第120話 数字の上では勝者
バルド酒商会の本館には、朝早くから幹部たちが集まっていた。
商会が扱う酒の仕入れ量。
各酒場への納品状況。
王都から運ばれてくる高級酒の販売数。
倉庫に残る在庫。
代金の回収状況。
月に一度行われる定例会議では、それぞれの部署が帳簿を持ち寄り、商会全体の動きを確認する。
会議室の中央には、長い卓が置かれている。
最も奥へ座るのは、会長であるバルド・グランツ。
その左右へ、仕入れ、運搬、倉庫、販売を預かる幹部たちが並ぶ。
カイル・バルドンの席は、バルドから見て右側の三番目だった。
以前と同じ位置。
だが、その日のカイルの前には、ほかの幹部よりも多くの帳簿が積まれていた。
ルミエールの来店者数。
入場料。
酒の販売本数。
料理の注文数。
接客係ごとの指名と売上。
舞台演目ごとの観客数。
王都から仕入れた高級酒の消費量。
そして、Club Moon Dropとの売上比較。
カイルは会議が始まる前から、何度もその数字へ目を通していた。
すでに内容は頭へ入っている。
それでも、数字が書き換わっていないことを確かめるように、頁をめくる。
「全員、揃ったか」
バルドの声で、室内の私語が止まった。
「始めよう」
最初に、倉庫責任者から在庫について報告が行われる。
続いて、運搬担当が街道の状態と荷車の修繕費を説明する。
今年は南部の一部で雨が少ないらしく、穀物酒の原料価格が上がる可能性も報告された。
その話を聞き、カイルは僅かに指を動かした。
ルミエールの顧客帳へ、同じ内容がすでに記録されている。
南部の収穫不足を心配する穀物商。
王都の倉庫利用について不満を漏らした取引仲介人。
複数の客から同じ情報が集まれば、仕入れ量を早めに調整できる。
エドガーの提案した顧客帳は、すでに利益へつながり始めていた。
やがて通常の報告が一通り終わる。
「次は、ルミエールについてだ」
バルドが言った。
幹部たちの視線がカイルへ集まる。
カイルは待っていたように立ち上がった。
「開店以降の集計を報告します」
最初の帳簿を開く。
「ルミエールの来店者数は、開店日を除いても増加傾向にあります。直近十日間の平均来店者数は、Club Moon Dropの夜営業を大きく上回りました」
「建物の規模が違う」
仕入れ担当の幹部が言う。
「人数だけを比べても意味は薄いのではないか」
「承知しています」
カイルは落ち着いて答えた。
「そのため、一人当たりの利用額も算出しました」
別の紙を広げる。
「入場料を含めた平均利用額でも、ルミエールが上回っています」
会議室の空気が僅かに変わる。
単に大勢を入れているだけではない。
一人から得る金額も多い。
それは商売として明確な成果だった。
「理由は三つあります」
カイルは続ける。
「第一に、入場料。第二に、舞台演目へ合わせた酒と料理の販売。第三に、指名と順位制度による追加注文です」
「順位制度?」
別の幹部が尋ねる。
「接客係の指名数、酒の売上、贈り物、舞台へ集めた客数を評価し、順位をつけています。上位者には特別衣装と報奨金を与える」
「下位は?」
「報奨金の対象外です。必要に応じて担当や舞台位置を見直します」
「競わせているのか」
「努力が結果へ反映される仕組みです」
カイルは迷わず言った。
「誰を指名するかを客が選び、客から選ばれた者が評価される。公平な制度です」
幹部の一人が、帳簿を覗き込む。
「高級酒の販売数が随分多いな」
「接客係へ、客の祝い事や仕事上の成功に合わせて提案させています」
「以前より動きが早い」
「客が何を望んでいるか、顧客帳へ残すようにしました」
カイルは新しい帳簿も卓へ置いた。
表紙には、ルミエール顧客管理帳と記されている。
「好む酒。同行者。職業。家族。最近の関心。成功した取引。悩んでいること。次回来店時に提案できる商品。それらを接客係と黒服から報告させています」
「随分と細かいな」
「細かいからこそ使えます」
カイルは頁を開く。
「例えば、新しい取引を成立させた客には、成功を祝う酒を提案する。家族の祝い事が近い客には、贈り物や宴席を案内する。商談相手を探している者同士なら、互いの利益になる形で来店日を合わせることもできる」
「客の会話まで商売へ使うのか」
グレゴールが尋ねた。
セレナの過去を意図せず明かしてしまった後、以前より言葉の扱いへ慎重になっている。
「客が自ら話した内容です」
カイルは答えた。
「聞いたまま忘れる方が、商売として無責任です」
「客本人は、帳簿へ残されると知っているのか?」
「接客のために必要な情報を店内で管理しています」
「答えになっていない」
グレゴールはカイルを見る。
「知らせてはいないのだな」
「知らせれば、本音を話さなくなる客もいます」
「それは、本音を話したい相手と、帳簿へ残したい相手が同じではないからではないか」
「店を通して接客係と話しています。接客係だけのものではありません」
カイルの返答に、グレゴールは眉を寄せた。
「人の話を、誰かの所有物のように言うな」
「所有物ではありません。情報です」
「同じだろう」
「違います」
カイルの声は冷静だった。
「情報は、正しく使えば客の利益にもなる」
「正しく使う者ばかりとは限らない」
「そのために管理しています」
「誰が?」
「私がです」
カイルは即答した。
グレゴールは何かを言いかけたが、バルドが片手を上げた。
「顧客帳については、後で詳しく確認する」
会議を止めるつもりはないらしい。
「今は、数字の報告を続けろ」
「承知しました」
カイルは頭を下げる。
「ルミエールの直近七日間の売上は、Club Moon Dropの推定売上を上回っています」
「推定とは?」
「Club Moon Dropは帳簿を公開していません。納品量、客数、滞在時間、料理の注文状況から算出しました」
「直接の数字ではないのだな」
「多少の誤差はあります。しかし、逆転するほどではありません」
カイルは二つの棒を描いた比較表を示した。
片方はClub Moon Drop。
もう片方はルミエール。
ルミエールの棒は、明らかに長い。
「客数」
カイルが一つ目の印を指す。
「酒の販売量」
二つ目。
「高級酒の注文数」
三つ目。
「一日の売上」
四つ目。
「いずれも、ルミエールが上回っています」
幹部たちの間から、小さなどよめきが起きた。
Club Moon Dropは、これまでカイルが何度妨害しても客を失わなかった店だ。
紹介制によって急速な拡大はしない。
それでも、正式会員と常連客の信頼によって安定していた。
その店を、ルミエールは数字の上で越えている。
「開店前に申し上げたとおりです」
カイルは胸を張らず、あくまで報告として言った。
「紹介者を必要とせず、誰でも入れる大規模な社交店。歌、踊り、演奏、接客、高級酒を一つの場所へ集める。Club Moon Dropには入れない者まで客として受け入れる。この方針は正しかった」
「正しかった、か」
バルドが初めて口を挟んだ。
「はい」
カイルは正面から答える。
「数字が証明しています」
「何を証明した?」
「ルミエールの方が、多くの客から選ばれていることです」
「来店者数と売上が多いことは証明している」
バルドは比較表へ目を落とす。
「だが、店として正しいことまで証明したのか?」
カイルの表情が僅かに硬くなる。
「商売の評価は、結果で行うべきです」
「売上だけが結果か?」
「最も明確な結果です」
「では、別の数字も見よう」
バルドは自分の脇に置いていた薄い帳簿を取り出した。
カイルのものではない。
表紙には、商会内部調査と書かれている。
「ルミエールが開店してから、酒商会へ人材の問い合わせが増えた」
「人材?」
「別の働き口を探している者からだ」
カイルは眉を寄せる。
「商会へ直接、相談が来ているのですか」
「商会が募集へ関わった者もいる。仲介した責任があると思った者が、こちらへ相談へ来た」
バルドは帳簿を開く。
「厨房補助が二人辞めた」
「入れ替えは済んでいます」
「楽器演奏者が一人、契約途中で退職を申し出た」
「待遇への不満です。ほかの演奏者を探しています」
「接客係が三人、体調不良で休んだ」
「大人数を雇っています。数人が休むことはあります」
「そのうち一人は、客席で酒を飲んだ後、翌日まで起き上がれなかったそうだな」
「本人が酒量を調整できなかっただけです」
「店から客の酒へ付き合うよう求められているとも聞いた」
「強制していません」
「断れば売上評価が下がる仕組みは、強制ではないのか?」
「客と酒を楽しむのも接客の一部です」
カイルは即座に返す。
「飲めない者には、少量でよいと伝えています」
「その少量を、客が決めているのではないか」
フィオナの腕をつかんだ客。
杯へなみなみと注がれた強い酒。
カイルは報告を受けている。
だが、その場にいたわけではない。
「問題があれば黒服が対応します」
「その黒服からも相談が来た」
バルドは次の頁を開く。
「満席時に客を入れ続けること。泥酔した客を断れないこと。酒を止める権限がないこと。問題客へ退店を求める判断を、責任者以外へ認めていないこと」
「現場から、私を通さず報告した者がいるのですか」
「その問いが最初に出るのか」
バルドの声は低かった。
「内容ではなく、誰が報告したかを気にするのか」
「指揮系統の問題です」
「危険を訴えるのに、お前の許可が必要なのか?」
「現場の責任者は私です」
「だから、お前に言っても変わらないと判断されたのだろう」
会議室が静かになる。
カイルは周囲の視線を感じた。
同情ではない。
観察。
判断。
商会の幹部たちが、自分とバルドのどちらの言葉を重く見るか考えている。
「現場の提案は、すでに確認しています」
カイルは感情を抑えた。
「客数を制限すれば、売上が落ちます。客を断れば、Club Moon Dropへ戻る者もいる。現時点では、入店制限を行う時期ではありません」
「いつなら行う」
「客が定着してからです」
「どれほど定着すれば、安全を優先できる?」
「安全を軽視しているわけではありません」
「では、なぜ客数を決めない」
「黒服を増やします」
「人を増やせば、さらに客を入れるつもりではないのか」
カイルは答えなかった。
バルドは帳簿から一枚の紙を取り出した。
「この前の営業で、客四人を退店させたそうだな」
「酔って黒服を押し、席争いを起こしたため、現場責任者が判断しました」
「お前は、その判断を規則にはしなかった」
「一度の事例で、すべての客へ厳しい基準を適用すべきではありません」
「黒服を押す。接客係へ手を伸ばす。ほかの客へ酒をこぼさせる。それでも一度なら、店の規則へするほどではないのか」
「退店させました」
「責任者が近くにいたからだ」
カイルは口を閉じる。
「責任者が別の場所にいたら?」
「呼びます」
「来るまでに客が誰かを殴ったら?」
「極端な仮定です」
「店を守る規則は、極端な事態へ備えるためにもある」
「何も起きていない段階で客を犯罪者のように扱えば、店への信頼を失います」
「何か起きた後でしか動けない店へ、信頼が生まれるのか?」
バルドの問いに、カイルはすぐには答えなかった。
代わりに、比較表へ手を置く。
「それでも、客は来ています」
「そうだな」
「売上も増えています」
「それも事実だ」
「なら、方針を変える理由はありません」
カイルははっきりと言った。
「問題が起きていることは認めます。大きな店です。多くの人間が働き、多くの客が来る。小さな店より、揉め事も体調不良者も増える。それは規模が大きくなれば当然です」
「当然だから、減らさなくてよいのか?」
「対処しています」
「起きるたびに人を替え、担当を替え、記録へ残すことを対処と呼ぶのか」
「店を止めるより現実的です」
バルドは暫くカイルを見つめた。
「ルミエールの接客係は、何人いる」
突然、話題が変わる。
カイルは戸惑いながらも答えた。
「現在、二十四人です」
「開店時は?」
「二十五人です」
「辞めた者は一人だけか」
「正式な退職者は一人です」
「休職中は?」
「二人」
「配置転換を希望している者は?」
「数名います」
「舞台へ出たくないと言った者は?」
フィオナが浮かぶ。
「舞台へ不慣れな者はいます」
「答えになっていない」
「一度、出演を断った者がいます。しかし翌日には参加すると本人から申し出ました」
「本当に本人の意思か?」
「誰も強制していません」
「出なければ評価が下がると分かった上で戻ったのではないか」
「評価制度がある以上、仕事を選べば評価へ影響することはあります」
「なら、それを強制と呼ばない理由は何だ」
「選択肢は与えています」
「給金を減らされるか、嫌な仕事をするか。その二つを並べて、自由に選べと言うのか」
カイルの声が少し硬くなる。
「働く以上、店の求める仕事を行うのは当然です」
「得意ではない者を舞台へ出すこともか」
「客は人数と華やかさを求めています」
「働く者の得意不得意よりも?」
「客が求めるものを提供するのが商売です」
「そのためなら、誰をどこへ置いてもよいのか」
「適性は見ています」
「会話を得意とする接客係を舞台へ出し、踊り手に酒を売らせ、演奏者へ客の会話を聞かせることが適性を見ることか?」
カイルは一瞬、エドガーから求められた報告内容を思い出した。
楽器演奏者にも、近くの客が話す内容を記録させる。
舞台へ立つ者にも、客が誰を見ていたかを報告させる。
それぞれの専門以外にも役割を与えることで、店全体の利益を高める。
「一人へ複数の役割を持たせることは、効率的です」
「できる者へ任せるのではなく、全員へ求めている」
「役割を限定すれば、手が足りなくなります」
「手が足りないのに、客を入れ続けているのは誰だ」
言葉が詰まる。
バルドは追及を止めなかった。
「売上は増えた」
「はい」
「客も増えた」
「はい」
「だが、その人数を扱うための黒服は足りない。舞台へ立つ者の休息も足りない。厨房も片づけも追いつかない。接客係は売上を競わされ、客へ酒を勧め、自分も飲む。問題が起きても客を断れない」
「改善しています」
「何を?」
「黒服を追加します。舞台の出演順も調整しています。休んだ接客係の代わりも確保しています」
「休ませるのではなく、代わりを入れるのか」
「営業を止められません」
「誰かが壊れても、代わりを入れれば続くと考えているのか」
「壊れてなどいません」
「まだ、か?」
バルドの声に、カイルの表情が止まった。
「まだ大きな事故は起きていない」
バルドは言う。
「まだ重傷者はいない。まだ大量の退職者も出ていない。だから問題はない。お前が繰り返しているのは、それだけだ」
「事実です」
「それは安全の証明ではない」
「では、存在しない事故を理由に、今の成功を捨てろと言うのですか」
「事故を防ぐために、成功の中身を見ろと言っている」
「見ています」
「数字しか見ていない」
「数字には嘘がありません」
「何を数えるかを決める者が、都合の悪いものを数えなければな」
バルドは自分の帳簿を閉じた。
「お前の報告には、来店者数がある。酒の販売本数がある。接客係ごとの売上がある」
卓上の比較表を指す。
「だが、休憩を取れなかった者の人数はない」
別の紙を置く。
「客へ酒を勧められ、断れなかった者の回数もない」
もう一枚。
「黒服が危険を感じながら、責任者を待った時間もない」
さらに一枚。
「舞台で転びかけた回数。客と黒服が通路でぶつかりかけた回数。翌日の勤務へ支障が出るほど疲れた者の人数。嫌な要求を受けたが報告しなかった者の数」
カイルは紙を見下ろす。
どれも正確な数字ではなかった。
聞き取り。
相談。
匿名の申告。
現場の声。
「そんなものは、基準が曖昧です」
「曖昧だから数えないのか?」
「人によって感じ方が違います」
「売上も人によって意味が違う」
「金額は同じです」
「一日の売上が増えても、そのために五人辞めれば、同じ成功か?」
「辞めていません」
「例えだ」
「起きていないことです」
バルドは短く息を吐いた。
「起きていないことを考えられない者が、大勢を預かるな」
会議室に重い沈黙が落ちる。
幹部たちは誰も口を挟まなかった。
カイルの頬が僅かに強張る。
「私を、ルミエールから外すおつもりですか」
「今すぐ外すとは言っていない」
「では、何を求めているのです」
「数字の外を見ろ」
「曖昧な感情を優先して、利益を失えと?」
「利益を続けるために見ろと言っている」
バルドはカイルから視線を外さない。
「働く者が減れば、店は続かない。客が安心できなければ、やがて来なくなる。事故が起きれば、一晩で信用を失う」
「事故は起こしません」
「何を根拠に言う」
「黒服を増やします。設備も確認させています」
「現場が求めた客数制限は認めない。酒を止める権限も与えない。問題客を退店させる判断も責任者へ集中させる。その状態で、黒服を増やせば事故を防げるのか」
「命令へ従い、客を適切に誘導できる者を増やします」
「黒い服を着せれば黒服になると、まだ考えているのか」
カイルは口を閉じた。
バルドの言葉は、ルミエールを開く前にも向けられていた。
元店主。
元執事。
来客対応の経験者。
揃いの黒い服。
カイルはそれを黒服と呼んだ。
だが、客と働く者の間へ立ち、店の規則を守る権限は与えていない。
「Club Moon Dropの黒服を持ち上げたいのですか」
カイルは低い声で尋ねた。
「あの店の方法が、すべて正しいと?」
「そうは言っていない」
「紹介者がいなければ入れない。満席なら断る。客数も少ない。成長が遅い。あの店の方が商売として優れていると、本気でお考えですか」
「店の目的が違う」
「私たちは競争しています」
「お前だけが、同じ競技だと思っている」
バルドの返答に、カイルは目を細めた。
「Club Moon Dropはルミエールを見て、同じ舞台を作ろうとしたか?」
「できないだけです」
「客数を増やすため、規則を緩めたか?」
「紹介制に固執しているだけです」
「高級酒を大量に売るため、接客係を競わせたか?」
「商売の機会を逃しています」
「お前が勝ったと考えている間、あの店はお前と同じものになろうとしていない」
「負けを認められないだけでしょう」
「そうかもしれん」
バルドは否定しなかった。
「だが、お前は何をもって勝ちとする」
「売上です」
「今日の売上か?」
「継続した利益です」
「いつまで続けば、継続と呼ぶ?」
「少なくとも、今は伸びています」
「なら、今の時点では勝者だな」
バルドの言葉に、カイルは僅かに姿勢を正した。
だが、その声に称賛はなかった。
「数字の上では」
バルドは続けた。
「客数も、酒の本数も、一日の売上も、お前の店が上だ」
「それが商売です」
「だからこそ、覚えておけ」
バルドは比較表を指先で押さえた。
「数字の上で勝っている時ほど、人は負け始めたことに気づかない」
カイルは返事をしなかった。
その言葉を忠告として受け取るつもりはなかった。
売上は増えている。
客も来ている。
王都からの支援もある。
顧客帳から新しい情報も集まり始めた。
現場には問題がある。
だが問題のない店など存在しない。
規模を大きくすれば、摩擦も増える。
それを管理し、利益を残すのが経営者の仕事だ。
「ルミエールへの追加予算については、次の議題とします」
カイルは話を進めようとした。
「黒服の増員と、舞台設備の改修。高級酒の仕入れ量も増やす必要があります」
「舞台設備の改修?」
仕入れ担当が尋ねる。
「客席から見えやすいよう、舞台前の装飾を増やします。出演人数も増えているため、舞台袖の導線も調整します」
「安全のためか」
バルドが聞く。
「演目の質を上げるためです」
「現場から通路が狭いと報告されている」
「一部の装飾位置を変えます」
「客席数は減らすのか」
「減らしません」
「なら、通路は広がらん」
「配置で対応します」
「客席を減らさず、舞台も広げず、人だけ増やすのか」
「工夫はできます」
バルドは暫く黙った後、ほかの幹部たちへ視線を向けた。
「追加予算について意見を聞こう」
最初に口を開いたのは倉庫責任者だった。
「高級酒の仕入れ増加には賛成できません」
カイルが彼を見る。
「販売数は伸びています」
「確かに売れている。だが王都からの仕入れ価格も上がっている。現在の販売速度を基準に大量仕入れすれば、客足が落ちた時に在庫を抱える」
「客足は落ちていません」
「開店したばかりだからだ」
別の幹部も続く。
「黒服の増員費用も、募集と制服だけでは済まない。教育期間の給金が必要だ」
「短期間で現場へ入れます」
「それが危険だと言われているのだろう」
「案内と通路整理だけなら、すぐにできます」
「問題客へ対応できない者を増やしても、人数だけだ」
グレゴールも口を開いた。
「舞台装飾の追加にも反対する。現在の舞台が狭いなら、先に出演人数を減らすべきだ」
「華やかさが落ちます」
「転倒者が出るよりよい」
「一度も大きな事故は起きていません」
「また、それか」
幹部の一人が小さく呟いた。
カイルは、その男へ鋭い視線を向けた。
だが反論する前に、バルドが決を採った。
黒服の最低限の増員費用。
壊れた備品の修繕。
通常営業に必要な酒の仕入れ。
それらは認められた。
しかし、客席数を維持したまま舞台装飾を増やす案。
高級酒の大幅な追加仕入れ。
大規模な宣伝。
接客係への報奨金増額。
カイルが求めた拡大策の多くは承認されなかった。
「なぜです」
会議の終了後、幹部たちが席を立ち始めても、カイルは座ったまま尋ねた。
「数字を示しました」
「見た」
バルドも席を立たない。
「利益も出ています」
「それも認めた」
「なら、今こそ差を広げるべきです」
「今の店が扱える範囲を越えているからだ」
「扱えています」
「問題が増えている」
「対処できます」
「なら、先に対処して証明しろ」
「拡大しなければ、Club Moon Dropへ客を戻します」
「客を戻す、という考えをやめろ」
バルドの声が低くなる。
「客は酒樽ではない。お前の倉庫から向こうの倉庫へ移る荷物ではない」
「店を選ぶのは客です」
「なら、選ばせろ」
「だから選ばれる店を作っています」
「選ばれ続ける店を作れ」
カイルは唇を引き結んだ。
「今のルミエールが、続かないと?」
「今のままではな」
「根拠は、現場の弱音ですか」
「弱音と呼ぶ者に、人はついてこない」
「給金を払っています」
「金だけで残るなら、順位を恐れて泣く者はいない」
カイルは立ち上がった。
「私は、結果を出しました」
「ああ」
「Club Moon Dropを上回りました」
「数字の上ではな」
「それ以外に、何が必要なのです」
バルドはすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
商会の中庭では、荷車へ酒樽が積み込まれている。
一つずつ縄で固定し、重さを確かめ、車輪の状態を見る。
早く運ぶために積めるだけ積めば、荷車は壊れる。
馬も倒れる。
道の途中で酒樽を失えば、一度の運搬で得ようとした利益以上の損失が出る。
「明日も開けられることだ」
バルドが答えた。
「明日だけではない。来月も、来年もだ」
「そのために利益が必要です」
「利益だけでは続かない」
「理想論です」
「お前が利益と呼んでいる数字も、人が働いて初めて生まれる」
カイルは何も答えず、帳簿を閉じた。
「次の会議では、さらに大きな数字を持ってきます」
「持ってくるべきは、それだけではない」
「私が正しいと証明します」
「誰にだ?」
カイルの手が止まる。
「私にか。レンにか。それとも、自分自身にか」
「結果を認めない者すべてにです」
カイルは帳簿を抱え、会議室を出ていった。
廊下を歩く足取りは乱れていない。
背筋も伸びている。
幹部たちの前で感情を見せることもしなかった。
だが、胸の中ではバルドの言葉が残っていた。
数字の上では勝者。
まるで数字の外では負けていると言われたようだった。
その日の夕方。
ルミエールの事務室へ戻ったカイルは、営業前の報告へ目を通していた。
予約数。
団体客。
王都から来る商人。
高級酒の在庫。
舞台の出演予定。
数字は悪くない。
むしろ今夜も満席になる可能性が高い。
「カイル様」
ドミニクが事務室へ入ってきた。
「何だ」
「接客係が一人、休みを求めています」
「理由は?」
「発熱です」
「代わりは」
「別の者を入れます。ただ、最後の合同演目に穴が空きます」
「会話担当の者を出せ」
「昨日も長時間、客席へ入っていた者です」
「一演目だけだ」
「舞台稽古をしていません」
「簡単な位置だけ教えろ」
ドミニクは何かを言いたそうにした。
しかし、カイルは次の書類へ目を移す。
「ほかには?」
「フィオナから、担当客について相談がございます」
「何の相談だ」
「顧客帳の指示欄にある質問を、客へ尋ねたくないと」
カイルの手が止まる。
「理由は?」
「本人が王都へ訴えたい話ではないため、詳しく聞き出すべきではないと考えているそうです」
「接客係が決めることではない」
「そのように伝えますか」
「いや」
カイルは少し考える。
バルドとの会話が頭をよぎる。
弱音と呼ぶ者に、人はついてこない。
「直接、事務室へ来させろ」
「承知しました」
ドミニクが出ていく。
カイルは椅子へ背を預けた。
働く者の意見を聞かないわけではない。
危険を放置しているわけでもない。
必要なら黒服を増やす。
体調不良者には代わりを置く。
問題客には責任者が対応する。
報告を聞き、改善する。
自分は経営者として、できることをしている。
そう考えようとした。
しかし机の上には、別の報告書があった。
接客係一名、発熱。
演奏者一名、指の痛み。
黒服二名、連続勤務。
客席の椅子三脚に緩み。
舞台袖の布飾りが通路へはみ出している。
酒瓶を運ぶ者と出演者が接触しかけたとの報告。
どれも店を閉じるほどの問題ではない。
一つずつなら、小さい。
直せばよい。
交代させればよい。
注意すればよい。
カイルは報告書を重ね、その上へ売上表を置いた。
最も大きな数字が、一番上へ来る。
今夜の営業を止める理由はない。
むしろ、止めれば数字は下がる。
開店の鐘が鳴る。
客が次々と正面扉を通り、ルミエールへ入ってくる。
舞台近くの席から埋まっていく。
高級酒を頼む客。
指名する接客係を選ぶ客。
華やかな衣装を見上げる客。
入場料を支払った者が増えるたび、受付の帳面へ印が加えられる。
一人。
二人。
十人。
二十人。
五十人。
数字は伸び続ける。
舞台では、ラナが踊っていた。
足元へ注意を向けながら、隣の出演者との間隔を確かめる。
本来休むはずだった接客係の代わりに、舞台へ慣れていない者が後列へ入っている。
曲の途中で位置を迷い、隣の肩へ触れそうになる。
ラナは自分の動きを僅かに変え、衝突を避けた。
客席からは気づかれない。
拍手が起きる。
舞台は成功したように見えた。
客席では、フィオナが穀物商の前へ座っていた。
担当表には、王都の倉庫役人について詳しく確認するよう記されている。
聞き出す必要はない。
客が自ら話した内容を報告するだけ。
エドガーは、そう説明していた。
だが担当表には、人物名を聞き出すことと書かれている。
説明された内容と、実際に求められている仕事が違う。
「先日は、王都の倉庫について大変だったとおっしゃっていましたね」
フィオナは慎重に話題を出した。
穀物商の顔が曇る。
「ああ。つまらん愚痴を聞かせたな」
「つまらなくはございません」
「忘れてくれていい」
客は苦笑した。
「酒の席で、少し腹が立っていただけだ」
忘れてくれていい。
フィオナの胸へ、その言葉が残る。
「承知いたしました」
人物名を尋ねなかった。
倉庫の場所も。
余計な手数料の金額も。
「今日は、そのお話ではなく、南部の小麦について聞かせていただけますか」
客は少し安心したように頷いた。
フィオナは会話を続ける。
事務室へ戻れば、報告用紙を書かなければならない。
指示を守らなかったと判断されるかもしれない。
評価が下がる。
担当を減らされる。
それでも、忘れてほしいと言われた話を、さらに聞き出すことはできなかった。
同じ頃。
入口では、席が埋まった後も客が入り続けていた。
壁際へ立つ者。
舞台を見るため通路へ近づく者。
酒を持ったまま場所を移動する者。
黒服たちは何度も位置を戻すよう頼む。
今夜から追加された新しい黒服は、身体が大きく、声も通った。
だが、どこまで客へ注意してよいかは分かっていない。
「こちらは通路です」
教えられた言葉を繰り返す。
「少し下がってください」
客が不満を見せると、それ以上は言えない。
酒を運ぶ黒服が後ろで待つ。
出演者が舞台袖から出られず、演目の開始が僅かに遅れる。
客席から見れば、大きな問題ではない。
演奏は始まる。
照明も灯る。
酒も運ばれる。
会計には金が積み上がる。
その夜の終わり。
ルミエールの売上は、開店以来で最も高い数字を記録した。
入場者数。
酒の本数。
指名数。
高級酒の注文。
どれも前日を上回った。
カイルは営業記録の最下部へ書かれた合計額を見る。
商会会議で示した数字より、さらに高い。
次の会議では、バルドも認めざるを得ない。
自分の方針が正しい。
ルミエールは成長している。
Club Moon Dropとの差は、これからも広がる。
だが、その下には小さな報告が並んでいた。
――舞台出演者一名が演目終了後、控室で嘔吐。
――演奏者一名、指の痛みが悪化。翌日の出演は未定。
――黒服一名、客との接触により肩を負傷。
――立ち見客が通路を塞ぎ、演目開始が遅延。
――接客係一名、顧客帳の指定質問を実施せず。
――客一名、帰り際に「以前より落ち着かなくなった」と発言。
カイルは一つずつ目を通す。
負傷した黒服には、翌朝まで休ませればよい。
演奏者には代わりを探す。
嘔吐した出演者は酒量を確認する。
通路には新しい黒服を置く。
フィオナには再指導する。
客の不満は、次回来店時の対応へ生かす。
対処できない問題はない。
カイルは最も上にある売上額へ、二重の線を引いた。
その数字だけは、誰の感じ方にも左右されない。
増えた。
Club Moon Dropを上回った。
今夜も勝った。
一方、客席の片づけを終えた黒服たちは、誰も売上額を見ていなかった。
倒れかけた椅子。
狭くなった通路。
舞台袖へ残る吐瀉物の匂い。
痛む肩。
明日休む演奏者の代わり。
休めば順位や担当を失うと恐れ、体調が悪くても出勤しようとする接客係。
それぞれが、次の営業をどう乗り切るかを考えていた。
数字の上では、ルミエールが勝者だった。
客数も。
酒の販売量も。
一日の売上も。
Club Moon Dropを越えている。
だが、その勝利を作った者たちは、喜ぶ余裕を失い始めていた。
そして翌夜。
Club Moon Dropには、いくつかの空席が残ることになる。
カイルは、その空席を自分の勝利だと受け取る。
まだ知らない。
客が一度別の店を選ぶことと、心から店を離れることは、同じではない。
売上表には、客が次にどこへ帰りたいと思っているのかまでは記されていなかった。
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