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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
夜の店、その第一歩

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第35話 招待客を選ぶ日

 翌朝、金獅子亭の奥のテーブルには、また羊皮紙が広げられていた。


 最近、俺は酒場のテーブルを酒場らしく使っていない気がする。


 本来なら、ここには肉料理の皿やエールのジョッキが並ぶはずだ。冒険者たちが肘をつき、商人が取引の話をし、酔った客がくだらない自慢話をする。そういう場所であるはずなのに、今は会員規約、改装費の見積もり、物件契約の条件、試飲会の案内文が並んでいる。


 酒場というより、もはや開業準備室だ。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 羊皮紙に書かれた文字の一つ一つが、俺の夢を現実へ引き寄せている。冷えた酒を注ぐ手触りとは違う。客の笑い声とも違う。けれど、これも店作りの一部だった。


 昨日見た西通りの空き店舗。


 古びた二階建ての建物。


 埃の積もった床。


 曇った窓。


 傷んだ壁。


 それでも、あの場所には確かに可能性があった。


 中央通りほど派手ではない。人通りも多くない。だが、大通りから完全に外れているわけでもない。知っている者だけが足を向ける、少し隠れた場所。その空気は、俺が作ろうとしている店に合っている気がした。


 ただの酒場ではない。


 娼館でもない。


 酒と会話を楽しむ、規律ある夜の店。


 その器として、昨日見たあの建物は悪くなかった。


 もちろん問題はある。


 床の補修。


 壁の修繕。


 厨房の確認。


 階段の補強。


 二階の控室化。


 入口管理。


 女性客と働く子の導線。


 黒服が立つ場所。


 そして、家主との契約。


 まだ何一つ終わっていない。


 だからこそ、今日やるべきことは多かった。


「で、今日は招待客を選ぶんだな」


 マルクがカウンターの奥から言った。


「はい。内覧試飲会に呼ぶ人を決めます」


「呼びすぎるなよ。あの空き店舗、まだ埃だらけだ」


「少数にします」


「少数って何人だ?」


「十人前後」


「十分多いだろ」


「未来を見せるには、少し熱が必要です。少なすぎると寂しい」


 マルクは呆れたように鼻を鳴らした。


「お前は本当に面倒くさいことを考えるな」


「店は空気で売るので」


「はいはい」


 そう言いながらも、マルクは真剣に聞いている。


 彼も分かっているのだ。


 内覧試飲会は、ただの試飲ではない。


 昨日見たあの店舗に、未来の店の雰囲気を一夜だけ作る。その場に来た人間に、ここはただの思いつきではないと思わせる。会員費を出す価値がある、応援する価値がある、自分も関わりたいと思わせる。


 言葉で説明するだけでは足りない。


 体験させる必要がある。


 そして、その体験を作るには、誰を呼ぶかが何より重要だった。


「まず確定は、エミリアさん」


 俺は羊皮紙に名を書く。


「昼会員第一号です。女性客への影響力が大きい」


 リリアが頷いた。


「エミリアさんが来てくれると、他の女の人も安心すると思う」


「次にガイルさん」


「夜会員第一号だな」


 マルクが言う。


「はい。冒険者側の信頼がある。規律を守る客としても象徴になります」


「ガイルが規律の象徴か……」


 マルクは少し笑った。


 気持ちは分かる。


 最初に会った時のガイルは、どう見ても酒場で大声を出す冒険者だった。だが、彼は根が悪くない。むしろ面倒見がよく、線を越えない。こういう客が最初の常連になると、店の空気はかなり安定する。


「ハンナさんも呼びたいです」


 俺は続けた。


「仕立屋の方ですね」


 リリアが反応する。


「娘さんの働き口を探してた人」


「うん。衣装の相談もしたい。働く側の家族視点も必要です」


「娘さんも来るのかな」


「できれば来てほしい」


 マルクが眉を上げる。


「まだ雇うわけじゃないんだろ?」


「はい。でも、働きたい可能性がある人に見てもらう価値はあります」


「働く前に店を見る、か」


「隠す店にはしたくないので」


 その言葉を口にすると、自然と背筋が伸びた。


 隠す店にはしない。


 これは、俺の中でかなり大きな軸になり始めている。


 もちろん、夜の店には秘密がある。客の情報、会員名簿、女性客の名前、働く子の事情。それらは守らなければならない。


 だが、店の仕組みや規律は隠さない。


 働く側に仕事内容を説明する。


 家族が不安なら見せる。


 客にもルールを伝える。


 そのうえで来てもらう。


 曖昧さは人を傷つける。


 俺はそれを知っている。


 仕事内容をよく分からないまま働き始め、戸惑う子。金を払ったのだから何でも許されると勘違いする客。売上欲しさに線を曖昧にしてしまう店。


 そういう危うさを、この世界では減らしたい。


「他には?」


 バルドが静かに尋ねた。


 彼はいつものように少し離れた席で話を聞いていた。すでに招待客の選定にも商売の匂いを感じているのだろう。口数は少ないが、目は鋭い。


「女性客から二名ほど。エミリアさんに推薦してもらいます」


「良い。彼女が選ぶなら質が保てる」


「商人側からは?」


「一人、信頼できる者をこちらで選ぼう」


 バルドが言った。


「ただし、酒商会関係者は外す。今回は酒を売る場ではなく、店の構想を見る場だからな」


「助かります」


「冒険者はガイル以外に?」


「一人か二人。ガイルさんに推薦してもらいます。ただし、酒癖が悪い人は除外」


「そこは徹底しろ」


 バルドが即座に言った。


「最初の夜に一人でも暴れる者が出れば、君の店の印象はそれで決まる」


 その通りだった。


 内覧試飲会は、未来の店の最初の夜。


 そこで何が起きるかは、そのまま噂になる。


 上品だった。


 楽しかった。


 安心できた。


 そう言われれば勝ちだ。


 逆に、荒れた、危なかった、女の子が困っていた、と言われれば終わる。


「警備は別に手配します。ガイルさんには客として場を支えてもらいます」


「俺も立つぞ」


 マルクが言った。


「必要なら、氷で止めます」


 俺が言うと、リリアが苦笑した。


「床を滑らせるやつ?」


「最終手段」


「前にマルクさんに止められてたよね」


「店を壊さない程度にします」


「壊さないでくれ」


 マルクが真顔で言った。


◇◇◇


 昼営業が始まると、さっそく招待の話を進めることになった。


 最初に来たのはエミリアだった。


 彼女はいつものように落ち着いた足取りで店に入り、女性席へ案内される前に入口の木札を確認した。昨日の騒ぎと役所の出頭を受けて、木札には新しい文言が加えられている。


【会員制度は規約説明後に受付】


【名簿非公開】


【少数制】


 硬い。


 かなり硬い。


 だが、エミリアはそれを見て小さく頷いた。


「少し役所っぽくなったわね」


「昨日鍛えられました」


「でも悪くないわ。不安な人には、こういう硬さも必要よ」


 彼女は席につき、冷やし果実酒の軽めを頼んだ。


 もう好みは覚えている。


 リリアも自然に言った。


「今日は軽めですね。蜂蜜果実焼きは、少し薄くしてあります」


「ありがとう。覚えてくれているのは嬉しいわ」


 リリアの顔が少し明るくなる。


 接客の報酬は、客の笑顔だ。


 彼女はそれを確かに覚え始めている。


 俺はエミリアの席へ向かい、内覧試飲会の話をした。


「空き店舗で?」


「はい。昨日見た西通りの物件です。まだ正式契約前ですが、あそこに一夜だけ未来の店を作ります」


 エミリアの目が少し細くなる。


「面白いわね」


「ただ、招待客を絞ります。エミリアさんにも来ていただきたいです」


「もちろん行くわ」


 即答だった。


「それと、女性客を二名ほど推薦していただけませんか。信頼できる方で、店の空気を見て意見をくれそうな方」


 エミリアは少し考えた。


「一人は商家の奥方がいいでしょうね。もう一人は……少し若い子でもいいかもしれないわ」


「若い子?」


「働く側ではなく、客として来るかもしれない年齢の女性よ。母親世代だけで決めると、堅くなりすぎることがあるもの」


 なるほど。


 また勉強になる。


 女性客と一口に言っても、年齢や立場で求めるものは違う。


 商家の女主人。


 若い娘。


 主婦。


 仕立屋。


 それぞれ不安も期待も違う。


「お願いします」


「分かったわ。ただし、条件があるわ」


「何でしょう」


「その場に来る女性たちの名前を、他の男性客に軽々しく話さないこと。招待制であることをはっきり伝えること。あと、帰り道の安全も考えなさい」


 帰り道。


 また盲点だった。


 夜の試飲会なら、帰る時間も遅くなる。


 女性客を呼ぶなら、帰路の安全を確保する必要がある。


「護衛を手配します」


「それがいいわ」


 俺はすぐに羊皮紙に書き込んだ。


 帰路護衛。


 女性客の退出順。


 馬車手配。


 見送り。


 店は、客が席に座っている間だけで完結しない。


 来る前。


 帰った後。


 そこまで含めて体験だ。


 最後の印象が良ければ、客はまた来る。逆に帰り際に不快な思いをすれば、それまでの楽しさが薄れる。


 異世界でも同じだ。


 むしろ治安や街灯の少なさを考えれば、帰り道はもっと重要かもしれない。


「エミリアさん」


「何かしら」


「毎回、ありがとうございます」


 俺が素直に言うと、彼女は少しだけ驚いた顔をした。


 そして、柔らかく笑った。


「私は、自分が通いたい場所を作っているだけよ」


 その言葉は、かなり心強かった。


 客が店を一緒に作る。


 それは危うさもあるが、良い客なら力になる。


 エミリアは間違いなく、その一人だった。


◇◇◇


 次に来たのはハンナだった。


 昨日より少し緊張が少ない。店に入る時も、入口で立ち止まりはしたが、すぐにリリアの方へ視線を向けた。


「こんにちは。今日は娘を連れてきたのだけれど」


 その後ろに、一人の少女が立っていた。


 年齢はリリアより少し下か、同じくらいだろう。


 薄い茶色の髪を肩の辺りで切りそろえ、目は大きいが、どこか伏し目がちだ。服は質素だが丁寧に繕われている。仕立屋の娘らしく、袖口や裾の処理は綺麗だった。


 彼女は店内へ入るなり、肩を小さく縮めた。


 酒場の匂い。


 男たちの声。


 木の床の軋み。


 すべてに慣れていないのだろう。


 俺はすぐに全鑑定を使った。


――――――――

名前:ノア

年齢:15

職業:仕立屋見習い

状態:緊張/好奇心/自己評価低め

性格傾向:内向的/観察力が高い/手先が器用/人前が苦手

現在の目的:母に連れられて店の様子を確認/自分にも働ける場所か不安

潜在適性:衣装管理/裏方補助/静かな接客

警戒度:低

――――――――


 ノア。


 この子か。


 後に店の運命を変える少女、というほどの派手さはない。


 むしろ目立たない。


 けれど、鑑定に出た潜在適性が気になった。


 衣装管理。


 裏方補助。


 静かな接客。


 看板嬢というより、店の裏側を支える人材かもしれない。


 店は、表に出る女の子だけで作るものではない。衣装を整える人、控室を管理する人、働く子の小さな不調に気づく人。そういう裏方がいる店は強い。


「いらっしゃいませ」


 リリアが柔らかく声をかけた。


「女性席へどうぞ。初めてでも大丈夫です」


 ノアはリリアを見て、少しだけ表情を緩めた。


 同年代の少女がいる。


 それだけで安心したのだろう。


 席に着くと、ハンナが俺に言った。


「この子が娘のノアです。まずは見せるだけと思って連れてきました」


「来てくれてありがとうございます」


 俺はノアへ向き直った。


「レンです。無理に話さなくて大丈夫です。今日は店の雰囲気だけ見てください」


 ノアは小さく頷いた。


「……はい」


 声は細い。


 だが、店内を見る目は意外と動いている。


 客席。


 テーブル布。


 リリアのエプロン。


 花瓶。


 冷やし果実酒の色。


 彼女は人より物を見ている。


 それが少し面白かった。


 リリアが冷やし果実酒を用意する間、ノアはテーブルの布に指先で触れていた。


「あの」


 初めて彼女の方から声を出した。


「この布、端が少しほつれています」


 ハンナが慌てた。


「ノア」


「す、すみません」


 ノアはすぐに俯いた。


 俺は布の端を見た。


 確かに、少しほつれている。


 俺やマルクなら気づかなかった。


「ありがとう」


 俺が言うと、ノアは驚いたように顔を上げた。


「え?」


「気づかなかった。助かる」


「……怒らないんですか?」


「怒る理由がないよ。店を良くすることを教えてくれたんだから」


 ノアは戸惑ったように目を瞬かせた。


 ハンナも少し驚いている。


 リリアはにこっと笑った。


「レン、そういうのすぐ書くよ」


「書く」


 俺は羊皮紙に記録した。


 テーブル布の端処理。


 衣装だけでなく、布もの全般の管理。


 ノアはそれを見て、小さく口を開いた。


「本当に書くんですね」


「大事だから」


「こんな小さいことが?」


「小さいことが店の印象を作るから」


 ノアは黙った。


 けれど、その目が少しだけ変わった。


 自分の気づきが価値になる。


 そう感じたのかもしれない。


「ノアさん」


 俺は言った。


「今度、昨日見た西通りの空き店舗で内覧試飲会をします。まだ改装前ですが、未来の店を見せる場です。よければ、お母さんと一緒に来ませんか」


 ノアは困ったようにハンナを見た。


 ハンナは少し考え、静かに頷いた。


「招待していただけるなら」


「もちろんです」


「ただ、この子は人前が得意ではありません」


「無理に接客させるつもりはありません。むしろ、布や衣装、働く子が使う物について意見を聞きたいです」


 ノアが小さく息を呑んだ。


「私が、ですか?」


「はい。今日、布のほつれに気づいたので」


「そんなことで……」


「そういうことに気づける人が必要です」


 これは本音だった。


 リリアは接客の才能がある。


 だが、ノアには別の才能がある。


 表で輝く人材と、裏で整える人材。


 どちらも店には必要だ。


 ノアはまだ自信がない。


 だからこそ、最初から「表に出ろ」と言わない方がいい。


 彼女が見つけた小さな欠点を、店の価値に変える。


 そこから始めればいい。


 ハンナは少し目を伏せた。


「ありがとうございます」


 その声には、母親としての安堵が混じっていた。


◇◇◇


 夜営業前には、ガイルが来た。


 いつものように大股で入ってきて、まだ営業前の店内を見回す。


「内覧試飲会ってやつ、俺も行けばいいんだな」


「はい。夜会員代表としてお願いします」


「代表って言われるとむず痒いな」


「店の規律を守る側としていてほしいんです」


 ガイルは少し真面目な顔になった。


「荒れそうなのか?」


「分かりません。ただ、カイル派が妨害してくる可能性はあります」


「なら俺が見張る」


「ガイルさんには客として場を支えてほしいんです。警備は別に手配します」


「客として?」


「はい。最初の夜に、ちゃんと楽しんで、ちゃんと線を守る客がいる。それだけで店の空気が決まります」


 ガイルは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。


「難しいことを言いやがる」


「ガイルさんならできます」


「買いかぶりすぎだ」


「でも、酒癖の悪い人よりはずっと信用できます」


「褒めてるのか、それ」


「かなり褒めています」


 ガイルは笑った。


「分かった。客として行く。変な奴がいたら、客として睨む」


「それで十分です」


「冒険者をもう一人呼ぶなら、サラがいい」


「弓士の?」


「ああ。あいつは周りを見るのが上手い。騒ぐ奴より、静かに見てる奴の方がこういう場には向いてる」


 確かに。


 サラは最初に会った時から慎重なタイプだった。夜の店でいうなら、トラブルの予兆に気づける人間だ。客としていても、観察役として機能するかもしれない。


「お願いします」


「言っておく」


 ガイルは氷入り蒸留酒を頼み、席へ座った。


 以前なら一気に飲んでいただろう。


 だが今は、氷の音を聞きながらゆっくり飲む。


 本人は気づいていないかもしれないが、飲み方が変わっている。


 店が客を変える。


 客が店の空気を作る。


 その循環が、少しずつ始まっていた。


◇◇◇


 閉店後、金獅子亭の奥で招待客の名簿を整理した。


 エミリア。


 エミリア推薦の女性二名。


 ガイル。


 サラ。


 ハンナ。


 ノア。


 バルド推薦の商人一名。


 マルク。


 リリア。


 俺。


 関係者を含めれば、十数人。


 多すぎず、少なすぎない。


「問題は、ノアさんをどう扱うかですね」


 俺が言うと、リリアが首を傾げた。


「働きたい子じゃないの?」


「まだ分からない。でも、接客より裏方向きかもしれない」


「裏方?」


「衣装、布、控室、女の子の準備。そういうところを見る人」


 リリアは少し考えた。


「そういう人も必要なの?」


「かなり必要」


「そっか。私、服のほつれとか全然気づかなかった」


「俺も」


「でもノアは気づいた」


「うん」


「なら、すごいね」


 リリアは素直にそう言った。


 その言葉に、俺は少し安心した。


 才能の種類が違う人を、素直に認められる。


 これは意外と難しい。


 リリアにはそれができる。


 将来、看板嬢になるなら大事な資質だ。


 女の子同士は、時に比較される。


 売上、指名、容姿、会話力。


 その中で、相手の強みを認められるかどうかは、店の空気を左右する。


「リリア」


「何?」


「内覧試飲会では、ノアに話しかけてあげて」


「うん。緊張してたもんね」


「同年代の子がいるだけで安心すると思う」


「分かった」


 彼女は迷わず頷いた。


 マルクは名簿を覗き込みながら言った。


「酒はどうする?」


「ビールは三杯分だけ。全員には出しません」


「少ないな」


「特別感を残します。代わりに冷やし果実酒と氷入り蒸留酒を主にします」


「菓子は?」


「蜂蜜果実焼きの改良版。できればもう一種類ほしい」


「料理人が泣くぞ」


「明日相談します」


「また朝から試作か」


「はい」


 バルドは腕を組んで言った。


「会員募集は、その場で即決させるのか?」


「迷っています」


「即決を煽ると、役所から見て印象が悪くなる」


「ですよね」


「だが、熱があるうちに申し込みの意思は確認したい」


「仮申込にします」


 俺は羊皮紙に書いた。


「その場で希望だけ聞く。正式な支払いは翌日以降、規約説明後にする」


 バルドは満足そうに頷いた。


「良い。昨日の指摘を踏まえている」


「もう役所に呼ばれたくないので」


「呼ばれる時はまた呼ばれる」


「嫌なことを言わないでください」


「商売をするなら慣れろ」


 無理を言う。


 だが、そうなのだろう。


 夢を商売にするということは、客だけでなく、役所、家主、商人、職人、従業員、家族、その全員に説明し続けることなのかもしれない。


「招待状も必要ですね」


 俺は言った。


「口頭だけではなく、木札か羊皮紙で」


「また何か作るのか」


 マルクが呆れる。


「招待された特別感が必要です」


「はいはい、特別感な」


「招待状には、人数限定、規律、帰路の護衛、会員勧誘は任意と書きます」


「任意って書くのか?」


「書きます。無理に入らせる場ではないので」


 バルドが頷いた。


「それも良い。信用を得られる」


 招待状。


 会員証。


 受領書。


 規約。


 店作りは紙と木札ばかり増える。


 だが、それらが信用の骨組みになる。


◇◇◇


 話が一段落したところで、バルドが別の羊皮紙を広げた。


 そこには、昨日見た西通りの空き店舗について、契約条件がまとめられていた。


 保証金。


 契約開始から一か月以内の改装開始。


 三か月以内に営業開始できなかった場合の契約見直し。


 床の張り替え。


 厨房修理。


 階段補強。


 二階の目隠し。


 どれも現実的で、どれも金がかかる。


 だが、昨日ダリオが少し保証金を下げると言ったことは大きかった。


 もちろん、それで楽になったわけではない。


 むしろ、本当に進むのだという重さが増した。


「明日、正式に契約する」


 バルドが静かに言った。


「ダリオからも連絡が来ている。家主側は君の返答を待っている状態だ」


「明日ですか」


「遅らせれば、横槍が入る可能性がある」


 カイル派。


 その言葉は出なかったが、全員が同じことを考えた。


 物件を押さえられれば、店は始まらない。


 会員制度も宙に浮く。


 だから、明日決める。


「保証金は?」


 マルクが聞く。


「下がったとはいえ軽くはない」


 バルドが答える。


「だが、払えない額ではない。問題は払った後だ。改装費、家具、衣装、酒器、人件費。すべてが続く」


「金、足りねえな」


 マルクが遠慮なく言った。


「分かっています」


 俺は頷いた。


 現実が容赦なく並んでいる。


 だが、不思議と心は折れなかった。


 むしろ、やるべきことが見えると燃えてくる。


「だからこそ、内覧試飲会で信用を作る必要があります」


「会員を雑に増やすなよ」


 バルドが言った。


「はい。選びます」


「金が足りない時ほど、客を選べ」


 その言葉は重かった。


 金が足りなければ、誰からでも取りたくなる。


 だが、それをやれば店の格が崩れる。


 最初の会員は、店の空気を決める。


 だから、選ぶ。


 これもまた、俺の店の規律だった。


◇◇◇


 その夜、ギルドへ戻る道で、リリアがぽつりと言った。


「ノア、怖がってたね」


「うん」


「でも、布のことを言った時、少し嬉しそうだった」


「気づいた?」


「うん。自分の言ったことをレンが書いたから」


「そうだね」


 リリアは夜空を見上げた。


「私も最初、そうだった。自分の言葉が店に反映されると、ちょっと嬉しい」


「働く人の声は大事だから」


「そういう店では、ちゃんと聞いてくれるものなの?」


 俺は少し黙った。


 答え方を間違えると、余計なことまで話してしまいそうだった。


 だから、言える範囲で答える。


「聞く店もある。聞かない店もある」


「聞かないと、どうなるの?」


「女の子が辞める。客も荒れる。店は短く儲かるかもしれないけど、長くは続かない」


 リリアは黙った。


「俺は、長く続く店にしたい」


「うん」


「そのためには、働く人が言いやすい空気を作らないといけない」


「私も言っていい?」


「もちろん」


「じゃあ、言う」


「うん」


 リリアは少し笑った。


 その笑顔を見て、俺は思う。


 この店は、俺一人の店ではなくなっている。


 まだ存在しないのに。


 まだ看板もないのに。


 それでも、リリアは自分の言葉を店に乗せ始めている。


 ノアも、布のほつれを通して店に関わり始めた。


 エミリアは女性客の視点をくれる。


 ガイルは夜の規律を支える。


 マルクは現場を見てくれる。


 バルドは商売の骨組みを教えてくれる。


 人が集まっている。


 店とは、結局そういうものなのだろう。


 建物ではない。


 酒でもない。


 人が集まり、同じ空気を作り始めた時、店はもう半分生まれている。


 だからこそ、明日、場所を押さえる。


 人が集まり始めた空気を、現実の器に入れるために。


◇◇◇


 翌朝に備えて、俺はギルドの部屋で招待状の文面を考えた。


 狭い部屋。


 硬いベッド。


 小さな机。


 窓の外には、遠くの酒場の灯りがまだ揺れている。


 俺は羽根ペンを取り、羊皮紙に文字を書いた。


――内覧試飲会のご案内。


 まだ正式な店ではありません。


 けれど、私たちはこの場所に、酒と会話を楽しむ新しい店を作ろうとしています。


 冷たい酒。


 安心できる席。


 規律ある客。


 働く人を守る空間。


 その始まりを、少しだけ見に来ていただけませんか。


 会員への加入は任意です。


 無理な勧誘は行いません。


 ただ、この店がどんな未来を目指すのか、見ていただければ幸いです。


 書き終えた時、胸が少し熱くなった。


 拙い。


 まだ硬い。


 でも、嘘はない。


 俺はその羊皮紙を見つめながら、静かに息を吐いた。


 明日、西通りの物件を契約する。


 契約が終われば、もう「候補」ではない。


 そこは俺たちの店になる。


 いや、正確には、店になるための場所だ。


 そこから一週間で補修を進める。


 オーウェンに家具を頼む。


 職人を入れ、床を直し、壁を磨き、灯りを入れる。


 そして、あの招待状を一人ずつ手渡す。


 内覧試飲会。


 未来の店の最初の夜。


 そこで何が起きるかは分からない。


 成功するかもしれない。


 妨害されるかもしれない。


 誰かが喜び、誰かが傷つくかもしれない。


 それでも、やる。


 店は、開けてみなければ始まらない。


 俺は契約交渉用の羊皮紙をもう一枚取り出した。


 保証金。


 改装開始期限。


 営業開始期限。


 床の張り替え。


 厨房修理。


 階段補強。


 二階の目隠し。


 入口管理。


 警備配置。


 近隣対応。


 そして最後に、一文を書き足す。


――この店は、酒場ではない。娼館でもない。会話と酒を楽しむ、規律ある夜の店である。


 書いた瞬間、手が少し止まった。


 言葉にすると、途端に怖くなる。


 だが同時に、逃げられなくなる。


 それでいい。


 逃げないために、書くのだ。


 窓の外では、夜風が石畳を撫でていた。


 遠くで誰かが笑っている。


 酒場帰りの冒険者かもしれない。


 商人かもしれない。


 いつか、俺の店から帰る客も、あんなふうに笑うのだろうか。


 いや、笑わせる。


 酒で人を壊すのではなく、酒で人を楽しませる。


 女性を消耗させるのではなく、女性が誇りを持って働ける場所にする。


 客が金を払えば何をしてもいい店ではなく、客もまた品を持つ店にする。


 そのための場所が、明日決まる。


 俺は羽根ペンを置き、羊皮紙を丁寧に重ねた。


 翌朝。


 俺たちは再び西通りへ向かう。


 昨日は、候補地を見るために。


 明日は、契約するために。


 埃をかぶった古い空き店舗が、未来の店へ変わる最初の日になる。

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