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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
夜の店、その第一歩

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第24話 空き店舗の清掃依頼

翌朝、俺は冒険者ギルドの掲示板の前に立っていた。


朝のギルドは、夜とは違う熱を持っている。


夜は酒と笑い声と怒号が混じる場所だが、朝はもっと現実的だ。冒険者たちは今日の食い扶持を探し、掲示板に貼られた依頼票を真剣な目で眺めている。薬草採集、荷物運搬、害獣駆除、護衛、倉庫整理。夢や浪漫という言葉とは裏腹に、低ランク冒険者が受けられる仕事の多くは地味だった。


だが、俺はそういう地味な依頼が嫌いではなかった。


派手な魔物討伐より、街の中の仕事の方が情報を得られることもある。酒樽運搬の依頼を受けたからこそ、俺はルミナスの酒流通を少し知ることができた。金獅子亭との縁も、あの依頼がきっかけの一つだった。


商売の種は、剣を振る場所よりも、こういう雑用の中に落ちていることがある。


「今日は何を受けるんだ?」


横から声がした。


振り向くと、リリアがいた。軽い革鎧を身につけ、金色の髪を後ろでまとめている。最近は金獅子亭で接客の練習をしている姿ばかり見ていたので、冒険者見習いらしい格好を見ると少し新鮮だった。


「まだ見てるところ」


「金獅子亭は?」


「昼には行く。午前中に軽い依頼を一つ受けようかと思って」


「レンが冒険者っぽいことしてる」


「一応、冒険者だからな」


「一応なんだ」


リリアが笑う。


俺も苦笑しながら掲示板へ視線を戻した。


その時、一枚の依頼票が目に入った。


他の依頼票より少し古びた羊皮紙。端が折れ、文字もやや雑だった。だが、そこに書かれていた内容を見た瞬間、俺の指は自然と止まった。


【空き店舗清掃】


依頼主:ルミナス商業管理組合

内容:旧商業区の空き店舗内の清掃、不要物の運び出し、建物状態の簡易確認

報酬:銅貨十二枚

条件:二名以上推奨。収納魔法、または力仕事が可能な者歓迎

備考:長期間未使用。害獣の可能性あり。


空き店舗。


その四文字に、胸の奥が小さく鳴った。


ただの清掃依頼だ。普通の冒険者なら、面倒な割に報酬が安いと判断して剥がさないだろう。だが、今の俺には違って見えた。


空き店舗。


つまり、店の中を見られる。


入口、客席、厨房、倉庫、二階があるなら控室や特別席の候補。実際の店舗空間を見ることができる。


自分の店。


その言葉が、頭の奥で静かに揺れた。


昨日、バルドに言われた。


資金、人材、場所。


商売を始めるには、その三つが必要だと。


金はまだ足りない。人材も、リリアがようやく接客に興味を持ち始めた段階だ。だが場所については、見なければ何も始まらない。


店は空想だけでは作れない。


壁の広さ、入口の位置、客席の導線、厨房の匂い、裏口の有無。そういうものは、実際に見て初めて分かる。


前世で黒服をしていた時も、俺はよく店の構造を見ていた。席の距離が近すぎると会話が混ざる。入口から奥まで見えすぎると高級感が落ちる。逆に閉じすぎると初回客が入りづらい。女の子の控室が狭すぎる店は、必ず裏の空気が悪くなる。


店は、ただ酒と人を置けば成立するわけではない。


場を売るなら、場そのものを設計しなければならない。


「レン?」


リリアが俺の顔を覗き込んだ。


「その依頼、受けるの?」


「受けたい」


「清掃だよ?」


「清掃だけど、空き店舗だ」


「……あ」


リリアは依頼票を読み直し、少し目を丸くした。


「もしかして、自分のお店の参考にするの?」


「そう」


口にすると、少しだけ照れくさかった。


自分の店。


まだ大きすぎる言葉だ。


今の俺は、冒険者ギルドの簡易宿泊室に寝泊まりしている身元不明の少年でしかない。手元の金もわずか。店どころか、自分の家すらない。


それでも、考えるだけなら自由だ。


そして今は、考えるだけで終わらせるつもりもなかった。


リリアはしばらく俺を見て、それから明るく笑った。


「私も行く」


「いいのか?」


「二名以上推奨って書いてあるし。それに、見てみたい」


「何を?」


「レンが店を見る時、何を見てるのか」


その言葉に、少し胸が温かくなった。


リリアは最近、接客を面白いと言うようになった。客の表情、注文の仕方、好みの覚え方。教えたことを素直に吸収している。


ただの冒険者見習いだった少女が、少しずつ「場を作る側」に近づいている。


「分かった。一緒に行こう」


俺は依頼票を剥がし、受付へ向かった。


◇◇◇


受付嬢のミレイナは、依頼票を見ると少し意外そうな顔をした。


「空き店舗清掃ですか?」


「はい」


「この依頼、あまり人気がないんです。報酬の割に手間が多いので」


「でしょうね」


「分かっていて受けるんですね」


「見たいものがあるので」


ミレイナは一瞬だけ俺を見つめ、それから小さく微笑んだ。


「レンさんらしいですね」


「俺らしいですか?」


「はい。普通の冒険者は、空き店舗を見ても空き店舗としか思いません。でもレンさんは、何か別のものを見そうです」


完全に見抜かれている。


俺は苦笑した。


「場所は旧商業区の南端です。昔は雑貨屋だったそうですが、数年前に閉店してから使われていません。鍵はこちらです」


ミレイナは小さな鉄鍵を差し出した。


黒ずんだ鍵だった。表面には細かな傷があり、長く使われていたことが分かる。手のひらに乗せると、見た目以上に重かった。


鍵。


ただの依頼用の鍵だ。


俺の店の鍵ではない。


それなのに、掌に乗せた瞬間、妙に胸がざわついた。


前世で俺が持っていた鍵は、安アパートの鍵と、バイト先の裏口の鍵くらいだった。


いつか自分の店の鍵を持ちたい。


そう思ったことは何度もある。


閉店後、照明を落とし、女の子たちを帰し、最後に入口の鍵を掛ける。今日も一日終わったな、と息を吐く。


そんな何でもない光景を、俺は本当はずっと夢見ていたのかもしれない。


「レン?」


リリアが不思議そうに覗き込む。


「鍵見て、どうしたの?」


「いや、少し重いなと思って」


「そんなに?」


「物理的にじゃなくて」


「?」


リリアは首を傾げた。


まだ説明するには早い。


俺自身、まだ本当の意味では分かっていないのだから。


◇◇◇


旧商業区は、中央区画から少し離れた場所にあった。


道幅は狭く、石畳の隙間には草が伸びている。建物は古く、壁には雨染みが残り、看板の文字が薄くなった店も多かった。完全に寂れているわけではない。古道具屋、小さな工房、修理屋のような店は今も営業している。


だが、中央広場のような勢いはない。


人の流れが遅い。


通行人はいるが、足を止める者は少ない。


商売をするには、少し難しい場所かもしれない。


俺は歩きながら、自然と周囲を観察していた。


「ここ、静かだね」


リリアが言った。


「中心からは外れてるからな」


「お店をやるには微妙?」


「業種による」


「業種?」


「通りすがりの客を狙うなら弱い。でも、目的を持って来る客なら悪くない」


「目的を持って来る客……」


「珍しい酒が飲めるとか、落ち着いて話せるとか、特別な相手に会えるとか」


言いながら、俺自身も考える。


前世なら、夜の店は立地が命だった。繁華街、駅前、大通り、同業店の集まる場所。そういう場所に店を出すのが普通だ。


だが、この世界にはまだ同業がない。


キャバクラという文化そのものが存在しない。


だとすれば、少し奥まった場所でもやり方次第では成立するかもしれない。むしろ、紹介制や会員制に近い形なら、隠れ家的な雰囲気は武器になる。


もちろん、最初から隠れ家を名乗っても客は来ない。


金獅子亭、バルド、エミリア。


そこから客を流す仕組みが必要になる。


考えることは多い。


だが、その多さが面白かった。


「レン、また商売の顔してる」


「どんな顔だよ」


「目が怖い」


リリアが笑った。


しばらく歩くと、目的の建物が見えてきた。


二階建ての古い木造建築だった。


通りに面した一階部分には大きめの扉があり、その左右に曇った窓がある。入口の上には看板を吊っていた金具だけが残っていた。壁はくすみ、木枠には細かなひびが入っている。


だが、完全な廃屋ではない。


骨組みはしっかりしているように見える。


入口の幅も悪くない。


一階は客を入れる店として使われていたのだろう。


俺は建物の前で足を止めた。


胸が、静かに鳴った。


「ここか」


リリアが呟く。


「うん」


俺は鉄鍵を取り出し、古い鍵穴に差し込んだ。


最初は少し引っ掛かった。角度を変え、力を込めると、奥で錆びた金属が擦れる感触がした。


鍵が回る。


鈍い音が響く。


扉を押すと、ぎい、と乾いた音を立てて開いた。


古い空気が、ゆっくり外へ流れ出てくる。


埃。


湿った木。


古い油。


そして、使われなくなった店特有の、時間が止まったような匂い。


俺はその匂いを吸い込み、なぜか胸が締めつけられた。


店は、人がいなくなると死ぬ。


前世でも、閉店した店を見たことがある。華やかだった照明が消え、ボトル棚が空になり、女の子たちの笑い声が消えた空間。


そこには独特の寂しさがあった。


この店も、かつては誰かの居場所だったのだろう。


客が来て、物を買い、店主が笑い、金が動いた場所だったはずだ。


それが今は、埃と沈黙に覆われている。


俺は一歩、中へ入った。


床板が小さく軋んだ。


◇◇◇


店内は薄暗かった。


窓の汚れで光が鈍り、床には細かな埃が積もっている。壁際には壊れかけた棚があり、奥には古い木箱がいくつか置かれていた。天井の梁には蜘蛛の巣が揺れている。


リリアが小さく咳き込んだ。


「すごい埃……」


「長く使ってないって言ってたからな」


「本当に清掃依頼だね」


「ああ」


俺は店内を見渡した。


依頼として見るなら、やることは多い。


大きなゴミの運び出し。


棚の撤去。


床掃除。


窓の開放。


害獣の確認。


簡易修繕箇所の記録。


だが俺の頭は、それとは別のことを考えていた。


入口から入った客が最初に見る景色。


正面奥に置くべきもの。


カウンターの位置。


昼の女性席。


夜の会話席。


厨房と倉庫。


二階が使えるなら、控室か特別席。


埃まみれの空間の上に、まだ存在しない店の姿が重なっていく。


柔らかな灯り。


磨かれた床。


並べられた酒瓶。


透明な氷の入ったグラス。


笑うリリア。


静かに見栄を張る客。


女の子の声。


黒服として客席を見守る自分。


前世で何度も見た夜の景色が、この古い空き店舗の中に薄く浮かんだ。


「レン?」


リリアの声で我に返る。


「また止まってる」


「ああ、ごめん」


「何見てたの?」


「店」


「店?」


「まだ埃だらけだけど、ここが店になったらどうなるか考えてた」


リリアは店内を見回した。


壊れた棚。


くすんだ壁。


埃の積もった床。


普通なら、ただの空き店舗にしか見えないだろう。


けれど彼女は馬鹿にしなかった。


「どんな店?」


静かに聞いてきた。


俺は少し考え、入口から奥を指差した。


「ここに入った客が、まず安心できるようにしたい」


「安心?」


「うん。変に暗すぎず、でも明るすぎない。初めてでも入りやすいけど、少し特別な感じがする店」


次に奥の壁を見る。


「あそこにカウンター。酒を作る場所。ビール、冷やし果実酒、氷入りの酒。客に見えるように出す」


「見せるんだ」


「酒は見せ方で価値が変わるから」


右側の窓際を見る。


「あっちは昼の席にできる。女性客や商談向け。明るくして、花を置いて、軽い菓子を出す」


「金獅子亭の女性席みたいな?」


「そう。でも、もっと落ち着いた感じにする」


左奥の少し暗い場所を見る。


「あっちは夜の席。静かに話したい客向け。騒ぐ客とは分ける」


「お客さんを分けるんだね」


「目的が違う客を同じ場所に押し込むと、満足度が下がるから」


リリアは真剣に聞いていた。


俺はさらに奥の扉を見た。


「奥は倉庫か厨房。二階が使えるなら、女の子たちの控室にしたい」


「控室?」


「働く子たちが休む場所。着替えたり、客席から離れて息をつける場所」


リリアは目を瞬かせた。


「そんな場所も大事なんだ」


「絶対に大事」


俺ははっきり言った。


前世で、控室の空気が悪い店を何度も見た。


狭くて、汚くて、荷物を置く場所もない。表では笑顔で客につく女の子たちが、裏では疲れた顔で座り込んでいる。泣いている子もいた。無理に酒を飲まされた子が、誰にも見られないように吐いていることもあった。


そういう店は、長くは続かない。


いや、続いていたとしても、そこで働く人間を削っている。


俺はそれを繰り返したくなかった。


「働く子が壊れたら、店は終わる」


俺が言うと、リリアは静かに頷いた。


「レンは、本当に女の子が働くことを考えてるんだね」


「考えるよ」


「お客さんだけじゃなくて?」


「客は大事。でも、働く子も同じくらい大事だ」


言葉にして、自分でも改めて思う。


俺が作りたい店は、客だけが気持ちいい店ではない。


女の子が無理をして笑う店でもない。


客も、働く子も、店も、長く続けられる場所。


そんな綺麗事を本気で形にするには、金も仕組みも力もいる。


だからこそ、今から考えなければならない。


◇◇◇


清掃は、思った以上に大変だった。


まず窓を開けるところから始める。湿気で歪んだ木枠は固く、力を込めなければ動かなかった。開いた瞬間、埃が舞い、外の光が店内に差し込む。


それだけで、空間の印象が少し変わった。


光が入る。


風が通る。


店が、わずかに息を吹き返したように見えた。


俺は壊れた棚や木箱を確認し、使えないものをアイテムボックスへ収納していった。リリアは箒で床を掃き、壁の蜘蛛の巣を払っている。


途中、木箱の裏から小さな鼠のような生き物が飛び出した。


「きゃっ!」


リリアが悲鳴を上げて飛び退く。


「害獣の可能性ありって、これか」


「無理無理無理!」


「冒険者だろ」


「魔物と鼠は別!」


俺は笑いそうになるのを堪えながら、氷魔法で床の一部を冷やし、逃げ道を塞いだ。鼠は慌てて外へ逃げていった。


「今、笑ったでしょ」


「少し」


「ひどい」


「ごめん」


そんなやり取りをしながら作業を進めていく。


埃を掃く。


壊れた板を運ぶ。


古い布を捨てる。


床の傷みを確認する。


単純な作業だ。


だが、不思議と嫌ではなかった。


店を作る最初の仕事は、掃除なのかもしれない。


どれだけ高い酒を置いても、どれだけ綺麗な女の子がいても、席が汚ければ店の格は落ちる。前世でも、客は意外と細かいところを見ていた。


グラスの曇り。


テーブルのべたつき。


椅子のぐらつき。


トイレの匂い。


そういうものは、一つ一つが信用を削る。


「レン、掃除しながらまた怖い顔してる」


「掃除について考えてた」


「掃除でそんな顔になる?」


「店の掃除は大事だよ」


「ふーん」


リリアはまだ半信半疑という顔をしている。


そのうち教えよう。


テーブルの拭き方も、グラスの磨き方も、客席の整え方も。


接客は、客に話しかける瞬間だけではない。


客が座る前から始まっている。


◇◇◇


一階がある程度片付いた頃、俺たちは奥の扉を開けた。


そこには小さな倉庫があった。


壁際に古い棚が残り、床には割れた瓶や空箱が散らばっている。湿気と古い油の匂いがこもっていて、長く閉め切られていたことが分かった。


俺は床板を踏み、壁を軽く叩く。


大きな崩れはない。


だが換気が悪い。


酒を置くなら改善が必要だ。


「鑑定」


小さく呟く。


――――――――

旧店舗倉庫

状態:長期未使用/湿気あり

構造:おおむね安定

用途適性:酒類保管 中/備品保管 高

注意点:換気不足/床板一部劣化

――――――――


やはり換気か。


俺は危ない床板に印をつける。


「何してるの?」


「危ない場所を記録してる」


「鑑定って本当に便利だね」


「便利すぎて怖いくらいだよ」


本当にそうだ。


酒精製。


氷魔法。


鑑定。


アイテムボックス。


強靭な腎臓。


どれも、考えれば考えるほど店作りに向いている。


まるで神様が、俺にこの道を進めと言っているみたいだった。


いや、アルテミアがそこまで考えていたかは分からない。


強靭な腎臓をくれた時の、妙に真面目な顔を思い出す。


たぶん半分くらいは善意で、半分くらいは悪ノリだった気がする。


◇◇◇


二階へ上がる階段は少し危なかった。


鑑定すると、三段目と七段目が傷んでいると出た。


「そこ、踏まないで」


「分かるの?」


「分かる」


「鑑定、便利すぎ」


慎重に階段を上がると、二階には三つの小部屋があった。


一つは通りに面した部屋。


一つは狭い物置。


もう一つは窓のある少し広い部屋だった。


俺は通りに面した部屋へ入る。


窓を開けると、外の光が差し込んだ。旧商業区の細い通りが見える。大通りほど賑やかではないが、静かで落ち着いている。


ここは使える。


そう思った。


特別席。


あるいは控室。


静かに飲みたい客を通す小部屋にもできる。高い酒を出し、外の喧騒から少し離れた場所で会話を楽しませる。前世でいうVIPルームの原型だ。


だが同時に、女の子たちの控室にも向いている。


窓がある。


外が見える。


客席から離れられる。


俺が考えていると、リリアが窓際に立った。


「ここ、いいね」


「そう思う?」


「うん。下より静かだし、外が見える。もし働く子たちが休む場所なら、こういう窓があると落ち着きそう」


俺は思わずリリアを見た。


それは、俺一人では出なかった視点だった。


俺は機能で考えていた。


着替えられるか。


荷物を置けるか。


客席から離れているか。


だがリリアは、そこで休む側の気持ちを言った。


外が見えると落ち着く。


確かにそうだ。


「採用」


「え?」


「この部屋、控室候補」


「本当に?」


「今の意見はかなり良かった」


リリアは少し顔を赤くした。


「思ったこと言っただけだよ」


「その思ったことが大事なんだよ」


俺は羊皮紙にメモを取った。


二階窓側。


控室候補。


外が見える。


働く子の安心感。


リリアはそれを覗き込み、少し照れたように笑った。


「本当に何でも書くね」


「忘れたら損だから」


「エミリアさんみたい」


「いい意見は財産だからな」


リリアは窓の外を見ながら、小さく呟いた。


「もし、いつか本当に店を作ったらさ」


「うん」


「私、ここで働けるかな」


俺はすぐには答えなかった。


軽く「働ける」と言うことはできる。


でも、それは軽すぎる。


彼女にとっては人生の選択になるかもしれない。俺にとっても、人を店に立たせる責任を背負うということだ。


前世で見た夜の店には、輝きと同じくらい影があった。


売上に追われる女の子。


客に傷つけられる女の子。


無理に飲まされる女の子。


笑顔の裏で泣く女の子。


俺自身も、無理に飲まされて死んだ。


だからこそ、簡単には言えない。


「働けるように、俺がちゃんとした店を作る」


俺はそう答えた。


「ちゃんとした店?」


「危ない客を入れない。女の子を守る。無理に酒を飲ませない。頑張った分がちゃんと返ってくる。そういう店」


リリアはしばらく俺を見ていた。


やがて、静かに笑った。


「じゃあ、楽しみにしてる」


その笑顔は、まだ看板嬢のものではない。


ただの明るい少女の笑顔だった。


けれど俺には、その先が少し見えた気がした。


◇◇◇


清掃依頼を終える頃には、夕方が近づいていた。


不要物はアイテムボックスに収納し、組合指定の廃棄場へ運んだ。使えそうな家具や酒器は一階の隅へまとめた。床の埃は完全には取れなかったが、人が歩ける程度にはなった。窓も開くようになり、店内には久しぶりに風が通った。


最初に入った時より、空気が軽い。


古い店が、少しだけ息を吹き返したように見えた。


依頼としては、ただの清掃だ。


だが俺にとっては、それ以上だった。


入口。


カウンター。


昼の席。


夜の席。


倉庫。


二階の控室。


特別席候補。


修繕箇所。


必要資金。


客の導線。


すべてが頭の中でつながり始めている。


もちろん、この物件を借りられるとは限らない。


貸し出し条件も知らない。


家賃も分からない。


改装費も分からない。


今の俺の資金では到底足りないだろう。


それでも、初めて具体的に想像できた。


自分の店の形を。


リリアと外へ出ると、夕方の光が旧商業区の壁を赤く染めていた。


古い建物の影が長く伸び、通りには昼間とは違う静けさがある。


俺は振り返って、空き店舗を見た。


古びた扉。


くすんだ壁。


看板の外れた入口。


今はまだ何者でもない場所。


だが俺には、そこが少しだけ光って見えた。


「どうだった?」


リリアが聞いた。


「かなり良かった」


「店にしたい?」


俺は少し黙った。


そして、正直に答えた。


「したい」


口にした瞬間、夢が少しだけ現実に近づいた気がした。


リリアは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、頑張らないとね」


「そうだな」


頑張る。


簡単な言葉だ。


だが今は、その言葉が妙に胸に響いた。


◇◇◇


ギルドへ戻ると、ミレイナが依頼完了の確認をしてくれた。


俺は危険箇所や建物の状態を書いた羊皮紙を渡した。


床板の劣化。


階段の傷み。


倉庫の湿気。


窓枠の歪み。


ミレイナはそれを見て、少し驚いたようだった。


「ここまで細かく見てくださったんですか?」


「気になったので」


「普通の冒険者は、掃除だけして終わりですよ」


「普通じゃないみたいなので」


「それは否定しません」


さらっと言われた。


リリアが横で笑っている。


ミレイナは報酬の銅貨十二枚を渡してくれた。


俺はそれを受け取りながら、ふと尋ねた。


「あの店舗、今後どうなる予定なんですか?」


「管理組合が借り手を探しているそうです。ただ、旧商業区なので人気は低いですね。修繕も必要ですし」


心臓が少し速くなった。


借り手を探している。


つまり、可能性はある。


「貸し出し条件は聞けますか?」


ミレイナは俺を見た。


「興味があるんですか?」


「今すぐ借りられるわけではないです。でも、話だけでも聞きたいです」


ミレイナは少し考え、それから頷いた。


「分かりました。商業管理組合の担当者に話を通しておきます。明日以降なら面談できるかもしれません」


「ありがとうございます」


その瞬間、胸の奥で何かが一段進んだ気がした。


まだ何も決まっていない。


むしろこれから問題が出てくるだろう。


賃料。


保証金。


修繕費。


契約条件。


年齢や身分の問題。


それでも、道が一本見えた。


ギルドを出ると、リリアがすぐに言った。


「本当に借りるの?」


「まだ分からない」


「でも、話は聞くんでしょ?」


「聞く」


「聞くだけで終わる?」


「……たぶん終わらない」


リリアは楽しそうに笑った。


「やっぱり」


◇◇◇


その夜、俺は金獅子亭へ向かった。


清掃で疲れていたが、マルクには早めに話しておきたかった。


金獅子亭はいつも通り賑わっていた。肉の焼ける匂い、安いエールの発酵臭、氷入り蒸留酒の澄んだ音、客たちの笑い声。数日前までとは少し違う空気が、この店には生まれ始めている。


女性席には、冷やし果実酒を楽しむ客もいた。


小さな菓子の皿もある。


リリアの接客を目当てに来る女性客も少しずつ増えている。


変えられる。


店は変えられる。


その実感があった。


営業後、俺は奥のテーブルでマルクに空き店舗の話をした。


羊皮紙に簡単な図を描く。


入口。


カウンター候補。


昼席。


夜席。


倉庫。


二階控室候補。


マルクは黙ってそれを見ていた。


「思ったより具体的だな」


「見ながら考えていたので」


「立地は?」


「旧商業区の南端です。人通りは弱いです。ただ、静かで、目的客向きだと思います」


「最初の店としては難しいな」


「はい」


「じゃあ、どう客を呼ぶ?」


現実的な質問だった。


「金獅子亭から紹介を作ります。女性客、商人客、氷入り酒に興味を持った客。あとはバルドさんとエミリアさんの人脈」


「紹介頼みか」


「最初はそうなります。だから、ただ開けて待つ店にはしません。限定感と紹介制に近い形で始める必要があります」


マルクは顎を撫でる。


「悪くはない。だが、客を掴めなきゃ一瞬で終わるぞ」


「分かっています」


「金は?」


「足りません」


即答した。


マルクは少し笑った。


「正直だな」


「嘘をついても仕方ないので」


「改装費はかなり掛かるぞ。床、壁、階段、厨房、家具、食器、灯り。お前が思ってるより金が飛ぶ」


「はい」


「人は?」


「リリアに接客を学んでもらっています。でも一人では無理です。将来的には複数人必要です」


「女の子を集めるのも簡単じゃねえ」


「分かっています」


マルクはしばらく黙った。


その目は厳しかった。


酒場の店主として、長年商売をしてきた男の目だ。


「レン」


「はい」


「店を持つってのは、好きな酒を出すのとは違うぞ」


「はい」


「客が来なきゃ赤字だ。客が来すぎても回らなきゃ潰れる。人を雇えば、その生活も背負う。酔った客が暴れりゃ守らなきゃならねえ。役人にも、商会にも、近所にも頭を下げる」


「はい」


「それでもやるのか?」


何度も問われてきた言葉だった。


バルドにも。


自分自身にも。


それでもやるのか。


俺は少しだけ目を閉じた。


前世の夜の匂いを思い出す。


酒、香水、タバコ、欲望、金。


笑う女の子。


怒鳴る客。


走る黒服。


高い酒の泡。


泣いていたキャスト。


無理に酒を飲まされ、死んだ自分。


あの世界が好きだった。


でも、全部が好きだったわけではない。


嫌いな部分もあった。


変えたい部分もあった。


なら、二度目の人生でやることは決まっている。


「やります」


俺は答えた。


「ただ、前の世界と同じものを作りたいわけじゃありません。もっと安全で、もっと楽しくて、働く子が自分を安売りしなくていい店を作りたい」


リリアが静かに俺を見ていた。


「客が酒に飲まれる店じゃなくて、酒を楽しむ店。女の子を傷つける客は入れない。金を使うだけじゃなく、空気を守れる客に来てもらう。そういう店にしたい」


「理想だな」


マルクが言った。


「はい」


「理想だけじゃ商売はできねえ」


「分かっています」


「だが、理想がない店もつまらねえ」


マルクはそう言って、少し笑った。


「いいんじゃねえか。まだ甘い。金も足りねえ。人も足りねえ。場所も直さなきゃ使えねえ。問題だらけだ」


「はい」


「でも、考える価値はある」


その言葉に、胸が熱くなった。


リリアが小さく手を上げた。


「あの」


「どうした?」


マルクが見る。


リリアは緊張した様子で、それでもまっすぐ言った。


「もし、レンがお店を作るなら……私、手伝いたい」


店内が静かになった。


「接客、まだ全然だけど。怖い客もいるかもしれないけど。でも、最近初めて、自分にもできることがあるかもって思えたから」


彼女の声は少し震えていた。


「お客さんが笑ってくれるの、嬉しかった。私の説明で注文してくれるのも、また来てくれるのも、嬉しかった。だから……もっと覚えたい」


俺はすぐに返事ができなかった。


自分の夢に、誰かが乗ろうとしてくれている。


そのことが嬉しくて、同時に怖かった。


マルクはリリアを見て、少し優しい顔になった。


「なら、まずは金獅子亭でしっかり覚えろ。レンの店ができる前に潰れたら意味ねえからな」


「はい!」


リリアは明るく返事をした。


その声を聞きながら、俺は思った。


店を作る。


その夢は、もう俺一人だけのものではなくなり始めている。


◇◇◇


その帰り道。


ルミナスの夜は静かだった。


中央区画の酒場からは笑い声が漏れていたが、空には星が広がり、石畳には月明かりが薄く伸びている。


リリアはふと立ち止まった。


「ねえ、レン」


「何?」


「入口で、いらっしゃいませって言う練習してもいい?」


「気が早いな」


「でも、いつか言うんでしょ?」


俺は少し黙り、それから頷いた。


「うん。いつか」


リリアは少し照れくさそうに姿勢を正した。


夜道の真ん中。


誰もいない石畳の上。


彼女は小さく頭を下げた。


「いらっしゃいませ」


その声は、まだ素人だった。


少し恥ずかしさが混じっていて、発声も安定していない。


けれど、柔らかかった。


人を拒まない声だった。


俺はしばらく黙っていた。


未来が見えた気がした。


埃まみれだった空き店舗。


磨かれた床。


柔らかな灯り。


冷たい酒。


笑う客。


そして入口で、リリアが迎える。


「……いいね」


俺は言った。


リリアは顔を赤くした。


「本当に?」


「うん。すごくいい」


「じゃあ、もっと練習する」


「うん」


俺たちはまた歩き出した。


まだ店はない。


金もない。


契約もしていない。


空き店舗は埃まみれで、修繕も必要で、借りられるかどうかも分からない。


それでも今日、俺は初めて自分の店の入口を見た気がした。


そこに立つリリアの姿を、確かに見た気がした。


そして翌日。


管理組合の担当者との面談で、俺はその空き店舗がただ安いだけの物件ではないことを知る。


その店には、長く借り手がつかなかった理由があったのだ。

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