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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第6章 光が崩れ、月明かりが生まれる

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第123話 扉の外から見た店

 休みの日の朝。


 フィオナは目を覚ましてからも、しばらく寝台の上で身体を起こせなかった。


 眠れていないわけではない。


 前夜の営業では舞台へ立っていない。


 客から腕をつかまれることもなかった。


 担当した若い槍使いも、安価なエールを一杯飲んだだけで帰っている。


 普段と比べれば、負担の少ない夜だったはずだ。


 それでも頭の中には、槍使いが話した言葉が残っていた。


 仲間の戦功を祝う宴から、一人の冒険者が抜け出した。


 亡くなった仲間と親しかった男だった。


 ガイルという冒険者が、その男をClub Moon Dropへ連れていった。


 そこで何を話したのかと尋ねても、槍使いは知らないと答えた。


 本人も詳しく語らなかったらしい。


 ただ、一つだけ。


 話さなくてもよかった。


 何も言わないまま席にいても、追い立てられなかった。


 そして初めて、死んだ瞬間ではなく、生きていた頃の仲間を落ち着いて思い出せた。


 フィオナには、その接客が理解できなかった。


 客席へつけば、会話を続けなければならない。


 沈黙が生まれれば、自分から話題を探す。


 仕事。


 家族。


 交友関係。


 不満。


 望み。


 次に高価な酒を勧めるための理由。


 できる限り多く聞き、営業後に報告用紙へ記す。


 話を聞き出せなければ、客へ関心を持っていないと評価される。


 酒を追加させられなければ、売上を作る意識が足りないと言われる。


 ルミエールでは、客が黙っている時間は、接客係が埋めるべき空白だった。


 だがClub Moon Dropでは、その空白を急いで埋めない。


 何も話さない客へ、接客係は何をするのか。


 何も聞き出さず、店へ情報を持ち帰らなくても、仕事をしたと認められるのか。


 フィオナは、槍使いの話だけでは確かめられないことが気になっていた。


 自分を継続して指名する商人、ハインツからも、何度かClub Moon Dropについて聞いている。


 無理に酒を勧められない。


 問題客には黒服が対応する。


 客が話した個人的な悩みを、ほかの者へ勝手に広めない。


 それでも、フィオナ自身は店を見たことがなかった。


 寝台から起き上がり、窓辺へ近づく。


 今日はルミエールでの仕事がない。


 誰からも呼び出されていない。


 どこへ行くかを報告する必要も、本来はない。


 それなのに、Club Moon Dropへ行くことへ後ろめたさを感じている。


 カイルが強く敵視している店だからだ。


 ルミエールの誰かに知られれば、競合店へ近づいた理由を尋ねられるかもしれない。


 働く場所を変えるつもりなのか。


 向こうの店とつながっているのか。


 そう疑われる可能性もある。


 フィオナには、今すぐルミエールを辞める決意などなかった。


 ほかに働ける場所があるかも分からない。


 自分の接客が別の店で通用するとも思えない。


 ただ、本当にそんな場所があるのか知りたかった。


 客が話さなくてもよい店。


 接客係が嫌な時に笑わなくてもよい店。


 黒服が客の支払額より、安全を優先する店。


 中へ入ることはできない。


 紹介者がいないからだ。


 ハインツが正式会員である可能性は高い。


 だが、客へ別の店へ連れていってほしいと頼む勇気は、まだなかった。


 今日は外から建物を見るだけにする。


 それなら誰にも迷惑をかけない。


 フィオナはそう自分へ言い聞かせ、外出の準備を始めた。


 ルミエールで着る華やかな衣装は使わない。


 淡い灰色の上着。


 濃紺の長いスカート。


 髪も飾らず、後ろで簡単にまとめた。


 鏡へ映った自分は、接客係には見えなかった。


 疲れた顔をした、どこにでもいる若い女に見える。


 口元を上げようとして、途中でやめる。


 今日は仕事ではない。


 誰かを安心させるために、笑顔を作る必要はない。


 そう思っても、表情を整えずに外へ出ることには不安があった。


 不機嫌に見えないだろうか。


 誰かを不快にさせないだろうか。


 フィオナは一度だけ深く息を吐き、部屋を出た。


 西通りへ向かう途中、何度も引き返そうと思った。


 市場の前を通る。


 商人たちの声。


 荷車の音。


 依頼帰りの冒険者たち。


 誰もフィオナへ注意を向けていない。


 それでも、ルミエールの客と擦れ違うたびに顔を伏せた。


 やがてClub Moon Dropの看板が見える。


 建物は、ルミエールより遥かに小さい。


 正面に大きな舞台の絵もなければ、人気キャストの名前を並べた札もない。


 月と雫を思わせる意匠が施された看板。


 扉の横には、営業時間と紹介制であることを示す小さな札。


 外から分かるのは、それだけだった。


 フィオナは通りの反対側へ立ち、窓へ目を向ける。


 すぐに、想像していたものと違うことへ気づいた。


 店内は見えない。


 窓は、通りを歩く者の目線より少し高い位置に設けられている。


 内側には淡い布がかけられ、店内の灯りだけが柔らかく透けていた。


 人が動いている気配は分かる。


 だが、誰がいるのか。


 何をしているのか。


 客席がどこにあるのか。


 外からは判別できなかった。


 フィオナは少し場所を変えた。


 窓の端からなら中が見えるかもしれない。


 しかし、どの角度へ動いても、見えるのは灯りと曖昧な影だけだった。


 店内を隠している。


 最初は、閉鎖的な店だと思った。


 客を選ぶ紹介制。


 外から見えない窓。


 通りへ音もほとんど漏れてこない。


 誰でも受け入れるルミエールとは正反対だった。


 だが、前夜の槍使いの話を思い出す。


 仲間を亡くした冒険者が、何も話さずに座っていた。


 もし窓から中が見えていたなら、通りを歩く者に、その姿を見られていたかもしれない。


 誰が来店しているのかも分かる。


 商人が誰と飲んでいるのか。


 女性客が一人で訪れているのか。


 冒険者がどのような表情をしているのか。


 Club Moon Dropが守っているのは、客席の会話だけではない。


 その時間を過ごしている姿そのものも、外から見られないようにしている。


 フィオナは窓から少し離れた。


 自分が見たいと思っていたこと自体が、中で過ごす者にとっては不安になるかもしれない。


 店内の詳しい様子を外から確かめたい。


 だが、外から確かめられないことこそ、この店の安心なのだ。


 扉は閉じていた。


 夜営業の開始までは、まだ時間がある。


 店の外に呼び込みはいない。


 ルミエールでは、開店前から通行人へ声をかける。


 今夜の舞台。


 限定の酒。


 人気の踊り子。


 空いている上位席。


 一人でも多く店内へ入れるため、次々と言葉を重ねる。


 Club Moon Dropは静かなままだった。


 扉の内側では準備が進んでいるのだろう。


 時折、床を歩く足音が小さく聞こえる。


 何かを動かす音。


 短い声。


 それだけだった。


 フィオナは向かい側にある店の軒下へ移動した。


 店内を覗くつもりはない。


 ただ、客がどのように扉へ入り、どのような表情で帰ってくるのかを見たかった。


 やがてClub Moon Dropの扉の横にある小さな灯りが明るくなる。


 夜営業の時刻を迎えたのだろう。


 それでも誰も外へ出てこない。


 客引きもいない。


 通りを歩く者へ、店の存在を押しつけない。


 しばらくして、最初の客が現れた。


 落ち着いた身なりの中年男性と、フィオナと同じくらいか少し若い少年。


 二人は扉の前で短く言葉を交わし、男性が扉を開いた。


 扉の向こうには、視線を遮る衝立が置かれていた。


 開いた瞬間にも客席は見えない。


 入口の奥から黒服らしい青年が姿を現す。


 外まで出ることはなく、扉の内側で二人を迎えた。


 二人の姿も、扉が閉じるとすぐに見えなくなる。


 受付台は店内にあるはずだ。


 だが外からは、その位置さえ分からなかった。


 会員証を提示しているのか。


 どのような確認を受けているのか。


 フィオナには見えない。


 それでよいのだろう。


 通りを歩く者へ、誰が会員であるかを知らせない。


 誰と一緒に来たのかも、外では確認しない。


 店へ入った者の情報は、扉の内側で扱われる。


 少し経つと、別の二人が現れた。


 年配の女性と、緊張した様子の若い女性。


 二人も扉を開き、内側へ入っていく。


 黒服が出迎えたらしい影が見えた。


 だが、すぐに扉は閉じられた。


 どのような説明を受けたのか。


 紹介者との関係をどう確認したのか。


 外からは何も分からない。


 フィオナは、自分が少し焦れていることへ気づいた。


 黒服がどのように働いているのか見たい。


 接客係が客へどう話しかけるのか知りたい。


 本当に無理な酒を勧めないのか。


 嫌な要求を断れるのか。


 だが、それらは外から見世物のように確かめるものではない。


 客として中へ入り、自分がどう扱われるかによって知るしかない。


 そのためには紹介者が必要だった。


 フィオナはハインツの顔を思い浮かべる。


 頼んでみるべきだろうか。


 ルミエールの接客係である自分を、Club Moon Dropへ紹介してほしいと。


 だが、ハインツを巻き込むことが怖かった。


 紹介者には責任がある。


 フィオナが問題を起こせば、ハインツにも迷惑がかかる。


 何より、自分が別の店へ行きたがっていると知られれば、気を遣わせるかもしれない。


 その時、Club Moon Dropの扉が開いた。


 先ほど入った年配の女性と若い女性が出てくる。


 扉の外まで見送りに出たのは、柔らかな色の髪をした少女だった。


 リリアだろうか。


 その隣には黒服の青年が立っている。


 フィオナからは、会話の内容までは聞こえない。


 ただ、少女が若い女性の言葉を遮らずに聞いていることは分かった。


 年配の女性が先に歩き出しても、若い女性はまだ何かを話している。


 少女は急かさない。


 店内へ戻ろうともせず、最後まで聞いている。


 やがて若い女性が小さく頭を下げる。


 少女も丁寧に返す。


 黒服は会話へ割り込まない。


 それでも周囲へ視線を向け、通りを歩く者や足元を確認している。


 二人の客が歩き始める。


 少女は少しの間、その背中を見送った。


 客が通りの人混みへ紛れてから、黒服と共に店内へ戻る。


 扉が閉まる。


 それだけの光景だった。


 派手な接客ではない。


 笑い声も聞こえない。


 それでもフィオナには、若い女性が急かされなかったことが分かった。


 店の外へ出た後まで、話し終わるのを待ってもらっていた。


 ルミエールでは、次の客が待っていれば、見送りは短くするよう求められる。


 客が帰る瞬間にも、次回来店につながる言葉を添える。


 次は高級酒を。


 次の催しへ。


 次の指名へ。


 今見た少女は、何かを売り込んでいるようには見えなかった。


 ただ、客の言葉を最後まで受け取っていた。


 その後も何組かの客が訪れた。


 扉が開いても、中は見えない。


 衝立と受付付近の灯りだけ。


 客が入るたび、黒服の影が迎える。


 扉が閉じれば、外からは何も分からなくなる。


 フィオナは長く立ちすぎていた。


 空は完全に暗くなり、通りの灯りが増えている。


 そろそろ帰ろう。


 そう思い、軒下から離れた時だった。


「失礼いたします」


 背後から声をかけられた。


 フィオナの身体が強張る。


 振り返ると、黒い服を着た青年が立っていた。


 先ほど客を見送っていた者とは別の黒服だった。


 ディーノは、フィオナへ近づきすぎない位置で足を止めている。


「長くこちらにいらっしゃいましたので、何かお困りなのかと思い、確認に参りました」


 責めるような口調ではなかった。


 フィオナは反射的に笑顔を作る。


「いえ。何もありません」


「どなたかと待ち合わせをされていますか?」


「いいえ」


「店の場所をお探しでしょうか」


「違います」


「では、当店へ何かご用でしょうか」


 名前も職業も尋ねない。


 まず、この場所にいる理由だけを確認している。


 フィオナはClub Moon Dropの看板へ視線を向けた。


「少し、見ていただけです」


「当店を、でしょうか」


「はい」


 ディーノはすぐに理由を追及しなかった。


「本日は、店をご利用になりたいとお考えでしょうか」


 フィオナは少し迷ってから頷く。


「入ってみたいとは思っています」


「以前、当店へお越しになったことはございますか?」


「いいえ」


「どなたか正式会員の方と、ご一緒に来店されるご予定はありますか?」


「紹介者はいません」


「そうでしたか」


 ディーノはフィオナを責めることなく、穏やかに続けた。


「当店では、初めてお越しになる方には、正式会員の方とご一緒に来ていただいております」


「一人では利用できないのですね」


「はい。紹介してくださる方との関係や、ご本人が納得して来店されていることを、店内の受付で確認してからお迎えしております」


「空いている席があってもですか?」


「席の状況にかかわらず、初めての方には同じお願いをしております」


「少しだけ、中を見ることもできませんか?」


「店内で過ごされている方の時間を守るため、見学だけのご案内も行っておりません」


 言葉は柔らかい。


 だが、規則を曖昧にはしなかった。


「次にお越しになる時、正式会員の方とご一緒でしたら、受付で改めてご説明いたします」


 拒絶されたというより、利用するための方法を教えられたように感じた。


「受付は店の中にあるのですね」


「はい」


「外では確認しないのですか?」


「会員証や紹介者様のお名前を通りで確認すれば、誰が当店を利用しているのか、周囲へ知られる可能性がありますので」


 フィオナは、扉が開いた一瞬にも衝立の奥が見えなかったことを思い出した。


「客の秘密を守るというのは、話した内容だけではないのですね」


 ディーノの目が僅かに変わる。


「当店について、どなたかからお聞きになりましたか?」


「はい」


「その方は、当店をご利用されているのですか?」


「たぶん」


 フィオナはハインツの顔を思い浮かべた。


 だが、本人の許可なく名前を使いたくなかった。


「名前は言えません」


「承知しました」


 ディーノは追及しなかった。


「次に来店を希望される場合は、その方ご本人へご相談ください。正式会員で、紹介を引き受けてくださるのであれば、ご一緒に受付までお越しいただけます」


「名前を知っているだけでは、入れないのですね」


「はい。紹介者様ご本人の意思も確認しております」


 規則は厳しい。


 それでも、フィオナは少し安心した。


 ハインツの名を勝手に使っても入れない。


 正式会員の情報を知っている者が、それだけで店へ入ることはできない。


「どうして、この店を見ていたのか聞かないのですか」


 フィオナが尋ねる。


「先ほど、店に関心があると伺いました」


「それだけでいいのですか」


「店へ危険を加える目的がないかは、確認する必要があります」


 ディーノの声が少しだけ慎重になる。


「誰かの顔や会話を探るために来られたのであれば、店の近くに留まることはお控えいただきます」


「違います」


 フィオナはすぐに答えた。


「誰が来ているかも、見えませんでした」


「はい。そのための窓と衝立です」


「私は、客の顔を見たかったわけではありません」


「では、何を確かめたかったのでしょう」


 初めて理由を尋ねられた。


 それでも、答えるまで帰さないという態度ではなかった。


 フィオナは自分の右腕を左手で押さえた。


「黒服が、本当に働く人を守るのか」


 言葉にした瞬間、声が小さくなる。


 ディーノの視線が腕へ向く。


 だが、何をされたのかとは聞かなかった。


「別の店で、接客の仕事をしています」


 フィオナは続ける。


「客に触られても、笑って断るように言われます」


「笑って、ですか」


「怒らせないためです」


「嫌だと伝えることはできないのですか」


「できます。でも、客が帰れば、私の接客が悪かったことになります」


 ディーノはすぐに答えなかった。


 相手の店を知らないまま、簡単に批判しないためだろう。


「ここでは違うと聞きました」


 フィオナは尋ねる。


「接客係が嫌だと思ったら、黒服を呼べるのですか」


「はい」


「客が高い酒を頼んでいても?」


「注文額は関係ありません」


「腕をつかまれただけでも?」


「本人が嫌がっているなら、離していただきます」


「笑っていたら?」


「笑っていることと、触れてよいことは別です」


 フィオナの指先へ力が入る。


 あの夜、自分は笑っていた。


 客の機嫌を損ねないために。


 怖いと悟られないために。


 だから周囲からは、問題ではないように見えたかもしれない。


「嫌だと言わなかったら?」


「言えない状態かもしれません」


 ディーノは静かに答える。


「表情や身体の動きを見ます。判断に迷えば、黒服から声をかけます」


「大丈夫だと言ったら?」


「言葉だけでは決めません」


「どうして?」


「大丈夫ではなくても、そう答える方がいらっしゃるからです」


 フィオナは何も言えなくなった。


 自分のことを知らないはずの青年が、自分の行動を見ていたような答えをする。


「客を怒らせたくないから、大丈夫だと言うこともあります」


 ディーノは続けた。


「店へ迷惑をかけたくない。自分が我慢すれば済む。そう考える方もいらっしゃいます」


「その人が、きちんと断らなかったから悪いとは思わないのですか」


「嫌だと言えなかったことを責めても、安全にはなりません」


 フィオナの中で、何かが崩れた。


 ルミエールでは、客を怒らせれば接客係が注意される。


 もっと上手に断れなかったのか。


 笑って受け流せなかったのか。


 高額客を失うところだった。


 自分が我慢すれば、店へ迷惑をかけずに済むと思っていた。


 だがここでは、嫌だと言えなかった者を責めても安全にはならないと考える。


「黒服は、店主へ確認してから止めるのですか」


「緊急の場合は先に止めます」


「勝手に客へ注意しても、責められないのですか」


「状況を誤って判断したなら、後で確認します」


 ディーノは答える。


「ですが、許可を待つ間に誰かが傷つく可能性があるなら、先に動きます」


「客が帰ったら、店は損をします」


「そうですね」


「それでも?」


「問題を起こす客を残せば、もっと多くのものを失うことがあります」


「もっと多くのもの?」


「働く者が、この店では守られないと思います。ほかのお客様も、危険な行為が許される場所だと感じます」


 売上だけではない。


 働く者の安心。


 客の信頼。


 店の空気。


 数字へ出る前に失われるものまで、Club Moon Dropは守ろうとしている。


「あなたは店の責任者ですか」


「いいえ。黒服です」


「黒服なのに、そこまで判断できるのですか」


「判断するために、店内を見ています」


 ディーノは扉へ視線を向ける。


「受付だけが仕事ではありません。案内、配膳、片づけ、巡回、問題が起きそうな場所の確認。それをほかの黒服と分担します」


「ずっと受付に立っているわけではない?」


「はい。受付台は店内にありますが、一人をそこへ固定してはいません」


「入口に誰もいなくなることは?」


「客席から入口を確認できる位置を取り、必要ならすぐ戻ります。どちらかが配膳へ動く時は、もう一人が入口と客席を見ます」


 外からは見えなかったことを、ディーノの説明で初めて知る。


 フィオナが求めていたのは、まさにその違いだった。


 黒い服を着ているかではない。


 入口へ立っているかでもない。


 働く者と客の安全を守るために、動き、判断する権限を持っているか。


「なぜ、そこまで私に教えるのですか」


「店の秘密を話しているわけではありません」


「でも、私は客ではありません」


「困っているように見えたからです」


 フィオナは反射的に笑顔を作りかけた。


「困っていません」


 口元が上がる前に、ディーノが言う。


「本当にそうでしたら、それ以上は伺いません」


 フィオナの表情が止まる。


「ただ、大丈夫ではない時まで、大丈夫だと言い続ける必要はないと思います」


 話せとは言わない。


 何をされたのか聞き出さない。


 だが、笑顔や大丈夫という言葉だけで終わらせない。


「ここへ来れば、話を聞いてもらえるのですか」


「客として利用される場合は、紹介者が必要です」


 規則は変えない。


「ただし、今すぐ危険がある。誰かに追われている。帰れば傷つけられる。そういう場合は、紹介者がいないという理由だけで、そのままお帰しすることはありません」


「私には、そこまでのことはありません」


「承知しました」


 ディーノはそれ以上踏み込まない。


 フィオナは、自分から話した範囲だけを残すことができた。


 店名も言っていない。


 客の名前も。


 いつ腕をつかまれたのかも。


 ディーノは尋ねなかった。


「次に来る時は、紹介者と一緒ならよいのですね」


「はい」


「私が別の接客店で働いていても?」


 ディーノは少しだけ考えた。


「それだけを理由に、お迎えしないということはありません」


「競合する店でも?」


「店の情報を探ることが目的であれば、お断りします」


 正直な答えだった。


「一人の客として過ごしたいのであれば、ほかの初来店の方と同じように、受付で確認いたします」


 特別に歓迎しない。


 特別に拒絶もしない。


 誰かの店で働いているという肩書きではなく、本人の意思と行動を見る。


「分かりました」


 フィオナは頭を下げた。


「長くお時間を取らせてしまい、申し訳ありません」


「いいえ」


 ディーノも頭を下げる。


「お帰りの道中も、お気をつけください」


 フィオナは通りを歩き始めた。


 少し進んだところで振り返る。


 ディーノはもう店の前に立っていなかった。


 扉を開け、すぐに中へ戻っている。


 フィオナを見張り続けない。


 店内へ戻り、今いる客と仲間へ意識を向ける。


 扉が閉まる。


 再び店内は見えなくなった。


 フィオナは看板を見上げた。


 外から見えなかったものは多い。


 客席。


 受付台。


 接客係の動き。


 黒服の連携。


 客の表情。


 何も確かめられなかったと思っていた。


 だが、本当に大切なことは、扉の外で少しだけ知ることができた。


 客の姿を外へ晒さない。


 紹介者がいなければ、空席があっても入れない。


 困っている者へは、必要な範囲だけ尋ねる。


 話すと決めていないことまで聞き出さない。


 働く者が嫌だと言えなくても、その人の責任にはしない。


 黒服は、許可を待たずに危険を止める。


 フィオナは右腕へ触れた。


 客につかまれた跡は、もう残っていない。


 それでも感触だけは消えなかった。


 あの時、自分は笑っていた。


 だから本気で嫌がっていないと思われても仕方がないと考えていた。


 だが、笑っていることと、触れてよいことは別だ。


 その言葉を信じたいと思った。


 帰り道。


 フィオナはルミエールの建物が見えない道を選んだ。


 遠回りになる。


 それでも今日は、仕事の場所を見たくなかった。


 翌日の営業を考える必要もない。


 どの客へ酒を勧めるか。


 何を聞き出すか。


 報告用紙へ何を書くか。


 今だけは考えたくなかった。


 Club Moon Dropへ来たことを、ルミエールへ報告するつもりもない。


 誰と話したのか。


 何を尋ねたのか。


 黒服が何と答えたのか。


 店へ伝えれば、Club Moon Dropを調べる材料として使われるかもしれない。


 この時間は、自分で選んだ。


 誰かの命令ではない。


 売上のためでもない。


 だから、自分の中だけへ残しておきたかった。


 その夜。


 Club Moon Dropの営業が終わった後、ディーノはレンとロイへ、店の近くに長くいた女性について報告した。


「別の接客店で働いていると話していました」


 レンは片づけの手を止める。


「店名は?」


「聞いていません」


「なぜだ?」


「本人が話していなかったからです」


 ディーノは答える。


「ただ、客に触られても笑って断るよう求められる店だと言っていました」


 ロイの表情が僅かに険しくなる。


「ルミエールの可能性はあるな」


「俺もそう思いました」


「本人は何かされたのか?」


「右腕を押さえていました。ですが、詳しい事情は話していません」


「危険は?」


「今すぐ危険がある様子ではありませんでした」


 ディーノは、自分が確認した範囲だけを伝える。


「紹介者なしで店を利用できるか尋ねられたため、初来店時の仕組みを説明しました。次に客として来るなら、正式会員本人と一緒に来るよう伝えています」


「それでいい」


 レンが頷く。


「困っているように見えたので、黒服の役割について少し説明しました」


「どこまでだ?」


「客の支払額に関係なく、嫌がる行為は止めること。緊急なら店主の許可を待たないこと。嫌だと言えなかった接客係を責めても、安全にはならないことです」


 レンは少し考えた。


「問題ないと思う」


「店の考え方を、外部の人間へ話しすぎたでしょうか」


「秘密にするようなことじゃない」


 レンは答える。


「むしろ、それを外へ言えない店なら、中でも守れない」


 ノアが営業記録を開く。


「記録は残しますか?」


「入口周辺に長時間いた人物として、事実だけ残そう」


 レンが言う。


「女性一名。ディーノが目的を確認。別の接客店で勤務していると本人から申告。店への危害や調査目的は否定。紹介者の同行が必要であることを説明した」


「腕を押さえていたことは?」


 ノアが尋ねる。


「書かない」


 レンは答えた。


「理由が分からない。推測まで残す必要はない」


「質問内容は?」


「それも残さなくていい」


「安全に関する可能性は、どうしますか?」


「口頭で共有した今の範囲で十分だ」


 ノアは必要な事実だけを記した。


 名前は分からない。


 勤務先も確定していない。


 何をされたのかも書かない。


 客ではない女が、店の前で何を感じていたのかを、勝手に帳簿へ残さない。


「次に紹介者と来たら、どうしますか」


 ロイが尋ねる。


「ほかの初来店客と同じだ」


 レンは答えた。


「紹介者との関係を確認する。本人が自分の意思で来たのか聞く。規則を説明する」


「ルミエールの接客係でも?」


「それだけで断る理由はない」


「調査目的の可能性は残ります」


「だから確認する」


 レンは受付台へ視線を向ける。


「最初から敵だと決めつけない。でも、店の規則も曲げない」


 扉は誰にでも開かれているわけではない。


 その代わり、誰かの立場だけを理由に閉ざされるものでもない。


 必要なのは、紹介者との信頼。


 本人の意思。


 店の規則を守る姿勢。


 フィオナはまだ、そのことを知らない。


 自分が帰った後、Club Moon Dropでも報告が行われたことも知らない。


 だが、その報告に彼女の表情や腕の仕草から推測した事情が書き加えられることはなかった。


 話していないことは、話していないまま残された。


 数日後。


 ルミエールの客席で、フィオナはハインツを担当していた。


 ハインツはいつものように、高価な酒を注文しなかった。


 安価な果実酒を一杯。


 軽い料理。


 家族へ土産を買うため、今月も出費を抑えていると話す。


 ルミエールの責任者から見れば、効率の悪い客だった。


 だがフィオナにとっては、自分の話も無理に聞き出さず、失敗を笑わない大切な客だった。


「今日は、いつもより静かだな」


 ハインツが言った。


 フィオナは反射的に笑顔を作る。


「そうでしょうか」


「ああ。何かあったか?」


「何もありません」


 いつもの言葉だった。


 ハインツは杯を置く。


「何もない時のお前は、そんなふうに腕を押さえない」


 フィオナは自分の右腕へ目を向けた。


 また無意識に、左手で覆っている。


 慌てて離した。


「申し訳ありません」


「謝ることじゃない」


 その言葉に、ディーノの声が重なる。


 フィオナは視線を落とした。


「今は話したくないか?」


「はい」


「分かった」


 ハインツは、それ以上聞かなかった。


 会話が途切れる。


 フィオナは焦りかけた。


 何か話題を出さなければならない。


 客を退屈させてはいけない。


 だがハインツは、静かに果実酒を飲んでいる。


 沈黙を不満に思っている様子はない。


「ハインツ様」


「何だ?」


「Club Moon Dropの正式会員ですか?」


 ハインツが僅かに眉を上げた。


「ああ」


 やはりそうだった。


「どうして急に聞く?」


「先日、店の前まで行きました」


 フィオナは、自分から話すことを選んだ。


「中へ入ったのか?」


「いいえ。紹介者がいませんから、利用方法を教えていただいただけです」


「一人で行ったのか」


「はい」


「何かあったか?」


「何もされていません」


 フィオナは小さく首を横へ振る。


「黒服の方が、長く近くにいた私へ、困っていないか確認に来てくださいました」


「何を話した?」


 フィオナは少し迷った。


「接客係が客に触られた時、黒服はどうするのか聞きました」


 ハインツの表情が変わる。


 フィオナは腕を押さえないよう、両手を膝へ置いた。


「注文額に関係なく止めると答えました。嫌だと言えなかった接客係を責めても、安全にはならないとも」


「そうか」


「私は、その店へ行ってみたいです」


 初めて、自分の希望として口にした。


 ハインツはすぐには答えなかった。


「接客係としてではなく、一人の客として座ってみたいんです」


「何を話すつもりだ?」


「分かりません」


 フィオナは正直に答えた。


「何も話さないかもしれません」


「それでも行きたいのか」


「はい」


 ハインツはしばらくフィオナを見ていた。


 やがて、静かに頷く。


「次の休みはいつだ?」


「三日後です」


「では、その日に一緒に行こう」


 フィオナの呼吸が止まる。


「紹介してくださるのですか?」


「私が知っているフィオナを、店へ紹介する」


「でも、紹介者にも責任があると聞きました」


「ああ」


「私が問題を起こしたら」


「お前は問題を起こすために行くのか?」


「違います」


「なら、規則を聞いて守ればいい」


 ハインツは果実酒へ口をつける。


「正式会員になるかどうかは、一度行った後に店が決める。お前も、また行きたいと思うか、その時に決めればいい」


「ルミエールで働いていることは、伝えるべきでしょうか」


「聞かれたら、正直に答えればいい」


「嫌がられませんか」


「職場だけを理由に扱いを変える店ではない」


 ディーノも同じことを言っていた。


 特別に歓迎しない。


 特別に拒絶もしない。


 一人の初来店客として確認する。


「ありがとうございます」


 フィオナは頭を下げた。


 口元に笑顔が浮かぶ。


 ルミエールで作る、整った笑顔ではなかった。


 不安も残っている。


 怖さもある。


 それでも、自分の意思で次の場所へ進めることへの、僅かな安堵が混じっていた。


 三日後。


 フィオナは、外から何も見えなかったClub Moon Dropの扉へ、正式な紹介者と共に立つことになる。


 今度は、競合店の接客係としてではない。


 何かを聞き出し、報告用紙へ書くためでもない。


 ただ一人の客として。


 扉の内側にある時間を、自分で確かめるために。

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