第35話 招待客を選ぶ日
翌朝、金獅子亭の奥のテーブルには、また羊皮紙が広げられていた。
最近、俺は酒場のテーブルを酒場らしく使っていない気がする。
本来なら、ここには肉料理の皿やエールのジョッキが並ぶはずだ。冒険者たちが肘をつき、商人が取引の話をし、酔った客がくだらない自慢話をする。そういう場所であるはずなのに、今は会員規約、改装費の見積もり、物件契約の条件、試飲会の案内文が並んでいる。
酒場というより、もはや開業準備室だ。
だが、不思議と嫌ではなかった。
羊皮紙に書かれた文字の一つ一つが、俺の夢を現実へ引き寄せている。冷えた酒を注ぐ手触りとは違う。客の笑い声とも違う。けれど、これも店作りの一部だった。
昨日見た西通りの空き店舗。
古びた二階建ての建物。
埃の積もった床。
曇った窓。
傷んだ壁。
それでも、あの場所には確かに可能性があった。
中央通りほど派手ではない。人通りも多くない。だが、大通りから完全に外れているわけでもない。知っている者だけが足を向ける、少し隠れた場所。その空気は、俺が作ろうとしている店に合っている気がした。
ただの酒場ではない。
娼館でもない。
酒と会話を楽しむ、規律ある夜の店。
その器として、昨日見たあの建物は悪くなかった。
もちろん問題はある。
床の補修。
壁の修繕。
厨房の確認。
階段の補強。
二階の控室化。
入口管理。
女性客と働く子の導線。
黒服が立つ場所。
そして、家主との契約。
まだ何一つ終わっていない。
だからこそ、今日やるべきことは多かった。
「で、今日は招待客を選ぶんだな」
マルクがカウンターの奥から言った。
「はい。内覧試飲会に呼ぶ人を決めます」
「呼びすぎるなよ。あの空き店舗、まだ埃だらけだ」
「少数にします」
「少数って何人だ?」
「十人前後」
「十分多いだろ」
「未来を見せるには、少し熱が必要です。少なすぎると寂しい」
マルクは呆れたように鼻を鳴らした。
「お前は本当に面倒くさいことを考えるな」
「店は空気で売るので」
「はいはい」
そう言いながらも、マルクは真剣に聞いている。
彼も分かっているのだ。
内覧試飲会は、ただの試飲ではない。
昨日見たあの店舗に、未来の店の雰囲気を一夜だけ作る。その場に来た人間に、ここはただの思いつきではないと思わせる。会員費を出す価値がある、応援する価値がある、自分も関わりたいと思わせる。
言葉で説明するだけでは足りない。
体験させる必要がある。
そして、その体験を作るには、誰を呼ぶかが何より重要だった。
「まず確定は、エミリアさん」
俺は羊皮紙に名を書く。
「昼会員第一号です。女性客への影響力が大きい」
リリアが頷いた。
「エミリアさんが来てくれると、他の女の人も安心すると思う」
「次にガイルさん」
「夜会員第一号だな」
マルクが言う。
「はい。冒険者側の信頼がある。規律を守る客としても象徴になります」
「ガイルが規律の象徴か……」
マルクは少し笑った。
気持ちは分かる。
最初に会った時のガイルは、どう見ても酒場で大声を出す冒険者だった。だが、彼は根が悪くない。むしろ面倒見がよく、線を越えない。こういう客が最初の常連になると、店の空気はかなり安定する。
「ハンナさんも呼びたいです」
俺は続けた。
「仕立屋の方ですね」
リリアが反応する。
「娘さんの働き口を探してた人」
「うん。衣装の相談もしたい。働く側の家族視点も必要です」
「娘さんも来るのかな」
「できれば来てほしい」
マルクが眉を上げる。
「まだ雇うわけじゃないんだろ?」
「はい。でも、働きたい可能性がある人に見てもらう価値はあります」
「働く前に店を見る、か」
「隠す店にはしたくないので」
その言葉を口にすると、自然と背筋が伸びた。
隠す店にはしない。
これは、俺の中でかなり大きな軸になり始めている。
もちろん、夜の店には秘密がある。客の情報、会員名簿、女性客の名前、働く子の事情。それらは守らなければならない。
だが、店の仕組みや規律は隠さない。
働く側に仕事内容を説明する。
家族が不安なら見せる。
客にもルールを伝える。
そのうえで来てもらう。
曖昧さは人を傷つける。
俺はそれを知っている。
仕事内容をよく分からないまま働き始め、戸惑う子。金を払ったのだから何でも許されると勘違いする客。売上欲しさに線を曖昧にしてしまう店。
そういう危うさを、この世界では減らしたい。
「他には?」
バルドが静かに尋ねた。
彼はいつものように少し離れた席で話を聞いていた。すでに招待客の選定にも商売の匂いを感じているのだろう。口数は少ないが、目は鋭い。
「女性客から二名ほど。エミリアさんに推薦してもらいます」
「良い。彼女が選ぶなら質が保てる」
「商人側からは?」
「一人、信頼できる者をこちらで選ぼう」
バルドが言った。
「ただし、酒商会関係者は外す。今回は酒を売る場ではなく、店の構想を見る場だからな」
「助かります」
「冒険者はガイル以外に?」
「一人か二人。ガイルさんに推薦してもらいます。ただし、酒癖が悪い人は除外」
「そこは徹底しろ」
バルドが即座に言った。
「最初の夜に一人でも暴れる者が出れば、君の店の印象はそれで決まる」
その通りだった。
内覧試飲会は、未来の店の最初の夜。
そこで何が起きるかは、そのまま噂になる。
上品だった。
楽しかった。
安心できた。
そう言われれば勝ちだ。
逆に、荒れた、危なかった、女の子が困っていた、と言われれば終わる。
「警備は別に手配します。ガイルさんには客として場を支えてもらいます」
「俺も立つぞ」
マルクが言った。
「必要なら、氷で止めます」
俺が言うと、リリアが苦笑した。
「床を滑らせるやつ?」
「最終手段」
「前にマルクさんに止められてたよね」
「店を壊さない程度にします」
「壊さないでくれ」
マルクが真顔で言った。
◇◇◇
昼営業が始まると、さっそく招待の話を進めることになった。
最初に来たのはエミリアだった。
彼女はいつものように落ち着いた足取りで店に入り、女性席へ案内される前に入口の木札を確認した。昨日の騒ぎと役所の出頭を受けて、木札には新しい文言が加えられている。
【会員制度は規約説明後に受付】
【名簿非公開】
【少数制】
硬い。
かなり硬い。
だが、エミリアはそれを見て小さく頷いた。
「少し役所っぽくなったわね」
「昨日鍛えられました」
「でも悪くないわ。不安な人には、こういう硬さも必要よ」
彼女は席につき、冷やし果実酒の軽めを頼んだ。
もう好みは覚えている。
リリアも自然に言った。
「今日は軽めですね。蜂蜜果実焼きは、少し薄くしてあります」
「ありがとう。覚えてくれているのは嬉しいわ」
リリアの顔が少し明るくなる。
接客の報酬は、客の笑顔だ。
彼女はそれを確かに覚え始めている。
俺はエミリアの席へ向かい、内覧試飲会の話をした。
「空き店舗で?」
「はい。昨日見た西通りの物件です。まだ正式契約前ですが、あそこに一夜だけ未来の店を作ります」
エミリアの目が少し細くなる。
「面白いわね」
「ただ、招待客を絞ります。エミリアさんにも来ていただきたいです」
「もちろん行くわ」
即答だった。
「それと、女性客を二名ほど推薦していただけませんか。信頼できる方で、店の空気を見て意見をくれそうな方」
エミリアは少し考えた。
「一人は商家の奥方がいいでしょうね。もう一人は……少し若い子でもいいかもしれないわ」
「若い子?」
「働く側ではなく、客として来るかもしれない年齢の女性よ。母親世代だけで決めると、堅くなりすぎることがあるもの」
なるほど。
また勉強になる。
女性客と一口に言っても、年齢や立場で求めるものは違う。
商家の女主人。
若い娘。
主婦。
仕立屋。
それぞれ不安も期待も違う。
「お願いします」
「分かったわ。ただし、条件があるわ」
「何でしょう」
「その場に来る女性たちの名前を、他の男性客に軽々しく話さないこと。招待制であることをはっきり伝えること。あと、帰り道の安全も考えなさい」
帰り道。
また盲点だった。
夜の試飲会なら、帰る時間も遅くなる。
女性客を呼ぶなら、帰路の安全を確保する必要がある。
「護衛を手配します」
「それがいいわ」
俺はすぐに羊皮紙に書き込んだ。
帰路護衛。
女性客の退出順。
馬車手配。
見送り。
店は、客が席に座っている間だけで完結しない。
来る前。
帰った後。
そこまで含めて体験だ。
最後の印象が良ければ、客はまた来る。逆に帰り際に不快な思いをすれば、それまでの楽しさが薄れる。
異世界でも同じだ。
むしろ治安や街灯の少なさを考えれば、帰り道はもっと重要かもしれない。
「エミリアさん」
「何かしら」
「毎回、ありがとうございます」
俺が素直に言うと、彼女は少しだけ驚いた顔をした。
そして、柔らかく笑った。
「私は、自分が通いたい場所を作っているだけよ」
その言葉は、かなり心強かった。
客が店を一緒に作る。
それは危うさもあるが、良い客なら力になる。
エミリアは間違いなく、その一人だった。
◇◇◇
次に来たのはハンナだった。
昨日より少し緊張が少ない。店に入る時も、入口で立ち止まりはしたが、すぐにリリアの方へ視線を向けた。
「こんにちは。今日は娘を連れてきたのだけれど」
その後ろに、一人の少女が立っていた。
年齢はリリアより少し下か、同じくらいだろう。
薄い茶色の髪を肩の辺りで切りそろえ、目は大きいが、どこか伏し目がちだ。服は質素だが丁寧に繕われている。仕立屋の娘らしく、袖口や裾の処理は綺麗だった。
彼女は店内へ入るなり、肩を小さく縮めた。
酒場の匂い。
男たちの声。
木の床の軋み。
すべてに慣れていないのだろう。
俺はすぐに全鑑定を使った。
――――――――
名前:ノア
年齢:15
職業:仕立屋見習い
状態:緊張/好奇心/自己評価低め
性格傾向:内向的/観察力が高い/手先が器用/人前が苦手
現在の目的:母に連れられて店の様子を確認/自分にも働ける場所か不安
潜在適性:衣装管理/裏方補助/静かな接客
警戒度:低
――――――――
ノア。
この子か。
後に店の運命を変える少女、というほどの派手さはない。
むしろ目立たない。
けれど、鑑定に出た潜在適性が気になった。
衣装管理。
裏方補助。
静かな接客。
看板嬢というより、店の裏側を支える人材かもしれない。
店は、表に出る女の子だけで作るものではない。衣装を整える人、控室を管理する人、働く子の小さな不調に気づく人。そういう裏方がいる店は強い。
「いらっしゃいませ」
リリアが柔らかく声をかけた。
「女性席へどうぞ。初めてでも大丈夫です」
ノアはリリアを見て、少しだけ表情を緩めた。
同年代の少女がいる。
それだけで安心したのだろう。
席に着くと、ハンナが俺に言った。
「この子が娘のノアです。まずは見せるだけと思って連れてきました」
「来てくれてありがとうございます」
俺はノアへ向き直った。
「レンです。無理に話さなくて大丈夫です。今日は店の雰囲気だけ見てください」
ノアは小さく頷いた。
「……はい」
声は細い。
だが、店内を見る目は意外と動いている。
客席。
テーブル布。
リリアのエプロン。
花瓶。
冷やし果実酒の色。
彼女は人より物を見ている。
それが少し面白かった。
リリアが冷やし果実酒を用意する間、ノアはテーブルの布に指先で触れていた。
「あの」
初めて彼女の方から声を出した。
「この布、端が少しほつれています」
ハンナが慌てた。
「ノア」
「す、すみません」
ノアはすぐに俯いた。
俺は布の端を見た。
確かに、少しほつれている。
俺やマルクなら気づかなかった。
「ありがとう」
俺が言うと、ノアは驚いたように顔を上げた。
「え?」
「気づかなかった。助かる」
「……怒らないんですか?」
「怒る理由がないよ。店を良くすることを教えてくれたんだから」
ノアは戸惑ったように目を瞬かせた。
ハンナも少し驚いている。
リリアはにこっと笑った。
「レン、そういうのすぐ書くよ」
「書く」
俺は羊皮紙に記録した。
テーブル布の端処理。
衣装だけでなく、布もの全般の管理。
ノアはそれを見て、小さく口を開いた。
「本当に書くんですね」
「大事だから」
「こんな小さいことが?」
「小さいことが店の印象を作るから」
ノアは黙った。
けれど、その目が少しだけ変わった。
自分の気づきが価値になる。
そう感じたのかもしれない。
「ノアさん」
俺は言った。
「今度、昨日見た西通りの空き店舗で内覧試飲会をします。まだ改装前ですが、未来の店を見せる場です。よければ、お母さんと一緒に来ませんか」
ノアは困ったようにハンナを見た。
ハンナは少し考え、静かに頷いた。
「招待していただけるなら」
「もちろんです」
「ただ、この子は人前が得意ではありません」
「無理に接客させるつもりはありません。むしろ、布や衣装、働く子が使う物について意見を聞きたいです」
ノアが小さく息を呑んだ。
「私が、ですか?」
「はい。今日、布のほつれに気づいたので」
「そんなことで……」
「そういうことに気づける人が必要です」
これは本音だった。
リリアは接客の才能がある。
だが、ノアには別の才能がある。
表で輝く人材と、裏で整える人材。
どちらも店には必要だ。
ノアはまだ自信がない。
だからこそ、最初から「表に出ろ」と言わない方がいい。
彼女が見つけた小さな欠点を、店の価値に変える。
そこから始めればいい。
ハンナは少し目を伏せた。
「ありがとうございます」
その声には、母親としての安堵が混じっていた。
◇◇◇
夜営業前には、ガイルが来た。
いつものように大股で入ってきて、まだ営業前の店内を見回す。
「内覧試飲会ってやつ、俺も行けばいいんだな」
「はい。夜会員代表としてお願いします」
「代表って言われるとむず痒いな」
「店の規律を守る側としていてほしいんです」
ガイルは少し真面目な顔になった。
「荒れそうなのか?」
「分かりません。ただ、カイル派が妨害してくる可能性はあります」
「なら俺が見張る」
「ガイルさんには客として場を支えてほしいんです。警備は別に手配します」
「客として?」
「はい。最初の夜に、ちゃんと楽しんで、ちゃんと線を守る客がいる。それだけで店の空気が決まります」
ガイルは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「難しいことを言いやがる」
「ガイルさんならできます」
「買いかぶりすぎだ」
「でも、酒癖の悪い人よりはずっと信用できます」
「褒めてるのか、それ」
「かなり褒めています」
ガイルは笑った。
「分かった。客として行く。変な奴がいたら、客として睨む」
「それで十分です」
「冒険者をもう一人呼ぶなら、サラがいい」
「弓士の?」
「ああ。あいつは周りを見るのが上手い。騒ぐ奴より、静かに見てる奴の方がこういう場には向いてる」
確かに。
サラは最初に会った時から慎重なタイプだった。夜の店でいうなら、トラブルの予兆に気づける人間だ。客としていても、観察役として機能するかもしれない。
「お願いします」
「言っておく」
ガイルは氷入り蒸留酒を頼み、席へ座った。
以前なら一気に飲んでいただろう。
だが今は、氷の音を聞きながらゆっくり飲む。
本人は気づいていないかもしれないが、飲み方が変わっている。
店が客を変える。
客が店の空気を作る。
その循環が、少しずつ始まっていた。
◇◇◇
閉店後、金獅子亭の奥で招待客の名簿を整理した。
エミリア。
エミリア推薦の女性二名。
ガイル。
サラ。
ハンナ。
ノア。
バルド推薦の商人一名。
マルク。
リリア。
俺。
関係者を含めれば、十数人。
多すぎず、少なすぎない。
「問題は、ノアさんをどう扱うかですね」
俺が言うと、リリアが首を傾げた。
「働きたい子じゃないの?」
「まだ分からない。でも、接客より裏方向きかもしれない」
「裏方?」
「衣装、布、控室、女の子の準備。そういうところを見る人」
リリアは少し考えた。
「そういう人も必要なの?」
「かなり必要」
「そっか。私、服のほつれとか全然気づかなかった」
「俺も」
「でもノアは気づいた」
「うん」
「なら、すごいね」
リリアは素直にそう言った。
その言葉に、俺は少し安心した。
才能の種類が違う人を、素直に認められる。
これは意外と難しい。
リリアにはそれができる。
将来、看板嬢になるなら大事な資質だ。
女の子同士は、時に比較される。
売上、指名、容姿、会話力。
その中で、相手の強みを認められるかどうかは、店の空気を左右する。
「リリア」
「何?」
「内覧試飲会では、ノアに話しかけてあげて」
「うん。緊張してたもんね」
「同年代の子がいるだけで安心すると思う」
「分かった」
彼女は迷わず頷いた。
マルクは名簿を覗き込みながら言った。
「酒はどうする?」
「ビールは三杯分だけ。全員には出しません」
「少ないな」
「特別感を残します。代わりに冷やし果実酒と氷入り蒸留酒を主にします」
「菓子は?」
「蜂蜜果実焼きの改良版。できればもう一種類ほしい」
「料理人が泣くぞ」
「明日相談します」
「また朝から試作か」
「はい」
バルドは腕を組んで言った。
「会員募集は、その場で即決させるのか?」
「迷っています」
「即決を煽ると、役所から見て印象が悪くなる」
「ですよね」
「だが、熱があるうちに申し込みの意思は確認したい」
「仮申込にします」
俺は羊皮紙に書いた。
「その場で希望だけ聞く。正式な支払いは翌日以降、規約説明後にする」
バルドは満足そうに頷いた。
「良い。昨日の指摘を踏まえている」
「もう役所に呼ばれたくないので」
「呼ばれる時はまた呼ばれる」
「嫌なことを言わないでください」
「商売をするなら慣れろ」
無理を言う。
だが、そうなのだろう。
夢を商売にするということは、客だけでなく、役所、家主、商人、職人、従業員、家族、その全員に説明し続けることなのかもしれない。
「招待状も必要ですね」
俺は言った。
「口頭だけではなく、木札か羊皮紙で」
「また何か作るのか」
マルクが呆れる。
「招待された特別感が必要です」
「はいはい、特別感な」
「招待状には、人数限定、規律、帰路の護衛、会員勧誘は任意と書きます」
「任意って書くのか?」
「書きます。無理に入らせる場ではないので」
バルドが頷いた。
「それも良い。信用を得られる」
招待状。
会員証。
受領書。
規約。
店作りは紙と木札ばかり増える。
だが、それらが信用の骨組みになる。
◇◇◇
話が一段落したところで、バルドが別の羊皮紙を広げた。
そこには、昨日見た西通りの空き店舗について、契約条件がまとめられていた。
保証金。
契約開始から一か月以内の改装開始。
三か月以内に営業開始できなかった場合の契約見直し。
床の張り替え。
厨房修理。
階段補強。
二階の目隠し。
どれも現実的で、どれも金がかかる。
だが、昨日ダリオが少し保証金を下げると言ったことは大きかった。
もちろん、それで楽になったわけではない。
むしろ、本当に進むのだという重さが増した。
「明日、正式に契約する」
バルドが静かに言った。
「ダリオからも連絡が来ている。家主側は君の返答を待っている状態だ」
「明日ですか」
「遅らせれば、横槍が入る可能性がある」
カイル派。
その言葉は出なかったが、全員が同じことを考えた。
物件を押さえられれば、店は始まらない。
会員制度も宙に浮く。
だから、明日決める。
「保証金は?」
マルクが聞く。
「下がったとはいえ軽くはない」
バルドが答える。
「だが、払えない額ではない。問題は払った後だ。改装費、家具、衣装、酒器、人件費。すべてが続く」
「金、足りねえな」
マルクが遠慮なく言った。
「分かっています」
俺は頷いた。
現実が容赦なく並んでいる。
だが、不思議と心は折れなかった。
むしろ、やるべきことが見えると燃えてくる。
「だからこそ、内覧試飲会で信用を作る必要があります」
「会員を雑に増やすなよ」
バルドが言った。
「はい。選びます」
「金が足りない時ほど、客を選べ」
その言葉は重かった。
金が足りなければ、誰からでも取りたくなる。
だが、それをやれば店の格が崩れる。
最初の会員は、店の空気を決める。
だから、選ぶ。
これもまた、俺の店の規律だった。
◇◇◇
その夜、ギルドへ戻る道で、リリアがぽつりと言った。
「ノア、怖がってたね」
「うん」
「でも、布のことを言った時、少し嬉しそうだった」
「気づいた?」
「うん。自分の言ったことをレンが書いたから」
「そうだね」
リリアは夜空を見上げた。
「私も最初、そうだった。自分の言葉が店に反映されると、ちょっと嬉しい」
「働く人の声は大事だから」
「そういう店では、ちゃんと聞いてくれるものなの?」
俺は少し黙った。
答え方を間違えると、余計なことまで話してしまいそうだった。
だから、言える範囲で答える。
「聞く店もある。聞かない店もある」
「聞かないと、どうなるの?」
「女の子が辞める。客も荒れる。店は短く儲かるかもしれないけど、長くは続かない」
リリアは黙った。
「俺は、長く続く店にしたい」
「うん」
「そのためには、働く人が言いやすい空気を作らないといけない」
「私も言っていい?」
「もちろん」
「じゃあ、言う」
「うん」
リリアは少し笑った。
その笑顔を見て、俺は思う。
この店は、俺一人の店ではなくなっている。
まだ存在しないのに。
まだ看板もないのに。
それでも、リリアは自分の言葉を店に乗せ始めている。
ノアも、布のほつれを通して店に関わり始めた。
エミリアは女性客の視点をくれる。
ガイルは夜の規律を支える。
マルクは現場を見てくれる。
バルドは商売の骨組みを教えてくれる。
人が集まっている。
店とは、結局そういうものなのだろう。
建物ではない。
酒でもない。
人が集まり、同じ空気を作り始めた時、店はもう半分生まれている。
だからこそ、明日、場所を押さえる。
人が集まり始めた空気を、現実の器に入れるために。
◇◇◇
翌朝に備えて、俺はギルドの部屋で招待状の文面を考えた。
狭い部屋。
硬いベッド。
小さな机。
窓の外には、遠くの酒場の灯りがまだ揺れている。
俺は羽根ペンを取り、羊皮紙に文字を書いた。
――内覧試飲会のご案内。
まだ正式な店ではありません。
けれど、私たちはこの場所に、酒と会話を楽しむ新しい店を作ろうとしています。
冷たい酒。
安心できる席。
規律ある客。
働く人を守る空間。
その始まりを、少しだけ見に来ていただけませんか。
会員への加入は任意です。
無理な勧誘は行いません。
ただ、この店がどんな未来を目指すのか、見ていただければ幸いです。
書き終えた時、胸が少し熱くなった。
拙い。
まだ硬い。
でも、嘘はない。
俺はその羊皮紙を見つめながら、静かに息を吐いた。
明日、西通りの物件を契約する。
契約が終われば、もう「候補」ではない。
そこは俺たちの店になる。
いや、正確には、店になるための場所だ。
そこから一週間で補修を進める。
オーウェンに家具を頼む。
職人を入れ、床を直し、壁を磨き、灯りを入れる。
そして、あの招待状を一人ずつ手渡す。
内覧試飲会。
未来の店の最初の夜。
そこで何が起きるかは分からない。
成功するかもしれない。
妨害されるかもしれない。
誰かが喜び、誰かが傷つくかもしれない。
それでも、やる。
店は、開けてみなければ始まらない。
俺は契約交渉用の羊皮紙をもう一枚取り出した。
保証金。
改装開始期限。
営業開始期限。
床の張り替え。
厨房修理。
階段補強。
二階の目隠し。
入口管理。
警備配置。
近隣対応。
そして最後に、一文を書き足す。
――この店は、酒場ではない。娼館でもない。会話と酒を楽しむ、規律ある夜の店である。
書いた瞬間、手が少し止まった。
言葉にすると、途端に怖くなる。
だが同時に、逃げられなくなる。
それでいい。
逃げないために、書くのだ。
窓の外では、夜風が石畳を撫でていた。
遠くで誰かが笑っている。
酒場帰りの冒険者かもしれない。
商人かもしれない。
いつか、俺の店から帰る客も、あんなふうに笑うのだろうか。
いや、笑わせる。
酒で人を壊すのではなく、酒で人を楽しませる。
女性を消耗させるのではなく、女性が誇りを持って働ける場所にする。
客が金を払えば何をしてもいい店ではなく、客もまた品を持つ店にする。
そのための場所が、明日決まる。
俺は羽根ペンを置き、羊皮紙を丁寧に重ねた。
翌朝。
俺たちは再び西通りへ向かう。
昨日は、候補地を見るために。
明日は、契約するために。
埃をかぶった古い空き店舗が、未来の店へ変わる最初の日になる。
お読みいただきありがとうございます。
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