第126話 祝われるより感謝を返したい
フィオナが仮会員となった夜から数日後。
Club Moon Dropの昼営業を終えた店内では、夜営業へ向けた準備が進んでいた。
使い終えた杯をロイとディーノが確認し、汚れの残っていないものから棚へ戻していく。
厨房では、ルークが夕方から出す料理の仕込みを進めていた。
ティアは洗い終えた野菜を布の上へ並べ、一つずつ表面の水気を拭き取っている。
ノアは窓際の小さな卓で手帳を開き、昼営業で減った備品と、夜までに補充が必要なものを書き出していた。
女性キャストたちは控室で休んでいたが、エルナだけは一足先に一階へ戻っていた。
受付近くで帳簿を確認しているレンへ近づこうとして、止まる。
声をかけるために口を開き、閉じる。
レンが帳簿へ目を落とすと、また一歩近づく。
顔を上げると、何もなかったように客席の方を見る。
三度目を見たところで、レンは帳簿を閉じた。
「エルナ」
「な、何?」
「さっきから何か言いたそうだけど」
「分かった?」
「分かるよ」
エルナは控室の方を振り返った。
本当は、リリアへ知られる前にレンだけへ相談するつもりだった。
驚かせるなら、本人には秘密にした方がよい。
そう思っていた。
けれど、本人の希望を聞かずに祝い方を決めるのも違う気がして、声をかけられずにいた。
「今、少し時間ある?」
「大丈夫」
「じゃあ、みんながいる時に話したいんだけど」
「店のこと?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「まだ、やるって決まったわけじゃないから」
エルナが曖昧に答えたところで、控室からリリアとミーナ、セレナが戻ってきた。
リリアは水の入った杯を手に持ち、二人の様子へ気づく。
「どうかしましたか?」
「ちょうどよかった」
エルナは全員が揃ったことを確かめた。
「少し先なんだけど、リリアの誕生日でしょ?」
リリアが杯を持ったまま目を瞬いた。
「私のですか?」
「そう。忘れてたの?」
「忘れていたわけではありませんが……」
「もうすぐじゃない」
エルナは指を折り、残りの日数を数える。
リリアは少し困ったように笑った。
「それが、どうかしたのですか?」
「みんなでお祝いしたらどうかなって思ったの」
明るい声だった。
店内で手を動かしていた者たちも、自然にそちらへ顔を向ける。
ミーナが嬉しそうに身を乗り出した。
「お誕生日のお祝いですか?」
「うん。常連のお客様にも来てもらって、いつもより少し特別な夜にするの」
「それは素敵ですね」
ミーナがすぐに賛成する。
セレナも柔らかく頷いた。
「リリアさんへ感謝しているお客様は多いですものね」
「でしょ?」
エルナは勢いを得て、レンへ向き直る。
「いつもと違うお菓子を出して、飾りも少し変えてさ。来てくれたお客様と一緒に祝うの。セレナの演奏とミーナの歌もあったら、絶対喜んでもらえると思う」
店内の空気が、少しだけ華やぐ。
ルークも厨房の入口から顔を出した。
「特別な菓子が必要なら、考えてみます」
「ほら、ルークもこう言ってるし」
「まだ何を作るか決めていません」
「でも作ってくれるんでしょ?」
「リリアが望むなら」
ルークの返事に、視線がリリアへ集まった。
祝われる本人は、すぐには答えなかった。
嬉しくないわけではない。
そう見えた。
けれど、素直に喜んでいる表情とも少し違う。
「リリア?」
エルナが呼ぶ。
「どうしたの?」
「皆さんが考えてくださったことは、とても嬉しいです」
リリアは丁寧に答えた。
「ですが、お客様と一緒に祝っていただくとなると、少し考えたいことがあります」
「何?」
「どのようなお祝いにするのでしょうか」
「どのようなって……」
エルナは、自分の思い描いていた形を頭の中から探す。
「特別な飾りをして、いつも来てくれるお客様に声をかけて、リリアの好きなお酒で乾杯してもらうとか」
「料金は、普段と同じですか?」
「そこまでは考えてなかったけど、特別な料理やお菓子を出すなら、少し上げてもいいんじゃない?」
エルナは悪気なく答えた。
「お祝いだから、普段より良いお酒を頼みたいっていうお客様もいると思うし」
リリアの表情が僅かに曇る。
レンは口を挟まず、続きを待った。
「お客様へ、高いお酒を頼んでいただくようお願いするのですか?」
「お願いっていうか、無理には言わないよ」
「ですが、私の誕生日だと伝えれば、頼まなければならないと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか」
エルナは答えに詰まった。
「そうかもしれないけど……でも、祝いたいと思ってくださるなら」
「お気持ちは、とても嬉しいです」
リリアは繰り返した。
「でも、私を祝うために、無理をしてお酒や贈り物へお金を使っていただくのは違うと思います」
店内が静かになる。
エルナは、少し傷ついたように眉を下げた。
「私は、無理をさせたいわけじゃないよ」
「分かっています」
「ただ、リリアはずっとお客様を大事にしてきたから、今度はみんながリリアを喜ばせる日があってもいいと思っただけ」
「はい」
リリアの声は柔らかい。
「そのように考えていただけたことが、嬉しいです」
「じゃあ、やりたくないの?」
まっすぐ聞かれ、リリアは少し迷った。
「祝っていただくことが嫌なのではありません」
「なら」
「ただ、自分の誕生日を理由に、お客様へ何かを求める形にはしたくないのです」
エルナは口を閉じた。
断られたわけではない。
けれど、自分が考えていた祝い方は望まれていない。
どう受け取ればよいのか分からない様子だった。
レンは二人の間へ視線を向ける。
「一度、何をしたいのか分けて考えようか」
「何をしたいのか?」
エルナが振り返る。
「エルナは、リリアに喜んでもらいたい」
「うん」
「リリアは、みんなが考えてくれたことは嬉しい。でも、お客様へ負担をかける形にはしたくない」
「はい」
リリアが頷く。
「なら、祝わないか、高いお酒を頼んでもらうかの二つだけじゃないと思う」
レンは近くの卓へ移動した。
「営業前に少し話し合おう。夜の準備に必要な分だけ確認したら、みんなも座って」
ロイとディーノは残っていた杯を棚へ戻し、ノアは手帳を持ったまま席へ移る。
ルークとティアも厨房の作業を一度止めた。
全員が一つの卓を囲みきれないため、隣の卓も使う。
レンはリリアへ向き直った。
「リリアは、自分の誕生日に何もしたくない?」
「何もしなくても構いません」
「本当に?」
エルナが思わず尋ねる。
「はい。ただ……」
「ただ?」
リリアは自分の手を見つめた。
「皆さんが考えてくださったことを、すべて断るのも違うと思っています」
「じゃあ、何ならしたい?」
エルナの声が少し明るくなる。
「それを考えていました」
リリアは顔を上げた。
「私は、Club Moon Dropで働き始めた頃、接客について何も知りませんでした」
森でレンと出会った時。
ルミナスへ来た時。
金獅子亭で初めて客へ声をかけた時。
Club Moon Dropの開店準備を始めた時。
リリアは、ただ困っている者を放っておけない性格であるだけで、客へどう接すればよいのかを知らなかった。
「話を聞いてくださるお客様がいて、失敗してもまた来てくださる方がいて、少しずつ接客を覚えられました」
リリアは、ガイルたちやエミリア、アルフレッド、ハインツ、これまで訪れた多くの客を思い浮かべているようだった。
「もちろん、レンや皆さんからも、たくさん教えていただきました」
「うん」
「ですから、自分を祝っていただく日より、これまで支えてくださった方へ、私から感謝を伝える日にしたいです」
エルナの目が僅かに見開かれる。
「リリアから?」
「はい」
「お客様へ何か贈るってこと?」
「大きなものではありません」
リリアはルークへ目を向ける。
「例えば、小さな焼き菓子を用意して、帰られる時に一つずつお渡しできればと思います」
ルークが腕を組む。
「人数が分かれば作れます」
「お金はいただかずに?」
「はい。私からのお礼ですから」
ノアが手帳を開いた。
「材料費は店が負担するのですか。それとも、リリアの給金から出しますか」
「私の給金から出せる範囲で」
「待って」
レンが止める。
「リリア一人へ全部負担させるのは違うと思う」
「ですが、私からのお礼です」
「店が費用を出したからといって、リリアからの感謝でなくなるわけじゃないよ」
エルナがすぐに言う。
先ほどまでの曇った表情は消えていた。
「私も手伝う。包装でも何でもする」
「私もです」
ミーナが続く。
「お客様へ感謝をお伝えする日なら、私たちも一緒にお礼を言いたいです」
セレナも頷いた。
「リリアさん一人だけが支えられてきたわけではありません。私たちも同じです」
リリアは少し戸惑った。
「ですが、私の誕生日なのに」
「始まりは、リリアの誕生日でいい」
レンは答える。
「でも、店として感謝を伝えるなら、費用も準備も全員で考えよう」
「そうそう」
エルナが身を乗り出す。
「お客様から何かをもらうんじゃなくて、こっちから喜んでもらえばいいんだよ」
「その言い方なら、分かります」
「さっきとそんなに違う?」
「少し違います」
「細かいなあ」
ようやく、リリアも小さく笑った。
空気が少し和らぐ。
「では、開催する方向で内容を決めますか」
ノアが確認する。
レンは頷いた。
「まず、リリアが望まないことを整理しよう」
ノアは手帳へ線を引く。
「特別料金を設定しない」
「はい」
リリアが頷く。
「誕生日を理由に、高額なお酒や贈り物を勧めない」
「はい」
「指名数や注文額を競わない」
リリアが少し驚いてノアを見る。
「そのようなことも考えていたのですか?」
「エルナの提案には含まれていません。ただ、行わないこととして明確にした方がよいと思いました」
「お願いします」
ノアが書き加える。
「次に、やりたいこと」
レンが促す。
「お客様へ焼き菓子をお渡ししたいです」
「リリアから直接ですか?」
ロイが尋ねる。
「できれば」
「帰る時間が重なれば、接客中の席を離れる必要が出ます」
ロイは店内の動きを思い浮かべながら続ける。
「受付近くで渡す場合も、長く入口に立てば担当の卓が空きます」
「一度に大勢のお客様を迎えなければ、対応できるのではないでしょうか」
リリアが答えた。
「普段と同じ人数なら、全員へご挨拶する時間を取れると思います」
「満席にはしないの?」
エルナが聞く。
「席を埋めることより、一人ずつお礼を伝えられる方が大切です」
リリアは迷わず答えた。
「私を指名してくださる方だけをお呼びするのも違うと思います。ほかの皆さんを指名しているお客様にも、これまでお世話になっていますから」
エルナは一瞬黙り、やがて笑った。
「やっぱりリリアらしいね」
「そうでしょうか」
「自分の誕生日でも、自分を指名するお客様だけ見ないところが」
「皆さんの大切なお客様でもありますから」
「だからだよ」
エルナは今度こそ、傷ついた様子なく言った。
セレナが静かに口を開く。
「音楽はいかがでしょうか」
「演奏していただけるのですか?」
「はい。ただし、リリアさんを称えるための曲ではなく、皆様との出会いへ感謝する曲にしたいと思います」
ミーナも少し緊張しながら続ける。
「私も歌いたいです」
「ミーナが?」
「はい。まだ人前で歌うのは緊張しますが、普段お話を聞いてくださるお客様へ、歌でお礼を伝えられたらと思います」
リリアの表情が、今度ははっきりと嬉しそうに変わった。
「聞いてみたいです」
「本当ですか?」
「はい」
「では、セレナさんと一緒に考えます」
ミーナは胸の前で両手を握った。
「長くなりすぎないようにします。会話を楽しみに来られた方もいらっしゃると思うので」
「それがよいと思います」
レンは全員の意見を聞きながら、次に人数について考える。
「普段の営業より予約が増える可能性はある」
「リリアの誕生日だって知ったら、来たい人は多いと思う」
エルナが言う。
「ですが、全員を一晩でお迎えすることはできません」
ロイが店内を見回した。
「席数も、キャストと黒服の人数も変わりません」
「一日にまとめる必要はあるのかな」
ディーノが静かに尋ねた。
全員の視線が向く。
「どういうこと?」
「誕生日の当日だけに全員を迎えようとすると、予約が集中します」
ディーノは言葉を選ぶ。
「焼き菓子や演奏は当日だけにしても、感謝は次に来店された時にも伝えられます」
リリアが考え込む。
「誕生日当日に来られなかったからといって、支えていただいたことが変わるわけではありません」
「なら、当日は丁寧に迎えられる人数だけ予約を受ける」
レンがまとめる。
「来られなかった方には、次に会った時にリリアからお礼を伝える。それでどう?」
「はい」
「予約を断る場合も、普段と同じように、安全に対応できる席数までだと説明します」
ロイが続けた。
「お願いします」
リリアは頷く。
「私たちの仕事でもあるんだから、そんなに畏まらなくていいよ」
エルナが笑う。
「ですが、皆さんへ仕事を増やしてしまいます」
「私が言い出したの」
「でも、私のために」
「リリア」
エルナは少し真剣な表情になる。
「さっき、みんなでお客様へ感謝を返す日だって決めたでしょ?」
「はい」
「だったら、リリア一人のためじゃないよ」
リリアは一度言葉を止めた。
「そうですね」
「うん」
「ありがとうございます」
「それは当日にも言って」
エルナはようやく満足そうに笑った。
話し合いは、そこで終わらなかった。
誰へ案内するのか。
どのような言葉で伝えるのか。
贈り物を持参した客へ、どのように対応するのか。
特別な日と聞けば、善意から高価な品を持ってくる者もいる。
「すべて断れば、お気持ちまで拒むことになりませんか?」
ミーナが尋ねる。
「小さな花や手紙まで断る必要はないと思う」
レンが答えた。
「ただ、高価すぎる物や、見返りを期待される物は受け取らない」
「価格だけでは判断が難しいです」
ノアが言う。
「見た目だけでは価値が分からない物もあります」
「それなら、案内の時点で、高価な贈り物は遠慮していただきたいと伝えるのはいかがでしょう」
セレナが提案する。
「それがよいと思います」
リリアがすぐに賛成した。
「来ていただけるだけで嬉しいと、先にお伝えしたいです」
「普段から好きな高いお酒を頼む人まで止める必要はないよね?」
エルナが尋ねる。
「はい。ご本人が楽しむために選んでいるのでしたら、お断りする理由はありません」
リリアは答えた。
「大事なのは、高い酒を頼むことが祝い方だと、店側から思わせないことだね」
レンがまとめる。
「限定の高級酒は用意しない。特別料金も設定しない」
ノアが手帳へ書き足した。
「予約の順番は普段どおりですか?」
ディーノが尋ねる。
「普段どおりでお願いします」
リリアが答えた。
「私を長く指名してくださっている方だからといって、先に入れることもしません」
「当日にリリアを指名したいっていう人が多かったら?」
エルナが聞く。
「先約を優先します」
ロイが答えた。
「予約時に、リリアが長時間担当できない可能性も説明します」
「私も、できるだけ多くの方へご挨拶します」
「無理をしない範囲で」
レンが付け加える。
「誕生日だからって、リリアの休憩を減らすことはしない」
「ですが、一日だけなら」
「一日だけだから無理をしていい、にはしない」
レンの声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「お客様へ無理をしてほしくないなら、リリアも無理をしないこと」
リリアは少し黙った後、頷いた。
「分かりました」
「休憩時間と担当の交代は、普段どおり確保します」
ノアが記録する。
話し合いが進むにつれ、最初にエルナが思い描いていた華やかな祝いとは違う形が見えてきた。
高価な酒は並べない。
客へ贈り物を求めない。
売上も指名数も競わない。
予約を詰め込みすぎない。
リリアが休憩を削り、すべての客へ長時間接客することもしない。
それでも、いつもと同じ夜ではない。
ミーナの歌とセレナの演奏。
ルークとティアが作る小さな焼き菓子。
帰る客へ、リリアが直接渡す感謝の言葉。
来られなかった客へも、後日変わらず礼を伝える。
祝われる者が中心へ立ち、客から何かを集める日ではない。
これまで店を支えてくれた者へ、働く側から感謝を返す日だった。
「名前はどうしますか?」
ノアが尋ねる。
「名前?」
「案内をする際、何か呼び方が必要です。誕生日イベント、感謝の日、特別営業など」
「特別営業ではないよね」
エルナが言う。
「営業時間も料金も同じだし」
「誕生日のお祝いではあります」
ミーナが少し考える。
「でも、リリアさんは感謝を伝えたいのですよね」
「はい」
「でしたら、難しい名前をつけなくてもよいのではないでしょうか」
セレナが静かに言う。
「リリアさんの誕生日に、日頃の感謝をお伝えする夜。それだけで十分だと思います」
「そのままだね」
エルナが笑う。
「ですが、分かりやすいです」
リリアも賛成した。
レンはノアの手帳へ目を向ける。
「外や店内へ貼り紙は出さない。次に来店された時や、予約の問い合わせがあった時に、同じ内容を順番に伝えよう」
「誰かだけへ先に知らせることはしないのですね」
ロイが確認する。
「うん。予約を受けた順番も変えない」
「受付と予約を受ける者で、伝え方を揃えます」
「どのように伝えますか?」
ディーノが聞く。
少し考えた後、リリアが口を開いた。
「私の誕生日に合わせ、日頃の感謝をお伝えする夜を予定しております。料金や営業内容は普段と変わりません。高価なお酒や贈り物は、どうかお気遣いなさらないでください」
「最後は、ご都合が合いましたら普段どおりご予約ください、でどうでしょう」
セレナが整える。
「それがよいです」
ノアが書き留めた。
レンは全員を見回す。
「ほかに確認することは?」
ティアが遠慮がちに手を上げた。
「焼き菓子は、何人分作るのでしょうか」
「予約人数より少し多めだ」
ルークが答える。
「割れたり、形が崩れたりする分も考える」
「同じ形に揃えますか?」
「できるだけ揃えたいが、見た目だけに時間をかけすぎないようにする」
ティアは真剣に頷いた。
「果物を使うなら、甘い匂いが強すぎないものがよいと思います」
「どうして?」
エルナが尋ねる。
「持ち帰る間に、香りがほかの荷物へ移るかもしれません。それに、お酒を飲んだ後なら、甘すぎる香りを重く感じる方もいると思います」
ルークは少し考える。
「乾燥させた果物を少量だけ使うか、香りの穏やかな生地にした方がよさそうだな」
「はい」
「候補を二つ作って試す」
ティアの表情が僅かに明るくなった。
「包装は、どのようにしますか」
「それは私が手伝う」
エルナが言う。
「ミーナとセレナは曲の準備があるでしょ?」
「ですが、私たちも」
「無理に全員で同じことをしなくていいよ。得意なことを分けた方が早いから」
エルナの言葉に、レンは少し驚いた。
以前のエルナなら、自分もすべてへ関わろうとしたかもしれない。
今は、役割を分けることを自然に受け入れている。
「では、焼き菓子はルークとティア。包装はエルナと、手が空いた人。曲はセレナとミーナ」
レンが整理する。
「ノアは材料費と必要な備品の確認。ロイとディーノは予約と当日の動き。僕は全体の予算と、営業中に無理が出ないかを見る」
「リリアは?」
エルナが尋ねる。
「普段どおり接客」
レンが答えた。
「主役なのに?」
「リリアへ準備まで全部させたら、感謝を返す前に疲れる」
リリアは少し困ったように笑う。
「何か手伝わせてください」
「お客様へ伝えたいことを考えてください」
セレナが提案した。
「一人ひとりへ同じ文章を読む必要はありませんが、どのような気持ちを伝えたいかは、考えておいた方がよいと思います」
「分かりました」
「それと、無理をしない練習」
エルナが付け加える。
「練習ですか?」
「全員へ長く話そうとして、休憩を忘れそうだから」
「気をつけます」
「時間になったら、ちゃんと休むこと」
「はい」
「返事だけじゃなくて」
「エルナ」
リリアは笑いながら止めた。
エルナもつられて笑った。
話し合いが終わる頃には、夜営業の準備へ戻らなければならない時間になっていた。
それぞれが席を立つ。
ルークとティアは厨房へ戻り、早くも焼き菓子へ使える材料について話し始めた。
ノアは手帳を見ながら、小麦粉、砂糖、果物、包装用の紙の在庫を確認する。
ロイとディーノは受付近くで、予約を受けた際の説明を同じ言葉で伝えられるよう確認していた。
セレナとミーナは控室へ戻り、以前演奏した曲の中に使えそうな旋律がないか相談する。
エルナは全員が動き始めた店内を見回し、隣にいたリリアへ声をかけた。
「思ってたのとは、だいぶ違う形になったね」
「エルナが考えてくださったお祝いを、そのまま受け入れられませんでした」
「最初は、ちょっと寂しかった」
「はい」
「リリアなら喜んでくれると思ってたから」
「嬉しかったです。本当に」
「分かってる」
エルナは受付近くの卓へ手をつく。
「でも、私はリリアを喜ばせたいって言いながら、自分が考えた祝い方をやりたかったのかもしれない」
「そのようなことは」
「少しはあったと思う」
エルナは素直に認めた。
「派手にして、満席になって、お客様がいっぱい来てくれたら、私も嬉しいから」
「悪いことではないと思います」
「うん。でも、リリアが望んでないなら意味がない」
リリアはエルナを見る。
「ありがとうございます」
「それに、今の形も楽しそう」
「そうですか?」
「だって、お客様から何かをもらうんじゃなくて、こっちが驚かせるんでしょ?」
「驚かせるほどのことではありません」
「焼き菓子も歌も、まだ言ってないんだから、驚くよ」
エルナは楽しそうに笑った。
「私、包装をすごく綺麗にするから」
「無理をしないでくださいね」
「それ、今リリアに言われたくない」
二人は顔を見合わせる。
今度は、リリアも声を出して笑った。
夜営業が始まる前、レンは受付近くに立つリリアへ歩み寄った。
「本当に、これでよかった?」
「はい」
「祝われたくないから、感謝を返す形に逃げたわけじゃない?」
少し踏み込んだ問いだった。
リリアはすぐには答えなかった。
店内では、ロイとディーノが最後の椅子の位置を確認している。
エルナは控室で髪を整え、ミーナとセレナも準備を進めていた。
「祝っていただくのは、少し恥ずかしいです」
リリアは正直に答えた。
「ですが、嫌ではありません」
「うん」
「ただ、私がこの店で接客を続けられたのは、来てくださる方がいたからです」
「そうだね」
「誕生日だからといって、私だけが何かを受け取る日になるより、そのことを伝えられる日の方が嬉しいです」
レンは頷いた。
「なら、分かった」
「心配してくださったのですか?」
「リリアは人へ譲りすぎることがあるから」
「レンもです」
「僕の話は今してない」
「ですが、同じです」
リリアは穏やかに笑った。
「皆さんが準備してくださることは、きちんと受け取ります」
「休憩も?」
「はい」
「自分への祝いの言葉も?」
リリアは少しだけ迷う。
「……はい」
「よし」
「確認が多くありませんか?」
「大事だから」
その時、入口の外から足音が近づいた。
ロイが姿勢を正し、扉へ意識を向ける。
リリアも接客する表情へ切り替わった。
ただし、無理に作った笑顔ではない。
いつもの、相手を迎える柔らかな表情だった。
扉が開き、最初の客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
リリアが丁寧に頭を下げた。
その時、扉をくぐった客はまだ知らなかった。
近いうちに、この店で自分たちへ感謝を返す小さな夜が用意されようとしていることを。
夜営業を終えた後。
厨房では、ルークが小麦粉の袋と砂糖の壺を作業台へ置いた。
ティアは量りを手元へ引き寄せ、乾燥させた二種類の果物を順番に嗅ぐ。
「こちらの方が、香りが穏やかです」
「なら、最初はそれで試す」
ルークは小麦粉を量り始めた。
控室からは、セレナがリュートの弦を確かめる音が聞こえてくる。
続いて、ミーナが小さく息を吸った。
まだ言葉にも、歌にも、焼き菓子にもなっていない。
それでも、リリアが受け取ってきた感謝を返すための準備は、もう始まっていた。
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