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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第4章 育つ店、広がる縁

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第71話 仕組まれる噂と一人で訪れた少年

 貸切営業の翌朝、カイルは酒商会の建物へ入ると、普段使っている執務室には向かわず、古い帳簿や取引記録が保管されている資料室へ足を運んだ。


 まだ早い時間ということもあり、建物の中に人の気配は少ない。長い廊下にはカイルの靴音だけが響き、資料室の扉を開けると、古い紙と木の棚が放つ乾いた匂いが鼻をかすめた。


 昨夜、Club Moon Dropで耳にした名が、頭から離れない。


 セレナ・ディ・ヴァレンティーニ。


 かつて存在した子爵家の娘が、なぜ今は紹介制の店で客の相手をしているのか。


 その過去が、あの店に利用できるものなのか。


 カイルは棚に並ぶ帳簿の背表紙を指でたどり、数年前の記録を取り出した。酒商会は長年、商人だけでなく多くの貴族家とも取引を続けてきた。ヴァレンティーニ子爵家の名も、古い記録のどこかに残っているはずだった。


 分厚い帳簿を机へ置き、頁を一枚ずつめくっていく。


 やがて、探していた家名が見つかった。


 ヴァレンティーニ子爵家。


 記録には、屋敷へ納めた酒の種類と量、代金、支払日が細かく記されている。取引が始まった頃は注文量も多く、支払いが遅れた形跡もない。


 晩餐会や来客が増える時期には、普段より多くの酒が納められていた。


 グレゴールが話していた内容とも一致する。


 しかし、何年か後の頁から注文量が少しずつ減り始めていた。支払いまでの日数も以前より長くなり、やがてヴァレンティーニ家の名は帳簿から完全に消える。


「ここからか」


 カイルは別の記録を棚から取り出した。


 そこには、商会と取引のあった貴族家や商人の状況が簡潔にまとめられている。


 ヴァレンティーニ家は一時、多額の負債を抱えた。


 その後、屋敷と領地を国へ売却し、得た金によって負債はすべて返済されている。


 さらに当主は、子爵位とヴァレンティーニの家名を国へ返還していた。


 カイルの眉がわずかに動く。


「借金は残していないのか」


 未払いを残して逃げたわけではない。


 家に残されたものをすべて手放し、返すべき金を返した上で、自ら子爵家を終わらせている。


 責任を果たしたと受け取る者もいるだろう。


 だが、カイルは帳簿へ視線を落としたまま、別の言葉を頭の中で並べていく。


 多額の負債を抱えた子爵家。


 屋敷と領地を失った一族。


 爵位だけでなく、家名まで国へ返還して消滅した家。


 そして、かつてその家の娘だった女が、今は素性を伏せて紹介制の店で働いている。


 記録に嘘はない。


 ただし、どこまで話すかによって、受け取る側の印象は変わる。


 借金を完済したことまで、最初から語る必要はない。


 カイルは帳簿を閉じると、資料室を出た。


 自分の執務室へ戻り、商会で雑用を請け負っている一人の男を呼び寄せる。その男は商人の集まる酒場や市場に顔が広く、聞いた話を別の場所へ運ぶことにも慣れていた。


「お呼びでしょうか」


「ああ。少し頼みたいことがある」


 カイルは椅子へ深く腰を掛けた。


「ヴァレンティーニ子爵家という名を知っているか?」


「以前、この辺りにも取引へ来ていた貴族家だったかと。もうなくなったとは聞いています」


「それで十分だ」


 男は黙って続きを待つ。


「多額の負債を抱え、屋敷と領地を失い、家名まで手放した。その家の娘が、今この街で働いているらしい」


「どちらの店でしょうか」


「紹介制を掲げているClub Moon Dropだ」


 男の目に僅かな驚きが浮かぶ。


「評判の店ですね」


「だからこそだ」


 カイルは机の上で指を組んだ。


「最初から店の名を前へ出す必要はない。まずは、消滅した貴族家の娘が素性を隠して客の相手をしている、とだけ話せ」


「その後で店の名を混ぜるのですか?」


「ああ。ただし、一度に広めるな」


 別々の酒場。


 違う商人の集まり。


 市場で交わされる何気ない会話。


 いくつかの場所で同じ話が聞かれるようになれば、誰かが意図して流した噂ではなく、人から人へ自然に伝わった話に見える。


「Club Moon Dropは客を選ぶ店だが、働く者の過去については何も明かしていないらしい。店主も事情を知りながら黙っていた。その程度でいい」


「借金は、今も残っているのでしょうか」


 男の問いに、カイルは一瞬だけ目を細めた。


「そこまで詳しく話す必要はない」


「承知しました」


「嘘を加えるな。だが、余計なことも話すな」


 男は意味を理解したように頷いた。


「急ぐ必要はない。今日中に広めようとするな」


「少しずつ、ですね」


「ああ」


 男が部屋を出ると、カイルは椅子へ背を預けた。


 Club Moon Dropが信頼を重んじる店であるほど、そこで働く者の素性を隠していたという疑いは効く。


「さて……どう出る?」


 カイルの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


 一方その頃、Club Moon Dropでは、レンたちがいつも通り昼営業の準備を始めていた。


 昨夜、初めての貸切営業を終えたばかりだというのに、店内の空気は普段と大きく変わらない。


 ロイとディーノは受付で昨日の流れを振り返り、次に同じ人数を迎える時に改善できる点を話し合っている。


「後半は、かなり落ち着いていましたね」


 ロイに言われ、ディーノは少し照れたように笑った。


「最初は名前を間違えないことで精いっぱいでした」


「それでも、途中から周りを見られていました」


「ありがとうございます。次は最初からできるようにします」


 厨房ではルークが金獅子亭から届いた料理を確認し、ノアは必要な皿や布巾を揃えている。


 リリア、エルナ、ミーナも、それぞれ開店前の準備を進めていた。


 セレナも普段と変わらず、棚から必要な小物を取り出している。


 昨夜、グレゴールの言葉によって過去の名が知られた。


 それでも、誰もその続きを尋ねなかった。


 セレナも自分から話そうとはせず、目の前の仕事へ静かに手を動かしている。


 レンはカウンターからその姿を見たが、何も言わなかった。


 本人が話したいと思った時に聞けばいい。


 それまでは、いつも通りでいい。


 やがて開店の時間となり、店の外から近づいてきた二人分の足音が入口の前で止まった。


 扉が開き、ロイが顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


 先に店内へ入ってきたのはバルドだった。


「こんにちは、ロイさん」


「こんにちは、バルドさん」


 その後ろには、昨日の貸切営業にも参加していた男が立っている。


 五十歳前後に見える、落ち着いた雰囲気の男だった。昨日はほかの幹部たちと酒を楽しんでいたため、レンも顔には見覚えがある。


「レンさんはいらっしゃいますか?」


「はい。少々お待ちください」


 ロイから声を掛けられ、レンはカウンターの中から入口へ向かった。


「こんにちは、バルドさん」


「こんにちは、レンさん。昨日はありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 バルドは隣に立つ男へ視線を向ける。


「昨日も同席していた商会の幹部です。本人がこちらの店を気に入ったようでしてね」


 紹介された男が一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。


「昨日は大変楽しませていただきました。今後は私個人でも利用させていただきたいと思いまして」


「私の紹介で、仮会員として迎えていただけないでしょうか」


 レンは男の顔を見ながら、簡単な言葉を交わした。


「昨日はどのお酒が気に入りましたか?」


「最初にいただいたビールも良かったですが、後半に出していただいた蒸留酒が印象に残っています。香りが強いのに、口当たりは思っていたより柔らかかった」


「料理との組み合わせはいかがでしたか?」


「よく合っていました。酒だけを目立たせるのではなく、料理と一緒に楽しませる店なのだと感じました」


 受け答えに不自然なところはない。


 レンは会話を続けながら、男へ鑑定を使った。


 表示された情報にも問題はなく、店や客へ害を与える意思も見られない。


「分かりました。仮会員としてお迎えします」


「ありがとうございます」


 男は安堵したように表情を緩めた。


 ロイが登録の確認を進め、バルドと男を客席へ案内する。


 昨日は十二名で賑やかに利用していたが、今日は二人だけだ。貸切営業の時とは違い、周囲の席にもほかの客が座っている。


 それでもバルドは慣れた様子で椅子へ腰を下ろし、男も店内をゆっくりと見回していた。


「昨日とは、また雰囲気が違いますね」


「普段はこのような空気です」


 席へ挨拶に来たリリアが穏やかに答える。


「貸切の時より静かですが、お客様同士の会話が自然に混ざることもあります」


「それも面白そうですね」


 男はそう言って、最初の酒を注文した。


 レンは昨日の好みを思い出し、香りが強すぎず、昼からでも飲みやすい酒を勧める。


「昨日の蒸留酒よりも軽いものになります。香りはありますが、口当たりは穏やかです」


「では、それをお願いします」


 バルドも同じものを頼み、出来上がった酒をロイが二人の席へ運んだ。


 男は一口飲むと、すぐには感想を口にせず、香りを確かめるようにゆっくりとグラスを傾けた。


「確かに、昨日のものとは違いますね」


「こちらの方が昼には合うでしょう?」


 バルドが笑う。


「ええ。これなら料理も選びやすい」


 二人は酒商会の仕事や、最近入荷した酒について話し始めた。


 レンはカウンターで注文を受けながら、ときどき会話へ加わる。


 酒を長く扱ってきた二人だけあり、質問は味や香りだけに留まらなかった。


「同じ酒でも、注ぎ方で香りが変わるものですか?」


「変わります。グラスの形や注ぐ量でも感じ方は違います」


「昨日も、酒ごとにグラスが違っていましたね」


「飲み方に合わせて変えています」


 レンが答えると、男は感心したようにグラスへ目を落とす。


「酒そのものだけではなく、飲ませ方まで考えているのですね」


「せっかくなら、一番楽しめる形で飲んでいただきたいので」


 その言葉に、バルドは満足そうに頷いた。


 やがて金獅子亭から届いた料理が運ばれる。


 ルークが酒の進み方を見ながら状態を整え、ディーノが二人の前へ皿を置いた。


 男は料理を一口食べた後、もう一度酒を飲む。


「昨日も感じましたが、合わせ方がよく考えられている」


「ルークさんが、料理を出す順番も見てくれています」


 バルドの言葉に、男は厨房の方へ視線を向けた。


「店主一人だけで成り立っている店ではないのですね」


「はい」


 レンは短く答えながら、店内を見渡した。


 ロイとディーノが客席を回り、リリアたちが会話を支える。ルークとノアも、それぞれ自分の役割を果たしている。


 しばらくして、セレナが二人の席へ料理を運んだ。


「お待たせいたしました」


「ありがとうございます」


 男はセレナの顔を見たが、昨日のことには触れなかった。


 特別な気遣いを見せるわけでも、過去について尋ねるわけでもない。


「この料理には、今の酒で合っていますか?」


「はい。ですが、もう少し濃い味がお好みでしたら、次は別のお酒もおすすめできます」


「それは楽しみですね」


 セレナも普段通りに答え、料理の説明を終えると静かに席を離れた。


 昨日、本名を知られた相手の前でも、セレナの接客は変わらない。


 男の方も、彼女を過去の身分ではなく、この店のキャストとして扱っていた。


 昼営業は穏やかに進んだ。


 バルドが連れてきた男も、いくつかの酒と料理を試し、最後まで落ち着いた時間を過ごしている。


 帰る頃には、最初に来た時よりも表情が柔らかくなっていた。


「今日はありがとうございました」


「楽しんでいただけましたか?」


「はい。昨日は大勢だったので分からなかった部分も、今日はよく見えました」


 男は店内を振り返る。


「酒も料理も良いですが、落ち着いて話せる空気が気に入りました。また伺わせてください」


「お待ちしております」


 レンが答えると、男は丁寧に頭を下げた。


 バルドも満足そうに笑う。


「また一人、こちらを気に入る者が増えましたね」


「紹介していただき、ありがとうございます」


「良い店を紹介しただけですよ」


 二人を見送った後、レンは静かに息を吐いた。


 昨日の貸切営業が、ただ一晩成功しただけでは終わらなかった。


 その場にいた者が店を気に入り、また来たいと思ってくれた。


 やがて昼営業も終わり、最後の客を見送る。


 スタッフたちは短い休憩を取り、夜営業へ向けた準備を始めた。


 ルークは料理の状態を確認し、ノアは客席を整える。ロイとディーノも受付周りを確認していた。


 リリアたちは身支度を整え直し、それぞれ夜営業へ気持ちを切り替えていく。


 日が沈み、店内の照明が灯された。


 夜営業が始まって間もなく、入口の扉が開く。


 ロイが顔を上げる。


 そこに立っていたのは、父親を伴わず一人でやって来たオスカーだった。


「こんばんは、オスカーさん」


 ロイが声を掛けると、オスカーは少し緊張した様子で頭を下げた。


「こんばんは」


「本日はお一人ですか?」


「はい」


 返事は短かったが、前回来店した時よりも声ははっきりしていた。


 ロイは登録されている名前を確認する。


 オスカーはアルフレッドの紹介によって仮会員となっている。一人で来店することに問題はない。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


「ありがとうございます」


 オスカーが店内へ足を踏み入れる。


 カウンターに立っていたレンも、その姿に気付いた。


 前回は父親の隣で店内を見回し、何をするにもアルフレッドの様子を確かめていた。今日は頼れる相手が隣にいないためか、肩には少し力が入っている。


 それでも、自分の意思でここまで来たことは表情から伝わってきた。


「こんばんは、オスカーさん」


「こんばんは、レンさん」


「一人で来てくれたんですね」


「はい。仮会員なら、一人でも入れると父から聞いたので」


「ゆっくりしていってください」


「ありがとうございます」


 ロイが希望する席を尋ねると、オスカーは一度客席へ視線を向けた。


「その……前回と同じ方にお願いできますか?」


「ミーナですね」


「はい」


 ロイは頷き、ミーナへ合図を送った。


 別の席で会話を終えたミーナが入口側へ目を向け、オスカーの姿に気付く。


 少し驚いた表情を見せたものの、すぐにいつもの笑顔へ戻り、席へ向かった。


「こんばんは、オスカーさん」


「こんばんは」


「今日は一人で来てみようと思ったんですか?」


「はい。少し緊張しましたけど」


「でも、ちゃんと来られましたね」


 ミーナはオスカーの向かいへ座り、最初の注文を確認する。


 オスカーは前回と同じ酒を頼んだ。


 レンが酒を用意し、ディーノが席へ運ぶ。


「お待たせいたしました」


「ありがとうございます」


 オスカーはグラスを受け取ると、前回教わった通りに香りを確かめてから、ゆっくりと口をつけた。


「覚えていたんですね」


 ミーナが言うと、オスカーは僅かに照れたように笑う。


「前に教えてもらったので」


「気に入っていただけたなら嬉しいです」


 最初こそ会話には短い間があった。


 しかし、前回のようにアルフレッドが話題を作るのを待つのではなく、オスカーは自分から言葉を探していた。


「今日は、父の仕事を少し手伝ってきました」


「どんなお仕事をされたんですか?」


「取引先へ届ける品の数を確認しました。帳簿に書かれた数と、実際の数が合っているかを見る仕事です」


「難しそうですね」


「数えるだけなら難しくありません。でも、間違えたら父だけではなく、働いている人たちにも迷惑を掛けます」


 オスカーはグラスを見つめる。


「父は、将来は私が商売を継ぐものだと思っています」


「オスカーさんも、継ぎたいと思っているんですか?」


「分かりません」


 迷いを隠さない答えだった。


「父の仕事は立派だと思います。でも、父のように人と話すことができません。商談へ一緒に行っても、何を言えばいいのか分からなくなってしまって」


 ミーナはすぐに励ます言葉を返さず、オスカーが続きを話すのを待った。


「相手が私を見ていると、失敗してはいけないと思ってしまいます。そうすると、余計に何も言えなくなるんです」


「でも今日は、一人でここまで来られましたよ」


 オスカーが顔を上げる。


「前に来た時よりも、たくさんお話ししてくださっています」


「そうでしょうか」


「はい。私から聞かなくても、オスカーさんから話してくれました」


 ミーナは穏やかに笑う。


「すぐにお父様と同じようにならなくてもいいと思います。少しずつ話せるようになれば、それも立派な前進です」


 オスカーはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「ありがとうございます」


 その後も、オスカーは家業のことや、普段どのような勉強をしているのかを話した。


 ミーナは相手の言葉を急かさず、ときどき質問を挟みながら聞いている。


 酒が進む速度は遅かった。


 オスカーは酒を飲むことより、ミーナとの会話に意識を向けているように見える。


 レンもリリアも、その様子には気付いていた。


 しかし、気に入ったキャストを指名し、会話を楽しむために来店することは珍しくない。


 オスカーが無理に距離を縮めようとしているわけでも、ミーナが店の外へ誘っているわけでもなかった。


 夜営業が進み、ほかの席でも穏やかな会話が続く。


 エルナとセレナはそれぞれの客を担当し、リリアは店内全体へ目を配っていた。


 ロイとディーノが酒や料理を運び、ルークは客の進み具合に合わせて金獅子亭から届いた料理を整えて送り出す。


 やがて、オスカーが帰る時間になった。


「今日はありがとうございました」


 席を立ったオスカーが、ミーナへ頭を下げる。


「こちらこそ、ありがとうございました」


 オスカーは入口へ向かいかけたが、途中で足を止めた。


「あの」


「はい?」


「また一人で来てもいいですか?」


 ミーナは自然に頷いた。


「もちろんです。お待ちしています」


 接客としては、ごく普通の返事だった。


 それでも、オスカーの表情は明るくなる。


「ありがとうございます」


 オスカーはロイとレンにも挨拶をして、店を後にした。


 扉が閉じた後、ミーナは僅かに笑みを残したまま、使い終えたグラスを片付け始める。


「前より、よく話してくれました」


 近くへ来たリリアへ、ミーナがそう言った。


「一人で来られたことが、自信になったのかもしれませんね」


「はい。楽しんでくださったなら良かったです」


 ミーナは、自分の接客によって緊張していた客が少しでも楽に話せたことを、素直に喜んでいた。


 夜営業はその後も大きな問題なく進み、最後の客を見送る。


 スタッフたちはいつも通り片付けを始めた。


 セレナも何事もなかったように客席を整え、ほかの仲間たちも昨夜の過去について尋ねることはなかった。


 一方、店から少し離れた夜道を、オスカーは一人で歩いていた。


 父がいなくても店へ入れた。


 ミーナとも、自分から話すことができた。


 帰り道を歩く間も、先ほど聞いた声が何度も耳の奥に蘇る。


『もちろんです。お待ちしています』


 オスカーは少しだけ歩調を速めた。


 またClub Moon Dropへ行きたいという気持ちは、前回よりも強くなっていた。


 そして同じ頃、カイルから指示を受けた男は、夜の街を歩いていた。


 商人が多く集まり、酒が入れば誰もが口を軽くする酒場。


 市場で働く者たちが、一日の終わりに立ち寄る店。


 一度に広める必要はない。


 まずは、誰か一人の耳へ入ればいい。


 男は人の声が漏れる酒場の扉へ手を掛けた。


 Club Moon Dropの誰も、その動きを知らない。


 穏やかに終わった一日の裏で、それぞれ異なる二つの変化が、静かに始まっていた。

お読みいただきありがとうございます。

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