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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第6章 光が崩れ、月明かりが生まれる

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第116話 売上にならない大切な客

 開店前のルミエールでは、客席へ灯りが入るより先に、接客係たちへ担当表が配られていた。


 来店予定の客。


 過去の注文額。


 以前担当した接客係。


 好んで飲む酒。


 指名の有無。


 それぞれの名の横には、店が客へ何を勧めるべきかも簡単に記されている。


 フィオナは、ドミニクから渡された紙へ目を落とした。


 今夜、自分が最初に担当する客の欄には、ハインツの名がある。


 その横には、これまでにはなかった一文が加えられていた。


 ――高級酒の注文がない場合、長時間の接客は避け、別の卓へ移ること。


 フィオナは紙を持ったまま、しばらく動くことができなかった。


「何か分からないことがあるか?」


 目の前のドミニクが尋ねる。


 フィオナは反射的に笑顔を作った。


「いいえ。大丈夫です」


「なら、内容を確認しておけ」


「はい」


 ドミニクは次の接客係へ担当表を渡すため、その場を離れた。


 フィオナは控室の隅へ移動し、もう一度紙を見る。


 ハインツは、ルミエールが開店して間もない頃から来店している商人だった。


 王都へ品物を運ぶような大商人ではない。


 ルミナスの職人や小さな商店へ、革製品や日用品を卸している。


 身なりは整えているが、高価な宝飾品を身につけることはない。


 酒も、一晩に何本も注文する客ではなかった。


 最初の来店では、入場料とエール一杯。


 次は、エールと肉料理。


 その次から、フィオナを指名するようになった。


 指名料を支払うため、注文する酒は増えなかった。


 むしろ、以前より飲む量を減らしている。


 フィオナと話す時間を確保するために、ほかの出費を抑えているのだと本人が笑っていた。


 店の記録だけを見れば、売上の少ない客だった。


 だがフィオナにとっては、軽く扱える客ではない。


 ハインツは、自分の話をする時も、フィオナへ無理に意見を求めなかった。


 答えを急かさない。


 ほかの客のように、酒を注ぐためだけに呼び止めることもない。


 帰り際には必ず、今日も聞いてくれてありがとうと言った。


 フィオナは、その言葉を覚えている。


 客へ礼を言うのは自分の方だと教えられてきた。


 それでもハインツは、話を聞いたフィオナへ感謝してくれた。


 今夜も、そのハインツが来る。


 けれど高級酒を頼まなければ、長く話してはいけない。


「フィオナ」


 隣から声をかけられる。


 顔を上げると、ラナが立っていた。


 舞台衣装へ着替える前で、動きやすい薄手の服を着ている。


「担当表?」


「うん」


「嫌なことが書いてあった?」


 フィオナはすぐに首を振った。


「仕事の指示だから」


「それは答えになってない」


 ラナは紙をのぞき込もうとはしなかった。


 フィオナが自分から話すのを待っている。


「ハインツさんが来るの」


「前に話していた商人?」


「覚えていたの?」


「何度か名前を聞いたから」


 ラナはフィオナの表情を見る。


「会えるのに、嬉しくない顔をしてる」


「嬉しいよ」


「笑ってない」


 フィオナは口元へ触れた。


 自分では笑っているつもりだった。


「高級酒を頼んでもらえなかったら、長く席へつかないように言われたの」


「ハインツは高い酒を頼まないの?」


「家族のために貯めているから」


 フィオナは担当表へ視線を戻した。


「屋根の修理もしなきゃいけないし、娘さんの誕生日も近いの」


「それでも店へ来るんだ」


「月に一度か二度だけ。自分が自由に使っていいお金の中で来てくれてる」


「なら、その中で楽しんでもらえばいいでしょう」


「店は、そう思ってない」


 フィオナは小さく答えた。


「長く話すなら、もっと注文してもらうようにって」


「高い酒を勧めるの?」


「できるだけ」


「家の修理や娘の贈り物を減らさせて?」


「そこまでは言われてないよ」


「でも、フィオナは知ってるんでしょう」


 ラナの声は責めるものではなかった。


 フィオナは答えられなかった。


 ハインツが何に金を使おうとしているかを知っている。


 だから高い酒を勧められない。


 けれど店から見れば、客の事情を理由に売上を作らない接客係でしかない。


「断ればいい」


 ラナが言った。


「その指示はできないって」


「無理だよ」


「昨日、舞台へ出られないって言えたでしょう」


「でも、取り消した」


「一度は言えた」


 フィオナは首を振る。


「ハインツさんを担当から外されたくない」


「だから言えないの?」


「私が高い酒を売れないと思われたら、次から別の人が担当するかもしれない」


「別の人が担当した方が、ハインツに高い酒を勧めるんじゃない?」


「そうかもしれない」


「なら、フィオナが担当していた方がいいの?」


「分からない」


 フィオナは担当表を胸元へ寄せた。


「私が担当を続けるためには、店に必要だと思ってもらわないといけない。でも、必要だと思ってもらうには、ハインツさんにお金を使ってもらわないといけない」


 話しながら、自分でも矛盾していると分かった。


 客のために担当を続けたい。


 担当を続けるために、客へ負担を求めなければならない。


 負担を求めたくないから売上が増えず、売上が増えないから担当を失う。


 どの道を選んでも、ハインツとの時間が守られる保証はなかった。


「フィオナ」


 ラナが呼ぶ。


「何?」


「今夜、ハインツが何をしたいか聞けばいい」


「高い酒を頼みたいか?」


「違うよ」


 ラナは少し考える。


「何を話しに来たのか」


 フィオナは目を瞬いた。


「それを聞いてから、できることを考えればいい」


「でも、店の指示は」


「指示を忘れろとは言ってない」


 ラナは舞台側へ視線を向けた。


「ただ、紙だけを見て客を決めたら、フィオナまで店と同じになる」


 その言葉を残し、ラナは練習へ向かった。


 フィオナは一人で担当表を見つめる。


 紙には、ハインツが何を話したいかは書かれていない。


 家族のこと。


 仕事の悩み。


 以前相談していた店の跡継ぎ。


 それらは、売上へ直接つながらないため記録されていなかった。


 書かれているのは、過去の注文額だけだった。


 やがて開店時刻を知らせる鐘が鳴った。


 正面の扉が開く。


 入場料を支払う客が、次々と店内へ入ってくる。


 今夜も舞台の演目を目当てにした客が多い。


 入口の告知板には、人気上位者の名と、今夜の出演予定が並んでいる。


 フィオナも笑顔を作り、客席へ出た。


 最初の客へ挨拶する。


 空いた卓へ酒を運ぶ。


 舞台の演目を案内する。


 何度も入口へ視線を向けそうになるが、仕事中に落ち着きを失ってはいけないと自分へ言い聞かせる。


 開店から半刻ほど過ぎた頃。


 黒服に案内され、ハインツが店内へ入ってきた。


 濃い茶色の上着。


 使い込まれた革の鞄。


 口ひげの端に、僅かな白いものが混じっている。


 いつもと変わらない姿だった。


 フィオナはすぐに近づいた。


「いらっしゃいませ、ハインツ様」


「こんばんは、フィオナ」


 ハインツは、彼女の顔を見ると安心したように笑った。


「今夜もお願いしていいかな」


「もちろんでございます」


 フィオナは笑顔で答えた。


 その瞬間、胸の奥へ小さな痛みが走る。


 この時間を長くするためには、酒を買ってもらわなければならない。


 その考えが、最初から二人の間へ入り込んでいた。


 ハインツは舞台から少し離れた卓へ案内された。


 いつも選ぶ場所だった。


 演目は見える。


 けれど音が大きすぎず、話すこともできる。


「お飲み物はいかがなさいますか?」


「いつものエールを一杯」


 予想どおりの注文だった。


 フィオナはすぐに頷きかける。


 しかし担当表の指示を思い出した。


「本日は、王都から届いた蒸留酒もございます」


 自分の声が、いつもより少し硬く聞こえた。


「香りが深く、少量でもゆっくりお楽しみいただけます」


「それは高い酒だろう?」


「エールよりは、少し」


「少しかな」


 ハインツは冗談めかして笑った。


 実際には、エール数杯分の値段だった。


「今日はエールにしておくよ」


「かしこまりました」


 フィオナは笑顔を崩さなかった。


 最初の提案は断られた。


 これで長く接客をしないよう求められる可能性が高まった。


 エールを手配し、再び卓へ戻る。


「今日は、一人でいらしたのですね」


「いつも一人だろう?」


「以前は、甥御様とご一緒でしたから」


「ああ、ロルフか」


 ハインツは苦笑した。


「今日は連れてこなかった」


「何かございましたか?」


「少し、言い合いになってね」


 フィオナはすぐに励まさなかった。


 ハインツが続けるのを待つ。


「前に話しただろう。いずれ店を任せたいと思っている若い者がいると」


「はい。お姉様の息子さんで、革の仕入れを覚えていらっしゃると」


「よく覚えているな」


 ハインツは少し嬉しそうに言った。


「今度は、自分一人で大きな仕入れへ行きたいと言い出した」


「ハインツ様は、まだ早いと?」


「そう思った。だが、私も若い頃は、一人で任せてもらえないことが不満だった」


「では、反対したいわけではないのですね」


 フィオナが尋ねると、ハインツは杯へ手を伸ばしかけて止まった。


「反対したいわけではない、か」


 自分の言葉を確かめるように繰り返す。


「そうかもしれない。失敗してほしくないだけだ」


「失敗しないように、任せないのでしょうか」


「任せなければ、失敗はしない」


「成功することも難しいかもしれません」


 フィオナが言うと、ハインツは困ったように笑った。


「君は時々、痛いところへ静かに触れるな」


「申し訳ありません」


「謝らなくていい。だから来ている」


 ハインツはエールを一口飲んだ。


「ロルフからも同じようなことを言われたよ。叔父さんは自分がいなくなった後の店を心配するくせに、自分がいる間は何も任せないつもりなのか、と」


「それは……厳しいお言葉ですね」


「ああ。腹が立った」


「当たっていたからでしょうか」


 ハインツがフィオナを見る。


 フィオナは笑顔を作りかけたが、無理に笑う話ではないと気づいた。


 真剣な表情のまま待つ。


 やがてハインツは、大きく息を吐いた。


「そうだな。当たっていたのだと思う」


 舞台では、歌手の紹介が始まっていた。


 楽器の音が強くなる。


 二人はしばらく会話を止めた。


 ハインツは舞台へ目を向けたが、演目そのものに集中している様子ではない。


 頭の中で、ロルフへ任せる方法を考えているようだった。


 歌が一段落した時、フィオナが尋ねる。


「仕入れのすべてを、一度に任せる必要はあるのでしょうか」


「どういう意味だい?」


「私には商売のことは分かりません。ただ、ハインツ様が一緒に確認できる部分と、ロルフ様だけへ任せる部分を分けることはできないのかと思いました」


「半分だけ任せるということか」


「ロルフ様が、それでは足りないとおっしゃるかもしれません」


「言いそうだ」


 ハインツが笑う。


「でも、何も任せないよりはいい」


 フィオナはそこで言葉を止めた。


 答えを決めるのはハインツだった。


 自分が言い切ってしまえば、上手くいかなかった時に責任を負えるわけではない。


 ハインツはしばらく考えた後、静かに頷く。


「仕入れ先まで一緒に行き、品物の選定は任せる。契約だけは私が確認する」


「それでしたら、ロルフ様が自分で判断する部分もございますね」


「ああ。帰ったら話してみるよ」


 ハインツの表情が少し軽くなった。


「今日は、この話をしたくて来たのですか?」


 フィオナが尋ねる。


「それもある」


「ほかにも?」


「娘の誕生日が近い」


 フィオナは表情を和らげた。


「以前、髪飾りを贈ろうか迷っていらっしゃいましたね」


「覚えていたか」


「はい。奥様から、娘さんはもう子どもではないのだから、本人へ欲しいものを聞くようにと言われたとも」


「そこまで覚えているのか」


 ハインツは声を上げて笑った。


「家では誰も、私の話をそこまで覚えていないぞ」


「ご家族は、毎日いろいろなお話を聞いていらっしゃるでしょうから」


「君は違うのか?」


「私は、お会いできる日が多くありませんので」


 フィオナは自然に答えた。


 月に一度か二度しか来ない客。


 だからこそ、前回の話を忘れず、続きを聞くことができる。


 それがフィオナの接客だった。


「娘に聞いたら、髪飾りではなく革の鞄が欲しいと言われた」


「ハインツ様のお店の商品を?」


「いや。うちには若い女性向けの鞄は少ない。丈夫さばかりで、見た目が地味だと言われた」


「難しいですね」


「ああ。商人の娘が、自分の父親の店の商品を気に入らないらしい」


 ハインツは困った顔をしながらも、どこか楽しそうだった。


「でも、娘さんが欲しいものを教えてくださったのですね」


「それはよかった」


「一緒に選びに行かれるのですか?」


「私は、若い娘が好む店へ入る自信がない」


「奥様へお願いするのは?」


「妻は、私が自分で聞いたのだから、自分で選べと言う」


 フィオナは少し考えた。


 自分が商品を勧める立場ではない。


 若い女性向けの鞄にも詳しくない。


 それでも、ハインツの話を聞きながら、一つ思い出したことがあった。


「以前、旅商人のお客様が、雨の時に荷物が濡れて困ると話していました」


「雨?」


「はい。見た目は良いけれど、濡れると革へ跡が残る鞄だったそうです」


 フィオナは記憶をたどる。


「ハインツ様のお店では、水を弾きやすい革を扱っていらっしゃいましたよね」


「獣脂を染み込ませた厚革ならある」


「それを、若い女性が持てる形へ作ることは難しいのでしょうか」


 ハインツはすぐに答えなかった。


「厚くなりすぎる」


「薄くすることは?」


「強度が落ちる」


「飾り用の革と組み合わせることは?」


 フィオナが尋ねると、ハインツの目が少し変わった。


 商人の顔だった。


「底と側面だけ厚革にする。表側には柔らかい革を使う……」


「私は、作り方までは分かりません」


「ああ。だが、考えたことはなかった」


 ハインツは机の上へ指で形を描く。


「雨の多い季節に使える女性向けの鞄か」


「娘さんへの贈り物だけでなく、お店の商品にもなるでしょうか」


「作ってみなければ分からない。だが、面白い」


 ハインツは笑った。


「ロルフに任せる最初の仕事にもできるかもしれない」


「新しい鞄を考えてもらうのですか?」


「若者の好みなら、あいつの方が分かるだろう。娘にも意見を聞かせればいい」


 先ほどまでの悩みが、別の可能性へつながっていく。


 フィオナは答えを与えたつもりはなかった。


 客から聞いた別の話を思い出し、問いかけただけだった。


 けれどハインツの中では、店を任せるための一歩と、娘への贈り物、新しい商品の案が結びついていた。


「今度、ロルフも連れて来てもよいかな」


「もちろんでございます」


「ただし、あいつは酒を飲むと話が長い」


「ハインツ様も、十分に長くお話しくださっています」


 フィオナが言うと、ハインツは一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。


 フィオナも自然に笑った。


 作ったものではない。


 客の話を聞き、同じ時間を楽しんだ時に出る笑顔だった。


 その時。


 卓の横へ、ドミニクが立った。


「フィオナ」


 名を呼ばれ、フィオナの笑顔が僅かに固まる。


「はい」


「こちらは長くなっている。次の卓へ移れ」


 ハインツがドミニクを見る。


「まだ来たばかりだと思っていたが」


「ほかのお客様もお待ちです」


 ドミニクは丁寧な口調を保っていた。


 しかしフィオナへ向ける視線には、担当表の指示を守れという意味が込められている。


「代わりの者をご案内いたします」


「私はフィオナを指名したのだが」


「指名のお時間は、すでに十分に取られております」


「時間が決まっていたのか?」


 ハインツが尋ねる。


 フィオナも初めて知るような言い方だった。


 指名料は支払っている。


 明確な時間制限を説明されたことはない。


「店内の状況によっては、担当を交代する場合がございます」


 ドミニクが答える。


「追加のご注文をいただける場合は、もう少し調整できます」


 言葉は遠回しだった。


 だが意味は明確だった。


 高い酒を注文すれば、フィオナを残せる。


 注文しなければ、別の接客係へ替える。


 ハインツはフィオナを見る。


「君も知っていたのか?」


 フィオナの胸が詰まる。


 嘘をつけば、ハインツを騙すことになる。


 正直に話せば、店の指示への不満を客へ見せることになる。


「本日から、そのような指示を受けております」


 フィオナは笑顔を作らなかった。


「高級酒のご注文がない場合、長く担当しないようにと」


「そうか」


 ハインツは静かに答えた。


 怒鳴らなかった。


 ドミニクへ詰め寄ることもない。


 ただ、先ほどまでの楽しそうな表情が消えている。


「では、その高級酒はいくらだ?」


 ドミニクが価格を伝える。


 ハインツは僅かに眉を上げた。


「娘の鞄より高いな」


 冗談のような言葉だった。


 けれど誰も笑わなかった。


「注文なさいますか?」


 ドミニクが尋ねる。


 フィオナは思わず口を開いた。


「ハインツ様」


 何を言うべきか分からない。


 頼んでほしいと言えば、家族のための金を使わせる。


 頼まなくてよいと言えば、店の売上を断る接客係になる。


 それでも、ハインツが自分のために無理をすることだけは嫌だった。


「ご無理はなさらないでください」


 フィオナは言った。


 ドミニクの視線が鋭くなる。


 ハインツはフィオナを見る。


「君は、まだ話したいか?」


 今度はハインツから尋ねられた。


 フィオナは答えに迷った。


 接客係としてなら、客の希望を優先すると答えるべきだろう。


 店の指示に従うなら、次の卓へ向かうべきだ。


 だが尋ねられたのは、フィオナ自身の気持ちだった。


「お話の続きを、聞きたいです」


 声は小さかった。


「ロルフ様へどのように伝えるのかも、次に教えていただきたいです」


「なら、次に来た時に話そう」


 ハインツは穏やかに答えた。


「今日は帰るよ」


「まだお時間は――」


 ドミニクが止めようとする。


「店の都合でフィオナが席を離れるなら、私が残る理由もない」


「別の接客係をご案内できます」


「私は酒を飲ませてもらうためだけに来たわけではない」


 ハインツは卓へ代金を置いた。


 エール一杯。


 指名料。


 入場料。


 必要な額だけだった。


「今日もありがとう、フィオナ」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 フィオナは立ち上がり、頭を下げた。


「娘さんの鞄、完成したらお話を聞かせてください」


「ああ」


「ロルフ様とのことも」


「次は、本人を連れてくる」


 ハインツはそこで少し笑った。


「ただし、この店が君と話させてくれるならだが」


 フィオナは返事ができなかった。


 ハインツは黒服の案内を待たず、自分で入口へ向かった。


 ドミニクは近くにいた黒服へ見送りを命じる。


 その背中が扉の向こうへ消えるまで、フィオナは動けなかった。


「フィオナ」


 ドミニクの声が低くなる。


「はい」


「なぜ注文を止めた」


「止めたつもりはありません」


「無理をするなと言っただろう」


「ご家族のために使うお金が必要だと知っていましたので」


「客が何へ金を使うかを、お前が決めるのか?」


「決めてはいません」


「なら、提案を続ければよかった」


「ハインツ様は、価格を聞いて迷っていらっしゃいました」


「迷う客へ、価値を説明するのがお前の仕事だ」


 ドミニクは卓に残された杯を見る。


「お前が余計なことを言わなければ、注文したかもしれない」


「私と話すためだけに、娘さんへの贈り物より高い酒を買わせるのですか?」


 口にした瞬間、周囲の音が遠くなった気がした。


 フィオナ自身、自分がそのような言葉を返すとは思っていなかった。


 ドミニクの表情が変わる。


「買わせるとは何だ」


「私は……」


「客が望んで注文するものだ」


「私を席へ残す条件として提示しました」


「指名された者が長く席へつけば、その分ほかの客を担当できない。店が損失を補うのは当然だ」


「ハインツ様は指名料を支払っています」


「それだけでは足りないと判断された」


「誰に?」


「店にだ」


 ドミニクの答えに迷いはない。


「お前の仕事は、一人の客と友人になることではない。店へ利益を残すことだ」


 フィオナは唇を結んだ。


 ハインツを友人だと思ったことはない。


 客として敬意を払い、話を聞いてきた。


 しかしルミエールでは、客を大切にすることも、利益へつながらなければ職務ではないと判断される。


「次の卓へ行け」


 ドミニクが告げる。


「今度は高級酒を勧めろ。客の家庭事情へ口を挟むな」


「はい」


 フィオナは答えた。


 笑顔を作る。


 けれど足はすぐに動かなかった。


「返事だけか?」


「すぐに参ります」


 フィオナは次の卓へ向かった。


 そこには、すでに何杯も酒を飲んだ男が二人座っていた。


「遅いぞ」


 一人が言う。


「申し訳ございません」


「さっきの客は帰ったのか?」


「はい」


「金を使わない客へ時間をかけても仕方ないだろう」


 男は笑った。


 どうやら近くの卓から、ハインツとのやり取りを見ていたらしい。


「こっちは高い酒を頼むぞ。座れ」


「ありがとうございます」


 フィオナは椅子へ腰を下ろした。


 男が高級酒の瓶を指す。


「飲むか?」


「勤務中ですので、少量でしたら」


「なら、たっぷり注いでやる」


「少量でお願いいたします」


 フィオナは笑顔で答える。


 ハインツが帰った扉へ、視線を向けることはできなかった。


 目の前の客へ集中しなければならない。


 けれど話しかけられても、言葉が胸へ入ってこない。


 娘への贈り物より高い酒。


 自分と話す時間を買うために、その金を使わせようとした店。


 そして、それを止められなかった自分。


 無理をしないでほしいとは言えた。


 だが、ハインツを席へ残すことはできなかった。


 接客中、何度も笑顔を作った。


 高級酒が注文された時には礼を言った。


 客の冗談にも笑った。


 それでも心の中では、先ほどの一杯のエールの方が大切に思えていた。


 営業後。


 接客係たちは、その日の売上を確認するため順位表の前へ集められた。


 フィオナの酒の売上は、後半に担当した客が高級酒を頼んだため、以前より増えている。


 その一方で、ハインツの卓については、追加注文へつなげられなかったとして減点が記されていた。


 総合順位は変わらない。


 上がりもしない。


 下がりもしない。


「高級酒を一本売ったのに、上がらなかったのね」


 隣の接客係が言う。


「前の卓が悪かったみたい」


「フィオナは、売れない客へ時間を使いすぎるのよ」


「そうだね」


 フィオナは笑顔で答えた。


「次から気をつけないと」


 口ではそう言った。


 しかし、何に気をつければよいのか分からない。


 客の事情を覚えないことか。


 家庭のために節約している客へ高級酒を勧めることか。


 話を聞きたいと思っても、時間を切り上げることか。


 店が大切にしない客を、自分も大切にしないことか。


 控室へ戻ると、ラナが椅子へ座って足首をほぐしていた。


 今夜も複数回の舞台へ立ち、客席への挨拶も終えた後だった。


「ハインツは?」


 ラナが尋ねる。


「帰ったよ」


「早かったね」


「高い酒を頼まなかったから、席を離れるように言われたの」


「フィオナは離れたの?」


「帰るって」


 フィオナは衣装の飾りを外しながら答えた。


「次は、ロルフさんを連れてきてくれるって言ってた」


「よかったじゃない」


「うん」


「嬉しくないの?」


「来ても、また長く話せないかもしれない」


 フィオナは鏡の前へ座る。


「ハインツさんは、私と話すために指名料を払ってくれてる。でも店は、それだけじゃ足りないって」


「フィオナはどう思う?」


「分からない」


「また?」


 ラナの声は優しかった。


 フィオナは鏡の中の自分を見る。


「お店が続くには、お金が必要なのは分かる」


「うん」


「高い酒を売った人が評価されるのも分かる」


「うん」


「でも、ハインツさんが娘さんの贈り物を減らしてまで私と話すのは違うと思う」


「それは、分かってるじゃない」


 フィオナは振り返る。


「何が?」


「フィオナが違うと思ったこと」


「でも、店から見れば間違いだった」


「店が決めたら、フィオナが感じたことはなくなるの?」


 フィオナは答えられなかった。


 ラナは足首から手を離す。


「私も、客が見たい踊りをしろって言われる」


「ラナの踊りは、みんな見たいと思ってるよ」


「獣人らしく跳べ。もっと尾を見せろ。静かな踊りは要らない。そういう意味でね」


 ラナは自分の尾を見た。


「店が求めるものと、客が本当に見たいものが同じかは分からない」


「でも、拍手はもらえるでしょう?」


「もらえるよ」


「なら、成功じゃないの?」


「フィオナは今日、高級酒を売ったんでしょう」


「うん」


「成功したと思う?」


 フィオナは何も言えなかった。


 売上は増えた。


 店へ利益を残した。


 順位が下がらなかった。


 数字の上では失敗していない。


 それでも、胸に残っているのはハインツが帰る時の表情だった。


「思わない」


 フィオナは小さく答えた。


「じゃあ、店の数字だけで全部を決めなくてもいいんじゃない?」


「でも、働いている限りは従わないといけない」


「今すぐ辞めろとは言ってないよ」


 ラナは立ち上がった。


「ただ、自分が何を失くしたくないかだけは、覚えておいた方がいい」


「失くしたくないもの?」


「私は、踊ること」


 ラナは迷わず答えた。


「店に使われても、笑われても、獣人だから見られても、踊ることまで嫌いになりたくない」


 フィオナは鏡へ向き直る。


「私は……」


 自分が何を失くしたくないのか。


 笑顔ではない。


 順位でもない。


 高級酒を売る技術でもない。


「お客様が話したことを、次に会った時まで覚えていたい」


 言葉にすると、驚くほど簡単だった。


「それから?」


 ラナが促す。


「話しに来てよかったと思ってもらいたい」


「うん」


「無理にお金を使わせなくても、また来たいと思ってもらいたい」


 フィオナはそこで言葉を止めた。


 ルミエールでは、評価されにくい望みだった。


 それでも、自分が接客を続けたい理由だった。


「それなら、忘れないで」


 ラナは控室の扉へ向かった。


「明日も舞台の練習があるから、私は先に帰る」


「ラナ」


「何?」


「ありがとう」


「私は、何もしてないよ」


「聞いてくれたから」


 ラナは少しだけ笑った。


「それ、フィオナがいつもしてることでしょう」


 扉が閉じる。


 控室に一人残ったフィオナは、化粧を落とし始めた。


 一度。


 二度。


 三度。


 布へ色が移るたび、作っていた表情が薄くなる。


 明日からも、店は高級酒を勧めるよう求めるだろう。


 売上の少ない客へ長く時間を使えば、注意される。


 ハインツを担当から外される可能性もある。


 何も解決していない。


 それでもフィオナは、先ほど口にしたことだけは忘れないようにしようと思った。


 客が話したことを覚えていたい。


 来てよかったと思ってもらいたい。


 また話したいと思ってもらいたい。


 順位表には残らない。


 売上にもすぐには表れない。


 けれどハインツは、次にロルフを連れて来ると言った。


 自分が話を聞いた時間から、新しい鞄の案も生まれた。


 その価値を、店が数えなくても、なかったことにはしたくなかった。


 同じ頃。


 ルミエールの事務室では、カイルがその日の報告を受けていた。


「ハインツという商人が、途中で帰ったそうだな」


「はい」


 ドミニクが答える。


「高級酒を提案しましたが、注文しませんでした」


「フィオナは?」


「客へ無理をしないよう伝えました」


「店の販売を止めたのか」


「本人は止めたつもりはないと言っています」


 カイルは客別の記録へ目を落とした。


 ハインツ。


 革製品を扱う小規模商人。


 過去の利用額は低い。


 フィオナを継続して指名。


 高級酒の注文なし。


「今後も来ると思うか?」


「フィオナへ、次は甥を連れてくると話していました」


「二人になれば、注文額は増えるかもしれないな」


 カイルはそれだけを記録した。


「次に来た時は、甥へ高級酒を勧めろ。若い者なら見栄を張る可能性がある」


「フィオナを担当させますか?」


「最初はな」


「また売上を止めるかもしれません」


「その時は交代させろ」


 カイルは迷わなかった。


「客がフィオナへ会うために来るなら、フィオナには客を呼ぶ価値がある。だが、客を呼んでも金を使わせられないなら、接客を続けさせる価値は低い」


「承知しました」


 ドミニクは報告書を閉じる。


 カイルの帳簿には、ハインツが何を話したのかは残らない。


 甥へ仕事を任せようと悩んでいたこと。


 娘へ鞄を贈ろうとしていること。


 新しい商品を考え始めたこと。


 次にその続きをフィオナへ話したいと思ったこと。


 それらはすべて、売上にならない情報だった。


 記録されたのは、ただ一つ。


 高級酒の注文なし。


 そしてフィオナの欄には、


 ――客への販売意識が低い。


 という評価が加えられた。

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