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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第4章 育つ店、広がる縁

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第72話 広がる噂とセレナの決意

 カイルが男へ指示を出してから、数日が過ぎていた。


 その間、男はいくつかの酒場や市場へ足を運んでいた。


 最初に選んだのは、商人や荷運び人が多く集まる酒場だった。


 夕方になると、仕事を終えた男たちが酒を求めて集まり、店内には笑い声や大きな話し声が絶えない。取引の話、仕入れの失敗、最近値上がりした品物のこと。酒が進むほど、誰もが他人の事情へ口を挟みたがる。


 男は目立たない席へ座り、近くで話していた商人たちの会話が途切れるのを待った。


「そういえば、昔この辺りと取引していた貴族家の話を聞きましたよ」


 何気ない調子で口を挟むと、向かいに座っていた商人が興味を示した。


「どこの家だ?」


「ヴァレンティーニ子爵家です」


「聞いたことはあるな。もうなくなった家だったか」


「ええ。随分と大きな負債を抱えたそうです」


 男は酒を一口飲み、さりげなく続きを口にする。


「屋敷も領地も失い、最後には爵位だけでなく、家名まで手放したとか」


「家名まで?」


 別の商人が眉を上げた。


「それは相当なことをしたんじゃないのか」


「さあ、そこまでは知りません」


 男は曖昧に笑った。


 本当は知っている。


 屋敷と領地は国へ売却され、その代金によって借金はすべて返済された。爵位と家名も、当主が自ら正式な手続きを経て返還している。


 だが、それを話すようには命じられていない。


「借金を残して逃げたのかもしれないな」


「領地を取り上げられたということもあるだろう」


「家名までなくなるとは、よほど評判の悪いことをしたに違いない」


 商人たちは、自分たちの想像を事実であるかのように語り始めた。


 男は否定しない。


 誰かが新たな言葉を加えるたび、酒を飲みながら小さく相槌を打つだけだった。


 その日は、Club Moon Dropの名を口にしなかった。


 翌日、男は市場で品物を扱う商人たちが集まる、小さな酒場へ向かった。


「没落したヴァレンティーニ家の娘が、この街にいるらしいですよ」


 前日より少しだけ情報を加える。


「娘が?」


「ええ。今は客の相手をする仕事をしているとか」


「元貴族の娘がか?」


「家がなくなれば、生きていくために働くしかないでしょう」


 男はそれ以上を語らなかった。


 聞いた者たちは、どこの店なのか、なぜこの街にいるのかを勝手に考え始める。


 さらに次の日、市場の一角で商談を終えた男たちの近くを通りながら、同じ話を違う形で口にした。


「紹介がなければ入れない店で働いているそうです」


「紹介制の店?」


「最近、商人の間でも評判になっているところですよ」


「まさか、Club Moon Dropか?」


 店の名を最初に口にしたのは、男ではなかった。


 男は足を止め、少し困ったように肩をすくめる。


「どうでしょう。私も人から聞いただけですから」


 肯定も否定もしない。


 だが、その態度は聞いた者にとって、否定よりも強い答えに見えた。


「やはり、あの店なのか」


「客は厳しく選ぶくせに、働いている者の過去は隠しているということか?」


「店主も知っているんだろうな」


 話は、男が口にしていないところまで広がり始めた。


 その日の午後、男は酒商会へ戻り、カイルの執務室を訪れた。


「どうなっている?」


 カイルは書類から顔を上げずに尋ねた。


「少しずつ話がつながり始めています。こちらから店の名を出す前に、Club Moon Dropではないかと気付いた者もいました」


「誰かが確かめに行ったか?」


「まだ、そこまでは。ただ、商人同士の話には出ています」


 カイルはそこで初めて顔を上げた。


「話を急がせるな」


「承知しています」


「こちらから答えを与える必要はない。聞いた者に考えさせろ」


 男は静かに頷いた。


「それと、借金を完済したことを知っている者が現れたら、どうしますか?」


「否定するな」


 カイルは迷わず答えた。


「その者の前では、そうだったのかと初めて聞いた顔をしておけ」


「よろしいのですか?」


「最初に生まれた印象さえ残れば十分だ」


 カイルは机の上へ指を置いた。


「負債を抱えたことも、屋敷と領地を手放したことも、家名を返したことも事実だ。こちらは嘘を言っていない」


「ですが、聞いた者が勝手に話を膨らませています」


「それを止める理由があるか?」


 カイルの口元に薄い笑みが浮かぶ。


「一度に広めれば不自然になる。今まで通り、別々の場所で少しずつ話せ」


「分かりました」


 男が部屋を出ると、カイルは椅子へ背を預けた。


 噂はまだ小さい。


 だが、人の口から口へ移るうちに、話は必ず形を変える。


 自分が新たな嘘を加えなくても、誰かが勝手に悪意を足してくれる。


「信頼を売りにする店ほど、疑われた時は脆い」


 カイルは窓の外を眺めながら、静かに呟いた。


 一方その頃、Club Moon Dropでは、いつも通り昼営業が行われていた。


 店内には数組の客が座り、穏やかな会話と食器の触れ合う音が広がっている。


 レンはカウンターで酒を作り、ロイとディーノが出来上がったものを客席へ運んでいた。


 ルークは金獅子亭から届いた料理の状態を整え、ノアも不足しているものがないか店内へ目を配っている。


 リリア、エルナ、セレナ、ミーナも、それぞれの客を担当していた。


 セレナも普段通り、客の話へ耳を傾け、必要な時に言葉を添えている。


 貸切営業で過去の名を知られてからも、仲間たちは誰一人として詳しい事情を聞こうとはしなかった。


 セレナもまだ、自分から話してはいない。


 レンはそれでいいと思っていた。


 本人が話したいと思った時に聞けばいい。


 それまでは、これまでと同じように接すればいい。


 ただ、ここ数日の夜営業には、一つだけ目立つ変化があった。


 オスカーが毎日のように来店していた。


 父アルフレッドを伴わず、一人で店へ来るようになってから、すでに数日が経っている。


 最初の日は家業の手伝いについて話し、その翌日には帳簿の間違いを見つけて父に褒められたことをミーナへ伝えた。


 昨日は、取引先で自分から挨拶できたことを嬉しそうに報告していた。


 来店する時間も、指名する相手も変わらない。


 家業の手伝いを終えた後、夜営業が始まって少しした頃に現れ、必ずミーナを指名する。


 まだ昼だったが、ミーナは空いた皿を下げながら、ふと入口へ視線を向けた。


 その様子に気付いたリリアが、近くを通りながら声を掛ける。


「今日はまだ昼ですよ」


「え?」


「入口を見ていたので」


 ミーナは一瞬きょとんとした後、少しだけ笑った。


「癖になっていたみたいです」


「毎日、同じ頃に来られますからね」


「はい。今日は何を話してくださるのかなと思っただけです」


 ミーナの声に、深い意味はなかった。


 オスカーが以前より自分から話せるようになったことを、接客する者として素直に喜んでいるだけだった。


 リリアはミーナの表情をしばらく見た後、それ以上は何も言わず、別の席へ向かった。


 昼を少し過ぎた頃、入口の扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 ロイが迎えると、以前から何度も店を利用している正式会員が、一人の男を伴って立っていた。


「今日は知人を連れてきました」


「ありがとうございます」


 紹介された男は四十歳ほどで、商人らしい落ち着いた服装をしていた。初めて訪れる店内を見回しながらも、態度に横柄さはない。


 ロイから報告を受け、レンが入口へ向かった。


「初めまして。Club Moon Dropの店主、レンです」


「初めまして。以前から、この店の話は聞いていました」


「どのような店だと聞いていましたか?」


「酒の種類が多く、客を大切にする店だと」


 男の受け答えは自然だった。


 レンは紹介者との関係や来店した理由を尋ねながら、同時に鑑定を使う。


 表示された情報に問題はない。


 店を探るために来たわけでも、客やスタッフへ害を与えようとしているわけでもなかった。


「分かりました。仮会員としてお迎えします」


「ありがとうございます」


 二人はロイに案内され、入口に近い席へ腰を下ろした。


 男は正式会員から勧められた酒を頼み、運ばれてきたグラスを興味深そうに眺める。


「これが、話に聞いていた酒ですか」


「ええ。まずは飲んでみてください」


 男は一口含み、ゆっくりと味を確かめた。


「これは……確かに、今まで飲んだものとは違う」


 そこから会話は自然に広がっていった。


 レンも酒について尋ねられれば答え、ルークは注文に合わせて金獅子亭から届いた料理を整える。


 ロイとディーノが酒や料理を運び、リリアたちがそれぞれの席で会話を支えていた。


 しばらくして、セレナが二人の席へ料理を運ぶ。


「お待たせいたしました」


 皿を置こうとした時、初来店の男がセレナの顔を見た。


 その視線は、料理を見る時よりも僅かに長かった。


「ありがとうございます」


「どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」


 セレナが離れようとすると、男が声を掛ける。


「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「セレナと申します」


「セレナ……」


 男は、その名を確かめるように繰り返した。


 セレナは僅かな違和感を覚えたものの、表情には出さない。


「何かございましたか?」


「いえ。少し聞き覚えがあるような気がしただけです」


 男は曖昧に笑い、それ以上は何も言わなかった。


 セレナも一礼し、別の席へ向かう。


 しかし、男の視線はその後ろ姿を追っていた。


 紹介者である正式会員が、不思議そうに尋ねる。


「知り合いなのですか?」


「いえ、会ったことはありません。ただ……」


 男は声を落とした。


「商人の間で、少し妙な話を聞きましてね」


「妙な話?」


「没落した貴族家の娘が、この街の紹介制の店で働いているという話です」


 声は小さかった。


 だが、ちょうど空いた皿を下げるため近くを通っていたロイの耳には、その一部が届いた。


「没落した家の娘が……」


 正式会員は眉を寄せる。


「それがセレナさんだというのですか?」


「確かな話ではありません。ただ、名前と店の特徴が一致していたので」


「どこで聞いたのです?」


「酒場で商人たちが話していました。何人かが同じ話をしていたので、少し気になっただけです」


 男はそれ以上語らず、グラスへ口をつけた。


 ロイもその場で会話へ割り込むことはしない。


 皿を下げた後、そのままカウンターへ向かった。


「レンさん」


「どうした?」


 ロイは周囲へ聞こえないよう、声を落とす。


「先ほどのお客様が、セレナさんについて話していました」


「セレナについて?」


「没落した貴族家の娘が、紹介制の店で働いているという噂を聞いたそうです」


 レンの手が一瞬止まる。


「店の名前も出ていた?」


「名前と店の特徴が一致したと言っていました」


 レンは客席へ視線を向けた。


 男は正式会員と普通に話を続けている。セレナへ直接何かを言う様子もない。


「分かった。今はそのまま様子を見よう」


「はい」


「セレナには、営業が終わってから話す」


 ロイは静かに頷き、再び客席へ戻った。


 レンは酒を作りながら、胸の奥に生まれた違和感を整理する。


 あの貸切営業に参加していた者は十二名。


 その中の誰かが話した可能性もある。


 だが、グレゴールはセレナの名を口にしたことを申し訳なさそうにしていた。ほかの者たちも、面白がって広めるようには見えなかった。


 カイルを含め、店を快く思っていない者たちの顔が頭をよぎる。


 しかし、今は証拠がない。


(まだ決めつけるのは早い)


 レンは考えを止め、目の前の注文へ意識を戻した。


 営業中に余計な不安を広げるべきではない。


 その後も、男は店内で問題を起こさなかった。


 セレナへ失礼な質問をすることもなく、酒や料理を楽しんでいる。


 だが、帰り際、入口へ向かう途中で店内を見回し、何気ない口調で呟いた。


「紹介制の店でも、知らないことはあるものなのですね」


 レンは男へ視線を向ける。


「それは、先ほど話されていた噂のことでしょうか」


 男は問い返されるとは思っていなかったのか、僅かに目を見開いた。


「聞こえていましたか」


「一部だけですが」


「申し訳ありません。悪意があったわけではありません」


 紹介者の正式会員が、男へ厳しい視線を向ける。


「確かではない話を、店で口にするべきではないでしょう」


「おっしゃる通りです」


 男はレンへ頭を下げた。


「噂を聞き、気になってしまっただけです」


「その話を、どこで聞いたかだけ教えていただけますか」


「市場近くの酒場です。誰が最初に話したのかまでは分かりません」


「分かりました」


 レンはそれ以上問い詰めなかった。


 二人を見送った後、ロイがレンのそばへ来る。


「店の名前まで広まり始めていますね」


「ああ」


 噂は、まだ街全体へ広がっているわけではない。


 だが、複数の商人が話題にする程度には動き始めている。


 しかも語られているのは、ヴァレンティーニ家の詳しい事情ではない。


 家が没落したこと。


 家名を失ったこと。


 その娘がClub Moon Dropで働いていること。


 都合のいい部分だけが、切り取られていた。


 セレナは何も知らないまま、別の客へ穏やかに笑いかけている。


 レンはその姿を見つめた後、静かに息を吐いた。


「昼営業が終わったら、全員で話そう」


 ロイは真剣な表情で頷いた。


 やがて最後の客が席を立ち、昼営業が終わる。


 入口の扉が閉じられ、店内に静けさが戻った。


 レンは片付けを始めようとする仲間たちへ声を掛けた。


「みんな、少し話がある」


 レンの声に、仲間たちが手を止める。


 リリア、エルナ、セレナ、ミーナが客席の中央へ集まり、ロイとディーノも受付を離れた。ルークは厨房の入口に立ち、ノアも皿を置いてレンへ視線を向ける。


 誰も軽い話ではないと気付いていた。


 レンはセレナの顔を一度見た後、昼営業中に起きたことを順番に説明する。


 初めて来店した仮会員が、商人たちの間で妙な噂を聞いたと話していたこと。


 没落した貴族家の娘が、紹介制の店で働いているという内容だったこと。


 すでにClub Moon Dropの名前とセレナが結び付けられ始めていること。


 話を聞く間、セレナは何も言わなかった。


 ただ、膝の上で重ねた指へ、少しずつ力が入っていく。


「その方は、ほかに何か言っていましたか?」


「詳しい事情は知らないみたいだった」


 レンは答える。


「市場近くの酒場で、商人たちが話していたらしい」


「そうですか」


 セレナは静かに目を伏せた。


 エルナが心配そうに彼女を見る。


「貸切営業に来られた方の誰かが、話したのでしょうか」


「まだ分からない」


 レンは首を横へ振った。


「偶然聞いた者が話した可能性もあるし、誰かが意図的に広めている可能性もある」


 しばらく沈黙が続いた後、セレナが口を開いた。


「私がここにいることで、お店の評判を落としてしまうかもしれません」


「それは違う」


 レンはすぐに言った。


 セレナが顔を上げる。


「セレナが何か悪いことをしたわけじゃない。店に迷惑を掛けたわけでもない」


「ですが、私の過去が知られなければ、このような噂も――」


「過去があることと、それを都合よく使うことは別だよ」


 レンの声は静かだったが、迷いはなかった。


「悪いのは、事情を知ろうともせずに話を広める人間だ」


 セレナは何かを言おうとしたものの、すぐには言葉が出なかった。


 リリアも穏やかに続ける。


「私たちは、セレナさんがここでどのように働いてきたかを知っています」


「過去を知らなかったからといって、今まで見てきたものまで変わることはありません」


 ロイやディーノたちも頷いた。


 その表情に、同情や疑いはない。


 セレナは一人ずつ仲間の顔を見た。


 これまでは、自分から詳しく話す必要はないと思っていた。


 元貴族の娘だったことも、家がなくなった理由も、現在の仕事には関係がない。


 同情されたくなかった。


 過去の身分によって特別扱いされることも望んでいなかった。


 だが、自分が黙ったままでいれば、誰かが切り取った言葉だけが真実として残る。


 Club Moon Dropの仲間たちまで、その噂に巻き込まれてしまう。


 セレナは一度深く息を吸った。


「皆さんに、お話ししておきたいことがあります」


 全員が黙って耳を傾ける。


「ヴァレンティーニ家は、小さな領地を治める子爵家でした」


 セレナはゆっくりと過去を語り始めた。


 父は領民や使用人を大切にし、身分によって人への態度を変えない人物だった。


 ただ、人を疑うことが苦手でもあった。


「私は、それを父の優しさだと思っていました。今でも、間違っていたとは言い切れません」


 領地で不作が続いた時も、父は領民の税を増やさなかった。生活が苦しくなっている者たちから、これ以上取り立てることはできないと考えたからだ。


 不足した金は借金で補った。


 その後、領地を立て直すため、信頼していた商人から持ち掛けられた交易事業へ多くの資金を投じた。


「ですが、その事業は失敗しました」


 商人は預けられた資金の多くを持ったまま姿を消した。


 不作による借金に交易事業の損失が重なり、家の財産だけでは返済できなくなった。


「父は、借金を残したまま逃げることを選びませんでした」


 セレナの声が、僅かに強くなる。


「屋敷と領地を国へ売却し、その代金ですべて返済しました」


 借金は残っていない。


 誰かへ支払いを押し付けたわけでもない。


 その後、父は子爵位とヴァレンティーニの家名を国へ返還し、自ら家を終わらせた。


「ですから、今はヴァレンティーニ子爵家という家は存在しません」


 誰も言葉を挟まなかった。


 セレナの声だけが、昼営業を終えた店内へ静かに響いていた。


「家を失った後も、私は両親と暮らすことができました」


 両親は元貴族として、残された金で静かに暮らしていた。


 セレナもそこに留まれば、すぐに生活へ困ることはなかった。


「でも、それでは何も変わらないと思ったんです」


 家がなくなっても、親に守られたまま暮らす。


 それはセレナ自身が望む生き方ではなかった。


「私は親元を離れ、自分の力で生きるために、この街へ来ました」


 初めて訪れた街で、頼れる知人はいなかった。


 過去の家名を使うつもりもなかった。


 自分に何ができるのかも分からないまま、働ける場所を探した。


 そしてClub Moon Dropと出会った。


「元貴族だったから、この店にいるのではありません」


 セレナはレンと仲間たちをまっすぐに見る。


「私は自分の意思で、この店のキャストになりました」


 言葉を終えると、店内に短い沈黙が落ちた。


 最初に口を開いたのはレンだった。


「話してくれて、ありがとう」


「……はい」


「でも、何も変わらないよ」


 レンは穏やかに笑う。


「俺たちが知っているのは、ここで一緒に働いてきたセレナだから」


 ミーナも大きく頷いた。


「セレナさんが自分で選んだ場所なら、誰かに否定される理由はありません」


 エルナも、リリアも、ほかの仲間たちも同じだった。


 過剰に慰める者はいない。


 かわいそうだと口にする者もいない。


 ただ、いつもと変わらない仲間として受け入れていた。


「ありがとうございます」


 セレナの声が僅かに震えた。


 レンは噂への対応について話を戻す。


「今すぐ大きく反論するのはやめようと思う」


「何もしないのですか?」


 ディーノが尋ねる。


「何もしないわけじゃない。店で聞かれた時は、事実を説明する」


 誰が噂を流しているか分からない状態で大きく反応すれば、かえって知らない者にまで話を広げることになる。


「ロイとディーノは、来店した人の言動を少し注意して見てほしい」


「分かりました」


「任せてください」


「それから、セレナ」


「はい」


「無理に説明する必要はない。客に聞かれても、答えたくない時は答えなくていい」


 セレナは一瞬考えた後、静かに頷いた。


「ですが、逃げるつもりもありません」


「分かった」


 レンはそれ以上止めなかった。


 短い休憩を終え、全員が夜営業の準備へ戻る。


 店内の照明が灯されると、セレナもいつも通り身支度を整え、客席へ向かった。


 不安が消えたわけではない。


 それでも、自分がこの店にいる理由を仲間へ伝えられたことで、その足取りに迷いはなかった。


 夜営業が始まってしばらくすると、入口の扉が開いた。


「こんばんは」


 現れたのはオスカーだった。


 これで数日続けての来店になる。


「こんばんは、オスカーさん」


 ロイは普段通り迎えながらも、毎晩ほぼ同じ時間に訪れていることを意識した。


「本日もミーナさんをご希望ですか?」


「はい。お願いします」


 オスカーは迷わず答える。


 ミーナも笑顔で席へ向かい、いつものようにその日の出来事へ耳を傾け始めた。


「今日は、父の代わりに取引先の方へ書類を渡しました」


「一人で行かれたんですか?」


「はい。最初は緊張しましたが、きちんと挨拶もできました」


「また一つ、できることが増えましたね」


 ミーナが笑うと、オスカーも嬉しそうに頷いた。


 酒を楽しむよりも、その日の出来事をミーナへ話すことが、来店の目的になりつつある。


 それでも、無理な要求をするわけではない。


 店の外で会いたいと言うこともなく、会員として決まりを守っている。


 まだ、誰も問題とは考えていなかった。


 店内ではセレナが自分の過去と向き合い、そのすぐ近くでは、別の変化が静かに続いていた。


 一方、市場近くの酒場では、ヴァレンティーニ家の噂がさらに形を変えていた。


「没落した家の娘を、店主が客寄せに使っているらしい」


「元貴族の娘だと隠し、珍しがる客を集めているそうだ」


 カイルが指示していない言葉まで、すでに付け加えられていた。


 その噂を、離れた席に座っていたグレゴールが耳にする。


 ヴァレンティーニ家が借金を残して逃げたかのような話。


 セレナが過去を隠し、客を欺いているかのような言葉。


 どれも、彼が知る事実とは異なっている。


 グレゴールは手にしていたグラスを静かに置いた。


「随分と妙な話になっているな」


 近くで噂を話していた商人たちが、グレゴールへ視線を向ける。


「何かご存じなのですか?」


「少なくとも、ヴァレンティーニ家が借金を踏み倒したという話は事実ではない」


 グレゴールは落ち着いた声で答えた。


「私たち酒商会への支払いも、最後まですべて済ませている」


「ですが、屋敷も領地も失ったと」


「失ったのではない。借金を返すため、国へ売却したのだ」


 商人たちの間に、短い沈黙が落ちる。


「では、誰がこの話を……」


「それを知りたいところだ」


 グレゴールは、噂を最初に誰から聞いたのか、一人ずつ尋ね始める。


 だが、商人たちの答えは曖昧だった。


 市場で聞いた。


 別の酒場で聞いた。


 知り合いの商人が話していた。


 誰も最初に口にした人物を知らない。


 それでも、同じ話が複数の場所から広がっていることだけは分かった。


 偶然生まれた噂とは考えにくい。


 誰かが意図的に、事実の一部だけを広めている。


 グレゴールは席を立った。


「少し調べる必要がありそうだな」


 Club Moon Dropでは、まだ誰が噂を流しているのか分からない。


 カイルもまた、グレゴールが動き始めたことには気付いていなかった。


 切り取られた真実が街を巡る中、その出所を追う者が、静かに最初の一歩を踏み出していた。

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