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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
夜の社交場を目指して

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第37話 招待状と現場の熱

 翌朝、西通りには木の匂いが残っていた。


 昨日の改装初日で剥がされた床板、外へ運び出された壊れた棚、壁から落とされた古い埃。その名残が、通りの冷たい朝気の中に薄く漂っている。中央通りの賑わいはまだ遠く、荷車の車輪が石畳を鳴らす音だけが、静かな西通りに乾いた響きを残していた。


 俺は店の前で足を止めた。


 昨日契約したばかりの古い建物。


 まだ看板はない。


 灯りも少ない。


 壁も床も傷んでいる。


 それでも、もうただの空き店舗ではない。


 俺たちの店になる場所だ。


 そう思った瞬間、胸の奥がまた少し熱くなった。


 だが、その熱に浸っている暇はない。


 今日やることは多い。


 入口の床補修。


 奥の梁の補強。


 二階の目隠し位置確認。


 受付台の骨組み搬入。


 招待状の清書。


 エミリア、ハンナ、ノア、ガイル、サラへの手渡し。


 近隣への追加挨拶。


 そして、内覧試飲会までの段取り確認。


 夢は、紙に書いた瞬間から仕事になる。


 昨日、それを嫌というほど感じた。


「おはよう、レン」


 後ろから声がした。


 振り返ると、リリアが小走りでやって来た。朝日に照らされた金髪が揺れ、少し息を弾ませている。手には布袋を抱えていた。


「早いね」


「リリアも早い」


「招待状、手伝うって言ったから」


 そう言って、彼女は布袋から羊皮紙の束を取り出した。


 昨日の夜、金獅子亭でマルクに頼んで分けてもらったものだ。紙質は上等とは言えないが、きちんと整えれば招待状として使える。


「ありがとう」


「文字を書くのはレンの方が上手いけど、折ったり紐を結んだりはできるから」


「助かる」


 俺が素直に言うと、リリアは少し嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、昨日の夜の会話を思い出す。


 ノアに一緒に招待状を渡す。


 緊張するだろうから、リリアが隣にいる。


 それは小さな役割に見える。


 だが、店にとっては大きい。


 働くかもしれない少女が、初めて店に関わる日。


 その隣に、安心できる同年代の少女がいる。


 それだけで、受け取る印象は変わる。


 接客とは、酒を注ぐことだけではない。


 相手が一歩踏み出せる空気を作ることだ。


 リリアは、その才能を持っている。


 まだ本人は気づいていないかもしれないが。


◇◇◇


 店の中へ入ると、すでに親方たちが作業を始めていた。


 木槌の音。


 釘を抜く音。


 床板を削る音。


 乾いた木材が擦れる匂い。


 昨日よりも現場の空気が濃い。


 職人たちの動きにも迷いが少なくなっている。昨日は様子を見ながらだったが、今日はどこを直すか、何を優先するかが共有されていた。


 入口付近では、床板が一部外され、段差を整える作業が進んでいた。


 ここは客が最初に足を踏み入れる場所だ。


 靴が引っかかる。


 裾が汚れる。


 足元が暗い。


 それだけで、店の印象は悪くなる。


 高級感とは、豪華な装飾だけで作るものではない。


 最初の一歩で不安を感じさせないこと。


 それも立派な高級感だ。


「おう、来たか」


 親方が顔を上げた。


「おはようございます。入口はどうですか?」


「思ったより下地は悪くねえ。ただ、段差が厄介だな。昔の造りだから、外から入る時に少し引っかかる」


「女性客や長い服の人がつまずきますか?」


「可能性はある」


「なら、そこは必ず直してください」


「分かってる。昨日からお前は安全の話ばっかりだな」


「売上より先です」


 親方はにやりと笑った。


「若いくせに、言うことは年寄りみてえだ」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてるよ」


 軽口を交わせるくらいには、現場の空気も馴染んできた。


 俺は奥へ向かう。


 昨日見つかった梁の傷みは、すでに補強作業が始まっていた。壁板を一部外した奥には、新しい木材が仮で当てられている。まだ見た目は悪いが、ここを放置するよりはずっといい。


 奥の部屋。


 将来的には特別席にする場所。


 ただ豪華な席にするだけでは駄目だ。


 客が特別感を得る。


 女性スタッフが逃げ道を失わない。


 黒服がすぐ近づける。


 話し声が外へ漏れすぎない。


 その全てを満たさなければならない。


 前世の夜の店でも、奥の席は売上を作る場所であり、同時に事故が起きやすい場所だった。


 密室にしすぎれば危ない。


 開放しすぎれば特別感がない。


 距離感が難しい。


 この世界ではなおさらだ。


 客はまだ、会話を楽しむ夜の店というものを知らない。


 だからこそ、最初から構造で線を引く必要がある。


「レン」


 リリアが俺の横に立った。


「ここが、特別な席になるの?」


「うん。たぶん一番高い席になる」


「高い席……」


 リリアは部屋を見渡した。


 剥がされた壁。


 むき出しの梁。


 仮置きの木材。


 埃っぽい床。


 どう見ても、今は高級な場所には見えない。


「今は全然そう見えないね」


「だから面白い」


「面白い?」


「ここが変わった時、昨日と今日を知ってる人は驚く。『あのボロボロだった部屋がこんなふうになるのか』って」


 リリアは少し考え、それから頷いた。


「内覧試飲会で見せるのは、完成じゃなくて変わる途中なんだね」


「そう」


 俺は彼女を見る。


「完成品だけを見せると、客は客で終わる。でも変わる途中を見せると、関わってる気持ちになる」


「自分も作ってるみたいに?」


「うん」


 リリアは目を丸くした。


「レンって、そういうところまで考えてるんだ」


「考えないと、金が足りないから」


「急に現実的」


「大事だからね」


 実際、資金には余裕がない。


 保証金を払った。


 改装費がかかる。


 オーウェンの家具代も必要だ。


 衣装、酒器、照明、厨房、警備、人件費。


 内覧試飲会を成功させなければ、次の会員募集も慎重に進められない。


 派手に使う金はない。


 だから、未完成を価値に変える。


 完成前だからこそ見られる。


 創設準備会員だからこそ関われる。


 そういう物語にする。


 商品は酒だけではない。


 店が生まれる過程そのものも、売り物になる。


◇◇◇


 昼前、オーウェンがやって来た。


 昨日よりも大きな荷車を引いている。荷台には長い木材と、組みかけの受付台らしき骨組みが積まれていた。まだ完成品ではない。だが、木の角は丁寧に削られ、手を置く部分には柔らかい丸みがある。


 職人たちが手を止める。


 オーウェンは無口なまま荷を下ろし、入口横へ運ばせた。


「ここだな」


「はい」


 俺は入口から店内を見渡した。


 扉を開けてすぐ右側。


 客が入った瞬間に必ず目に入る場所。


 だが真正面ではない。


 威圧感を出しすぎない位置だ。


 受付は門番であり、案内役でもある。


 客を止めるだけでは駄目だ。


 迎える場所でなければならない。


 オーウェンは骨組みを仮置きし、手で高さを確かめた。


「少し高いか」


「高いですか?」


「男の客を止めるならこの高さでいい。だが、女性客や若い客には少し圧がある」


 彼は木材に印を付ける。


「外から手元が見えない高さは残す。だが角度を変える。上を少し丸くする」


「できますか?」


「やる」


 短い言葉。


 だが頼もしい。


 リリアが受付台の前に立った。


「私が立つと、ちょっと高いかも」


 オーウェンが彼女を見る。


「君が受付に立つのか」


「えっ、まだ分からないです。でも、手伝うならここかなって」


 リリアは少し照れたように言った。


 俺は黙ってその様子を見ていた。


 自分でそう思ったのなら、それは大事にした方がいい。


 こちらから役割を押しつけるのではなく、本人が自然に立つ場所を見つける。


 その方が強い。


 オーウェンはリリアの身長を目で測り、受付台の骨組みを少し動かした。


「なら、内側の踏み台も作る」


「踏み台?」


「立つ人間に合わせる。客に合わせるだけではない」


 その言葉に、俺は思わず頷いた。


 人を守る家具。


 客だけではない。


 働く人も守る。


 それがオーウェンの中で、もう形になり始めている。


「お願いします」


 俺が言うと、オーウェンは短く頷いた。


「今日中に仮置きする。明日、実際に人を立たせて確認する」


「分かりました」


その時、オーウェンはふと思い出したように口を開いた。

「そういえば、さっき仕立て屋の奥さんに聞いたが、ノアという娘がいるんだろう」

 俺は少し驚いたが、すぐに頷いた。

「はい。仕立屋の娘です」

「布を見る目があるらしいな」

「ええ、昨日も細かいところに気づいてくれました」

「なら、早めに店を見せろ」


「布?」


「椅子、壁、仕切り、控室。布を使う場所は多い。あとから考えると遅い」


 確かに。


 ノアは衣装だけでなく、布もの全般に気づく子だ。


 昨日のテーブル布のほつれも、俺たちより早く見つけた。


 店内の仕切りや目隠し、控室の布、女性席の雰囲気作り。


 そういうところで意見をもらえるかもしれない。


「今日、連れて来られるか聞いてみます」


「そうしろ」


 オーウェンはそれだけ言うと、作業へ戻った。


 リリアが小さく笑う。


「オーウェンさん、ノアのこと知ってたんだ」


「職人だからかな。手先が器用な子には興味があるのかも」


「ノア、喜ぶかな」


「緊張すると思う」


「じゃあ、やっぱり私も一緒に行く」


「頼む」


 リリアは胸を張った。


「任せて」


◇◇◇


 昼過ぎ、俺とリリアは招待状を持って金獅子亭へ向かった。


 店の改装は親方とオーウェンに任せるしかない。もちろん不安はある。だが、全てを俺が見ていなければ進まない店では駄目だ。


 経営者が現場を見ることは大事だ。


 だが、現場に張りつきすぎれば他が止まる。


 今日は招待状の配布も同じくらい重要だった。


 内覧試飲会の客が決まらなければ、改装の目的もぼやける。


 誰に見せるのか。


 何を感じてもらうのか。


 どんな言葉で噂にしてもらうのか。


 そこまで考えて招待しなければならない。


 金獅子亭に着くと、昼営業の準備で厨房が慌ただしく動いていた。肉の焼ける匂い、煮込みの湯気、木皿が重なる音。西通りの乾いた木の匂いとは違い、ここには生きた酒場の熱がある。


 マルクはカウンターで樽の状態を見ていた。


「おう、どうだ店主」


「その呼び方、まだ慣れません」


「慣れろ。もう契約したんだろ」


「はい」


「なら店主だ」


 マルクは豪快に笑った。


 その声を聞いて、近くにいた従業員たちもこちらを見た。昨日まで「レン」と呼ばれていた俺が、少しずつ違う立場になっていくのを感じる。


 嬉しい。


 だが、同時に重い。


「招待状か?」


「はい。まずはエミリアさんとハンナさんに」


「エミリアは昼過ぎに来ると思う。ハンナはまだだな」


「分かりました」


「菓子の試作もやるんだろ?」


「はい。蜂蜜果実焼きの改良版と、もう一種類」


「料理人が朝から文句言ってたぞ」


「後で謝ります」


「謝るだけじゃ足りねえ。ちゃんと売れる形にしろ」


「もちろんです」


 マルクは満足そうに頷いた。


 金獅子亭の奥のテーブルを借り、俺とリリアは招待状を整えた。


 羊皮紙を折り、紐で結び、相手の名前を書く。


 派手な封はない。


 高級な紙でもない。


 だが、一枚ずつ手で渡すことに意味がある。


 大量に配る宣伝ではない。


 選ばれた人へ届ける招待状。


 その感覚を作る。


 リリアは丁寧に紐を結びながら、ふと呟いた。


「なんか、不思議だね」


「何が?」


「昨日まで、まだ店もないのにって思ってた。でも、こうして招待状を作ってると、本当に始まるんだなって感じる」


「うん」


「ちょっと怖い」


「俺も怖い」


「レンも?」


「かなり」


 リリアは意外そうに俺を見た。


「レンは、いつも先のことまで考えてるから、怖くないのかと思ってた」


「先のことを考えるから怖いんだよ」


「あ、そっか」


「でも、怖いから準備する」


 俺は招待状の一枚に、エミリアの名を書いた。


「怖くない人間が強いんじゃなくて、怖くても準備する人間が強いと思う」


 リリアは少し黙った。


 そして、小さく頷いた。


「それ、覚えておく」


◇◇◇


 最初に招待状を渡したのは、エミリアだった。


 彼女は昼過ぎに金獅子亭へ現れた。いつものように落ち着いた足取りで、入口の木札に目をやり、女性席へ向かう。昨日よりも店内の客が増えているのを見ても、慌てた様子はない。


 俺は席へ向かい、丁寧に頭を下げた。


「エミリアさん。内覧試飲会の招待状です」


 羊皮紙を差し出す。


 エミリアはそれを受け取り、紐をほどかずに表の名前を見た。


「手書きなのね」


「はい。少数招待なので」


「良いわ」


 彼女は微笑んだ。


「こういうものは、手で渡された方が嬉しいものよ」


「そう思って作りました」


「女性客への推薦は、二名決めてあるわ」


「ありがとうございます」


「一人は商家の奥方。場の品を見る目がある人。もう一人は、若い女性。少し好奇心が強いけれど、口が軽すぎる子ではないわ」


「助かります」


 エミリアはそこで少し声を落とした。


「ただし、注意しなさい。女の噂は早いわ」


「悪い意味で、ですか?」


「良い意味でも、悪い意味でも」


 彼女は招待状を指先で軽く叩いた。


「安心できる、綺麗、面白い。そう思えば広げてくれる。でも、怖い、汚い、下品。そう思えば、それも同じ速さで広がる」


「分かっています」


「特に、女性が働く店という噂は、形を間違えるとすぐに娼館と混同されるわ」


 その言葉は重かった。


 俺が一番避けたいことでもある。


 酒場ではない。


 娼館でもない。


 会話と酒を楽しむ夜の店。


 その違いを、最初から伝えなければならない。


「内覧試飲会では、最初に説明します」


「説明だけでは足りないわ」


 エミリアは静かに言った。


「空気で分からせなさい」


「空気で」


「そう。席の配置、女性客の扱い、酔客への対応、声の大きさ、帰り道の見送り。全部が説明になるの」


 まさに場を売るということだ。


 言葉ではなく、体験。


 俺は深く頷いた。


「ありがとうございます。必ず反映します」


「期待しているわ」


 エミリアはそこで少し柔らかい表情になった。


「私、自分が通いたい場所ができるのを楽しみにしているの」


 その一言は、昨日よりも強く胸に響いた。


 客が期待している。


 ただ物珍しさではなく、自分のための場所として。


 その期待を裏切れない。


◇◇◇


 次はハンナの仕立屋だった。


 金獅子亭から少し歩いた路地にある、小さな店だ。派手な看板はないが、窓辺には丁寧に縫われた布が並び、店先の掃除も行き届いている。商家の夫人向けというより、街の人々の日常を支える仕立屋といった雰囲気だった。


 扉を開けると、布と糸の匂いがした。


 酒場や改装現場とはまるで違う、静かな匂い。


 奥で針を動かしていたハンナが顔を上げる。


「あら、レンさん。リリアさんも」


「こんにちは。今日は招待状をお持ちしました」


 俺は羊皮紙を差し出した。


 ハンナは両手で受け取り、少し緊張した顔になった。


「本当に、私たちを招待してくださるのですね」


「はい。ぜひ来ていただきたいです」


 奥から、小さな物音がした。


 見ると、ノアが棚の陰からこちらを見ていた。昨日と同じように控えめで、目が合うとすぐに視線を落とす。


 リリアが一歩前へ出た。


「ノア、こんにちは」


「……こんにちは」


「招待状、持ってきたよ」


 リリアがにこっと笑うと、ノアは少しだけ表情を緩めた。


 俺はノアへ向き直った。


「ノアさんにも見てほしい場所があります」


「私、ですか?」


「はい。昨日、布のほつれに気づいてくれましたよね」


「それは……たまたまです」


「そのたまたまが大事なんです」


 ノアは困ったように母親を見た。


 ハンナは静かに頷く。


「聞いてみなさい」


 俺は言葉を選んだ。


「店には、布を使う場所がたくさんあります。椅子、仕切り、控室、目隠し、女性客の席。俺や大工さんでは気づけないことがあると思うんです」


「私が見ても、分からないかもしれません」


「分からなくてもいいです。気づいたことを言ってくれれば」


 ノアは黙った。


 長い沈黙ではない。


 けれど、その中で彼女が必死に考えているのが分かった。


 自分に価値があると言われても、すぐには信じられない。


 自己評価が低い子は、褒められるほど戸惑う。


 前に出ろと言えば逃げる。


 なら、前に出さなくていい。


 横から見てもらえばいい。


「無理に人前で話す必要はありません」


 俺は続けた。


「リリアにだけ言ってくれてもいいです」


 ノアがリリアを見る。


 リリアは明るく頷いた。


「うん。私にこっそり言ってくれたら、レンに伝えるよ」


「……それなら」


 ノアの声は小さかった。


 だが、拒絶ではなかった。


「行ってみたい、です」


 ハンナの表情が少し和らいだ。


 俺も静かに頭を下げる。


「ありがとうございます」


 その時、ノアがふと俺の持っていた招待状へ目を向けた。


「あの」


「はい」


「この紐、ほどきやすいですけど、持ち歩くと緩むかもしれません」


 俺とリリアは同時に手元を見た。


 確かに、結びは綺麗だが少し甘い。


 リリアが目を丸くする。


「本当だ」


 ノアは慌てて俯いた。


「す、すみません」


「謝らなくていいです」


 俺は思わず笑った。


「さっそく助かりました」


 ノアはまた驚いた顔をした。


 自分の指摘が怒られない。


 むしろ役に立つ。


 その経験を、少しずつ積ませていけばいい。


 俺は招待状の紐を結び直しながら思った。


 この子は、表で輝くタイプではないかもしれない。


 だが、店の裏側を整える目を持っている。


 その目は、きっと必要になる。


◇◇◇


 夕方近く、俺たちはガイルたちの宿へ向かった。


 ガイルはちょうど剣の手入れをしていた。サラは窓際で弓弦を確認し、ボルドは干し肉らしきものを噛んでいた。


「お、来たな」


 ガイルが顔を上げる。


「招待状です」


 俺が羊皮紙を差し出すと、ガイルは少し照れたような顔をした。


「こういうの、俺がもらっていいのか?」


「もちろんです。夜会員第一号なので」


「またそれを言う」


 ガイルは苦笑しながら受け取った。


 サラが横から覗き込む。


「内覧試飲会。招待制。会員加入は任意。帰路護衛あり……ずいぶん丁寧ね」


「女性客も来ますので」


「そこまで書くのは良いと思うわ。安心材料になる」


 サラは冷静に頷いた。


 やはり彼女は見るところが鋭い。


「サラさんにも来ていただきたいです」


「私も?」


「はい。場の空気を見てもらいたいんです。危ない雰囲気や、見落としている導線があれば指摘してほしい」


 サラは少し考えた。


「警備としてではなく、客として?」


「はい。客として来て、観察してほしいです」


「面白い頼み方ね」


 彼女は薄く笑った。


「分かったわ。行く」


 ボルドが口を挟んだ。


「肉は出るのか?」


「軽い菓子と酒が中心です」


「肉は?」


「少しなら用意します」


「なら行く」


 判断基準が分かりやすい。


 ガイルが笑った。


「ボルドは肉があればどこでも行く」


「肉は大事だ」


「否定はしません」


 俺はそう答えた。


 こういう空気も大事だ。


 気軽に笑える客。


 だが線を越えない客。


 最初の内覧試飲会には、そういう人たちが必要だった。


 荒れた空気ではなく、明るく、しかし規律ある空気を作る。


 ガイルたちはその役に合っている。


「ただし」


 俺は少し声を落とした。


「カイル派が何か仕掛けてくる可能性があります」


 ガイルの目が鋭くなる。


「やっぱりか」


「まだ確証はありません。でも、物件契約の話も広がり始めています。内覧試飲会は目立つので、邪魔される可能性は高いです」


「なら俺が入口に立つ」


「客としてお願いします」


「分かってる。客として睨む」


「睨みすぎないでください」


 サラが小さく笑った。


「大丈夫。ガイルが睨みすぎたら私が止めるわ」


「助かります」


 これで、主要な招待客への手渡しは進んだ。


 あとはバルド推薦の商人と、エミリア推薦の女性客二名。


 招待状が人の手に渡るたび、存在しない店の輪郭が少しずつ濃くなっていく。


◇◇◇


 西通りへ戻る頃には、空は茜色に染まっていた。


 中央通りの賑わいは夕方の熱を帯び、仕事帰りの人々や冒険者たちが酒場へ流れ始めている。その一方で、西通りはまだ静かだった。


 だが、昨日とは違う。


 店の前には木材が整然と積まれ、入口には仮の受付台が置かれている。外から見えるだけでも、何かが始まっていると分かる。


 道具屋の主人が店先からこちらを見た。


「ずいぶん人が出入りしてるな」


「すみません。うるさくなっていませんか?」


「昼間なら構わん。夜はやめろよ」


「もちろんです」


「釘、足りてるか?」


「今のところは」


「足りなくなったら言え」


「ありがとうございます」


 短いやり取り。


 だが昨日よりも距離が近い。


 古着屋の女将も、店先で布を畳みながらこちらへ声をかけた。


「女の子が来るなら、入口の足元は明るくした方がいいよ」


「灯りですか」


「暗いと裾が汚れるし、足元が怖いからね」


「ありがとうございます。反映します」


 俺はすぐに羊皮紙へ書き込んだ。


 入口足元の灯り。


 裾汚れ対策。


 客の視点は、現場の外にもある。


 近隣住民は厄介者ではない。


 店を外から見る最初の観察者だ。


 彼らの意見を拾えるかどうかで、店の印象は変わる。


 リリアが小さく言った。


「みんな、少しずつ教えてくれるようになってるね」


「うん」


「昨日は警戒してたのに」


「まだ警戒はしてると思う。でも、話せる相手だとは思ってくれたのかも」


「それって大事だね」


「かなり大事」


 店内へ入ると、仮置きされた受付台の骨組みが夕日の光を受けていた。


 まだ板も張り切っていない。


 棚もない。


 表面も荒い。


 それでも、そこに立つだけで店の入口らしく見える。


 リリアが自然と内側へ回った。


 手を置き、外を見る。


「こう?」


「うん。どう感じる?」


「少し高い。でも、立ってると落ち着くかも」


「落ち着く?」


「ここにいると、入ってきた人に最初に声をかける場所なんだなって分かる」


 リリアは受付台越しに店内を見た。


「あと、奥まで見える。誰が来たか、誰が困ってるか、分かりそう」


 俺はその言葉を聞いて、胸の奥が静かに熱くなった。


 彼女はもう、ただ受付台を見ていない。


 そこに立つ自分を想像している。


 客を迎える自分。


 困った人に気づく自分。


 場を整える自分。


 それは、未来の接客担当候補としての最初の芽だった。


「リリア」


「何?」


「そこ、似合うよ」


 彼女は一瞬固まり、それから顔を赤くした。


「急にそういうこと言わないで」


「ごめん。でも本当」


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 だが、嬉しそうだった。


◇◇◇


 夜。


 作業が終わった店内で、俺は一人、今日集めた意見を整理していた。


 リリアは金獅子亭へ戻り、マルクに明日の菓子試作の相談をしている。職人たちは帰り、オーウェンも受付台の調整を終えて工房へ戻った。


 店内は静かだった。


 仮のランプが一つだけ灯っている。


 剥がされた床。


 補強途中の梁。


 仮置きの受付台。


 壁に書かれた印。


 まだ未完成の空間。


 その中心に立つと、昼間の音が嘘のように消えていた。


 俺は羊皮紙へ書き込む。


 入口足元の灯り。


 受付台の高さ調整。


 リリア用の踏み台。


 ノアに布と目隠しを見てもらう。


 女性客の荷物置き。


 奥席の安全導線。


 冷やし果実酒。


 氷入り蒸留酒。


 ビール三杯。


 軽い菓子。


 肉料理少量。


 帰路護衛。


 会員仮申込。


 招待客の退出順。


 書けば書くほど、店が形になっていく。


 だが同時に、足りないものも見える。


 人が足りない。


 黒服が足りない。


 女性スタッフもまだいない。


 ノアは候補かもしれないが、まだ裏方向きだ。


 リリアもまだ自分の役割を見つけ始めたばかり。


 店名も正式には決めていない。


 看板もない。


 制服もない。


 問題は山ほどある。


 それでも、不思議と怖さだけではなかった。


 昨日よりも、前へ進んでいる。


 今日、招待状が人の手に渡った。


 リリアが受付に立つ未来が少し見えた。


 ノアが自分の気づきを口にした。


 エミリアが女性客の噂の速さを教えてくれた。


 ガイルとサラが最初の夜の空気を支えてくれる。


 近隣住民が、ほんの少しだけ意見をくれた。


 これは、俺一人の計画ではない。


 少しずつ、人の声が混ざり始めている。


 店とは、そうやって生まれるものなのかもしれない。


 その時だった。


 外で、小さな足音が止まった。


 俺は顔を上げる。


 扉の隙間から、誰かが店の中を覗いていた。


 ランプの光が届かない位置。


 顔はよく見えない。


「誰ですか?」


 俺が声をかけると、その影は一瞬びくりと動いた。


 そして、慌てて走り去る。


 足音が西通りの石畳を叩き、やがて遠ざかっていった。


 リリアではない。


 ノアでもない。


 近所の子供にしては、足取りが妙に速い。


 俺は扉の外へ出た。


 夜の西通りは静かだった。


 遠くに中央通りの灯りが揺れ、風が古い看板を鳴らしている。


 誰の姿もない。


 ただ、店の入口近くに、小さな木片が落ちていた。


 拾い上げる。


 ただの木片。


 だが、そこには薄く傷がついていた。


 意図的につけられた印のようにも見える。


 全鑑定。


――――――――

木片

用途:目印

状態:新しい傷あり

付着物:黒い煤

推定:建物確認用の簡易目印

危険度:低

注意:第三者が店舗の位置を確認した可能性

――――――――


 背筋に冷たいものが走った。


 やはり来たか。


 カイル派か。


 それとも、ただの野次馬か。


 まだ分からない。


 だが、物件契約と改装開始の噂は、もう広がっている。


 こちらが招待状を配り始めたように、向こうも動き始めたのだろう。


 俺は木片を握りしめた。


 怖さはある。


 だが、驚きはない。


 店を作るということは、敵の視線も集めるということだ。


 ならば、隠れるのではなく、備えるしかない。


 俺は店内へ戻り、羊皮紙に新しい項目を書き足した。


 内覧試飲会当日。


 入口外の監視。


 裏口確認。


 招待客以外の入店禁止。


 近隣への事前説明。


 警備増員。


 書き終えた時、ランプの火が小さく揺れた。


 未完成の店内に、影が長く伸びる。


 西通りの古い建物は、今日もまだ不格好だった。


 けれど、その不格好な場所に、確かに未来の熱が宿り始めている。


 招待状は配られた。


 家具は動き始めた。


 近隣は見始めた。


 そして敵も、こちらを見始めた。


 内覧試飲会まで、残された時間は少ない。


 俺は静かに息を吐き、店の奥を見据えた。


 ここを守る。


 ここを形にする。


 この場所を、ただの夜の店ではなく、誰かが安心して笑える場所にする。


 そのための準備は、もう始まっていた。

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