第36話 西通り物件契約・改装開始
翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。
まだ窓の外は薄暗い。ルミナスの街が完全に動き出す前の、静かな時間だった。遠くで荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえ、どこかの煙突から細い煙が立ちのぼっている。市場へ向かう者たちの足音も、酒場帰りの酔客の声も、まだ街の中に溶けきっていない。
狭いギルドの部屋の机には、昨夜書いた羊皮紙が重ねて置かれていた。
契約条件。
保証金。
改装開始期限。
営業開始期限。
床の張り替え。
厨房修理。
階段補強。
二階の目隠し。
入口管理。
警備配置。
近隣対応。
そして、内覧試飲会の招待状。
紙の束を見ているだけで、胸の奥が重くなる。
昨日までは、まだ「候補地」だった。
今日は違う。
今日、契約する。
契約書に名前を書いた瞬間から、あの西通りの古い空き店舗は、俺の夢ではなく、俺の責任になる。
家賃が発生する。
改装費が発生する。
人を呼ぶ責任が生まれる。
期待に応える責任が生まれる。
怖くないと言えば嘘になる。
むしろ、かなり怖い。
けれど、その怖さは嫌なものではなかった。
前へ進む時の足元の震えだ。
俺は羊皮紙を丁寧にまとめ、深く息を吸った。
酒で人を壊す店ではない。
女性を消耗させる店でもない。
客が金を払えば何をしても許される店でもない。
酒と会話を楽しむ、規律ある夜の店。
その第一歩が、今日始まる。
◇◇◇
金獅子亭に着くと、すでにマルクが表の戸を開けていた。
まだ営業前の店内には、昨日の酒と肉料理の匂いが薄く残っている。椅子はテーブルの上に逆さに置かれ、床には拭き掃除の跡があった。いつもの賑やかな酒場とは違い、朝の金獅子亭は少しだけ真面目な顔をしている。
「早いな」
マルクが言った。
「寝てねえ顔だぞ」
「少しは寝ました」
「少ししか寝てねえ顔だ」
「今日は大事なので」
「大事な日ほど寝ろ」
もっともなことを言われた。
反論できない。
けれど、眠れるはずがなかった。
契約条件を確認し、改装工程を見直し、招待状の文面を整え、万が一家主側から条件を変えられた場合の返答まで考えていたら、夜はあっという間に過ぎていた。
「バルドさんは?」
「もうすぐ来る。リリアも中にいる」
奥を見ると、リリアがテーブルの上に羊皮紙を並べていた。昨日の招待客名簿と、内覧試飲会の準備表だ。彼女は俺に気づくと、少し緊張した顔で笑った。
「おはよう、レン」
「おはよう」
「いよいよだね」
「うん」
「大丈夫?」
「かなり緊張してる」
「それ、大丈夫って言うの?」
「動けるから大丈夫」
リリアは少しだけ笑った。
その笑顔を見ると、不思議と胸の重さが少し軽くなる。
昨日、彼女は「私も言っていい?」と聞いた。
俺はもちろんだと答えた。
あれは、ただの会話ではなかった。
俺の店は、俺一人の頭の中から、少しずつ誰かの言葉を受け入れる場所になり始めている。
リリア。
ノア。
エミリア。
ガイル。
マルク。
バルド。
まだ存在しない店なのに、すでに人の声が集まり始めている。
だから、今日の契約はただの物件契約ではない。
その声を入れる器を手に入れる日だ。
ほどなくして、バルドが現れた。
いつものように上質だが派手ではない外套をまとい、表情は落ち着いている。だが、その目は完全に商人のものだった。
「準備は?」
「できています」
俺は羊皮紙を差し出した。
バルドは一枚ずつ確認し、短く頷いた。
「保証金、改装条件、三か月以内の営業開始、床、厨房、階段、二階目隠し。昨日聞いた条件は整理できているな」
「はい」
「今日は夢を語りすぎるな」
バルドの声は静かだった。
「家主と管理側が見たいのは、君の熱意だけではない。支払い能力、改装計画、近隣対応、そして問題が起きた時に逃げない姿勢だ」
「分かっています」
「夢は最後でいい。最初に見せるのは信用だ」
信用。
その言葉が、胸に刺さる。
酒も、店も、人も、結局は信用で動く。
信用がなければ、どれだけ良い酒でも疑われる。どれだけ良い店でも人は入らない。どれだけ綺麗な言葉を並べても、働く人は不安を消せない。
俺が今日買いに行くのは、建物だけではない。
あの建物を使う資格だ。
「行くぞ」
マルクが言った。
「俺も行く。現場を見る」
「ありがとうございます」
「礼はいい。変な条件を出されたら睨む」
「睨まないでください」
「じゃあ黙って立ってる」
「それも怖いです」
リリアが吹き出した。
その小さな笑い声に背中を押されるように、俺たちは金獅子亭を出た。
◇◇◇
朝の中央通りは、すでに動き始めていた。
露店が布を広げ、肉屋が軒先に塊肉を吊るし、パン屋の前には焼き立てを求める人が並んでいる。商人が荷を確認し、冒険者が眠そうな顔でギルドへ向かい、道端では子供が母親に手を引かれて歩いていた。
街は生きている。
その中心から一本外れ、西通りへ入る。
途端に、音が薄くなった。
中央通りの喧騒は背後へ遠ざかり、石畳を踏む自分たちの足音がはっきり聞こえる。古い看板が風に揺れ、閉じたままの店の扉には薄く埃が積もっていた。色あせた布を軒先に吊るす店、半分だけ開いた酒場、客の少ない道具屋。昨日見た時と同じ、静かな通りだった。
だが、今日は昨日とは違って見える。
昨日は候補地を見に来た。
今日は、ここに未来を持ち込むために来た。
西通りの奥に、あの建物が見えた。
古びた二階建て。
広めの間口。
曇った窓。
重そうな木の扉。
何年も借り手がつかなかった空き店舗。
その前に、ダリオが立っていた。
昨日と同じように、きっちりした服装で、手には契約書らしき羊皮紙を持っている。家主本人ではなく、管理側の代理人として動いている男だ。表情には商売人らしい警戒と、少しの期待が混じっていた。
「お待ちしておりました」
ダリオが頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
俺も頭を下げる。
ダリオの視線が、俺の後ろにいるバルドとマルクを順に見た。
「バルド会長も同席されるのですね」
「見届け人としてな」
バルドが淡々と答える。
「若い借り手だ。余計な誤解が出ぬよう、条件を明確にしておきたい」
「それは助かります」
ダリオはそう言ったが、少しだけ肩に力が入ったのが分かった。
バルドがいることで、向こうも雑な条件は出せない。
ただし、それは俺にとって楽になるだけではない。
こちらも半端な覚悟では済まなくなる。
「中で確認しましょう」
ダリオが鍵を開けた。
古い扉が、ぎい、と軋む。
昨日と同じ埃の匂いが、朝の空気へ流れ出した。
◇◇◇
店内に入ると、薄い光が曇った窓から差し込んでいた。
床には埃が積もり、壁には前の店の名残らしき釘跡が残っている。奥の厨房跡には古い炉があり、煤の匂いがまだ染みついていた。二階へ続く階段は細く、踏むと少し嫌な音がする。
普通なら、良い物件とは言えない。
だが俺には、やはり見えた。
入口横に受付。
そこから客を勝手に奥へ通さない。
正面には待合。
中央には通常席。
壁際には女性客が安心して座れる席。
奥には特別席。
二階には控室と衣装管理の場所。
裏側には酒と氷を管理する小さな作業場。
黒服が入口、中央、奥の三点を見られる導線。
まだ何もない。
けれど、頭の中ではすでに人が動いている。
「では、契約条件の確認から」
ダリオが中央の古い卓に羊皮紙を広げた。
俺はその向かいに立つ。
バルドが横に立ち、マルクは腕を組んで少し後ろ。リリアは緊張した様子で俺の斜め後ろにいた。
「保証金は、昨日お伝えした通り、当初提示額から一部減額します。ただし、契約開始後一か月以内に改装開始。三か月以内に営業開始できない場合は、契約見直しの対象となります」
「確認しました」
「床の張り替え、厨房修理、階段補強、二階の目隠しは借主負担。ただし、構造に関わる補修については事前申請。無断で柱や外壁を変えることはできません」
「分かっています」
「営業内容については、近隣に説明すること。夜間の騒音、酔客、外での揉め事が続く場合、管理側から是正要求を出します」
「それも承知しています」
俺は用意していた羊皮紙を広げた。
「こちらが、近隣対応と営業管理の案です」
ダリオの目が動いた。
「もう作られたのですか」
「はい」
俺は順番に説明した。
入口での受付。
会員確認。
泥酔客の入店拒否。
女性客の帰路護衛。
近隣への工事挨拶。
夜間作業は行わないこと。
騒音や苦情が出た場合の連絡窓口。
警備配置。
店内での禁止行為。
そして、内覧試飲会での仮申込制。
ダリオは最初、形式的に聞いていた。
だが途中から表情が変わった。
若い借り手の夢物語を聞く目ではない。
運営計画を確認する目になっていた。
「かなり細かいですね」
「細かくしておかないと、後で曖昧になります」
「曖昧さを避けたい、と」
「はい」
俺は頷いた。
「酒と会話を楽しむ店にしたいんです。ですが、そのためには規律が必要です。金を払ったから何をしてもいい店にはしません」
ダリオは黙って俺を見た。
店内の空気が、少しだけ静かになる。
「女性が働く店だと聞いています」
「はい」
「それを不安に思う近隣住民もいます」
「当然だと思います」
「悪い噂も出るでしょう」
「出ると思います」
「それでもやるのですか」
「やります」
声は自然に出た。
大きな声ではない。
けれど、自分でも分かるくらい迷いはなかった。
「だから、隠しません。仕事内容を説明します。家族が不安なら見せます。客にも規約を渡します。店の仕組みを見える形にします」
ダリオはしばらく考え込んだ。
バルドが静かに口を開く。
「この少年は、若いが無計画ではない。少なくとも、酒をただ売る者ではない。場を作ろうとしている」
「場、ですか」
「そうだ。うまくいけば、この西通りに人が戻る」
その言葉に、ダリオの目がわずかに動いた。
西通りに人が戻る。
管理側にとっても、それは魅力的な話なのだろう。
空き店舗が埋まるだけではない。人が来れば、周囲の店も息を吹き返す。だが逆に、失敗すれば夜の騒ぎだけが増える。
だからこそ、彼らは慎重なのだ。
「一つ確認させてください」
ダリオが言った。
「保証金は本日支払い可能ですか」
「はい」
俺は用意していた袋を取り出した。
重い。
ただの金貨の重さではない。
会員から預かった信用の一部。
俺自身の覚悟。
これから始まる改装の入口。
それを卓の上に置く。
金属が鈍い音を立てた。
ダリオは中身を確認し、書記役に頷く。
「確認しました」
その瞬間、胸の奥がまた重くなった。
金が減った。
当然だ。
だが、その事実は想像よりも生々しい。
夢が、金貨の音を立てて現実になっていく。
◇◇◇
契約書への署名の前に、俺は店内をもう一度見渡した。
埃っぽい床。
曇った窓。
傷んだ壁。
古い厨房。
頼りない階段。
空っぽの空間。
この場所には、まだ何もない。
けれど、何もないからこそ、すべてを作れる。
胸の奥に、懐かしい痛みが走った。
いつか自分の店を持ちたい。
そう思っていた。
だが、あの時の俺は何も形にできなかった。
誰かの店で、誰かの看板の下で、誰かの指示を受けて動いていた。
それが悪かったわけではない。
そこで学んだものは多い。
客の見方。
酒の出し方。
女の子の守り方。
店の空気の作り方。
トラブルの収め方。
その全部が、今ここに繋がっている。
ただし、そのことを誰かに話すつもりはない。
この世界の俺は、レンだ。
身元不明の少年として始まり、酒と氷で信用を作り、今ようやく店の入口に立っている。
それでいい。
「レン」
リリアが小さく呼んだ。
振り返ると、彼女は不安そうで、それでもまっすぐ俺を見ていた。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
「怖いけど、大丈夫」
俺がそう言うと、リリアは少しだけ笑った。
「それなら、大丈夫だね」
その言葉で、手の震えが止まった。
俺は羽根ペンを取る。
契約書の下に、自分の名前を書く。
レン。
たった二文字。
だが、その二文字が羊皮紙に刻まれた瞬間、空き店舗は空き店舗ではなくなった。
続いてダリオが署名し、管理側の印が押される。
バルドが見届け人として名を添えた。
マルクが腕を組んだまま、少しだけ口元を緩める。
「これで契約成立です」
ダリオが静かに言った。
「本日より、この物件はレンさんに貸し出されます」
その言葉が、店内に落ちた。
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、良い店にします」
「期待しています」
ダリオはそう言った。
その声には、まだ完全な信頼はない。
けれど、昨日よりは確かに違う。
警戒の中に、ほんの少し期待が混じっていた。
今はそれで十分だ。
◇◇◇
契約が終わった直後、俺は入口へ向かった。
「では、始めます」
ダリオが目を瞬かせた。
「始める、とは?」
「改装です」
リリアが驚いたように声を上げた。
「今から?」
「今から」
マルクが笑った。
「お前、契約したその日に壊す気か」
「壊すんじゃなくて、直します」
「似たようなもんだろ」
「違います」
俺が扉を開けると、西通りの向こうから数人の職人が歩いてきていた。
昨日のうちに、仮で声をかけておいた者たちだ。契約が成立した場合だけ来てもらう約束になっていた。大工が三人、壁を見る職人が一人、厨房を確認できる職人が一人、荷運びの若者が二人。
親方らしい男が道具袋を肩に担ぎ、俺の前で足を止めた。
「契約は?」
「成立しました」
「なら、入っていいんだな」
「お願いします」
職人たちが店へ入っていく。
その音に、西通りの住人たちが顔を出し始めた。
道具屋の主人。
古着屋の女将。
小さな食堂の夫婦。
向かいの古い酒場の店主。
みんな、好奇心と警戒を半分ずつ混ぜた顔でこちらを見ている。
当然だ。
空き店舗に急に若い借り手が入り、職人が道具を持って集まってきたのだ。何が始まるのか、気になるに決まっている。
俺はその視線の前に立ち、頭を下げた。
「本日より、こちらの建物をお借りすることになりました。これから一週間ほど、補修と改装で音が出ます。ご迷惑をおかけしますが、夜間の作業は行いません。埃や木材の片付けにも気をつけます。何かあれば、俺に直接言ってください」
通りが少しざわついた。
先に言う。
隠さない。
苦情が出る前に、受け止める場所を作る。
それが信用の始まりだ。
古着屋の女将が腕を組んだ。
「夜の店になるって聞いたよ」
「はい」
「騒がしくなるんじゃないのかい?」
「騒がせないために、入口管理と警備を置きます。泥酔した客は入れません。外で騒ぐ客が出た場合は、すぐに退店対応します」
「本当にできるの?」
「できるように仕組みを作ります」
完璧な答えではない。
だが、できると断言するよりは正直だ。
店は人が動かすものだ。
問題は必ず起きる。
だから必要なのは、問題が起きないと言い張ることではなく、起きた時に対処する仕組みを持つことだ。
道具屋の主人が鼻を鳴らした。
「若いのに大きく出るな」
「大きく出た分、働きます」
マルクが後ろで笑いを堪えていた。
リリアも隣に並んで頭を下げる。
「よろしくお願いします。困ったことがあれば、私にも言ってください」
リリアが言うと、女将の表情が少し柔らかくなった。
彼女の声には不思議な力がある。
押しつけがましくない。
けれど、相手の警戒を少しだけほどく。
店は、建物だけでなく人で印象が変わる。
俺はそれを改めて感じていた。
◇◇◇
店内では、すぐに作業が始まった。
まず、古い椅子と壊れた棚を外へ出す。
使えない机を解体する。
床板を叩き、傷みの強い場所に印をつける。
厨房の炉を確認し、水場の状態を見る。
二階へ続く階段の強度を調べる。
埃が舞い、木の匂いが広がる。
昨日まで眠っていた建物が、一気に息を吹き返したようだった。
職人たちの掛け声。
木槌の音。
古い釘を抜く音。
板が軋む音。
床を掃く音。
そのすべてが、俺には始まりの音に聞こえた。
「レン、どこからやる?」
親方が聞いた。
「入口と床を最優先でお願いします。内覧試飲会では、客が最初に見る場所と歩く場所が重要です」
「壁は?」
「入口から見える範囲を先に。全体は後で構いません」
「厨房は?」
「冷やし果実酒と軽い菓子を出せる程度まで。大きな料理はまだ出しません」
「二階は?」
「女性の控室予定です。今日は危険箇所の確認と、窓の目隠し位置だけ見たいです」
親方は少し感心した顔をした。
「若いのに、優先順位がはっきりしてるな」
「時間がないので」
「一週間で形にするんだったな」
「はい」
「無茶だ」
「承知しています」
「嫌いじゃない」
親方は笑い、職人たちへ指示を飛ばした。
その瞬間、現場の空気が変わった。
ただの空き店舗ではなく、仕事場になった。
人が動き、物が動き、音が生まれる。
床板が剥がされると、下から湿った木の匂いが立ち上る。思ったより傷んでいる場所もあれば、意外と状態の良い場所もあった。
俺は視線を走らせ、全鑑定を使う。
――――――――
床板状態
入口付近:傷み中
中央客席予定地:傷み小
奥通路:傷み大
危険箇所:三箇所
推奨対応:奥通路優先補修/入口段差調整/中央部研磨
――――――――
「親方、奥通路の三箇所を先にお願いします。そこをスタッフの導線にします」
「見ただけで分かるのか?」
「少し得意なんです」
「便利な目だな」
「よく言われます」
実際には、それほど言われたことはない。
だが、今はそれで済ませる。
全鑑定の詳細を話す必要はない。
職人たちはすぐに奥通路へ回った。
そこは将来的に、女性スタッフが控室から客席へ出る通路になる。客の目に触れにくく、それでいて黒服がすぐ近づける場所。そこが危険なら、店の根幹が揺らぐ。
見た目より先に安全。
これは絶対だ。
◇◇◇
昼過ぎ、オーウェンが来た。
大きな道具袋を背負い、腕には木材の見本を抱えている。昨日の段階で簡単な図面は渡していたが、契約前だったため本格的な作業には入っていなかった。
彼は店内へ入ると、しばらく黙って立ち尽くした。
剥がされた床。
印をつけられた壁。
外へ運ばれた古い家具。
作業する職人たち。
そのすべてを一つずつ見る。
そして俺へ視線を向けた。
「契約したか」
「はい」
「なら、作る」
「お願いします」
「昨日の図面を見た。通常席、女性席、奥の特別席。椅子の高さを変える」
「高さですか?」
「客用は深く座れるもの。働く側が使う椅子は立ち上がりやすいもの。奥の席は長く座れるが、逃げ道を塞がない形にする」
俺は思わず息を呑んだ。
こちらが説明しようとしていたことを、すでに理解している。
人を守る椅子。
ただ座るための家具ではない。
人の動きを作り、安全を作る道具だ。
「受付台は入口横でいいな」
「はい。会員確認と会計補助、書類管理ができるようにしたいです」
「内側に棚。外から手元が見えない高さ。だが威圧感は出さない」
「それでお願いします」
「三日で、内覧に必要な分だけ仕上げる」
リリアが驚いた。
「三日でできるんですか?」
「全部は無理だ」
オーウェンは淡々と答えた。
「だが、見せる分は作る。受付台、通常席の椅子数脚、女性席、奥の特別席の試作品。残りは後で増やす」
「試作品?」
「完成品をいきなり全部作ると失敗した時に困る。まず座らせる。動かす。直す」
職人らしい言葉だった。
そして店作りにも通じる。
いきなり完成を目指さない。
まず試す。
客を座らせる。
働く人に動いてもらう。
不便なら直す。
それを繰り返して、店は強くなる。
「内覧試飲会で、客に座らせろ」
オーウェンが言った。
「感想を聞け」
「もちろんです」
「椅子は飾りじゃない。座って初めて分かる」
「分かりました」
オーウェンは短く頷き、すぐに寸法を測り始めた。
その背中を見ながら、リリアがぽつりと言った。
「すごいね。どんどん本当に店になっていく」
「まだ壊してる段階だけどね」
「でも、昨日とは違う」
その通りだった。
昨日は空き店舗だった。
今日は現場だ。
人が入り、音が鳴り、埃が舞い、寸法が測られ、木材が運ばれる。
建物が未来へ向けて動き出している。
◇◇◇
夕方前、最初の問題が起きた。
奥の壁を調べていた職人が、低い声を上げたのだ。
「おい、ここ、思ったより傷んでるぞ」
俺はすぐに向かった。
奥の部屋。
将来的には特別席にする予定の場所だ。
壁板を一部外すと、中の梁に古い傷みが見つかった。完全に腐っているわけではないが、そのままにしておくには危険だ。
親方が渋い顔をする。
「ここを直すなら、予定より半日延びる」
「費用は?」
「少し増える」
痛い。
かなり痛い。
保証金を払ったばかりだ。
これから家具代もかかる。
衣装も必要になる。
酒器も揃えなければならない。
内覧試飲会の準備にも金がいる。
だが、ここを見逃す選択肢はない。
「直してください」
俺は即答した。
親方が俺を見る。
「迷わないのか?」
「安全に関わる場所は迷いません」
「金が増えるぞ」
「それでもです」
安全を削って見た目を整える店にはしない。
女性を守る店を作ると言いながら、建物の安全を後回しにするなどあり得ない。
客を安心させる店を作ると言いながら、足元や壁の危険を見て見ぬふりすることもできない。
店の信用は、見えないところで決まる。
「分かった」
親方は職人へ指示を出した。
「奥の梁を補修する。予定を組み替えるぞ」
作業工程が変わった。
壁の仕上げは後回し。
中央の研磨は明日へ。
入口と奥の補修を優先。
紙の上では整っていた工程が、現場の事情であっさり崩れる。
だが、これが現実だ。
計画通りに進まない。
だから、その場で判断する。
夢ではなく、現場。
理想ではなく、床と壁と金。
俺は今日、店作りの本当の重さを少し知った気がした。
◇◇◇
日が傾く頃、西通りには木材の匂いが広がっていた。
外には使えなくなった古い家具が積まれ、職人たちが汗を拭っている。店内はまだ散らかっているが、朝とは別物だった。入口周りは広くなり、床の危険箇所には印がつけられ、奥の壁は補修に向けて開かれている。
まだ美しくはない。
むしろ汚い。
だが、確かに前へ進んでいる。
通りの住人たちも、少しずつ見方を変え始めていた。
「随分早いね」
古着屋の女将が店先から声を掛けてきた。
「一週間で内覧まで持っていきたいので」
「無茶するねえ」
「はい」
「でも、埃を外へ散らさないようにしてるのは悪くないよ」
「ありがとうございます」
それだけで十分だった。
小さな評価。
小さな信用。
それを積み重ねるしかない。
道具屋の主人も、昼より少し柔らかい顔で言った。
「釘や金具が足りないなら、うちに言え。少しは融通してやる」
「助かります」
「ただし、夜に騒がせるなよ」
「必ず」
近隣対応も、初日は大きな問題なく終わりそうだった。
もちろん、これは始まりに過ぎない。
実際に夜営業が始まれば、不満も出る。
酔客が出るかもしれない。
騒音も気にされる。
だが、最初に頭を下げておくことには意味がある。
逃げない相手だと思ってもらう。
それが第一歩だ。
◇◇◇
作業が終わったのは、夕日が完全に沈む少し前だった。
職人たちは道具を片付け、明日の作業予定を確認して帰っていった。
オーウェンは最後まで寸法を測り、木片に細かな印を書いていた。
「明日の朝、工房で削る。夕方に受付台の骨組みを持ってくる」
「早すぎませんか?」
「遅いくらいだ」
そう言って、彼は道具袋を担いだ。
「レン」
「はい」
「この店は、椅子で失敗させるな」
「はい」
「人が安心して座れる店は、それだけで強い」
その言葉を残し、オーウェンは去っていった。
職人の背中が、西通りの薄闇に消える。
安心して座れる店。
簡単な言葉だ。
けれど、それこそ俺が作りたいものの一部だった。
客も。
働く子も。
安心して座れる。
安心して立てる。
安心して帰れる。
そんな店を作る。
「レン」
リリアが隣に立った。
「疲れた?」
「かなり」
「でも、嬉しそう」
「うん」
俺は素直に頷いた。
「嬉しい」
リリアは店内を見た。
埃っぽい床。
剥がされた壁。
仮置きの木材。
まだ何も整っていない空間。
「まだ、全然綺麗じゃないのに?」
「だからかな」
「だから?」
「何もない場所が、少しずつ店になっていくのを見るのが嬉しい」
リリアは少し考え、それから笑った。
「レンらしいね」
その時、マルクが奥から出てきた。
「おい、店主」
俺は一瞬、反応が遅れた。
「俺ですか?」
「他に誰がいる」
店主。
その言葉が、妙に胸に刺さった。
まだ開業していない。
まだ看板もない。
まだスタッフもいない。
それでも、契約した以上、俺はこの場所の店主なのだ。
「店主って、重いですね」
「今頃気づいたか」
マルクは笑った。
「今日は初日だ。これからもっと重くなるぞ」
「脅さないでください」
「事実だ」
彼は店内を見回した。
「だが、悪くない。朝よりずっと店っぽくなった」
「まだ壊しただけです」
「それでもだ。人が動くと、建物は変わる」
マルクの言葉に、俺は頷いた。
人が動くと、建物は変わる。
店も同じだ。
人が集まることで、ただの場所が店になる。
◇◇◇
夜。
俺は店の入口に立ち、外の西通りを見た。
中央通りの明かりは遠い。
この通りには、まだまばらな灯りしかない。
静かで、少し寂しい。
けれど、その静けさの中に、俺は未来の音を聞いていた。
開店前のざわめき。
受付で名を確認する声。
氷がグラスに触れる音。
女性スタッフが笑う声。
黒服が静かに客を案内する足音。
帰り際の「また来るよ」という声。
それらはまだ存在しない。
だが、今日、最初の一歩を踏んだ。
契約した。
改装を始めた。
近隣へ頭を下げた。
職人が入り、オーウェンが家具に取り掛かった。
もう、夢だけではない。
現実が動き始めている。
「明日からもっと忙しくなるね」
リリアが言った。
「うん。明日は入口と床、受付台の骨組み、奥の補修。あと、招待状の清書」
「私も手伝う」
「助かる」
「ノアにも、ちゃんと渡すんだよね」
「うん」
「緊張するかな」
「すると思う」
「じゃあ、私が一緒にいる」
俺はリリアを見た。
彼女は真剣だった。
自分の役割を、少しずつ見つけ始めている。
「ありがとう」
「うん」
リリアは少し照れたように笑った。
その笑顔を見て、俺は改めて思った。
この店は、俺一人では作れない。
リリアがいる。
マルクがいる。
バルドがいる。
ガイルやサラがいる。
エミリアがいる。
ハンナとノアがいる。
オーウェンがいる。
そして、これから出会う人たちがいる。
その全員の声や視線や不安や期待を、少しずつ店の形にしていく。
それが経営なのだろう。
ただ酒を売るのではない。
場を作る。
安心を作る。
規律を作る。
未来を作る。
俺は入口の扉に手を置いた。
古い木の感触が、掌に伝わる。
この扉は、これから何度も開く。
客を迎えるために。
働く子を守るために。
店の未来を始めるために。
「行こう」
俺は言った。
「明日も早い」
「うん」
リリアと並んで、西通りを歩き出す。
振り返ると、契約したばかりの古い建物が、薄闇の中に静かに立っていた。
まだ看板はない。
灯りも少ない。
けれど、もうただの空き店舗ではない。
そこは、俺たちの店になる場所だ。
西通りの物件契約。
改装初日。
異世界初の夜の店へ向けた、本当の開業準備が始まった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




