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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第6章 光が崩れ、月明かりが生まれる

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第121話 空席が問いかけるもの

 夜営業の開店時刻を迎えても、Club Moon Dropの客席には二つの空席が残っていた。


 四人掛けの卓が四つ。


 そのうち、埋まっているのは二つだけだった。


 入口に近い卓には、アルフレッドとオスカーが座っている。


 アルフレッドは冷やした果実酒をゆっくりと飲み、オスカーはミーナへ、先日初めて一人で取引先へ挨拶へ行った話をしていた。


 奥の卓では、リオネルと二人の商人が、ルークの作った鶏肉料理を分けながら、街道沿いの宿について話している。


 どちらの卓も穏やかだった。


 笑い声もある。


 料理の注文も入っている。


 客が不満を抱いている様子はない。


 それでも、空いている二卓の存在は、店内のどこにいても目に入った。


 エルナは空いた卓の布を整えながら、入口へ視線を向けた。


 扉が開く気配はない。


 受付近くでは、ロイが登録帳を確認している。


 ディーノは厨房から運ばれてきた料理を受け取り、リオネルたちの卓へ向かうところだった。


 レンはカウンターの内側で、酒瓶の残りと氷の量を確認している。


 誰も空席について口にしていない。


 だからこそ、エルナには余計に気になった。


「まだ来るよね」


 小さく呟く。


 隣で、リリアが新しい布巾を畳んでいた。


「予約されている方は、あとお一人いらっしゃいます」


「一人だけ?」


「はい」


「そうなんだ」


 エルナは明るく答えようとした。


 だが、思ったより声が小さくなった。


 普段なら、夜営業の開始前から予約が重なることもある。


 入口で会員証を確認している間に、別の客が到着することも珍しくない。


 四卓すべてが埋まり、次の予約客をどの時間へ案内するか相談する夜もあった。


 しかし今夜は違う。


 店内を歩く黒服の動きにも余裕がある。


 厨房から料理が出ても、運ぶ順番に迷うことはない。


 接客係たちも、自分の担当卓だけへ集中できている。


 本来なら、悪いことではない。


 客を急かさず、丁寧に対応できる。


 それでもエルナは、空いた椅子を見るたびに、そこへ誰も座らない理由を考えてしまった。


「ルミエールかな」


 エルナが言う。


 リリアの手が止まる。


「何がですか?」


「来てない人たち」


「そうかもしれません」


 否定されなかったことで、胸の奥が少し沈む。


「やっぱり、そう思う?」


「新しいお店ですから、一度見てみたいと思う方はいらっしゃると思います」


「一度だけならいいけど」


 エルナは空席へ視線を戻した。


「向こうの方が楽しいって思われたら、そのまま来なくなるかもしれないよね」


「それは……」


 リリアはすぐには答えなかった。


 無理に安心させる言葉を選ばないところが、彼女らしかった。


 ルミエールには、Club Moon Dropにはないものがある。


 広い舞台。


 歌。


 踊り。


 大勢で酒を飲む賑わい。


 高級な衣装。


 次々と入れ替わる演目。


 派手な時間を求める客にとって、魅力のある店であることは確かだった。


 ガイルたちも、実際に舞台と料理の良さを認めていた。


 だからこそ、ただの一時的な珍しさだと言い切ることもできない。


「私たちも、何かした方がいいのかな」


 エルナが言った。


「何か、とは?」


「もっと目立つこと」


 リリアはエルナを見る。


「例えば?」


「歌を増やすとか。衣装を派手にするとか。お酒を安くするとか」


「エルナさんは、それをしたいのですか?」


「したいかどうかじゃなくて、必要なら」


「必要なら、ですか」


「だって、客が来なくなったら店は続かないでしょう?」


 エルナの声は小さかった。


 それでも、近くにいたロイには聞こえたらしい。


 登録帳から顔を上げた。


 レンも酒瓶を置き、二人へ視線を向ける。


 エルナは、皆に聞かれたことへ気づき、少しだけ肩をすくめた。


「別に、今すぐ何かしようって言ってるわけじゃないよ」


「分かってる」


 レンが答える。


「ただ、今の話は営業後に皆で考えよう」


「うん」


「今は、来てくれている客へ集中しよう」


 責める言い方ではなかった。


 エルナも頷いた。


「分かった」


 その時、入口の扉が開いた。


 全員の視線が一瞬だけ向かう。


 入ってきたのは、予約していた正式会員の商人だった。


 ロイが入口へ進み、会員証を確認する。


「お待ちしておりました」


 客を迎える声が店内へ響く。


 空席が一つ埋まる。


 エルナは、自分が安堵したことに気づいた。


 客が来たことが嬉しい。


 それは以前から同じだった。


 だが今は、客本人を迎えたいという気持ちだけではない。


 席が埋まったことへ安心している。


 その違いが、少し嫌だった。


「エルナさん」


 リリアが呼ぶ。


「こちらのお客様、エルナさんをご希望です」


「あ、うん」


 エルナはすぐに笑顔を作った。


 しかし一歩進んだところで、先ほどの自分の考えが頭へ残っていることに気づく。


 この客が高い酒を頼んでくれたら。


 長く滞在してくれたら。


 次も来てくれたら。


 そんなことばかり考えてしまいそうになる。


 エルナは一度だけ息を整えた。


 それから、普段どおりの声で客へ挨拶した。


「こんばんは。今日はお一人なんですね」


「ああ。取引先を連れて来ようと思っていたんだが、仕事が長引いたらしい」


「それは残念でしたね。でも、今日は一人でゆっくり飲めますよ」


「そう思って来た」


 客は空いている店内を見渡す。


「今夜は静かだな」


 エルナの胸が僅かに縮む。


 客が不満を言ったわけではない。


 それでも、空席を指摘されたように感じた。


「新しい店へ行っている方も多いみたいです」


 言ってから、余計なことを話したと思った。


 客はエルナを見る。


「ルミエールか」


「はい」


「私も先日行ったよ」


 エルナの笑顔が僅かに固くなる。


「そうなんですね。どうでした?」


「華やかだった」


「やっぱり?」


「舞台は見事だった。あれほど大勢の演奏者と踊り手を一度に見られる店は、この街にはなかったからな」


「楽しかったですか?」


「楽しかったよ」


 客は迷わず答えた。


 エルナは、自分で尋ねたことを少し後悔した。


 しかし客は、空いている椅子へ視線を向けた後、続けた。


「ただ、今日はあちらへ行く気にはならなかった」


「どうしてですか?」


「昨日まで、取引先と三日続けて会食していた。今日は誰かに大声で話しかけられず、静かに飲みたかった」


「じゃあ、ここに?」


「ああ」


 客は小さく笑う。


「店には、向いている夜と向いていない夜があるらしい」


 エルナはその言葉を聞き、僅かに肩の力を抜いた。


 ルミエールへ行った客が、Club Moon Dropを嫌いになったわけではない。


 あちらを楽しんだからといって、こちらが不要になるわけでもない。


「今日は、話したい夜ですか?」


 エルナが尋ねる。


「今のところは、少しだけな」


「じゃあ、少しだけ話して、飲みたくなったらゆっくり飲みましょう」


「エルナは、少しだけで止められるのか?」


「止められますよ」


「本当か?」


「たぶん」


「たぶんか」


 客が笑う。


 エルナも自然に笑った。


 空席のことを忘れたわけではない。


 だが目の前の客が、なぜ今夜ここへ来たのかは分かった。


 それだけで、先ほどより接客へ集中できた。


 営業時間の半ばを過ぎても、最後の一卓は空いたままだった。


 途中で予約のない客が訪れることもなかった。


 厨房では、ルークが仕込んだ料理の一部を翌日へ回せるよう保存し始めている。


 ティアはまだ正式な調理を任されていないが、洗い終えた器具を布で拭きながら、何度も客席を見ていた。


「気になる?」


 ルークが尋ねる。


「何がですか?」


「空いてる席」


 ティアは少し迷った後、頷いた。


「料理が余りますか?」


「少しはな」


「私が洗った野菜も?」


「明日の昼に使えるものは使う。全部が無駄になるわけじゃない」


「でも、予定より少ないんですよね」


「ああ」


 ルークは鍋の蓋を閉める。


「だから、明日の仕込み量を少し変える」


「減らすんですか?」


「今日だけなら、大きくは減らさない。何日か続くなら、注文の記録を見て決める」


「お客様が戻ってきたら、足りなくなりませんか?」


「それも困るな」


 ティアは真剣に考え込む。


「難しいです」


「難しいよ」


 ルークは苦笑した。


「作れば喜んでもらえると思っていた頃より、作る量を考える方が難しいかもしれない」


「たくさん作るだけでは駄目なんですね」


「残せば食材を無駄にする。少なすぎれば、頼みたい客へ出せない」


 ルークは客席へ視線を向けた。


「厨房も、客の数だけを見ればいいわけじゃない。何を食べたか、何時に頼んだか、どの酒と合わせたか。それを見て次を考える」


「ルミエールの帳簿みたいですか?」


 ティアの問いに、ルークの手が止まる。


 ルミエールで客の会話まで記録していることを、Club Moon Dropの者たちはまだ知らない。


 ティアが言ったのは、客数や注文数を残す帳簿のことだろう。


「似ている部分はある」


 ルークは答えた。


「でも、何を残すかは大事だ」


「料理の注文は残していいんですか?」


「客が何を頼んだかは、次の仕込みに必要だからな」


「家族の話は?」


「料理とは関係ないだろう」


「誕生日だから甘いものを頼んだ場合は?」


 ルークは少し考える。


「その日に誕生日を祝ったことまで、ずっと残す必要はないと思う。甘いものがよく出た日としては記録するかもしれない」


「違うんですね」


「ああ」


「何が違うんですか?」


 ルークはすぐには答えられなかった。


 やがて、慎重に言葉を選ぶ。


「店が次に料理を用意するために必要なことか、その人の中だけへ残していいことか、だと思う」


 ティアは理解しようとするように何度か頷いた。


 客席では、ミーナがオスカーの話を聞いている。


 オスカーは自分が取引先へ挨拶した際、声が小さくなったことを恥ずかしそうに話していた。


 ミーナは笑わない。


 帳簿へ書くこともない。


 ただ、次に会った時に本人が続きを話したなら、覚えているだろう。


 ルークは、その違いをうまく説明できたか分からなかった。


 営業終了の時刻が近づく。


 最後まで使われなかった卓には、汚れ一つない布がかかったままだった。


 客たちを見送った後、ロイとディーノが椅子を確認する。


 客が座らなかった席でも、脚の緩みや床の傷みは見る。


 使われなかったからといって、確認しなくてよいわけではない。


 リリアたちは杯を集め、ルークとティアは厨房の片づけを進める。


 レンは入口の鍵を閉めた後、皆へ声をかけた。


「少しだけ話そう」


 スタッフたちが一卓へ集まる。


 空いていた卓だった。


 エルナは、営業中に客が座らなかった椅子へ腰を下ろす。


 自分たちが座ると、四人掛けの卓はすぐに狭く感じた。


 レン。


 リリア。


 エルナ。


 セレナ。


 ミーナ。


 ロイ。


 ディーノ。


 ノア。


 ルーク。


 ティア。


 全員が一つの卓には収まらず、隣の卓も使うことになった。


「今日の来店は三組」


 レンが話し始める。


「予約が四組で、一組は仕事の都合で来られなかった」


「いつもより少ないですね」


 ミーナが言う。


「ああ」


 レンは否定しない。


「最近の記録を見ても、夜の来店数は少し下がっている」


 エルナが視線を落とす。


「やっぱり、ルミエールに取られてる?」


「一部はそうだと思う」


 レンは答えた。


 慰めるために曖昧な言い方はしなかった。


「正式会員の中にも、向こうを利用している人がいる」


「誰が行ったか、分かるの?」


「本人から話を聞いた人もいる。ガイルたちのように、見に行くと最初から言っていた人もいる」


 ノアが手帳を開く。


「予約の変更理由として、ルミエールを利用すると伝えた方は三名です」


「三人だけ?」


 エルナが尋ねる。


「明確に伝えた方は三名です。理由を言わず予約を入れなかった方は分かりません」


「じゃあ、もっといるかも」


「はい」


 ノアは淡々と答える。


「逆に、ルミエールとは関係なく、仕事、遠方への移動、体調、家族の用事で来店できない方もいます」


 ノアは別の頁を開いた。


「過去の利用回数が多い正式会員のうち、今月まだ来店していない方は七名です」


「七人……」


「そのうち、三名は街にいません。一名は体調不良。二名はルミエールを利用したことが確認できています。残る一名は理由不明です」


 エルナは顔を上げる。


「ちゃんと分けてるんだ」


「同じ『来ていない』でも、理由が違いますから」


 ノアの答えに、レンが頷く。


「客が少ないという結果だけで、全員が向こうへ移ったと決めるのは早い」


「でも、減ってるのは本当でしょう?」


「ああ」


「なら、何かしないと」


 エルナは昼間より強い声で言った。


「何もしないまま待ってて、戻ってこなかったら遅いよ」


「そうだな」


 レンの返答に、エルナは少し驚く。


「じゃあ、何をする?」


「まず、何が変わったのかを見る」


「客が減った」


「それ以外に」


 レンは皆を見る。


「予約の取りやすさ。来店する時間。滞在時間。注文。指名。紹介の数。客が帰る時に何を話したか」


「会話の内容も記録するの?」


 ミーナが不安そうに尋ねる。


「相談内容は残さない」


 レンはすぐに答えた。


「家族の事情や仕事の悩みも書かない。帰り際に、店の利用について言ったことだけだ」


「例えば?」


「今日は静かに過ごせた。また来たい。料理が出るまで少し待った。予約が取りにくかった。そういう、店を改善するために本人が伝えた感想だ」


「本人が伝えたことだけ?」


「こちらから無理に聞き出す必要はない」


 ノアも補足する。


「すでに、料理の提供時間や予約を断った回数は記録しています」


「予約を断った回数?」


 エルナが尋ねる。


「ここ十日で、希望時間へ案内できなかった方が五組います」


「今は空いてるのに?」


「ルミエールが開店する前の分も含みます。特定の曜日と時間へ集中しています」


 ノアは手帳を卓へ置いた。


「客が減った日がある一方で、案内できず断っていた日もあります」


 エルナは記録を覗き込む。


「じゃあ、店が嫌で来なくなったわけじゃなくて、来たい時に入れなかった人もいる?」


「可能性はあります」


「でも、今夜は空いてた」


「今夜空いていることと、前に断ったことは別です」


 ノアの言葉に、エルナは黙った。


 レンは続ける。


「空席を埋めるために、すぐ値下げすることはしない」


「どうして?」


「今来てくれている客と、これまで通常料金で利用してくれた客へ説明ができないからだ」


「期間限定なら?」


「安い時だけ人を集めても、その後どうする?」


「じゃあ、派手なことは?」


「派手なこと自体が悪いわけじゃない」


 レンはセレナとミーナを見る。


「歌や演奏を増やすこともできる。特別な料理を作ることもできる」


 ルークが僅かに姿勢を正す。


「ただ、空席を埋めるためだけに行えば、目的が変わる」


「目的?」


「客へ楽しんでもらうためではなく、席を埋めたという結果を作るためになる」


 エルナは、昼間の自分を思い返した。


 客が来た時、本人を迎えられたことより、空席が埋まったことへ安心した。


「それは、駄目なの?」


「駄目と決めつけるつもりはない」


 レンは答える。


「店を続けるには売上が必要だ。席が空き続ければ、何も考えずに済ませることはできない」


「なら、やっぱり」


「でも、客を数字としてしか見なくなったら、Club Moon Dropが守ろうとしてきたものを失う」


 レンの言葉に、全員が静かになる。


「客数を見る。売上も見る。料理の残りも、酒の注文も見る。それは必要だ」


 レンはノアの手帳へ視線を落とした。


「ただ、数字を増やすために、何をしてもいいわけじゃない」


 ルミエールの方が売上は大きい。


 客数も多い。


 その事実を、レンは知らないわけではない。


 納品業者や客の話から、ある程度は伝わっている。


「向こうには、向こうを必要とする客がいる」


 レンが言う。


「大勢で騒ぎたい夜。舞台を見たい夜。祝い事を華やかに楽しみたい夜」


「今日のお客様も、楽しかったって言ってた」


 エルナが話す。


「でも今日は、静かに飲みたいからこっちに来たって」


「それでいいと思う」


「両方を使うってこと?」


「客が選べばいい」


「Club Moon Dropだけに来てほしいとは思わないの?」


 エルナの問いに、レンは少し考えた。


「来てほしいとは思うよ」


 素直な答えだった。


「皆が接客して、ルークが料理を作って、ロイとディーノが店を守っている。ここで過ごしたいと思ってもらえたら嬉しい」


「じゃあ」


「でも、客が別の店を楽しむことまで否定したくはない」


 レンは皆を見渡す。


「俺たちは、客を所有しているわけじゃない」


 エルナは小さく息をつく。


 客を奪われた。


 戻ってこないかもしれない。


 そう考えていた。


 しかし客は、最初からClub Moon Dropのものではない。


 紹介制の正式会員であっても、どの店へ行くかを選ぶ自由はある。


「選ばれなかったら?」


 エルナが尋ねる。


「理由を考える」


「向こうの方が派手だからだったら?」


「派手さを求める客へ、無理に静かな店を選ばせる必要はない」


「料理が遅いからなら?」


「改善する」


「予約が取りにくいからなら?」


「方法を考える」


「私の接客がつまらないからなら?」


 ディーノが僅かにエルナを見る。


 だが口は挟まなかった。


 レンも、すぐに否定しなかった。


「本人がそう感じたなら、どうすればもっと話しやすかったか考える」


「私じゃない人の方が合うなら?」


「別のキャストを案内する」


「それでいいの?」


「その客が安心して過ごせるなら」


 エルナは唇を結ぶ。


 自分を選んでほしい。


 指名されれば嬉しい。


 ほかのキャストではなく、自分と話したいと思ってもらいたい。


 その気持ちは消えない。


「でも、エルナを指名したい客もいる」


 ディーノが静かに言った。


 以前と同じ言葉だった。


 リリアと比べて悩んだ時も、ディーノは、実際にエルナを選んだ客がいるという事実を示してくれた。


「今夜の客も、エルナを希望した」


「分かってる」


「なら、その客へ向き合えばいい」


「分かってるけど」


 エルナは少しだけ笑う。


「同じこと、何回も言うね」


「同じことで悩んでいるからだ」


「言い方」


 重かった空気が少しだけ和らぐ。


 ロイが口を開いた。


「入口の側からも、確認したいことがあります」


「何だ?」


 レンが尋ねる。


「初来店の希望者が減ったかどうかです」


「紹介者を伴う客?」


「はい。正式会員の来店数だけを見ると、既存客が別の店を試している影響が大きく見えます。ただ、新しい紹介が止まっているなら、別の問題があります」


 ノアがすぐに手帳をめくる。


「紹介を伴う初来店客は、先月より二組少ないです。ただし、今月はまだ半分を過ぎていません」


「今の時点では、極端に減ったとは言えないな」


 レンが言う。


「はい」


「紹介制度を緩めれば増えると思う?」


 エルナが尋ねる。


 ロイは首を横へ振った。


「一時的には増えるかもしれない」


「でも?」


「店内で確認できない客が増えれば、今の空気を守れない可能性があります」


 ディーノも頷く。


「席が空いているからといって、誰でも入れるようにするべきではないと思います」


「私も、そう思う」


 リリアが言った。


「紹介者がいない方をお断りする時、申し訳なく感じることはあります。ですが、空席を埋めるために規則を変えれば、これまで守ってきた意味がなくなります」


「空いてるのに入れないって、怒られたら?」


「空席があることと、入店条件を満たしていることは別です」


 リリアの声は穏やかだった。


 だが迷いはない。


 以前、ゴードを前にした時には、断ることへ不安を抱いていた。


 今は、相手を思いやりながら規則を守れる。


 その姿を見て、エルナは少しだけ背筋を伸ばした。


「当面は、今の規則を変えない」


 レンが決める。


「料金も下げない。無理に演目を増やすこともしない」


「何もしないわけではないんだよね」


 エルナが確かめる。


「ああ」


 レンはノアへ視線を向ける。


「予約を断った時間帯をまとめてくれ。客が希望する曜日と時間を見直したい」


「分かりました」


「ロイとディーノは、受付と店内の動きを見て、空席があっても案内に時間がかかる場面がないか確認してほしい」


「承知しました」


「ルークは、来店数が少ない日でも無駄が出にくい仕込みを考えられるか?」


「やってみます。途中まで共通の仕込みにして、注文に合わせて仕上げる料理を増やせるかもしれません」


「ティアも一緒に記録を見てくれ」


「はい」


 ティアは緊張しながら返事をする。


「リリアたちは、客へ無理に感想を聞かなくていい。ただ、本人から店の使いにくさや希望を話されたら、営業後に共有してほしい」


「相談内容ではなく、店についてのことですね」


「そうだ」


「分かりました」


 レンは最後に、全員を見渡した。


「空席があることを、良いことだとは思わない」


 エルナは顔を上げる。


「店を続けるには、客に来てもらう必要がある。皆の給金も、食材も、建物の維持も、気持ちだけでは払えない」


 現実から逃げる言葉ではなかった。


「でも、空席があるからこそ、何をして埋めるのかを考えなければならない」


「何をしてもいいわけじゃない」


 ノアが言う。


「ああ」


 レンは空いた卓へ手を置く。


「この席へ、誰をどう座らせても同じではない」


 紹介者を確認する。


 泥酔した者は断る。


 客とキャストの相性を見る。


 安全に対応できる人数だけを迎える。


 Club Moon Dropは、空席を恐れながらも、空席を埋めることだけを目的にはしない。


「今夜の空席は、俺たちが何を大切にする店なのかを、もう一度考えるためのものだったと思う」


「負けた席じゃなくて?」


 エルナが尋ねる。


「結果だけを見れば、ほかの店を選ばれた席かもしれない」


 レンは答える。


「でも、次に誰かがここへ座った時、焦って別の店の真似をした場所ではなく、これまでどおり安心して過ごせる場所でなければ意味がない」


 エルナは空いていた椅子を見た。


 昼間は、その椅子に誰も座らないことが怖かった。


 今は少しだけ違って見える。


 空いているから、価値がないわけではない。


 次に迎える客のために、何を変え、何を変えないのかを選ぶ場所でもある。


「私、明るい接客は変えなくていい?」


「変えたいのか?」


「変えたくない」


「なら、変えなくていい」


「でも、話しすぎるところは直す」


「それは前から直そうとしていたな」


「今言わなくてもいいでしょう」


 皆から小さな笑いが起こる。


 エルナも笑った。


 空席への不安がなくなったわけではない。


 明日も客が少なければ、また気になるだろう。


 それでも、怖さだけで店を変える必要はないと分かった。


 話し合いが終わった後、皆は残りの片づけへ戻った。


 ノアは予約帳と営業記録を並べる。


 ルークは明日の仕込み量をティアと確認する。


 ロイとディーノは入口から客席まで歩き、案内時の動線を見る。


 リリアとミーナは使用した布を分け、セレナは演奏予定の曲を見直している。


 エルナは一人、最後まで空いていた卓の椅子を戻した。


 机との間隔を整える。


 布の端を揃える。


 明日、誰かが座るかもしれない。


 座らないかもしれない。


 それでも、迎える準備はしておく。


「エルナ」


 ディーノが呼ぶ。


「何?」


「椅子の位置、少し近い」


「そう?」


「通る時に足が当たる」


「直して」


「自分でできるだろう」


「気づいた人がやればいいでしょう」


 ディーノは何も言わず、椅子を僅かに引いた。


 エルナはその位置を確かめる。


「うん。これくらい」


「最初からできたな」


「一緒に確認した方が安心するの」


「仕事の話か?」


「今は仕事の話」


「今は?」


「細かい」


 エルナは笑いながら布を整えた。


 その頃。


 店の外では、一人の男がClub Moon Dropの看板を見上げていた。


 年齢は三十歳前後。


 擦れた革鎧。


 肩から下げた剣。


 冒険者であることは一目で分かる。


 だが、その男は入口へ近づこうとはしなかった。


 少し離れた場所で立ち止まり、店の灯りを見ている。


 隣にはガイルがいた。


「今日はもう終わりだ」


 ガイルが言う。


「そうか」


 男は短く答えた。


「明日なら、俺が一緒に入れる」


「別に、酒が飲みたいわけじゃない」


「分かってる」


「賑やかな店は嫌だ」


「ここは、静かな日もある」


「静かすぎるのも困る」


「面倒な奴だな」


 男は怒らなかった。


 ただ、疲れたように目を伏せる。


「仲間が死んだのに、皆が祝いの酒を飲んでる」


 ガイルの表情から、僅かに笑みが消えた。


「勝ったからな」


「勝ったのは分かってる」


「お前の仲間がいたから勝てた」


「だから、笑って飲めって言われた」


 男はClub Moon Dropの閉じた扉を見る。


「俺は、何を話せばいい」


「話したくなければ、話さなくていい」


「酒場で?」


「ああ」


 男は信じられないようにガイルを見る。


「そんな店があるのか」


「俺が紹介する」


 店内では、明日誰かを迎えるために、空いていた席が整えられている。


 その席を必要とする者が、すでに扉の外まで来ていた。

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