第70話 貸切営業と過去
貸切営業当日の朝、レンは普段より少し早くClub Moon Dropへ入った。
まだ誰もいない店内には、昨夜の営業を終えた後の静けさが残っている。窓から差し込む朝の光が整えられた客席を照らし、磨かれたテーブルやカウンターの表面で柔らかく反射していた。
レンは入口から店内を見渡した後、カウンターの中へ入る。
棚に並べられたグラスを一つずつ手に取り、曇りや汚れが残っていないかを確かめる。続いて酒の残量を確認し、昼営業だけでなく、今夜の貸切営業で使う分まで十分に揃っていることを確かめた。
酒を量るための道具や予備の布巾、カウンター周りの備品にも問題はない。
昨日までに全員で準備を進めていたこともあり、目立った不足は見当たらなかった。
(いよいよ今日か。)
今夜Club Moon Dropを訪れるのは、バルドが率いる酒商会の幹部十二名。
一つの団体による貸切営業は、今回が初めてだった。
しかも、客は長年酒を扱ってきた者たちばかりだ。酒の味だけでなく、提供する順番や料理との相性、店内での振る舞いにも自然と目が向くだろう。
それでも、普段と違うことをしようとは思っていなかった。
昨夜、レオナルド・フォン・バレンティから掛けられた言葉が、今もレンの胸に残っている。
特別なことをする必要はない。
いつも通りに客を迎えればいい。
やがて入口の扉が開き、ロイとディーノが店内へ入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう、二人とも」
ロイは普段と変わらない落ち着いた様子だったが、ディーノは客席を見渡した後、小さく息を吐いた。
「いよいよ今日ですね」
「ああ。少し緊張してる?」
「少しだけです。十二名全員を間違えずに迎えられるかと思うと」
「名簿を見ながら確認すれば大丈夫だよ。それに、一人で対応するわけじゃない」
レンの言葉に、ロイも静かに頷いた。
「昨日までに受付の流れは確認しています。焦らず進めれば問題ありません」
「はい」
ディーノの肩から、わずかに力が抜けた。
その後、ルークとノアが到着し、続いてリリア、エルナ、セレナ、ミーナも店へ入ってきた。
全員が揃うと、静かだった店内へいつもの朝の空気が戻ってくる。
ルークは挨拶を終えると厨房へ向かい、金獅子亭から届いた料理の状態を確認し始めた。
昼営業で提供するものと、夜の貸切営業で使用するものを分け、それぞれの量や状態を確かめていく。提供前に温め直すもの、そのまま出すもの、盛り付けを整えるものも一つずつ確認していた。
ノアは皿や予備の布巾を数え、決められた場所へ収めていく。
リリアたちも身支度を整えると、開店前の準備へ入った。
エルナは客席を順番に見て回り、テーブルに汚れが残っていないか、椅子の向きが乱れていないかを確認していく。気付いた場所は自分で布を取り、丁寧に拭き直していた。
「こちらは終わりました」
エルナが声を掛けると、リリアが店内を見渡す。
「ありがとうございます。では、入口側もお願いします」
「はい」
エルナはすぐに次の場所へ移り、椅子を一脚ずつ整えていった。
以前であれば、指示された仕事を終えた後、次に何をすればいいのか迷うこともあった。
今では周囲を見ながら、自分にできることを自然に探せるようになっている。
(エルナも随分変わったな)
レンがそう思っていると、エルナは小物を確認していたミーナへ声を掛けた。
「そちらは足りていますか?」
「はい。ただ、入口側の分が少ないかもしれません」
「では、私が持っていきます」
「ありがとうございます」
エルナは必要な分を受け取り、そのまま入口側の準備へ戻っていった。
少し離れた場所では、セレナがリリアと共に昼営業で使うものを確認し、足りないものを棚から取り出している。
準備が一段落すると、レンは全員へ店の中央に集まるよう声を掛けた。
「今日は十二名のお客様を迎える」
スタッフたちの視線がレンへ集まる。
「でも、人数が増えても、俺たちがすることは変わらない」
レンは一人ずつ仲間の顔を見た。
最初は自分の役割を果たすだけで精いっぱいだった者たちも、今では周囲の動きを見ながら、必要な場所を自然に支えられるようになっている。
「いつものClub Moon Dropを届けよう」
「はい!」
全員の返事が、開店前の店内へ力強く響いた。
やがて昼営業の時間となり、入口の扉が開かれる。
夜が貸切だからといって、昼の客への接客を疎かにするつもりはない。
最初に訪れたのは、以前にも何度か足を運んでいる正式会員だった。その後も仮会員を伴った客が続き、店内には少しずつ穏やかな会話が広がっていく。
リリア、エルナ、セレナ、ミーナは、それぞれの席で接客を始めた。
エルナは二人組の客を担当し、相手の会話を遮らないよう様子を見ながら、必要な時にだけ言葉を添えていく。
「こちらのお料理は、今お飲みのお酒ともよく合いますよ」
「それなら頼んでみよう」
「かしこまりました」
エルナは軽く頭を下げ、近くにいたロイへ注文を伝えた。
料理が届くまでの間も、客の話へ静かに耳を傾け、会話が途切れた時には自然に別の話題を差し出している。
以前よりも表情に余裕があり、相手の反応を見ながら距離を調整できるようになっていた。
レンはカウンターで酒を作りながら、その様子を見守る。
(接客にも慣れてきたみたいだな)
店内ではロイとディーノが酒や料理を運び、ルークは客席の進み具合を見ながら料理を整えていた。
ノアも不足しているものがないか、静かに店内を見回っている。
セレナとミーナも、それぞれ担当する客の話へ耳を傾け、穏やかに接客を続けていた。
昼営業は大きな問題もなく進み、最後の客を見送った頃には、窓から差し込む光も少しずつ傾き始めていた。
「昼営業、お疲れ様」
レンの声に、全員が一度手を止める。
短い休憩を取った後、貸切営業へ向けた準備が始まった。
昼営業で使用していた客席を、十二名が会話しやすい形へ整えていく。全員を一つの長いテーブルへ集めるのではなく、いくつかの会話が自然に生まれ、それぞれへキャストが対応できる配置にする。
エルナはリリアと相談しながら椅子とテーブルを動かし、料理や酒を運ぶ者が通れる幅を確かめていった。
「こちらを少し動かした方が、通りやすそうです」
「そうですね。反対側との間隔も見てみましょう」
二人は実際に席の間を歩きながら、無理なく移動できるかを確認する。
セレナとミーナは整えられた席へ必要な小物を置き、椅子の向きを揃えていった。
ノアは予備の皿や布巾を客席の近くへ移し、ルークは厨房で金獅子亭から届いた料理の種類、状態、提供する順番を改めて確認する。
ロイとディーノは受付で来店者名簿を広げ、十二名の名前を一人ずつ確かめていた。
「こちらの方は私が確認します」
「では、次の方は僕が対応します」
ディーノは何度か名簿へ目を通し、来店時に戸惑わないよう名前を頭へ入れていく。
すべての準備が整う頃、店の外では日が沈み始めていた。
レンは入口へ貸切を知らせる札を掛け、店内を振り返る。
「準備は大丈夫そうだな」
仲間たちがそれぞれ頷く。
その直後、扉の向こうから複数の足音が近づいてきた。
レンは一度ゆっくりと息を吸い、入口へ向き直った。
足音が止まり、間を置かずに取っ手が動く。
最初に店内へ入ってきたのは、今回の貸切を依頼したバルドだった。
「こんばんは、レンさん」
「こんばんは、バルドさん。本日はありがとうございます」
レンが頭を下げると、バルドは整えられた店内を見渡し、満足そうに頷いた。
「こちらこそ、無理を聞いていただき感謝します。幹部たちも、今日を楽しみにしていました」
「皆様に楽しんでいただけるよう、準備しております」
レンの言葉に続き、ロイとディーノも受付から丁寧に一礼する。
「いらっしゃいませ」
「お待ちしておりました」
バルドの後ろには、数名の男たちが並んでいた。そのさらに後ろからも人影が近づき、入口の前には酒商会の幹部たちが次々と集まってくる。
ロイは名簿へ目を落としながら一人ずつ名前を確かめ、ディーノは外套を預かり、客席へ向かう者の流れが重ならないよう動いていた。
最初こそ緊張が残っていたものの、何人かを迎えるうちに、ディーノの声も次第に落ち着いていく。
やがて、見覚えのある男が入口を通った。
「こんばんは、レン君」
「こんばんは、カイルさん」
レンはほかの客と変わらない態度で頭を下げる。
カイルは軽く頷いて店内へ入り、整えられた客席や動き始めたスタッフたちへ視線を巡らせた。
十二名全員が揃うと、バルドが店内の中央でレンを紹介した。
「こちらがClub Moon Dropの店主、レンさんです」
「皆様、本日はご来店いただきありがとうございます」
レンは一歩前へ出て、落ち着いて頭を下げる。
「限られた時間ではございますが、酒と料理、そしてこの店で過ごす時間を楽しんでいただければと思います」
十六歳の少年が店主として挨拶をする姿に、初めて訪れた幹部の何人かが驚いた表情を見せた。
バルドがそんな者たちへ穏やかに笑う。
「年齢だけで判断しない方がいい。この店の酒を一杯飲めば、私が貸切を頼んだ理由も分かるでしょう」
「そこまで言っていただけると、緊張しますね」
レンが控えめに笑うと、店内に小さな笑いが起こった。
硬かった空気が和らぎ、リリアたちが幹部をそれぞれの席へ案内していく。
リリアとセレナが奥側を担当し、エルナとミーナが入口に近い側へ入る。
レンはカウンターへ戻り、最初の注文を確認した。
多くの者が選んだのはビールだった。
レンは並べたグラスへ順番に黄金色の酒を注ぎ、泡の高さを一つずつ整えていく。ロイとディーノが出来上がったものから受け取り、それぞれの席へ運んだ。
全員へ酒が行き渡ると、バルドがグラスを持ち上げる。
「今日は堅苦しい会合ではありません。普段なかなか話せない者同士、ゆっくり楽しみましょう」
幹部たちもグラスを掲げ、乾杯の声が店内へ響いた。
一口飲んだ直後、初来店の者たちの表情が変わる。
「これは……随分と喉越しがいい」
「しっかり冷えているのに、味が薄れていないな」
「泡も最後まで残っている」
酒を扱う者らしく、感想は味だけではなく、温度や注ぎ方にまで及んでいた。
レンはカウンターからその反応を確かめ、次の注文へ取り掛かる。
エルナは担当する席で酒の好みを聞き、ミーナは会話を遮らないよう空いたグラスへ目を配っていた。
リリアは全体を見ながら、特定の席だけに接客が偏らないよう立つ位置を変えている。
セレナも奥側の席で注文を聞き、出来上がった酒を運んでいた。
「こちらをご注文のお客様は、どなたでしょうか」
「私です」
「お待たせいたしました」
セレナは酒を頼んだ男の前へグラスを置き、丁寧に一礼した。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」
「ありがとう」
五十歳ほどに見える男はグラスを受け取りながら、セレナの顔をしばらく見つめていた。
セレナはその視線を特に気に留めず、隣の客から注文を聞いて席を離れる。
やがて金獅子亭から届いた最初の料理が運ばれた。
ルークは料理の状態を整え、十二名の酒の進み方に合わせて提供する順番を調整している。
ロイとディーノが皿を運ぶと、香ばしい匂いが客席へ広がった。
「酒だけでなく、料理もよく考えられているな」
「確かに、この味なら今の酒を邪魔しない」
幹部たちの会話が弾み、店内は次第に賑やかさを増していく。
先ほどセレナを見ていた男も、酒と料理を味わいながら周囲と話していた。
それでも、セレナが席を訪れるたび、男の視線は自然と彼女へ向けられる。
背筋を伸ばした立ち姿。
客の言葉を待ってから返す間。
酒を置く際の手の動きと、頭を下げる角度。
男の中に、遠い記憶が蘇っていた。
以前、商会の仕事で何度も足を運んだ屋敷。
広い玄関と長い廊下。
晩餐会の夜、当主の近くに立っていた一人の少女。
年月が流れ、服装も立場も変わっている。
しかし、身についた所作は、記憶の中の少女とよく似ていた。
しばらくして、男が空になったグラスを静かに置く。
「同じものを、もう一杯いただけますか」
「かしこまりました」
注文を受けたセレナはカウンターへ向かい、レンから新しい酒を受け取った。
再び男の席へ戻り、グラスを目の前へ置く。
「お待たせいたしました」
セレナが手を引こうとした時、男が静かに口を開いた。
「失礼ですが、以前どこかでお会いしたことはありませんか」
セレナは少し考えたものの、目の前の男に見覚えはなかった。
「申し訳ございません。私には心当たりがありません」
「そうですか。人違いでしたら、申し訳ありません」
「お気になさらないでください」
セレナは穏やかに答え、ほかの席へ向かう。
男はその後ろ姿を見つめながら、記憶をたどった。
父親の隣に立つ少女と、今のセレナの姿が重なっていく。
次にセレナが近くを通った時、男は彼女を呼び止めた。
「少し、よろしいでしょうか」
「はい」
セレナが振り返る。
男は先ほどまでとは異なる真剣な表情で、彼女を見上げた。
「……セレナ・ディ・ヴァレンティーニ様ではありませんか」
セレナの動きが止まった。
僅かに見開かれた瞳が、目の前の男を見つめる。
近くの席で接客していたリリアが二人へ視線を向け、エルナとミーナも客との会話を続けながら、セレナの様子を窺った。
カウンターに立つレンも、酒を作る手を動かしたまま耳を傾ける。
(セレナ・ディ・ヴァレンティーニ……)
(そういえば、鑑定で見た名前だ)
元貴族だったことは覚えていたが、家名までは気に留めていなかった。
セレナは一度息を整え、男へ向き直る。
「はい。以前は、ヴァレンティーニ子爵家の娘でした」
「やはり、セレナ様でしたか」
男の声に、周囲の幹部たちも会話を止めて二人を見る。
男は集まった視線に気付き、すぐに表情を改めた。
「申し訳ありません。皆様の前でお尋ねすることではありませんでした」
「お気になさらないでください」
セレナは静かに答える。
「ヴァレンティーニ家は、すでになくなりました。今の私は、Club Moon Dropで働くセレナです」
「……失礼いたしました」
男が深く頭を下げる。
セレナも小さく一礼すると、別の席から呼ばれた声へ応じ、その場を離れた。
止まっていた会話も、バルドが近くの幹部へ声を掛けたことで、少しずつ戻っていく。
そんな中、カイルはグラスを傾けながら、セレナの後ろ姿を見ていた。
(ヴァレンティーニ子爵家の娘か)
詳しい事情までは知らないが、すでに没落した貴族家だったはずだ。
(なぜ没落したのか……)
カイルはグラスへ口をつける。
その口元に、僅かな笑みが浮かんでいた。
しばらくして、先ほどの男から追加の注文を受けたセレナがカウンターへやってくる。
「先ほどと同じものを、もう一杯お願いします」
「分かった」
レンは注文された酒を用意しながら、声を落とした。
「セレナ」
「はい」
「無理をしなくていいよ。少し二階で休んでも大丈夫だから」
セレナはすぐには答えず、静かに客席へ目を向ける。
リリアたちは何事もなかったように接客を続けていた。しかし、セレナへ負担が偏らないよう、自然に料理を運び、周囲の席へ声を掛けている。
「ありがとうございます」
セレナはレンへ向き直り、首を横へ振った。
「でも、ここにいさせてください」
「今の私は、この店のキャストですから」
レンは完成した酒を差し出す。
「分かった。でも、辛くなったらすぐに言って」
「はい」
セレナはグラスを受け取り、男の席へ戻った。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
男は酒を受け取ると、姿勢を正した。
「改めて、グレゴールと申します。以前、商会の仕事でヴァレンティーニ家へ酒を納めておりました」
「そうだったのですね」
「何度も屋敷へ伺いましたが、セレナ様とはほとんどお話ししたことがありません。私が一方的にお姿を存じ上げていただけです」
グレゴールは申し訳なさそうに笑う。
「覚えておられなくて当然でしょう」
「申し訳ございません。当時の私は、屋敷へ来られる商人の方々について、ほとんど知らされていませんでした」
「どうか謝らないでください。それよりも、こうしてご無事な姿を拝見できて安心しました」
セレナは静かに頭を下げた。
「ヴァレンティーニ子爵は、私どもが納めていた酒を気に入ってくださいましてね」
グレゴールは懐かしむように続ける。
「大切な来客がある日には、必ず用意するよう命じておられました」
セレナの表情が僅かに和らいだ。
「父は、その酒をとても気に入っていました。晩餐会の前には、自ら保管場所まで確認しに行くほどでした」
「覚えていてくださったのですね」
「はい」
忙しそうに屋敷を行き来する使用人たち。
晩餐会の準備を眺めながら、上機嫌に酒の話をしていた父。
セレナの目に、遠い日の光景が一瞬だけ戻る。
「立派になられましたね」
グレゴールが穏やかに言った。
セレナは少し驚いたように彼を見る。
「今のセレナ様を拝見して、そう思いました」
「……ありがとうございます」
セレナは穏やかな笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
その後も貸切営業は滞りなく続いた。
レンは次々と入る注文に合わせて酒を作り、ルークは食事の進み具合を見ながら、金獅子亭から届いた料理を整えて送り出す。
ロイとディーノは酒や料理を運び、空いた皿やグラスを下げていった。
リリアは店内全体へ目を配り、エルナとミーナもそれぞれの席で会話を支えている。
セレナも少しずついつもの調子を取り戻し、最後まで客の前を離れることはなかった。
やがて貸切営業の終了時間を迎え、幹部たちが席を立ち始める。
「素晴らしい店でした」
「酒だけでなく、接客も心地よかった」
初めて来店した幹部たちから次々と感想を受け、バルドも満足そうにレンへ頷いた。
グレゴールは帰る前に、セレナのもとへ歩み寄る。
「突然、本名を口にしてしまい、申し訳ありませんでした」
「もう、お気になさらないでください」
「また、こちらへ伺ってもよろしいでしょうか」
セレナは静かに微笑んだ。
「はい。次はClub Moon Dropのセレナとして、お待ちしております」
グレゴールはその言葉を受け止め、丁寧に一礼した。
十二名全員を見送ると、賑やかだった店内に静けさが戻った。
スタッフたちはセレナを囲むことなく、いつも通り片付けを始める。
ロイとディーノは受付を整え、ルークは厨房へ戻る。ノアは客席を確認し、リリアたちも使い終えた場所を片付けていった。
しばらくして、セレナが手を止めた。
「皆さん」
仲間たちの視線が集まる。
「隠すつもりはありませんでした。ただ、元貴族の令嬢としてではなく、今の私を見てほしかったんです」
レンはセレナを真っ直ぐに見た。
「セレナはセレナだよ。昔がどうだったとしても、今ここで一緒に働いているセレナは変わらない」
リリアも穏やかに頷く。
「話したくないことを、無理に話す必要はありません。話したいと思った時に、聞かせてください」
エルナ、ミーナ、ロイ、ディーノ、ルーク、ノアも、変わらない表情で頷いた。
「ありがとうございます」
セレナの声が僅かに震える。
失ったものを取り戻すことはできない。
それでも、今のセレナには、自分の意思で選んだ場所がある。
ヴァレンティーニ子爵家の令嬢ではなく、Club Moon Dropのキャストとして立てる場所が。
仲間たちの変わらない笑顔を見つめながら、セレナは胸の奥に広がる温かさを、静かに受け止めていた。
一方、Club Moon Dropを離れたカイルは、夜の通りを歩きながら足を止めた。
「ヴァレンティーニ……」
その家名を、確かめるように小さく口にする。
なぜ家が没落したのか。
何が失われ、誰が関わっていたのか。
そして、その過去に触れられた時、セレナがどのような顔をするのか。
カイルは振り返り、遠くなったClub Moon Dropの明かりを見つめた。
やがてその口元に、薄い笑みが浮かぶ。
調べるべきことが、一つ増えた。
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