第73話 噂を追うグレゴールと父親の懸念
「少し調べる必要がありそうだな」
市場近くの酒場でそう呟いたグレゴールは、噂を話していた商人たちへ改めて向き直った。
「その話を、最初にどこで聞いた?」
問われた商人たちは互いに顔を見合わせる。
「私は、市場で荷を待っている時に聞きました」
「誰からだ?」
「知り合いの商人です。ただ、その者も別の酒場で聞いたと言っていました」
隣に座っていた男も口を開いた。
「私は南通りの酒場です。ヴァレンティーニ家が多額の借金を残して消えた、と」
「誰が話していた?」
「名前までは分かりません。何度か見たことはありますが、親しい者ではありません」
グレゴールは一人ずつ話を聞いていった。
市場で耳にした者。
酒場で聞いた者。
荷運び人から教えられた者。
紹介制の店で元貴族の娘が働いていると、知人から聞かされた者。
話を聞いた場所も、相手もばらばらだった。
誰も最初に口にした人物を知らない。
だが、グレゴールには引っ掛かるものがあった。
多額の負債を抱えた。
屋敷と領地を失った。
家名まで手放した。
聞いた場所が違うにもかかわらず、その三つだけはどの話にも必ず含まれている。
そこへ、借金を残して逃げた、爵位を奪われた、娘を客寄せに使っているといった想像が付け加えられていた。
最初に同じ骨組みが与えられ、人から人へ伝わる間に余計な言葉が足されたのだろう。
「妙だな」
グレゴールが低く言うと、商人の一人が首を傾げた。
「何がです?」
「別々の場所から広がった話にしては、最初の言葉が揃いすぎている」
「誰かが意図的に流したと?」
「まだ分からん」
グレゴールは断定を避けた。
「だが、事実を知っている者が、都合の悪い部分だけを伏せているようには見える」
ヴァレンティーニ家が負債を抱えたことは事実だ。
屋敷と領地を手放し、家名を返還したことも間違いではない。
しかし、借金をすべて返済したことだけが、どの話からも抜け落ちている。
偶然にしては出来すぎていた。
翌朝、グレゴールは普段より早く屋敷を出た。
向かったのは、商人たちの話に出てきた酒場だった。
最初に訪れたのは、市場から少し離れた通りにある小さな店である。まだ開店前だったが、酒場の主人はグレゴールの顔を見ると、裏口から中へ通した。
「こんな時間に珍しいですね」
「少し聞きたいことがある」
グレゴールがヴァレンティーニ家の噂について尋ねると、主人は面倒事へ関わりたくないという表情を浮かべた。
それでも相手が酒商会の古参だと知っているため、最後には記憶をたどり始める。
「数日前、確かにその話をしていた男がいました」
「どんな男だ?」
「目立つところはありませんでしたね。三十代か四十代ほどで、商人にも使用人にも見える服装でした」
「一人だったか?」
「最初は一人でした。途中から近くの客へ話しかけていました」
「この店の常連か?」
「いいえ。少なくとも私は見覚えがありません」
主人によれば、男は声を張って噂を広めたわけではなかった。
あくまで会話の流れで思い出したように話し、自分も人から聞いただけだと繰り返していたという。
「妙に慎重な男ですね」
「だから、かえって本当らしく聞こえたのでしょう」
グレゴールは店を出ると、次の酒場へ向かった。
そこでも似た証言が得られた。
見慣れない男が現れ、没落した家の娘がこの街で働いていると話した。
自分から店名を出すことはなく、周囲がClub Moon Dropではないかと口にすると、肯定も否定もしなかったという。
「顔は覚えているか?」
「見れば分かるかもしれません。ただ、似顔絵にできるほどでは」
別の店では、男が酒商会の荷札が付いた小さな書類袋を持っていたという話も出た。
しかし、証言した者自身が、
「似た印だっただけかもしれません」
と付け加えたため、それだけでは証拠にならない。
午前の間に三軒を回ったグレゴールは、次に市場へ足を向けた。
荷を運ぶ者たちは、酒場の主人よりも人の顔や出入りをよく見ている。毎日多くの商人や使用人が行き交う中で、誰がどの建物へ入ったのかを自然と覚えている者もいた。
何人かへ話を聞いた後、一人の荷運び人が顎へ手を当てる。
「その特徴の男なら、見たことがある気がします」
「どこでだ?」
「酒商会の近くです。荷を下ろした後、裏手の入口へ入っていくのを見たような……」
「いつ頃だ?」
「数日前です。ただ、同じ男だったかは自信がありません」
「構わん。何度も見たことは?」
「いえ、一度だけです」
グレゴールは礼を告げ、その場を離れた。
酒商会へ出入りしているからといって、商会の人間とは限らない。
取引商人、雑用係、荷運び人、使い走り。毎日、多くの者が建物を訪れる。
それでも、噂を運んだ男が酒商会と無関係ではない可能性が出てきた。
貸切営業に参加した者の中には、セレナの旧名を知った者がいる。
その後、酒商会の古い記録を調べれば、ヴァレンティーニ家の事情を確認できる。
記録を読めば、負債が完済されていることも分かるはずだった。
それにもかかわらず、広まっている噂からは、その部分だけが抜け落ちている。
「商会の中に、店を快く思っていない者がいるのか……」
グレゴールは歩きながら呟いた。
真っ先に誰かの顔を思い浮かべることはしなかった。
証拠もなく疑えば、自分も噂を広める者たちと変わらない。
だが、酒商会の内部が関わっている可能性がある以上、この件を一人で追い続けるべきではなかった。
昼前、グレゴールは酒商会へ戻った。
「バルド会頭はいるか?」
「はい。執務室にいらっしゃいます」
「少し話があると伝えてくれ」
「承知しました」
しばらくして面会の許可が下りる。
グレゴールは集めた証言を書き留めた紙を手に、長い廊下を進んだ。
その姿を、少し離れた場所から見ている者がいた。
カイルだった。
普段より険しい表情をしたグレゴールが資料を持ち、バルドの執務室へ向かっている。
何の話をするのかまでは分からない。
だが、今の時期にグレゴールが個人的に動く理由を考えれば、候補は多くなかった。
カイルは足を止めず、何も気付いていないふりをしてすれ違う。
「お疲れさまです、グレゴールさん」
「ああ」
短い挨拶を交わし、二人は反対方向へ進んだ。
背を向けた後、カイルの目が僅かに細くなる。
グレゴールはバルドの執務室の前へ立ち、扉を叩いた。
「入れ」
中から声が返る。
扉を開き、机の向こうに座るバルドへ一礼する。
「会頭。ヴァレンティーニ家とClub Moon Dropについて、耳に入れておきたいことがあります」
バルドは、机の上に置いていた書類から手を離した。
「座ってくれ」
「失礼します」
グレゴールは向かいの椅子へ腰を下ろし、持っていた紙を机へ置いた。
「街で、ヴァレンティーニ家について妙な噂が広がっています」
「どのような噂だ?」
「多額の借金を残して家が消えた。屋敷と領地を取り上げられ、家名まで失った。その娘がClub Moon Dropで素性を隠し、客の相手をしている。大まかには、そのような内容です」
バルドの表情が険しくなる。
「借金を残して消えたというのは事実ではない」
「はい。私たち酒商会への支払いも、最後まですべて済んでいます。ほかの債権者への返済を終えた後、爵位と家名を正式に返還したと記録に残っています」
「屋敷と領地も、取り上げられたのではない。返済のために国へ売却したものだ」
「その通りです」
グレゴールは、複数の場所で使われていた言葉が似通っていることを説明した。
広まった後の内容は場所によって異なるが、噂の骨組みだけは不自然なほど揃っている。
「何人もの人間が、偶然同じ言葉を選ぶとは考えにくいでしょう」
「最初に同じ話を聞いた者が、別々の場所で広めた可能性は?」
「それも考えました。しかし、話をした者たちは互いに面識がないようです」
グレゴールはさらに、噂を口にした男について得られた証言を伝えた。
目立たない服装。
商人にも使用人にも見える。
店名は自分から出さず、周囲にClub Moon Dropの名を言わせる。
酒商会の荷札が付いたように見える書類袋を持っていたこと。
そして、その男らしき人物が酒商会の裏口へ入る姿を見た者がいること。
バルドの目が細くなる。
「確かな話か?」
「どちらも証言した者に自信はありません」
「それだけでは、商会の者とは断定できないな」
「はい。取引先の使い、雑用係、荷運び人。裏口を使う者は多くいます」
グレゴールは慎重に続けた。
「ですが、貸切営業の後、それほど日を置かずにセレナさんの過去が広まりました。しかも、商会の記録を見なければ分からない部分まで含まれています。無関係とは言い切れません」
バルドは腕を組み、しばらく黙り込んだ。
貸切営業へ参加したのは、自分を含む酒商会の幹部たちだった。
その場でグレゴールがセレナの旧名を口にし、その後間もなく、彼女の過去を利用した噂が広がり始めた。
もし商会の人間が関わっているなら、Club Moon Dropだけの問題ではない。
自分が信頼して連れていった者の中に、貸切の場で得た情報を悪用した人間がいることになる。
「この件は、私の信用にも関わる」
バルドが低い声で言った。
「私が店へ連れていった者たちの中から情報が漏れたのなら、レンたちへ顔向けできん」
「まだ、貸切に参加した者が直接話したとは限りません」
「分かっている。だからこそ、軽々しく誰かを疑うわけにはいかない」
グレゴールも頷いた。
「まずは、商会へ出入りしている者を確認したいと思います」
「噂を流した男の特徴だけで見つけられるか?」
「難しいでしょう。ですが、ここ数日で裏口を使った雑用係や使いの記録を見れば、候補は絞れます」
酒商会には、荷物や書類の受け渡しを記録する帳面がある。
正式な職員だけでなく、一時的に雇われた者や、幹部から個人的な仕事を頼まれた者についても、出入りを記す決まりになっていた。
「記録を確認してくれ。ただし、通常業務の確認を装え」
「承知しました」
「誰かを呼び出すのも、まだ早い。相手が調べられていると気付けば、姿を消すかもしれない」
「では、私だけで記録を確認します」
「ああ。貸切に参加した幹部たちについても、当日の後に誰と接触したか、分かる範囲で調べてくれ」
グレゴールが僅かに眉を寄せる。
「全員を疑うのですか?」
「疑うのではない。可能性を一つずつ消す」
バルドの言葉に迷いはなかった。
「Club Moon Dropへは、まだ伝えない方がよろしいでしょうか」
その問いに、バルドはしばらく考える。
「噂そのものは、すでに店へ届いているかもしれない」
「その可能性はあります」
「だが、商会の人間が関わっているかもしれないという疑いだけを伝えても、不安を増やすだけだ。確かなものが見つかるまでは、こちらで調べよう」
「分かりました」
グレゴールが部屋を出ると、バルドは椅子へ背を預けた。
貸切営業の夜、セレナへ向けられていたカイルの視線を思い出す。
だが、すぐにその考えを振り払った。
不愉快そうな顔をしていたからといって、噂を流した証拠にはならない。
「決めつけるわけにはいかんな」
バルドは呟いた。
記録を自分のもとへ取り寄せることはしない。
会頭が突然、裏口の出入りを調べ始めれば、余計な注目を集める。ここはグレゴールへ任せるべきだった。
一方、廊下の角を曲がったグレゴールは、少し離れた場所でカイルと再びすれ違った。
「話は終わりましたか?」
「ああ」
「随分と長かったようですが、何か問題でも?」
「まだ何とも言えん」
グレゴールはそれだけ答え、足を止めなかった。
カイルも追及せず、その背中を見送る。
だが、グレゴールが手にしている紙と、消えない険しい表情を見れば、単なる業務報告ではないことは分かった。
カイルは自分の執務室へ戻り、扉を閉めた。
(少し早かったか)
噂はすでに自分の手を離れ、勝手に広がり始めている。
今さら止めることはできない。
だが、最初に話を運んだ男を動かし続ければ、顔を覚えられる可能性が高くなる。
カイルは机へ戻り、小さな紙へ短い言葉を書いた。
しばらく酒場へ行くな。
新しい話も広めるな。
呼ばれるまで、商会へ近づくな。
紙を折り畳み、信頼できる使いへ託した。
その頃、Club Moon Dropでは昼営業が行われていた。
噂が店へ届いてから、ロイとディーノは以前より注意深く客の様子を見るようになっている。
それでも店内の空気を重くしないよう、普段と変わらない態度を崩してはいなかった。
昼を少し過ぎた頃、一人の正式会員が来店する。
何度もセレナを指名している、穏やかな物腰の男だった。
「本日もセレナさんをお願いできますか?」
「承知しました」
ロイが答え、セレナへ合図を送る。
セレナは小さく息を整えると、笑顔で席へ向かった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、セレナさん」
男はいつもと同じように挨拶した。
しかし、注文を終えても、どこか言葉を探しているように見える。
セレナは急かさず、静かに待った。
やがて男は周囲へ視線を向け、少し声を落とす。
「実は、あなたについて聞きたいことがあります」
セレナの指先が、膝の上で僅かに動いた。
それでも視線を逸らさず、男をまっすぐに見る。
「どのようなことでしょうか」
「以前、ヴァレンティーニ子爵家の方だったというのは、本当ですか?」
セレナの胸の奥に、冷たいものが落ちる。
いずれ客から直接尋ねられることもあるだろうと考えていた。それでも、実際にその時を迎えると、平静でいるのは簡単ではなかった。
「はい。以前は、ヴァレンティーニ子爵家の娘でした」
男は僅かに目を見開いた。
「では、家が多額の借金を残してなくなったという話も……」
「それは事実ではありません」
セレナは穏やかな口調を保ちながらも、はっきりと否定した。
「家が負債を抱えたことは事実です。屋敷と領地を手放し、爵位と家名を国へ返還したことも間違いではありません」
「やはり、そこまでは本当なのですね」
「ですが、父は屋敷と領地を国へ売却し、その代金ですべての借金を返済しました。支払いを残して逃げたわけではありません」
男の表情から、疑念が少しずつ消えていく。
「爵位を奪われたという話も聞きました」
「奪われたのではありません。父が自ら返還しました。家名についても同じです」
「では、なぜあなたはこの街へ?」
問い掛けた直後、男は踏み込みすぎたと思ったのか、申し訳なさそうに眉を下げた。
「失礼しました。答えにくいことまで尋ねるつもりはなかったのです」
「構いません」
セレナは小さく首を振る。
「借金を返済した後も、私は両親と暮らすことができました。ですが、いつまでも親に守られたままではなく、自分の力で生きたいと思い、この街へ来ました」
「Club Moon Dropで働くことも、ご自身で?」
「はい。私が自分で選びました」
男はしばらく黙った後、深く息を吐いた。
「確かめもせず、噂を信じかけていました」
「知らない話を何度も耳にすれば、気になるのは当然だと思います」
「それでも、決めつけるべきではありませんでした」
男は顔を上げる。
「あなたの言葉を疑うつもりはありません。ただ、なぜ事実と違う話がこれほど広がっているのでしょう」
「私にも、まだ分かりません」
「そうですか」
男は僅かに考え込んだが、やがていつもの穏やかな表情へ戻った。
「あなたがどの家の出身だったとしても、ここで受けた接客が変わるわけではありません。これからも、これまでと同じようにお願いしてよろしいですか?」
セレナの肩から力が抜ける。
「もちろんです。ありがとうございます」
少し離れた場所から二人を見守っていたレンも、会話へ割り込むことはしなかった。
セレナが自分の意思で答え、男もその言葉を受け止めている。
それなら、今は見守るだけでいい。
昼営業を終えた後、セレナはレンのそばへ来た。
「先ほど、お客様から過去について尋ねられました」
「聞こえていたよ。大丈夫だった?」
「緊張はしました。ですが、自分の言葉で話すことができました」
「だからといって、セレナが全員へ説明し続ける必要はないからね」
「はい。答えたいと思った時だけにします」
その表情には、昨日までにはなかった静かな強さがあった。
やがて日が沈み、夜営業が始まる。
いつもの時間を少し過ぎた頃、入口の扉が開いた。
「こんばんは」
現れたのは、今日も一人で訪れたオスカーだった。
「こんばんは、オスカーさん」
ロイが迎える。
「本日もミーナさんをご希望ですか?」
「はい。お願いします」
オスカーは迷わず答え、いつもの席へ案内された。
ミーナが笑顔で席へ向かうと、オスカーは安心したように表情を緩める。
「今日は、少し失敗してしまいました」
「お仕事ですか?」
「はい。取引先へ渡す書類を確認したつもりだったのですが、一枚足りなかったんです。従業員の方が、後から届け直すことになりました」
オスカーは俯き、グラスへ視線を落とした。
「父から、最近気が緩んでいると言われました」
「失敗したことは残念ですが、次から確認すれば大丈夫だと思います」
「ミーナさんは、怒らないんですね」
「私が怒ることではありませんから。それに、オスカーさんも反省しているのでしょう?」
「はい」
オスカーは小さく頷く。
「ここへ来ると、嫌なことを忘れられます」
ミーナは、仕事で落ち込んだ客が酒と会話によって気持ちを切り替えているのだと受け取った。
「少しでも気持ちが楽になるなら、良かったです」
その笑顔を見て、オスカーの表情も明るくなった。
それからしばらくして、入口の扉が再び開く。
「いらっしゃいませ」
ロイが迎えた相手は、オスカーの父親であるアルフレッドだった。
「こんばんは。息子はこちらに来ていますか?」
「はい。あちらのお席にいらっしゃいます」
ロイが示した先で、オスカーはミーナと話している。
アルフレッドは二人の姿を見つけると、僅かに眉を寄せた。
以前、自分がオスカーを連れて来店した時も、接客を担当したのはミーナだった。
口数の少ないオスカーを急かすことなく、ゆっくりと言葉を引き出していた。その接し方に問題があるとは、アルフレッドも思っていない。
むしろ、息子が普段より多く話していたことを喜んでさえいた。
ただ、あれから毎日のように同じ場所へ通い続けているとは知らなかった。
「今日も来ていたのか……」
声を聞きつけたレンが入口へ向かう。
「こんばんは、アルフレッドさん」
「こんばんは、レンさん。少し伺いたいことがあります」
アルフレッドは息子に聞こえないよう、声を落とした。
「オスカーは、最近どの程度こちらへ来ていますか?」
「ここ数日は、毎晩来店されています」
「毎晩……?」
アルフレッドの表情が曇った。
一人で店を利用していることは聞いていた。しかし、これほど続けて通っているとは思っていなかったようだ。
「そのたびに、ミーナさんと話しているのですか?」
「はい。毎回ミーナを指名されています」
アルフレッドは客席へ視線を戻した。
ミーナは以前と変わらず、オスカーの話へ穏やかに耳を傾けている。特別に距離を縮めようとしている様子も、息子を店へ引き留めようとしている様子もない。
「ミーナさんの接客に問題があるとは思っていません」
アルフレッドは先にそう告げた。
「あの方が息子へ丁寧に接してくださったことも、以前ここへ来た時に見ています」
「はい」
「ですが、最近のオスカーは家業へ集中できていません。朝は眠そうにし、仕事でも確認を怠るようになりました」
「今日、書類のことで失敗したと聞きました」
「それだけではありません」
注意をしても上の空になることが増え、仕事が終わればすぐに外出する。帰宅しても、翌日また店へ行くことばかり考えているように見えるという。
「息子が話しやすい相手を見つけたこと自体は、喜ばしいと思っています」
アルフレッドは苦い表情で息を吐いた。
「以前のオスカーは、自分の考えを他人へ話すことすら苦手でしたから」
だからこそ、最初は一人で店へ通うようになったことも成長だと思っていた。
しかし今は、仕事で失敗しても店へ行けば慰めてもらえると考え、Club Moon Dropへ逃げ込むようになり始めている。
「問題があるとすれば、ミーナさんではなく、息子の方です」
「私も、オスカーさんがここ数日続けて来られていることは気になっていました」
レンは正直に答えた。
「ただ、店の決まりを破ったことはなく、ミーナへ無理な要求をしたこともありません」
「ええ。それは分かっています」
アルフレッドも頷く。
「だから、これまで店へ通っていることを止めませんでした。ですが、息子はまだ、自分の気持ちを制御できるほど大人ではありません」
アルフレッドはそう言うと、オスカーの席へ向かった。
「オスカー」
父親の声に、オスカーが驚いて振り返る。
「父上? どうしてここに……」
「今日は帰るぞ」
「まだ帰る時間ではありません」
「家で話をする」
アルフレッドの声は低かったが、客の前で叱りつけることはしなかった。
オスカーは納得できない表情を浮かべる。
「でも、私はまだ――」
「オスカー」
再び名を呼ばれ、オスカーは言葉を止めた。
しばらく父親を見つめた後、渋々席を立つ。
「今日はありがとうございました」
ミーナへ向けた声には、戸惑いと悔しさが混じっていた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
ミーナが答えると、アルフレッドも彼女へ顔を向けた。
「ミーナさん。息子の話を聞いてくださり、ありがとうございます」
「いえ……」
「あなたを責めるつもりはありません。これは私と息子の間で話すべきことです」
その言葉に嘘はなかった。
しかし、オスカーが連日自分を求めて来店していたことは事実であり、ミーナの胸から不安が消えることもなかった。
オスカーは何かを言いたそうに口を開きかけたが、父親の視線に気付いて俯く。
入口へ向かう途中で一度だけ振り返り、心配させまいとするように無理に笑った。
その笑顔が、かえってミーナの胸へ引っ掛かった。
アルフレッドはレンへ頭を下げ、息子と共に店を出ていく。
閉店後、ミーナは不安そうにレンへ尋ねた。
「アルフレッドさんは、私を責めていないと言ってくださいました」
「ああ」
「でも、オスカーさんが毎日来るようになった時、私は嬉しいと思っていました。少しずつ自分から話してくださるようになったことが、嬉しかったんです」
ミーナは膝の上で指を重ねた。
「私が何度も『お待ちしています』と言ったことで、ここへ来ればいつでも受け入れてもらえると思わせてしまったのでしょうか」
「ミーナが悪いわけじゃない」
レンはすぐに答えた。
「接客として間違ったことをしたわけでもない。ただ、相手が言葉をどう受け取っているのかは、俺たちも注意して見ておく必要があった」
連日同じ時間に来店し、酒よりもミーナとの会話を求めるようになっていた。
店の決まりを破っていないからといって、何も考えなくてよかったわけではない。
「これはミーナ一人の責任じゃない。店全体で見ておくべきことだった」
レンが続けると、リリアも隣から静かに口を開いた。
「私たちには普通の言葉でも、相手にとって特別な意味になることがあります」
「では、これから私はどうすれば……」
「今すぐ接客を避ける必要はないよ」
レンは言った。
「ただ、オスカーさんが店やミーナに頼りすぎているなら、距離の取り方を考えよう。ミーナ一人に任せるつもりもない」
ミーナはしばらく俯いた後、静かに頷いた。
一方、帰宅したオスカーは父親から、しばらくClub Moon Dropへ行くことを控えるよう告げられていた。
「なぜですか?」
「今のお前は、仕事より店へ行くことを優先している」
「そんなことはありません」
「では、今日の失敗は何だ」
オスカーは言葉を詰まらせた。
「一度の失敗だけではない。最近のお前は注意をしても話を聞かず、翌日また店へ行くことばかり考えている」
「ミーナさんは関係ありません」
オスカーは初めて父へ強い口調で言い返した。
「彼女は私の話を聞いてくれただけです。何も悪いことはしていません」
「私は、ミーナさんを責めているのではない」
アルフレッドの声は静かだった。
「以前、彼女がどのようにお前へ接していたかも見ている。丁寧に話を聞き、お前が自分から言葉を出すのを待ってくれていた。問題があるのは彼女ではない」
「では、なぜ行ってはいけないのですか?」
「お前自身が、自分の気持ちを抑えられなくなっているからだ」
「違います」
「では、なぜそこまで必死になる」
オスカーは答えられなかった。
父親の言葉を認めたくはない。
だが、ミーナに会えないと考えただけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
「しばらく店へ行くことは禁止する」
「父上!」
「これは家業を継ぐ以前の問題だ。まず、自分の行動を見直せ」
話を終えて自室へ戻ったオスカーは、扉を閉めると強く拳を握った。
父親がミーナを責めていないことは分かった。
それでも、このまま何も言わず店へ行かなくなれば、ミーナは理由を知らないままになる。
突然来なくなった自分を、気にするかもしれない。
せめて事情だけは伝えなければならない。
「明日、ミーナさんにきちんと話さないと」
父の言葉に従うつもりは、まだなかった。
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