第34話 空き店舗の条件
翌朝、金獅子亭の前には四人が集まっていた。
俺、リリア、マルク、バルド。
それぞれ立場は違う。
俺は店を作ろうとしている人間。
リリアは、いつかその店で働くかもしれない少女。
マルクは酒場の現場を知る店主。
バルドは商売と資金の流れを見る商会長。
一つの空き店舗を見るだけにしては、妙に大げさな面子だった。
だが、俺にとっては大げさではない。
今日は、ただ建物を見る日ではなかった。
俺の夢が、初めて具体的な場所を持つかもしれない日だった。
「緊張してる?」
リリアが隣から聞いてきた。
「かなり」
「役所より?」
「別の意味で」
昨日の商業監督官事務所では、会員制度が止められるかどうかの緊張があった。
今日は違う。
期待が怖い。
もし良い物件だったら、いよいよ後戻りできなくなる。
もし悪い物件だったら、今まで膨らませてきた想像が一度しぼむ。
どちらにせよ、心が揺れる。
「行くぞ」
マルクが腕を組んで言った。
「見てるだけじゃ店はできねえ」
「はい」
バルドは静かに頷き、先頭を歩き始めた。
空き店舗は旧商業区にある。
以前、清掃依頼で見つけた物件だ。
大通りから少し外れているが、完全な裏通りではない。昼は商人や職人が通り、夜は酒場から帰る客が流れる。中央区画ほど家賃は高くないが、人通りはある。
立地としては、悪くない。
ただし、夜の店として考えるなら、もう少し見るべき点がある。
客が入りやすいか。
帰りやすいか。
騒音で周囲と揉めないか。
女性が出入りする時に危なくないか。
馬車を停める余地があるか。
酒や氷を運び込める裏口があるか。
逃げ道があるか。
前世の黒服時代は、店の内側ばかり見ていた。
だが今は違う。
店を作るなら、外側も見なければならない。
◇◇◇
旧商業区に入ると、街の匂いが少し変わった。
中央通りのような香辛料や焼きたてのパンの匂いではない。古い木材、湿った石壁、革をなめす油、長く使われた倉庫の埃。商売の華やかさより、積み重なった時間の匂いが濃い。
通りの両側には古い店が並んでいる。
閉じたままの木戸。
色あせた看板。
半分だけ使われている倉庫。
軒先で道具を磨く職人。
この辺りは、昔はもっと栄えていたのだろう。
その名残が、建物の大きさや石畳の広さに残っている。
「ここだ」
バルドが足を止めた。
目の前にあったのは、二階建ての建物だった。
一階は広い店舗。
二階は住居か倉庫として使われていたらしい。
正面には古い木製の扉があり、左右に大きめの窓がある。窓には板が打ち付けられているが、外せば通りから中の灯りが見えるだろう。看板を掲げるスペースもある。
建物全体は傷んでいる。
だが、崩れそうではない。
俺は無意識に息を呑んだ。
ここか。
ここが、俺の店になるかもしれない場所。
まだ埃だらけの空き店舗なのに、頭の中ではもう灯りがともり始めていた。
冷たい酒。
女の子たちの笑顔。
客の笑い声。
グラスが触れる音。
リリアが席へ向かう姿。
俺が黒服として店全体を見る姿。
胸の奥が熱くなる。
同時に、怖くなる。
夢は、場所を持つと急に現実になる。
現実になれば、金も責任も逃げられない。
「レン」
リリアが小さく声をかけた。
「顔、すごいよ」
「どんな顔?」
「嬉しそうで、怖そう」
「正解」
彼女は少し笑った。
マルクが鍵を受け取り、扉を開ける。
軋む音がした。
古い木の匂いと、閉じ込められていた埃が外へ流れ出す。
俺たちは中へ入った。
◇◇◇
店内は薄暗かった。
板で塞がれた窓の隙間から、細い光が差し込んでいる。床板には埃が積もり、隅には古い木箱がいくつか残っていた。天井は思ったより高い。柱は太く、梁もしっかりしている。
空間は、金獅子亭より狭い。
だが、酒場としてではなく、会話を楽しむ店として考えるなら悪くない広さだった。
広すぎる店は、最初は危険だ。
席が埋まらないと寂しく見える。
小さな店なら、少ない客でも熱が作れる。
「悪くねえな」
マルクが第一声を漏らした。
「床は一部張り替えだ。だが柱は生きてる。厨房は小さいが、酒と軽食中心なら足りるかもしれん」
「厨房、見ます」
俺は奥へ向かった。
奥には小さな調理場があった。
金獅子亭のような大鍋や肉焼き用の設備はない。だが、冷やし果実酒、蜂蜜果実焼き、軽いつまみなら作れる余地はある。大量調理ではなく、少量を丁寧に出す店なら十分だ。
全鑑定。
――――――――
旧店舗 厨房区画
状態:老朽化 中
水回り:修理必要
煙突:清掃必要
調理能力:軽食向き
推奨用途:酒類提供/菓子/軽いつまみ
注意点:大量調理には不向き
――――――――
悪くない。
むしろ俺の店には合っている。
「肉料理を出すには弱いですね」
俺が言うと、マルクは頷いた。
「うちみたいな店には向かねえ。でも、お前の変な店なら十分だ」
「変な店は固定なんですね」
「まだ名前がないからな」
確かに。
店名。
そろそろ考えなければならない。
前世の記憶にある響きをそのまま使うのは避けたい。商品名や固有名詞は使わない。だが、夜、月、雫、氷、酒。その辺りのイメージは合う。
今はまだ仮でいい。
けれど、看板を出すには名前が必要になる。
俺は一度その考えを脇に置いた。
まずは場所だ。
◇◇◇
客席になる空間へ戻ると、リリアが中央に立っていた。
彼女は店内を見回しながら、何かを想像しているようだった。
「どう?」
俺が聞くと、リリアは少し考えてから答えた。
「入口から入ってすぐ全部見えると、ちょっと恥ずかしいかも」
「女性客が?」
「うん。特に初めての人は」
なるほど。
入口から客席が丸見えだと、女性客や女の子が視線に晒される。前世の店でも、入口から店内が見えすぎる造りは避けることが多かった。入った瞬間に全員から見られると、新規客も緊張する。
「なら、入口に仕切りを置くべきですね」
「仕切り?」
「入ってすぐ店全体が見えないようにする。受付みたいな場所を作って、そこで案内する」
リリアの表情が明るくなる。
「それなら安心かも」
マルクが周囲を見て唸った。
「入口に仕切りを置くと、席数は減るぞ」
「席数より空気を優先します」
「お前ならそう言うと思った」
「最初は席数を増やすより、良い席を作りたいです」
バルドが静かに頷いた。
「正しい。高単価の店を目指すなら、席数を詰め込むな。最初に安っぽく見せると、後から高級化するのは難しい」
「高級店にするには、まだ遠いですけど」
「高級とは、最初から高価な家具を置くことではない。安く見える選択を避けることだ」
その言葉は重かった。
安く見える選択を避ける。
今の俺には資金が少ない。だからこそ、何でも安く済ませたくなる。だが、見せるべき場所まで安くすると、店の価値が下がる。
金をかける場所と、抑える場所を見極める必要がある。
「席は何卓置ける?」
マルクが聞いた。
俺は店内を歩きながら考えた。
普通の酒場なら、六卓か七卓は置けるかもしれない。
だが、俺の店では無理だ。
女の子が席を移動する。
客と隣で話す。
黒服が通る。
酒を運ぶ。
危険客が出た時にすぐ介入できる。
その動線を考えると、詰め込めない。
「最初は四卓」
俺は言った。
マルクが眉を上げる。
「少ねえな」
「一卓あたりの価値を上げます。あと、奥に小さな個室に近い席を一つ」
バルドの目が細くなった。
「特別席か」
「はい。ただし、最初から売りすぎない。信頼できる会員だけ」
「良い」
リリアが奥の壁際を見る。
「女の子が休む場所は?」
その一言で、俺ははっとした。
そうだ。
客席ばかり見ていた。
働く子の控え場所。
前世の店では当たり前にあったが、今この空き店舗ではまだ考えていなかった。
「二階を見よう」
俺は言った。
◇◇◇
階段は少し急だった。
木が古く、足を乗せると軋む。リリアが少し不安そうに手すりを掴んだ。俺は先に上がり、踏み抜きそうな場所がないか確認する。
二階は、もともと住居だったらしい。
小部屋が二つ。
広めの部屋が一つ。
小さな窓。
床は埃だらけだが、一階ほど荒れてはいない。
光が差し込むと、空中の埃がきらきらと舞った。
「ここ、控室にできますね」
俺が言うと、リリアが部屋を見回した。
「控室……」
その言葉を聞いた彼女の顔が少し変わった。
客席を見る時とは違う表情。
働く側として想像した顔だ。
「どう?」
俺は聞いた。
リリアは少し迷いながら、窓の近くへ歩いた。
「外が見えるのはいい。でも、窓から中が見えたら嫌かも」
「板か布で目隠しが必要ですね」
「あと、着替える場所がいる」
「うん」
「荷物を置く棚も」
「必要」
「休む椅子も。ずっと客席にいると疲れると思う」
「確かに」
彼女の言葉を俺は一つずつ書き取った。
控室。
目隠し。
着替え場所。
荷物棚。
休憩椅子。
水。
鏡。
髪を整える場所。
言葉を書けば書くほど、前世の記憶が蘇る。
女の子たちが出勤前に化粧を直す場所。
営業中に少しだけ息をつく場所。
泣いた時に誰にも見られずに落ち着ける場所。
その空間を軽視する店は、長く続かない。
働く子は客席だけで作られるわけではない。
裏側で安心できるから、表で笑える。
「リリア」
「何?」
「ありがとう。今のはかなり大事だった」
彼女は少し照れたように目を伏せた。
「私、まだ働くって決めたわけじゃないけど」
「だからこそいい。無理に店側の目になってないから」
「そうなの?」
「うん。働くか迷っている人の不安が、そのまま出てる」
リリアは少し考え、静かに頷いた。
「なら、もう一つ」
「うん」
「客席から控室に上がる階段、見えすぎない方がいいと思う」
俺は階段の方を見た。
確かに、一階の客席から階段の入口が見える。女の子が控室へ上がるたびに、客の視線が追ってしまうかもしれない。
「仕切りを作る」
俺はすぐに書いた。
「階段前に目隠し。黒服が立てる場所も必要」
マルクが後ろで腕を組んでいた。
「お前、本当に女の子を守る店にする気なんだな」
「そのつもりです」
「口だけじゃねえのは分かった」
その言葉は、妙に嬉しかった。
◇◇◇
一階へ戻ると、バルドが建物の奥へ回っていた。
裏口を確認している。
「裏はどうですか?」
俺が聞くと、バルドは少し難しい顔をした。
「荷の搬入はできる。小さな馬車なら横付け可能だ。ただし道が狭い。夜に人が溜まると危険だ」
「酒や氷を入れるには?」
「量が多くなければ問題ない」
「将来的には?」
「拡張するなら別の倉庫が必要になる」
なるほど。
最初の一号店としては十分。
だが、規模を大きくするには限界がある。
それでいい。
最初から巨大な店を作るつもりはない。
まずは小さく、濃く、価値のある店を作る。
「問題は家主だ」
バルドが言った。
「家主?」
「この物件の所有者は、金に困っている。だから貸したがっている。ただし、最近になって別の借り手候補が出てきたらしい」
嫌な予感がした。
「誰ですか?」
「まだ確定ではないが、酒商会に近い者だ」
やはり。
カイル派が動いたか。
俺たちがこの物件を見ていることを知り、先回りして押さえに来たのだろう。
物件を奪えば、俺の店は開けない。
会員制度も宙に浮く。
役所で潰せなかったから、次は場所を潰す。
分かりやすい。
だが、かなり厄介だ。
「契約はまだできるんですか?」
俺が聞くと、バルドは頷いた。
「できる。ただし条件が悪くなっている」
「値上げですか?」
「保証金が増えた。加えて、三か月分の賃料前払いを求めている」
マルクが舌打ちした。
「足元見てやがるな」
「家主としては当然の面もある。相手が高く払うなら、そちらに貸したい」
「金が足りませんね」
俺は正直に言った。
今の会員費では足りない。
ビールと氷入り酒の売上もあるが、家具、改装、会員証、返金用保管金を考えると、全額を突っ込むわけにはいかない。
昨日、ユリウスから言われたばかりだ。
会員費を全部使うな。
返金資金を残せ。
つまり、物件を押さえるには別の資金が必要だった。
バルドを見る。
彼は静かに俺を見返していた。
出せる。
バルドなら、おそらく金を出せる。
だが、その金を借りれば、俺はバルドに大きく依存することになる。
それは危険だ。
味方ではある。
だが、彼は商人だ。
利益にならなければ切るし、必要なら条件をつける。
「借りたいか?」
バルドが言った。
真正面からだった。
俺はすぐには答えられなかった。
借りれば物件を押さえられる。
借りなければ、他の借り手に取られるかもしれない。
だが借金は重い。
前世でも、開業資金の借入が店を縛ることは知っていた。毎月の返済が売上を圧迫し、無理な営業を生み、女の子や客に負担がいく。金を借りること自体が悪いのではない。だが条件を間違えると、店の自由を失う。
「条件を聞かせてください」
俺は言った。
バルドは少し笑った。
「即答で借りると言わないのは良い」
「怖いので」
「正しい」
彼は一階の中央に立ち、周囲を見回した。
「私が保証金の不足分を立て替える。ただし、これは出資ではなく貸付だ。店の経営権は取らない」
思ったより良心的だ。
だが、続きがあるはずだ。
「条件は?」
「返済は開店後の利益から分割。利息は低めにする。その代わり、酒類供給の第一交渉権をバルド酒商会が持つ」
第一交渉権。
独占ではない。
だが、酒の仕入れについて最初に交渉する権利を与えるということだ。
かなり現実的な条件だった。
俺は考える。
ビールや特殊酒は俺が作る。
だが通常酒、果実酒、蒸留酒、軽食用の材料などは外部供給が必要だ。バルド酒商会と良好な関係を持つのは悪くない。
ただし、完全独占にすると危険。
「第一交渉権は認めます。ただし、価格や品質が合わない場合、他から仕入れる権利は残してください」
バルドの目が細くなる。
「当然だな」
「あと、俺の酒精製と氷魔法に関わる部分は対象外」
「それも認める」
「契約書に明記してください」
バルドは少し愉快そうに笑った。
「昨日、役所で鍛えられたな」
「かなり」
「良いことだ」
マルクが腕を組んで唸る。
「俺としては悪くねえ条件に聞こえる。だがレン、お前が決めろ」
リリアもこちらを見る。
不安と期待が混じった目。
この場所が店になるかもしれない。
その期待を、彼女も感じているのだろう。
俺はもう一度、店内を見回した。
入口。
仕切り。
四つの客席。
奥の特別席。
小さな厨房。
二階の控室。
裏口。
階段前の目隠し。
まだ何もない。
埃だらけで、床は傷み、窓は塞がれ、空気は古い。
それでも、俺には見えた。
灯りがともる夜が。
冷えた酒が注がれる音が。
女の子たちが笑う声が。
客が少しだけ背伸びをして、特別な時間を買う姿が。
ここだ。
俺はそう思った。
怖い。
でも、ここだ。
「この物件を押さえたいです」
俺は言った。
「ただし、今日中に契約条件を確認して、無理なら引きます」
バルドが頷いた。
「それでいい。家主に会おう」
◇◇◇
家主は、店舗の隣にある古い事務所にいた。
痩せた初老の男で、目の下に疲労が濃い。服はきちんとしているが、袖口が少し擦り切れている。金に困っているという話は、おそらく本当だろう。
全鑑定。
――――――――
名前:ダリオ
年齢:61
職業:不動産管理人/元商人
状態:疲労/資金難
性格傾向:慎重/損失回避/押しに弱い
現在の目的:空き店舗の早期契約/高い保証金の確保
背後影響:酒商会カイル派から別口打診あり
警戒度:中
――――――――
別口打診。
確定だ。
カイル派が金を積んでいる。
ダリオはバルドを見ると、明らかに緊張した。
「バルド会長までお越しとは」
「今日はレン君の付き添いだ。契約者は彼になる」
「この少年が?」
ダリオの視線が俺に向く。
怪しむのも当然だ。
十六歳の少年が、店舗を借りたいと言っている。
しかも新しい夜の店。
普通なら不安しかない。
俺は頭を下げた。
「レンです。現在、金獅子亭で酒と接客の試験営業を行っています。新店舗開業のため、この物件を検討しています」
ダリオは少し困ったような顔をした。
「失礼だが、資金は?」
来た。
「保証金の一部は自己資金と会員費から。ただし会員費は返金用保管金を残すため、全額は使いません。不足分は、バルド会長から貸付を受けます」
バルドが頷いた。
「私が保証する」
ダリオの表情が変わる。
バルドの名は強い。
だが、俺はそこに頼りすぎてはいけない。
「ただし」
俺は続けた。
「契約前に、建物の修繕範囲を明確にしたいです。床、水回り、煙突、階段。借主負担と家主負担を分けたい」
ダリオが少し驚いた顔をする。
「細かいな」
「後で揉めたくありません」
「若いのに」
「昨日、役所で鍛えられました」
マルクが横で吹き出しそうになった。
バルドも少しだけ笑っている。
ダリオはしばらく俺を見ていたが、やがて羊皮紙を出した。
「では、条件を詰めよう」
交渉が始まった。
家賃。
保証金。
前払い。
修繕負担。
契約期間。
途中解約。
看板設置。
夜営業の騒音。
酒類提供。
二階使用。
裏口使用。
一つ一つ確認していく。
頭が痛くなる。
だが、昨日のユリウスの言葉が頭に残っていた。
記録のない夢は、怪しい話。
なら、書く。
全部書く。
曖昧にしない。
途中、ダリオが言った。
「別の借り手は、保証金をもっと出すと言っている」
俺は静かに聞いた。
「ただし、何をするつもりか曖昧だ。倉庫とも、酒場とも言っている」
カイル派だろう。
物件を使う気があるのか、それとも俺を邪魔したいだけなのか。
「俺は店を開きます」
俺は言った。
「この通りに灯りを戻します。昼は女性客も使える落ち着いた席、夜は規律ある酒と会話の店にする。荒れた酒場にはしません。建物を大事に使います」
ダリオは黙った。
俺はさらに言う。
「保証金で負けるかもしれません。でも、店として成功させる気はあります。空き店舗のまま放置するより、通りの価値も上がるはずです」
ダリオの目が少し揺れた。
元商人。
そして不動産管理人。
彼は金だけを見ているわけではないのかもしれない。
古い通りが寂れていくのを見てきたのだろう。
「灯りを戻す、か」
彼は小さく呟いた。
「昔は、この辺りも夜まで賑やかだった」
その声には、少しだけ懐かしさがあった。
「今は中央区画に客を取られた。空き店舗も増えた。誰も新しいことをやりたがらん」
「なら、俺がやります」
若造の大言壮語だ。
自分でも分かっている。
だが、ここは言うべきだと思った。
「この場所を、もう一度人が集まる場所にします」
静寂。
ダリオは俺を見た。
値踏みする目。
だが、そこには少しだけ期待も混じっていた。
やがて彼は深く息を吐いた。
「保証金は、少し下げよう」
マルクが目を見開く。
俺も驚いた。
「ただし、契約開始から一か月以内に改装を始めること。三か月以内に営業を開始できなければ、契約を見直す」
現実的な条件だ。
厳しいが、飲める。
バルドが俺を見る。
マルクも見る。
リリアは少し息を呑んでいる。
俺は頷いた。
「その条件で、前向きに進めさせてください。ただ、契約書を確認してから正式に」
ダリオが笑った。
「慎重だな」
「役所で鍛えられました」
今度は全員が少し笑った。
◇◇◇
金獅子亭へ戻る道で、リリアは興奮を隠せない様子だった。
「決まりそうだね」
「まだ契約前」
「でも、かなり進んだよね?」
「うん。かなり」
「本当に、あそこが店になるのかな」
「するんだ」
言葉にすると、胸が震えた。
あそこが店になる。
俺の店に。
いや、俺たちの店に。
マルクは腕を組んで歩きながら言った。
「床張り替え、厨房修理、階段補強、二階の目隠し。金かかるぞ」
「分かっています」
「椅子もいる」
「はい」
「酒器もいる」
「はい」
「女の子の服もいる」
「はい」
「金、足りねえな」
「分かっています」
現実が容赦なく並ぶ。
だが、不思議と心は折れなかった。
むしろ、やるべきことが見えると燃えてくる。
バルドが言った。
「短期で資金を増やす必要がある」
「会員を増やす?」
「増やすが、選ぶ必要がある。雑に増やせば店の格が落ちる」
「では?」
「試飲会だ」
俺は足を止めかけた。
「試飲会」
「会員候補を招き、店の構想を説明し、冷やし果実酒、氷入り蒸留酒、ビール、菓子を体験させる。そこで会員を募る」
なるほど。
ただ木札を出すより、体験させた方が強い。
未来の店を、少しだけ先に見せる。
前世で言えば、プレオープンのようなものだ。
「場所は金獅子亭?」
「最初はな。ただし、空き店舗でも一度やる価値がある」
「改装前の場所で?」
「そうだ。ここが変わる、という未来を見せる」
鳥肌が立った。
空き店舗で、創設準備会員向けの内覧試飲会。
まだ埃だらけの場所に灯りをともす。
少しだけ席を置く。
冷たい酒を出す。
未来を見せる。
これは強い。
かなり強い。
「やりたいです」
俺は言った。
「契約前に?」
「契約条件がまとまったら、家主にも許可を取ってやります。会員候補に見せたい」
マルクが呆れたように笑った。
「また面倒なこと思いついたな」
「でも、面白いでしょう?」
「面白い」
バルドも頷いた。
「そして、資金調達にもなる」
リリアが小さく手を握った。
「私も手伝う」
「もちろん」
「女性客には私が説明する」
「頼む」
彼女は嬉しそうに頷いた。
その顔を見て、俺は確信した。
次の一手は、内覧試飲会。
未来の店を見せて、会員を増やす。
ただ金を集めるのではない。
夢を共有する人を選ぶ。
そのための場を作る。
◇◇◇
その夜、金獅子亭の奥で、俺たちは新しい計画を書き始めた。
空き店舗内覧試飲会。
招待者は少数。
エミリア。
ガイル。
ハンナ。
信頼できる商人。
女性客数名。
冒険者からは規律を守れる者だけ。
内容。
冷やし果実酒。
蜂蜜果実焼き改良版。
氷入り蒸留酒。
限定ビール。
店の構想説明。
会員規約説明。
女性控室予定地の見学。
客席予定地の案内。
「これ、本当にただの酒場じゃないね」
リリアが呟いた。
「うん」
「店を作る前から、なんか店みたい」
「それが狙い」
未来を先に体験させる。
まだない店を、少しだけ存在させる。
そのために、酒と氷と接客を使う。
俺の黒服知識と経済学の知識が、ここでつながっていく。
マルクは腕を組みながら言った。
「問題は、カイル派だな」
「妨害してくるでしょうね」
「物件を取れなかったら、次は試飲会を潰しに来るかもしれん」
「警備が必要です」
ガイルに頼む。
危険客は鑑定で見る。
酒は俺が管理する。
女性客の案内はリリア。
商談はバルド。
現場はマルク。
少しずつ、役割が決まっていく。
俺は羊皮紙に最後の一文を書いた。
――内覧試飲会は、未来の店の最初の夜。
それを見た瞬間、胸が熱くなった。
まだ店はない。
まだ契約も終わっていない。
まだ金も足りない。
それでも、最初の夜を作れる。
一夜だけでも。
そしてその一夜が、店を現実に変える。
俺は筆を置き、静かに息を吐いた。
「やりましょう」
誰も反対しなかった。
リリアが笑う。
マルクが頷く。
バルドが目を細める。
外では夜風が木札を揺らしていた。
創設準備会員。
その言葉は、昨日よりさらに現実味を帯びている。
空き店舗。
契約交渉。
資金不足。
内覧試飲会。
問題は増えている。
でも、道も見えている。
俺は酒で死んだ。
だから今度は、酒と夜で人を楽しませる。
そのための場所が、ようやく手の届くところまで来た。
そして翌日。
俺たちは、内覧試飲会の招待客を選び始める。
その中に、後に店の運命を変える一人の少女が含まれることを、この時の俺はまだ知らなかった。
お読みいただきありがとうございます。
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