↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第6章 光が崩れ、月明かりが生まれる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

121/130

第118話 客を断れない店

 ルミエールの開店時刻まで、まだ一刻近く残っていた。


 客席には半分ほどしか灯りが入っておらず、舞台では演奏者たちが楽器の音を確かめている。


 接客係たちは二階の控室で支度を進め、黒服たちは酒瓶の本数、卓の位置、入口から舞台までの通路を確認していた。


 普段なら、営業前の準備はそれぞれの持ち場で進められる。


 しかし、その日の黒服たちは事務室へ集められていた。


 集まったのは、ドミニクをはじめとする現場責任者。


 元店主として大人数の客を扱ってきた黒服。


 貴族家や大商家で来客対応をしていた元執事。


 そして、フィオナの腕をつかんだ客への対応をためらったベネデットだった。


 部屋の中央にある卓には、昨夜の営業記録が広げられている。


 来店者数。


 酒の販売本数。


 料理の注文数。


 舞台ごとの観客数。


 問題が起きた卓。


 途中で退店した客。


 体調を崩した接客係。


 数字は細かく記されていた。


 だが、そのすべてを並べて見ると、ルミエールが抱えている問題は一人の客だけではないことが分かる。


「昨日、客席で三件の揉め事が起きています」


 ドミニクが記録を見ながら話し始めた。


「一件は、フィオナの腕をつかんだ客。もう一件は、舞台前へ移動しようとした客同士の席争い。最後は、酒をこぼした客が黒服へ弁償を拒んだ件です」


「負傷者は?」


 元店主の黒服、マティアスが尋ねた。


「フィオナの手首に赤い跡が残りました。客同士の争いでは、一人が卓の角へ腰をぶつけています。大きな怪我ではありません」


「大きな怪我ではないから、問題ではないという意味か?」


 ベネデットが言う。


 ドミニクは彼を見る。


「そうは言っていない」


「だが報告書には、軽傷とだけ書かれていた」


「事実だ」


「フィオナが助けを求めても、すぐに動けなかったことは?」


 事務室の空気が僅かに張り詰める。


 昨夜、カイルへの報告を終えてから、ベネデットはほとんど眠れなかった。


 フィオナが笑っていたことを理由に、大丈夫だと思おうとした。


 高級酒の瓶と客の服装を見て、介入をためらった。


 腕をつかまれている女性より、客が怒る可能性を先に考えた。


 その事実が、頭から離れなかった。


「今は、全体の対策を考える場だ」


 ドミニクは抑えた声で答えた。


「だから話している」


 ベネデットは引かなかった。


「俺たちは、何を問題として扱うのかを決めなければならない」


「何を、とは?」


「怪我をした後だけ動くのか。客が大声を出した時だけ止めるのか。接客係が明確に嫌だと言えた時だけ助けるのか」


 ベネデットは卓の上にある営業記録を見る。


「それとも、危険になりそうな段階で止めるのか」


 誰もすぐには答えなかった。


 黒服たちは問題が起きれば対応している。


 酒瓶が倒れれば片づける。


 客同士が言い争えば間へ入る。


 接客係が泣けば控室へ下げる。


 だが、それらはすべて問題が目に見える形になってからだった。


「昨日の卓へは、俺も早く入るべきだったと思っている」


 ドミニクが言った。


「だが、すべての客の会話へ黒服が口を挟むわけにはいかない」


「それは分かっている」


「接客係が困っているように見えるたびに担当を交代させれば、客は落ち着いて楽しめない」


「なら、合図を決めるべきだ」


 ベネデットは答えた。


「接客係が言葉にできなくても、黒服へ助けを求められる合図を」


「視線だけでは分かりにくい」


「杯の位置でもいい。布を触る動作でもいい。卓から離れる口実を決めてもいい」


 元執事の一人が考えるように顎へ手を当てた。


「貴族家では、主人が話を切り上げたい時の合図がありました。使用人だけが分かるように」


「それを接客係と黒服の間で決めればいい」


 ベネデットが言う。


「少なくとも、本人が笑っているから問題ないとは判断しなくて済む」


「それだけでは足りない」


 マティアスが低い声で口を開いた。


 全員が彼を見る。


 マティアスは、ルミエールへ入る前、小さな宴会場を長く経営していた。


 大人数の客へ料理と酒を出す経験がある。


 客同士の喧嘩を止めたことも、泥酔した客を店外へ出したこともある。


「昨日の問題は、合図だけではない」


「どういう意味だ?」


 ドミニクが尋ねる。


「客が多すぎる」


 マティアスは営業記録の来店者数を指した。


「満席になった後も、入口で待っていた客を中へ入れた。舞台が見える場所へ立たせ、席が空けば案内するつもりだった」


「入場料を支払った客を、外で待たせ続けるわけにはいかない」


「だから最初から入れない人数を決めるべきだ」


「客を断れと言うのか?」


「席がないならな」


 マティアスは迷わず答えた。


「立ち見客が通路を塞いだ。黒服が酒を運ぶたびに、人の間を抜けなければならなかった。舞台を見るために客が移動し、卓同士の争いも起きた」


「開店したばかりの店だ。客が来ている時に断れば、次から来なくなる」


「事故が起きれば、もっと来なくなる」


 マティアスは卓へ指を置く。


「昨夜、俺が数えただけでも、客と黒服がぶつかりかけた場面が七回あった。接客係が酒瓶を避けるため、客の椅子へ身体を寄せた場面もある。舞台前では、演者が降りる通路を客が塞いでいた」


「すべて問題なく終わった」


「問題なく終わったのではない。偶然、大きな事故にならなかっただけだ」


 その言葉に、事務室が静かになる。


「客数だけではありません」


 別の黒服が発言した。


「泥酔した状態で入店する客も増えています」


「入口で歩けない者は断っている」


 ドミニクが答える。


「一人で立てるかだけを見ています。会話が成り立つか、すでにどれだけ飲んでいるかまでは確認していません」


「酒場へ来る客が酒を飲んでいるのは当然だ」


「少し飲んでいることと、店へ入った時点で酔っていることは違います」


 黒服は昨夜の記録を開く。


「席争いを起こした二人は、入店時から酒の匂いが強かったそうです。料理をほとんど頼まず、さらに蒸留酒を注文しています」


「注文を受けたのは接客係だ」


「店が売る酒を勧めていますから」


 責任を接客係だけへ押しつけることはできない。


 黒服たちの多くが、そのことを理解していた。


「酒の提供を止める基準も必要です」


 ベネデットが言う。


「呂律が回らない。何度も同じ注文をする。立ち上がる時によろめく。他人の席へ行こうとする。そうなれば、水や料理を勧め、酒を止める」


「高級酒を注文する客にもか?」


 ドミニクの問いに、ベネデットは僅かに言葉を詰まらせた。


 昨夜の判断が頭をよぎる。


 高級酒。


 上等な衣服。


 大きな支払額。


 それらを見て、客へ強く言えなかった。


「支払額に関係なく、だ」


 今度は、はっきりと答えた。


「同じ店にいる以上、同じ基準で止めるべきだ」


「客が怒れば?」


「怒らせない言い方を考えるのは俺たちの仕事だ。だが、怒らせないために酒を出し続けるのは違う」


「客が、別の店なら飲ませてもらえると言ったら?」


「行かせればいい」


 マティアスが答えた。


 ドミニクが眉を寄せる。


「簡単に言うな」


「簡単ではない。客を断れば売上は減る。悪評を流される可能性もある。だが、扱えない客まで受け入れれば、働く者が壊れる」


 マティアスは自分が以前経営していた店を思い出すように、ゆっくりと話した。


「昔、常連を一人失うのが怖くて、酒を出し続けたことがある。そいつは帰り道で荷車へぶつかり、脚を折った。店を出た後のことだから関係ないと言う者もいた」


「実際、店の外だ」


「だが、俺は知っていた。もう飲ませるべきではないと」


 マティアスはドミニクを見る。


「止めるべき時に止めなければ、店内で起きなくても、店の判断が原因になることはある」


 ドミニクは黙った。


 営業前の事務室へ、舞台から音合わせの旋律が届く。


 華やかな音。


 客を迎えるための音楽。


 その裏で、黒服たちは店がどこまで客を受け入れるのかを話している。


「提案をまとめよう」


 ベネデットが言った。


「第一に、入店できる人数を定める。席が埋まり、安全に通路を確保できない場合は新しい客を断る」


「立ち見を完全になくすのか?」


「舞台を見るための場所を別に確保できない限りは」


 マティアスが答える。


「第二に、泥酔状態の客を入れない」


「判断基準は?」


「一人で歩けるかだけではなく、受け答え、酒の匂い、足取りを見る。判断に迷ったら、二人の黒服で確認する」


「第三に、店内で酒量を制限する」


 ベネデットが続ける。


「よろめき、暴言、他の卓への接触が見られた場合は、水と料理を勧める。酒は止める」


「第四に、問題客には退店を求める」


 マティアスが言った。


「接客係や他の客へ触れる。威圧する。物を投げる。黒服の制止へ従わない。その場合、支払額や身分に関係なく退店させる」


「カイル様が認めると思うか?」


 誰かが小さく尋ねた。


 その一言で、部屋の空気が重くなる。


 現場で働く者たちが、何を危険だと感じているか。


 黒服として何をすべきだと思うか。


 それを決めても、最終的にはカイルが許可しなければ実行できない。


「認めさせるために話す」


 ベネデットが答えた。


「少なくとも、何も言わずに次の問題を待つことはできない」


「フィオナの件があったからか?」


 ドミニクが尋ねる。


「それだけではない」


 ベネデットは記録へ視線を落とした。


「だが、あの時に動けなかった自分が、次も同じ判断をすることだけは避けたい」


 黒服たちは提案を文書へまとめた。


 安全に受け入れられる客数。


 入口での確認項目。


 酒を止める目安。


 問題客への段階的な対応。


 接客係から黒服へ伝える合図。


 責任者を待たず、現場の黒服が動いてよい範囲。


 それは、これまでのルミエールにはなかったものだった。


 ルミエールには大勢の黒服がいる。


 揃いの黒い服を着ている。


 客を案内し、酒を運び、卓を片づける。


 だが、客の支払額や身分を越えて、安全を優先する権限は与えられていない。


 黒服たちは初めて、自分たちが必要だと思う権限を言葉にした。


 開店時刻が近づく頃、カイルが事務室へ入ってきた。


「営業前に全員を集めたと聞いた」


 ドミニクが立ち上がる。


「昨夜の問題を受け、黒服側から提案がございます」


「昨夜の件なら、対応は決めたはずだ」


「フィオナの件だけではありません」


 マティアスがまとめた紙を差し出した。


 カイルは受け取り、上から順に読む。


 最初は表情を変えなかった。


 だが、読み進めるうちに眉間へ僅かな皺が寄る。


「入場人数の制限」


 カイルが読み上げる。


「満席時、新規客を断る」


「安全な通路を残すためです」


 マティアスが答えた。


「入場料を支払う客を、入口で帰すのか?」


「席も立ち見場所もない状態で入れる方が問題です」


「舞台が見える場所はある」


「通路です」


「少し立って待つだけだ」


「酒を運ぶ黒服と重なります。客が舞台へ近づけば、出演者の出入りも塞がれます」


「通路整理をする黒服を置け」


「その黒服が足りません」


「増やせばいい」


「すぐには増やせません。黒い服を着せれば動けるわけではありません」


 マティアスの言葉が、カイルの表情を僅かに硬くした。


「次は、泥酔客の入店拒否」


 カイルは紙へ目を戻す。


「酒を飲む店が、酔っている客を断るのか?」


「すでに正常な判断が難しい状態の客です」


 ベネデットが答える。


「一人で立てるかだけでは不十分です」


「入口で長く確認すれば、列が伸びる」


「必要な確認です」


「Club Moon Dropの真似か?」


 その言葉に、黒服たちは黙った。


 カイルは彼らの表情を見渡す。


「客を選び、入店を制限し、黒服が客へ命令する。あの店と同じことをしたいのか?」


「同じ店にしたいわけではありません」


 ベネデットが答えた。


「舞台も、客数も、営業方法も違います。ただ、安全のために必要な判断はあります」


「安全という言葉を使えば、何でも制限できると思うな」


 カイルは紙を卓へ置く。


「満席の時に客を断れば、どこへ行く?」


 誰も答えなかった。


「Club Moon Dropだ」


「紹介者がいなければ入れません」


 ドミニクが言う。


「全員ではない。だが、正式会員も新しい店を試しに来ている。ここで断れば、向こうへ戻る理由を与える」


「安全な人数を越えてまで、受け入れるのですか」


 マティアスが尋ねる。


「建物にはまだ入る」


「人が入る空間と、安全に営業できる人数は違います」


「大きな店には混雑がある」


「混雑と危険も違います」


 カイルの視線がマティアスへ向く。


「以前の店を閉じた者が、経営を語るのか?」


 マティアスの表情が止まる。


 彼が以前営んでいた宴会場は、客の減少と借金によって閉店した。


 ルミエールへ応募した時、その経歴もすべて話している。


「閉じたから分かることもあります」


 マティアスは静かに答えた。


「客を失う怖さも。目の前の売上を優先して、判断を遅らせる怖さも」


「私は失敗談を聞くために、お前を雇ったのではない」


「現場を任せるために雇ったのではありませんか」


 ドミニクが横からマティアスを見る。


 カイルの顔から、僅かに温度が消える。


「現場を任せることと、経営方針を決めさせることは違う」


「では、問題が起きた時、どこまで判断してよいのですか」


 ベネデットが尋ねた。


「接客係の腕をつかむ客がいた。俺は客の支払額を見て、強く言えなかった」


「その件は報告を受けた」


「次に同じことが起きたら、俺の判断で退店を求めてもよいですか」


「程度による」


「どの程度ですか」


「怪我をさせる。暴力を振るう。明確な危険がある場合だ」


「腕をつかむことは?」


「すぐに離せば、退店まで求める必要はない」


「離さなければ?」


「責任者を呼べ」


「責任者が来るまで、接客係をつかませたままにするのですか」


「極端な言い方をするな」


「現場では、その場で決めなければなりません」


 ベネデットの声には、昨夜の後悔が滲んでいた。


「客へ手を離すよう求める。応じなければ、接客係を引き離す。さらに抵抗するなら退店を求める。その判断を黒服へ認めてください」


「高額客にもか?」


「支払額に関係なく」


 カイルはベネデットを見た。


「それでは、黒服が客より上に立つことになる」


「上ではありません」


「客の希望を拒み、退店を命じるのだろう」


「店の規則を守らせるだけです」


「その規則を、お前たちが作ろうとしている」


「必要だからです」


 ベネデットは一歩も引かなかった。


「今のルミエールには、客を止める規則がありません」


「客を止める店ではない。客を楽しませる店だ」


「ほかの客や働く者を傷つけてもですか」


「そのために黒服がいる」


「止める権限がない黒服に、何ができますか」


 カイルの目が細くなる。


 事務室の外では、開店準備の足音が増えている。


 入口へ酒樽が運ばれる音。


 客席の灯りを確認する声。


 今夜も多くの客が来る。


 話し合いに時間を使い続ける余裕はなかった。


「提案は認めない」


 カイルは紙を卓へ戻した。


「すべてですか」


 ドミニクが尋ねる。


「接客係の合図は決めてよい。黒服が早く状況を確認できるようにしろ」


 ベネデットは僅かに息を吐いた。


「だが、入場人数の制限は行わない。泥酔客も、一人で歩き、支払いができるなら入れる」


「酒の提供制限は?」


「客へ水や料理を勧めるのは構わない。だが、注文を一方的に断るな」


「問題客の退店は?」


「責任者が判断する」


「責任者が別の問題へ対応している場合は?」


「呼べ」


「間に合わない場合は?」


「その場で、客を刺激しないよう収めろ」


 昨夜と何も変わらない。


 ベネデットはそう感じた。


 客を刺激するな。


 怒らせるな。


 責任者を呼べ。


 それまで、黒服自身では最後の判断をするな。


「今夜は予約が多い」


 カイルは続けた。


「入口で客を止めれば、開店したばかりの勢いを失う。今は客を断る時期ではない」


「いつなら断るのですか」


 マティアスが尋ねる。


「客が十分に定着してからだ」


「その前に事故が起きたら?」


「起こさないために、お前たちがいる」


 カイルはそれだけを告げ、事務室を出ていった。


 扉が閉まる。


 黒服たちは誰もすぐに動かなかった。


 カイルの判断は明確だった。


 安全を否定しているわけではない。


 黒服へ何もするなと言っているわけでもない。


 だが、客を断る判断だけは認めない。


 売上を失う可能性がある選択を、現場へ与えようとしない。


「開店準備へ戻ろう」


 ドミニクが言った。


「合図だけは決める」


「それで十分だと思うか?」


 ベネデットが尋ねる。


「十分ではない」


 ドミニクは正直に答えた。


「だが、認められた範囲で始めるしかない」


「また誰かが腕をつかまれたら?」


「すぐに入る」


「客が離さなければ?」


「俺を呼べ」


「また、それか」


「今の規則では、そうするしかない」


「規則が間違っていると分かっていても?」


 ドミニクは答えなかった。


 やがて開店の鐘が鳴った。


 正面扉が開かれる。


 入口へ並んでいた客たちが、一斉に中へ入ってくる。


 最初の一刻で、舞台に近い卓はほぼ埋まった。


 接客係たちは挨拶をし、黒服は酒と料理を運ぶ。


 華やかな歌が始まり、客席から拍手が起きた。


 営業前の話し合いなど、何もなかったような賑わいだった。


 フィオナは、その夜、舞台から離れた卓を担当していた。


 手首の赤みは薄くなっている。


 衣装の袖で隠れるため、客からは見えない。


 担当するのは、夫婦で来店した商人だった。


 妻は舞台の演奏を楽しみ、夫は王都の酒へ興味を示している。


 無理な要求はない。


 フィオナの話も聞き、料理について尋ねる。


 穏やかな客だった。


 それでもフィオナは、客が手を伸ばすたびに身体が僅かに固くなった。


 杯を取るだけ。


 料理を指すだけ。


 それでも昨夜の指が、手首へ戻ってくるように感じる。


「どうかなさいましたか?」


 妻が尋ねた。


 フィオナは反射的に笑顔を作りかける。


「何でもございません」


 いつもの言葉が口元まで出た。


 だが、途中で止める。


「少し、手首を痛めておりまして」


「まあ。大丈夫なの?」


「強く動かさなければ問題ございません」


「それなら、酒瓶はこちらへ置いてちょうだい。自分たちで注ぐわ」


「ありがとうございます」


 フィオナは素直に頭を下げた。


 事情をすべて話したわけではない。


 客へ心配をかけないよう、必要なことだけを伝えた。


 それでも、何でもないと隠すより息がしやすかった。


 妻はそれ以上問い詰めなかった。


 夫も、フィオナへ酒を注がせようとはしない。


 同じ客でも、すべての者が自分の都合だけを押しつけるわけではない。


 そのことに、フィオナは僅かに救われた。


 だが、店内全体は時間とともに混雑していった。


 すべての卓が埋まる。


 入口では、まだ多くの客が待っている。


 黒服がカイルへ確認すると、そのまま入れるよう指示が出た。


 立って舞台を見たい客には、壁際へ案内する。


 席が空いたら順番に移す。


 入場料を先に受け取る。


 客が増えるたび、通路が狭くなった。


「失礼いたします」


 酒瓶を持った黒服が、人の間を抜ける。


 客の肩が触れる。


 謝る。


 少し位置をずらしてもらう。


 だが舞台が始まると、客は再び見やすい場所へ動く。


 出演者が舞台袖から出る通路にも、人が集まり始めた。


「こちらは通路です。少しお下がりください」


 ベネデットが呼びかける。


「舞台が見えない」


「別の位置をご案内します」


「そこでは遠い」


「出演者が通りますので」


「少しくらいいいだろう」


 一人を動かしても、別の客が空いた場所へ入る。


 ベネデットは何度も同じ説明を繰り返した。


 入口では、すでに酔っている四人組が案内されていた。


 肩を組み、大声で笑っている。


 一人は足取りが僅かに揺れていた。


 入口担当の黒服が迷う。


「お客様、すでにどこかで飲まれておりますか?」


「金獅子亭で少しな」


「少しじゃないだろう」


 仲間が笑う。


「まだ飲めるぞ」


「お一人で歩けますか?」


「見れば分かるだろ」


 男は黒服の前で数歩進んだ。


 僅かにふらついたが、倒れはしない。


「入場料も払える」


 硬貨を見せる。


 黒服は事務室での話を思い出した。


 受け答え。


 酒の匂い。


 足取り。


 本来なら、二人で状態を確認したい。


 だがカイルは、一人で歩き、支払いができるなら入れると決めた。


「ご案内いたします」


 黒服は四人を店内へ通した。


 四人組は舞台に近い空席を求めた。


 しかし席はない。


 壁際の立ち見場所へ案内される。


「金を払って立つのか?」


「席が空き次第、ご案内いたします」


「最初に言えよ」


「申し訳ございません」


「酒は買えるんだろうな」


「もちろんでございます」


 四人は立ったまま蒸留酒を注文した。


 黒服は注文を受け、酒を運んだ。


 一杯目はすぐに空く。


 二杯目も早い。


 料理は頼まない。


 舞台へ歓声を上げ、近くを通る接客係へ声をかける。


 接客係は担当卓があるため、短く挨拶して離れようとする。


「待てよ」


 一人が腕を伸ばす。


 接客係は身を引いた。


 手は届かなかった。


 だが男は面白そうに笑った。


「逃げられたぞ」


「嫌われてるんじゃないか」


 仲間がからかう。


 接客係は笑顔を作ったまま、その場を離れた。


 ベネデットがすぐに近づく。


「お客様、通路で接客係を呼び止める行為はお控えください」


「触ってないぞ」


「手を伸ばしておられました」


「冗談だ」


「相手が驚く行為はおやめください」


 男の顔が僅かに険しくなる。


「客へ説教するのか?」


 ベネデットは一瞬だけ、周囲を見る。


 高級酒ではない。


 身なりも特別ではない。


 昨夜の客と違うから強く言えるのではないか。


 そんな迷いが胸へ生まれる。


 支払額に関係なく同じ基準で止めるべきだと、自分で話したばかりだった。


「お支払いいただいていることと、働く者へ手を伸ばすことは別です」


 フィオナが練習していた言葉を思い出しながら、ベネデットは答えた。


「次に同じ行為があれば、酒の提供を止めます」


「酒を止める権利があるのか?」


「店内の安全を守るためです」


「責任者を呼べ」


 男が言う。


 ベネデットは口を閉じた。


 自分には、酒を止める正式な権限がない。


 カイルは一方的に注文を断るなと命じている。


「お待ちください」


 ベネデットはドミニクを探す。


 しかしドミニクは、別の卓で起きた席争いへ対応していた。


 マティアスは入口付近の混雑を整理している。


 すぐに来られる責任者はいない。


「呼べないのか?」


 男が笑う。


「なら、もう一杯だ」


 仲間が黒服へ注文する。


 ベネデットは断れなかった。


「少々お待ちください」


 注文を別の黒服へ伝える。


 その瞬間、自分が何をしているのか分からなくなった。


 危険だと感じている客へ、さらに酒を運ばせる。


 接客係へ手を伸ばした客へ、次の一杯を売る。


 営業前に止めるべきだと話しながら、現場では止められない。


 やがて舞台の演目が終わり、大きな拍手が起きた。


 客たちが一斉に動く。


 席を立つ者。


 舞台へ近づく者。


 酒を追加する者。


 出口へ向かう者。


 通路はさらに混雑した。


 四人組の一人が、空いた席を見つける。


「空いたぞ」


 卓へ向かおうとする。


 だが、その席には先に待っていた別の客が案内されるところだった。


「そこは俺たちが取った」


「順番にご案内しております」


 黒服が説明する。


「俺たちは先に酒を頼んでいる」


「入店順にご案内しております」


「立たせておいて、後から来た奴を座らせるのか」


「こちらのお客様の方が先にお待ちです」


「嘘をつくな」


 酔った男が黒服の肩を押す。


 強くはない。


 だが黒服は後ろにいた客へぶつかる。


 その客が持っていた杯から酒がこぼれる。


「何をする!」


 声が上がる。


 周囲の客が振り返る。


 フィオナも担当卓から異変へ気づいた。


 ベネデットが男たちの間へ入る。


「おやめください」


「こいつが邪魔した」


「黒服へ手を出した時点で、酒の提供を止めます」


 今度は迷わず言った。


「勝手に決めるな!」


「これ以上は提供できません」


「責任者を呼べ!」


「呼びます。それまで、こちらでお待ちください」


 男はベネデットの胸元をつかもうとした。


 ベネデットは腕を押さえる。


 力でねじ伏せない。


 だが、触れさせない距離を保つ。


「手を離してください」


「お前が離せ!」


 周囲の客が後ろへ下がる。


 狭い通路で人が押し合う。


 椅子が倒れる。


 舞台袖から次の出演者が出ようとして、足を止める。


「通路を空けてください!」


 マティアスが声を上げた。


 黒服たちが客を誘導する。


 しかし人数が多く、すぐには動かない。


 舞台が見えなくなったと不満を言う者もいる。


「何があった?」


 ようやくドミニクが到着する。


「接客係へ手を伸ばした後、席を巡って黒服を押しました」


 ベネデットが説明する。


「酒の提供を止めると伝えています」


「誰の許可で止めた」


「この状態で、さらに出せません」


「客の前だ」


 ドミニクが低い声で注意する。


 酔った男が勝ち誇ったように笑う。


「ほら。お前が勝手に言っただけだろう」


「お客様」


 ドミニクは男へ向き直る。


「本日は、これ以上のお酒をお出しできません」


 ベネデットが驚いて彼を見る。


「何だと?」


「一度、水をお飲みいただき、落ち着いていただきます」


「金はある」


「お支払いの問題ではございません」


「さっきの黒服と同じことを言うのか」


「店内でほかのお客様と従業員へ危険が及んでおります」


「危険? 誰も怪我してないだろう」


「椅子が倒れ、通路が塞がれています」


「大げさだ」


「お連れの方と共に、今夜はお帰りください」


 ドミニクは退店を求めた。


 営業前のカイルの指示では、責任者が判断することになっている。


 その責任者として、自分が決めた。


「追い出すのか?」


「これ以上、安全にお過ごしいただけないと判断しました」


「二度と来ないぞ」


「本日はお帰りください」


「Club Moon Dropへ行ってやる」


 男は吐き捨てるように言った。


 ドミニクの表情が僅かに揺れる。


 カイルが最も恐れていた言葉だった。


 客を断れば、Club Moon Dropへ流れる。


 だが、ここで退店を取り消せば、黒服の制止は意味を失う。


「お客様のご判断です」


 ドミニクは答えた。


「ただし、今夜は当店をご利用いただけません」


 男はドミニクを睨みつけた。


 仲間の一人が腕を引く。


「行こう。ここは面倒だ」


「金まで払わせておいて」


「帰りに別の店で飲めばいい」


 四人組は悪態をつきながら出口へ向かった。


 黒服が周囲へ頭を下げ、倒れた椅子を戻す。


 こぼれた酒を拭く。


 通路を空ける。


 出演者たちは舞台袖で開始を待っている。


 演奏が遅れたことへ、客席から不満の声も上がっていた。


 それでも、大きな怪我は起きなかった。


 客が店を出た後、ベネデットはドミニクを見る。


「退店を求めたな」


「ああ」


「カイル様には?」


「俺が報告する」


「処分されるかもしれない」


「責任者として判断した」


 ドミニクは倒れた椅子の脚を確認する。


「お前が止めなければ、もっと早く揉めていたかもしれない」


 ベネデットは少しだけ目を見開く。


「なら、なぜ最初に責めた」


「客前で、権限の有無を言い争うべきではなかった」


「それは悪かった」


「だが、止めた判断は間違っていない」


 ドミニクは周囲へ目を向ける。


「営業を戻す。話は後だ」


 舞台の演目が再開された。


 演奏が始まり、照明が出演者を照らす。


 客席から拍手が起きる。


 先ほどの騒ぎは、華やかな音によって覆われていく。


 だが、働く者たちの中から消えたわけではなかった。


 営業後。


 事務室には、カイルとドミニク、ベネデット、マティアスが集まっていた。


「客を追い出したそうだな」


 カイルは営業記録を見ながら尋ねた。


「はい」


 ドミニクが答える。


「黒服を押し、ほかの客へ酒をこぼさせました。制止にも従わず、店内の混乱が広がったため退店を求めました」


「酒の提供を止めたのは?」


「俺です」


 ベネデットが答えた。


「誰の許可を得た」


「責任者を呼ぶまで待てないと判断しました」


「私は、注文を一方的に断るなと言ったはずだ」


「さらに酒を出せば、悪化すると考えました」


「考えた、か」


 カイルは記録へ視線を落とす。


「四人の支払予定額は、どの程度だった?」


 会計係がまとめた数字をドミニクが答える。


 すでに支払った入場料と酒代。


 その後も滞在していれば、追加注文が見込まれた額。


 カイルは黙って計算する。


「今夜だけの損失ではない」


 やがて口を開いた。


「二度と来ないと言っていた。知人へ悪評を流す可能性もある」


「残していれば、ほかの客が帰った可能性もあります」


 マティアスが言った。


「実際、近くの卓の客は不安そうにしていました」


「帰ったのか?」


「退店を求めた後は残りました」


「なら問題はなかった」


「問題を止めたからです」


 マティアスは答える。


 カイルは彼を見る。


「今日の件を、自分たちの提案が正しかった証拠にするつもりか?」


「証拠ではありません」


「開店前に客を断れと求め、認められなかった。その日の営業で問題客を追い出した。随分と都合がいい」


 ベネデットの顔が強張る。


「俺たちが客を煽ったと言いたいのですか」


「そうは言っていない」


「なら、何を疑っているのです」


「現場が、自分たちの望む規則を作るために、客へ過剰に厳しくなっていないかを確認している」


「黒服を押した客です」


「殴ったわけではない」


「接客係へ手を伸ばしました」


「触れてはいない」


「酒を止めなければ、次は触れていたかもしれない」


「起きていないことを理由にするな」


 昨夜と同じ言葉だった。


 フィオナが腕をつかまれる前。


 客が怒鳴る前。


 椅子が倒れる前。


 酒がこぼれる前。


 危険を感じても、まだ起きていないという理由で止められない。


 そして実際に起きた後は、大きな怪我ではないと扱われる。


「カイル様」


 ドミニクが口を開く。


「退店を求めたのは、私です」


「分かっている」


「現場責任者として必要だと判断しました」


「私の指示よりもか?」


「客席では、すぐに決める必要がありました」


「だから責任者へ判断を任せている」


「その判断をしました」


 ドミニクはカイルの目を見る。


「今夜の客を残せば、別の卓へ移ろうとした可能性があります。接客係へ再び手を伸ばしたかもしれない。ほかの客との争いが続いたかもしれない」


「すべて可能性だ」


「安全は、可能性の段階で考えなければ間に合いません」


 カイルは黙った。


 ドミニクは、これまでカイルの方針へ従ってきた。


 売上を優先する。


 高額客へ配慮する。


 接客係へ販売を促す。


 問題が起きれば、客を怒らせないよう収める。


 その彼が、初めて正面から異なる判断を主張している。


「お前までClub Moon Dropの考えへ染まったのか」


 カイルが尋ねる。


「一度も働いたことはありません」


「なら、なぜ同じことを言う」


「同じではないと思います」


 ドミニクは答えた。


「客を断ることが、あの店だけの考えだとは思いません。扱える人数を決めることも、危険な客を止めることも、店を続けるために必要です」


「売上を落として店が続くのか?」


「事故や問題が増えても続きません」


「今夜の売上は、過去最高に近い」


「だから問題がないのですか」


「数字は結果だ」


「フィオナの腕の跡は、数字へ入りません」


 ベネデットが言った。


 カイルの視線が彼へ向く。


「今夜、接客係が逃げたことも、黒服が押されたことも、客が怖がったことも、売上表では分かりません」


「営業記録には残している」


「残しても、判断へ使わなければ意味がありません」


「何を求めている」


「満席なら客を断ること」


 マティアスが答えた。


「泥酔した客を入れないこと」


 ベネデットが続ける。


「危険な状態なら酒を止めること」


 ドミニクも言った。


「問題客へ、支払額に関係なく退店を求めること」


 三人の言葉が重なる。


 カイルはしばらく何も言わなかった。


 卓の上には、その日の売上が並んでいる。


 入場者数は開店以来でも高い。


 酒も売れた。


 高級酒の注文も多い。


 四人を退店させても、店全体では十分な利益が出ている。


 カイルから見れば、自分の方針が間違っている証拠はなかった。


「認めない」


 静かに答えた。


 ベネデットの拳が握られる。


「今夜の退店判断は、責任者の裁量として処分しない」


 カイルはドミニクを見る。


「だが、それを一般的な規則にはしない」


「なぜですか」


「客を断る店という評判が立つ」


「危険な客だけです」


「誰が危険かを、客は自分で認めない」


「だから店が判断します」


「その判断が間違っていた場合、失った客は戻らない」


「入れた判断が間違っていた場合、傷ついた者も元には戻りません」


 ベネデットが言った。


「大きな怪我は起きていない」


 カイルの返答に、三人は黙った。


 また同じ言葉だった。


 まだ大きな怪我はない。


 だから現在の方針は変えない。


 危険はある。


 小さな問題も増えている。


 働く者も不安を訴えている。


 それでも、数字が伸びている限り、カイルには方針を変える理由がなかった。


「明日から、黒服を一人増やす」


 カイルは妥協案を示すように言った。


「入口と立ち見客の整理へ配置する」


「経験者ですか?」


「酒商会の倉庫で働いていた者だ。身体が大きい」


「黒服の仕事を理解しているのですか」


「教えればいい」


「一日で?」


「最初は客を案内し、通路を空けるだけでいい」


 マティアスは目を伏せた。


 人を増やせば、客をさらに入れられる。


 カイルの中では、安全対策も客数を維持するための手段だった。


「話は終わりだ」


 カイルは記録を閉じる。


「明日も予約が多い。客を断ることは考えるな」


 三人は事務室を出た。


 廊下には、営業を終えた接客係たちが控室へ戻る足音が響いている。


 ベネデットは歩きながら、ドミニクへ尋ねた。


「次も、退店を求めるか?」


「同じ状況なら」


「カイル様は認めていない」


「責任者の裁量は残された」


「規則にはしないと言った」


「だから、俺がいる時しか判断できない」


 ドミニクは苦い表情を見せる。


「それでは足りない」


「分かっている」


 マティアスが立ち止まる。


「今日、ドミニクが別の卓にいたらどうなっていた?」


 誰も答えられない。


 ベネデットが酒を止めても、客から責任者を呼べと言われる。


 責任者が来るまで待つ。


 その間に問題が広がる。


 現場の黒服が同じ判断をできなければ、守れるかどうかは責任者の位置と運に左右される。


「客を断れない店は、客を選ばない店ではない」


 マティアスが静かに言った。


「客のすることを止められない店だ」


 その言葉を残し、彼は片付けへ戻った。


 同じ頃。


 二階の控室では、フィオナが衣装を脱ぎ、手首の状態を確認していた。


 赤みは昨日より薄い。


 ラナが隣で髪飾りを外している。


「今夜は大丈夫だった?」


 ラナが尋ねる。


「うん。優しいご夫婦だった」


「手首のこと、隠した?」


「少し痛めているって話した」


「言えたんだ」


「全部ではないけど」


「全部話す必要はないでしょう」


 フィオナは頷いた。


「奥様が、自分たちで酒を注ぐって言ってくれた」


「よかった」


「うん」


 フィオナは僅かに笑う。


 その後、表情を曇らせた。


「途中で騒ぎがあったね」


「舞台袖まで聞こえた」


「客を帰したみたい」


「珍しいね」


「黒服の人が、酒も止めたって」


 ラナは外した髪飾りを卓へ置く。


「これからも、そうするのかな」


「分からない」


 フィオナは自分の手首へ触れる。


「でも、昨日より早かった」


「何が?」


「誰かが傷つく前に、止めようとしてた」


 実際には黒服が押され、酒もこぼれた。


 それでも、腕をつかまれてからようやく引き離された自分の時とは違う。


 ベネデットは接客係へ手を伸ばした段階で注意した。


 酒を止めると伝えた。


 正式な権限がなくても、動こうとした。


「黒服も変わろうとしてるのかもね」


 ラナが言う。


「店が変わらなくても?」


「店って、誰のこと?」


「カイルさんとか、ドミニクさんとか」


「黒服も接客係も、店の中にいるでしょう」


「でも、決めるのはカイルさんだよ」


「全部を決められるのかな」


 ラナは鏡越しにフィオナを見る。


「笑うかどうかまで、最後は決められなかったでしょう」


 フィオナは鏡へ視線を向けた。


 自分の顔が映っている。


 営業を終えた疲れ。


 薄くなった化粧。


 作り続ける必要のない表情。


「客を断れなくても、黒服が止めようとすることはできる」


 ラナが続ける。


「フィオナも、嫌だと言う練習をしてる」


「言えないかもしれない」


「黒服も、毎回止められるとは限らない」


「それでも?」


「何もしないよりはいい」


 フィオナは小さく頷いた。


 何も解決していない。


 満席でも客は入れられる。


 酔った者も断られない。


 高い金を払う客へ、黒服はまだ迷う。


 カイルは売上を優先している。


 それでも、昨日までと完全に同じではなかった。


 ベネデットは自分の判断で酒を止めた。


 ドミニクは客へ退店を求めた。


 フィオナは手首の痛みを、何でもないと隠さなかった。


 小さな変化だった。


 店の方針を変えるほどの力はない。


 それでも、働く者たちの中には、これまで飲み込んできた疑問が残り始めている。


 営業記録の最後には、その日の出来事が書き加えられた。


 ――立ち見客四名のうち一名が黒服を押し、周囲の客と接触。


 ――酒の提供を停止。


 ――責任者判断により四名へ退店を要請。


 ――大きな負傷者なし。


 そして、その下にはカイルの指示が記されていた。


 ――満席時も入場を継続。


 ――泥酔客は歩行と支払いが可能であれば受け入れる。


 ――酒の提供停止および退店判断は責任者のみが行う。


 ――客をClub Moon Dropへ流さないことを優先する。


 店が記録したのは、これからも客を断らないという方針だった。


 だが、同じ紙の余白へ、ベネデットが小さく一文を書き加えた。


 ――危険を確認した場合、責任者の到着を待たず、まず人を離す。


 正式な規則ではない。


 カイルの承認もない。


 それでもベネデットは、その一文を消さなかった。


 次に誰かが笑顔のまま助けを求めた時。


 次に酔った客が手を伸ばした時。


 支払額を確かめるより先に動くためだった。


 ルミエールは、まだ客を断れない店だった。


 だが、その中で働く者たちは初めて、客へ何を断らなければならないのかを考え始めていた。

お読みいただきありがとうございます。

ブックマークや評価をいただけると励みになります。

よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。