↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第6章 光が崩れ、月明かりが生まれる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

130/130

第127話 小さな贈り物に込めるもの

 リリアの誕生日まで、あと四日。


 昼営業を始めるよりも早い時間から、Club Moon Dropの厨房には小麦粉の匂いが漂っていた。


 作業台の上には、二つの木皿が並んでいる。


 一方には、小さく刻んで乾燥させた赤い果実。


 もう一方には、淡い橙色の果実が載せられていた。


 どちらも市場で手に入るものだったが、生のまま使うのではない。


 水分を抜き、甘みと香りを少しだけ残している。


 ルークは二つの木皿を見比べた後、赤い果実を一粒取り、指先で硬さを確かめた。


「昨日より水分は抜けているな」


 隣に立つティアも、同じ果実へ鼻を近づける。


 長く嗅ぎ続けるのではなく、短く二度だけ息を吸った。


「甘い匂いの奥に、少し酸っぱい匂いが残っています」


「傷んでいる匂いか?」


「違います。果実そのものの酸味です」


「橙色の方は?」


 ティアはもう一方の皿へ向き直る。


 乾燥させた果実を一粒持ち上げ、先ほどと同じように確かめた。


「こちらの方が甘い匂いは穏やかです。でも、乾かす前より少し苦い匂いが強くなっています」


「皮に近い部分だろうな」


 ルークは果実を一つ割った。


 外側の色が濃くなっている。


「削れば使えると思うか?」


「使えます。でも、全部を同じように削るのは時間がかかります」


 以前のティアなら、使えるかどうかだけを考えていたかもしれない。


 今は、作業に必要な時間まで口にできるようになっている。


 ルークは赤い果実の皿へ手を伸ばした。


「なら、最初はこっちを使う」


「はい」


「橙色の方は捨てない。苦みを生かせる菓子へ使えるかもしれない」


「別の菓子へ?」


「甘い生地へ少しだけ混ぜるなら、苦みが合うこともある」


 ティアは橙色の果実を見つめる。


 使えないものとして除けるのではなく、合う場所を探す。


 それは食材だけではなく、人へ仕事を任せる時にも似ていると、ルークは考えていた。


「今日は、赤い果実を使った生地を試す」


 ルークは小麦粉の袋を作業台へ置いた。


「誕生日の日に渡す分を、いきなり全部作るわけではない。まずは大きさと焼き時間を決める」


「何個作りますか?」


「二十個ほどだ」


「予約の人数より少ないです」


「試作だからな」


 ルークは量りの前へ小さな木皿を置く。


「同じ材料でも、大きさが変われば焼ける時間も変わる。外だけ焦げて、中が柔らかすぎることもある」


「小さければ、早く焼けるのですか?」


「基本はそうだ。ただ、小さすぎると水分が抜けすぎて硬くなる」


 ティアは頷き、手帳代わりに使っている薄い板へ、木炭で短く書きつけた。


 小さい。


 早い。


 硬くなる。


 文字はまだ整っていないが、自分が後から読み返せる程度には書けている。


「まず、材料を量る」


 ルークは砂糖、小麦粉、卵、乳、油脂を順に並べた。


「昨日、ノアが人数と予算をまとめてくれた。材料を無駄にしないためにも、試作から記録を残す」


「はい」


「小麦粉は、この線までだ」


 量りの皿が傾き、木の針が刻まれた線へ近づく。


 ティアは小麦粉の袋を両手で持ち、少しずつ皿へ落とした。


 線の手前で止める。


 もう一度、ほんの少しだけ加える。


 針が線を越えた。


「あっ」


 ティアの耳が伏せる。


 すぐに小麦粉を戻そうとするが、ルークが手を止めた。


「待て。どのくらい越えた?」


「少しです」


「少しでは記録にならない」


 ルークは針の位置を示す。


「線一つ分の四分の一ほどだ」


「取り除きます」


「どうやって?」


「匙で少しずつ」


「やってみろ」


 ティアは小さな匙で小麦粉をすくい、袋へ戻そうとした。


「袋へ直接は戻さない」


 ルークが止める。


「どうしてですか?」


「量りの皿や匙に、水や別の材料が残っていたら、袋の中まで傷む」


 ティアは手を止めた。


「別の器へ移すのですね」


「そうだ。その粉は後で打ち粉に使う」


 ティアは小さな器へ余分な粉を移す。


 針が目印の線へ戻った。


「できました」


「次からは、線の少し手前で一度止める」


「はい」


「入れすぎたことより、どう戻すか分からないまま袋へ返そうとした方が危ない。分からない時は先に聞け」


「はい」


 ティアは返事をしてから、作業板へもう一つ書き加えた。


 余った粉は袋へ戻さない。


 ルークは次の材料を示した。


 砂糖。


 油脂。


 卵。


 一つずつ量り、器へ分ける。


 ティアは最初こそ慎重すぎるほどゆっくりだったが、何度か繰り返すうちに、針が目印へ近づく前に手を止められるようになった。


 卵を割る時だけは、ルークが横から見守った。


「殻を台の角へ強く当てすぎるな」


「中へ入るからですか?」


「細かく割れれば取り除きにくい」


 ティアは力を弱めて殻へひびを入れる。


 両手で開くと、中身が器へ落ちた。


 殻は入っていない。


「できました」


「もう一つ」


 二つ目も同じように割る。


 今度は殻の一部が小さく欠け、器の中へ落ちた。


 ティアの耳がまた伏せる。


「すみません」


「取ればいい」


 ルークはすぐに匙を渡した。


 ティアは小さな殻を追う。


 だが、卵白の中で滑り、なかなか取れない。


「指で取ってもよいですか?」


「手を洗い直したならな」


 ティアは水場へ移動し、決められた桶で手を洗う。


 戻ってから、指先で殻を取り除いた。


「失敗すると、作業が遅れます」


「そうだな」


「やはり、失敗しない方がよいです」


「失敗しない方が早い。だが、一度も失敗しないことを考えすぎて、卵一つ割るのに長くかかれば、それも遅れる」


 ティアは返事をせず、器の中の卵を見つめた。


 ルークは材料を混ぜる大きな鉢を中央へ置いた。


「次は生地だ」


 砂糖と油脂を合わせ、木べらで混ぜる。


 ティアはルークの手元をじっと見る。


 油脂が柔らかくなり、砂糖の粒が馴染んでいく。


「力を入れすぎる必要はない。鉢の底へ押しつけて、返す」


「押して、返す」


「そうだ」


 ルークが数度見本を示した後、木べらを渡す。


 ティアは両手で握りかけ、片手へ持ち直した。


「両手ではいけませんか?」


「いけないわけではない。だが、鉢を押さえる手がなくなる」


 ティアは左手で鉢の縁を押さえ、右手で木べらを動かした。


 最初は力が入りすぎ、鉢が僅かにずれる。


 ルークは位置を戻さず、ティアが自分で気づくのを待った。


 数度混ぜたところで、ティアは鉢の位置が変わっていることに気づいた。


「動いています」


「どうする?」


「左手で、もう少し強く押さえます」


「それだけか?」


 ティアは作業台と鉢の底を見る。


「下に布を敷きます」


「そうだ」


 乾いた布を鉢の下へ敷く。


 先ほどより安定した。


 ティアは押して、返す動きを繰り返す。


 途中でルークが卵を少しずつ加える。


「一度に入れないのですか?」


「分かれやすくなる」


「分かれる?」


「油と水分が馴染まず、粒のようになる」


 ティアは鉢の中を見つめた。


「今は、分かれていません」


「だから少しずつ入れている」


 卵が馴染んだところで、小麦粉を加える。


「ここからは混ぜすぎるな」


「どうしてですか?」


「硬くなる」


「混ぜないと、粉が残ります」


「粉が見えなくなったところで止める」


 言葉だけでは判断が難しい。


 ルークは半分まで自分で混ぜ、残りをティアへ渡した。


「鉢の底からすくって、切るように返す」


 ティアは生地を押し潰さないよう、木べらを動かした。


 白い粉が少しずつ消えていく。


「まだですか?」


「まだ少し残っている」


「これは?」


「そこは大丈夫だ」


「これは?」


「それは粉だ」


 何度も確認しながら混ぜる。


 最後に赤い果実を加え、全体へ散らす。


 生地の中へ、小さな赤色が点々と現れた。


 ティアはそれを見て、僅かに目を輝かせる。


「綺麗です」


「焼けば少し色は暗くなる」


「同じ間隔で入れた方がよいですか?」


「果実を一つずつ並べる必要はない」


「でも、一つだけ多いものがあれば、その人の方が得になります」


 ルークは木べらを止めた。


「得?」


「果実が多い方が、甘くなります」


「一つ二つの違いで、そこまで味は変わらない」


「でも、同じ贈り物なのに違います」


 ティアは真剣だった。


 ルークは鉢の中を見る。


 確かに、すべてを完全に同じにすることはできない。


 果実の大きさも、混ざる位置も違う。


 切り分けた生地へ、同じ数だけ入れることもできなくはない。


 だが、二十個ならともかく、当日の人数分を作る時まで、一粒ずつ数えていれば準備が遅れる。


「ティア」


「はい」


「同じように作ることと、すべてを同じにすることは違う」


 ティアは意味を考えるように、耳を僅かに動かした。


「材料の量、生地の大きさ、焼く時間は揃える。だが、果実の欠片が一つ多いかどうかまで揃える必要はない」


「なぜですか?」


「一つずつ手で作るからだ」


「手で作るなら、揃えられないのですか?」


「揃えられるところは揃える。だが、違いをなくすために時間を使いすぎれば、ほかの仕事が終わらない」


 ルークは作業台の端へ置かれた野菜を見る。


 昼営業の仕込みも残っている。


「客へ渡すのは、この菓子だけじゃない。昼と夜の料理も作る。厨房を洗い、食材を確認し、翌日の仕込みもする」


「はい」


「一つの仕事を完璧にするために、ほかを遅らせるのは違う」


 ティアは生地の赤い点を見つめた。


「前の厨房では、形が違うと怒られました」


 小さな声だった。


「同じ値段で出すのに、大きさが違えば客が怒ると」


「大きさが明らかに違うなら、直すべきだ」


「少しでも違えば、作り直すように言われました」


「作り直した生地は?」


「厨房の者が食べるか、捨てていました」


「全部か?」


「はい」


 ルークの眉が僅かに動く。


「だから、同じにしなければならないと思ったのです」


 ティアは木べらを握る手へ力を込めた。


「私が作ったものだけ形が違えば、また使えないと言われるかもしれません」


 それは菓子の形だけを恐れている言葉ではなかった。


 形が違う。


 動きが遅い。


 匂いについて余計なことを言う。


 ほかの者と同じにできない。


 以前の厨房で疎まれた記憶が、今もティアの中に残っている。


「ここでは、使えるかどうかを形だけで決めない」


 ルークは静かに言った。


「でも、お客様へ渡すものです」


「だから、食べられる状態か、味に問題がないか、大きさが極端に違わないかは確認する」


「形は?」


「少し違っても構わない」


「本当に?」


「同じ型へ入れて作る菓子ではない。手で丸めるなら、僅かな違いは出る」


 ティアはまだ納得しきれない様子だった。


「試しに作るぞ」


 ルークは生地を二つに分けた。


「一つは俺が丸める。もう一つはティアが丸める」


「同じ大きさにします」


「大きさの目安は、これだ」


 ルークは一つ分の生地を取り、小さな球にする。


 手のひらへ載せ、ティアへ見せた。


「これより明らかに大きいものや小さいものは直す。それ以外は進める」


「測らないのですか?」


「最初の数個は量る。感覚を覚えたら、すべては量らない」


「でも」


「まずやってみろ」


 二人は生地を分け始めた。


 ルークは手早く丸め、天板へ並べる。


 ティアは一つ分を取り、量りへ載せた。


 目印より僅かに重い。


 生地を少し戻す。


 もう一度量る。


 今度は軽い。


 戻した生地から小さく足す。


 三度目で線へ合った。


 ようやく丸める。


 表面へひびがないかを確かめ、天板へ置く。


 次の一つも同じように量る。


 ルークが五個を並べ終えた時、ティアはまだ二個目を丸めていた。


「ティア」


「はい」


「三個目からは量らずに作れ」


「でも、大きさが」


「最初の二個を手で持って覚えただろう」


「少し違うかもしれません」


「少しは違う」


 ルークははっきり答えた。


「違ってもよい範囲を覚えるのも仕事だ」


 ティアは戸惑いながら、生地を一つ取った。


 量りへ置かず、手のひらの感覚だけで丸める。


 先ほどの二つと並べる。


 僅かに小さい。


 ティアはすぐに取り上げようとした。


「待て」


 ルークが止める。


「目安より、どのくらい小さい?」


「少しです」


「最初の二つと比べて、焼き時間が変わるほどか?」


「分かりません」


「俺には変わらないように見える」


「でも」


「そのまま置け」


 ティアは迷った末、三つ目を天板へ戻した。


 四つ目。


 五つ目。


 作るたびに隣と比べる。


 僅かに大きいものができると、直したくなる。


 そのたびに、ルークはすぐ口を出さず、ティアが自分で判断するのを待った。


 六つ目で、ティアの手が止まる。


「これは、大きすぎます」


「なぜそう思う?」


「隣より一回り大きいです」


「なら直せ」


 ティアは少し生地を取り、別の塊へ戻した。


「これは直してよいのですね」


「明らかに違うからな」


 七つ目は、直さなかった。


 八つ目も、そのまま置いた。


 二十個すべてを並べ終えた頃には、ルークが作ったものとティアが作ったものが同じ天板の上へ混ざっていた。


 どれが誰のものか、近くで見れば分かる。


 ルークのものは丸みが揃い、表面も滑らかだった。


 ティアのものは、僅かに縦長だったり、表面へ小さなひびが残っていたりする。


 それでも、大きさはおおむね揃っている。


「焼くぞ」


「このままで?」


「このままだ」


 ルークは天板を窯へ入れる。


 時間を測るため、ノアが用意した砂時計をひっくり返した。


「途中で一度、前後を入れ替える」


「窯の奥と手前で違うのですか?」


「奥の方が火が強い」


 砂が半分ほど落ちたところで、ルークは天板の向きを変えた。


 ティアは窯の前から離れず、中の様子を見ている。


「近づきすぎるな」


「はい」


 一歩下がる。


 甘い匂いが厨房へ広がり始めた。


 小麦粉と砂糖。


 焼けた油脂。


 その奥に、赤い果実の酸味が僅かに混じる。


 ティアの耳が動いた。


「焦げた匂いはありません」


「まだ早い」


「でも、奥の右側だけ少し強い匂いがします」


 ルークは窯の隙間から中を見る。


 右奥の一つだけ、表面の色が濃くなり始めていた。


「本当だな」


「取り出しますか?」


「全部を出せば、ほかが焼けない」


「では、その一つだけ?」


「今は窯を何度も開けない方がいい。右奥の場所を次から避ける」


 ルークは窯の特徴を記録する板へ、右奥は火が強いと書き加えた。


「匂いに気づいたことはよかった」


 ティアの顔が僅かに明るくなる。


「でも、すぐ直せないこともある」


「はい」


「気づいたことと、どう対応するかは別だ」


「意味を確認してから決めるのですね」


「そうだ」


 砂が落ち切り、焼き上がった菓子を取り出す。


 天板から熱が立ち上る。


「触るな」


 ルークは先に注意した。


 ティアは伸ばしかけた手を引っ込める。


「冷めるまで待つ」


 焼き上がった菓子は、生地の時より少し膨らみ、表面へ細かな割れ目ができていた。


 赤い果実の一部が外へ見えている。


 ティアは一つずつ見比べる。


「私が作ったものは、形が崩れています」


「どれだ?」


 ティアが指差す。


 僅かに横へ広がったもの。


 表面が斜めに割れたもの。


 果実が片側へ寄ったもの。


「食べられないように見えるか?」


「食べられます」


「客へ渡せないほど悪いか?」


「……分かりません」


「冷めてから割って、中を確認する」


 ルークはすぐに合否を決めなかった。


 形だけでなく、中まで焼けているか。


 硬さはどうか。


 味はどうか。


 すべてを確かめて判断する。


 冷ましている間、厨房の外からリュートの音が聞こえてきた。


 短い旋律が流れ、途中で止まる。


 少し間を置いて、同じ旋律がもう一度繰り返された。


 今度は、その上へミーナの声が重なる。


 まだ言葉はない。


 母音だけの柔らかな声だった。


 高くなりすぎる前に止まり、セレナの演奏も一緒に途切れる。


「今の高さは、苦しくありませんでしたか?」


 客席側からセレナの声が聞こえる。


「少しだけ、最後が苦しかったです」


「では、全体を少し下げてみましょう」


 二人もまた、試しながら作っている。


 最初から完成した曲を演奏しているわけではない。


 ティアは厨房の入口へ視線を向けた。


「ミーナさんも、何度も歌うのですね」


「初めて合わせる曲だからな」


「一度でできなくてもよいのですか?」


「一度でできる方が珍しい」


 ルークは当然のように答えた。


「料理も同じだ」


 菓子が冷めると、ルークは最も色の濃い一つを手に取った。


 半分に割る。


 中まで火は通っている。


 ただし、ほかより少し硬い。


「右奥のものだ」


「失敗ですか?」


「客へ渡す分には使わない」


 ティアの耳が伏せかける。


「だが、食べられないわけではない。俺たちで味を確認する」


 ルークは片方をティアへ渡した。


「熱くないことを確かめてから食べろ」


 ティアは指先で温度を確かめ、小さくかじる。


 香ばしさの後に、果実の酸味が広がる。


「少し硬いです」


「味は?」


「甘すぎません。果実も強すぎないです」


「ほかも確認する」


 次に、ルークが自分で丸めたもの。


 ティアが最初に量って作ったもの。


 量らずに作ったもの。


 横へ少し広がったもの。


 一つずつ割り、断面と硬さを見る。


 ティアが作ったものも、中まで同じように焼けていた。


 大きさが少し違っても、味と食感へ大きな差はない。


「これは、使えますか?」


 ティアが横へ広がった一つを示す。


「使える」


「形が違います」


「味に問題はない。大きさも、ほかと大きく違わない」


「でも、並べたら分かります」


「分かってもいい」


 ルークは答えた。


「同じ材料で、同じ量を目安に、同じように作った。それでも少し違う。それは失敗ではない」


 ティアは焼き菓子を見つめる。


「お客様は、気にしませんか?」


「気にする人もいるかもしれない」


「なら」


「だからといって、全員が気にするわけじゃない。今回の菓子は、高い値段をつけて形の美しさを売るものではない」


「贈り物です」


「そうだ」


 ルークは別の一つを手に取った。


「リリアが、来てくれた客へ礼を伝えるための菓子だ。味が悪くなく、安全に食べられて、受け取った者が少し嬉しくなればいい」


「綺麗でなくても?」


「綺麗に作ろうとすることは大事だ。だが、少しの違いをなくすことだけが、相手を大事にすることじゃない」


 ティアは、自分が丸めた菓子を一つ持ち上げた。


 表面へ小さな割れ目がある。


 赤い果実が二つ、片側へ寄っている。


「これも、渡してよいのですか?」


「よい」


「ルークさんが作ったものと一緒に?」


「一緒にだ」


 ティアはしばらく、その菓子を見つめていた。


「……はい」


 返事は小さかった。


 けれど、先ほどまでとは違い、その菓子を不良品として脇へ除けなかった。


 ルークは残った試作品を木皿へ並べた。


「客席の皆にも食べてもらう」


「全部ですか?」


「焦げが強いもの以外はな」


「誰が作ったか、伝えますか?」


「聞かれたら答える」


「私が作ったものを、皆さんが食べるのですね」


「試作だから、感想をもらう」


 ティアの尾が僅かに固くなる。


「美味しくないと言われたら?」


「どこが悪いのか聞く」


「作り直しますか?」


「必要ならな」


 ルークは皿を持ち上げた。


「悪いと言われないために作るんじゃない。よりよいものにするために聞く」


 二人が厨房を出ると、客席の一角ではセレナとミーナが曲の練習を続けていた。


 セレナはリュートを抱え、ミーナはその隣で姿勢を整えている。


 エルナは少し離れた席へ座り、ノアは手帳を開いて聞いていた。


 レン、ロイ、ディーノ、リリアも、それぞれの作業を止めている。


「ちょうどよかった」


 レンが皿へ気づく。


「試作品?」


「はい」


 ルークは卓へ焼き菓子を置いた。


「赤い果実を少量入れています。甘さと硬さを確認してください」


「もう食べていいの?」


 エルナがすぐに手を伸ばす。


「一人一つです」


「分かってるって」


 エルナは形の少し横へ広がったものを取った。


 ティアの耳がぴくりと動く。


 それは、自分が作ったものだった。


 ミーナも一つ取り、セレナは演奏する手を休めて受け取る。


 リリアは皿の中を見比べず、手前にあったものを選んだ。


 それもティアが作ったものだった。


 ティアは無意識に、二人の表情を見つめる。


 エルナが一口かじる。


「美味しい」


 すぐに答えた。


「果実が少し酸っぱいから、甘すぎないね」


「もう少し甘くした方がよいですか?」


 ティアが尋ねる。


「私はこれくらいが好き」


「私は、少しだけ生地が硬いように感じます」


 セレナが答えた。


「持ち帰るまでに時間がたつことを考えると、さらに硬くならないでしょうか」


 ルークが頷く。


「そこは確認が必要です。明日まで置いたものも食べてみます」


「香りは穏やかでよいと思います」


 ミーナも続ける。


「袋を開いた時に、強すぎないと思います」


 リリアは半分ほど食べてから、ティアへ顔を向けた。


「ティアさんも作ってくださったのですか?」


「はい」


「ありがとうございます」


「まだ試しに作っただけです」


「それでも、私のために考えて作ってくださったのでしょう?」


 ティアは返事に詰まった。


「皆さんへ渡すものです」


「はい。私が感謝を伝えたいと申し上げたから、作ってくださっています」


 リリアは手元の焼き菓子を見る。


「少しずつ形が違うのも、私は好きです」


 ティアの耳が立つ。


「違うのが、よいのですか?」


「同じ袋を受け取っても、中へ入っているものが少しずつ違えば、どれを受け取るのか楽しみになると思います」


「でも、形が悪いものもあります」


「これは、形が悪いのでしょうか」


 リリアが持っているものは、表面へ斜めの割れ目が入り、果実が片側へ寄っている。


「揃っていません」


「ですが、手に持ちやすく、食べにくくもありません」


 リリアはもう一口食べた。


「美味しいです」


 ティアは焼き菓子とリリアの顔を交互に見る。


「本当に?」


「はい」


「気を遣っていませんか?」


 リリアは少し目を瞬いた後、微笑んだ。


「気になるところがあれば、きちんとお伝えします」


「そうそう」


 エルナが口を挟む。


「セレナはさっき、硬いって言ったでしょ?」


「硬いとは申し上げていません。時間がたった時の変化を確認した方がよいと」


「似たようなものじゃない?」


「違います」


 セレナが静かに訂正し、エルナが笑う。


 張りつめていたティアの肩から、少しだけ力が抜けた。


「明日は、もう少し早く作ります」


 ティアが言う。


「形を揃えるためではありません」


 ルークを見る。


「同じくらいの大きさだと分かるものは、そのまま進めます」


「そうしろ」


「大きく違うものだけ、直します」


「ああ」


「果実の数も、一つずつ数えません」


 エルナが目を丸くした。


「数えようとしてたの?」


「同じ贈り物だから、同じ数にした方がよいと思いました」


「全部数えてたら、日が暮れちゃうよ」


「だから、数えません」


 ティアは真面目に答えた。


 その言い方が可笑しくて、エルナが笑う。


 今度はティアも、少しだけ口元を緩めた。


 試食を終えると、セレナとミーナが曲の続きを披露することになった。


「まだ、言葉は途中です」


 ミーナが緊張した様子で言う。


「今は旋律と、歌いやすい高さを確認していただければ」


 セレナが最初の音を鳴らす。


 先ほど厨房で聞こえた旋律だった。


 柔らかく始まり、途中で少し明るくなる。


 ミーナの声が重なる。


 客を称える大げさな歌ではない。


 この店の扉を開き、席へ座り、言葉を交わしてくれたこと。


 また来ると言って帰り、本当に戻ってきてくれたこと。


 その一つひとつへ礼を伝えるような、静かな歌だった。


 まだ完成していないため、途中で言葉が止まる。


 ミーナは少し息を整えた。


「ここから先が、まだ決まっていません」


「今のままでも、気持ちは伝わると思います」


 リリアが答える。


「ですが、最後まで歌いたいです」


「無理に長くしなくてもいいんじゃない?」


 エルナが言う。


「短く終わる方が、もう一度聞きたいって思うかもしれないよ」


「確かに、客席で会話を止めていただく時間は長すぎない方がよいですね」


 セレナが頷く。


「最後は一節だけ加え、最初の旋律へ戻る形にしましょう」


「はい」


 ミーナはすぐに歌詞を書き留めるのではなく、目を閉じて最初の旋律を思い出した。


 ティアは、その様子を見つめる。


「歌も、最初から全部決めないのですね」


「決められる部分から決めています」


 セレナが答える。


「歌いやすい高さ、長さ、言葉。それぞれを確かめながら整えます」


「形が違っても?」


「歌うたび、声は少しずつ違います」


 ミーナが言った。


「同じ歌でも、まったく同じにはなりません」


「でも、それでよいのですか?」


「はい」


 ミーナは迷わず頷いた。


「間違えたままにするのとは違います。でも、昨日と同じ声を出そうとしても、完全には同じになりません」


 ティアは自分の作った焼き菓子へ視線を落とす。


 同じ材料。


 同じ大きさの目安。


 同じ窯。


 それでも、少しずつ違う形。


 違いがあることと、失敗であることは同じではない。


「明日も、作ってよいですか?」


 ティアがルークへ尋ねる。


「そのつもりだ」


「今度は、時間も見ます」


「形だけでなくな」


「はい」


 ルークは、明日まで残す試作品を別の器へ移した。


 時間がたった時の硬さを確かめるため、布をかけ、ノアへ保管場所を記録してもらう。


 残った菓子は、夜営業後の賄いと一緒に皆で食べることになった。


 その日の営業を終えた後。


 厨房では、ティアが使い終えた器具を洗っていた。


 水気を拭き取り、決められた場所へ戻す。


 最後に、試作で使った量りを作業台へ置いた。


 目印となる線を見つめる。


 今日の最初、自分は小麦粉を線へ完全に合わせようとしていた。


 焼き菓子も、一つずつ量り、同じ形へ揃えようとした。


 けれど、皆が選んだのは、最も丸く、最も綺麗なものだけではなかった。


 エルナも、リリアも、手前にあるものを取った。


 形が少し違っても、美味しいと言った。


 それでも、どれほど違ってもよいわけではない。


 大きすぎれば焼き上がりが変わる。


 小さすぎれば硬くなる。


 焦げたものは渡さない。


 必要なのは、すべてを同じにすることではなく、どこまでなら同じように喜んでもらえるのかを判断することだった。


 ティアは量りを棚へ戻す。


 厨房を出る前、作業台の上へ残った小さな生地の欠片へ気づいた。


 明日の試作には使えないほど僅かな量だった。


 以前なら、同じ形へできないものとして捨てていたかもしれない。


 ティアはルークへ確認し、小さく丸めて窯の端へ入れた。


 焼き上がったものは、ほかよりずっと小さい。


 客へ渡すものにはできない。


 けれど、食べられないわけではなかった。


「味見用です」


 ティアは半分をルークへ渡す。


「ずいぶん小さいな」


「同じ形にはできませんでした」


「そうだな」


 ルークは一口で食べる。


「少し硬い」


「小さいからです」


「分かってきたな」


 ティアも残りを口へ入れた。


 確かに、少し硬い。


 それでも、赤い果実の甘酸っぱさは残っている。


「明日は、今日より早く作ります」


「ああ」


「でも、急ぎすぎません」


「それでいい」


 厨房の外では、セレナのリュートとミーナの歌が、もう一度だけ重なった。


 昨日までは形のなかった感謝が、少しずつ焼き菓子と音楽へ変わり始めている。


 まだ、すべては揃っていない。


 だからこそ、皆で一つずつ整えていくことができた。

お読みいただきありがとうございます。

ブックマークや評価をいただけると励みになります。

よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。