第26話 家具職人オーウェン
オーウェンの工房は、旧商業区の裏通りにあった。
表通りから一本入ると、人通りはさらに少なくなる。石畳はところどころ欠け、建物の壁には蔦が絡んでいた。小さな鍛冶屋、古道具屋、修理屋が並び、どの店も新しいとは言えないが、長く街に根付いている空気がある。
目的の工房は、その一角にあった。
低い木造の建物。
入口には看板が出ていない。
ただ、軒先に古い椅子が一脚置かれていた。
背もたれの曲線が美しい。
派手ではない。
だが、手で触れたくなるような形だった。
俺はその椅子を見た瞬間、少し息を呑んだ。
良い椅子だ。
座っていなくても分かる。
脚の角度、座面の広さ、背もたれの傾き。人が長く座ることを考えて作られている。
夜の店において椅子は重要だ。
客が長く座れるか。
女の子が無理なく隣に座れるか。
立ち上がりやすいか。
距離が近すぎないか。
椅子は、空間の質を決める。
「これ、すごいの?」
リリアが小声で聞いてきた。
「たぶん、かなり」
「見ただけで?」
「見ただけで分かる時もある」
俺は椅子に触れようとして、手を止めた。
勝手に触るのは失礼だ。
その時、工房の奥から低い声がした。
「触るなら座れ。眺めるだけなら帰れ」
中から出てきたのは、白髪混じりの老人だった。
背は高くない。
だが肩幅があり、手が大きい。指は太く、節くれ立っている。長年木を扱ってきた職人の手だ。目つきは鋭く、口元は不機嫌そうに歪んでいた。
「オーウェンさんですか?」
俺が尋ねると、老人は片眉を上げた。
「そうだが。誰だ、お前」
「レンと言います。商業管理組合のダリオさんから紹介されました」
「組合か」
オーウェンは露骨に嫌そうな顔をした。
「またあの店の話か」
「はい」
「帰れ」
即答だった。
リリアがびくっと肩を揺らす。
俺は一歩も引かなかった。
「話だけでも聞いてください」
「聞くことはない。あの店は終わった」
「終わった店を、もう一度始めたいと思っています」
オーウェンの目が鋭くなった。
空気が少し重くなる。
工房の中からは、乾いた木の匂いが漂っていた。削りかけの板、古い道具、積まれた木材。長く使い込まれた作業場の空気だ。
「若造が」
オーウェンは低く言った。
「あの店で何があったか知ってるのか」
「聞きました。酔った客が暴れ、店主が怪我をしたと」
「聞いただけか」
「はい。だから、あなたから聞きたい」
オーウェンはしばらく俺を睨んだ。
それから、軒先の椅子を顎で示した。
「座れ」
許可が出た。
俺は椅子に座った。
座った瞬間、驚いた。
見た目以上に安定している。
座面は硬いが、体重が自然に落ちる。背もたれの角度もちょうどよく、長く座っても疲れにくそうだ。立ち上がる時も、脚が邪魔にならない。
これは良い。
かなり良い。
「どうだ」
オーウェンが聞いた。
「長く座れます」
俺は答えた。
「酒を飲む席向きです。食事だけなら少しゆっくりしすぎる。でも、会話をしながら飲むならかなり良い」
オーウェンの眉がわずかに動いた。
「……分かるのか」
「少しだけ」
「普通は、座り心地がいい、で終わりだ」
「椅子は客の滞在時間を変えます。長く座れる椅子は、酒と会話の店に向いています。ただし、柔らかすぎると眠くなる。立ち上がりにくい椅子は回転率を落とす。席によって使い分けるべきです」
言いながら、前世の店を思い出す。
硬すぎる椅子では客が長居しない。
逆に沈み込みすぎる椅子は、場がだらける。
女の子が隣に座る店では、座面の幅と高さが重要だ。客との距離が近すぎれば危険になる。遠すぎれば会話が弾まない。テーブルの高さも、グラスの置きやすさも、客の満足度に影響する。
家具は、店の売上を左右する。
オーウェンは黙って俺を見ていた。
その目の奥に、さっきまでとは違う光が宿る。
「お前、何者だ」
「今は冒険者です」
「今は?」
「いずれ店を作りたいと思っています」
「酒場か」
「酒場に近いですが、少し違います」
またこの説明だ。
けれど、今回は少しだけ言葉を変えた。
「酒と会話を楽しむ店です。客がただ酔うためではなく、誰かと話し、少しだけ特別な気分で帰れる場所を作りたい」
オーウェンは鼻で笑った。
「綺麗事だな」
「はい」
「酒場で綺麗事は続かん」
「だから仕組みが必要です」
「仕組み?」
「危ない客を入れない。女の子を守る。黒服が客席を見られる配置にする。逃げ道を作る。酔いすぎた客には酒を出さない。椅子も、机も、店の動線も、そのために使う」
オーウェンの表情が変わった。
ほんの少しだが、確かに変わった。
「女の子を使う店か」
「女の子が主役になる店です。ですが、売り物にするわけじゃない。会話と接客で場を作る仕事です」
「娼館とは違うのか」
「違います」
俺ははっきり答えた。
「客が金を払えば何をしてもいい店にはしません」
その言葉を聞いた瞬間、オーウェンの目が少しだけ細くなった。
痛みを思い出したような目だった。
「……あの店の店主も、似たようなことを言っていた」
「前の店主が?」
「あいつは軽食屋だった。だが、夜は近所の商人や職人が集まる小さな酒場でもあった。荒くれ冒険者向けじゃない。静かに飲める店にしたいと言っていた」
オーウェンは工房の奥へ目を向けた。
そこには壊れた椅子の背もたれが立てかけられていた。
「だが、ある夜、酔った客が女給に絡んだ。店主は止めた。客は暴れた。椅子を振り回し、棚を倒し、店主を殴った」
リリアが息を呑む。
俺は黙って聞いた。
「俺の作った椅子だった」
オーウェンの声は低かった。
「客が振り回したのは、俺が作った椅子だ。人を座らせるために作ったものが、人を傷つける道具になった」
その言葉に、胸の奥が重くなった。
職人にとって、それはどれほど辛いことだっただろう。
椅子は座るためのものだ。
人を休ませるためのものだ。
会話を支えるためのものだ。
それが暴力に使われた。
自分の作ったものが、店主を傷つける道具になった。
「それ以来、新しい店の家具は作っていない」
オーウェンは静かに言った。
「修理だけだ。壊れたものを直すだけなら、まだできる。だが、新しい店のために家具を作る気にはなれん」
工房の空気が重かった。
リリアは何か言いたそうにしていたが、言葉が出ないようだった。
俺も、すぐには言えなかった。
前世で、俺も似たような無力感を知っている。
酒が好きだった。
夜の店が好きだった。
それなのに、酒で死んだ。
好きだったものが、自分を殺した。
それでも俺は、酒を憎みきれなかった。
なぜなら酒そのものが悪いわけではないと知っているからだ。
悪いのは、扱い方だ。
飲ませ方だ。
止めなかった空気だ。
断れない状況だ。
酒を言い訳に人を傷つける人間だ。
「オーウェンさん」
俺はゆっくり口を開いた。
「俺は、酒で死にました」
リリアが驚いてこちらを見る。
オーウェンの目も少し動いた。
「前の世界で、無理やり飲まされ続けて死にました」
すべてを説明するわけにはいかない。
転生の話も、神の話も、今はしない。
でも、この部分だけは本当だ。
「だから、酒が人を壊すことは知っています。店が止めなければいけない時に止めないと、人が死ぬことも知っています」
オーウェンは黙っていた。
「でも、それでも俺は酒のある場所が好きです。人が笑って、話して、少しだけ元気になって帰る場所を作りたい」
言葉が胸の奥から出てくる。
自分でも、少し熱くなっているのが分かった。
「あなたの椅子が人を傷つける道具になったのなら、今度は人を守る椅子を作ってほしい」
「守る椅子?」
「簡単に振り回せない重さ。立ち上がりやすい高さ。女の子が逃げやすい配置。黒服が見守れる角度。客が落ち着いて座れる座面」
俺は椅子から立ち上がり、向き直った。
「家具はただの道具じゃありません。店の空気を作ります。客の距離を決めます。安全も作れます」
オーウェンは目を細めた。
「家具で安全を作る、か」
「はい」
「若造のくせに、面白いことを言う」
その声には、さっきまでの拒絶だけではないものが混じっていた。
興味。
あるいは、職人としての火。
「俺はまだ店を持てません。金も足りない。人も足りない。あの物件を借りられるかも分かりません」
俺は正直に言った。
「でも、もし本当に店を作る時が来たら、あなたに家具をお願いしたい」
工房の前に、沈黙が落ちた。
通りの向こうで荷車の音が遠ざかる。
風が吹き、軒先の木くずが少し揺れた。
オーウェンは長く黙っていた。
やがて、低く言った。
「俺はもう、新しい店の家具は作らん」
「……そうですか」
「だが」
オーウェンは工房の奥へ歩き、古い木板を一枚持ってきた。
「図面くらいなら見てやる」
俺は目を見開いた。
「図面?」
「店を作るなら、席の配置がいる。入口、通路、カウンター、女の控室、厨房。お前が本気なら、まず描いてこい」
「見てくれるんですか?」
「見るだけだ」
オーウェンは不機嫌そうに言った。
「作るとは言ってない」
リリアが小さく笑った。
俺も笑いそうになる。
偏屈だ。
だが、完全に拒絶されたわけではない。
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
オーウェンはそっぽを向いた。
「礼は早い。どうせ若造の夢物語だ」
「夢物語を図面にして持ってきます」
「口だけなら帰れ」
「必ず持ってきます」
俺がそう言うと、オーウェンは少しだけ口元を緩めた。
ほんの一瞬だった。
だが確かに笑った。
◇◇◇
工房を出た後、リリアはしばらく黙っていた。
旧商業区の通りを歩きながら、彼女は何度か後ろを振り返った。
「すごい人だったね」
「うん」
「怖かったけど」
「うん」
「でも、椅子は綺麗だった」
その言葉に、俺は頷いた。
「良い職人だと思う」
「作ってくれるかな」
「まだ分からない」
「でも、図面は見てくれるって」
「大きな前進だよ」
店作りには酒がいる。
氷がいる。
接客がいる。
女の子がいる。
客がいる。
金がいる。
そして、家具がいる。
ただ座れればいいわけではない。
どんな距離で座るか。
どんな姿勢で話すか。
立ち上がりやすいか。
逃げやすいか。
見守りやすいか。
それを形にする人間が必要だ。
オーウェンは、もしかするとその最初の一人になるかもしれない。
「レン」
リリアが小さく言った。
「さっきの話、本当?」
「どれ?」
「酒で死んだって」
足が少し止まった。
リリアは真剣な顔をしていた。
俺はしばらく迷い、それから頷いた。
「本当」
「前の世界で?」
「うん」
「怖くないの?」
「何が?」
「また酒の店を作ること」
その問いはまっすぐだった。
俺はすぐに答えられなかった。
怖い。
本当は怖い。
酒が人を壊すことを、俺は身をもって知っている。
無理に飲まされる苦しさも、断れない空気の恐ろしさも、身体が冷えていく感覚も覚えている。
それでも俺は、酒のある場所を作ろうとしている。
矛盾しているのかもしれない。
でも。
「怖いよ」
俺は答えた。
「でも、だから作りたい」
「だから?」
「酒が怖いものになるか、楽しいものになるかは、店の作り方で変わると思う。俺は、酒に飲まれる場所じゃなくて、酒を楽しめる場所を作りたい」
リリアは黙って聞いていた。
「俺が死んだ時、誰も止められなかった。止める仕組みもなかった。だから俺の店では、止める」
「……うん」
「客も、女の子も、黒服も、酒に壊されない店にする」
リリアは少しだけ泣きそうな顔をした。
けれどすぐに笑った。
「じゃあ、私も覚える」
「何を?」
「危ないお客さんの見分け方。断り方。助けを呼ぶタイミング。レンが教えてくれるんでしょ?」
その言葉に、胸が熱くなった。
彼女はもう、ただ接客を楽しむだけではない。
店を作る側の視点を持ち始めている。
「教える」
俺は頷いた。
「全部教える」
「うん」
リリアは力強く頷いた。
その姿を見て、俺は思った。
やはり、リリアは最初の看板嬢になる。
ただ可愛いからではない。
ただ明るいからでもない。
彼女は学ぼうとしている。
自分も守られるだけではなく、店を守る側になろうとしている。
それは、とても大きな才能だった。
◇◇◇
金獅子亭に戻る頃には、昼営業の準備が始まっていた。
マルクは俺たちを見るなり、腕を組んだ。
「遅い」
「すみません」
「商業管理組合だけじゃなかったのか?」
「家具職人に会ってきました」
「家具職人?」
「オーウェンさんです」
マルクの表情が変わった。
「お前、あの爺さんに会ったのか」
「知ってるんですか?」
「昔はこの辺りで一番腕のいい家具職人だった。今はほとんど仕事を受けねえって聞いてる」
「図面なら見てくれるそうです」
マルクは目を丸くした。
「よく追い返されなかったな」
「ほぼ追い返されかけました」
「だろうな」
マルクは少し笑った。
それから真面目な顔になる。
「で、物件の条件は?」
俺は管理組合で聞いた話を説明した。
賃料。
保証金。
修繕費。
過去の揉め事。
前店主が怪我をしたこと。
長く借り手がつかなかった理由。
マルクは黙って聞いていた。
「……なるほどな」
「厳しいです」
「ああ。だが、ただ高い物件よりは面白い」
「面白い?」
「問題がある物件は、交渉の余地がある」
さすがだった。
俺も少し考えていたことだが、マルクはすぐにそこへ行き着いた。
「借り手がつかないなら、向こうも困ってる。修繕費を全部こっちが持つ必要があるかは交渉できるかもしれん。最初の数ヶ月の賃料を下げさせることもできる」
「なるほど」
「バルドにも聞け。あいつなら契約の穴を見つける」
「はい」
「それと、オーウェンが図面を見るなら本気で描け。適当な夢物語を持っていくなよ」
「分かっています」
マルクは俺をしばらく見た。
「進んでるな」
「まだ何も決まってません」
「でも進んでる」
俺は黙った。
確かにそうだ。
昨日までは、ただ空き店舗を見ただけだった。
今日は物件の問題を知り、家具職人と出会い、図面を求められた。
夢は、問題と一緒に現実へ近づいてくる。
楽しいだけではない。
むしろ現実に近づくほど、面倒なことが増える。
だが、それでいい。
「レン」
マルクが言った。
「今日の夜、店が終わったら簡単な図面を描け。俺も見る」
「お願いします」
「リリアも見ろ」
「私も?」
リリアが驚く。
「お前も関係者みたいな顔してたからな」
「関係者……」
リリアは少し嬉しそうに呟いた。
マルクは照れ隠しのように厨房へ向かった。
「ほら、昼営業の準備だ。夢の店もいいが、今の店を回せ」
「はい」
「はい!」
俺とリリアは同時に返事をした。
◇◇◇
その夜。
金獅子亭の営業後、俺は奥のテーブルに羊皮紙を広げた。
店内にはまだ酒と肉の匂いが残っている。昼は女性客の柔らかな声が響き、夜は冒険者たちの笑い声に包まれる場所。今ではこの店自体が、俺にとって大きな教室のようになっていた。
マルク、リリア、そして遅れてやって来たバルドも席についた。
なぜか当然のようにいる。
「話は聞いた」
バルドは静かに言った。
「早いですね」
「商人だからな」
もうその一言で済ませるつもりらしい。
俺は苦笑し、羊皮紙へ線を引いた。
空き店舗の一階。
入口。
カウンター。
昼席。
夜席。
厨房。
倉庫。
そして二階。
控室。
小さな特別席候補。
書きながら、手が少し震えた。
これはただの落書きではない。
俺の店の、最初の設計図だ。
マルクが覗き込む。
「入口から奥が見えすぎるな」
「衝立を置くつもりです」
バルドが顎に手を当てる。
「女性客を入れるなら、入口から直接視線が届かない席が必要だ」
「はい。昼席は右側の窓際にしようかと」
リリアが小さく手を上げる。
「女の子が休む場所は二階の窓がある部屋がいいと思います」
バルドがリリアを見る。
「理由は?」
「外が見えると、ちょっと落ち着くからです」
バルドは少しだけ目を細めた。
「良い意見だ」
リリアの顔が赤くなる。
マルクも頷いた。
「働く側の意見は大事だな」
俺はその言葉を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
もう俺一人で考えていない。
マルクが現実を見る。
バルドが商売を見る。
リリアが働く側を見る。
俺はそれをまとめ、店の形へ変えていく。
これが店作りなのかもしれない。
一人の夢を、複数の視点で現実へ落としていく作業。
羊皮紙の上に、少しずつ線が増えていく。
その線が、いつか壁になり、席になり、灯りになり、店になる。
「レン君」
バルドが言った。
「この図面をオーウェンに見せるなら、一つ書き加えた方がいい」
「何をですか?」
「この店の理念だ」
「理念?」
「彼は職人だ。金だけでは動かない。何のための店か、どんな客を座らせたいか、どんな人を守りたいか。それが分からなければ家具は作れない」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
理念。
俺は羊皮紙の端に、ゆっくりと文字を書いた。
――酒に飲まれず、酒を楽しむ場所。
――働く者を守り、客の本音を受け止める場所。
――会話と接客で、人を少しだけ明るくして帰す店。
書いていて、胸が熱くなった。
これはまだ粗い。
綺麗すぎる理想かもしれない。
でも、今の俺にとっては確かな中心だった。
リリアがその文字を見つめていた。
マルクは静かに腕を組んでいる。
バルドは何も言わず、ただ頷いた。
「まずはこれを持っていけ」
バルドが言った。
「職人に見せるには十分だ」
俺は羊皮紙を見下ろした。
最初の設計図。
そして最初の理念。
まだ店はない。
金も足りない。
契約もしていない。
だが、今日初めて、俺の夢は羊皮紙の上に形を持った。
翌日。
俺はその設計図を持って、再びオーウェンの工房へ向かうことになる。
そしてそこで、ただの家具ではなく、夜の店を支えるための最初の椅子を作ることになるのだった。
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