第74話 禁じられた来店と浮かび上がる名前
父アルフレッドからClub Moon Dropへの来店を禁じられた翌朝、オスカーはいつもより早く目を覚ました。
十分に眠れたからではない。
夜中に何度も意識が浮かび、そのたびに前夜の出来事が頭へよみがえっていた。
父親が突然店へ現れたこと。
まだ帰りたくないと口にした自分の声。
ミーナへ何も説明できないまま、席を立たされたこと。
そして、家へ戻ってから告げられた言葉。
しばらくClub Moon Dropへ行くことは禁止する。
父親がミーナを責めていないことは分かっていた。
アルフレッドは、以前自分と一緒に来店した際の接客も覚えている。
ミーナが無理に言葉を引き出そうとせず、オスカー自身が話し始めるのを待ってくれたことも理解していた。
だからこそ、問題があるのはミーナではなく、自分の方だと言われた。
その言葉を、完全に否定することはできなかった。
ここ数日、仕事を終えた後にClub Moon Dropへ向かうことが当たり前になっていた。
その日にあった出来事をミーナへ話す。
褒めてもらえれば嬉しくなり、失敗した時には慰めてもらう。
以前の自分なら、誰かへ話そうとも思わなかったことまで、店へ行けば自然に言葉にできた。
それが悪いことだとは思えない。
それでも、仕事へ集中できず、確認を怠ったことは事実だった。
オスカーは寝台の上でゆっくりと体を起こした。
「今日は、きちんとしないと」
誰に聞かせるでもなく呟く。
仕事へ真面目に取り組み、父親に認めてもらえば、また店へ行くことを許してもらえるかもしれない。
そう考え、いつもより早く身支度を整えた。
朝食の席では、アルフレッドとほとんど言葉を交わさなかった。
父親も前夜の話を蒸し返すことはなく、その日の予定だけを淡々と伝えた。
「午前中は、昨日届いた帳簿を確認してくれ」
「はい」
「昼からは取引先へ出る。お前は残りの書類を整理した後、まっすぐ帰宅しろ」
最後の言葉だけが、少し重く聞こえた。
「分かりました」
オスカーは反論せずに答えた。
仕事場へ着くと、すぐに帳簿へ向かった。
昨日のような失敗を繰り返さないよう、一つずつ数字を確認する。
記載された金額。
取引先の名前。
荷物の数。
支払いの期限。
同じ行を何度も指でなぞり、間違いがないか確かめた。
「そこは、もう確認したのでは?」
近くで仕事をしていた従業員に声を掛けられ、オスカーは顔を上げる。
「え?」
「先ほどから、同じところを三度見ています」
「あ……念のためです」
「慎重なのは良いことですが、次へ進まなければ終わりませんよ」
「すみません」
オスカーは慌てて次の頁を開いた。
集中しているつもりだった。
だが、視線は文字を追っていても、意識は何度も別の場所へ向かう。
ミーナは昨日のことを気にしているだろうか。
突然父親に連れ帰られた自分を、不快に思っただろうか。
もう来ないのだと考えているかもしれない。
あるいは、自分が怒って帰ったと誤解しているかもしれない。
そんな考えが浮かぶたび、帳簿の内容が頭から抜け落ちた。
しばらくして、アルフレッドが背後へ立つ。
「オスカー」
「はい」
「この頁の合計は確認したか?」
「しました」
「では、答えてみろ」
突然問われ、オスカーは言葉に詰まった。
確かに見たはずだった。
数字を何度も追った。
それなのに、合計が頭へ入っていない。
「もう一度、確認します」
アルフレッドは叱らなかった。
ただ、息子の顔をしばらく見つめた後、短く息を吐く。
「数字を見ることと、内容を理解することは違う」
「……はい」
「昨日の失敗を気にするのは分かる。だが、間違えないことばかり考え、目の前の仕事が見えなくなれば同じだ」
オスカーは俯いた。
父親の言う通りだった。
失敗しないようにしているつもりで、実際には何も頭へ入っていない。
「少し休め」
「大丈夫です」
「大丈夫ではないから言っている」
強い声ではなかった。
それでも、オスカーは逆らえなかった。
席を離れ、窓際で水を飲む。
外では荷車が通り、人々が忙しそうに荷を運んでいた。
自分だけが同じ場所へ取り残されているように感じる。
父親から店へ行くことを禁じられた程度で、これほど落ち着かなくなるとは思っていなかった。
それでもオスカーは、自分が店やミーナへ頼りすぎているとは認めたくなかった。
(説明していないからだ)
胸の中でそう言い聞かせる。
ミーナへ何も伝えられないままだから、気持ちが落ち着かないだけだ。
きちんと事情を話し、しばらく行けないと伝えれば、それで終わる。
長く滞在する必要はない。
酒を飲む必要もない。
一言だけ伝えればいい。
そう考えると、少しだけ心が軽くなった。
昼になると、アルフレッドは予定通り取引先へ向かう準備を始めた。
「戻るのは夕方になる」
「はい」
「残っている書類を整理したら、寄り道をせず帰宅しろ」
「分かっています」
オスカーは平静を装って答えた。
アルフレッドはしばらく息子の顔を見ていたが、それ以上は何も言わず、従業員を伴って仕事場を出た。
扉が閉じる。
その音が妙に大きく聞こえた。
オスカーは再び机へ向かった。
今度こそ仕事へ集中しようとした。
だが、夕方が近づくほど、頭の中では同じ言葉が繰り返される。
今日行かなければ、さらに一日説明が遅れる。
明日も行けないかもしれない。
何日も姿を見せなければ、ミーナは自分が嫌になったのだと思うかもしれない。
仕事を終えた頃には、迷いはほとんど消えていた。
「話をするだけだ」
オスカーは小さく呟く。
店で酒を飲むわけでも、長く滞在するわけでもない。
ミーナへ事情を伝えるだけなら、普段の来店とは違う。
そんな理屈が、自分でも苦しいことは分かっていた。
父親からは、店へ行くことそのものを禁じられている。
事情を伝えるだけであっても、Club Moon Dropへ向かえば、その言葉に背くことになる。
それでも、帰宅するための道へ足を向けることはできなかった。
仕事場を出たオスカーは、いつもClub Moon Dropへ向かう時に使っていた大通りを避けた。
市場の裏を通り、人通りの少ない細い道を選ぶ。
父親の商会で働く者や、知り合いに見つかりたくなかったからだ。
誰かに見られないよう気にしている時点で、自分でも悪いことだと理解している。
それでも足は止まらない。
長くはいない。
ミーナに会い、事情を伝えるだけ。
突然来なくなった理由を説明すれば、それで帰る。
だが、Club Moon Dropの建物が見えた瞬間、胸の奥に浮かんだのは安堵だった。
ようやく会える。
その感情が、説明だけを目的にしているのではないと物語っていた。
オスカーは入口の前で一度立ち止まった。
中へ入れば、父親の言葉に背いたことになる。
その事実を理解しながらも、扉へ伸ばした手を引くことはできなかった。
静かに扉を開く。
「いらっしゃいませ」
受付にいたロイが顔を上げた。
オスカーの姿を認めた瞬間、その表情が僅かに変わる。
「こんばんは、オスカーさん」
「こんばんは」
オスカーはいつもと同じように答えた。
店内にはすでに何組かの客が座り、穏やかな会話が流れている。
いつもの空気。
いつもの照明。
そして奥の席では、ミーナが別の客と話していた。
その姿を見ただけで、胸の奥にあった落ち着かなさが少し薄れる。
「本日もミーナさんをお願いします」
オスカーは迷わず告げた。
だが、ロイはすぐに案内しなかった。
昨夜、アルフレッドが息子を連れ帰った時のことを思い出していた。
父子の間で話し合いが行われることは分かっていたが、どのような結論になったのかまでは聞いていない。
「少々お待ちください」
ロイはそう答えると、カウンターにいるレンへ視線を送った。
その合図に気付いたレンが、手元の仕事を終えて入口へ向かう。
「こんばんは、オスカーさん」
「こんばんは」
「少し、お話をしてもいいですか?」
穏やかな口調だった。
しかし、いつものように席へ案内されないことに、オスカーは不安を覚える。
「ミーナさんへ、伝えたいことがあるんです」
「分かりました」
レンは入口近くの空いている席を示した。
「だからこそ、先に私と話をさせてください」
オスカーは奥にいるミーナへ視線を向けた。
彼女はまだこちらへ気付いていない。
すぐそこにいるのに、会うことを止められているように感じる。
それでも、レンの表情には追い返そうとする冷たさはなかった。
オスカーは迷った末、小さく頷いた。
「……分かりました」
二人は受付近くの席へ腰を下ろした。
レンは向かいに座るオスカーを見つめ、静かに口を開く。
「昨夜、お父様と家で話をされたのではありませんか?」
レンの問いに、オスカーはすぐには答えなかった。
視線を膝の上へ落とし、指先を僅かに動かす。
「……話はしました」
「しばらく店へ来ないように言われましたか?」
オスカーの肩が僅かに強張る。
否定しようと思えば、できたかもしれない。
父親から何を言われたのか、レンが正確に知っているわけではない。
それでも、ここで嘘をつけば、自分が何のために来たのかまで曖昧になるように思えた。
「はい」
小さく答える。
「ですが、今日は長くいるつもりはありません」
「どのくらいのつもりですか?」
「ミーナさんに事情を説明したら、すぐに帰ります」
レンはオスカーの顔を見た。
言葉だけを聞けば、筋は通っているように思える。
突然来なくなれば、相手が心配するかもしれない。
理由を伝えてから離れたいと考えること自体は、不自然ではない。
ただ、オスカーは父親に許可を得てここへ来たわけではなかった。
「お父様には、今日ここへ来ることを伝えましたか?」
オスカーは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「では、許可を得て来られたわけではないんですね」
「私は、ただ説明をしに来ただけです」
「それでも、お父様に隠れて来たことは変わりません」
レンの声は静かだった。
責めるような強さはない。
だが、曖昧に見逃すつもりもなかった。
「私が来なければ、ミーナさんも気にすると思います」
「そうかもしれません」
レンは否定しなかった。
「ミーナは、お客様のことをきちんと覚えています。昨日のことも気にしているでしょう」
その言葉を聞き、オスカーの表情が僅かに明るくなる。
「なら、会わせてください」
「ですが、それとお父様に隠れて会いに来ることは別です」
オスカーの表情から、先ほど浮かんだ安堵が消える。
「どうしてですか?」
「今ここでミーナと話せば、彼女はオスカーさんを心配します」
「それは……」
「お父様から止められているのに来たと知れば、なおさらです」
レンは言葉を続けた。
「ミーナは、お父様の言葉に背いてでも来てほしいとは言わないでしょう。ですが、オスカーさんが苦しそうにしていれば、何も感じずにいることもできません」
「私は、ミーナさんを困らせるつもりはありません」
「分かっています」
「なら――」
「困らせるつもりがなくても、結果として巻き込むことはあります」
レンの言葉に、オスカーは口を閉じた。
客席の奥から、笑い声が聞こえる。
ミーナはまだ別の客を接客していた。
時折、穏やかに相槌を打ち、レンが用意した酒を客へ差し出している。
いつも自分に向けられていた笑顔が、今は別の客へ向けられている。
それを見た瞬間、胸の奥に小さな焦りが生まれた。
事情を伝えたいだけだと思っていた。
だが、本当はそれだけではない。
自分が来なければ、ミーナは別の客と話す。
自分がいなくても、店の時間は進んでいく。
そんな当たり前のことが、なぜか苦しかった。
「私は、自分で来る場所を決めてはいけないのですか?」
オスカーの声に、僅かな苛立ちが混じる。
「仮会員として認められているはずです。店の決まりも破っていません」
「その通りです」
レンは頷いた。
「オスカーさんは、店の中で問題を起こしたことはありません。ミーナへ無理な要求をしたこともありません」
「では、なぜ止めるのですか?」
「Club Moon Dropは、お客様の生活や家族との関係を壊してまで通ってもらう店ではないからです」
オスカーは息を止めた。
「壊してなんていません」
「まだ、壊れてはいないと思います」
レンは真っ直ぐに答える。
「ですが、昨日、お父様から最近仕事へ集中できていないと聞きました。そして今日は、来ないように言われていたことを承知で、隠れてここへ来た。それは、これまでと同じではありません」
図星を指され、オスカーの視線が揺れた。
レンは、オスカーがどの道を通ったのかまでは知らない。
それでも、父親に隠れて来た時点で、自分が後ろめたさを抱えていることは見抜かれていた。
「私は、ただ一言伝えたいだけです」
「その言葉は私が預かります」
「レンさんが?」
「はい」
「それでは意味がありません」
オスカーはすぐに否定した。
「私の言葉で伝えたいんです」
「なぜですか?」
問い返され、オスカーは詰まる。
「それは……誤解されたくないからです」
「何を誤解されたくないんですか?」
「もう店へ来たくないと思っているわけではないことです」
「ほかには?」
オスカーは答えられなかった。
嫌われたくない。
忘れられたくない。
自分が来なくなっても、ミーナには気にしていてほしい。
そんな気持ちまで言葉にしてしまえば、父親の言っていたことを認めるようで怖かった。
レンは急かさず、静かに待った。
やがてオスカーが絞り出すように言う。
「私が突然来なくなったら、ミーナさんが心配すると思ったんです」
「心配するでしょうね」
「なら――」
「だからこそ、会わせない方がいいと思っています」
オスカーが顔を上げる。
「どうしてですか?」
「心配している相手が、父親の言葉に背いて会いに来たと知れば、ミーナはもっと心配します」
レンは一度言葉を切った。
「そして、次にまた来た時も断りにくくなります。オスカーさんが苦しそうだから、少しだけならと考えるかもしれません」
「私は、そんなことを求めていません」
「今はそう思っていても、また会いたくなった時はどうですか?」
オスカーは黙り込んだ。
今日も、最初は事情を話すだけのつもりだった。
それなのに、店へ近づいた時には、ようやく会えると思って安堵していた。
会った後、本当にすぐ帰れただろうか。
あと少しだけ話したい。
昨日の続きを聞いてほしい。
そう思わなかったと言い切ることはできない。
「今日は、ミーナとの接客は受けてもらえません」
レンは静かに告げた。
オスカーの顔に、明らかな落胆が浮かぶ。
「私を、店から追い出すのですか?」
「追い出すつもりはありません」
「でも、会わせてもらえないなら同じです」
「今日は、お客様として過ごしてもらうこともできません」
レンの声は変わらなかった。
「ただし、ミーナへの伝言は預かります」
オスカーは奥の席へ視線を向けた。
ミーナはまだこちらへ気付いていない。
あと少し歩けば声を掛けられる距離にいる。
だが、レンを無視して向かえば、店の中で問題を起こすことになる。
それだけはしたくなかった。
「……何と伝えるんですか?」
「オスカーさんの言葉を、そのまま伝えます」
「本当に?」
「はい。ただし、また必ず来ると約束する言葉は預かりません」
「なぜですか?」
「今は、来るかどうかを決める前に、お父様と話す必要があるからです」
オスカーは唇を噛んだ。
父親と話せば、しばらく来るなと言われる。
許されるまで待てば、いつになるか分からない。
それでも、これ以上レンへ反発しても、ミーナへ会わせてもらえるとは思えなかった。
長い沈黙の後、オスカーは小さく口を開いた。
「しばらく、来られないかもしれません」
レンは黙って耳を傾ける。
「でも、ミーナさんが嫌になったわけではありません」
「分かりました」
「それから……昨日、急に帰ってしまって、すみませんでしたと」
「それも伝えます」
「心配しないでください、とも」
レンは少しだけ考えた。
「その言葉は、そのまま伝えてもいいですか?」
「どういう意味ですか?」
「オスカーさんがお父様に隠れてここへ来たことを、ミーナに伏せるつもりはありません」
オスカーの表情が強張る。
「言わなければいけませんか?」
「言わずに伝えれば、ミーナはオスカーさんがお父様と話し合ったうえで来たと思うかもしれません」
それは事実ではない。
レンは店の仲間へ嘘をつくつもりも、都合の悪い部分だけを隠すつもりもなかった。
オスカーはしばらく迷った後、力なく頷く。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
レンは立ち上がった。
「今日は、そのまま帰宅してください」
オスカーもゆっくりと立つ。
入口へ向かう前に、もう一度だけ店の奥へ視線を向けた。
ちょうどその時、ミーナが客の注文を受けて席を立つ。
二人の視線が一瞬だけ重なった。
ミーナはオスカーの姿に気付き、驚いたように目を見開く。
「オスカーさん?」
小さな声だった。
しかし、静かな店内ではオスカーの耳にも届いた。
足を止めかける。
ミーナの方へ向かいたい。
事情を自分で説明したい。
だが、レンが何も言わず隣に立っている。
オスカーは迷った末、ミーナへ小さく頭を下げた。
それだけで扉へ手を掛ける。
「失礼します」
扉が閉じるまで、ミーナはその背中を見つめていた。
担当している客から名前を呼ばれ、我に返ったように振り返る。
「申し訳ありません」
ミーナはすぐに客席へ戻った。
表情を整え、注文された酒を受け取るためにカウンターへ向かう。
それでも、なぜオスカーが席へ来なかったのか、なぜレンと入口で話しただけで帰ったのかという疑問は、胸の中に残っていた。
レンはすぐには説明せず、ミーナが担当している客の接客を終えるのを待った。
夜営業の途中で、気持ちを乱したまま話を聞かせるべきではないと考えたからだ。
やがて客が帰り、店内が少し落ち着いた頃、レンはミーナへ声を掛けた。
「少し話してもいい?」
「はい」
ミーナはすぐに頷いた。
「先ほど、オスカーさんが来ていましたよね」
「ああ」
「どうして、そのまま帰られたんですか?」
レンは、オスカーが父親から来店を禁じられていたことを伝えた。
そのうえで、許可を得ずに店へ来たため、今日は接客を受けさせなかったと説明する。
「私に会うために……?」
「事情を伝えるためだと言っていた」
「では、どうして会わせなかったんですか?」
責める口調ではない。
ただ、突然帰ってしまった理由が分からず、戸惑っていた。
「ミーナが会えば、オスカーさんを心配すると思ったからだよ」
「それは……心配します」
「その気持ちが、また来てもいいという意味に受け取られる可能性もある」
ミーナは言葉を失った。
オスカーが父親に隠れて来たと知れば、きっと止めようとした。
だが、目の前で苦しそうにしていれば、せめて事情だけは聞こうと思ったかもしれない。
その優しさが、相手をさらに店へ向かわせることもある。
「私が会えば、お父様の言葉に背いて来たことを受け入れる形になってしまうんですね」
「そうなる可能性がある」
レンは頷いた。
「オスカーさんが悪い人というわけではない。ただ、今は自分の気持ちを整理できていない」
「……はい」
「伝言を預かっている」
ミーナが顔を上げる。
「しばらく来られないかもしれない。でも、ミーナを嫌になったわけではないそうだ。昨日、急に帰ったことも謝っていた」
ミーナの表情が僅かに緩む。
「そうですか」
安心したような声だった。
だが、その直後、自分が安堵したことへ気付いたのか、戸惑ったように目を伏せる。
「私は、嫌われたと思っていたのでしょうか」
「昨日のことを気にしていたんじゃないかな」
「それだけでしょうか」
ミーナは自分でも答えを出せないまま、入口へ視線を向けた。
客が来なくなる理由を知りたかった。
嫌われていないと聞き、胸の奥が軽くなった。
それが接客する者として当然の感情なのか、それとも少し違うものなのか、自分でもまだ分からない。
少し離れた場所にいたリリアは、その様子を見ていた。
だが、今は何も言わなかった。
その頃、酒商会ではグレゴールが、通常業務の確認を装いながら裏口の出入りを記した帳面を開いていた。
帳面には、日付、出入りした者の名前、用件、誰の指示で訪れたのかが簡潔に記されている。
荷物を運び込んだ者。
取引先から書類を届けた使い。
一時的に雇われた雑用係。
幹部から個人的な仕事を頼まれた者。
グレゴールは、噂が広まり始める前後の日付へ目を通していった。
男の年齢や服装だけでは候補を絞り切れない。
三十代から四十代ほどで、商人にも使用人にも見える男など、この街にはいくらでもいる。
該当する可能性のある名は、最初の確認だけでも五人見つかった。
一人は遠方から荷を運んできた御者。
一人は取引先の使い。
二人は商会が一時的に雇った雑用係。
最後の一人は、幹部から個人的な仕事を頼まれることがある男だった。
グレゴールは、五人の出入りした時間や用件を一つずつ確認していく。
御者は荷を下ろすと、その日のうちに街を出ている。
取引先の使いは年齢が若く、酒場で聞いた特徴とは合わない。
一人の雑用係は、噂が広まり始めた頃には病気で仕事を休んでいた。
もう一人は、酒場で証言された男よりも明らかに体格が大きい。
残った一人の名前の前で、グレゴールの指が止まった。
「この男か……?」
正式な職員ではない。
商会の幹部から頼まれた雑用を引き受け、必要に応じて書類や荷物を運んでいる男だった。
噂が広まり始める直前、短期間に三度も裏口から出入りしている。
用件欄には、いずれも簡単な言葉しか記されていなかった。
書類の受け取り。
外部への伝達。
個人的な依頼。
そして指示者の欄には、同じ名前が残されていた。
「カイル幹部の依頼……」
グレゴールは声を出さず、その文字を見つめた。
カイルが雑用係へ仕事を頼むこと自体は珍しくない。
幹部であれば、正式な職員へ回すほどでもない用事を外部の者へ任せることもある。
これだけで噂と結び付けることはできなかった。
グレゴールは帳面を閉じず、その男が最後に商会へ入った日を確認する。
貸切営業の翌日だった。
カイルが資料室でヴァレンティーニ家の古い記録を閲覧した日と重なっている可能性がある。
グレゴールは帳面を元の位置へ戻し、今度は資料室へ向かった。
酒商会の資料室には、取引記録や過去の貸し付け、支払いに関する文書が保存されている。
重要な記録を見る場合は、閲覧した者が名前と日付を残す決まりになっていた。
「古い債権記録を確認したい」
資料室にいた職員へそう伝えると、グレゴールは閲覧記録を受け取った。
不自然に思われないよう、まずは複数の取引記録へ目を通す。
その中で、ヴァレンティーニ家の名が記された頁を開いた。
閲覧者の欄には、確かにカイルの署名が残されている。
日付は、雑用係が裏口から出入りした日と同じだった。
カイルが記録を見た。
その日に、カイルから仕事を頼まれた男が商会へ入った。
数日後、ヴァレンティーニ家の事情を切り取った噂が広がり始めた。
すべてが偶然である可能性は残っている。
だが、無関係だと考えるには、重なる点が多すぎた。
グレゴールは二つの記録に残されていた内容を、小さな紙へ書き写した。
原本を持ち出せば、調査していることが知られる。
職員へ余計な質問をすることも避けた。
必要な情報だけを確かめ、何事もなかったように資料室を出る。
そのままバルドの執務室へ向かった。
「入れ」
扉を開けると、バルドは書類へ目を通していた。
グレゴールの表情を見ただけで、何か見つかったと察したらしい。
「何かあったか?」
「噂を流した男かもしれない者が、出入り記録に残っていました」
グレゴールは書き写した紙を机へ置いた。
「条件に合う者が五人いました。その中から出入りした時期や特徴を確認し、一人まで絞りました」
「その男は?」
「商会の正式な職員ではありません。幹部から個人的な仕事を頼まれている雑用係です」
「噂が広まり始める直前、数日の間に三度、裏口から商会へ入っています」
「用件は?」
「書類の受け取り、外部への伝達、個人的な依頼。詳しい内容は残っていません」
「指示した者は?」
グレゴールは一度間を置いた。
「カイル幹部です」
バルドの目が僅かに細くなる。
「それだけか?」
「もう一つあります」
グレゴールは次の記録を示した。
「男が最後に商会へ入った日、カイル幹部は資料室でヴァレンティーニ家の古い債権記録を閲覧しています」
執務室に沈黙が落ちた。
バルドは紙を手に取り、二つの日付を見比べる。
「確かに同じ日だな」
「はい」
「カイルが記録を見た理由は分かるか?」
「分かりません。幹部であれば、過去の取引を確認すること自体は不自然ではありません」
「男へ何を頼んだのかも分からない」
「その通りです」
グレゴールも慎重な姿勢を崩さなかった。
「これだけでは、カイル幹部が噂を流したとは言えません」
「だが、調べる価値はある」
バルドは紙を机へ戻す。
「その男は今どこにいる?」
「これから確認します」
「直接呼び出すな。所在だけを調べろ」
「承知しました」
グレゴールは商会を出ると、男が普段利用している宿へ向かった。
出入り記録には、外部の雑用係について簡単な滞在先も記されていた。
宿は市場の外れにある、小さな建物だった。
「この男を知っているか?」
名前を告げると、宿の主人はすぐに頷いた。
「ええ。少し前まで泊まっていました」
「今はいないのか?」
「昨日の夜に出ましたよ」
グレゴールの表情が険しくなる。
「どこへ行くと言っていた?」
「別の街で仕事が見つかったと。しばらく戻らないそうです」
「荷物は?」
「全部持っていきました」
「急に決まったのか?」
「そう見えましたね。昼までは何も言っていなかったのに、夜になって突然出ると言い出しましたから」
グレゴールは宿の主人へ礼を告げ、外へ出た。
男が姿を消した。
それだけなら、仕事を求めて移動した可能性もある。
しかし、カイルがグレゴールの動きを警戒し始めた時期と重なっている。
偶然と考えるには、不自然だった。
再び報告を受けたバルドも、しばらく言葉を発しなかった。
「逃げたと考えるか?」
「まだ断定はできません」
「だが、疑いは強まった」
「はい」
バルドは机の上に置かれたカイルの名前を見つめる。
「本人へ問いただすのは早いな」
「男が見つかる前に聞けば、記録を調べた理由も、男へ頼んだ仕事も、都合よく説明されるでしょう」
「あるいは、さらに証拠を消される」
二人は、カイルを刺激せずに調査を続けることで意見を一致させた。
一方、Club Moon Dropから帰ったオスカーは、日が暮れた道を一人で歩いていた。
ミーナへ会うことはできなかった。
だが、伝言は預けた。
それで十分だと思おうとしても、胸の中には強い物足りなさが残っている。
自宅へ戻ると、アルフレッドはすでに帰宅していた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
普段と変わらない挨拶だった。
しかし、アルフレッドはすぐには視線を外さなかった。
「今日はどこへ行っていた?」
オスカーの足が止まる。
「仕事を終えた後ですか?」
「そうだ」
「西市場の裏通りで、お前を見た者がいる」
父親の商会で働く者が、偶然見掛けたのだろう。
いつもの大通りを避けたつもりだった。
だが、細い道を使ったからといって、誰にも見られないわけではない。
嘘をつけば、さらに状況が悪くなる。
オスカーは迷った末、正直に答えた。
「Club Moon Dropへ行きました」
「行くなと言ったはずだ」
「ミーナさんへ事情を伝えたかったんです」
「会ったのか?」
「いいえ」
アルフレッドの眉が僅かに動く。
「レンさんに止められました。父上に隠れて来た状態では、会わせられないと」
その言葉を聞き、アルフレッドは短く息を吐いた。
レンが息子をそのまま受け入れなかったことには、安堵していた。
だが、禁止されてもなお店へ向かった事実は軽くない。
「店で接客を受けなかったから、問題がないと思っているのか?」
「そうではありません」
「私に隠れ、禁じた店へ向かったことが問題だ」
アルフレッドの声は静かだった。
「ミーナさんへ会えなかったから許されるのではない。人に見つからない道を選び、黙って向かった。その時点で、お前は自分でも悪いことだと分かっていたはずだ」
オスカーは何も言い返せなかった。
父親に見つからなければいいと思い、普段とは違う道を選んだ。
説明するだけだから問題はないと、自分へ言い聞かせた。
だが、レンにもアルフレッドにも、その言い訳は通じなかった。
その頃、カイルは自分の執務室で、雑用係を遠ざけたことに安堵していた。
男が商会へ近づかなければ、顔を覚えた者が現れても、すぐに自分と結び付けることはできない。
噂はすでに独り歩きを始めている。
自分が新たに手を加える必要もない。
そう考え、カイルは机の上の書類へ視線を戻した。
だが、彼はまだ知らない。
男の出入りを記した帳面にも、資料室の閲覧記録にも、自らの名が残されていることを。
カイルは証拠を遠ざけたつもりでいた。
しかし、自分で残した名前までは消せていなかった。
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