った後、レンはセレナを呼んだ。


 リリア、ロイ、ディーノも近くに残る。


 カイルの名を聞いたセレナは、驚きよりも困惑を見せた。


「なぜ、私の過去を……」


「まだカイルさんが流したと決まったわけじゃない」


 レンはそう前置きした。


「ただ、疑わしい記録が見つかった。だから、しばらく注意してほしい」


「私が接客しない方がよいでしょうか」


「普段通りでいい」


 レンは答えた。


「ただし、カイルさん本人が来た場合や、関係が深い人が来店した場合は、俺たちが先に対応する」


「分かりました」


 セレナは不安を隠し切れない表情を浮かべた。


 それでも、少しの沈黙の後、まっすぐに顔を上げる。


「私は、今まで通り働きます」


「ああ」


「噂を恐れて隠れるつもりはありません」


 昼に正規会員たちが語ってくれた言葉が、セレナの中に残っていた。


 自分一人では、すべての噂を止められない。


 それでも、真実を知り、信じてくれる者がいる。


 その事実が、セレナの背中を支えていた。


     ◇


 同じ頃、酒商会では、カイルが資料室の職員と短い会話を交わしていた。


「最近、古い記録を見る者が多いな」


 何気ない口調で尋ねる。


「そうですね。グレゴール様も、ヴァレンティーニ家の債権記録を確認されていました」


 職員は深い意味もなく答えた。


 だが、その言葉を聞いた瞬間、カイルの胸の奥が冷たくなる。


「グレゴールさんが?」


「はい。ほかの記録も見ておられましたが」


「そうか」


 表情は変えなかった。


 職員へ礼を告げ、そのまま自分の執務室へ戻る。


 扉を閉めた途端、カイルの顔から穏やかさが消えた。


 グレゴールは、ヴァレンティーニ家の記録まで確認している。


 当然、閲覧者の欄に残った自分の署名も見ただろう。


 さらに、裏口の出入り記録まで調べられていれば、雑用係との関係も知られている可能性がある。


(どこまで気付いている)


 今から資料室へ向かい、署名を消すことはできない。


 記録を改ざんすれば、それ自体が証拠になる。


 出入り帳面を処分することも同じだった。


 雑用係を遠ざけた判断は間違っていない。


 だが、男が突然宿を出たことまで知られれば、かえって疑いを強めるかもしれない。


 カイルは机へ座り、紙を一枚取り出した。


 自分がヴァレンティーニ家の記録を見た理由。


 雑用係へ頼んだ仕事の内容。


 聞かれた時に矛盾なく答えられるよう、説明を組み立てなければならない。


 新しい取引先の信用を調べるため、過去に債務整理を行った家の記録を参考にした。


 雑用係には、市場での価格調査を頼んでいた。


 外部への伝達とは、別の取引先へ書類を届けさせたことだ。


 どれも、それらしい理由にはなる。


 だが、詳しく追及されれば、裏付けを求められる。


 カイルは過去の市場調査記録を調べ、今回の依頼と結び付けても不自然ではない内容を探し始めた。


 新たな書類を作るつもりはない。


 記録へ手を加えれば、かえって自分の首を絞める。


 既に存在する事実の中から、都合よく使える部分だけを選ぶ。


 それは、セレナの噂を広めた時と同じやり方だった。


 同時に、別の考えが浮かぶ。


 貸切営業で、最初にセレナの名を口にしたのはグレゴールだった。


 ヴァレンティーニ家を以前から知っていたのもグレゴールだ。


 ならば、噂の出所が彼である可能性を示すことはできる。


 自分を疑う者がいても、別の可能性があれば追及は鈍る。


 カイルは貸切営業へ参加した幹部たちの名を、紙へ書き並べた。


 バルド。


 グレゴール。


 そして、ほかの幹部たち。


 その中から、グレゴールの名へ細い線を引く。


 すぐに大きな噂を流すつもりはない。


 まずは、グレゴールが以前からヴァレンティーニ家を知っていたことを、何気ない会話の中で別の幹部へ伝える。


 調査を始めた本人こそが、最初に情報を漏らしたのではないか。


 そう思わせるだけでいい。


「疑う理由さえあれば、人は勝手に考える」


 カイルは小さく呟いた。


 答えを与える必要はない。


 必要なのは、疑念の形だけだった。


     ◇


 夜営業が始まると、ミーナはいつも通り客席へ立った。


 扉が開くたび、無意識に視線が向く。


 訪れるのは、これまで何度も店を利用している正規会員や、その紹介を受けた仮会員たちだった。


 オスカーの姿はない。


 来ないと分かっていた。


 それでも、夜が深くなるほど、胸の中へ小さな寂しさが積もっていく。


 だが同時に、少しだけ安心もしていた。


 父親の言葉に背かず、店へ隠れて来ることもなく、自分の生活へ向き合っている。


 それなら、今夜会えないことは悪いことではない。


 ミーナは客の話へ耳を傾けながら、そう自分へ言い聞かせた。


 一方、オスカーも自室の窓から、Club Moon Dropがある方角を見ていた。


 実際に店の灯りが見える距離ではない。


 それでも、今頃ミーナが働いているのだと思うだけで、胸が落ち着かなかった。


 会いたい。


 話をしたい。


 自分がきちんと仕事を終えたことを伝えたい。


 だが、店へは行かないと決めた。


 父親に命じられたからではない。


 レンに止められたからでもない。


 自分の意思で、行かないことを選んだ。


 その選択が正しかったのか、まだ自信はない。


 それでも、これまでとは違う一歩だと思いたかった。


 会わないことで、今は相手を困らせないようにする。


 会わないことで、次に会える自分へ近づこうとする。


 ミーナとオスカーが、それぞれ相手を思いながら距離を守ろうとしている頃。


 カイルは自分を守るため、机の上に並べた名前の中から、犠牲にする相手を選び始めていた。

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