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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第6章 光が崩れ、月明かりが生まれる

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第122話 賑わいから逃れてきた冒険者

 夜営業を迎える前のClub Moon Dropでは、四つの卓すべてが静かに客を待っていた。


 白い卓布の端は揃えられ、椅子は黒服が無理なく通れる間隔を空けて置かれている。


 各卓には水差しと杯。


 手元を照らす小さな灯り。


 酒や料理の香りが店内へ籠もりすぎないよう、窓も僅かに開けられていた。


 前夜、最後まで客が座らなかった奥の卓も、ほかの卓と何も変わらない。


 空いていたからといって、整える手を抜く理由にはならない。


 エルナはその卓の横へ立ち、椅子と卓の間隔を眺めた。


「今日は近すぎないよね」


 入口から客席までの通路を確認していたディーノが、椅子の位置へ視線を落とす。


「昨日よりはいい」


「昨日だって、そんなに近くなかったでしょう?」


「通る時に足が当たりそうだった」


「当たらなかったでしょう?」


「当たりそうだったから直した」


「細かい」


「黒服の仕事だ」


「分かってるけど」


 エルナが椅子を僅かに押す。


 ディーノはすぐに首を横へ振った。


「戻せ」


「どっちに?」


「今、動かす前の位置だ」


「それなら最初から合ってたんじゃない」


「俺が確認した後の位置だ」


「同じことでしょう?」


「違う」


 二人のやり取りを聞きながら、リリアは畳んだ手拭き布を棚へ置いた。


 前夜は、空席があることへ店全体が少しだけ落ち着きを失っていた。


 特にエルナは、ルミエールへ客を奪われ、このまま戻ってこなくなるのではないかと不安を隠せていなかった。


 今も気にしていないわけではないだろう。


 それでも、空席を恐れて誰でも座らせようとするのではなく、次の客が安心して過ごせるよう整えている。


 その姿は、いつものエルナへ少しずつ戻っていた。


「今夜の予約は三組です」


 受付近くで登録帳を確認していたロイが告げる。


「一組目はアルフレッド様とオスカー様。二組目はエミリア様とご友人。三組目は、ガイル様が初来店の方をお連れになります」


「ガイルさんが?」


 リリアが聞き返す。


「昨夜、閉店後に店の前まで来られたそうだ」


 カウンターの内側で酒瓶を確認していたレンが答えた。


「俺は奥へ入った後だったから会ってないけど、店を出た客から、ガイルたちが看板の前にいたと聞いた」


「どのような方でしょうか」


「冒険者だとは聞いている」


 レンは予約帳へ目を落とした。


「それと、ガイルから一つだけ希望が伝えられている」


「希望?」


「賑やかな席にはしないでほしい、って」


「冒険者なのに?」


 エルナは口にした直後、しまったという顔をした。


「いや、冒険者でも静かに飲みたい人はいるよね」


「職業だけで、好む過ごし方が決まるわけではありませんから」


 セレナが穏やかに補う。


「そうだよね」


 エルナは頷き、それから少し迷って尋ねた。


「私、静かにした方がいい?」


「エルナが担当するとは決まっていない」


 ディーノが答える。


「もし担当したらの話」


「無理に黙る必要はないだろう」


「でも、賑やかな席にしないでほしいって言われてるんでしょう?」


「エルナが黙って座っていたら、客が心配する」


「どういう意味?」


「具合が悪いと思われる」


「ひどい」


「普段と違いすぎるからだ」


 エルナはディーノを睨んだが、完全には否定できないらしい。


 レンは二人のやり取りが落ち着くのを待ってから口を開いた。


「静かな接客って、何も話さないことじゃない」


 エルナとリリアがレンを見る。


「客が話したい時に話せること。話したくない時には急かさないこと。必要なことは確かめても、本人が話そうとしていないところまで踏み込まないことだ」


「話題を振らない方がいいの?」


「相手の様子次第だな。何も聞かれたくない人もいれば、自分から話し始めるきっかけだけ欲しい人もいる」


「難しいね」


「だから、最初から決めつけない」


 レンは奥の卓へ視線を向けた。


「今夜は、リリアに最初の対応を任せたい」


「私ですか?」


「ああ」


「承知しました」


 リリアは素直に頷いた。


「ただ、事情を聞き出そうとしなくていい」


「はい」


「ガイルが話すなら聞く。本人が話すなら受け止める。話さないなら、そのままでいい」


「お酒やお料理のご希望は、いつもどおり伺います」


「それは必要だ」


 レンは僅かに笑った。


「何も聞かないことと、放っておくことは違うからな」


 リリアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 話させない。


 急かさない。


 けれど、放っておかない。


 客が緊張していれば、安心できるよう声をかける。


 好みが分からなければ、選択肢を示す。


 会話が途切れれば、相手が答えやすい話題を探す。


 それが接客係としての役割だと思っていた。


 だが今夜の客は、会話が途切れる時間そのものを必要としているのかもしれない。


「リリア」


「はい」


「判断に迷ったら、途中でも俺か黒服を呼んでいいからな」


「接客の途中でもですか?」


「ああ。一人ですべての答えを出す必要はない」


「分かりました」


 開店時刻を迎えた。


 最初に訪れたのは、アルフレッドとオスカーだった。


 ロイが会員証を確認し、ディーノが二人を入口に近い卓へ案内する。


 ミーナが挨拶へ向かうと、オスカーは少し緊張しながらも、以前より自然に笑った。


 続いて、エミリアが二人の女性を伴って来店する。


 同行者のうち一人は正式会員。


 もう一人は初来店だった。


 ロイは紹介者との関係を確認し、店の規則を一つずつ説明する。


 その間、ディーノは客席へ水差しを運び、厨房から出てきた料理を受け取る。


 ロイが入口に立っている間は、ディーノが客席へ目を配る。


 説明が終わり、ロイが客を案内すれば、ディーノが入口へ近づく。


 二人とも一つの場所へ固定されてはいない。


 それでも入口と客席のどちらかが、誰にも見られていない状態にはならなかった。


 二組の客が落ち着いた頃、扉の外から二人分の足音が聞こえた。


 ロイが入口へ向かう。


 リリアも、客を威圧しないよう少し離れた位置へ立った。


 扉が開き、最初にガイルが入ってくる。


「こんばんは」


「おう」


 ガイルは普段よりも小さな声で応じた。


 その後ろに、一人の男が立っている。


 三十歳前後。


 背はガイルより僅かに低い。


 使い込まれた革鎧を身につけ、腰には剣を下げている。


 装備は手入れされていたが、右肩の革紐には新しい傷があり、左腕の防具には乾ききっていない泥が残っていた。


 冒険から帰った後、装備を整える余裕がなかったのかもしれない。


 男は店内へ一歩入ったところで足を止めた。


 客席。


 灯り。


 接客係。


 黒服。


 入口から見えるものを順番に確かめている。


 警戒しているようにも見える。


 それ以上に、自分がどのような顔で店へ入ればよいのか分からない様子だった。


「ご紹介をお願いいたします」


 ロイがガイルへ告げる。


「ああ。こいつはレドだ」


 ガイルは隣の男を見る。


「同じ冒険者ギルドで依頼を受けてる。何度か一緒に護衛にも出た」


 レドは小さく頭を下げた。


「レドだ」


「Club Moon Dropで黒服をしております、ロイです」


 ロイは続いて、初来店時の規則を説明する。


 紹介者と同席すること。


 店内で他人へ無理な飲酒を求めないこと。


 接客係やほかの客が嫌がる行為を続けないこと。


 泥酔した場合や、店内の安全を守れない状態になった場合は、退店を求めることがあること。


 レドは一つずつ聞いていた。


 返事は短いが、聞き流してはいない。


「分かった」


「ご不明な点はございますか?」


「ない」


「お席で邪魔になる武器は、こちらでお預かりできます」


 Club Moon Dropでは、冒険者が日常的に携帯する小さな短剣まで一律に取り上げることはない。


 ただし、長剣や大きな武器は、客席でぶつからないよう受付近くで預かっている。


 レドは腰の剣へ手を触れた。


 一瞬だけ、手放すことをためらう。


 ガイルは何も言わず、レドが自分で決めるのを待った。


 やがてレドは鞘ごと剣を外す。


「これを頼む」


「お預かりいたします」


 ロイは両手で受け取り、番号札を渡した。


 それを見届けてから、ガイルも自分の剣を外す。


「俺のも頼む」


「承知しました」


 ガイルが先に預けなかったのは、レドへ同じ行動を求めたくなかったからだろう。


 自分で判断し、自分から差し出すまで待っていた。


 リリアは二人へ近づき、丁寧に頭を下げる。


「こんばんは。リリアと申します。本日は、最初に私がお席を担当いたします」


「最初に?」


 レドが僅かに眉を動かす。


「ご希望や店内の状況によっては、ほかの接客係がご挨拶へ伺うこともございます。ただ、無理に担当を代わることはございません」


「ずっと話さないと駄目なのか」


 唐突な問いだった。


 リリアはすぐには答えなかった。


 言葉の表面だけなら、接客係そのものを拒んでいるようにも聞こえる。


 しかしレドの声には苛立ちよりも、確認しなければ中へ入れないという硬さがあった。


「いいえ」


 リリアは落ち着いて答えた。


「お話しになりたくない時は、無理にお話しいただく必要はございません」


「接客係がつく店なんだろう?」


「はい」


「話さない客は迷惑じゃないのか」


「迷惑ではございません」


 リリアはレドから目を逸らさなかった。


「お飲み物やお料理のご希望を伺い、必要な時にお声をかけることも接客です。お話を急かさず、お客様が落ち着いて過ごせるようにすることも、私たちの仕事だと考えております」


 レドは何も言わなかった。


 リリアも返事を求めない。


 僅かに間を置いてから、次に必要なことだけを尋ねた。


「お席へご案内してもよろしいでしょうか」


「ああ」


 レドの声から、少しだけ力が抜けた。


 二人が案内されたのは、前夜に最後まで使われなかった奥の卓だった。


 隣の卓とは十分な間隔がある。


 入口からは少し離れているが、黒服から見えなくなる場所ではない。


 店内の声は聞こえる。


 それでも大声を出さなければ、会話の内容までは届かない。


 ガイルとレドが向かい合って座る。


 リリアは二人の表情を確認できる位置へ腰を下ろした。


「最初にお水をお持ちしてもよろしいでしょうか」


「ああ」


 レドが答える。


「ガイル様も、いつもどおり先にお水でよろしいですか?」


「頼む」


「承知いたしました」


 リリアは一度席を離れた。


 卓へ着いた瞬間から事情を尋ねない。


 戻ってきた後も、水を注いでから酒の希望だけを確認した。


「本日のお酒は、軽めのものと、香りの強いもののどちらがよろしいでしょうか」


 レドは水へ口をつけてから答える。


「強くないものがいい」


「甘さはございますか?」


「少しなら」


「それでしたら、冷やした果実酒を水で割ったものか、泡水で割ったものがございます。泡水で割る方が、香りを残しながら口当たりを軽くできます」


「酒を水で割るのか」


「はい。ゆっくり召し上がりたい方にもおすすめしております」


 レドはガイルを見る。


「お前は飲んだことがあるのか」


「ある。酒を急いで飲みたくない時にはいい」


「お前にも、そんな時があるのか」


「俺を何だと思ってる」


「樽」


「人だ」


 短いやり取りだった。


 レドの口元が僅かに動く。


 笑ったと言えるほどではない。


 だが入口で見せていた硬さが、少しだけ薄れた。


「泡水で割ったものを」


「承知いたしました。柑橘に近い爽やかな果実酒と、赤い果実を使った甘みのあるものがございます」


「爽やかな方で」


「かしこまりました」


「俺はビールで」


 ガイルが言う。


「いつものビールですね。お料理はいかがなさいますか?」


「肉」


「お前はいつもそれだな」


 レドが呟く。


「俺が食う分だけじゃない。お前の分もだ」


「俺も肉でいい」


「本日は、鶏もも肉の香草焼きと、豚肉とじゃがいもの煮込みがございます。早くお出しできるのは煮込みです」


「それで頼む」


「お二人で分けられる量でよろしいでしょうか」


「ああ」


「承知いたしました」


 必要な注文を聞き終える。


 リリアは次の話題を探さなかった。


「ご用意してまいります」


 一礼し、席を離れる。


 レドは去っていくリリアの背中を見ていた。


「本当に何も聞かないんだな」


「何をだ」


 ガイルが尋ねる。


「俺が何で来たか」


「聞いてほしいのか?」


「そういうわけじゃない」


「なら、いいだろ」


「普通は聞くだろう。どんな依頼だった。何を倒した。どれだけ稼いだ。どうして暗い顔をしてる」


「聞かれたい奴もいる」


「俺は嫌だ」


「なら、嫌だと言えばいい」


 レドは水の入った杯を見る。


「言ったら、場を壊す」


「ここでは壊れん」


「なぜ分かる」


「俺が何度も来てるからだ」


 ガイルは、それ以上説明しなかった。


 自分が店の代わりに説得すれば、レドはガイルの言葉だけを信じて席へ座ることになる。


 本当にこの店で過ごせるかどうかは、店の者の行動を見て本人が決めることだった。


 ディーノが、泡水で割った果実酒とビールを運んでくる。


「お待たせいたしました」


 杯を置く位置を確かめ、レドの利き手側へ果実酒を置く。


「果実酒は香りが逃げないよう、強く混ぜすぎておりません。泡が落ち着いてから召し上がっていただいても構いません」


「分かった」


「お料理も、もう少しでご用意できます」


 ディーノは必要なことだけを伝え、下がった。


 近くを通ったロイは、別の卓の空いた皿を下げながら、一度だけレドの杯へ視線を向けた。


 酒量と表情を確認する。


 だが立ち止まらない。


 見張られていると感じさせず、店内全体へ目を配っていた。


 レドは果実酒を口へ運ぶ。


 泡水によって果実の香りが立ち、甘みは強すぎない。


 喉を焼くような酒でもなかった。


「軽いな」


「物足りないか?」


「いや」


 レドはもう一口飲む。


「これくらいでいい」


 ガイルもビールへ口をつけた。


 店内では、エミリアたちの卓から穏やかな笑い声が上がる。


 オスカーが何かを言い間違えたらしく、ミーナが笑いを堪えながら聞き返していた。


 静かではある。


 けれど、無音ではない。


 誰かの話す声。


 杯を置く音。


 厨房から届く料理の香り。


 黒服の足音。


 それらが薄く重なり、店内に流れている。


 レドは、しばらく周囲を眺めていた。


「静かすぎるのも困ると言ってたな」


 ガイルが言う。


「言った」


「これくらいは?」


「まだ分からん」


「そうか」


 ガイルも答えを急かさない。


 それから二人の間に会話はなくなった。


 リリアが戻った時も、その沈黙は続いていた。


 リリアは二人の杯を確認する。


 果実酒は三分の一ほど減っている。


 ガイルのビールも、普段よりゆっくりだった。


「お味はいかがでしょうか」


「悪くない」


「ありがとうございます。もう少し香りを強くすることもできますが、今のままでよろしいですか?」


「このままでいい」


「承知いたしました」


 リリアは、それ以上の質問を続けず、少し離れた位置へ座った。


 話しかけない。


 だが、席からいなくならない。


 レドが杯を置けば様子を見る。


 水が減れば、声をかけてから注ぎ足す。


 料理が運ばれてきた時には、熱い器へ触れないよう伝える。


「豚肉とじゃがいもの煮込みでございます。器が熱くなっておりますので、お気をつけください」


 ルークが火を通した豚肉は柔らかく、じゃがいもには肉と香草の味が染み込んでいる。


 ティアが大きさを揃える練習を続けている根菜も入っていた。


 レドは一口食べる。


 噛む動きが途中で止まった。


「どうした」


 ガイルが尋ねる。


「熱い」


「言われただろ」


「分かってた」


「分かってなかった顔だ」


「黙れ」


 リリアは笑わなかった。


 ただ、水の入った杯を、レドの手が届きやすい位置へ少しだけ動かした。


 レドは水を飲む。


「すまん」


「いいえ」


「笑わないんだな」


 突然の言葉に、リリアは瞬きをする。


「何をでしょうか」


「今のを」


「お料理が熱かっただけですから」


「普通は笑う」


「面白いことでしたら、笑うこともございます」


「面白くないのか」


 リリアは少し考えた。


「ガイル様とのやり取りは、少し面白かったです」


「俺じゃなく、こいつの方を笑ったんじゃないのか」


「はい」


 素直に答えると、ガイルが喉の奥で笑った。


「正直だな」


「申し訳ございません」


「謝ることじゃない」


 レドも僅かに息を漏らした。


 今度は、先ほどより明確に笑っていた。


 しかし、その表情はすぐに消える。


 レドは煮込みへ視線を落とした。


「前にも、これに似たものを食べた」


 誰へ向けた言葉か分からなかった。


 ガイルもリリアも、すぐには返さない。


「仲間が作った」


 レドが続ける。


「料理が得意な奴じゃなかった。肉と芋を鍋へ入れて、塩を入れすぎて、水を足して」


 杯の縁へ指を添える。


「最後は、何の味か分からなくなってた」


 ガイルは静かに聞いている。


 リリアも同じだった。


「でも、寒かったから皆で食った」


 レドの目は料理ではなく、別の場所を見ていた。


「森で雨に降られて、火もなかなかつかなくて。あいつは、自分の料理がうまいって言い張ってた」


「その方は――」


 リリアは言いかけて止まった。


 名前を尋ねるべきか。


 どのような人物だったのか。


 何があったのか。


 尋ねれば、レドは続きを話すかもしれない。


 だが今、レドが求めているのは質問ではないように思えた。


「大切な思い出なのですね」


 それだけを伝える。


 レドの指が止まった。


「ああ」


 短い返事だった。


 沈黙が戻る。


 今度の沈黙は、入口での硬いものとは違っていた。


 話した後に生まれた空白。


 レド自身が、その記憶をもう一度見ている時間だった。


 リリアは水を注がない。


 まだ十分に残っている。


 料理を勧めない。


 冷める前に食べた方がよいとしても、今は急かさない。


 ただ、席にいる。


 しばらくして、レドが自分から口を開いた。


「死んだ」


 店内の音は変わらない。


 別の卓では会話が続いている。


 厨房では器の触れ合う音がしている。


 けれどリリアには、その一言だけがはっきりと聞こえた。


「依頼は成功した」


 レドの声は平坦だった。


「魔物の群れを追い返した。村人は助かった。荷も守れた」


 ガイルは杯を置いた。


「でも、あいつは戻らなかった」


 レドは笑おうとした。


 口元だけが僅かに歪む。


「ギルドでは英雄扱いだ。あいつのおかげで勝てた。立派だった。飲んで祝えって」


 その口元は、笑顔にはならなかった。


「皆、悪気はない」


 リリアは黙って聞く。


「分かってる。生き残った奴らも、笑わないとやってられないんだと思う」


 レドは果実酒へ口をつける。


「でも俺は、あいつが死んだ夜に飲んだ酒の味も覚えてる」


 杯を見下ろす。


「誰かが勝ったって叫ぶたびに、あいつがいないことを思い出す」


 ガイルが低い声で尋ねる。


「宴を抜けてきたのか」


「ああ」


「誰かに言ったか」


「言えるわけないだろ」


「なぜだ」


「皆も仲間を失ってる」


 レドの声が僅かに強くなる。


「俺だけが辛いみたいに言えるか。村を守れたのに、喜べないとも言えない」


 リリアは、レドが握る杯へ視線を落とした。


 指先が白くなるほど、力が入っている。


「喜ばなくてはならないのでしょうか」


 リリアが静かに尋ねた。


 レドが顔を上げる。


「何?」


「村を守れたことと、その方を失って悲しいことは、同じお気持ちではないと思います」


「勝ったんだぞ」


「はい」


「勝ったなら、喜ぶものだろう」


「喜んでいる方もいらっしゃると思います」


 リリアは慎重に言葉を選ぶ。


「ですが、レド様が今、同じように喜べないことまで、間違いになるのでしょうか」


 レドは答えない。


「私には、冒険者として戦った経験はほとんどございません」


 見習い冒険者だった頃を思い出す。


 危険な依頼へ出た経験も少ない。


 仲間を失ったこともない。


 知ったような言葉を使えば、レドの悲しみを軽く扱ってしまう。


「ですから、レド様のお気持ちが分かるとは申し上げられません」


 リリアは続けた。


「ただ、ここでは、ほかの方と同じ顔をなさらなくても大丈夫です」


「同じ顔?」


「皆様が笑っていらっしゃるからといって、レド様まで笑う必要はございません」


 レドの口元に残っていた不自然な形が消える。


「話したくない時は、話さなくても大丈夫です」


 リリアは目の前の客だけを見る。


「悲しい時に、悲しくない顔を作らなくても大丈夫です」


 レドの手から少しずつ力が抜けた。


 杯が静かに卓へ置かれる。


「そんな客に、接客係は何をする」


「必要な時に、お水をお注ぎします」


 レドが僅かに眉を動かした。


「お料理が冷めすぎないよう、召し上がる頃合いをお伝えします。お酒が強すぎないか確認いたします。お話しになった時には、お聞きします」


「それだけか」


「はい」


「慰めないのか」


「私の言葉で、すぐに悲しくなくなるのでしょうか」


 レドは黙る。


「私にしてほしいことがございましたら、おっしゃってください」


「分からない」


「では、分からないままで大丈夫です」


 リリアは微笑んだ。


 元気づけるための大きな笑顔ではない。


 ここにいると伝えるための、柔らかな表情だった。


「今すぐ決めていただく必要はございません」


 レドは長く息を吐いた。


 僅かに肩が落ちる。


「変な接客係だな」


「申し訳ございません」


「謝るところじゃない」


「先ほども同じことを言われました」


「そうだったな」


 今度の笑いは、すぐには消えなかった。


 レドは煮込みをもう一口食べる。


「さっきより熱くない」


「少し冷めましたので」


「冷めるまで待ってたのか」


「レド様がお話しになっていましたから」


「料理を食わせるのも仕事なんだろう」


「はい。ですが、お話を止めてまで召し上がっていただく必要はございません」


「冷めたら、作った奴に悪くないか」


「冷めても味が大きく崩れないよう、ルークが整えております」


 厨房へ目を向けると、ルークは次の料理を仕上げている。


 客席へ聞き耳を立てている様子はない。


 それでも、急いで食べなければ状態が変わる料理と、会話の途中でも味が崩れにくい料理を分けていた。


 Club Moon Dropの料理は、料理だけを主役にするためのものではない。


 酒と会話の間に置かれ、客の時間を邪魔しないことも考えられている。


「料理人の名前はルークか」


「はい」


「うまいと伝えてくれ」


「レド様から、そう伺ったとお伝えしてもよろしいですか?」


「ああ」


「承知いたしました」


 客が料理を褒めたことなら、厨房へ共有してよい。


 だが、仲間を失った話は伝えない。


 誰を失ったのか。


 どの依頼だったのか。


 どの村を守ったのか。


 営業後の記録へ残す必要もない。


 リリア自身が覚えていても、次にレドが来店し、自分から続きを話した時に思い出せれば、それでよかった。


 やがてガイルが二杯目のビールを頼んだ。


 レドも同じ果実酒を、もう一杯だけ希望する。


「同じ濃さでよろしいですか?」


「ああ」


「お水も一緒にお持ちいたします」


「必要か?」


「一杯目よりも、少し早く召し上がっていらっしゃいましたので」


 レドは、自分の空になった杯を見る。


「見てるんだな」


「はい」


「何を話したかも覚えるのか」


 リリアの胸に、僅かな緊張が走った。


 王都の社交店では、接客係が客の会話を店へ報告する場所もある。


 Club Moon Dropでは、安全のために残す情報と、客本人の中だけへ残してよい話を分けている。


「覚えていることはございます」


 嘘はつかない。


「ですが、先ほどのお話を店の記録へ残すことはございません」


 レドの目が細くなる。


「なぜだ」


「次の営業や安全のために、必要な情報ではないからです」


「俺が暴れるかもしれないとは思わないのか」


「レド様は、今のところ店の規則を守っていらっしゃいます」


「今後は分からない」


「問題が起きた場合は、その行動を安全のために記録することがございます」


 リリアは曖昧にせず伝えた。


「ですが、悲しいとお話しになったことと、問題を起こすことは同じではございません」


 レドはしばらくリリアを見ていた。


「誰にも言わないのか」


「お客様や働く者の命に関わることや、具体的な危険につながることでしたら、レンや黒服へ相談いたします」


「俺が死にたいと言ったら?」


 ガイルの表情が変わる。


 リリアも一瞬だけ息を止めた。


「言うつもりはない」


 レドはすぐに付け加える。


「どこまで黙るのか、気になっただけだ」


 冗談として流してよい質問ではない。


 リリアはレドの目を見る。


「その場合は、お一人にはいたしません」


「秘密を守らないのか」


「ガイル様やレン、黒服へお伝えし、安全を確かめます」


「誰にも言うなと言っても?」


「はい」


 リリアの声は柔らかい。


 だが、迷いはなかった。


「命に関わることまで、私一人で秘密にするとはお約束できません」


「それは、客を裏切ることにならないのか」


「秘密を守ることと、危険を見過ごすことは違うと考えております」


 レドは小さく頷いた。


「分かった」


「先ほどのご質問は、本当に確認のためだけでございますか?」


「ああ」


「ご自身を傷つけたいお気持ちは、今はございませんか?」


 レドは一度、ガイルを見る。


 ガイルは目を逸らさない。


「ない」


 レドは先ほどよりも、はっきり答えた。


「死にたいんじゃない」


 卓へ視線を落とす。


「死んだ奴を置いて、俺だけ笑ってるのが嫌だっただけだ」


「承知いたしました」


 リリアは、それ以上追及しない。


「ただ、今後そのお気持ちが変わった時は、ガイル様でも、店の者でも構いませんので、お一人で抱えずにお話しください」


「来店していなくてもか」


「入口までお越しいただければ、対応できる者がいるか確認いたします。必ず同じ者がお話を伺えるとは限りませんが、危険があると分かった状態で、お一人のままお帰しすることはいたしません」


 レドは答えなかった。


 だが、拒むような表情ではなかった。


 リリアが二杯目を用意するため、席を離れる。


 ガイルは低い声で言った。


「ここへ連れてきてよかった」


「まだ分からん」


「何がだ」


「次も来たいと思うか」


「思わなくてもいい」


「紹介した奴が言うことか」


「お前のために連れてきた。店の客を増やすためじゃない」


 レドはガイルを見る。


「店の奴も、同じことを言いそうだな」


「どうだろうな」


「言うだろ」


 ガイルはビールを飲んだ。


「少なくとも、無理に会員へはしない」


「一度来ただけでは駄目なのか」


「本人がなりたいと言っても、店が判断する」


「随分偉そうな店だ」


「そう思うなら、無理に来なくていい」


「お前、客を増やしたいのか減らしたいのか、どっちだ」


「俺は店主じゃない」


 ガイルは笑う。


「ただの客だ」


「ただの客が、初めて来た奴へ店の考え方を説明するのか」


「信頼されてる客だからな」


「自分で言うな」


 二人の会話を、リリアは少し離れたところから見ていた。


 声の大きさ。


 表情。


 杯を持つ手。


 レドは来店時よりも肩の力が抜けている。


 ガイルも、必要以上に慎重な言葉を選ばなくなっていた。


 リリアは酒を持って席へ戻る。


「お待たせいたしました」


 二杯目を置き、水も新しくする。


「何か追加でお持ちいたしましょうか」


「さっきの煮込みを、もう少し」


 レドが言った。


「承知いたしました。同じ量でよろしいですか?」


「少なめでいい」


「かしこまりました」


「あと」


 レドがリリアを呼び止める。


「先ほど話したこと」


「はい」


「忘れなくてもいい」


 リリアは静かに続きを待つ。


「でも、次に来た時、俺から話さなかったら聞かないでくれ」


「承知いたしました」


「料理を作った奴の名前は覚えておく」


「ルークです」


「そうだった」


 レドは僅かに笑った。


「それは次も聞くかもしれない」


「その時は、お答えいたします」


 営業終了が近づく頃、レドの杯には果実酒が少し残っていた。


 飲み切るよう勧める者はいない。


 入場料を払ったのだから長く滞在しろとも言われない。


 もう一杯頼めとも、高い酒を試せとも求められない。


 ガイルが店内の時計を確認する。


「そろそろ帰るか」


「ああ」


 レドは立ち上がる。


 僅かに身体が揺れた。


 ディーノがすぐ近くへ移動する。


 酒によるものではなく、長く座っていたためだと判断し、すぐには身体へ触れない。


「お足元にお気をつけください」


「大丈夫だ」


「承知しました」


 入口では、ロイが預かっていた剣を返す。


 番号札と照合し、鞘や革紐に異常がないことも確認する。


「お預かりした時と変わりございません。ご確認をお願いいたします」


 レドは剣を受け取り、革紐へ手を触れた。


「問題ない」


「ありがとうございます」


 リリアも入口へ出る。


「本日はご来店いただき、ありがとうございました」


 レドは店内を振り返った。


 使った卓は、まだ片づけられていない。


 二つの杯。


 水差し。


 少し残った果実酒。


 空になった料理の器。


 そこで過ごした時間が、そのまま残っている。


「俺、ほとんど何も話してないな」


 レドが言った。


 ガイルが眉を上げる。


「十分話してただろ」


「最初は」


 レドはリリアを見る。


「最初は、何も話さなかった」


「はい」


「それでも金を取るのか」


 冗談なのか、本気なのか分かりにくい問いだった。


 リリアは僅かに考える。


「お酒とお料理を召し上がり、お席でお過ごしいただいた代金は頂戴いたします」


「正直だな」


「ただ、お話しになった量によって料金が変わることはございません」


「一言ごとに金を取られたら困る」


「そのような仕組みはございません」


 レドは初めて、声を出して笑った。


 大きな笑いではない。


 それでも店へ入った時にはなかった表情だった。


 笑った直後、僅かに顔が曇る。


 自分が笑ったことへ、後ろめたさを覚えたのかもしれない。


 リリアは、その笑顔を褒めなかった。


 元気になったとも言わない。


 ただ、いつもどおり帰りの挨拶を続ける。


「お帰りの道中も、お気をつけください」


「ああ」


「また来いとは言わないのか」


「お越しになりたいと思われた時は、ガイル様とご一緒にお越しください」


「来たくなければ?」


「無理にお越しいただく必要はございません」


「本当に客商売か?」


 ガイルが隣で笑う。


「ここは、そういう店だ」


 レドは扉の外へ一歩出る。


 夜風が革鎧の隙間へ入り込む。


 少し冷たかった。


「今日は」


 レドが足を止めた。


「初めて、静かにあいつのことを思い出せた」


 リリアは何も挟まず、続きを待つ。


「宴では、笑ってやらないと悪いと思った。宿では、一人になると最後の顔ばかり浮かんだ」


 レドは暗い通りを見る。


「ここでは、鍋を作ってた時のことを思い出せた」


 雨に濡れた森。


 なかなかつかない火。


 塩を入れすぎた煮込み。


 料理がうまいと言い張る仲間。


 死んだ瞬間だけではなく、生きていた時の姿を思い出せた。


「お話しくださり、ありがとうございます」


 リリアは深く頭を下げた。


 自分が何かを治したとは思わない。


 悲しみが消えたわけでもない。


 ただ、思い出すための時間を急かさずに守れた。


 それだけだった。


「また来るかもしれない」


 レドが言う。


「はい」


「会員になれるかは、店が決めるんだったな」


「はい。次回もガイル様とご一緒にお過ごしいただき、その後、レド様のご希望と店内でのご様子を確認して判断いたします」


「面倒だな」


「申し訳ございません」


「謝るところじゃない」


 三度目の言葉だった。


 リリアも、今度は少しだけ笑う。


「失礼いたしました」


 ガイルとレドが通りの先へ歩いていく。


 ロイは二人の足取りを確認する。


 どちらも一人で歩けている。


 ガイルが同行しているため、さらに人をつける必要もない。


 二人の背中が見えなくなってから、扉を閉めた。


 営業後。


 片づけを終えた仲間たちが、レドの座っていた卓へ集まった。


 レンは営業記録を開く。


「初来店客一名。紹介者はガイル。酒量に問題なし。規則違反なし」


 ノアが必要な項目だけを書き留める。


「店内で必要となる配慮はございますか?」


 その問いに、リリアは少し考えた。


「次に来店された時も、賑やかな卓へ無理に案内しない方がよいと思います」


「理由は残しますか?」


「いいえ」


 リリアは答える。


「静かに過ごせる席を希望、とだけお願いいたします」


「分かりました」


 ノアは、それだけを記す。


 仲間を失ったこと。


 宴が苦しかったこと。


 死にたいわけではないと話したこと。


 料理から思い出した出来事。


 それらは書かない。


 ただし、命に関する問いが出たため、リリアはレンと黒服へ、安全確認に必要な部分だけを口頭で共有した。


 レドが境界を確かめるために質問したこと。


 本人へ改めて確認し、現時点では自分を傷つける意思がないとはっきり答えたこと。


 次に来店した際、様子が大きく変わっていれば、一人にせず安全を確認する必要があること。


 会話の内容を細かく再現するのではない。


 危険を見落とさないために必要な部分だけを伝える。


 レンは真剣に聞いた。


「その判断でよかったと思う」


「お客様のお話を、ほかの方へ伝えてしまいました」


「全部は話してないだろ」


「はい」


「命に関わる可能性を感じたなら、一人で抱え込まない方がいい」


 レンはリリアを見る。


「秘密を守ろうとして、リリアまで一人で悩むことになったら、それも違う」


「はい」


「ただ、次に来た時、本人が何も言わなければ、こちらから仲間の話を出す必要はない」


「承知しました」


 少し離れたところにいたエルナが口を開く。


「私が担当してたら、たぶん何か話さなきゃって焦ってたと思う」


「エルナさんなら、レド様の様子を見ながら考えられたと思います」


 リリアが言う。


「でも、沈黙が続いたら怖くない?」


「最初は、少し不安でした」


「何もしてないって思われそうで?」


「はい」


 リリアは正直に答えた。


「ですが、何も話していない時間にも、お水やお酒の減り方、表情、お料理へ手を伸ばす様子を見ることはできました」


「黙ってても接客してたんだ」


「そうだと思います」


 レンが頷く。


「沈黙を放置するのと、沈黙を守るのは違う」


 エルナはその言葉を考える。


「守るって、何から?」


「何か話さなければならないという焦りから」


 セレナが静かに答えた。


「周囲と同じ反応をしなければならないという不安からも、かもしれません」


 ミーナも、自分が担当した頃のオスカーを思い出す。


 オスカーは以前、沈黙が生まれるたび、何か立派なことを話さなければならないと緊張していた。


 ミーナ自身も、会話を続けられなければ接客に失敗したと思っていた。


「私も、話題がなくなったらすぐ質問していました」


 ミーナが言う。


「質問される方が安心するお客様もいらっしゃいます」


 リリアは答えた。


「ですが、少し考えてから話したい方もいらっしゃるのだと思います」


「結局、相手を見るしかないんだね」


 エルナが言う。


「はい」


「難しい」


「はい」


 リリアも同意した。


 正解は一つではない。


 静かな客には黙る。


 賑やかな客には盛り上げる。


 そのような単純な分け方ではなかった。


 話したいけれど、急かされたくない者。


 笑いたいけれど、笑った自分を責める者。


 何も聞かれたくないが、一人にはなりたくない者。


 一人の客の中にも、いくつもの気持ちが同時にある。


「前夜に空いていた席を、今日はレド様が使われました」


 ノアが記録を書き終えて言った。


「うん」


 エルナは卓を見る。


 客が座らなかった時には、店が選ばれなかった証拠に見えた。


 今夜は、一人の客が仲間を思い出すために必要な場所になった。


「満席じゃなくても、必要な人が座れるなら意味があるんだね」


 レンはすぐには頷かなかった。


「そうだな。ただ、空席なら何でもいいわけじゃない」


「分かってる。店を続けるには、客に来てもらわないと駄目」


「ああ」


「でも、席を埋めるためだけに誰でも座らせるんじゃなくて、その人が安心して過ごせる席にする」


「それができればいいと思う」


 エルナは卓の上へ残った水滴を拭く。


「今日の人、また来るかな」


「分かりません」


 リリアが答える。


「来てくださるかもしれませんし、今日だけで十分だったと思われるかもしれません」


「来てほしい?」


「はい」


 迷わず答えた。


「ですが、次に来店されなくても、今夜の時間がレド様にとって必要なものだったのでしたら、よかったと思います」


 エルナは少しだけ笑う。


「リリアらしいね」


「そうでしょうか」


「うん。私は、もっと強くまた来てほしいって思っちゃう」


「私も思っております」


「本当に?」


「はい」


「じゃあ同じじゃない」


「来てほしいと思うことと、来るよう求めることは違います」


「細かい」


「大切な違いです」


 相手にとって大切な違いを、違いのまま受け止める。


 今夜のリリアは、それを客の言葉や沈黙から何度も確かめていた。


 片づけが終わり、店内の灯りが一つずつ消される。


 レドが使った卓も、再び何も置かれていない状態へ戻った。


 明日、誰が座るかは分からない。


 賑やかに笑う客かもしれない。


 仕事の相談をする商人かもしれない。


 ただ静かに酒を飲みたい冒険者かもしれない。


 Club Moon Dropは、客が何を話すかを先に決めない。


 何を感じるべきかも決めない。


 笑いたい時に笑い。


 黙りたい時に黙り。


 話したくなった時に、自分の言葉で話せる。


 そのための席を整えて待つ。


 同じ夜。


 ルミエールでは、フィオナが一人の客を担当していた。


 相手は、ガイルたちと同じ冒険者ギルドを利用する若い槍使いだった。


 男が注文しているのは高級酒ではなく、安価なエールだった。


「昨日、仲間の戦功祝いがあったんだ」


 男は杯を傾ける。


「大勢集まってな。皆、勝った勝ったって騒いでた」


「大きな依頼だったのですか?」


 フィオナが尋ねる。


「ああ。一人死んだが、村は助かった」


 男は僅かに声を落とした。


「死んだ奴と親しかった男がいてな。途中で宴から消えたんだ」


 フィオナの手が止まる。


「その方は、大丈夫なのでしょうか」


「ガイルが連れていったらしい」


「どちらへ?」


「Club Moon Dropだ」


 フィオナは、その店の名を知っていた。


 キャストが無理な酒を断れる。


 問題客へ黒服が対応する。


 静かに会話を楽しめる。


 自分を継続して指名するハインツからも、何度か話を聞いている。


「賑やかな宴が嫌だって奴を、酒の店へ連れていってどうするんだと思ったが」


 槍使いはエールを一口飲む。


「今朝会ったら、少し顔がましになってた」


「何を話したのですか?」


「知らん。本人も詳しくは言わなかった」


「そうですか」


「話さなくてもよかったらしい」


 フィオナは聞き返した。


「話さなくても?」


「ああ。何も言わなくても、席にいてよかったって」


 フィオナには、その接客がすぐには想像できなかった。


 客席へつけば話題を探す。


 沈黙が生まれれば、自分の接客が足りないと判断される。


 客の仕事。


 家族。


 望み。


 不満。


 できるだけ多く聞き出し、営業後には報告用紙へ記す。


 それが、今のルミエールで求められている接客だった。


「何も話さないお客様に、接客係は何をするのでしょう」


 フィオナが呟く。


「さあな」


 槍使いは肩をすくめた。


「でも、そいつは初めて落ち着いて仲間を思い出せたって言ってた」


 フィオナは返事をしなかった。


 客が話さなくても、価値を失わない店。


 接客係が情報を持ち帰らなくても、仕事をしていないと責められない店。


 悲しい時に、笑顔を求められない場所。


 そんな店が、本当にこの街にある。


 男の杯に残るエールが少なくなっている。


 フィオナは反射的に、追加の酒を勧めようとした。


 しかし、その前に男が首を横へ振る。


「今日はこれでいい」


 以前なら、もう一杯だけでもと勧めていたかもしれない。


 顧客帳には、この客が仲間の戦功祝いを終えた翌日だと記録できる。


 勝利を祝う酒として、高級酒を勧める理由にもできる。


 だがそれは、仲間を一人失った勝利だった。


「承知いたしました」


 フィオナは追加の酒を勧めなかった。


「お水をお持ちいたします」


 席を立ちながら、もう一度、Club Moon Dropという名を心の中で繰り返す。


 賑わいから逃げてきた者が、話さないまま座っていられる店。


 自分が何も聞き出さなくても、責められない店。


 フィオナはまだ、その扉の中を知らない。


 それでも休みの日に一度だけ、外から見てみたいと思い始めていた。

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