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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
夜の社交場を目指して

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第38話 布一枚の安心

 翌朝、西通りの空は薄い雲に覆われていた。


 雨が降るほどではない。だが、空気には少し湿り気があり、古い木材と石畳の匂いがいつもより濃く感じられた。中央通りから流れてくる朝の喧騒も、今日はどこか遠い。荷車の車輪の音、露店の準備をする商人の声、鍛冶屋の槌音。それらが薄い布の向こう側から聞こえてくるようだった。


 俺は西通りの店の前で足を止めた。


 昨日の夜、店を覗いていた誰か。


 入口に落ちていた木片。


 そこに残っていた新しい傷と黒い煤。


 全鑑定では、建物確認用の簡易目印と出た。


 つまり誰かが、この店を見に来た。


 ただの野次馬かもしれない。


 近所の子供かもしれない。


 だが、カイル派の誰かである可能性もある。


 物件契約。


 改装開始。


 招待状配布。


 噂が広がるには十分すぎる材料が揃っている。


 敵が動くなら、そろそろだ。


 俺は扉の前で深く息を吸った。


 怖い。


 だが、怖いからこそ準備する。


 これは昨日リリアに言った言葉だ。


 言った以上、自分が一番守らなければならない。


 店の扉を開けると、木の香りが強く流れてきた。


 昨日よりもはっきりと、現場の匂いになっている。


 仮置きされた受付台。


 補修途中の床。


 奥の梁へ入った新しい木材。


 壁に残る印。


 二階へ続く階段には、危険箇所を示す布が巻かれていた。


 まだ店ではない。


 だが、空き店舗でもない。


 ここはもう、店へ向かって変わり続ける場所になっていた。


「早いな、店主」


 奥から親方の声が飛んだ。


「おはようございます」


「今日もやることが多いぞ」


「分かっています」


「本当に分かってる顔だな。普通の客なら、この状態を見たら逃げるぞ」


「内覧試飲会の客は、逃がさないようにします」


「言うじゃねえか」


 親方は笑った。


 その笑いに釣られて、職人たちの空気も少し軽くなる。


 現場に笑いがあるのは悪くない。


 だが油断はできない。


 俺は入口横の受付台へ目を向けた。


 昨日オーウェンが仮置きした骨組みは、少し削られて角が丸くなっている。外側から見た時の威圧感が減り、手を置いた時の高さも少し柔らかくなった。内側には、リリア用の小さな踏み台が仮で置かれている。


 たったそれだけで、受付台はただの木箱ではなくなっていた。


 人が立つ場所。


 客を迎える場所。


 店の第一印象を決める場所。


 その気配が出始めていた。


「レン」


 背後からリリアの声がした。


 振り返ると、彼女はハンナとノアを連れて立っていた。


 ハンナは少し緊張した様子で、ノアはそのさらに後ろに隠れるようにしている。だがノアの目は、昨日金獅子亭に来た時とは違っていた。怯えはある。けれど、それ以上に好奇心があった。


 彼女は店の中を見ていた。


 床。


 壁。


 受付台。


 階段。


 窓。


 人ではなく、物を見る目。


 やはり、この子は細かい。


「来てくれてありがとうございます」


 俺が頭を下げると、ハンナも丁寧に返した。


「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。ただ、工事中の現場へ娘を連れてきてよかったのでしょうか」


「危ない場所へは近づかせません。今日は、布や目隠し、控室のことを見てほしくて」


 ノアの肩が小さく揺れた。


「私が、ですか?」


「はい」


「でも……私、まだ何もできません」


「できるかどうかを見に来たんじゃありません。気づくかどうかを見に来てもらいました」


 ノアは意味が分からないように俺を見た。


 リリアが横から明るく言う。


「昨日も紐のこと、すぐ気づいたでしょ? 私、全然気づかなかった」


「あれは、たまたま……」


「たまたまでも、助かったよ」


 リリアがそう言うと、ノアは少しだけ目を伏せた。


 照れている。


 だが嫌ではなさそうだった。


「では、まず入口から見てもらえますか」


 俺は受付台の前に立った。


「ここで客を迎えます。会員確認をして、危険な客や泥酔した客は奥へ通さない。女性客には安心して入ってもらう。働く子が困った時は、ここへ目を向ければ誰かが気づく。そんな場所にしたいんです」


 ノアはじっと受付台を見た。


 それから、ゆっくり内側へ回る。


 リリアも隣に立った。


 オーウェンが昨日作った踏み台へリリアが乗ると、高さはちょうどよく見えた。だがノアは踏み台ではなく、受付台の下を見ている。


「あの」


「はい」


「内側の棚に、布を入れるなら、扉があった方がいいと思います」


「布?」


「予備の布とか、手拭きとか、汚れた時にすぐ出す物です。外から見えると、少し雑に見えるので」


 俺はすぐに羊皮紙へ書いた。


 受付内側、布収納、扉付き。


 ノアはそれを見て、少し驚いた顔をした。


「また、書くんですね」


「大事なので」


「本当に大事ですか?」


「かなり」


 俺は受付台を軽く叩いた。


「入口は、客が最初に見る場所です。ここが雑だと、店全体が雑に見えます」


 ノアはしばらく黙った。


 そして、少しだけ声を強くした。


「なら、手を拭く布は白すぎない方がいいです」


「白すぎない?」


「綺麗には見えます。でも、少し汚れただけで目立ちます。働く人がすぐ交換できないなら、薄い生成りの布の方が落ち着くと思います」


 リリアが目を丸くした。


「そんなことまで考えるんだ」


 ノアは慌てる。


「す、すみません。変なことを」


「変じゃない」


 俺は即答した。


「それ、すごく大事です」


 白い布は清潔感がある。


 だが汚れが目立つ。


 高級店なら常に交換できる体制が必要だ。


 今の俺たちに、それはまだ難しい。


 なら最初から運用できる色を選ぶ。


 見た目の理想ではなく、現場で回る設計。


 ノアの視点は、まさにそこにあった。


 ハンナが娘を見つめる目に、少し驚きと安堵が混じっていた。


 母親も、ここまでノアが意見を言うとは思っていなかったのかもしれない。


◇◇◇


 次に二階へ上がった。


 階段はまだ補強前で、親方から許可された場所だけを慎重に歩く。リリアが先に上がり、ノアがその後ろを恐る恐る続く。ハンナは少し心配そうだったが、俺が最後について足元を確認した。


 二階は昨日よりも明るくなっていた。


 窓を開けたことで湿った空気が少し抜け、埃も掃かれている。だが壁は古く、床にも軋む場所がある。部屋は二つ。大きい方を女性スタッフの控室に、小さい方を衣装や備品の置き場にする予定だった。


「ここが控室です」


 俺が言うと、ノアは静かに部屋を見回した。


 働く女性たちが営業前に準備をする場所。


 休む場所。


 気持ちを整える場所。


 客の前に出る前、あるいは客の前から戻ってくる場所。


 ここは表から見えない。


 だが、店の空気を支える重要な場所になる。


 前世の店でも、控室が荒れている店は大抵長続きしなかった。


 私物が雑に置かれ、空気が悪く、女の子同士が疲れた顔で座っている。


 そんな控室から、良い接客は生まれにくい。


 表で笑うためには、裏で息をつける場所が必要だ。


「ここ、寒くないですか?」


 ノアが言った。


「寒い?」


「窓の近くに座ると、冬は冷えると思います。布で目隠しをするなら、薄すぎると寒いです。でも厚すぎると重く見えます」


 俺はすぐ書く。


 控室窓、目隠し兼防寒、厚さ調整。


「あと、着替える場所が見えない方がいいです」


 ノアの声は小さい。


 けれど、はっきりしていた。


「部屋の中に仕切りがないと、誰かが扉を開けた時に困ります」


 リリアが頷く。


「それは嫌かも」


「ですよね」


 俺は部屋の入口から視線を動かした。


 扉が開く。


 中にいる女性が振り返る。


 着替え途中なら困る。


 荷物も見える。


 気が休まらない。


 控室は、ただ椅子を置けばいい場所ではない。


 安心して準備できる構造が必要だ。


「布の仕切りを作ります」


 俺が言うと、ノアは少し考えた。


「布だけだと、めくれます」


「では?」


「細い木枠に布を張って、動かせるようにした方がいいと思います。必要な時だけ立てて、使わない時は壁際に寄せる形です」


 俺は思わずノアを見た。


 完全に実用的な提案だった。


 オーウェンが聞いたら喜ぶかもしれない。


「すごいですね」


「えっ」


「かなり良い案です」


 ノアは顔を赤くした。


「思いついただけです」


「その思いつきが必要なんです」


 ハンナがそっと娘の肩に手を置いた。


 その表情は、昨日よりずっと柔らかかった。


「この子は昔から、服そのものより、着る人が困らないかを気にする子で」


「それは才能です」


 俺ははっきり言った。


「この店には、そういう目が必要です」


 ノアは何も言わなかった。


 だが、俯いた頬が赤い。


 自己評価の低い子に、大げさな言葉は逆効果になることもある。


 けれど、必要な時には必要だと伝えなければならない。


 彼女の気づきは、店を守る。


 俺はそう確信し始めていた。


◇◇◇


 下へ戻ると、オーウェンが受付台の前で木材を削っていた。


 ノアが提案した内容を伝えると、彼は手を止めた。


「動かせる布仕切りか」


「はい。控室用です」


 オーウェンはノアを見る。


 ノアはびくりと肩を震わせた。


「君が考えたのか」


「す、すみません」


「謝るな」


 オーウェンは淡々と言った。


「良い」


 その一言で、ノアが固まった。


「え?」


「良い案だ。固定壁にすると重い。布だけだと弱い。木枠に布を張るなら、軽く動かせる」


 オーウェンはすぐに木片へ線を引いた。


「細い枠で作る。倒れにくい足も必要だ。布は軽すぎると透ける。厚すぎると扱いにくい」


 ノアの目が少し変わった。


 怯えよりも、興味が勝った。


「あの、布は斜めに張ると、少したるみにくいです」


「なぜだ」


「母の店で、棚の目隠しに使う時に……その方が端が浮きにくくて」


「見せろ」


 オーウェンが短く言う。


 ノアは戸惑いながらも、近くにあった端切れと細い木材を使って説明し始めた。最初は声が小さかったが、布を持つと少しずつ言葉が出てくる。


 人前は苦手。


 でも、物を前にすると話せる。


 これは大事な特徴だ。


 接客向きではなくても、裏方としてはかなり強い。


 オーウェンは黙って聞き、時々頷いた。


 職人の世界に、年齢や自信の有無は関係ない。


 使える案かどうか。


 そこだけを見る。


 ノアにとって、それは初めての経験だったのかもしれない。


「明日、試す」


 オーウェンが言った。


「布は用意できるか」


 ハンナがすぐに答える。


「端切れでよければ持って来られます」


「十分だ」


 それだけで話はまとまった。


 リリアが俺の袖を軽く引いた。


「ノア、すごいね」


「うん」


「嬉しそう」


「うん」


 ノアは笑ってはいない。


 だが、目が違う。


 自分の意見が現場で使われる。


 自分の小さな気づきが、家具職人の手で形になる。


 その事実が、彼女の中に小さな火を灯しているようだった。


 俺はそれを見ながら思った。


 店は人を変える。


 酒を飲む客だけではない。


 働く人も、関わる人も変える。


 なら、この店はやはり、ただの商売で終わらせてはいけない。


◇◇◇


 午後になると、バルドがやって来た。


 馬車ではなく、今日は徒歩だった。護衛らしき男を一人だけ連れている。周囲を見に来たのだろう。西通りの空気、人の出入り、近隣の反応。それらを自分の目で確かめるつもりなのが分かった。


「進んでいるな」


「まだまだです」


「昨日契約したばかりなら十分だ」


 バルドは店内を見渡し、受付台で目を止めた。


「これが入口管理か」


「はい。会員確認、案内、会計補助、苦情対応の窓口にもします」


「苦情対応を入口で受けるのか」


「外で騒がれるよりは」


「良い判断だ」


 彼は短く頷いた。


 次に二階へ向かい、控室予定の部屋を見た。


「女性スタッフ用か」


「はい。まだ候補も揃っていませんが、先に場所を作ります」


「人を集めてから場所を作るのではないのだな」


「逆です。安心できる場所があると見せないと、人は集まりません」


 バルドは少しだけ笑った。


「君は本当に、先に信用を作ろうとする」


「信用がないと、女性を集めるのは危険なので」


「その考えは正しい」


 バルドの声は静かだった。


「この街で女性が夜に働くと聞けば、多くの者はまず悪い想像をする。家族は反対する。商人は警戒する。男たちは勝手な期待をする」


「分かっています」


「だからこそ、場所で示す必要がある」


 俺は頷いた。


 説明だけでは足りない。


 規約だけでも足りない。


 店の構造そのものが、理念を語らなければならない。


 入口で止める。


 控室を守る。


 女性客の帰路を守る。


 客を選ぶ。


 その全部が、店の言葉になる。


 バルドはしばらく黙って部屋を見ていたが、やがて声を落とした。


「昨日の夜、何かあったと聞いた」


 俺は表情を変えないようにした。


「何か、とは?」


「店の前を見ていた者がいる、と」


 やはり耳が早い。


 俺は木片の件を話した。


 バルドは黙って聞き、最後に小さく息を吐いた。


「カイル派の可能性はある」


「やはり」


「だが、まだ断定するな。断定して動けば、相手に隙を与える」


「分かっています」


「内覧試飲会では、招待客以外を入れるな。入口に一人、外に一人、裏口に一人。最低三人は必要だ」


「黒服候補がまだいません」


「臨時なら手配できる」


 俺はバルドを見た。


「商会からですか?」


「いや、商会の者では目立つ。冒険者ギルド経由で、口の堅い護衛を探す方がいい」


「ガイルさんに相談します」


「それが良い」


 バルドはそこで少しだけ目を細めた。


「ただし、警備を強めすぎると、客が不安になる」


「そうですね」


「守っていると感じさせつつ、怖がらせない。難しいぞ」


「分かっています」


 黒服も同じだ。


 存在感は必要だが、威圧感が強すぎると店の空気が壊れる。


 危険客には怖く。


 良い客には安心感を。


 女性スタッフには頼れる存在として。


 そのバランスが必要になる。


 俺自身は黒服としての感覚がある。


 だが、他人に教えるとなると別だ。


 この世界で黒服を育てる。


 それも近いうちに必要になる。


◇◇◇


 夕方、ガイルとサラが店に来た。


 バルドの助言を受け、臨時警備の相談をするためだ。


 ガイルは入口を見た瞬間、妙に感心したような顔をした。


「おお、昨日より店っぽいな」


「まだまだです」


「いや、昨日は壊れかけの空き家だった。今日は何か始まりそうな場所に見える」


 その言い方は雑だが、悪くない評価だった。


 サラは入口から奥まで視線を動かし、すぐに言った。


「入口はいいけど、裏口が甘いわね」


「やっぱりそこですか」


「招待制なら、正面より裏から入ろうとする人がいるかもしれない。特に邪魔したい人間は」


 彼女は奥の通路へ向かった。


 弓士らしく、視線の通し方が鋭い。


「ここ、荷物搬入には便利。でも当日は閉めるか、誰か立たせた方がいい」


「臨時警備を三人考えています。入口外、店内、裏口」


「店内はレンでいいの?」


「本当は全体を見たいので、俺は動ける位置にいます」


 ガイルが腕を組んだ。


「臨時で二人なら紹介できる。俺たちの知り合いで、酒癖が悪くなくて、口も堅い奴だ」


「助かります」


「ただ、黒服ってやつとは違うぞ」


「分かっています。今回は警備としてで大丈夫です」


「将来的には、その黒服を育てるんだろ?」


「はい」


 ガイルは少し笑った。


「変な商売だよな。女の子を守る男まで店の売り物になるのか」


「売り物というより、信用の一部です」


「なるほどな」


 サラが静かに言った。


「なら、見た目も大事ね」


「見た目?」


「荒っぽい冒険者をそのまま入口に立たせたら、女性客は怖がるわ。清潔感と立ち方。武器の見せ方。声のかけ方。そこまで決めた方がいい」


 俺はすぐに書き込んだ。


 臨時警備、服装、立ち位置、武器の見せ方、声かけ。


 サラはやはり鋭い。


 ガイルが少し不満そうに言う。


「俺が立つと怖いってことか?」


「少し」


「少しか?」


「かなり」


「おい」


 リリアが笑い、ノアも小さく口元を緩めた。


 その笑い声が、未完成の店内に柔らかく響いた。


 こういう瞬間があると、この場所が本当に店になっていく気がする。


 人が集まり、意見を出し、笑い、少しずつ空気が生まれる。


 建物ではない。


 酒でもない。


 やはり店は、人なのだ。


◇◇◇


 夜が近づく頃、改装三日目の予定がまとまった。


 受付台の仮完成。


 控室の布仕切り試作。


 入口足元の灯り設置。


 裏口の確認。


 特別席の仮配置。


 内覧試飲会用の椅子試座。


 そして、臨時警備の顔合わせ。


 進んでいる。


 確かに進んでいる。


 だが、同時に問題も増えている。


 黒服候補。


 女性スタッフ候補。


 店名。


 制服。


 当日の酒と料理。


 カイル派への警戒。


 時間は足りない。


 金も足りない。


 人も足りない。


 それでも、昨日より形は見えている。


 俺は店の入口に立ち、仮の受付台に手を置いた。


 外は薄暗く、西通りの灯りはまばらだ。


 中央通りの明るさとは違う。


 この通りはまだ眠っている。


 だが、眠っている場所だからこそ、最初の灯りは目立つ。


 ここに灯りをともす。


 客が足を止めるような灯りを。


 女性が怖がらずに入れる灯りを。


 働く子が帰って来られる灯りを。


 そのためには、まだやることが山ほどある。


「レン」


 リリアが隣に来た。


「ノア、今日すごかったね」


「うん」


「最初、あんなに小さい声だったのに、オーウェンさんと布の話をしてる時は少し楽しそうだった」


「自分の場所が見つかると、人は変わるのかも」


「私も?」


 リリアがこちらを見る。


 その目は冗談半分で、でも少しだけ真剣だった。


「変わってるよ」


「そうかな」


「受付に立った時、昨日よりずっと店の人みたいだった」


 リリアは頬を赤くした。


「またそういうこと言う」


「本当だから」


「……ありがとう」


 彼女は受付台にそっと手を置いた。


「私、まだ何ができるか分からないけど」


「うん」


「でも、この店がちゃんと安心できる場所になったらいいなって思う」


「それだけで十分だよ」


 心からそう思った。


 技術は後から覚えられる。


 言葉遣いも、立ち方も、酒の説明も、会員案内も。


 だが、安心できる場所にしたいという気持ちは、教えられて身につくものではない。


 リリアにはそれがある。


 だから彼女は、この店に必要なのだ。


◇◇◇


 その夜、俺はギルドへ戻る前に、もう一度店の周囲を確認した。


 昨日の木片のことが頭から離れなかった。


 入口。


 窓。


 裏口。


 隣の路地。


 外壁。


 石畳。


 全鑑定を使いながら、一つずつ見る。


 新しい目印はない。


 足跡も多くはない。


 だが裏口の近くで、ほんの少しだけ土が乱れていた。


――――――――

足跡

人数:一名

体格:成人男性

状態:新しい

推定行動:裏口周辺の確認

危険度:中

注意:再訪可能性あり

――――――――


 やはり、誰かが見ている。


 俺はしばらくその足跡を見つめた。


 怒りより先に、冷静さが来た。


 相手が見ているなら、こちらも見ればいい。


 相手が入口を探るなら、入口を整える。


 裏口を探るなら、裏口に人を置く。


 噂を流すなら、こちらから正しい物語を流す。


 妨害されること自体は止められない。


 だが、妨害が成功するかどうかはこちらの準備次第だ。


 俺は羊皮紙を取り出し、薄暗い中で項目を書き足した。


 裏口警備必須。


 当日前夜の見回り。


 招待客名簿確認。


 店内の死角確認。


 外灯追加。


 リリアの配置。


 ノアの待機場所。


 ガイル・サラの位置。


 書きながら、ふと気づいた。


 俺はもう、ただ店を作っているのではない。


 店を守る準備をしている。


 開業前から、もう戦いは始まっている。


 だが、それでいい。


 この店は、最初から簡単に生まれる場所ではない。


 酒場ではない。


 娼館でもない。


 この世界にまだない、会話と酒を楽しむ規律ある夜の店。


 新しいものは、必ず反発を生む。


 それでも作る。


 俺は足跡から目を離し、夜の西通りを見た。


 遠くの中央通りは明るい。


 だが、この通りはまだ暗い。


 なら、ここに灯りをともす意味がある。


 西通りの片隅で、俺は静かに拳を握った。


 明日、家具がさらに入る。


 布仕切りの試作が始まる。


 警備の顔合わせも行う。


 内覧試飲会まで、残された時間は少ない。


 けれど、店は確かに形になっている。


 布一枚。


 椅子一脚。


 灯り一つ。


 言葉一つ。


 その積み重ねが、安心を作る。


 俺は店の扉に手を触れた。


 古い木の感触が、掌に残る。


 この扉を開ける日は近い。


 その時、誰も酒で不幸にしないために。


 誰かが安心して笑える夜を作るために。


 俺はもう一度、静かに呟いた。


「絶対に、形にする」

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