第124話 キャストではなく一人の客として
三日後。
フィオナは日が傾き始める前から、何度も鏡の前に立っていた。
今日はルミエールへ出勤する日ではない。
華やかな衣装も、店で身につける目立つ髪飾りも必要なかった。
それでも、何を着ていけばよいのか決められない。
以前、Club Moon Dropの近くまで行った時と同じ、淡い灰色の上着を手に取る。
一度袖を通した後、迷って脱いだ。
店の外でディーノと話した女だと、すぐに気づかれるかもしれない。
気づかれることそのものが嫌なのではない。
右腕を押さえながら、黒服が本当に働く者を守るのかと尋ねた自分を思い出されることが、少し恥ずかしかった。
だが今日は、あの日とは違う。
正式会員であるハインツが、紹介者として同行してくれる。
店の決まりに従い、自分の意思で一人の客として訪れるのだ。
隠れる必要はない。
フィオナは脱いだ上着へ、もう一度袖を通した。
濃紺の長いスカート。
飾りのない靴。
髪は後ろで簡単にまとめる。
化粧も仕事の時ほど華やかにせず、顔色を整える程度に留めた。
鏡の中の自分へ笑いかける。
いつもの笑顔は、すぐに作れた。
相手を不快にさせない口元。
楽しんでいるように見える目元。
何を言われても崩さないために、身につけた表情。
今日は接客する側ではない。
そこまで笑顔を作る必要はない。
そう思い、表情を戻してみる。
すると、鏡の中の自分がひどく不機嫌に見えた。
これでは誰かを不快にさせるかもしれない。
フィオナは再び口元を上げかけた。
しかし、途中でやめる。
今日は誰かに選ばれるための日ではない。
お酒を注文させるための日でもない。
ただ、一人の客として椅子へ座る。
そのために出かけるのだ。
待ち合わせの場所は、西通りへ入る手前にある小さな時計塔の下だった。
約束の時刻よりかなり早く着いたフィオナは、通りを行き交う人々を眺めながら、何度も両手を握り直した。
まだ帰れる。
ハインツが来る前に立ち去れば、店へ入らずに済む。
ディーノへは、客として利用してみたいと答えた。
ハインツにも、自分が客席へ座ってみたいと頼んだ。
それでも、実際に扉をくぐるとなると胸の奥が重くなる。
ルミエールのキャストである自分が、競合する店の客席へ座る。
誰かに見られたらどうなるだろう。
ルミエールの者へ知られたら。
カイルの耳へ入ったら。
反対に、Club Moon Dropの者から、店の様子を探るために来たのではないかと疑われたら。
不安が次々と浮かぶ。
「早いな」
声をかけられ、フィオナは肩を揺らした。
ハインツが立っていた。
ルミエールを訪れる時と変わらない、落ち着いた服装をしている。
仕事帰りではないためか、いつもより表情が柔らかく見えた。
「申し訳ありません」
「待たされたのは私じゃない」
「ですが、早く来すぎました」
「緊張しているのか?」
フィオナは反射的に笑う。
「少しだけです」
「そうは見えないな」
「え?」
「よくできた笑顔だからだ」
フィオナの口元が僅かに固まる。
ハインツは責めるようには言わなかった。
「店へ入る前から、仕事をする必要はない」
「仕事のつもりではありません」
「分かっている」
ハインツはClub Moon Dropのある方向へ歩き始める。
「ただ、今日は私を楽しませるために来たわけではないだろう」
フィオナは少し遅れて、その隣へ並んだ。
「ハインツ様は、お客様です」
「ルミエールではな」
ハインツは前を向いたまま答える。
「今日は紹介者でもあるが、私も店を利用しに行く。お前が何を話し、どう過ごすかを決める立場じゃない」
「ですが、紹介していただく以上、迷惑をかけるわけには」
「店の決まりを守ればいい」
「それでも、何か失礼なことをしたら」
「その時は、店の者が教えてくれる」
簡単に言われ、フィオナは返す言葉を失った。
ルミエールでは、お客様の前で間違えれば、後から責任者に呼ばれる。
失礼がないよう、先に考える。
怒らせないよう、表情を整える。
頼まれる前に望みを読む。
それが当たり前だった。
「私が引き受けるのは、お前を紹介することだ」
ハインツは続ける。
「お前の代わりに話すことじゃない」
フィオナは小さく頷いた。
やがて、月と雫を思わせる看板が見えてくる。
建物は以前と何も変わっていなかった。
通りから少し高い位置にある窓。
内側にかけられた淡い布。
扉の横には、営業時間と紹介制であることを示す小さな札。
外から客席は見えない。
前に一人で来た時は、閉ざされた店のようにも感じた。
今は違う。
あの扉の内側にいる者を、外からの視線にさらさないためなのだと知っている。
ハインツが扉の前で足を止める。
「入るぞ」
「はい」
返事は、自分で思っていたよりも小さかった。
ハインツが扉を開く。
最初に見えたのは、客席ではなかった。
外からの視線を遮る衝立。
その脇から、柔らかな灯りだけが漏れている。
扉が開いたことに気づき、黒い服を着た青年が近づいてきた。
以前、店の外で話した黒服ではない。
「いらっしゃいませ、ハインツ様」
青年は丁寧に頭を下げた後、その隣に立つフィオナへ視線を向けた。
「ご一緒の方は、お連れ様でいらっしゃいますか?」
「ああ。フィオナだ」
ハインツが答える。
「半年ほど前から、私が世話になっている者だ。本人がこの店へ来てみたいと言うので、今日は一緒に来た」
「フィオナ様ですね。初めまして」
「はい。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
黒服はハインツから会員証を受け取り、登録帳と本人の顔を確認した。
「それでは、初めてご利用になる方へ、店内でのお願いを説明いたします」
相手の望まない接触や言動をしないこと。
ほかのお客様や働く者の事情を、本人の許可なく店外へ広めないこと。
体調が悪くなった時や、不安を感じた時には、キャストか黒服へ伝えること。
店の判断で、お酒の提供を止める場合があること。
問題が起きた際には、退店を求めることがあること。
黒服は一つずつ、落ち着いた声で伝えた。
「何か分からないことはございますか?」
フィオナは首を横へ振る。
「いいえ。大丈夫です」
「ありがとうございます」
黒服が客席側へ視線を向ける。
少し離れた場所から、もう一人の黒服が近づいてきた。
ディーノだった。
フィオナを見て、一瞬だけ目を止める。
以前、店の外で話した女だと気づいたのだろう。
だが、驚いた声を上げることも、あの時の会話を口にすることもなかった。
「ディーノ、ハインツ様とフィオナ様をお席へ」
「承知しました」
ディーノは二人へ向き直り、丁寧に頭を下げる。
「ご案内いたします。こちらへどうぞ」
ハインツが歩き出し、フィオナもその隣へ続いた。
ディーノへ何か言うべきか迷う。
先日はありがとうございました。
紹介してくださる方を見つけました。
あの時の話を覚えていますか。
いくつもの言葉が浮かぶ。
しかし、ディーノは今、黒服として二人を案内している。
フィオナは何も言わず、その後へ続いた。
衝立の奥へ入ると、初めて客席が見えた。
想像していたよりも小さな店だった。
四人掛けの卓が、互いの会話を邪魔しない程度の間隔を空けて置かれている。
壁際には小さな灯り。
明るすぎず、暗すぎない。
カウンターの奥には、酒瓶や杯が整然と並んでいた。
大きな舞台はない。
楽器の音も、派手な歓声もない。
複数の卓で会話が交わされているが、一つの笑い声が店全体を覆うこともなかった。
明るく話す卓もある。
身振りを交えて笑う者もいる。
それでも、それぞれの卓の時間が混ざりすぎない。
ディーノが案内したのは、壁際の卓だった。
入口から直接見えず、ほかの客の視線も集まりにくい。
「こちらのお席はいかがでしょうか」
フィオナは店内をもう一度見る。
中央よりも、壁際の方が落ち着けそうだった。
「こちらでお願いします」
「承知しました」
ディーノがフィオナの椅子を引く。
フィオナが腰を下ろした後、ハインツも向かいの椅子へ座った。
一人の客として椅子へ座る。
たったそれだけのことなのに、身体の置き場が分からない。
いつもなら、お客様の隣へ座る。
杯の減りを見る。
相手の表情を見る。
次に何を話すか考える。
今日は、自分の前に空の杯が置かれている。
自分が注文する側だった。
「緊張しているな」
ハインツが言う。
「少しだけです」
「その言葉は、今日は何度目だ?」
フィオナは答えられず、困ったように笑った。
ディーノが二人の前へ水を置く。
「まず、お水をお持ちしました。ご注文は、担当の者が伺います」
「ありがとうございます」
「何かございましたら、近くの黒服へお声がけください」
ディーノは必要な言葉だけを残し、店内へ戻っていった。
フィオナはその後ろ姿を追う。
ディーノは受付へ戻らず、別の卓から空いた皿を受け取った。
厨房側へ運んだ後、今度はカウンターへ向かう。
先ほど受付にいた黒服も、入口へ視線を向けながら、別の卓へ出すお酒を受け取っている。
フィオナは二人の位置を交互に確かめた。
「黒服がどこにいるか、気になるのか?」
ハインツの声に、フィオナは顔を戻した。
「いえ。ただ……」
否定しかけて、言葉を止める。
「少しだけ、見ていました」
「そうか」
ハインツは水を一口飲んだ。
「二人とも、客席を見ながら動いている。大きな声で呼ばなくても気づくそうだ」
ちょうど別の卓で、一人の客が軽く手を上げる。
ディーノはすぐに気づき、そちらへ向かった。
フィオナは膝の上で指を組み直す。
黒服がどこにいるのか。
入口までどれほど遠いのか。
声を上げれば届くのか。
気づけば、そんなことばかり確かめていた。
「失礼いたします」
柔らかな声がして、フィオナは振り返った。
淡い色の髪をした少女が立っていた。
店の外で客を見送っていた少女。
ハインツから何度も話を聞いていた、リリアだった。
「本日、担当させていただくリリアと申します」
丁寧に頭を下げる。
「ハインツ様、お久しぶりでございます」
「ああ。今日も頼む」
「承知いたしました」
リリアは空いている椅子へ手を添える。
「こちらへ座らせていただいてもよろしいでしょうか」
接客係なのだから、当然座るものだと思っていた。
それでも許可を求められ、フィオナは一瞬遅れて頷く。
「はい」
「ありがとうございます」
リリアはフィオナの真横ではなく、斜め向かいの位置へ座った。
近すぎない。
遠すぎない。
視線を合わせたい時には合わせられる。
外したければ、無理に追われない距離だった。
「初めてお越しいただいたと伺いました」
「はい」
「ありがとうございます。お酒やお料理で、苦手なものはございますか?」
仕事についてではない。
なぜ来たのかでもない。
最初に尋ねられたのは、口にできないものがあるかだった。
「特にはありません」
いつものように答えてから、フィオナは少し考える。
「強いお酒は、あまり得意ではありません」
「承知しました。甘いものと、すっきりしたものでは、どちらがお好きでしょうか」
「甘すぎない方が好きです」
「それでしたら、香りの軽い果実酒を薄めたものが合うかもしれません。もちろん、最初はお水のままでも大丈夫ですよ」
フィオナは思わずリリアを見る。
「お酒を注文しなくてもよいのですか?」
「はい。飲みたくなられた時に、ご注文ください」
ルミエールでは、お客様が席へ着けば最初のお酒を決める。
接客係にも飲み物を頼ませ、卓の売上を作る。
ここでは、水の杯が置かれたままでも、誰も急かさない。
「では、少し考えてもよいですか?」
「はい。ゆっくりお選びください」
リリアはメニューをフィオナへ渡した。
お酒の名前と、味や強さの簡単な説明が並んでいる。
フィオナは文字を追う。
だが、内容が頭へ入ってこなかった。
「ハインツ様は、今日は何を飲まれるのですか?」
迷った末に尋ねる。
「軽い蒸留酒にするつもりだ」
「では、私も同じものを」
「私に合わせる必要はない」
ハインツは自分のメニューを閉じた。
「今日は、自分が飲みたいものを選びに来たんだろう」
「そうですが……」
「急がなくていい。私は先に頼む」
ハインツはリリアへ蒸留酒の泡水割りを注文した。
それから水の杯へ手を伸ばし、フィオナのメニューを覗き込むことも、代わりに決めることもしなかった。
リリアも急かさずに待っている。
フィオナは再びメニューへ目を落とした。
何か話さなければならない。
そう思うほど、言葉が出てこない。
仕事なら、自分がこの時間を埋める。
天気。
仕事。
家族。
今日ここへ来た理由。
話題はいくつも思いつく。
だが今日は、自分が客だった。
自分から二人を楽しませる必要はない。
それが分かっていても、誰も話さない時間の中へ座っていることが怖かった。
「フィオナ様」
呼ばれ、顔を上げる。
「はい」
「今すぐ決めなくても大丈夫ですよ。静かにお考えになりたいのでしたら、私もお待ちします」
リリアの声には、退屈を隠す響きも、注文を促す焦りもなかった。
「私が何も話さなくても、ですか?」
「はい。フィオナ様が落ち着いて過ごせるようにすることが、私の仕事ですから」
それだけ答えると、リリアは次の質問を重ねなかった。
ハインツも口を挟まない。
ただ、自分の注文を終えた後は、フィオナが決めるのを待っている。
「では、もう少し考えます」
「承知しました」
やがて、ハインツのお酒が運ばれてくる。
ハインツは一口飲み、ゆっくり息を吐いた。
「ここの泡水割りは、香りが残る」
「そうなのですか?」
「ああ。強いお酒が苦手なら、果実酒の方が合うだろうがな」
「ハインツ様も、果実酒を飲まれることはありますか?」
「料理によっては頼む」
「どのような料理ですか?」
「魚料理だな」
ハインツは答えた後、フィオナを見る。
「だが、今日は私の話ばかり聞かなくてもいいだろう」
フィオナは、自分がまた相手へ話題を向けようとしていたことに気づいた。
「すみません」
「謝ることじゃない」
ハインツはもう一口飲む。
「話したいなら話せばいい。黙っていたいなら、無理に話さなくてもいい」
それだけ言うと、会話を引き延ばそうとはしなかった。
店内には、ほかの卓の会話が小さく聞こえる。
杯が置かれる音。
厨房から料理が仕上がったことを知らせる短い声。
黒服が床を歩く足音。
誰もフィオナが口を開くのを待ち構えてはいない。
フィオナはメニューを閉じた。
「果実酒を、少しだけお願いできますか」
「甘さは控えめでよろしいでしょうか」
「はい」
「お酒の強さも軽めにいたしますか?」
「お願いします」
「承知しました」
リリアは近くにいた黒服へ注文を伝えた。
お酒が届くまで、ハインツが料理についてリリアと短く言葉を交わす。
「今日は焼き菓子があるのか?」
「はい。果実を混ぜたものがございます」
ハインツがフィオナを見る。
「甘すぎないものなら食べるか?」
「はい。少しなら」
「では、二つ頼む」
「承知いたしました」
フィオナは二人の会話を聞きながら、僅かに息を吐いた。
自分が黙っていても、卓の時間が止まるわけではない。
それでも、会話へ入るよう求められることもなかった。
やがて、先ほど受付にいた黒服が果実酒を運んできた。
小さな杯に、淡い色のお酒が入っている。
「お酒は軽めにしてございます」
「ありがとうございます」
「お口に合わない場合は、無理に飲まずお申しつけください」
黒服はそれだけ告げて離れる。
フィオナは杯を持ち上げ、少しだけ口へ含んだ。
甘さは控えめ。
果物の香りがあり、お酒の刺激は弱い。
「美味しいです」
「よかったです」
リリアは素直に喜んだ。
フィオナはもう一口飲む。
普段、ルミエールではお客様に合わせてお酒を口にする。
自分の好みではないお酒でも、美味しいと笑う。
今日は、自分のために選んだお酒だった。
美味しいと感じたから、もう一口飲む。
それだけのことが、ひどく贅沢に思えた。
「リリアさんは、私がどこで働いているか知っていますか?」
フィオナが尋ねる。
「いいえ。初めてお越しになる方だとだけ伺っています」
「私は、ルミエールで働いています」
リリアが僅かに目を見開く。
「そうなのですね」
「……競合する店のキャストでも、嫌ではありませんか?」
リリアは少しだけ考えてから答えた。
「驚きはしました。ただ、今はハインツ様とお越しになったお客様ですから」
「私が店の様子を調べに来たとは思わないのですか」
「少なくとも、今のフィオナ様からはそのようには感じておりません」
リリアはフィオナの表情を静かに見る。
「違います」
「分かりました。でしたら、今は一人のお客様としてお話しさせていただきます」
それ以上、勤務先について尋ねてこなかった。
ハインツも、フィオナが何を話すかへ口を挟まない。
「どうして、私がここへ来た理由を聞かないのですか?」
「知りたくないわけではございません」
リリアは穏やかに答える。
「ですが、フィオナ様が話したいと思われた時に、お聞きすることだと思っています」
「仕事や家族のことも?」
「はい。お話しいただいたことを、大切にお聞きします」
「話さなかったら?」
「無理に伺うことはいたしません」
フィオナは杯へ目を落とした。
何も話さなくても、リリアは不機嫌にならない。
ハインツも、会話を続けるよう促さない。
注文が少ないという視線も飛んでこない。
果実酒はまだ半分以上残っている。
それでも誰も急かさなかった。
フィオナは背もたれへ、ほんの少し身体を預ける。
「不思議です」
「何がでしょうか」
「何もしなくても、ここにいてよいことが」
リリアはすぐに言葉を返さなかった。
フィオナが続きを話すのを待っている。
「私の店では、何もしない時間は、役に立っていない時間です」
フィオナは視線を落とした。
「お客様から話を聞く。お酒を頼んでもらう。次に来てもらう約束をする。何か一つでも持ち帰らなければ、仕事をしていないと思われます」
「そうなのですね」
「今日も、何か話さなければと思っていました」
「今は、いかがですか?」
リリアが尋ねる。
「まだ、少し落ち着きません」
「はい」
「でも……さっきよりは、苦しくありません」
「それでしたら、もう少しこのままお過ごしになりますか?」
「はい」
「承知しました」
ハインツは自分のお酒を飲み、リリアは次の話題を探そうとしない。
三人の間に静かな時間が流れた。
先ほどまでとは違う。
自分が埋めなければならない空白ではない。
ハインツは時折店内へ目を向け、リリアは必要以上にフィオナを見つめない。
それでも、声をかければすぐに顔を向けてくれる距離にいる。
フィオナは右腕へ触れかけ、手を止めた。
あの夜のことを話すなら、今なのかもしれない。
酔った男につかまれた腕。
笑って断ろうとした自分。
怖かったのに、大丈夫だと言ったこと。
ディーノへは、すべてを話せなかった。
リリアにも、まだ言葉が出ない。
話せば、自分の我慢が足りなかったと責められるのだろうか。
それとも、もうルミエールへ戻るべきではないと言われるのだろうか。
「フィオナ様」
リリアの声がして、フィオナは顔を上げた。
「はい」
「少し、苦しそうに見えました」
リリアは声を落とす。
「何か話したいことがございましたら、お聞きします。今は話したくないのでしたら、それでも大丈夫です」
フィオナは唇を開きかけ、閉じた。
「今日は、まだ……」
「はい」
「話せないと思います」
「承知しました」
リリアは残念そうな顔をしなかった。
「では、今日はゆっくりお過ごしください」
「聞かなくてもよいのですか?」
「フィオナ様が話せると思われた時で大丈夫です」
「また来られるかも、分かりません」
「それでも、今日すべてを話す必要はございません」
フィオナの目の奥が熱くなる。
今日話さなければ、機会を失う。
今答えなければ、相手を怒らせる。
ルミエールでは、いつも何かに追われていた。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。
フィオナは慌てて笑おうとした。
だが、うまく口元を上げられない。
その時、リリアが静かに言った。
「無理に笑わなくても、大丈夫ですよ」
フィオナの表情が止まる。
大丈夫なふりをしなくてもよい。
話せなくてもよい。
笑えなくてもよい。
今のまま座っていてよい。
フィオナは俯き、ゆっくり息を吐いた。
リリアは何も言わない。
ハインツも何も言わない。
誰も、フィオナの表情を直そうとしなかった。
しばらくして、フィオナはもう一度果実酒を口へ運ぶ。
「今日は、来てよかったです」
フィオナが小さく言う。
「そうか」
ハインツが答えた。
リリアも微笑む。
「ありがとうございます」
「私、何もしていません」
「ご自身でここへ来ると決めて、お席へ座られました」
リリアは答える。
「それだけでも、大切なことだと思います」
やがて、注文していた焼き菓子が運ばれてくる。
ハインツは一つをフィオナの前へ置いた。
「甘すぎない。お前にも合うと思う」
「いただきます」
果実の甘酸っぱさが残る、小さな焼き菓子だった。
フィオナはゆっくり味わった。
食べる速さを見られている気もしない。
次の注文を急かされることもない。
やがて、ハインツが席を立つ時刻を告げた。
「そろそろ帰るか」
「はい」
今日は十分だった。
Club Moon Dropがどのような店なのか、すべてを知ったわけではない。
ほかのキャストとも話していない。
それでも、自分がどう扱われるのかは少し分かった。
リリアが席を立つ。
「本日はお越しいただき、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
フィオナは頭を下げた。
「また来たいと思ったら、ハインツ様へお願いすればよいのでしょうか」
「はい。次回もハインツ様とご一緒にお越しください」
「分かりました」
受付の近くでは、先ほどの黒服がハインツへ会員証を返した。
「本日はありがとうございました」
「ああ。また来る」
ディーノが扉を開く。
フィオナは扉をくぐる前に、ディーノへ顔を向けた。
「先日は、ありがとうございました」
ようやく言えた。
ディーノは一瞬だけ目を止める。
「本日は、ご来店いただきありがとうございました」
あの日のことを詳しく口にしない。
今は一人の客として見送る。
その対応が、フィオナには嬉しかった。
扉の外へ出る。
背後で扉が閉まり、通りからは再び中の様子が見えなくなる。
ハインツと並んで歩き始める。
「どうだった?」
尋ねられ、フィオナは少し考えた。
「何も話さない時間が、こんなに長く感じるとは思いませんでした」
「嫌だったか?」
「最初は、怖かったです」
「今は?」
フィオナは右腕へ触れる。
話せなかった。
それでも責められなかった。
「次に行けるなら、今度は少し話してみたいです」
「そうか」
ハインツはそれ以上尋ねなかった。
西通りを離れるまで、二人の間には静かな時間が続いた。
今度は、フィオナも話題を探さなかった。
ハインツも退屈そうにはしなかった。
次にあの席へ座れたなら。
酔った男につかまれた夜のことを、リリアへ話せるかもしれない。
嫌だったのに笑ったこと。
怖かったのに大丈夫だと答えたこと。
自分が我慢すれば、店へ迷惑をかけずに済むと思っていたこと。
まだ言葉にはできない。
それでも、話したいと思える相手と場所は見つかった。
その夜、フィオナは笑顔を作らないまま、自分の部屋へ帰った。
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、不機嫌な女ではなかった。
少し疲れていて。
それでも、以前より僅かに力の抜けた顔をしている。
Club Moon Dropで、自分のためにお酒を選び、自分のために黙って過ごした。
鏡の中の顔は、もう不機嫌には見えなかった。
お読みいただきありがとうございます。
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