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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
夜の社交場を目指して

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38/82

第36話 西通り物件契約・改装開始

 翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。


 まだ窓の外は薄暗い。ルミナスの街が完全に動き出す前の、静かな時間だった。遠くで荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえ、どこかの煙突から細い煙が立ちのぼっている。市場へ向かう者たちの足音も、酒場帰りの酔客の声も、まだ街の中に溶けきっていない。


 狭いギルドの部屋の机には、昨夜書いた羊皮紙が重ねて置かれていた。


 契約条件。


 保証金。


 改装開始期限。


 営業開始期限。


 床の張り替え。


 厨房修理。


 階段補強。


 二階の目隠し。


 入口管理。


 警備配置。


 近隣対応。


 そして、内覧試飲会の招待状。


 紙の束を見ているだけで、胸の奥が重くなる。


 昨日までは、まだ「候補地」だった。


 今日は違う。


 今日、契約する。


 契約書に名前を書いた瞬間から、あの西通りの古い空き店舗は、俺の夢ではなく、俺の責任になる。


 家賃が発生する。


 改装費が発生する。


 人を呼ぶ責任が生まれる。


 期待に応える責任が生まれる。


 怖くないと言えば嘘になる。


 むしろ、かなり怖い。


 けれど、その怖さは嫌なものではなかった。


 前へ進む時の足元の震えだ。


 俺は羊皮紙を丁寧にまとめ、深く息を吸った。


 酒で人を壊す店ではない。


 女性を消耗させる店でもない。


 客が金を払えば何をしても許される店でもない。


 酒と会話を楽しむ、規律ある夜の店。


 その第一歩が、今日始まる。


◇◇◇


 金獅子亭に着くと、すでにマルクが表の戸を開けていた。


 まだ営業前の店内には、昨日の酒と肉料理の匂いが薄く残っている。椅子はテーブルの上に逆さに置かれ、床には拭き掃除の跡があった。いつもの賑やかな酒場とは違い、朝の金獅子亭は少しだけ真面目な顔をしている。


「早いな」


 マルクが言った。


「寝てねえ顔だぞ」


「少しは寝ました」


「少ししか寝てねえ顔だ」


「今日は大事なので」


「大事な日ほど寝ろ」


 もっともなことを言われた。


 反論できない。


 けれど、眠れるはずがなかった。


 契約条件を確認し、改装工程を見直し、招待状の文面を整え、万が一家主側から条件を変えられた場合の返答まで考えていたら、夜はあっという間に過ぎていた。


「バルドさんは?」


「もうすぐ来る。リリアも中にいる」


 奥を見ると、リリアがテーブルの上に羊皮紙を並べていた。昨日の招待客名簿と、内覧試飲会の準備表だ。彼女は俺に気づくと、少し緊張した顔で笑った。


「おはよう、レン」


「おはよう」


「いよいよだね」


「うん」


「大丈夫?」


「かなり緊張してる」


「それ、大丈夫って言うの?」


「動けるから大丈夫」


 リリアは少しだけ笑った。


 その笑顔を見ると、不思議と胸の重さが少し軽くなる。


 昨日、彼女は「私も言っていい?」と聞いた。


 俺はもちろんだと答えた。


 あれは、ただの会話ではなかった。


 俺の店は、俺一人の頭の中から、少しずつ誰かの言葉を受け入れる場所になり始めている。


 リリア。


 ノア。


 エミリア。


 ガイル。


 マルク。


 バルド。


 まだ存在しない店なのに、すでに人の声が集まり始めている。


 だから、今日の契約はただの物件契約ではない。


 その声を入れる器を手に入れる日だ。


 ほどなくして、バルドが現れた。


 いつものように上質だが派手ではない外套をまとい、表情は落ち着いている。だが、その目は完全に商人のものだった。


「準備は?」


「できています」


 俺は羊皮紙を差し出した。


 バルドは一枚ずつ確認し、短く頷いた。


「保証金、改装条件、三か月以内の営業開始、床、厨房、階段、二階目隠し。昨日聞いた条件は整理できているな」


「はい」


「今日は夢を語りすぎるな」


 バルドの声は静かだった。


「家主と管理側が見たいのは、君の熱意だけではない。支払い能力、改装計画、近隣対応、そして問題が起きた時に逃げない姿勢だ」


「分かっています」


「夢は最後でいい。最初に見せるのは信用だ」


 信用。


 その言葉が、胸に刺さる。


 酒も、店も、人も、結局は信用で動く。


 信用がなければ、どれだけ良い酒でも疑われる。どれだけ良い店でも人は入らない。どれだけ綺麗な言葉を並べても、働く人は不安を消せない。


 俺が今日買いに行くのは、建物だけではない。


 あの建物を使う資格だ。


「行くぞ」


 マルクが言った。


「俺も行く。現場を見る」


「ありがとうございます」


「礼はいい。変な条件を出されたら睨む」


「睨まないでください」


「じゃあ黙って立ってる」


「それも怖いです」


 リリアが吹き出した。


 その小さな笑い声に背中を押されるように、俺たちは金獅子亭を出た。


◇◇◇


 朝の中央通りは、すでに動き始めていた。


 露店が布を広げ、肉屋が軒先に塊肉を吊るし、パン屋の前には焼き立てを求める人が並んでいる。商人が荷を確認し、冒険者が眠そうな顔でギルドへ向かい、道端では子供が母親に手を引かれて歩いていた。


 街は生きている。


 その中心から一本外れ、西通りへ入る。


 途端に、音が薄くなった。


 中央通りの喧騒は背後へ遠ざかり、石畳を踏む自分たちの足音がはっきり聞こえる。古い看板が風に揺れ、閉じたままの店の扉には薄く埃が積もっていた。色あせた布を軒先に吊るす店、半分だけ開いた酒場、客の少ない道具屋。昨日見た時と同じ、静かな通りだった。


 だが、今日は昨日とは違って見える。


 昨日は候補地を見に来た。


 今日は、ここに未来を持ち込むために来た。


 西通りの奥に、あの建物が見えた。


 古びた二階建て。


 広めの間口。


 曇った窓。


 重そうな木の扉。


 何年も借り手がつかなかった空き店舗。


 その前に、ダリオが立っていた。


 昨日と同じように、きっちりした服装で、手には契約書らしき羊皮紙を持っている。家主本人ではなく、管理側の代理人として動いている男だ。表情には商売人らしい警戒と、少しの期待が混じっていた。


「お待ちしておりました」


 ダリオが頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 俺も頭を下げる。


 ダリオの視線が、俺の後ろにいるバルドとマルクを順に見た。


「バルド会長も同席されるのですね」


「見届け人としてな」


 バルドが淡々と答える。


「若い借り手だ。余計な誤解が出ぬよう、条件を明確にしておきたい」


「それは助かります」


 ダリオはそう言ったが、少しだけ肩に力が入ったのが分かった。


 バルドがいることで、向こうも雑な条件は出せない。


 ただし、それは俺にとって楽になるだけではない。


 こちらも半端な覚悟では済まなくなる。


「中で確認しましょう」


 ダリオが鍵を開けた。


 古い扉が、ぎい、と軋む。


 昨日と同じ埃の匂いが、朝の空気へ流れ出した。


◇◇◇


 店内に入ると、薄い光が曇った窓から差し込んでいた。


 床には埃が積もり、壁には前の店の名残らしき釘跡が残っている。奥の厨房跡には古い炉があり、煤の匂いがまだ染みついていた。二階へ続く階段は細く、踏むと少し嫌な音がする。


 普通なら、良い物件とは言えない。


 だが俺には、やはり見えた。


 入口横に受付。


 そこから客を勝手に奥へ通さない。


 正面には待合。


 中央には通常席。


 壁際には女性客が安心して座れる席。


 奥には特別席。


 二階には控室と衣装管理の場所。


 裏側には酒と氷を管理する小さな作業場。


 黒服が入口、中央、奥の三点を見られる導線。


 まだ何もない。


 けれど、頭の中ではすでに人が動いている。


「では、契約条件の確認から」


 ダリオが中央の古い卓に羊皮紙を広げた。


 俺はその向かいに立つ。


 バルドが横に立ち、マルクは腕を組んで少し後ろ。リリアは緊張した様子で俺の斜め後ろにいた。


「保証金は、昨日お伝えした通り、当初提示額から一部減額します。ただし、契約開始後一か月以内に改装開始。三か月以内に営業開始できない場合は、契約見直しの対象となります」


「確認しました」


「床の張り替え、厨房修理、階段補強、二階の目隠しは借主負担。ただし、構造に関わる補修については事前申請。無断で柱や外壁を変えることはできません」


「分かっています」


「営業内容については、近隣に説明すること。夜間の騒音、酔客、外での揉め事が続く場合、管理側から是正要求を出します」


「それも承知しています」


 俺は用意していた羊皮紙を広げた。


「こちらが、近隣対応と営業管理の案です」


 ダリオの目が動いた。


「もう作られたのですか」


「はい」


 俺は順番に説明した。


 入口での受付。


 会員確認。


 泥酔客の入店拒否。


 女性客の帰路護衛。


 近隣への工事挨拶。


 夜間作業は行わないこと。


 騒音や苦情が出た場合の連絡窓口。


 警備配置。


 店内での禁止行為。


 そして、内覧試飲会での仮申込制。


 ダリオは最初、形式的に聞いていた。


 だが途中から表情が変わった。


 若い借り手の夢物語を聞く目ではない。


 運営計画を確認する目になっていた。


「かなり細かいですね」


「細かくしておかないと、後で曖昧になります」


「曖昧さを避けたい、と」


「はい」


 俺は頷いた。


「酒と会話を楽しむ店にしたいんです。ですが、そのためには規律が必要です。金を払ったから何をしてもいい店にはしません」


 ダリオは黙って俺を見た。


 店内の空気が、少しだけ静かになる。


「女性が働く店だと聞いています」


「はい」


「それを不安に思う近隣住民もいます」


「当然だと思います」


「悪い噂も出るでしょう」


「出ると思います」


「それでもやるのですか」


「やります」


 声は自然に出た。


 大きな声ではない。


 けれど、自分でも分かるくらい迷いはなかった。


「だから、隠しません。仕事内容を説明します。家族が不安なら見せます。客にも規約を渡します。店の仕組みを見える形にします」


 ダリオはしばらく考え込んだ。


 バルドが静かに口を開く。


「この少年は、若いが無計画ではない。少なくとも、酒をただ売る者ではない。場を作ろうとしている」


「場、ですか」


「そうだ。うまくいけば、この西通りに人が戻る」


 その言葉に、ダリオの目がわずかに動いた。


 西通りに人が戻る。


 管理側にとっても、それは魅力的な話なのだろう。


 空き店舗が埋まるだけではない。人が来れば、周囲の店も息を吹き返す。だが逆に、失敗すれば夜の騒ぎだけが増える。


 だからこそ、彼らは慎重なのだ。


「一つ確認させてください」


 ダリオが言った。


「保証金は本日支払い可能ですか」


「はい」


 俺は用意していた袋を取り出した。


 重い。


 ただの金貨の重さではない。


 会員から預かった信用の一部。


 俺自身の覚悟。


 これから始まる改装の入口。


 それを卓の上に置く。


 金属が鈍い音を立てた。


 ダリオは中身を確認し、書記役に頷く。


「確認しました」


 その瞬間、胸の奥がまた重くなった。


 金が減った。


 当然だ。


 だが、その事実は想像よりも生々しい。


 夢が、金貨の音を立てて現実になっていく。


◇◇◇


 契約書への署名の前に、俺は店内をもう一度見渡した。


 埃っぽい床。


 曇った窓。


 傷んだ壁。


 古い厨房。


 頼りない階段。


 空っぽの空間。


 この場所には、まだ何もない。


 けれど、何もないからこそ、すべてを作れる。


 胸の奥に、懐かしい痛みが走った。


 いつか自分の店を持ちたい。


 そう思っていた。


 だが、あの時の俺は何も形にできなかった。


 誰かの店で、誰かの看板の下で、誰かの指示を受けて動いていた。


 それが悪かったわけではない。


 そこで学んだものは多い。


 客の見方。


 酒の出し方。


 女の子の守り方。


 店の空気の作り方。


 トラブルの収め方。


 その全部が、今ここに繋がっている。


 ただし、そのことを誰かに話すつもりはない。


 この世界の俺は、レンだ。


 身元不明の少年として始まり、酒と氷で信用を作り、今ようやく店の入口に立っている。


 それでいい。


「レン」


 リリアが小さく呼んだ。


 振り返ると、彼女は不安そうで、それでもまっすぐ俺を見ていた。


「大丈夫?」


「うん」


「本当に?」


「怖いけど、大丈夫」


 俺がそう言うと、リリアは少しだけ笑った。


「それなら、大丈夫だね」


 その言葉で、手の震えが止まった。


 俺は羽根ペンを取る。


 契約書の下に、自分の名前を書く。


 レン。


 たった二文字。


 だが、その二文字が羊皮紙に刻まれた瞬間、空き店舗は空き店舗ではなくなった。


 続いてダリオが署名し、管理側の印が押される。


 バルドが見届け人として名を添えた。


 マルクが腕を組んだまま、少しだけ口元を緩める。


「これで契約成立です」


 ダリオが静かに言った。


「本日より、この物件はレンさんに貸し出されます」


 その言葉が、店内に落ちた。


 俺は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、良い店にします」


「期待しています」


 ダリオはそう言った。


 その声には、まだ完全な信頼はない。


 けれど、昨日よりは確かに違う。


 警戒の中に、ほんの少し期待が混じっていた。


 今はそれで十分だ。


◇◇◇


 契約が終わった直後、俺は入口へ向かった。


「では、始めます」


 ダリオが目を瞬かせた。


「始める、とは?」


「改装です」


 リリアが驚いたように声を上げた。


「今から?」


「今から」


 マルクが笑った。


「お前、契約したその日に壊す気か」


「壊すんじゃなくて、直します」


「似たようなもんだろ」


「違います」


 俺が扉を開けると、西通りの向こうから数人の職人が歩いてきていた。


 昨日のうちに、仮で声をかけておいた者たちだ。契約が成立した場合だけ来てもらう約束になっていた。大工が三人、壁を見る職人が一人、厨房を確認できる職人が一人、荷運びの若者が二人。


 親方らしい男が道具袋を肩に担ぎ、俺の前で足を止めた。


「契約は?」


「成立しました」


「なら、入っていいんだな」


「お願いします」


 職人たちが店へ入っていく。


 その音に、西通りの住人たちが顔を出し始めた。


 道具屋の主人。


 古着屋の女将。


 小さな食堂の夫婦。


 向かいの古い酒場の店主。


 みんな、好奇心と警戒を半分ずつ混ぜた顔でこちらを見ている。


 当然だ。


 空き店舗に急に若い借り手が入り、職人が道具を持って集まってきたのだ。何が始まるのか、気になるに決まっている。


 俺はその視線の前に立ち、頭を下げた。


「本日より、こちらの建物をお借りすることになりました。これから一週間ほど、補修と改装で音が出ます。ご迷惑をおかけしますが、夜間の作業は行いません。埃や木材の片付けにも気をつけます。何かあれば、俺に直接言ってください」


 通りが少しざわついた。


 先に言う。


 隠さない。


 苦情が出る前に、受け止める場所を作る。


 それが信用の始まりだ。


 古着屋の女将が腕を組んだ。


「夜の店になるって聞いたよ」


「はい」


「騒がしくなるんじゃないのかい?」


「騒がせないために、入口管理と警備を置きます。泥酔した客は入れません。外で騒ぐ客が出た場合は、すぐに退店対応します」


「本当にできるの?」


「できるように仕組みを作ります」


 完璧な答えではない。


 だが、できると断言するよりは正直だ。


 店は人が動かすものだ。


 問題は必ず起きる。


 だから必要なのは、問題が起きないと言い張ることではなく、起きた時に対処する仕組みを持つことだ。


 道具屋の主人が鼻を鳴らした。


「若いのに大きく出るな」


「大きく出た分、働きます」


 マルクが後ろで笑いを堪えていた。


 リリアも隣に並んで頭を下げる。


「よろしくお願いします。困ったことがあれば、私にも言ってください」


 リリアが言うと、女将の表情が少し柔らかくなった。


 彼女の声には不思議な力がある。


 押しつけがましくない。


 けれど、相手の警戒を少しだけほどく。


 店は、建物だけでなく人で印象が変わる。


 俺はそれを改めて感じていた。


◇◇◇


 店内では、すぐに作業が始まった。


 まず、古い椅子と壊れた棚を外へ出す。


 使えない机を解体する。


 床板を叩き、傷みの強い場所に印をつける。


 厨房の炉を確認し、水場の状態を見る。


 二階へ続く階段の強度を調べる。


 埃が舞い、木の匂いが広がる。


 昨日まで眠っていた建物が、一気に息を吹き返したようだった。


 職人たちの掛け声。


 木槌の音。


 古い釘を抜く音。


 板が軋む音。


 床を掃く音。


 そのすべてが、俺には始まりの音に聞こえた。


「レン、どこからやる?」


 親方が聞いた。


「入口と床を最優先でお願いします。内覧試飲会では、客が最初に見る場所と歩く場所が重要です」


「壁は?」


「入口から見える範囲を先に。全体は後で構いません」


「厨房は?」


「冷やし果実酒と軽い菓子を出せる程度まで。大きな料理はまだ出しません」


「二階は?」


「女性の控室予定です。今日は危険箇所の確認と、窓の目隠し位置だけ見たいです」


 親方は少し感心した顔をした。


「若いのに、優先順位がはっきりしてるな」


「時間がないので」


「一週間で形にするんだったな」


「はい」


「無茶だ」


「承知しています」


「嫌いじゃない」


 親方は笑い、職人たちへ指示を飛ばした。


 その瞬間、現場の空気が変わった。


 ただの空き店舗ではなく、仕事場になった。


 人が動き、物が動き、音が生まれる。


 床板が剥がされると、下から湿った木の匂いが立ち上る。思ったより傷んでいる場所もあれば、意外と状態の良い場所もあった。


 俺は視線を走らせ、全鑑定を使う。


――――――――

床板状態

入口付近:傷み中

中央客席予定地:傷み小

奥通路:傷み大

危険箇所:三箇所

推奨対応:奥通路優先補修/入口段差調整/中央部研磨

――――――――


「親方、奥通路の三箇所を先にお願いします。そこをスタッフの導線にします」


「見ただけで分かるのか?」


「少し得意なんです」


「便利な目だな」


「よく言われます」


 実際には、それほど言われたことはない。


 だが、今はそれで済ませる。


 全鑑定の詳細を話す必要はない。


 職人たちはすぐに奥通路へ回った。


 そこは将来的に、女性スタッフが控室から客席へ出る通路になる。客の目に触れにくく、それでいて黒服がすぐ近づける場所。そこが危険なら、店の根幹が揺らぐ。


 見た目より先に安全。


 これは絶対だ。


◇◇◇


 昼過ぎ、オーウェンが来た。


 大きな道具袋を背負い、腕には木材の見本を抱えている。昨日の段階で簡単な図面は渡していたが、契約前だったため本格的な作業には入っていなかった。


 彼は店内へ入ると、しばらく黙って立ち尽くした。


 剥がされた床。


 印をつけられた壁。


 外へ運ばれた古い家具。


 作業する職人たち。


 そのすべてを一つずつ見る。


 そして俺へ視線を向けた。


「契約したか」


「はい」


「なら、作る」


「お願いします」


「昨日の図面を見た。通常席、女性席、奥の特別席。椅子の高さを変える」


「高さですか?」


「客用は深く座れるもの。働く側が使う椅子は立ち上がりやすいもの。奥の席は長く座れるが、逃げ道を塞がない形にする」


 俺は思わず息を呑んだ。


 こちらが説明しようとしていたことを、すでに理解している。


 人を守る椅子。


 ただ座るための家具ではない。


 人の動きを作り、安全を作る道具だ。


「受付台は入口横でいいな」


「はい。会員確認と会計補助、書類管理ができるようにしたいです」


「内側に棚。外から手元が見えない高さ。だが威圧感は出さない」


「それでお願いします」


「三日で、内覧に必要な分だけ仕上げる」


 リリアが驚いた。


「三日でできるんですか?」


「全部は無理だ」


 オーウェンは淡々と答えた。


「だが、見せる分は作る。受付台、通常席の椅子数脚、女性席、奥の特別席の試作品。残りは後で増やす」


「試作品?」


「完成品をいきなり全部作ると失敗した時に困る。まず座らせる。動かす。直す」


 職人らしい言葉だった。


 そして店作りにも通じる。


 いきなり完成を目指さない。


 まず試す。


 客を座らせる。


 働く人に動いてもらう。


 不便なら直す。


 それを繰り返して、店は強くなる。


「内覧試飲会で、客に座らせろ」


 オーウェンが言った。


「感想を聞け」


「もちろんです」


「椅子は飾りじゃない。座って初めて分かる」


「分かりました」


 オーウェンは短く頷き、すぐに寸法を測り始めた。


 その背中を見ながら、リリアがぽつりと言った。


「すごいね。どんどん本当に店になっていく」


「まだ壊してる段階だけどね」


「でも、昨日とは違う」


 その通りだった。


 昨日は空き店舗だった。


 今日は現場だ。


 人が入り、音が鳴り、埃が舞い、寸法が測られ、木材が運ばれる。


 建物が未来へ向けて動き出している。


◇◇◇


 夕方前、最初の問題が起きた。


 奥の壁を調べていた職人が、低い声を上げたのだ。


「おい、ここ、思ったより傷んでるぞ」


 俺はすぐに向かった。


 奥の部屋。


 将来的には特別席にする予定の場所だ。


 壁板を一部外すと、中の梁に古い傷みが見つかった。完全に腐っているわけではないが、そのままにしておくには危険だ。


 親方が渋い顔をする。


「ここを直すなら、予定より半日延びる」


「費用は?」


「少し増える」


 痛い。


 かなり痛い。


 保証金を払ったばかりだ。


 これから家具代もかかる。


 衣装も必要になる。


 酒器も揃えなければならない。


 内覧試飲会の準備にも金がいる。


 だが、ここを見逃す選択肢はない。


「直してください」


 俺は即答した。


 親方が俺を見る。


「迷わないのか?」


「安全に関わる場所は迷いません」


「金が増えるぞ」


「それでもです」


 安全を削って見た目を整える店にはしない。


 女性を守る店を作ると言いながら、建物の安全を後回しにするなどあり得ない。


 客を安心させる店を作ると言いながら、足元や壁の危険を見て見ぬふりすることもできない。


 店の信用は、見えないところで決まる。


「分かった」


 親方は職人へ指示を出した。


「奥の梁を補修する。予定を組み替えるぞ」


 作業工程が変わった。


 壁の仕上げは後回し。


 中央の研磨は明日へ。


 入口と奥の補修を優先。


 紙の上では整っていた工程が、現場の事情であっさり崩れる。


 だが、これが現実だ。


 計画通りに進まない。


 だから、その場で判断する。


 夢ではなく、現場。


 理想ではなく、床と壁と金。


 俺は今日、店作りの本当の重さを少し知った気がした。


◇◇◇


 日が傾く頃、西通りには木材の匂いが広がっていた。


 外には使えなくなった古い家具が積まれ、職人たちが汗を拭っている。店内はまだ散らかっているが、朝とは別物だった。入口周りは広くなり、床の危険箇所には印がつけられ、奥の壁は補修に向けて開かれている。


 まだ美しくはない。


 むしろ汚い。


 だが、確かに前へ進んでいる。


 通りの住人たちも、少しずつ見方を変え始めていた。


「随分早いね」


 古着屋の女将が店先から声を掛けてきた。


「一週間で内覧まで持っていきたいので」


「無茶するねえ」


「はい」


「でも、埃を外へ散らさないようにしてるのは悪くないよ」


「ありがとうございます」


 それだけで十分だった。


 小さな評価。


 小さな信用。


 それを積み重ねるしかない。


 道具屋の主人も、昼より少し柔らかい顔で言った。


「釘や金具が足りないなら、うちに言え。少しは融通してやる」


「助かります」


「ただし、夜に騒がせるなよ」


「必ず」


 近隣対応も、初日は大きな問題なく終わりそうだった。


 もちろん、これは始まりに過ぎない。


 実際に夜営業が始まれば、不満も出る。


 酔客が出るかもしれない。


 騒音も気にされる。


 だが、最初に頭を下げておくことには意味がある。


 逃げない相手だと思ってもらう。


 それが第一歩だ。


◇◇◇


 作業が終わったのは、夕日が完全に沈む少し前だった。


 職人たちは道具を片付け、明日の作業予定を確認して帰っていった。


 オーウェンは最後まで寸法を測り、木片に細かな印を書いていた。


「明日の朝、工房で削る。夕方に受付台の骨組みを持ってくる」


「早すぎませんか?」


「遅いくらいだ」


 そう言って、彼は道具袋を担いだ。


「レン」


「はい」


「この店は、椅子で失敗させるな」


「はい」


「人が安心して座れる店は、それだけで強い」


 その言葉を残し、オーウェンは去っていった。


 職人の背中が、西通りの薄闇に消える。


 安心して座れる店。


 簡単な言葉だ。


 けれど、それこそ俺が作りたいものの一部だった。


 客も。


 働く子も。


 安心して座れる。


 安心して立てる。


 安心して帰れる。


 そんな店を作る。


「レン」


 リリアが隣に立った。


「疲れた?」


「かなり」


「でも、嬉しそう」


「うん」


 俺は素直に頷いた。


「嬉しい」


 リリアは店内を見た。


 埃っぽい床。


 剥がされた壁。


 仮置きの木材。


 まだ何も整っていない空間。


「まだ、全然綺麗じゃないのに?」


「だからかな」


「だから?」


「何もない場所が、少しずつ店になっていくのを見るのが嬉しい」


 リリアは少し考え、それから笑った。


「レンらしいね」


 その時、マルクが奥から出てきた。


「おい、店主」


 俺は一瞬、反応が遅れた。


「俺ですか?」


「他に誰がいる」


 店主。


 その言葉が、妙に胸に刺さった。


 まだ開業していない。


 まだ看板もない。


 まだスタッフもいない。


 それでも、契約した以上、俺はこの場所の店主なのだ。


「店主って、重いですね」


「今頃気づいたか」


 マルクは笑った。


「今日は初日だ。これからもっと重くなるぞ」


「脅さないでください」


「事実だ」


 彼は店内を見回した。


「だが、悪くない。朝よりずっと店っぽくなった」


「まだ壊しただけです」


「それでもだ。人が動くと、建物は変わる」


 マルクの言葉に、俺は頷いた。


 人が動くと、建物は変わる。


 店も同じだ。


 人が集まることで、ただの場所が店になる。


◇◇◇


 夜。


 俺は店の入口に立ち、外の西通りを見た。


 中央通りの明かりは遠い。


 この通りには、まだまばらな灯りしかない。


 静かで、少し寂しい。


 けれど、その静けさの中に、俺は未来の音を聞いていた。


 開店前のざわめき。


 受付で名を確認する声。


 氷がグラスに触れる音。


 女性スタッフが笑う声。


 黒服が静かに客を案内する足音。


 帰り際の「また来るよ」という声。


 それらはまだ存在しない。


 だが、今日、最初の一歩を踏んだ。


 契約した。


 改装を始めた。


 近隣へ頭を下げた。


 職人が入り、オーウェンが家具に取り掛かった。


 もう、夢だけではない。


 現実が動き始めている。


「明日からもっと忙しくなるね」


 リリアが言った。


「うん。明日は入口と床、受付台の骨組み、奥の補修。あと、招待状の清書」


「私も手伝う」


「助かる」


「ノアにも、ちゃんと渡すんだよね」


「うん」


「緊張するかな」


「すると思う」


「じゃあ、私が一緒にいる」


 俺はリリアを見た。


 彼女は真剣だった。


 自分の役割を、少しずつ見つけ始めている。


「ありがとう」


「うん」


 リリアは少し照れたように笑った。


 その笑顔を見て、俺は改めて思った。


 この店は、俺一人では作れない。


 リリアがいる。


 マルクがいる。


 バルドがいる。


 ガイルやサラがいる。


 エミリアがいる。


 ハンナとノアがいる。


 オーウェンがいる。


 そして、これから出会う人たちがいる。


 その全員の声や視線や不安や期待を、少しずつ店の形にしていく。


 それが経営なのだろう。


 ただ酒を売るのではない。


 場を作る。


 安心を作る。


 規律を作る。


 未来を作る。


 俺は入口の扉に手を置いた。


 古い木の感触が、掌に伝わる。


 この扉は、これから何度も開く。


 客を迎えるために。


 働く子を守るために。


 店の未来を始めるために。


「行こう」


 俺は言った。


「明日も早い」


「うん」


 リリアと並んで、西通りを歩き出す。


 振り返ると、契約したばかりの古い建物が、薄闇の中に静かに立っていた。


 まだ看板はない。


 灯りも少ない。


 けれど、もうただの空き店舗ではない。


 そこは、俺たちの店になる場所だ。


 西通りの物件契約。


 改装初日。


 異世界初の夜の店へ向けた、本当の開業準備が始まった。

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