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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第6章 光が崩れ、月明かりが生まれる

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第117話 笑顔の奥の拒絶

 ルミエールの開店前。


 二階の控室では、接客係たちが鏡の前へ並び、化粧や髪飾りを整えていた。


 舞台で使う楽器の音合わせが、床を通して小さく響いてくる。


 衣装の飾りが擦れる音。


 香油の匂い。


 客席へ運ぶ酒瓶を確認する黒服の声。


 これから始まる華やかな夜を前に、店内では多くの者が慌ただしく動いていた。


 フィオナは鏡へ向かい、自分の頬へ薄く色を重ねていた。


 昨日よりも、少しだけ時間がかかっている。


 化粧の濃さが決まらないわけではない。


 鏡の中にいる自分が、きちんと笑えているか分からなかった。


 口角を上げる。


 目元を僅かに細める。


 客を安心させる、柔らかな表情。


 これまで何度も作ってきた笑顔だった。


 けれど今は、その奥へハインツの姿が浮かぶ。


 娘へ贈ろうとしていた鞄。


 甥へ仕事を任せようと悩んでいたこと。


 高級酒の価格を聞いた時の顔。


 そして、自分と話す時間を残すために酒を買うのではなく、静かに席を立った背中。


「フィオナ」


 鏡越しに声をかけられる。


 振り返ると、ドミニクが控室の入口に立っていた。


「はい」


「今夜の担当を確認したか?」


「確認いたしました」


「最初の卓は、商業区から来る客が二名だ」


 フィオナは、配られていた担当表の内容を思い出す。


 商人ではない。


 職人でもない。


 王都とルミナスを行き来する鉱石取引の仲介人。


 以前にもルミエールを利用しており、高級酒を複数本注文した記録が残っている。


 指名した接客係を長く席へ置き、酒を一緒に飲ませることを好む客だった。


「以前、ヴィオラが担当している」


 ドミニクが続ける。


「今夜はヴィオラが別の予約へ入るため、お前が最初につけ」


「承知しました」


「前回の客のようなことはするな」


 フィオナの指先が止まる。


「前回の客、とは」


「分かっているだろう」


 ドミニクの声は低い。


「客の家庭事情を勝手に考え、注文を止めるような言葉は使うな」


「止めるつもりは――」


「つもりの話ではない」


 言葉を重ねられ、フィオナは口を閉じた。


「結果として、客は帰った。店へ利益を残さず、お前の担当時間も無駄になった」


 無駄。


 その一言に、胸の奥が僅かに痛んだ。


 ハインツと交わした会話。


 甥へ仕事を任せる方法を一緒に考えた時間。


 娘への鞄から、新しい商品へ話が広がったこと。


 すべてが、店の帳簿では無駄として扱われている。


「今夜の客は金を使う」


 ドミニクはフィオナの表情を確かめる。


「客が酒を勧めてきたなら、可能な範囲で応じろ。長く席へいてほしいと言われたなら、勝手に離れるな」


「舞台の時間はございますか?」


「お前の出演は最後の合同演目だけだ。客席を優先しろ」


「承知しました」


「それから」


 ドミニクは一歩、控室へ入る。


「客の前で困った顔をするな」


 フィオナは反射的に笑顔を作った。


「大丈夫です」


「その顔を続けろ」


 そう告げて、ドミニクは控室を出ていった。


 扉が閉じる。


 周囲にいた接客係たちは、聞こえていなかったように自分の支度を続けている。


 聞こえていたとしても、口を挟む者はいない。


 順位。


 担当。


 売上。


 誰かが注意を受けている間に、自分が巻き込まれないことを優先する。


 その空気は、すでに控室へ染みついていた。


「大丈夫?」


 小さな声がする。


 隣の鏡を使っていた若い接客係だった。


 フィオナはすぐに笑う。


「うん。少し注意されただけだから」


「昨日のお客さん、帰っちゃったんでしょう?」


「そうだね」


「怒ったの?」


「大きな声は出されなかったよ」


「じゃあ、よかったね」


 何がよかったのか。


 客が怒鳴らなかったことか。


 自分が解雇されなかったことか。


 話す時間を失ったことを、問題にしなくて済んだことか。


 フィオナは問い返さずに頷いた。


「うん」


 笑顔を作る。


 鏡の中では、いつもと同じ接客係に見えた。


 やがて開店の鐘が鳴った。


 客席へ灯りが入り、正面扉が開かれる。


 今夜も多くの客が、入場料を支払って店内へ入ってきた。


 舞台に近い席から埋まっていく。


 高級酒を見せるための棚には、磨かれた瓶が並べられていた。


 楽器の音が鳴り始める。


 黒服たちは客を案内し、接客係は笑顔で卓へ向かう。


 フィオナも、自分の最初の客を迎えた。


 二人の男は、どちらも四十代ほどだった。


 一人は太い指へ複数の指輪をはめ、腹元に金糸の刺繍がある上着を着ている。


 もう一人は痩せた長身で、頬が赤い。


 入店した時点ですでに、少し酒の匂いがした。


「ようこそ、ルミエールへ」


 フィオナは頭を下げる。


「本日、最初のお時間を担当いたします、フィオナと申します」


「最初だけか?」


 指輪をつけた男が尋ねる。


「ほかのお客様との担当状況により、途中で交代する場合がございます」


「気に入れば残せるんだろう?」


「追加のご注文や指名の状況によっては、調整いたします」


 店から教えられたとおりに答える。


 男は満足そうに笑った。


「なら、まず酒だ」


 高級酒の名を告げる。


 フィオナは注文を近くの黒服へ伝えた。


「初めてお飲みになりますか?」


「前にも飲んだ」


「香りがお好きでいらっしゃるのですか?」


「香りより、店の女が飲む時の顔が面白い」


 もう一人の男が笑う。


「強い酒だからな。飲み慣れていない女は、すぐ顔へ出る」


 フィオナは笑顔を崩さない。


「私は強い酒を多く飲むことには慣れておりませんので、少量でお願いいたします」


「少しでは分からないだろう」


「勤務中でもございますので」


「客が頼んだ酒だぞ」


 指輪の男は、当然のことのように言った。


「一緒に楽しむのが仕事だろう」


「はい。ただ、皆様のお話をきちんと伺うためにも、酔いすぎないようにしております」


「話など、後でいい」


 運ばれてきた瓶を男が受け取る。


 黒服が杯へ注ごうとしたが、男は手で止めた。


「俺がやる」


 自分の杯へ酒を注ぐ。


 隣の男にも注ぐ。


 最後にフィオナの杯へ、なみなみと酒を満たした。


「こちらは多すぎます」


「高い酒だ。残す方が失礼だろう」


「少しずついただきます」


「まず乾杯だ」


 男が杯を掲げる。


 フィオナも応じた。


「本日のご来店に」


「俺たちの儲けにな」


 三つの杯が触れる。


 フィオナは唇を湿らせる程度に酒を飲んだ。


「それだけか?」


「香りを楽しんでおります」


「もっと飲め」


「お話をしながら、ゆっくりいただきます」


 柔らかく断る。


 男は不満そうにしたものの、すぐに自分の杯を空けた。


「まあいい。今夜は機嫌がいい」


「何かよいお取引がございましたか?」


「分かるか?」


「儲けとおっしゃっていましたので」


「鉱山から出る青鉱石の取引を取った」


 男は声を大きくした。


「王都の工房が欲しがっている。これから値が上がるぞ」


「それは、おめでとうございます」


「だから今夜は金を使う」


「お祝いでいらしたのですね」


「そうだ」


 フィオナは、相手が何を喜んでいるのかを聞こうとした。


 どれほど苦労した取引だったのか。


 誰と競っていたのか。


 今後、何に使われる鉱石なのか。


 だが、男はフィオナの問いへ答えるより、自分の成功を見せることを求めていた。


「お前、俺がどれほど稼いだか知りたいか?」


「差し支えなければ」


 男が金額を告げる。


 フィオナには、それがどれほど大きな利益なのか正確には分からない。


 ただ、男は驚いてほしいのだと察した。


「それほど大きなお取引だったのですね」


「分かってない顔だな」


「申し訳ございません。鉱石のお取引には詳しくなくて」


「なら、俺が教えてやる」


 男は身を乗り出す。


 青鉱石の採掘量。


 運搬費。


 王都での売値。


 競合する商人の失敗。


 自分がどれほど相手より優れていたか。


 話は長く続いた。


 フィオナは相槌を打つ。


 質問をする。


 分からない言葉は素直に尋ねる。


 男は気分をよくし、何度も酒を追加した。


 隣の男も酔いが進み、笑い声が大きくなる。


 酒瓶は一本目が空き、二本目が運ばれた。


 フィオナの杯にも、何度か酒が注がれた。


 そのたびに、少量だけ口へ含む。


 飲み切らずにいると、男が杯を指す。


「減っていないぞ」


「少しずつ頂戴しております」


「俺の酒が飲めないのか?」


「とても香りのよいお酒です」


「なら、飲めるだろう」


「酔いすぎると、お話を覚えていられなくなってしまいますので」


 フィオナは笑顔で答える。


「せっかくお聞きした大切なお取引のお話を、忘れたくありません」


 男は一瞬だけ満足そうな顔をした。


「うまいことを言うな」


「本当にそう思っております」


「なら、半分飲め」


 杯を指で示される。


 フィオナは迷った。


 ドミニクから、客が酒を勧めてきたなら可能な範囲で応じろと言われている。


 これまでにも、客と同じ酒を口にすることはあった。


 しかし今夜の客は、フィオナが飲みたいかどうかより、従わせることを楽しんでいる。


 断れば機嫌を損ねるかもしれない。


 売上の高い客。


 店から大切にしろと言われた客。


 昨日、販売意識が低いと記録されたばかりだった。


「いただきます」


 フィオナは杯へ口をつけた。


 一気には飲まない。


 少しずつ喉へ流す。


 強い酒が舌と喉を熱くする。


 胃へ落ちた瞬間、身体の内側が燃えるようだった。


 杯を置く。


「半分も減ってないぞ」


「申し訳ございません」


「なら、もう一度だ」


 男が杯を持ち上げようとする。


 フィオナは自分の手で杯を押さえた。


「少しお時間をください」


「俺を待たせるのか?」


「次のお料理をご案内している間に、ゆっくりと――」


「話をそらすな」


 男の声が少し大きくなる。


 近くの黒服が一度、こちらへ視線を向けた。


 だが近づいてはこない。


 卓には高級酒が二本。


 客は楽しそうに見える。


 フィオナも笑っている。


 外から見れば、問題が起きているようには見えなかった。


「飲めないなら、俺の隣へ来い」


 男が自分の横の椅子を叩く。


「こちらからでも、十分にお話を伺えます」


「遠い」


「卓を挟んでおりますが、聞こえております」


「俺が近くへ来いと言っている」


 フィオナは笑顔を保った。


「店内では、皆様が安心してお過ごしいただける距離を保つようにしております」


 Club Moon Dropなら、そのような言い方で断れるのだろうか。


 フィオナは、まだ一度も中へ入ったことのない店を思い浮かべた。


 嫌な時には笑わなくてもよい。


 客の話から聞いただけの言葉。


 だが、今の自分には、笑わずに断る方法が分からない。


「安心?」


 男は笑った。


「俺が何かすると思っているのか?」


「そのような意味ではございません」


「なら来い」


 フィオナは動かなかった。


 男の笑顔が僅かに消える。


「俺は、この店でかなり使っている」


「ありがとうございます」


「お前の給金も、その金から出るんだろう?」


「店の売上から頂いております」


「なら、少しくらい客の言うことを聞け」


 隣の男が笑う。


「嫌われてるんじゃないか?」


「俺が?」


「近くへ行きたくないらしい」


「違います」


 フィオナはすぐに否定した。


「では、こちらへ」


 指輪の男が手を差し出す。


 フィオナは立ち上がるべきか迷った。


 断れば、客を怒らせる。


 ドミニクから注意を受ける。


 順位が下がる。


 担当を外される。


 ハインツのような客の隣へ座る機会まで失うかもしれない。


 それでも身体は動かなかった。


「申し訳ございません」


「何がだ?」


「このままの席で、お話しさせてください」


「俺が嫌なのか?」


「そうではありません」


「なら来い」


 同じやり取りが続く。


 フィオナの笑顔が少しずつ固くなる。


 その時、舞台で次の演目を知らせる音が鳴った。


 客席の視線が中央へ集まる。


 指輪の男も一度、舞台へ顔を向けた。


 フィオナはその隙に、近くの黒服を探す。


 目が合った。


 元執事として働いていた黒服の一人、ベネデットだった。


 フィオナは僅かに首を振る。


 助けてほしい。


 そう伝えたつもりだった。


 ベネデットは一歩こちらへ動きかけた。


 しかし卓に並ぶ高級酒と、男の服装を見る。


 その動きが止まる。


 フィオナはすぐに笑顔を戻した。


 助けを求めたことを、客に気づかれてはいけない。


「舞台が始まります」


 フィオナは言った。


「今夜は新しい歌もございます」


「舞台は後でいい」


 男は再びフィオナを見る。


「こっちへ来い」


「申し訳――」


 立ち上がろうとした瞬間だった。


 男の手が伸びる。


 フィオナの手首がつかまれた。


 指輪の硬い感触が、皮膚へ食い込む。


「これなら早い」


 男が笑う。


 フィオナの身体が固まった。


 振り払おうとはしなかった。


 強く動けば、酒瓶へ当たるかもしれない。


 客が転ぶかもしれない。


 騒ぎになれば、店へ迷惑をかける。


 何より、客を怒らせてはいけない。


「お客様」


 フィオナは笑顔を作った。


「手をお離しいただけますか?」


「嫌なのか?」


「少し驚いただけです」


「なら、座れば離す」


 男はフィオナを自分の方へ引いた。


 椅子が床を擦る。


 フィオナの身体が卓の端へぶつかりそうになる。


「お客様」


 声が僅かに震えた。


「危のうございますので」


「お前が来れば危なくない」


 隣の男が声を上げて笑う。


 周囲の客がこちらを見る。


 フィオナはさらに笑顔を強くした。


 大丈夫に見せなければならない。


 問題が起きていないように。


 自分が困っていないように。


 酔った客を刺激しないように。


「すぐにお隣へ参りますので」


 口から出た言葉に、自分で驚いた。


 本当は行きたくない。


 腕をつかまれたまま、隣へ座りたくない。


 けれど嫌だと言えなかった。


「そうか」


 男は満足そうに手を緩める。


 だが、完全には離さない。


 フィオナが逃げないように、手首をつかんだままだった。


 ベネデットが、ようやく卓へ近づいてくる。


「お客様」


 丁寧に頭を下げる。


「お楽しみのところ失礼いたします」


「何だ?」


「接客係の移動がございますので、フィオナは一度、席を外します」


 フィオナはベネデットを見る。


 助けに来てくれた。


 そのことに安堵した。


 しかし男は手を離さない。


「こいつは俺が指名した」


「承知しております」


「酒も二本頼んでいる」


「ありがとうございます」


「なら、勝手に連れていくな」


 ベネデットは返答に詰まった。


 Club Moon Dropの黒服なら、どうするのだろう。


 客の手を離させる。


 必要なら退店を求める。


 キャストを安全な場所へ下げる。


 フィオナが客から聞いた話では、そうだった。


 しかしルミエールの黒服は、客の身分と支払額を先に考える。


 目の前の男は、今夜だけで高級酒を二本注文している。


 店の上位客だった。


「少しだけ、お話をさせてください」


 ベネデットが言った。


「フィオナの手を離していただけますか」


「嫌だと言っていないぞ」


 男はフィオナを見る。


「そうだろ?」


 フィオナは答えようとした。


 嫌です。


 離してください。


 その二つの言葉が喉元まで上がる。


 けれど声にならない。


 男の機嫌。


 店の売上。


 ドミニクからの注意。


 順位表。


 客を怒らせた接客係という評価。


 様々なものが、短い言葉を押し戻した。


「少し、驚いております」


 出てきたのは、曖昧な答えだった。


「ほら。嫌とは言っていない」


 男が笑う。


 ベネデットの視線が揺れる。


 フィオナ本人が拒絶していない。


 そう判断したのかもしれない。


「では、腕へ力を入れないようお願いいたします」


 それだけを告げる。


 フィオナの胸から、安堵が消えた。


 助けには来た。


 けれど、助けきれない。


 黒服自身が、客へ強く言うことを恐れている。


「分かったよ」


 男は機嫌よく答える。


 だが手は離さない。


 フィオナは隣へ座らされた。


 肩が触れそうな距離だった。


「最初から来ればよかったんだ」


「申し訳ございません」


「謝るなら、飲め」


 男がフィオナの杯を持ち上げる。


「お客様、ご自身の杯を――」


「俺が飲ませてやる」


 杯が口元へ近づく。


 フィオナは顔を僅かに逸らした。


「自分でいただきます」


「さっきから全然飲んでないだろう」


「少しずつ飲んでおります」


「俺の祝いだ。付き合え」


 男の腕が、フィオナの肩へ回りかける。


 その時だった。


「お客様」


 別の声が響く。


 ドミニクが卓の横へ立っていた。


 ベネデットよりも落ち着いた声。


 表情には笑みがある。


「大変申し訳ございません。舞台の準備にフィオナが必要となりました」


「さっき、客席を優先すると言っていたぞ」


 男は不満を表す。


「予定が変更となりました」


「俺は二本も頼んだ」


「承知しております。代わりに、順位上位の接客係をご案内いたします」


「代わりはいらん。こいつがいい」


 男の手が、フィオナの手首へ再び強く食い込む。


 痛みが走る。


 フィオナは息を止めた。


 ドミニクの目が、つかまれた腕へ向く。


「お客様」


 先ほどより少しだけ声が低くなる。


「フィオナの手をお離しください」


「客へ命令するのか?」


「安全のためです」


「俺が危険だと言うのか?」


「周囲の酒瓶へ触れる可能性がございます」


 フィオナを守るためではなく、酒瓶と卓の安全を理由にした。


 それでも、男はようやく手を離した。


「面倒な店だ」


「ご不快な思いをさせ、申し訳ございません」


 ドミニクは深く頭を下げる。


「すぐに別の者を参らせます」


「次は愛想のいい女にしろ」


「承知いたしました」


 フィオナは立ち上がる。


 手首が熱い。


 赤くなっていることを客へ見せないよう、反対の手で覆った。


「失礼いたします」


 笑顔で頭を下げる。


「お前」


 男が呼び止める。


 フィオナの身体が震えそうになる。


「次は、最初から客の言うことを聞け」


「……申し訳ございませんでした」


 謝ってから、フィオナは卓を離れた。


 ドミニクの後ろを歩く。


 舞台袖へ入るまで、笑顔を崩さなかった。


 客席から見えなくなった瞬間、足から力が抜ける。


 壁へ手をつく。


「立てるか?」


 ドミニクが尋ねる。


「はい」


 反射的に答える。


 だが声が震えていた。


「手を見せろ」


 フィオナはつかまれた手首を差し出す。


 指の形に赤い跡が残っている。


 皮膚が少し腫れ始めていた。


「冷やせば治る」


 ドミニクは短く言った。


「ベネデット」


 近くにいた黒服を呼ぶ。


「水で濡らした布を持ってこい」


「はい」


 ベネデットが走る。


 フィオナは壁へ背を預けた。


「申し訳ございません」


「何がだ?」


「お客様を怒らせてしまいました」


「今は機嫌を直している。ヴィオラの代わりに別の上位者をつけた」


「そうですか」


 安心しなければならない。


 客が帰らなかった。


 高級酒の注文が続く。


 店の売上は失われなかった。


 それなのに、胸の奥では何かが冷えていく。


「なぜ、もっと早く呼ばなかった」


 ドミニクが尋ねる。


「ベネデットさんが来てくださいました」


「その前だ」


「客席が忙しそうでしたので」


「腕をつかまれる前に、席を外す理由を作れただろう」


「お客様から、近くへ来るよう求められて」


「断ればよかった」


 フィオナは顔を上げた。


「断って、よかったのですか?」


 ドミニクが僅かに黙る。


「危険を感じたならな」


「近くへ行きたくないと思っただけでは、足りませんか?」


「何?」


「腕をつかまれる前から、隣へ座りたくありませんでした」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「でも、お客様を怒らせてはいけないと思いました」


「接客係なら、客との距離を縮めることも必要だ」


「嫌でも、ですか?」


 ドミニクの眉が僅かに動く。


「誰も、嫌なことをしろとは言っていない」


「では、嫌だと言えばよかったのでしょうか」


「その場に応じた言い方がある」


「私は、離れた席で話したいと伝えました」


「もっと明確に言えばよかった」


「明確に言って、お客様が怒ったら?」


 ドミニクはすぐには答えなかった。


 フィオナは、その沈黙で分かってしまった。


 明確に拒絶すれば、客を怒らせたと責められる。


 曖昧に断れば、拒絶していないと扱われる。


 客へ従えば、自分が傷つく。


 どの道を選んでも、接客係の判断が悪かったことにされる。


「フィオナ」


 ドミニクの声が少し硬くなる。


「客を相手にする仕事では、すべてを自分の望む距離で行えるわけではない」


「分かっています」


「客が金を払っている以上、ある程度の要望へ応える必要もある」


「腕をつかまれることも、要望ですか?」


「そこまでは言っていない」


「では、どこまでですか?」


 フィオナは初めて、ドミニクの目を正面から見た。


「隣へ座ることですか。強い酒を飲むことですか。手を握られることですか。腕をつかまれることですか」


「落ち着け」


「私は、笑っていました」


 声が震える。


「だから、嫌ではないように見えましたか?」


 ドミニクは何も言わない。


「笑っていれば、助けなくてもよいのですか?」


 ベネデットが濡れた布を持って戻ってきた。


 二人の会話を聞き、足を止める。


 フィオナは自分が何を言っているのか分からなくなりそうだった。


 笑顔を作れ。


 困った顔をするな。


 客を怒らせるな。


 店の雰囲気を壊すな。


 そう教えられてきた。


 そのとおりに笑った結果、誰にも拒絶が伝わらなかった。


「フィオナ」


 ドミニクが低い声で呼ぶ。


「今は客席へ戻れない。控室で休め」


「最後の舞台がございます」


「ほかの者へ代える」


「順位は?」


「今はその話ではない」


「出演しなければ、舞台の評価が下がります」


「腕がその状態では出せない」


「休んだことも、評価へ残りますか?」


「必要な記録は残す」


 フィオナは笑いそうになった。


 腕をつかまれた。


 嫌だと言えなかった。


 助けを求めても、すぐには助けてもらえなかった。


 それでも記録へ残るのは、舞台を休んだことかもしれない。


 売上を作れなかったことかもしれない。


 客を怒らせたことかもしれない。


「分かりました」


 フィオナは濡れた布を受け取った。


「控室へ戻ります」


「一人で行けるか?」


「大丈夫です」


 いつもの言葉を口にする。


 大丈夫ではない。


 手が震えている。


 喉が詰まっている。


 客席から聞こえる笑い声が怖い。


 それでも笑顔を作った。


「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」


 ドミニクの表情が僅かに曇る。


「謝る必要はない」


 その言葉を、もっと早く聞きたかった。


 フィオナは何も答えず、控室へ向かった。


 廊下の途中で、舞台を終えたラナとすれ違った。


 ラナは額へ汗を浮かべ、呼吸を整えながら戻ってきたところだった。


「フィオナ?」


 呼ばれても、フィオナは足を止めなかった。


「少し休んでくるね」


「手、どうしたの?」


 フィオナは反対の手で布を隠そうとする。


「何でもないよ」


「何でもないなら、隠さないで」


 ラナが前へ回る。


 フィオナは笑った。


「お客様に少しつかまれただけ」


 ラナの耳がぴくりと動く。


「誰に?」


「もう別の方が担当してるから、大丈夫」


「大丈夫じゃないでしょう」


「大きな怪我じゃないよ」


「怪我の大きさを聞いてない」


 ラナはフィオナの顔を見つめる。


「嫌だった?」


 その問いに、フィオナの笑顔が止まった。


 ドミニクは、危険を感じたなら呼べと言った。


 ベネデットは、フィオナが嫌とは言っていないと判断した。


 客は、笑っているフィオナを見て、嫌がっていないと思った。


 けれどラナは、最初に気持ちを尋ねた。


「嫌だった」


 言葉が、かすれた声で出る。


「隣へ座るのも?」


「嫌だった」


「酒を飲まされるのも?」


「嫌だった」


「腕をつかまれたのも?」


「嫌だった」


 一つ答えるたび、胸の奥に押し込めていたものが崩れていく。


「嫌だった」


 もう一度口にした。


「ずっと嫌だった」


 フィオナの目から涙が落ちた。


 自分でも驚いたように頬へ触れる。


「ごめん」


「何で謝るの?」


「泣いたら、化粧が」


「営業へ戻らないんでしょう」


「でも」


「今は客に見せる顔じゃない」


 ラナはフィオナの肩へ触れようとして、手を止めた。


「触っていい?」


 フィオナは目を見開く。


 触れる前に聞かれた。


 それだけのことだった。


 けれど先ほどまで、自分の腕も、席も、酒を飲む量も、他人が決めていた。


「うん」


 フィオナが頷くと、ラナはそっと肩へ手を置いた。


 強く抱きしめない。


 逃げられないように囲まない。


 ただ、隣にいると伝える程度の触れ方だった。


「控室へ行こう」


「ラナは、次の舞台があるでしょう」


「少し時間がある」


「休まないと」


「休むために控室へ行くの」


 ラナはフィオナと並んで歩き出す。


 控室へ入ると、ほかの接客係たちは舞台や客席へ出ており、人は少なかった。


 フィオナは鏡の前へ座る。


 ラナは冷たい布を替えるため、水差しへ向かった。


「さっき、黒服が来たんでしょう?」


「ベネデットさんが来てくれた」


「すぐに離してもらえた?」


「お客様が、私が嫌とは言っていないって」


「フィオナは言わなかったの?」


「言えなかった」


「どうして?」


「怒らせたらいけないと思ったから」


 ラナは濡らした新しい布をフィオナへ渡す。


「笑ってた?」


「うん」


「それで、嫌じゃないと思われた?」


「たぶん」


 フィオナは手首へ布を当てた。


 冷たさに、僅かに息をつく。


「私が笑ったから、分からなかったんだと思う」


「違うよ」


 ラナが言った。


「え?」


「分からなかったんじゃなくて、分かろうとしなかったんだよ」


 フィオナはラナを見る。


「嫌じゃなければ、腕をつかんでいいわけじゃない。笑っていても、手を離してと言われたら離すべきでしょう」


「でも、私は少し驚いたとしか言えなかった」


「怖かったんでしょう」


「うん」


「怖い時に、正しい言葉がすぐ出ないこともある」


 ラナは鏡台の横へ腰を預けた。


「舞台で転びそうになった人に、どうして正しく足を置かなかったって言わないでしょう」


「それとは違うよ」


「同じだよ。危ない時は、考えるより先に身体が固まることがある」


 フィオナは、男に手首をつかまれた瞬間を思い出す。


 逃げることも、振り払うこともできなかった。


 笑顔を作った。


 客をなだめるために。


 騒ぎにしないために。


 それが自分を守る唯一の方法だと思った。


「私は、嫌だと言えなかった」


「今は言えた」


「ラナに聞かれたから」


「最初はそれでいいんじゃない?」


「次に同じことがあったら?」


 ラナはすぐには答えなかった。


「私にも分からない」


「ラナでも?」


「私だって、客に耳を触られそうになるたび、毎回ちゃんと止められるわけじゃないよ」


「でも、断ってるでしょう」


「舞台の上ならね。客席へ降りて、何人にも囲まれると怖い時もある」


 ラナは自分の耳へ触れる。


「前の一座では、客が喜ぶなら少しくらい我慢しろと言われた。耳や尾へ触れられるのも、獣人の踊り手の仕事だって」


「嫌だった?」


「嫌だった」


 ラナは迷わず答えた。


「でも、踊らせてもらうために笑ったこともある」


 フィオナは初めて、ラナの笑顔にも同じものが隠れていたのだと知った。


 舞台で堂々と踊るラナ。


 客へはっきり言葉を返すラナ。


 フィオナよりも、ずっと強く見える。


 それでも、嫌なことをすべて拒絶できてきたわけではない。


「私たち、笑わないと働けないのかな」


 フィオナが尋ねる。


「楽しい時は笑いたい」


 ラナは答えた。


「でも、怖い時まで笑わないといけないのはおかしい」


「笑わなかったら、客が怒るかもしれない」


「怒る客もいる」


「店にも注意される」


「されるかもしれない」


「なら、どうすればいいの?」


 フィオナの声には、責める響きが混じった。


 ラナへではない。


 答えのない状況そのものへ向けたものだった。


「分からないよ」


 ラナも正直に答える。


「でも、今みたいに、嫌だったことをなかったことにしない方がいい」


「なかったことに?」


「明日になったら、手の跡は薄くなる。店は高級酒が二本売れたことだけを見る。客は楽しい夜だったと思うかもしれない」


 ラナはフィオナの手首を見る。


「フィオナまで、大したことじゃなかったって思ったら、本当に何も残らなくなる」


 フィオナは冷たい布を握った。


「嫌だった」


「うん」


「怖かった」


「うん」


「助けてほしかった」


「うん」


 一つずつ言葉にする。


 涙がまた頬を伝う。


 ラナは急かさなかった。


 笑わせようともしない。


 ただ、フィオナが言い終わるまで待った。


 しばらくして、控室の扉が開く。


 ベネデットが立っていた。


 中へ入ることをためらうように、入口で止まっている。


「フィオナ」


「はい」


「手はどうだ?」


「まだ少し痛みます」


「そうか」


 ベネデットは視線を落とした。


「先ほどは、すまなかった」


 フィオナは驚く。


「どうして、ベネデットさんが」


「もっと早く離させるべきだった」


「来てくださいました」


「来ただけだ」


 ベネデットは苦い表情を見せる。


「客の服と酒瓶を見て、強く言えなかった」


 元執事だった彼は、身分の高い者や金を払う客へ逆らわないことを、長く身につけてきた。


 主人の客へ恥をかかせない。


 問題が起きても、穏便に収める。


 客の機嫌を損ねるくらいなら、使用人が我慢する。


 その判断が、黒服となった今も残っている。


「お前が笑っていたから、大丈夫なのだと思おうとした」


 ベネデットは続ける。


「本当は、困っていると分かっていた」


 フィオナは何も言えなかった。


「だが、嫌だと言っていないと自分へ言い聞かせた」


「私も、言えませんでした」


「言えない状況にしていたのは、俺たちだ」


 ベネデットは拳を握る。


「客を怒らせるなと言いながら、危険なら呼べと言う。呼ばれても、金を使う客なら様子を見る。これでは、助けを求めろと言う意味がない」


 ラナがベネデットを見る。


「ドミニクへ言うの?」


「話す」


「カイルにも?」


「必要なら」


「客を追い出すべきだったと思う?」


 ベネデットは答えに詰まる。


 フィオナをつかんだ客。


 だが高級酒を注文している。


 明確に殴ったわけではない。


 怪我も大きくない。


 本人は遊びのつもりだったと主張するだろう。


「分からない」


 ベネデットは正直に答えた。


「以前の俺なら、追い出すほどではないと言った」


「今は?」


「同じことを繰り返すなら、止めなければならないと思う」


「繰り返す前には止められないの?」


 ラナの問いに、ベネデットは沈黙した。


 一度目なら許されるのか。


 傷が軽ければ問題ではないのか。


 客が高額を払っていれば、判断が変わるのか。


 ルミエールには、その境界がない。


 すべてが、その時の客の支払額と責任者の判断へ委ねられている。


「今夜のことは、報告する」


 ベネデットは言った。


「フィオナが嫌がっていたことも」


「私が言えなかったことも?」


「ああ」


「客へ笑っていたことも?」


「笑っていたから問題がなかった、とは書かない」


 フィオナは小さく頷いた。


「お願いします」


 ベネデットは頭を下げ、控室を出ていった。


 その背中を見送り、ラナが呟く。


「黒服も、分かってないんだね」


「何を?」


「誰を守るために立っているのか」


 フィオナは答えなかった。


 Club Moon Dropの黒服は、客とキャストの間に立つと聞いた。


 客を敵にするためではない。


 店で過ごすすべての者が安心できるようにするため。


 ルミエールの黒服は、客へ酒を運ぶ。


 席へ案内する。


 問題が起きれば近づく。


 それでも最後の判断では、店の売上と客の身分を見てしまう。


 黒い服を着ていても、同じ役割ではない。


「ラナ」


「何?」


「笑わなくてもいい時って、あるのかな」


「今は笑わなくていい」


 ラナは即座に答えた。


「客はいない。私しか見てない」


 フィオナは鏡を見る。


 涙で化粧が崩れている。


 頬の色がまだらになり、目元も赤い。


 接客係としては、客前へ出せない顔だった。


 それでも、今の表情の方が、先ほどまでより自分のものに見えた。


「ひどい顔」


「うん」


「否定してよ」


「泣いた後なんだから仕方ないでしょう」


 ラナの答えに、フィオナは僅かに息を漏らした。


 笑ったのか、泣いたのか、自分でも分からなかった。


「今のは笑っていいの?」


「自分で笑いたいと思ったなら」


 フィオナはもう一度、鏡を見る。


 作った笑顔ではない。


 まだ涙が残っている。


 口元だけが僅かに緩んでいた。


 その夜の営業後。


 事務室では、ベネデットとドミニクがカイルへ報告を行っていた。


 卓番号。


 客の名前。


 注文した酒。


 フィオナの腕をつかんだこと。


 手首に赤い跡が残ったこと。


 別の接客係へ交代した後も、客は追加注文を続けたこと。


 カイルは帳面へ目を落としながら聞いている。


「客は、故意に怪我をさせようとしたのか?」


「本人は、隣へ座らせようとしただけだと話しています」


 ドミニクが答える。


「フィオナは拒否したのか?」


「明確に嫌だとは言っていません」


 ベネデットが顔を上げる。


「ですが、離れた席で話したいと伝えていました。手を離すようにも求めています」


「笑っていたそうだな」


「客を刺激しないためです」


「本人がそう言ったのか?」


「はい」


 カイルは少し考える。


「客が誤解するのも無理はない」


 ベネデットの表情が強張る。


「誤解、でしょうか」


「接客係が笑顔で応じ、近くへ座る。客は受け入れられたと考える」


「腕をつかむことまで、受け入れたとは言っていません」


「だから手を離させたのだろう」


「退店を求めるべきだったと思います」


 ベネデットが言う。


 ドミニクが横から彼を見る。


「ベネデット」


「同じことを別の接客係へする可能性があります」


「今夜だけで、かなりの金額を使っている客だ」


 カイルは落ち着いて答えた。


「一度の行き過ぎで追い出せば、ほかの高額客にも不安を与える」


「働く者の不安は、考えないのですか」


 事務室の空気が止まる。


 カイルはゆっくりとベネデットを見る。


「考えている。だからフィオナを席から外し、休ませた」


「腕をつかまれた後です」


「起きていない問題を理由に、客を追い出すことはできない」


「起きていました」


「大きな怪我ではない」


 その言葉に、ベネデットの拳が僅かに動く。


「大きな怪我になるまで待つのですか」


「話を極端にするな」


 カイルは帳面を閉じた。


「次回から、その客には黒服が近くへ立て。酒量が増えたら、接客係を早めに交代させる」


「入店は認めるのですか」


「当然だ」


「フィオナを担当させますか?」


「本人が嫌がるなら、別の者へ替えればいい」


 ベネデットは、そこで言葉を失った。


 本人が嫌がるなら。


 嫌だと言えば、担当を外される。


 指名も、売上も、順位も失う。


 拒絶できるように見えて、その代償はすべて接客係へ負わせる。


「フィオナには、客へ誤解を与えない言い方を教えろ」


 カイルはドミニクへ命じた。


「拒否するなら、もっと早く明確に伝えること。曖昧な笑顔で応じた後に問題へするな」


「承知しました」


 ドミニクは答える。


 ベネデットは答えなかった。


 フィオナが笑顔を作るよう求められていたこと。


 客を怒らせるなと注意されていたこと。


 助けを求めても、黒服が支払額を見て迷ったこと。


 それらは、カイルの判断には含まれていない。


 記録へ残されたのは、


 ――接客係と客の距離に関する行き違い。


 ――次回来店時は黒服を近くへ配置。


 ――フィオナへ拒否方法の再指導。


 という内容だった。


 一方、控室では。


 フィオナが化粧を落とし終え、普段着へ着替えていた。


 手首の赤みは、まだ残っている。


 ラナは隣で舞台衣装を畳んでいた。


「明日も来るのかな」


 フィオナが尋ねる。


「あの客?」


「うん」


「来ると思う」


「私を指名したら?」


「断っていい」


「店から、別の客へつくように言われるかもしれない」


「それでも、あの客の席へ戻りたい?」


 フィオナは首を振った。


「戻りたくない」


「なら、それが答えでしょう」


「でも、はっきり言えるかな」


「練習する?」


「何を?」


 ラナは椅子へ座り、客を真似るように腕を組んだ。


「俺は金を払っている。隣へ来い」


 低い声を作る。


 フィオナは驚いた後、僅かに笑った。


「似てない」


「いいから答えて」


 フィオナは表情を整える。


「こちらの席でお話しさせてください」


「嫌だ。隣へ来い」


「申し訳ございません」


「謝らなくていい」


 ラナが言う。


「でも」


「嫌だと伝えるのに、最初から謝る必要はないでしょう」


 フィオナは息を整える。


「こちらの席でお話しいたします」


「俺の言うことが聞けないのか?」


「隣へは参りません」


 声が少し震えた。


「どうしてだ?」


「私が、望んでいないからです」


 言葉が控室へ落ちる。


 フィオナ自身が、その言い方に驚いた。


 客の安全。


 酒瓶。


 店の決まり。


 ほかの卓への配慮。


 理由を重ねず、自分が望んでいないと伝えた。


「もう一度」


 ラナが言う。


「隣へ来い」


「参りません」


「俺は金を払っている」


「お支払いいただいたことと、私の身体へ触れることは別です」


「怒るぞ」


 フィオナの喉が詰まる。


 今日の客の顔が浮かぶ。


 手首へ食い込んだ指輪。


 黒服が迷った表情。


「それでも、お断りします」


 声は小さい。


 けれど言葉は消えなかった。


 ラナは頷く。


「言えた」


「練習だから」


「練習で言えなければ、客の前でも言えないでしょう」


 フィオナは手首へ触れる。


「本当に言ったら、仕事を失うかもしれない」


「そうかもしれない」


「怖くないの?」


「怖いよ」


「なら、どうして」


「失いたくないものがあるから」


 ラナは答えた。


「私は踊ることを嫌いになりたくない。フィオナは、客の話を聞くことを嫌いになりたくないんでしょう」


「うん」


「嫌なことへ笑い続けていたら、いつか接客そのものが嫌いになるかもしれない」


 フィオナは目を伏せた。


 ハインツの話を聞いていた時間は、好きだった。


 客の悩みを覚え、次に会った時に続きを尋ねること。


 本人が言葉へできなかった気持ちを、一緒に探すこと。


 それまで嫌いになってしまったら、自分には何が残るのだろう。


「明日、ドミニクさんから注意されると思う」


「うん」


「笑顔で断る方法を教えられるかもしれない」


「笑っても、笑わなくても、断ったことが伝わればいいんじゃない?」


「笑わなくても?」


「嫌な時まで笑わなくていい」


 ラナはそう言った。


 それはまだ、フィオナにとって簡単に信じられる言葉ではない。


 店では笑顔を求められる。


 客も笑顔を喜ぶ。


 笑わなければ、機嫌が悪いと思われる。


 接客係として失格だと評価されるかもしれない。


 それでも今日、笑顔は自分を守ってくれなかった。


 むしろ嫌だという気持ちを、見えなくしてしまった。


 フィオナは鏡へ向かう。


 笑っていない自分が映っている。


 疲れた顔。


 泣いた跡。


 赤い目。


 けれど、先ほど客の前で作っていた笑顔よりも、本当の気持ちが分かる顔だった。


「次に、手をつかまれたら」


 フィオナが言う。


「うん」


「笑わずに、離してくださいって言いたい」


「言えるといいね」


「言えなかったら?」


「その時は、また練習しよう」


「怒らないの?」


「何で私が怒るの?」


「できなかったら、駄目だから」


「一度でできなければ駄目なんて、誰が決めたの?」


 フィオナは答えられなかった。


 ルミエールでは、失敗すれば順位が下がる。


 客を怒らせれば担当を失う。


 舞台で動きを間違えれば笑われる。


 できないことは、すぐに価値の低さへ結びつけられる。


 だがラナは、できなければもう一度練習すればよいと言った。


「帰ろう」


 ラナが立ち上がる。


「明日も早いから」


「うん」


 二人は控室の灯りを消し、廊下へ出た。


 客席では、最後まで残っていた酒瓶が片づけられている。


 フィオナの腕をつかんだ客の卓も、すでに整えられていた。


 空になった瓶。


 磨かれた卓。


 元の位置へ戻された椅子。


 そこだけを見れば、何も起きなかったようだった。


 フィオナは足を止める。


「どうしたの?」


 ラナが尋ねる。


「何でもない」


 いつもの言葉が口から出かけた。


 フィオナは途中で止める。


「……少し、怖くなった」


「うん」


「でも、帰れる」


「一緒に帰ろう」


 二人は並んで正面扉へ向かった。


 店外へ出ると、夜風が頬へ触れる。


 ルミエールの看板は、営業後もまだ明るく輝いていた。


 遠くから見れば、美しい光だった。


 歌と踊りと酒を楽しめる、華やかな店。


 その光の下で、フィオナの手首には赤い跡が残っている。


 フィオナは布で隠さなかった。


 明日には薄くなるかもしれない。


 店の帳簿には、大きな怪我として残らない。


 客の売上の方が、長く記録される。


 それでも、自分だけは忘れない。


 嫌だった。


 怖かった。


 助けてほしかった。


 その気持ちを、笑顔の奥へ隠したまま、なかったことにはしない。


 フィオナは手首へ触れ、隣を歩くラナへ小さく告げた。


「次は、嫌だって言う」


 ラナは前を向いたまま答えた。


「うん」


「すぐに言えないかもしれないけど」


「うん」


「笑ってしまうかもしれないけど」


「それでも、嫌だったことは変わらないよ」


 フィオナは頷いた。


 二人の後ろでは、ルミエールの大きな扉が閉められる。


 店内の光は残っている。


 けれどフィオナの中では、これまで笑顔に隠してきた小さな拒絶が、初めて言葉になろうとしていた。

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