第25話 閉ざされた店の事情
翌朝、俺はギルドの受付で、商業管理組合からの返事を受け取った。
「今日の昼前なら、担当者が時間を取れるそうです」
ミレイナはそう言って、小さな紹介状を差し出した。
朝の冒険者ギルドは相変わらず騒がしい。依頼掲示板の前には、今日の仕事を探す冒険者たちが集まり、鎧の擦れる音や受付嬢の声が絶え間なく響いていた。
だが俺の意識は、手の中の紙に向いていた。
昨日清掃した旧商業区の空き店舗。
その貸し出し条件を聞ける。
ただそれだけの話なのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
「ありがとうございます」
「本当に興味があるんですね」
ミレイナが少しだけ微笑む。
俺は苦笑した。
「まだ借りると決めたわけじゃありません」
「でも、考えてはいる」
「はい」
否定はできなかった。
昨日の夜から、何度もあの空き店舗のことを考えている。
入口。カウンター。昼の女性席。夜の会話席。二階の控室。倉庫。傷んだ階段。埃の匂い。そして、リリアが夜道で練習した「いらっしゃいませ」の声。
まだ何もない。
何も決まっていない。
それなのに、頭の中ではもう何度も店が開いていた。
ギルドの外へ出ると、ルミナスの朝の光が石畳を照らしていた。市場へ向かう人々が荷車を引き、パン屋の店先からは焼きたての香りが漂っている。
街が動いている。
金が動いている。
人が動いている。
その流れの中に、いつか自分の店を置く。
そう考えると、胸の奥が静かに熱くなった。
「レン!」
背後からリリアが走ってきた。今日は革鎧ではなく、動きやすい普段着だ。最近は金獅子亭の昼営業を手伝うことが増えたせいか、こういう格好の方が自然に見えてきた。
「話、聞きに行くんでしょ?」
「うん。商業管理組合へ」
「私も行っていい?」
「いいけど、金獅子亭は?」
「昼までには戻れるよ。それに、私も聞きたい」
「物件の話を?」
「うん」
リリアは少し照れたように視線をそらした。
「もし本当にレンのお店になるかもしれないなら、知っておきたいから」
俺は少し返事が遅れた。
俺の店。
まだ存在しない場所。
けれどリリアの中では、もう少しだけ形を持ち始めているのかもしれない。
「分かった。一緒に行こう」
「うん!」
リリアは明るく頷いた。
◇◇◇
商業管理組合の建物は、中央区画と旧商業区の境目にあった。
石造りの二階建てで、派手さはないが堅実な造りをしている。入口の横には木札が掛かっており、商店の登録、土地や建物の管理、税に関する相談などを扱っているらしい。
中に入ると、紙とインクの匂いがした。
酒場や市場とは違う匂いだ。
書類。帳簿。契約。
この世界にも、商売を支える裏側がある。
前世で見た役所や管理会社を思い出し、少しだけ胃が重くなった。夢を形にしようとすると、必ずこういう場所を通らなければならない。酒と笑顔だけで店は開けない。契約、権利、税、近隣との関係。綺麗ではないが、避けて通れない部分だ。
受付で紹介状を見せると、奥の小部屋へ通された。
待っていたのは、四十代くらいの細身の男だった。きちんと整えられた髪、細い眼鏡、机の上に積まれた帳簿。数字と契約を扱う人間の雰囲気がある。
「君がレン君か」
「はい」
「私は商業管理組合のダリオだ。昨日の清掃報告、読ませてもらった。ずいぶん細かく見てくれたようだな」
「気になった箇所を書いただけです」
「普通はそれをしない」
ダリオはそう言って、机の上の羊皮紙を軽く叩いた。
「階段の傷み、倉庫の湿気、窓枠の歪み。こちらでも確認するつもりだったが、手間が省けた」
「役に立ったなら良かったです」
「それで、あの物件に興味があると聞いた」
いきなり本題だった。
俺は姿勢を正した。
「はい。ただ、今すぐ借りる資金があるわけではありません。条件を聞きたいと思っています」
「正直でよろしい」
ダリオは帳簿を開いた。
「まず、あの建物は売却ではなく賃貸が基本だ。所有者は前店主の親族だが、遠方に住んでいて管理できない。組合が間に入って借り手を探している」
「賃料は?」
ダリオが数字を告げた。
俺は内心で少し息を呑んだ。
高い。
いや、中央区画に比べれば安いのだろう。だが今の俺にとっては十分すぎる額だった。
さらに保証金。
修繕費。
契約手数料。
備品の買い替え。
営業許可。
頭の中で数字が積み上がっていく。
夢はすぐに現実へ引き戻される。
「高い?」
隣でリリアが小声で聞いてくる。
「今の俺にはね」
「……そっか」
リリアの表情が少し曇った。
俺は小さく首を振る。
「でも、無理というほどじゃない」
本当はかなり厳しい。
だが、不可能ではない。
金獅子亭での試験営業が続けば、ビールと氷入り酒の利益は増える。バルドとの提携が正式化すれば、収入源も安定するかもしれない。さらに昼営業の仕組みを整えれば、別の展開もある。
問題は時間だ。
そして初期費用だ。
ダリオは俺の顔を観察していた。
「君は若いが、ただの興味本位ではなさそうだ」
「店を作りたいと思っています」
「酒場か?」
「酒場に近いですが、少し違います」
「違う?」
「酒を出すだけではなく、人が会話を楽しめる場所です。昼は女性客や商談向け、夜は落ち着いて酒を飲める店にしたい」
ダリオの目が少し細くなった。
「旧商業区でか?」
「はい」
「中央区画ではなく?」
「今の俺には中央区画の物件は無理です。それに、あの場所は静かです。目的を持って来る客なら、むしろ向いていると思います」
ダリオはしばらく黙った。
その沈黙は、馬鹿にしているものではなかった。
計算している沈黙だった。
「発想は悪くない。だが、一つ問題がある」
「問題?」
「なぜ、あの物件に長く借り手がつかなかったと思う?」
来た。
ただ古いだけなら、もっと早く誰かが借りてもおかしくない。旧商業区とはいえ、二階建てで通りに面した店舗だ。
長く空いていたのには理由がある。
ダリオは帳簿を閉じた。
「あの店は、前の店主が亡くなる少し前に、客との揉め事を起こしている」
「揉め事?」
「酒に酔った客が暴れ、店内の家具を壊し、止めに入った店主が怪我をした。その後、店主は体調を崩して店を閉めた。直接の死因ではないが、街では縁起が悪い店だと言う者もいる」
リリアが息を呑む。
俺は黙って聞いていた。
酔客。
暴力。
壊れた家具。
止めに入った店主。
胸の奥が少し冷えた。
前世の記憶が重なる。
酒は人を楽しくする。
だが同時に、人を壊すこともある。
酔った客が暴れ、店員や女の子を傷つける。黒服が止めに入る。周囲の客がざわつく。空気が一瞬で壊れる。そういう光景を、俺は何度も見た。
そして俺自身も、酒で死んだ。
この世界でも同じだ。
酒場を作るなら、必ず向き合わなければならない問題だった。
「それで、借り手がつかなかったんですね」
「それだけではない」
ダリオは少し声を落とした。
「壊れた家具や内装を作った職人が、以来、仕事をほとんど受けなくなった。前店主と親しかったらしい。あの店の話になると、職人たちの間でも少し避けられる」
「家具職人……」
「店を直すなら家具が必要になる。だが、旧商業区で腕の良い家具職人は少ない。その一人が動かないとなると、改装費も余計にかかる」
なるほど。
ただの空き店舗ではない。
過去の揉め事。
縁起の悪さ。
職人との関係。
それが重なっている。
「その家具職人の名前は?」
俺が尋ねると、ダリオは少し意外そうな顔をした。
「会うつもりか?」
「話を聞きたいです」
「偏屈な男だぞ」
「偏屈な人には慣れています」
前世の夜の店には、偏屈な客も、偏屈な職人も、偏屈なオーナーもいた。今さらそれくらいで引くつもりはない。
ダリオは小さく笑った。
「名はオーウェン。旧商業区の奥で小さな工房を持っている。昔はこの辺りで一番の家具職人だった」
「今は?」
「今は修理仕事を少し受ける程度だ。新しい店の家具は作らない」
「なぜですか?」
「本人に聞くといい」
ダリオはそう言って、工房の場所を書いた紙を渡してくれた。
俺はそれを受け取る。
物件の話を聞きに来ただけだった。
だが、どうやら次に会うべき相手ができたらしい。
家具職人オーウェン。
店作りには、酒だけでは足りない。
家具がいる。
席がいる。
カウンターがいる。
女の子が安心して座れる椅子がいる。
客が長く居たくなるテーブルがいる。
それを作る人間が必要だ。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
ダリオは静かに言った。
「一つ忠告しておく。あの店を借りるなら、過去の噂も背負うことになる」
「分かっています」
「本当に分かっているかは、やってみなければ分からん」
「そうですね」
俺は苦笑した。
確かにその通りだ。
だが、過去に酔客が暴れた店だからこそ、俺が作りたい店に意味がある気もした。
酒で壊れた場所を、酒で楽しめる場所に変える。
それは俺自身の人生とも重なる。
酒で死んだ俺が、酒で人を幸せにする店を作る。
その最初の場所として、悪くない。
◇◇◇
商業管理組合を出ると、リリアは少し難しい顔をしていた。
「酔ったお客さんが暴れたんだね」
「ああ」
「怖いね」
「怖いよ」
俺は正直に答えた。
「酒を扱う店なら、避けて通れない問題だ」
「レンの店でも、そういう人が来る?」
「来る可能性はある」
「……そっか」
リリアの声が小さくなる。
ここはごまかしてはいけない。
夜の店は楽しいだけではない。
人と酒と金が集まる場所には、必ず危険も集まる。
「だから、ルールが必要なんだ」
「ルール?」
「危ない客には酒を出さない。女の子に触らせない。暴れたら即退店。金を払えば何をしてもいい、という客は入れない」
「そんなことできるの?」
「やるしかない」
俺の声は、自分でも少し低かった。
前世では、それができない店もあった。
金を使う客だからと見逃す。
女の子に我慢させる。
黒服に謝らせて終わりにする。
結果、良い子ほど辞めていく。
そして残るのは、危ない客と短期的な売上だけ。
俺はそんな店を作りたくない。
「リリア」
「うん」
「もし俺の店を作るなら、怖い客からは絶対に守る」
リリアは目を見開いた。
「……うん」
「でも、そのためには俺だけじゃ足りない。店の構造も、家具も、席の配置も、全部が大事になる」
「家具も?」
「椅子の位置一つで、逃げやすさが変わる。テーブルの高さ一つで、客との距離が変わる。カウンターの場所一つで、黒服が見守れる範囲が変わる」
リリアは少し驚いたようだった。
「そんなところまで考えるんだ」
「考えないと、守れない」
それは、前世で学んだことだった。
安全は気合いでは作れない。
仕組みで作る。
導線で作る。
距離で作る。
照明で作る。
誰がどこから見ているかで作る。
だから家具職人は重要だ。
ただ綺麗な椅子を作れる人間では駄目だ。
店の考えを理解してくれる職人が必要だった。
「オーウェンさんに会うの?」
リリアが聞く。
「うん。今から行こう」
「金獅子亭は?」
「昼には少し遅れるかもしれない。後でマルクさんに謝る」
「怒られるよ」
「たぶん」
「でも行くんだ」
「今行かないと、気持ちが逃げそうだから」
俺はそう言って、ダリオにもらった紙を開いた。
旧商業区のさらに奥。
小さな工房。
そこに、かつての家具職人がいる。
この物件が本当に店になるかは分からない。
金もない。
契約もしていない。
それでも、会わなければならない気がした。
店づくりには、酒だけでは足りない。
その最初の現実が、俺の前に立ちはだかっていた。
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