第125話 笑わなくても失わない場所
それから五日後。
フィオナは再び、西通りへ入る手前の時計塔の下に立っていた。
前回と同じ、淡い灰色の上着。
濃紺の長いスカート。
髪も飾らず、後ろで簡単にまとめている。
違うのは、部屋を出る前に鏡へ向かって笑わなかったことだった。
笑おうと思えば、今でもすぐに笑える。
口元を上げ、目尻を柔らかくする。
相手へ余計な気を遣わせず、自分も何も気にしていないように見せる表情は、考えなくても作れた。
けれど今日は、必要になるまで笑わないと決めていた。
決めたはずなのに、時計塔の下で待っているうちに、何度も口元へ力が入りかける。
通りを歩く者と目が合った時。
自分の姿を見た誰かが、ルミエールのキャストだと気づいたような気がした時。
待ち合わせの相手へ、不安そうな顔を見せてはいけないと思った時。
そのたびに、フィオナは静かに息を吐いた。
笑っていなくても、不機嫌なわけではない。
前回、Club Moon Dropで過ごした時間を思い出す。
何も話さなくても、リリアは急かさなかった。
笑えなくなっても、表情を直すよう求められなかった。
無理に笑わなくても大丈夫だと言われた。
たったそれだけのことが、五日間ずっと心に残っていた。
「待たせたか?」
声をかけられ、フィオナは振り返った。
ハインツが、前回と変わらない落ち着いた足取りで近づいてくる。
「いいえ。私も今来たところです」
「そうか」
ハインツはそれ以上確かめず、Club Moon Dropのある方向へ視線を向けた。
「行けそうか?」
フィオナはすぐには答えられなかった。
前回は、店の中を見てみたいという気持ちでここまで来た。
今日は違う。
リリアへ話したいことがある。
けれど、その言葉を本当に口にできるかは、まだ分からなかった。
「……はい」
迷いを残したまま答えると、ハインツは歩き始めた。
「無理に話す必要はない」
フィオナはその隣へ並ぶ。
「まだ何も言っていません」
「言わなくても、その顔を見れば分かる」
反射的に笑おうとして、フィオナは途中でやめた。
前に同じ道を歩いた時、店へ入る前から仕事をする必要はないと言われた。
今日は、その言葉を思い出すだけで、口元を無理に持ち上げずに済んだ。
「ハインツ様は、知りたいと思いませんか」
「何をだ?」
「私が何を話そうとしているのかです」
「知りたくないわけじゃない」
ハインツは前を向いたまま答える。
「だが、私に話すつもりがないことまで聞く気はない」
「もし、聞いたら困るような話だったら?」
「困るかどうかは、聞いてから決める」
それ以上は尋ねなかった。
フィオナも口を閉じる。
西通りへ入り、Club Moon Dropの看板が見えてくる。
建物の前まで来ても、胸の奥は前回ほど重くなかった。
それでも、扉の前へ立つと足が僅かに止まる。
この扉の向こうで、前回は何も話せずに帰った。
それでも責められなかった。
次に来られるか分からないと言っても、今日すべてを話す必要はないと返された。
だからこそ、もう一度ここまで来られた。
ハインツが扉へ手をかける。
「入るぞ」
「はい」
扉が開く。
外からの視線を遮る衝立と、その奥から漏れる柔らかな灯り。
前回と同じ景色だった。
黒服が二人へ近づいてくる。
以前受付で対応した青年とは別の者だったが、フィオナは名前を知らない。
「いらっしゃいませ、ハインツ様」
黒服は丁寧に頭を下げる。
続いてフィオナへ視線を向けた。
「フィオナ様も、再びお越しいただきありがとうございます」
「はい。よろしくお願いいたします」
名前を覚えられていたことに少し驚く。
だが、勤務先や前回の会話について触れられることはなかった。
ハインツが会員証を渡す。
黒服は登録帳と本人を確認した後、客席側へ目を向けた。
「ただいま、前回と同じお席をご用意できます。そちらでよろしいでしょうか」
フィオナはハインツを見る。
「私はどこでも構わない」
任されたフィオナは、僅かに考える。
前回と同じ壁際の席。
入口から直接見えず、ほかの客の視線も集まりにくい場所。
「同じ席でお願いします」
「承知しました」
黒服が近くにいたディーノへ声をかける。
「ディーノ、ハインツ様とフィオナ様を前回と同じお席へ」
「承知しました」
ディーノが近づいてくる。
フィオナを見ても、店の外で交わした会話を口にしない。
「ご案内いたします。こちらへどうぞ」
二人はディーノの後へ続いた。
客席へ入ると、前回よりも店内の音が近く感じられた。
話し声。
杯が置かれる音。
厨房から料理が仕上がったことを知らせる短い声。
黒服が床を歩く足音。
同じ店なのに、初めて来た時ほど、すべてへ意識を向ける必要はなかった。
ディーノが壁際の椅子を引く。
「こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
フィオナが座り、ハインツも向かいへ腰を下ろす。
すぐに水が運ばれてきた。
「ご注文は、担当の者が伺います。何かございましたら、近くの黒服へお声がけください」
ディーノは店内へ戻っていった。
フィオナは一度だけ、その位置を目で追う。
前回のように、黒服がどこにいるのかを何度も確かめることはなかった。
「少しは慣れたか」
ハインツが言う。
「まだ二度目です」
「それでも、前より周りを見ていない」
「見ています」
「入口までの距離を測るような見方はしていない」
気づかれていたことに、フィオナは目を伏せる。
「……前回、黒服の方がすぐ気づくところを見ましたから」
「そうか」
ハインツは水へ口をつけた。
しばらくして、リリアが卓へ近づいてくる。
「失礼いたします」
柔らかな声を聞いた瞬間、フィオナの背中へ僅かに力が入った。
「ハインツ様、フィオナ様、本日もお越しいただきありがとうございます」
「ああ。今日も頼む」
「承知いたしました」
リリアは前回と同じ斜め向かいの椅子へ手を添える。
「こちらへ座らせていただいてもよろしいでしょうか」
「はい」
「ありがとうございます」
リリアが腰を下ろす。
フィオナの顔を見ても、前回話せなかったことへ触れなかった。
「今日は、何を飲まれますか?」
前回と同じ質問ではない。
苦手なものや好みは、すでに伝えている。
「前にいただいた果実酒をお願いします」
「甘さとお酒の強さも、前回と同じでよろしいでしょうか」
「はい」
「承知しました」
リリアは近くにいた黒服へ注文を伝える。
ハインツは蒸留酒の泡水割りを頼んだ。
注文を終えると、リリアはすぐに別の質問を重ねなかった。
前回と同じように、卓の上へ静かな時間が置かれる。
フィオナは水の杯へ指を添えた。
話しに来た。
そう思ってここまで来た。
けれど、リリアの顔を見ると、何から話せばよいのか分からなくなる。
客につかまれた。
嫌だった。
怖かった。
それだけなら短い。
けれど、その言葉だけでは、自分が笑っていたことを説明できない。
笑ってしまったのではない。
笑うことを選んだ。
客を怒らせず、店へ迷惑をかけず、自分の仕事を失わないためには、それが最も正しい対応だと思っていた。
その判断が間違っていたと認めることが、フィオナには怖かった。
「今日は、前より緊張されていますか?」
リリアが静かに尋ねる。
「分かりますか?」
「手に少し力が入っています」
言われて初めて、杯を強く握っていたことに気づく。
フィオナは指を緩めた。
「今日は、話そうと思って来ました」
「はい」
「でも、まだ何から言えばよいのか分かりません」
「順番どおりでなくても大丈夫ですよ」
リリアは穏やかに答えた。
「最初に思い出したことからでも、今感じていることからでも構いません」
フィオナは視線を下げる。
「リリアさんは、私が話したことを店へ報告しますか?」
「安全のために、店主や黒服へ伝えなければならないことはあります」
リリアは迷わず答えた。
「ただ、フィオナ様がどのような気持ちだったのか、誰に何を言われたのかを、必要もないのに皆へ広めることはいたしません」
「どこまでが、必要なことですか?」
「今ここで誰かが危険な目に遭う可能性がある時や、具体的に誰かを傷つける話がある時です」
リリアは少し間を置く。
「ですが、まだお話を伺っていないので、今の段階ではそれ以上は決められません」
すべて秘密にすると約束しない。
聞く前から大丈夫だと決めつけない。
けれど、何でも記録し、店へ報告するとも言わない。
ルミエールでは、営業後に客との会話を報告するよう求められていた。
仕事。
家族。
商売の悩み。
誰と会っていたか。
どの相手を嫌っていたか。
フィオナが大切に聞いた話も、店にとっては次の注文へつなげる材料だった。
目の前のリリアは、聞く前からその言葉を使うことを考えていない。
「話してもよいと思います」
声に出すと、胸の奥が僅かに震えた。
リリアは頷くだけで、続きを急かさない。
その間に、果実酒が運ばれてきた。
「前回と同じく、甘さとお酒の強さを控えめにしてございます」
「ありがとうございます」
フィオナは杯を手に取る。
一口飲む。
前回と同じ味だった。
同じ味だと分かったことで、少しだけ息がしやすくなる。
「ルミエールで、お客様に腕をつかまれました」
言葉にした瞬間、右腕が熱を持ったように感じた。
リリアの表情が僅かに変わる。
驚きはあった。
だが、すぐに怒りや同情を前へ出すことはなかった。
「今も、痛みはありますか?」
「いいえ。跡も残っていません」
「そうですか」
最初に確かめられたのは、なぜ逃げなかったのかでも、誰だったのかでもなかった。
「その方は、酔っていました」
フィオナは続ける。
「私に、席から離れないよう言いました。ほかのお客様のところへ行くなと」
杯を持つ手へ、再び力が入る。
「私は、次の卓へ行かなければならないと伝えました。でも、腕をつかまれて……」
あの時の指の感触が戻る。
服の上からでも痛いほど強かった。
相手の顔は赤く、酒の匂いがした。
周囲には笑い声があった。
誰も、自分のところだけ時間が止まったことに気づいていないように見えた。
「怖かったです」
ようやく言葉が出る。
「はい」
「それなのに、私は笑っていました」
リリアは何も挟まない。
「驚かせないように、ゆっくり手を離してほしいと言いました。困りますと伝えました。でも、笑顔のままでした」
フィオナは右腕へそっと手を添えた。
「嫌そうな顔をしたら、お客様を怒らせると思ったんです」
ハインツは向かいの席にいる。
何も言わない。
杯へ手を伸ばすこともなく、フィオナの言葉を聞いている。
「黒服が来ました」
フィオナは続ける。
「それでも、すぐには強く止めませんでした。あのお客様は、たくさんお酒を注文する方だったからです」
「腕は、離してもらえたのですか?」
「はい。最後には」
「その後、休むことはできましたか?」
フィオナは首を横へ振る。
「別のお客様の席へ行きました」
リリアの指先が膝の上で僅かに動く。
怒っているのかもしれない。
だが、声は変わらなかった。
「誰かから、休んでもよいと言われましたか?」
「いいえ」
「フィオナ様から、休みたいと伝えましたか?」
「言えませんでした」
答えた後、胸の奥に言い訳が浮かぶ。
「店が忙しかったんです。私が抜ければ、ほかのキャストへ負担がかかります。それに、お客様を怒らせたら、店へ迷惑がかかります」
言葉が速くなる。
「あの方は支払額も多くて、責任者からも大切にするよう言われていました。私が我慢すれば、それで済むと思ったんです」
リリアは遮らなかった。
フィオナは息を吸う。
「笑っていれば、仕事を続けられると思いました」
そこで言葉が止まった。
店へ迷惑をかけないため。
客を怒らせないため。
ほかのキャストへ負担をかけないため。
理由はいくつもあった。
けれど一番怖かったのは、仕事を失うことだった。
「嫌だと言って、そのお客様が来なくなったら、私のせいになります」
フィオナは視線を落としたまま言う。
「黒服を呼んで大きな騒ぎになったら、私がうまく対応できなかったと思われます。担当を代わってもらえば、次から仕事を任せてもらえなくなるかもしれません」
「だから、笑ったのですね」
リリアの声は責めるものではなかった。
「はい」
「怖くなかったように見せるために」
「はい」
「仕事を失わないために」
フィオナは小さく頷く。
「それしかないと思っていました」
沈黙が落ちる。
前回とは違う。
穏やかな沈黙ではあったが、フィオナの胸は軽くならなかった。
言葉にしたことで、あの夜の自分が目の前へ座っているようだった。
笑って。
大丈夫だと言って。
別の卓へ向かった自分。
「リリアさんなら、どうしますか?」
フィオナは尋ねた。
「同じことをされたら」
リリアはすぐには答えなかった。
自分の正しさを示すように、簡単な答えを返さない。
「まず、手を離していただくよう伝えます」
「笑わずにですか?」
「笑うこともあるかもしれません」
意外な答えに、フィオナは顔を上げた。
「怖くて笑ってしまうこともあると思います。相手を刺激しないために、穏やかに伝えることもあります」
「では、私と同じではありませんか」
「笑ったことが間違いなのではありません」
リリアは静かに答える。
「笑うしかないと思わされたことが問題なのだと思います」
フィオナは息を止める。
「フィオナ様は、嫌ではなかったから笑ったのではありませんよね」
「はい」
「怖くなかったからでもありませんよね」
「はい」
「本当は、離してほしかった」
「……はい」
「それなら、離してほしいと伝えてよかったのだと思います」
「伝えました」
「困ります、ではなく、やめてくださいと伝えることもできます」
その言葉を自分が口にするところを想像する。
やめてください。
短く、はっきりした言葉。
フィオナはすぐに首を振った。
「そんな言い方をすれば、お客様が怒ります」
「怒るかもしれません」
「でしたら」
「ですが、怒らせないことと、触れられ続けることを受け入れることは同じではありません」
リリアの口調は変わらず丁寧だった。
「ここでは、キャストがやめてほしいと伝えても、お客様への無礼だとは考えません」
「でも、お客様はお金を払っています」
「お金を払えば、相手が嫌がることをしてよいわけではありません」
その答えは、Club Moon Dropでは当たり前なのだろう。
フィオナには、それがひどく遠い考え方に思えた。
「もし、私がうまく言えなかったら?」
「担当を代わることができます」
「それでは、逃げたことになります」
「逃げてもよい時はあると思います」
フィオナはリリアを見る。
「接客係なのに?」
「はい」
「担当したお客様から?」
「自分一人で対応を続けることが危険なら、離れるべきです」
リリアは続ける。
「黒服を呼ぶこともできます」
「黒服を呼べば、大事になります」
「大事になる前に呼ぶために、黒服がいます」
前回、ディーノが小さく手を上げた客へすぐ向かった場面を思い出す。
大声を出す前に気づく。
問題が起きた後に責任を取るのではなく、起きる前に動く。
Club Moon Dropの黒服は、そういう者たちだった。
「もし、そのお客様が高いお酒を頼んでいてもですか?」
「同じです」
「身分の高い方でも?」
「同じです」
「店主の知り合いでも?」
「同じです」
迷いのない答えだった。
フィオナはハインツへ視線を向ける。
ハインツはClub Moon Dropの正式会員であり、リリアを何度も指名している。
「ハインツ様でもですか?」
リリアはハインツを見る。
「はい」
ハインツが鼻で小さく息を吐く。
「当然だ」
「嫌ではありませんか」
「何がだ」
「お客様なのに、止められることが」
「止められるようなことをしたなら、止められるべきだろう」
あまりにも簡単に答えられ、フィオナは言葉を失った。
ルミエールでは、客が怒ればキャストの対応が悪かったことになる。
売上の高い客なら、なおさらだった。
ここでは客自身が、自分も規則の外ではないと考えている。
「でも、すべての方がハインツ様のように考えるわけではありません」
「そうだな」
ハインツは否定しない。
「だから店の規則がある」
リリアも頷く。
「フィオナ様一人に、お客様を納得させる責任はありません」
「私一人に?」
「はい」
「でも、担当なのに」
「担当だからこそ、難しい時は周りへ伝える必要があります」
リリアは客席へ視線を向ける。
黒服が料理を運び、別の黒服が空いた皿を下げている。
キャストが一人で卓を離れ、黒服へ短く何かを伝える。
黒服は頷き、その卓が見える位置へ移動した。
大きな騒ぎは起きていない。
それでも、誰か一人に任せきりにはしていない。
「ここでは、キャストが困っていると伝えた時、店主の許可を待たずに黒服が動きます」
「勝手に動いてよいのですか?」
「お客様や働く者の安全に関わることなら、必要な対応を先にします」
「店主が後で怒ることは?」
「ありません」
リリアは少し考えてから言い直す。
「判断が適切だったか、一緒に確認することはあります。でも、助けを求めたことを怒られることはありません」
フィオナの中で、何かが僅かに揺れる。
怒られない。
仕事を失わない。
それを信じられる場所なら、自分も違う言葉を選べたのだろうか。
「私は、弱かったのでしょうか」
口にした瞬間、喉が締まる。
「嫌だと言えなかったから」
リリアはすぐに否定しなかった。
安易に違うと言われるより、その方がよかった。
「私は、その場にいませんでした」
リリアはゆっくり答える。
「どれほど怖かったのかも、周りがどのような状況だったのかも、すべては分かりません」
フィオナは黙って聞く。
「ですから、フィオナ様が弱かったとは言えません」
「でも」
「怖い時に、相手を刺激しないよう笑うことも、自分を守るための行動だと思います」
リリアはフィオナの右腕へ視線を落とす。
「ただ、その方法しか選べない店であったことは、よくなかったのだと思います」
フィオナの目の奥が熱くなった。
自分が弱かったのではない。
自分がすべて間違えたのでもない。
けれど、あの店の対応が正しかったわけでもない。
どちらか一つへ決めつけられない言葉だった。
「私は、次に同じことがあっても、やめてくださいと言えないかもしれません」
「はい」
リリアは受け入れる。
「怖くて、また笑うかもしれません」
「それでも、黒服を呼ぶことはできます」
「声が出なかったら?」
「近くの黒服を見るだけでも構いません。事前に合図を決めることもできます」
「担当を代わってもらっても?」
「はい」
「後で、戻れなくても?」
「戻る必要があるかどうかも、店側と一緒に決めればよいと思います」
一つずつ、選択肢が増えていく。
やめてほしいと伝える。
担当を代わる。
黒服を呼ぶ。
視線や合図で助けを求める。
その場から離れる。
フィオナの知っていた接客には、どれもなかった。
笑って耐える。
客を怒らせない。
売上を落とさない。
それだけだった。
「全部できなくてもよいのですか?」
「最初から全部できる方ばかりではありません」
リリアは微笑む。
「一つできれば、その次を考えられます」
フィオナは果実酒を一口飲む。
少し温くなっていた。
それでも、前回と同じ甘さが残っている。
「リリアさんは、Club Moon Dropで働くよう勧めないのですか?」
リリアが僅かに目を見開く。
ハインツもフィオナへ視線を向けた。
「ルミエールを辞めて、こちらへ来ればよいと」
リリアはすぐには答えなかった。
「フィオナ様は、ここで働きたいのですか?」
「分かりません」
「でしたら、今決めることではないと思います」
「でも、ルミエールはよくない店だと思いますか?」
「私が知っているのは、フィオナ様から伺ったことだけです」
リリアは言葉を選ぶ。
「腕をつかまれた後も休めず、高額なお酒を注文するお客様へ強く対応できなかったことは、よいことだとは思いません」
「はい」
「ですが、フィオナ様がどのように働きたいのかを、私たちが決めることも違うと思います」
「引き止めないのですか?」
「まだ、こちらで働いてもいませんから」
少しだけ柔らかな調子で返され、フィオナの口元が僅かに緩む。
「そうでした」
「ルミエールへ戻るのか、別の場所を探すのか、働き方を変えられないか確かめるのか。それは、フィオナ様が考えることです」
「すぐに決めなくても?」
「はい」
「また来て、相談してもよいですか?」
「もちろんです」
リリアは頷いた。
「フィオナ様は、これまで店の規則を守ってお過ごしくださいました。今後もお一人で利用したいとお考えでしたら、仮会員として登録できます」
「仮会員になるかどうかは、私が決めてよいのですか?」
「はい。フィオナ様ご自身でお決めください」
フィオナは少し考えた。
仮会員になれば、次からはハインツへ同行を頼まなくても、自分の意思でこの店を訪れられる。
迷っていることを話したい時も。
何も話さず、静かに過ごしたい時も。
自分で扉の前まで来ることができる。
「お願いします」
フィオナはリリアへ顔を上げた。
「仮会員として登録してください」
「承知しました。次回からは、お一人でもお越しいただけます」
「ありがとうございます」
フィオナはハインツへ顔を向けた。
「これまで、二度も連れてきていただき、ありがとうございました。でも、また連れてきてくださいね」
「ああ」
ハインツは短く答え、残っていた酒へ手を伸ばした。
フィオナは僅かに笑った。
一人で来られるようになることと、誰かと一緒に来ることを選ぶのは別だった。
「今、笑いましたね」
リリアが言う。
フィオナは自分の口元へ触れる。
「作った笑顔ではありません」
「はい」
「分かるのですか?」
「前回より、目元が柔らかく見えます」
フィオナは少し恥ずかしくなり、視線を落とした。
それでも笑顔を消そうとはしなかった。
しばらくして、ハインツが頼んでいた料理と、小さな焼き菓子が運ばれてくる。
フィオナは前回よりゆっくり果実酒を飲み、菓子を口へ運んだ。
話した後の沈黙は、前回よりも短く感じられた。
何も話さない時間ではない。
話した言葉を、自分の中へ戻すための時間だった。
「フィオナ様」
帰る時刻が近づいた頃、リリアが声をかける。
「はい」
「今日お話しくださったことについて、フィオナ様のお名前や詳しい事情を、ほかのお客様へ話すことはありません」
「はい」
「ただ、同じようなことがClub Moon Dropで起きないよう、接客や黒服の対応について、店内で確認することはあるかもしれません」
個人の話を広めるのではなく、店を守るために生かす。
ルミエールで行われていた報告とは違う。
「分かりました」
「それでもよろしいでしょうか」
「はい」
フィオナは頷く。
「誰かが同じ思いをしないためなら」
「ありがとうございます」
リリアは丁寧に頭を下げた。
「でも、私が話したと分かるようにはしないでください」
「もちろんです」
そこまで確認され、フィオナはようやく安心した。
席を立つ。
受付へ向かう途中、フィオナは店内を見渡した。
客と話すキャスト。
料理を運ぶ黒服。
空いた皿を下げながら、客席へ目を配るディーノ。
誰か一人が、すべてを背負ってはいない。
受付では、仮会員として登録するため、フィオナの名前と最低限の特徴が登録帳へ記された。
詳しい勤務先や、今日話した内容を書かれることはなかった。
黒服から仮会員証を受け取る。
小さな一枚の札だった。
それでも、自分の意思でこの店へ来られることを示すものだった。
「次回からは、こちらをご提示ください」
「分かりました」
フィオナは仮会員証を大切にしまう。
ハインツが会員証を受け取り、扉へ向かう。
ディーノが扉を開いた。
「本日は、ご来店いただきありがとうございました」
「ありがとうございました」
フィオナは一度頭を下げる。
店の外へ出る直前、ディーノへ声をかけた。
「少しだけ、聞いてもよいですか?」
「はい」
「キャストから助けを求められた時、レン様へ確認しなくても動くのですか?」
ディーノはフィオナの問いへ、すぐに答えた。
「危険が迫っている場合は、先に対応します」
「お客様が怒っても?」
「まず、相手から距離を取らせます。その後で状況を確認します」
「売上の大きいお客様でも?」
「関係ありません」
リリアと同じ答えだった。
言葉を合わせたのではない。
店の中で、それが共通の判断になっているのだ。
「分かりました。ありがとうございます」
「はい」
ディーノは何を話したのか尋ねなかった。
フィオナとハインツは店を出た。
扉が閉じる。
夜の空気が頬へ触れる。
ハインツと並んで歩き始めても、しばらく言葉はなかった。
前回とは違い、フィオナはその沈黙を恐れなかった。
「話せたか」
西通りを抜ける頃、ハインツが尋ねた。
「はい」
「全部か?」
「全部ではありません」
「そうか」
「でも、一番言いたかったことは話せました」
「なら十分だ」
フィオナは右腕へそっと手を添える。
まだ、触れられた感覚を完全には忘れられない。
けれど今は、その腕を自分で守る方法を考えられる。
「ハインツ様」
「何だ」
「次に同じことがあったら、私は止めてほしいと言えるでしょうか」
「私に聞くことか?」
「言えなかった時、また弱かったと思うかもしれません」
ハインツは少し歩いてから答える。
「言えなければ、その次に言えばいい」
「その次も言えなかったら?」
「さらにその次だ」
「そんなに待ってもよいのですか?」
「誰が期限を決めた」
フィオナは目を瞬く。
すぐに変わらなければならないと思っていた。
一度教わったなら、次はできなければならない。
できなければ、結局自分は弱いままだ。
そう考えていた。
「ただし」
ハインツが続ける。
「危険なら、自分一人で何とかしようとするな」
「はい」
「店の者へ言えないなら、私に言え」
「ハインツ様に?」
「客として見ていて、できることはある」
フィオナは少し迷ってから頷いた。
「ありがとうございます」
今度は笑わなかった。
それでも、ハインツは何も言わない。
礼を受け取っただけだった。
その夜、フィオナは自室へ戻ると、鏡の前には立たなかった。
上着を脱ぎ、椅子へ腰を下ろす。
右腕の袖を少しだけまくる。
傷も痣も残っていない。
見た目には何もない。
それでも、何もなかったことにはならない。
フィオナは自分の腕へ手を重ねた。
「やめてください」
小さく口にする。
誰もいない部屋でさえ、胸が強く鳴った。
もう一度、息を吸う。
「手を離してください」
最初より少しだけはっきり言えた。
次に同じ場面が来た時、言えるかどうかは分からない。
怖くなれば、また笑ってしまうかもしれない。
声が出ないかもしれない。
それでも、笑うことしかできないわけではない。
担当を代わってもらう。
黒服を見る。
その場を離れる。
誰かへ助けを求める。
今日知った言葉と選択肢を、一つずつ心の中へ並べる。
ルミエールを辞めるかどうかは、まだ決めていない。
Club Moon Dropで働きたいのかも、分からない。
ただ、次の出勤では、これまでと同じようにすべてを笑って受け流すことはできないと思った。
それが怖かった。
同時に、少しだけ嬉しくもあった。
フィオナは右腕から手を離す。
笑わずに嫌だと伝えても、必ずすべてを失うわけではない。
今日、自分は怖かったことを話した。
泣きそうにもなった。
それでも、席を失わなかった。
ハインツも帰らなかった。
リリアも態度を変えなかった。
そして、自分で望んで仮会員となり、再び訪れる場所まで得た。
フィオナは仮会員証を取り出し、掌の上へ載せる。
笑わなくても失わない場所が、この街には確かにあった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




