第33話 商業監督官
翌朝、金獅子亭の奥のテーブルには、羊皮紙が何枚も並べられていた。
会員規約。
返金条件。
会員費の保管記録。
昼会員と夜会員の違い。
店の規律。
女性客向け席の試験記録。
冷やし果実酒と氷入り蒸留酒の販売数。
そして、創設準備会員制度の目的。
ただ紙を並べているだけなのに、胃の奥が重かった。
昨夜、商業監督官事務所から届いた出頭要請。
そこには、創設準備会員制度について説明を求めると書かれていた。
柔らかい言葉で書かれてはいたが、意味は明白だった。
お前たちは何をしている。
客から金を集めているようだが、怪しい商売ではないのか。
そう問われているのだ。
「顔色悪いぞ」
マルクがカウンターから声をかけてきた。
「悪くもなります」
「役所は苦手か?」
「前世でも役所は得意じゃありませんでした」
「前世?」
「……昔です」
危ない。
疲れている時ほど余計なことを言いそうになる。
俺は咳払いをして、羊皮紙へ視線を戻した。
商売は、勢いだけではできない。
昨日までは客の前に立てばよかった。モリスのような嫌な客も、ガイルやエミリアの助けを借りながら、店の規律を言葉にすれば乗り切れた。
だが今日は違う。
相手は客ではない。
役所だ。
こちらの熱意や夢だけでは通じない。書類、仕組み、責任の所在、返金条件、金の管理。それらを説明できなければ、会員制度は危険な集金だと見なされるかもしれない。
「レン君」
バルドが静かに言った。
彼は朝早くから金獅子亭に来ていた。派手な護衛は連れていない。ただ、いつもより服装が少しだけ整っている。商会長として役所へ出向くための装いなのだろう。
「大事なのは、隠さないことだ」
「はい」
「未完成の店のために金を集める。そこだけ聞けば、疑われて当然だ」
「分かっています」
「だから、疑われる前提で説明しなさい。集めた金をどう保管しているか。開店できなかった場合どう返すか。会員に何を約束し、何を約束していないか。そこを明確にする」
俺は頷いた。
全くその通りだ。
未来を売るなら、未来が予定通りに来なかった時の責任まで設計しなければならない。
前世でも、前売りや予約金の扱いは繊細だった。店側が軽く考えれば、客の不満はすぐに信用問題になる。ましてこの世界では、俺は身元不明に近い転生者だ。冒険者登録はあるが、それだけで大きな信用にはならない。
だから、信用は仕組みで補うしかない。
「会員費は、俺個人の金とは別に保管しています」
「それは良い」
「使途も記録します。家具、改装、会員証、試飲会準備など、店の準備に関わるものだけ」
「さらに、一定期間内に店が開けない場合は返金する」
「はい」
「その期間は?」
「三か月を予定しています」
バルドは少し考えた。
「長すぎず短すぎず、悪くない。ただし、やむを得ない事情で延びる場合の説明義務も書きなさい」
「説明義務」
俺はすぐに書き足した。
この世界で契約書を書くことにまだ慣れていない。
だが考え方は同じだ。
曖昧な部分が後で揉める。
なら、最初に潰す。
「リリア」
俺は顔を上げた。
女性席の近くで、リリアが緊張した顔でこちらを見ていた。
「はい」
「今日は店にいてくれ。女性客が来たら、いつも通り対応を頼む。俺たちがいない間、変な噂が出るかもしれない」
「分かった」
「会員の名前は出さない」
「うん」
「新しいことを聞かれて分からなければ、戻ってから説明しますって言えばいい」
「うん」
彼女は頷いたが、不安は隠せていなかった。
俺が役所へ呼ばれていることが怖いのだろう。
自分が関わり始めた店が、まだ始まる前に潰されるかもしれない。そう感じているのかもしれない。
「大丈夫にしてくる」
俺が言うと、リリアは少しだけ笑った。
「昨日と同じ言い方」
「実際、大丈夫かどうかはこれからだから」
「でも、帰ってきてね」
「帰ってくるよ」
その短いやり取りだけで、少し気持ちが落ち着いた。
◇◇◇
商業監督官事務所は、中央区画の役所通りにあった。
石造りの建物が並ぶ通りで、市場や酒場のある区画とは空気が違う。人々の声は控えめで、通りを歩く者も商人、書記、役人、使い走りが多い。荷車の音よりも、革靴が石畳を踏む硬い音の方が目立つ。
建物の入口には、秤と羽根ペンを組み合わせた紋章が掲げられていた。
商売を量り、記録する場所。
そう言われているような気がした。
俺は思わず喉を鳴らした。
横に立つバルドは落ち着いている。さすがに場慣れしているのだろう。マルクも同行しているが、こちらは明らかに居心地が悪そうだった。大柄な体に正装めいた上着を着ているせいか、酒場の親父が無理やり役所に連れてこられたように見える。
「俺、こういう場所は嫌いだ」
マルクが小声で言った。
「奇遇ですね。俺もです」
「お前もか」
「でも行きます」
「だな」
俺たちは中へ入った。
事務所の中は静かだった。
広い部屋に机が並び、書記たちが羊皮紙へ文字を書きつけている。棚には帳簿が積まれ、インクと乾いた紙の匂いが漂っていた。外の市場にあるような生きた金の匂いではない。ここにあるのは、記録された金の匂いだ。
受付で名を告げると、奥の部屋へ通された。
小さな会議室。
窓は一つ。
机の向こうには、細身の男が座っていた。
四十代半ばほど。
髪はきっちり撫でつけられ、服装に乱れはない。鋭い目をしているが、カイルのような支配欲とは違う。数字と規則で人を見る目だ。
俺は全鑑定を使った。
――――――――
名前:ユリウス・レーン
年齢:46
職業:商業監督官補佐
状態:平常
性格傾向:厳格/規則重視/不正嫌い/保守的
現在の目的:創設準備会員制度の合法性確認/前金詐欺の防止
警戒度:中
背後影響:酒商会関係者からの申告あり
――――――――
カイル派の申告はやはりあった。
だが、目の前の男が買収されているわけではなさそうだ。
不正嫌い。
規則重視。
なら、正面から説明するしかない。
「レン殿ですね」
男が言った。
「はい。レンです」
「商業監督官補佐のユリウスです。本日は、創設準備会員制度について確認させていただきます」
声は淡々としていた。
怒っているわけではない。
だが、甘く見る気もない。
ユリウスはバルドとマルクにも視線を向けた。
「バルド酒商会会長、金獅子亭店主マルク殿。お二人も関係者として同席されると」
「そうだ」
バルドが答える。
「私は酒類供給と試験店舗運用に関わっている」
マルクも腕を組んだ。
「俺は場所を貸してる。あと、この小僧が変なことをしすぎないよう見てる」
「変なことは余計です」
「事実だろ」
ユリウスの眉がわずかに動いた。
笑ったわけではない。
だが、少し場の空気が柔らかくなった気がした。
「では始めます」
ユリウスは羊皮紙を一枚取り出した。
「申告によれば、あなたは未開業の店舗について、会員権と称して金銭を集めているとのことです。これは事実ですか」
「はい。事実です」
最初から認める。
隠す意味はない。
「目的は?」
「新しい店舗の開業準備です。ただし、単なる資金集めではありません。開業時に優先的な利用権や試飲会参加権を持つ創設準備会員を少数募集しています」
「店舗は現時点で存在しない」
「はい」
「土地または建物の契約は?」
「候補物件はありますが、正式契約はまだです」
ユリウスの目が鋭くなる。
「その状態で金を受け取るのは危険ではありませんか」
「危険です」
俺は即答した。
部屋の空気が少し動いた。
ユリウスも一瞬だけ目を細める。
「危険だと理解しているのですか」
「はい。だから人数を絞り、返金条件を明記し、会員費は個人資金と分けて保管しています」
俺は用意してきた羊皮紙を差し出した。
「こちらが現在の規約案です」
ユリウスは受け取り、無言で読み始めた。
静かな時間が流れる。
紙をめくる音だけが部屋に響く。
俺はその間、息を整えていた。
こういう沈黙は苦手だ。
客席での沈黙なら、会話をつなげばいい。酒の説明をすることも、相手の表情を見ることもできる。だが役所の沈黙は違う。相手が紙を読んでいる間、こちらは余計なことを言えない。
前世の大学の試験結果を待つ時より落ち着かない。
ユリウスは規約案を読み終えると、顔を上げた。
「返金条項がありますね」
「はい」
「三か月以内に開業準備が進まない場合、会員から返金請求ができる」
「その通りです」
「進まない、の定義が曖昧です」
来た。
「修正します」
俺はすぐに答えた。
「物件契約、改装開始、家具発注、従業員募集のいずれかが確認できる状態を進行と定義します」
ユリウスは少しだけ目を細めた。
「即答できるのですね」
「曖昧だと思っていました。ただ、文面に落としきれていませんでした」
「正直ですね」
「曖昧なまま進める方が危険なので」
ユリウスは小さく頷いた。
好印象かは分からない。
だが、少なくとも話は進んでいる。
◇◇◇
質問は続いた。
会員費の保管場所。
使途の記録。
会員数の上限。
特別会員をまだ販売しない理由。
昼会員と夜会員を分ける理由。
女性客の名簿を非公開にする理由。
店の規律違反時の返金有無。
一つ一つが細かい。
だが、どれも重要だった。
特にユリウスが強く反応したのは、女性客と従業員の安全に関する部分だった。
「会員であっても退店させる権利を店側が持つ、とあります」
「はい」
「この条項は揉めるでしょう」
「揉めると思います」
「それでも入れるのですか」
「入れます」
俺ははっきり答えた。
「金を払ったから何をしてもいい、という客を入れれば、店は壊れます。女性客も、働く子も、良い客も離れます。長く続けるためには必要です」
ユリウスは俺をじっと見た。
その視線は厳しい。
だが、どこか探るようでもあった。
「あなたは随分と女性客と従業員の安全を強調しますね」
「はい」
「なぜです」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
なぜ。
理由はいくつもある。
前世で見たからだ。
酒に酔った客が女の子に暴言を吐くところを。
売上のために危ない客を切れない店を。
女の子が笑顔の裏で泣いている姿を。
そして、自分自身も酒に殺されたからだ。
だが、それをそのまま話せるわけではない。
俺は少しだけ息を吸った。
「酒は人を楽しくもしますが、壊しもします」
部屋が静かになった。
「俺は酒で人を楽しませる店を作りたい。でも、酒に飲まれる場所にはしたくありません。客も、働く人間も、酒で傷つく店にしたくないんです」
ユリウスは黙っていた。
俺は続けた。
「だから、規律を先に作ります。後から慌てて作るのではなく、最初の会員募集の段階で示します」
マルクが横で小さく頷いた。
バルドは何も言わない。
ユリウスは手元の羊皮紙へ視線を落とした。
「理念としては理解できます」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
だが、次の言葉でまた緊張する。
「ただし、理念だけでは監督官事務所は認められません」
「はい」
「必要なのは、制度として不正を防ぐ仕組みです」
「分かっています」
ユリウスは羽根ペンを持ち、いくつかの項目を書き出した。
「まず、会員費の受領書を発行すること」
「はい」
「受領書には、金額、日付、会員種別、返金条件、発行者を明記」
「はい」
「会員名簿は非公開で構いません。ただし監督官事務所の確認要請があった場合、本人確認できる記録を提出できる形にすること」
少し迷った。
女性会員の名前を守りたい。
だが役所の確認を完全に拒むと、怪しまれる。
「提出時には本人の安全に配慮する条件を入れられますか」
俺が聞くと、ユリウスは少し眉を上げた。
「例えば?」
「公開資料にはしない。確認者を限定する。本人の同意なく第三者へ渡さない」
ユリウスは少し考えた後、頷いた。
「妥当です」
「ありがとうございます」
「次に、開業予定地が未確定であることを会員に説明すること。誤認させてはいけません」
「はい」
「開業できなかった場合の返金資金を残すこと。全額をすぐに改装費へ使わないこと」
これは痛い。
だが当然だ。
「一定割合を保管します」
「割合は?」
「半額以上」
ユリウスは少し考えた。
「初期段階なら妥当でしょう。会員数が増える場合は再確認が必要です」
「分かりました」
「最後に」
ユリウスは俺を見た。
「会員募集の木札や説明文に、監督官事務所が認可した、という表現を使ってはいけません」
「もちろんです」
「今日の確認は、制度の不備を指摘し改善を求めるものです。公的な推薦ではありません」
「承知しました」
そういうところは本当に大事だ。
役所が認めた、という言葉を勝手に使えば一気に信用を失う。
◇◇◇
話し合いは長引いた。
途中、マルクは明らかに飽きかけていたが、バルドが視線で黙らせていた。俺は必死にユリウスの指摘を書き取り続けた。
受領書。
名簿管理。
返金資金の保管。
開業未確定の明示。
規律違反時の扱い。
会員数上限。
監督官事務所への再報告条件。
どれも面倒だ。
だが、同時にありがたかった。
これらを整えれば、会員制度は強くなる。
怪しい集金ではなく、説明可能な仕組みになる。
俺は途中でふと気づいた。
カイル派は、役所を使って俺を潰そうとしたのかもしれない。
だが、正面から乗り越えれば、逆に制度が強化される。
もちろん簡単ではない。
でも、これは必要な試練だった。
ユリウスは最後に書類をまとめ、静かに言った。
「現時点で、直ちに停止を命じるほどの不正性は確認できません」
俺は思わず息を吐きそうになった。
だが、まだ早い。
「ただし、改善条件を満たすまで、会員募集は少数に留めること。特別会員の募集は保留すること。修正規約を三日以内に提出すること」
「分かりました」
「提出後、問題がなければ試験的な継続を認めます」
試験的。
完全な許可ではない。
それでも、止められなかった。
大きい。
かなり大きい。
バルドが軽く頭を下げた。
「感謝する、ユリウス殿」
「感謝されることはしていません。規則に従っただけです」
ユリウスは淡々と答えた。
そして俺を見た。
「レン殿」
「はい」
「あなたの構想は、かなり珍しい。正直に言えば、私にはすべてが理解できているわけではありません」
「はい」
「ですが、不正を隠す者は、ここまで規律や返金条件を自ら書きません」
その言葉は、少し意外だった。
「だからこそ、書類を整えなさい。新しい商売ほど、記録が必要です。記録のない夢は、他人から見ればただの怪しい話です」
胸に刺さった。
記録のない夢は、怪しい話。
確かにそうだ。
俺の中では、異世界初のキャバクラという夢は熱く燃えている。だが他人から見れば、身元不明の少年が未開業の店のために金を集めているだけだ。
夢を信用に変えるには、書類がいる。
数字がいる。
約束を形にする必要がある。
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
ユリウスは表情を変えずに頷いた。
「三日以内です」
「必ず」
◇◇◇
事務所を出ると、昼の光が眩しかった。
緊張していたせいか、外の空気が妙に新鮮に感じる。通りでは役人や商人が行き交い、遠くから市場の声が聞こえていた。
マルクが大きく息を吐いた。
「疲れた……」
「俺もです」
「役所の椅子は酒場の椅子より疲れるな」
「たぶん座り心地より空気の問題です」
バルドが静かに笑った。
「悪くない結果だ」
「止められなかったのは大きいです」
「ああ。しかも改善条件が明確になった。これで制度はむしろ強くなる」
「カイル派は失敗しましたか」
「半分はな」
バルドの声は冷静だった。
「だが、彼らはまた別の手を使うだろう。今回、君が役所を通せると分かった。次は別の角度から来る」
「例えば?」
「物件。人材。信用。酒の供給。どこを狙うかは分からん」
俺は空を見上げた。
青い空。
前世なら、この時間は大学の講義中か、バイト明けで寝ている頃だったかもしれない。
それが今、異世界の役所で会員制度の説明をしている。
人生は本当に分からない。
一度死んでいるから、なおさらだ。
「戻りましょう」
俺は言った。
「やることが増えました」
「そうだな」
マルクは苦笑した。
「また羊皮紙まみれか」
「はい」
「酒場なのに書類が増えていくな」
「店を作るには必要です」
「面倒だが、嫌いじゃねえ」
マルクのその言葉に、少しだけ笑った。
◇◇◇
金獅子亭へ戻ると、リリアが真っ先に駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「止められなかった」
彼女の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ大丈夫?」
「条件付きだけど。規約を直して、受領書を作って、名簿管理もちゃんとする必要がある」
「やることいっぱいだね」
「かなり」
「でも、続けられるんだ」
「うん」
リリアはほっとしたように胸を押さえた。
その後ろで、エミリアも立ち上がっていた。
いつの間にか来ていたらしい。
「説明できたのね」
「はい。エミリアさんの助言がかなり役に立ちました。名簿非公開と女性客の安全について話せました」
「それはよかったわ」
「ただ、会員証や受領書をきちんと整える必要があります」
「当然ね。女性客にとっても、その方が安心できるわ」
エミリアは穏やかに頷いた。
ガイルも昼からいたらしく、奥の席で肉を食べていた。
「お、役所に勝ったか?」
「勝ったわけではないです」
「でも負けてねえんだろ?」
「そうですね」
「なら飲め」
「昼からですか」
「祝いだ」
「仕事があります」
「つまらん」
周囲から笑いが起きた。
その笑いを聞いて、ようやく帰ってきた気がした。
役所の静かな部屋ではなく、肉と酒と人の声がある場所。
やはり俺は、こういう場所の方が好きだ。
◇◇◇
その夜、金獅子亭の奥で、俺は新しい規約を書き直していた。
受領書の文面。
会員名簿の保管方法。
返金資金の割合。
開業未確定であることの明示。
規律違反時の扱い。
会員希望者への説明文。
全部を整えていく。
面倒だ。
けれど、不思議と苦ではなかった。
一枚書くたびに、夢が少し現実へ近づいていく気がした。
リリアは横で、会員希望者に説明するための簡単な言葉を練習していた。
「この会員制度は、まだ準備中のお店を応援してくださる方のためのものです。お店が開いた時に、優先的にご案内できます。名簿は公開しません。無理に入る必要はありません……」
「いいね」
俺が言うと、リリアは照れたように笑った。
「なんか役所みたいな言い方になってない?」
「少し。でも今日はそれでいい」
「もっと柔らかくしたい」
「じゃあ一緒に考えよう」
マルクは売上を数えながら呟いた。
「酒場でこんな説明練習してるの、うちくらいだろうな」
「たぶん」
「変な店になるぞ」
「もうなってます」
「違いねえ」
バルドは修正案を読み、静かに頷いた。
「これでかなり整う。ユリウス殿も納得するだろう」
「ありがとうございます」
「ただし、ここからだ」
「はい」
「役所を越えたことで、君の計画は少し公に近づいた。公になれば、味方も増えるが敵も増える」
「分かっています」
「次は物件を押さえるべきだ。場所を持たない構想は、いつまでも不安定だ」
俺は筆を止めた。
物件。
空き店舗。
第24話から続いてきた場所の話が、また目の前に戻ってきた。
会員制度が動き出した。
役所にも説明した。
家具も進んでいる。
次は、場所だ。
店の器。
そこを押さえなければ、未来はいつまでも紙の上にある。
「明日、もう一度空き店舗を見に行きます」
俺は言った。
「契約条件も確認します」
バルドが頷いた。
「私も同行しよう」
マルクも腕を組んだ。
「俺も行く。厨房や客席の動線くらいは見てやる」
リリアが手を挙げた。
「私も行きたい」
「もちろん」
俺は頷いた。
「働く側の目も必要だから」
リリアは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が温かくなる。
前世で俺が夢見た店。
それは、少しずつ俺だけの夢ではなくなっている。
マルクが現場を見る。
バルドが商売を見る。
エミリアが女性客を見る。
オーウェンが家具を見る。
リリアが働く側を見る。
それぞれの視点が集まって、店の輪郭ができていく。
俺は羊皮紙に、今日ユリウスから言われた言葉を書き残した。
――記録のない夢は、ただの怪しい話。
なら、記録しよう。
数字にしよう。
形にしよう。
そして、いつか灯りをともそう。
異世界初の夜の店。
まだ名前も看板も決まっていない。
けれど、もう後戻りはできないところまで来ている。
翌日、俺たちは空き店舗へ向かう。
そこには、店作りの希望だけでなく、また新しい問題が待っていることを、この時の俺はまだ知らなかった。
お読みいただきありがとうございます。
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