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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第6章 光が崩れ、月明かりが生まれる

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第114話 得意ではない舞台へ

 ルミエールの客席へ、人気上位者の名を記した告知板が置かれた翌日。


 開店前の舞台には、これまで出演していなかった者たちが集められていた。


 踊り手でもない。


 歌い手でもない。


 客との会話を担当する接客係や、舞台の端で楽器を奏でていた演奏者たちだった。


 フィオナも、その中にいた。


 舞台の中央から客席を見ると、普段とはまるで違う場所に立っているように感じた。


 いつも接客している右奥の卓。


 立ち席。


 正面の上客席。


 舞台からは、店内のほとんどが見渡せる。


 反対に、客席が埋まれば、そこに座るすべての者から自分が見られることになる。


 まだ客はいない。


 椅子も卓も静かに並んでいるだけだった。


 それでもフィオナは、何十人もの視線を向けられているような息苦しさを覚えた。


「全員、間隔を詰めろ」


 舞台脇に立つ演出担当者が声を上げた。


「前へ二列。後ろへ三列。人数が多く見えるように並べ」


 接客係たちは戸惑いながら移動する。


 フィオナの隣には、客との商談話を得意とするヘレナが立った。


 その反対側には、各地の旅について詳しいミレイがいる。


 二人ともフィオナと同じく、これまで舞台へ立った経験はなかった。


「もう少し前」


 演出担当者が指示する。


「前列は舞台の端ぎりぎりまで出ろ」


 フィオナたちが一歩進む。


 舞台の縁は近かった。


 あと半歩足を出せば、客席側へ落ちる距離である。


「ここから全員で右へ三歩。手を上げて回る」


 演出担当者が、自分で簡単な動きを見せた。


「それから左へ戻り、中央の歌手を囲む。難しくはない」


 動きだけを見れば複雑ではなかった。


 だが、舞台には二十人近い者が並んでいる。


 前列と後列の間は狭い。


 左右にも、腕を伸ばせば隣へ触れるほどしか余裕がなかった。


「始めるぞ」


 楽器奏者へ合図が送られる。


 軽快な曲が始まった。


「右へ!」


 フィオナは周囲に合わせて足を動かす。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 手を上げる。


 身体を回す。


 その瞬間、背後の女性の肘が肩へ当たった。


「あっ」


「止まるな!」


 演出担当者の声が飛ぶ。


 フィオナは体勢を崩しながらも、左へ戻ろうとした。


 だが、隣のヘレナは一歩目の足を逆へ出している。


 二人の肩がぶつかった。


「ごめんなさい」


「私も間違えたわ」


「喋るな! 曲を聞け!」


 再び声が飛ぶ。


 動きが止まった者。


 逆方向へ進んだ者。


 手を上げるタイミングが遅れた者。


 列はすぐに乱れた。


 前列の一人が舞台の端へ近づきすぎ、慌てて後ろへ下がる。


 その背中が別の者へ当たった。


 演奏が止められる。


「何をしている」


 演出担当者は苛立ったように舞台へ上がった。


「三歩進んで回るだけだぞ」


「人数が多すぎます」


 ヘレナが恐るおそる言った。


「手を上げると、隣の方へ当たってしまいます」


「なら当てないように動け」


「間隔がありません」


「舞台を広く使えばいい」


「端に近づきすぎます」


「客へ近い方が喜ばれる」


 答えになっていなかった。


 ヘレナはそれ以上、何も言わなかった。


 舞台の端では、ラナが腕を組んで様子を見ている。


 彼女は今夜も三度の出演を予定されていた。


 そのうち一度は、接客係や歌手、楽器奏者を集めた大人数の演目へ組み込まれている。


「前列を減らした方がいいです」


 ラナが言った。


 演出担当者が振り返る。


「またその話か」


「今の人数では回れません」


「全員が同じ大きさで動く必要はない」


「それなら、一人ずつ動きを変える必要があります」


「客は細かい振り付けなど見ていない」


 ラナの猫耳が動く。


「見ています」


「何を?」


「転びそうになった人を」


 舞台上の者たちが、ラナへ視線を向ける。


「綺麗に揃っていなくても、客は楽しむかもしれません。でも誰かがぶつかれば、そこへ目が行きます。舞台の端で身体を崩せば、落ちるかもしれない」


「落ちなければいい」


「落ちてからでは遅いです」


「だから練習している」


 演出担当者は突き放すように答えた。


「練習でできるようになれば、本番でもできる」


「練習時間は、どれくらいありますか?」


「開店までだ」


「それだけ?」


「明日からも続ける」


「今夜の舞台には出すんでしょう」


「当然だ」


 ラナは舞台に立つ者たちを見た。


 接客係たちは、この後、客席へ出る準備もしなければならない。


 化粧。


 衣装。


 卓の確認。


 来店予定客の情報確認。


 演奏者には楽器の調整がある。


 歌手には発声練習がある。


 その時間を削って、慣れない踊りを覚えさせようとしていた。


「今夜は出さない方がいいです」


 ラナが言った。


「今日練習したばかりの人を、客の前へ出すべきではありません」


「判断するのはお前ではない」


「舞台で怪我をするのは、出演する人です」


「舞台の中心だからといって、店の運営へ口を出すな」


 演出担当者の声が強くなる。


 ラナは口を閉じなかった。


「舞台へ立つ人の状態を伝えるのは、口出しではありません」


「お前は自分が一位だから、ほかの者を舞台へ出したくないのか?」


 周囲の空気が凍る。


 ラナの尾が、身体の近くへ寄った。


「どういう意味ですか?」


「出演者が増えれば、お前一人へ注目が集まらなくなる」


「そんなことを言っているのではありません」


「順位を守りたい者なら、そう考えても不思議ではない」


 演出担当者は、壁の向こうにある評価表を意識するように言った。


「店は一人の人気者だけで続けるつもりはない。全員を客へ見せる。人数が多いほど舞台は豪華に見える」


「得意ではない人まで?」


「舞台へ立てば、名を覚えてもらえる。接客係にとっても得だ」


 ラナは、フィオナたちを見た。


「フィオナは、舞台へ出たい?」


 突然尋ねられ、フィオナは一瞬、答えられなかった。


 演出担当者の顔を見る。


 周囲の接客係を見る。


 出たくないと言えば、努力を拒んだと思われるかもしれない。


 順位表で下位にいる自分には、仕事を選べる立場などない。


「必要であれば、出ます」


 フィオナは笑顔で答えた。


「出たいか聞いたの」


 ラナの声は静かだった。


 フィオナは笑顔のまま、視線を落とす。


「踊りは、得意ではありません」


「だから練習するんだ」


 演出担当者が割って入る。


「得意ではないことを理由に逃げていれば、いつまでも下位のままだぞ」


 その言葉は、フィオナだけでなく、舞台に集められた全員へ向けられていた。


 順位を上げたいなら舞台へ出ろ。


 舞台へ出たくないなら、低い評価を受け入れろ。


 選べるように見えて、実際には答えが決められている。


「もう一度やる」


 演出担当者が舞台を下りた。


「次は止めない。最後まで続けろ」


 楽器が鳴る。


 フィオナは足元を見ないよう、前へ顔を向けた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 手を上げる。


 回る。


 隣の腕が近づく。


 当たる前に、自分の肘を曲げる。


 今度は後ろから衣装の裾を踏まれた。


 身体が引かれる。


 フィオナは足を止めそうになったが、演出担当者の「続けろ」という声が聞こえ、無理に前へ進んだ。


 布が引っ張られる。


 背後の者が慌てて足をどけた。


 フィオナは転ばずに済んだ。


 だが次の動きが遅れた。


 中央へ集まる時、周囲から半歩遅れる。


 全員が腕を伸ばす。


 フィオナだけが位置を間違え、隣のヘレナの前へ出てしまった。


「違う!」


 演出担当者が怒鳴る。


 フィオナは反射的に笑った。


「申し訳ありません」


「謝るな。動け」


 曲は続いている。


 フィオナは正しい位置へ戻ろうとした。


 今度は足が別の者とぶつかる。


 小さな悲鳴。


 列がまた崩れる。


 それでも曲は止まらなかった。


 最後の音が鳴り終わる。


 舞台上の者たちは、息を切らしながら立っていた。


「今の方がましだ」


 演出担当者が言う。


 誰も返事をしなかった。


「本番では笑え」


 その言葉に、フィオナは顔を上げる。


「動きを間違えても、笑顔を崩すな。客は楽しそうにしている者を見れば楽しむ」


 フィオナは頷いた。


「はい」


 笑うことならできる。


 踊れなくても。


 足を間違えても。


 誰かへぶつかっても。


 笑顔だけは作れる。


 それは、彼女が長い間、失敗や恐怖を隠すために身につけてきたことだった。


 演出担当者は別の者へ目を向けた。


「演奏者は、この後、楽器を置いて前へ出る動きを加える」


「楽器を置くのですか?」


 弦楽器を抱えた女性が尋ねた。


「最後の部分だけだ」


「演奏は誰が続けるのでしょう」


「残った者で続けろ」


「音が足りなくなります」


「太鼓を強くすれば分からない」


「曲の調和が崩れます」


「客は音の違いより、人数を見る」


 演奏者の表情が曇る。


「私は、演奏をするために雇われました」


「今も演奏している」


「楽器を置いて踊ることは、演奏ではありません」


「演奏だけで客を集められるのか?」


 演奏者は答えられなかった。


 順位表では、彼女の舞台集客数は低く記録されている。


 歌手の伴奏をしても、客は歌手の名前を覚える。


 踊り手のために曲を奏でても、拍手は踊り手へ向けられる。


 演奏者の音がなければ舞台は成立しない。


 それでも、誰が客を集めたかという数字では、彼女たちは低く評価されていた。


「客へ名前を覚えてもらいたければ、前へ出ろ」


 演出担当者が言う。


「楽器の後ろに隠れていても、順位は上がらない」


「隠れているわけではありません」


「結果が出ていない者が、言い訳をするな」


 演奏者は唇を結んだ。


 自分の楽器へ視線を落とす。


 大切に手入れしてきた木製の弦楽器だった。


 客の目へ留まるために置くのではない。


 音を届けるために抱えている。


 けれど店が求めているのは、音の完成度より、舞台上の人数と華やかさだった。


「休憩は終わりだ」


 演出担当者が手を叩く。


「次は、歌手と演奏者も全員入れ」


 舞台へ上がる人数が、さらに増えた。


 客席から見れば、確かに豪華に映るかもしれない。


 色の違う衣装。


 歌手。


 踊り手。


 接客係。


 楽器奏者。


 舞台いっぱいに人が並ぶ。


 しかし出演する者から見れば、逃げる場所のない狭い床だった。


 ラナは舞台袖で、その光景を見つめていた。


 自分が中央へ入れば、さらに場所が狭くなる。


「私の動きを減らしてください」


 ラナが演出担当者へ言った。


「何だ?」


「跳躍と大きな回転を外します。周りに当たります」


「お前の見せ場だぞ」


「当たるよりいいです」


「客は、お前の跳ぶ姿を見に来る」


「この人数の中では危険です」


「中央を空ける」


「どれだけ?」


 演出担当者が舞台へ目を向ける。


「二歩分だ」


「足りません」


「なら、お前が小さく動け」


「跳ぶ姿を見せろと言ったのに?」


「できるように考えるのがお前の仕事だ」


 ラナは何も言わず、舞台へ上がった。


 中央に立つ。


 周囲には接客係と踊り手。


 後方には歌手。


 さらに奥には演奏者。


 舞台の左右に残された通路は、人一人が通れるほどしかない。


「始めるぞ」


 曲が流れる。


 最初は歌手が前へ出る。


 続いて踊り手が左右へ広がる。


 接客係たちは腕を上げ、客席へ笑顔を向ける。


 ラナは予定どおり中央へ進んだ。


 跳躍へ入る前、周囲の位置を確認する。


 右側の接客係が、本来より半歩内側へいる。


 このまま跳べば、着地した時に近い。


 ラナは直前で動きを変えた。


 高く跳ばず、身体を低く回す。


 見せ場としては弱くなる。


 だが、誰にも当たらない。


「違う!」


 演出担当者の声が飛ぶ。


 ラナは無視して踊りを続けた。


 後方では、演奏者が楽器を置いて前へ出ようとしている。


 楽器を床へ置く場所がない。


 一人が舞台袖へ寄せる。


 その間に出るタイミングが遅れた。


 ほかの演奏者が先に進む。


 二人の肩がぶつかる。


 歌手の衣装の裾が、床へ置かれた楽器の先へ触れる。


「踏まないで!」


 演奏者が声を上げた。


 歌手が足を止める。


 後ろから来た者がぶつかる。


 列が波のように乱れた。


 フィオナは隣の動きを見て、どちらへ進めばよいか分からなくなった。


 右へ行く者。


 左へ戻る者。


 中央へ集まろうとする者。


 自分の立つ場所が消えていく。


 足を止めれば、後ろからぶつかられる。


 前へ出れば、舞台の端へ近づく。


 フィオナは笑顔のまま、一歩下がった。


 その足が、置かれていた楽器の弓へ触れた。


 細い木の棒が床を転がる。


「あっ」


 演奏者が振り返る。


 フィオナは拾おうと屈んだ。


「止まるな!」


 声が飛ぶ。


 だが、そのままにすれば誰かが踏む。


 フィオナは弓を拾い、舞台袖へ置こうとした。


 その間に曲が進む。


 顔を上げた時には、全員が腕を広げて静止する場面だった。


 フィオナだけが舞台の端で、中腰になっていた。


 一瞬の沈黙。


「何をしている!」


 演出担当者の怒声が響いた。


 演奏が止まる。


 舞台上の全員がフィオナを見る。


 フィオナは弓を握ったまま立ち上がった。


「申し訳ありません。踏まれそうだったので――」


「演目を止める方が問題だ!」


「でも、壊れてしまいます」


「本番で同じことをするのか?」


 フィオナは答えられなかった。


「客の前で、一人だけ屈んで道具を拾うのか?」


「誰かが踏めば危ないと思って」


「黒服に任せればいい」


「舞台の上には、すぐ来られません」


「言い訳をするな」


 フィオナは反射的に笑った。


「申し訳ありません」


「何を笑っている!」


 演出担当者の声がさらに強くなる。


 フィオナの口元が固まる。


「笑えと言われたので……」


 小さな声だった。


「今は練習中だ」


「はい」


「本番では笑え。今は反省しろ」


 フィオナは笑顔を消そうとした。


 しかし舞台上では、客前と同じ表情を作れと言われたばかりだった。


 間違えても笑う。


 叱られている時は笑わない。


 客が見ている時だけ笑う。


 その境目を、瞬時に切り替えなければならない。


「もう一度、最初から」


 演出担当者が告げる。


「フィオナは端へ下がれ。動きが遅い」


 フィオナは舞台の後方へ移った。


 先ほどまで自分が立っていた場所には、別の接客係が入る。


 順位表の下位にいる者は、失敗すればさらに目立たない位置へ移される。


 練習する機会も。


 客へ名前を覚えてもらう機会も。


 少しずつ減っていく。


「待ってください」


 ラナが言った。


「今のはフィオナだけの失敗ではありません」


「またか」


「楽器を置く場所がなかった。人が多すぎて、拾う人も通れなかった。誰かが踏めば、足を傷めるか、楽器が壊れていました」


「だから本番までに慣れろと言っている」


「慣れれば、舞台が広くなるのですか?」


 演出担当者が黙る。


「置く場所がなければ、同じことが起きます」


「楽器を舞台袖の者へ渡せ」


「舞台袖も人で埋まっています」


「順番に動け」


「その順番を決めていないでしょう」


 ラナの指摘に、舞台袖の者たちが顔を見合わせる。


 誰が楽器を受け取るのか。


 誰が出演者の出入りを止めるのか。


 誰が床を確認するのか。


 誰も決められていなかった。


「細かいことは、その場で合わせろ」


 演出担当者は苛立ったように答えた。


「全員が自分で考えて動けばいい」


「全員が違う判断をしたから、今ぶつかりました」


「お前は文句ばかりだな」


「怪我をしてから言っても遅いからです」


 二人の間へ、低い声が入った。


「そこまでにしろ」


 客席側から、カイルが歩いてくる。


 いつから見ていたのか分からない。


 その後ろにはドミニクと会計係がいた。


「練習は進んでいるのか?」


「細かな失敗はありますが、形にはなり始めています」


 演出担当者が答える。


 ラナがすぐに口を開く。


「形になっていません」


「ラナ」


 カイルは穏やかな声で名を呼んだ。


「お前の意見は聞いている。舞台が狭い。人数が多い。休憩が必要だ。何度も同じ話をしているな」


「改善されていないからです」


「店は、お前一人のためにあるのではない」


「分かっています」


「なら、ほかの者へ機会を与えることも受け入れろ」


「危険な舞台へ出すことが、機会ですか?」


 カイルの目が細くなる。


「危険かどうかを決めるのは経営者だ」


「舞台へ立たない人が?」


 周囲が息をのむ。


 カイルの顔から笑みが消えた。


 ラナは視線を逸らさない。


「私は、舞台へ立つ者として伝えています。人と人の間隔が足りない。楽器を置く場所がない。出演者と退場する者が同じ通路を使っている。練習時間も足りません」


「それでも開店初日から事故は起きていない」


「起きていないことと、安全なことは違います」


「結果として、客は満足している」


「怪我をする前だからです」


 カイルは舞台を見渡した。


 多くの出演者。


 華やかな衣装。


 複数の楽器。


 中央に立つラナ。


 完成すれば、これまで以上に客の目を引く演目になる。


「客は、豪華な舞台を求めている」


 カイルが言った。


「一人の完璧な踊りより、多くの出演者が並ぶ方が、初めて来た者には分かりやすい」


「技術より人数ということですか?」


「技術が不要とは言っていない。技術だけでは金にならないと言っている」


 カイルは接客係たちへ視線を向けた。


「お前たちも、順位を上げたいのだろう?」


 誰も答えない。


「舞台へ出れば、客に顔と名前を覚えてもらえる。指名が増える。酒も売れる。下位から抜け出す機会を用意している」


 フィオナは、後方からカイルを見つめた。


 機会。


 そう言われれば、拒むことは難しい。


 舞台が苦手だから出ない。


 失敗するかもしれないから出ない。


 それでは、努力しない者だと思われる。


 給金を下げられても仕方がないと言われる。


「今夜、全員を出す」


 カイルが決めた。


「予定どおりだ」


「せめて人数を半分に分けてください」


 ラナが求める。


「二組に分ければ、間隔を取れます」


「舞台が小さく見える」


「小さくても安全です」


「客へ安全を売っているわけではない」


 その言葉に、ラナの表情が変わった。


「安全でなければ、何も売れません」


「お前は経営を知らない」


「カイル様は、踊りを知りません」


 二人の視線がぶつかる。


 ドミニクが間へ入ろうとした。


 だがカイルが手で止める。


「いいだろう」


 カイルは静かに言った。


「今夜の演目を成功させろ。それができれば、次から舞台の意見を聞く」


「失敗したら?」


「お前が言うほど危険だったと認める」


「誰かが怪我をしてから?」


 カイルは答えなかった。


 それが答えだった。


「練習を続けろ」


 踵を返し、客席を離れていく。


 ドミニクと会計係も続く。


 舞台には、出演を命じられた者たちが残された。


「聞いただろう」


 演出担当者が言う。


「今夜は予定どおりだ。成功させればいい」


 ラナは何も言わなかった。


 舞台へ上がる。


「位置を変えます」


「勝手に――」


「このままでは成功しません」


 ラナは接客係たちへ向き直った。


「フィオナ、後ろへ下がらなくていい」


「でも、私は動きを間違えました」


「弓を拾ったのは間違いじゃない」


「演目を止めました」


「踏んだ人が転ぶ方が止まる」


 ラナは床へ目を向ける。


「楽器は舞台へ置かない。袖へ渡す人を一人決める。演奏者が前へ出る時は、接客係が動かない」


 演出担当者が眉を寄せる。


「それでは動きが減る」


「減らします」


「客に見せるものが――」


「転ぶところを見せるよりいい」


 ラナは周囲の踊り手へ声をかけた。


「中央へ集まる動きを外す。前列は二歩以上、端へ近づかない。回る時は腕を上ではなく胸の高さへ」


「見栄えが悪くなる」


「今夜だけです。全員が覚えるまでは、小さい動きにする」


 接客係たちはラナの説明を聞いていた。


 フィオナも自分の立ち位置へ戻る。


「分からなくなったら、無理に周りへ合わせなくていい」


 ラナが言う。


「足を止めて、客席へ身体を向けて。笑顔を作る必要もない。真剣な顔でも、演目の一部に見えるから」


 フィオナは驚いた。


「笑わなくてもいいの?」


「踊りながら不安なら、笑わなくていい」


「でも、お客様が――」


「転びそうなのに笑っている方が怖いよ」


 ラナの言葉に、何人かが小さく笑った。


 緊張していた空気が、僅かに緩む。


「もう一度やりましょう」


 マリサが言った。


 朝にラナと争った踊り手だった。


「今度は、私が左側を見ます。位置がずれた人がいたら合図します」


「私は右を見る」


 別の踊り手も続いた。


「楽器を受け取る役は、私がします」


 舞台袖にいた若い給仕が手を上げる。


「受け取ったら、壁際の布の上へ置きます」


「次に舞台へ入る歌手を止めます」


 別の者が言う。


 少しずつ、役割が決まっていく。


 演出担当者は不満そうだったが、カイルから成功させろと命じられている。


 止めることはしなかった。


 再び曲が始まる。


 動きは先ほどより小さい。


 華やかさも少ない。


 それでも、誰もぶつからなかった。


 楽器は順に舞台袖へ渡される。


 演奏者が前へ出る間、接客係はその場で客席へ身体を向ける。


 ラナは高く跳ばず、中央で静かに回った。


 マリサは左側へ目を配る。


 フィオナは一度、足を出す方向を間違えた。


 だが無理に戻ろうとせず、その場で止まった。


 客席へ顔を向ける。


 笑顔を作ろうとした。


 しかしラナの言葉を思い出し、口元へ力を入れなかった。


 真剣な顔のまま、次の動きを待つ。


 曲の区切りで、自然に列へ戻った。


 最後の音が止まる。


 今度は誰も転ばなかった。


「これなら今夜もできます」


 ラナが言った。


 演出担当者は舞台を見た。


「地味だ」


「安全です」


「客が喜ぶかは分からない」


「怪我人は出ません」


 どちらも譲らなかった。


 開店時刻が近づいていた。


 これ以上練習する時間はない。


「本番は、客の反応を見て動きを大きくしろ」


 演出担当者が言う。


「それはしません」


 ラナが即答する。


「予定した動きだけにします」


「お前は――」


「カイル様には、成功させろと言われました」


 ラナは静かに返した。


「成功とは、最後まで誰も怪我をせず舞台を終えることです」


 演出担当者は舌打ちし、舞台を下りた。


 出演者たちはそれぞれの準備へ戻る。


 フィオナも控室へ向かった。


 接客用の衣装とは別に、舞台用として渡された薄い布の衣装を確認する。


 踊る者には動きやすいのかもしれない。


 けれどフィオナには、どこまで腕を上げればよいのかも分からない。


 衣装係が背中の紐を結ぶ。


「もう少しきつくします」


「苦しいです」


「緩いと動いた時にずれます」


「このままでお願いします」


「本番中に衣装が落ちても知りませんよ」


 フィオナは黙った。


 さらに紐が締められる。


 息を吸うと、胸元が圧迫された。


 鏡の中には、普段とは違う自分がいる。


 華やかな衣装。


 光を受ける飾り。


 頬には濃い化粧。


 笑えば、舞台へ立つ者らしく見える。


 だがフィオナは、鏡へ向かって笑うことができなかった。


 先ほど、ラナから笑わなくてよいと言われたからではない。


 笑顔を作れば、これから始まる舞台を楽しみにしているように見えるからだった。


 本当は、怖い。


 足を間違えること。


 誰かへぶつかること。


 客に笑われること。


 順位がさらに下がること。


 どの恐怖を隠すために笑えばよいのか、自分でも分からなかった。


 やがて、正面扉が開いた。


 客が次々と入店する。


 人気上位者の告知板を見る者もいた。


「今日もラナが出るのか」


「上位の歌手は誰だ?」


「舞台へ出る人数が増えたらしいぞ」


 店側が広めた話は、すでに客へ伝わっていた。


 今夜は、ルミエールのすべての才能を集めた特別な演目がある。


 歌手だけではない。


 踊り手だけではない。


 接客係や演奏者も舞台へ並ぶ。


 大勢の美しい女性が一度に見られる。


 客の期待は高まっていた。


 フィオナは開演まで、普段どおり客席へ出た。


 だが舞台用の衣装を着ているため、客から何度も声をかけられる。


「君も踊るのか?」


「はい。少しだけ出演いたします」


「踊り手だったのか」


「いいえ。普段は会話を担当しております」


「なら、舞台で何をする?」


「皆様と一緒に、簡単な動きを」


「下手でも笑ってやるから安心しろ」


 客は冗談のつもりだった。


 フィオナも笑顔を返した。


「ありがとうございます」


 胸の奥が少し冷えた。


 演目が始まる前から、失敗することを期待されているように感じた。


 別の卓では、ヴィオラが高級酒を勧めている。


「今夜はフィオナたち接客係も舞台へ出ます。普段とは違う姿をご覧いただけますよ」


「では、失敗したら酒を一杯飲ませよう」


「面白そうですね」


 ヴィオラは笑った。


 フィオナも近くにいた。


 自分が失敗した時、客の酒を飲まされるのか。


 冗談なのか。


 本当に求められるのか。


 誰も説明していない。


 演目開始を知らせる鐘が鳴った。


 出演者が舞台裏へ集まる。


 フィオナの手が冷たくなっていた。


「大丈夫?」


 ラナが近づく。


「はい」


「本当に?」


 フィオナは笑顔を作りかけ、やめた。


「怖いです」


 初めて、客のいない場所で正直に答えた。


「うん」


 ラナはそれを否定しなかった。


「怖くなったら、止まっていい。前の人についていけなくても、走らないで」


「お客様に笑われたら?」


「笑う人はいるかもしれない」


「やっぱり」


「でも、それでフィオナの会話が下手になるわけじゃない」


 フィオナはラナを見る。


「舞台で失敗しても?」


「得意じゃないことを、今日初めてやらされるんだから」


 ラナは舞台へ続く階段を見る。


「失敗しないようにする。でも失敗しても、フィオナの全部が失敗になるわけじゃない」


 客席から拍手が聞こえる。


 最初の歌手が紹介されている。


 フィオナの出番は、その次だった。


「行こう」


 ラナが手を差し出したわけではない。


 ただ、隣へ立った。


 フィオナも頷く。


 舞台へ続く階段の前へ並ぶ。


 前にいる者が上がる。


 自分の番が来る。


 光が見える。


 客席から、大きな歓声が上がった。


 フィオナは舞台へ足を踏み出した。


 多くの客がいる。


 卓には酒。


 正面には上客。


 後方には立ち見。


 全員の視線が舞台へ向いている。


 楽器が鳴る。


 フィオナは決められた位置へ立った。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 手を胸の高さへ上げる。


 身体を回す。


 隣へはぶつからない。


 ラナが動きを小さくしたため、中央にも余裕がある。


 最初の部分は成功した。


 客席から拍手が起きる。


 フィオナの胸へ、少しだけ安堵が広がる。


 次に、演奏者が楽器を舞台袖へ渡す。


 一人目。


 二人目。


 決めた順番どおりに進む。


 しかし三人目の演奏者が楽器を渡そうとした時、舞台袖から次の歌手が上がってきた。


「待って!」


 給仕が止める。


 だが歌手の背後には、さらに二人が続いていた。


「出番だと言われました」


「まだです!」


 舞台袖で人が詰まる。


 楽器を受け取る場所が塞がれる。


 演奏者は立ち止まった。


 後ろから来た者が、その背中へぶつかる。


 弦楽器が揺れる。


 演奏者は両手で抱え直した。


 客席から見れば、僅かな乱れだった。


 フィオナたちはその場で動きを止め、客席へ身体を向ける。


 ラナが決めた対応だった。


 だが演出担当者は舞台袖から腕を大きく振っている。


 動け。


 もっと大きく。


 客へ見せろ。


 その合図を見た一人の接客係が、予定にはなかった動きを始めた。


 腕を上げて回る。


 隣の者も合わせようとする。


 フィオナは、どちらに従えばよいか迷った。


 ラナが決めた小さな動き。


 演出担当者が求める大きな動き。


 周囲が再び動き始める。


 フィオナも遅れて回った。


 その足が、衣装の裾へ引っかかる。


 身体が傾いた。


 倒れる。


 そう思った瞬間、隣のヘレナが腕を支えた。


「大丈夫?」


「はい」


 小声で答える。


 だが曲は続いている。


 二人は遅れた。


 中央ではラナが次の動きへ入っている。


 フィオナは追いつこうとした。


 右へ一歩出る。


 本来は左だった。


 正面から来た接客係とぶつかりそうになる。


 二人が同時に避ける。


 同じ方向へ避けた。


 再び重なる。


 客席から笑い声が起きた。


「あの二人、何をしているんだ」


「踊れないのか」


「面白いぞ!」


 笑われている。


 フィオナの頭が真っ白になった。


 足が止まる。


 次の動きが分からない。


 右。


 左。


 中央。


 周囲の誰もが別の場所へ動いているように見える。


「フィオナ」


 ラナの声が聞こえた。


 大きくはない。


 曲の中で、かろうじて届く声だった。


「止まって」


 フィオナは動くのをやめた。


「客席を見て」


 顔を上げる。


 客が笑っている。


 指を差す者もいる。


 だが全員ではない。


 心配そうに見ている者。


 舞台全体を見ている者。


 ラナの踊りへ目を向ける者。


 フィオナだけを見ている客ばかりではなかった。


「そこにいて」


 ラナは踊りながら、フィオナの前へ移動した。


 客席からの視線を、自分へ引きつける。


 大きく回る。


 ただし周囲へぶつからない範囲で。


 マリサも反対側へ出た。


 二人の踊り手が前へ立つ。


 後方の接客係たちは、その場で腕だけを動かす。


 乱れていた列が、少しずつ整う。


 フィオナは決められた位置から動かなかった。


 笑顔を作れない。


 真剣な顔のまま、胸の高さへ腕を上げる。


 右。


 左。


 今度は間違えない。


 最後の音が近づく。


 全員が客席へ身体を向ける。


 腕を広げる。


 フィオナも遅れずに合わせた。


 音が止まる。


 一瞬の静寂。


 拍手が起きた。


 大きな拍手だった。


 演目全体への拍手。


 ラナへの拍手。


 大勢が並ぶ華やかさへの拍手。


 その中には、先ほどフィオナを笑った客の手音も混じっていた。


 フィオナは頭を下げる。


 舞台を終えた。


 転ばなかった。


 誰にも怪我はなかった。


 それでも胸は、成功したとは感じていなかった。


 出演者たちは階段へ向かう。


 次の歌手たちが同じ階段から上がろうとしている。


 舞台袖で再び人が詰まる。


「先に降ります!」


 ラナが声を上げる。


「上がる人は待って!」


 今度は給仕も同じ指示を出した。


 歌手たちが足を止める。


 出演者が順に降りる。


 狭いながらも、衝突は起きなかった。


 舞台裏へ戻った瞬間、フィオナは壁へ手をついた。


 足が震えている。


「大丈夫?」


 ヘレナが尋ねる。


「はい」


 フィオナは反射的に笑った。


 だが、すぐに笑顔を消した。


「……大丈夫ではないかもしれません」


 口にしてみる。


 それだけで胸が苦しくなった。


 弱音を吐いた。


 仕事をできないと認めたように感じた。


 けれどヘレナは責めなかった。


「私もよ」


 自分の腕を見せる。


 隣とぶつかった際に、小さな赤い跡ができていた。


「次も出ろと言われたら、どうしよう」


「出るしかないでしょう」


 別の接客係が言う。


「断れば順位を下げられる」


「今日の舞台で客に名前を覚えてもらえたかもしれない」


「笑われて覚えられたくないわ」


 小さな声が重なる。


 その時、演出担当者が舞台裏へ入ってきた。


「今の演目、客の反応は良かった」


 出演者たちが黙る。


「途中で乱れたが、それも笑いになった。結果として盛り上がった」


 フィオナの手が止まる。


「笑いに……?」


「客が喜んだということだ」


「私が間違えたところを笑われました」


「印象に残っただろう」


「でも――」


「次は、もっと大きく間違えてもいい」


 フィオナは耳を疑った。


「何ですか?」


「わざと間違えろと言っているのではない。失敗しても隠すな。客が笑えば、それも見世物になる」


 ラナが一歩前へ出る。


「フィオナは笑われるために舞台へ出たのではありません」


「客が楽しんだなら成功だ」


「本人が傷ついても?」


「仕事だ」


 演出担当者は冷たく答えた。


「客を楽しませるのが仕事だろう」


 フィオナは自分の足元を見た。


 間違えた時の笑い声が、まだ耳に残っている。


 面白かった。


 下手だった。


 何をしているんだ。


 客は楽しんだ。


 店は成功と判断した。


 なら、自分が恥ずかしいと思う方が間違っているのだろうか。


「次の出演は一刻後だ」


 演出担当者が続ける。


「今度は客席へ降りる動きも入れる」


「聞いていません」


 ラナが言う。


「今決めた」


「客席へ降りる通路は?」


「正面の階段を使う」


「酒瓶と卓があります」


「黒服に空けさせる」


「客が立ち上がったら?」


「黒服が止める」


「誰が担当するのですか?」


 演出担当者は答えに詰まった。


「決めておく」


「一刻後までに?」


「できる」


「今の舞台袖の出入りも、決めたとおりになりませんでした」


「結果として事故はなかった」


 その言葉を、今度は演出担当者が使った。


 事故はなかった。


 だから次もできる。


 危険だったことは、問題として数えられない。


 転びかけたことも。


 楽器が踏まれそうになったことも。


 出演者が笑われて傷ついたことも。


 数字に残らない限り、失敗ではない。


「次の演目には出ません」


 フィオナの口から、言葉が出た。


 周囲が静かになる。


 自分でも驚いていた。


 演出担当者がフィオナを見る。


「何と言った?」


「次の演目には……出られません」


「出たくないではなく?」


「出られません」


 声が震える。


 笑顔を作りそうになる。


 だが、フィオナは口元へ力を入れなかった。


「足が震えています。次に客席へ降りれば、転ぶかもしれません」


「少し休めば治る」


「治らなかったら?」


「本番前に判断する」


「誰が判断するのですか?」


「私だ」


「私が怖いと言っても?」


 演出担当者の眉が寄る。


「怖いだけで仕事を断るのか」


 フィオナは答えられない。


 仕事を断っている。


 客を楽しませる機会を拒んでいる。


 順位を上げる機会も捨てようとしている。


 給金を減らされるかもしれない。


 良い席を外されるかもしれない。


 ハインツが来ても担当できなくなるかもしれない。


 恐怖が次々と浮かぶ。


「出ます」


 フィオナは言い直した。


 ラナが振り返る。


「フィオナ」


「少し休めば、大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


 今度は笑顔を作った。


 それを見たラナの耳が、伏せる。


 フィオナは、自分でも分かっていた。


 出たいから選んだのではない。


 断った後に失うものが怖くて、戻しただけだった。


「そうか」


 演出担当者は満足したように頷く。


「それでいい」


 舞台裏を離れていく。


 フィオナは壁へ背を預けた。


「出なくていい」


 ラナが言う。


「でも、店の命令です」


「足が震えている」


「休めば治ります」


「さっき、自分で出られないって言ったでしょう」


「間違えました」


「間違えてない」


「間違えました」


 フィオナは笑顔のまま繰り返した。


「仕事を断れば、順位が下がります。良い席から外されます。給金も減らされます」


「それでも怪我をするよりいい」


「私には、給金が必要です」


 ラナは言葉を止めた。


 働かなければ暮らせない。


 順位が下がれば収入が減る。


 店を辞めても、次に安全な職場が見つかる保証はない。


 正しいことを言うだけでは、フィオナの生活を守れない。


「私が、もう一度話す」


 ラナが言った。


「カイル様へ?」


「うん」


「私のために?」


「フィオナだけじゃない。全員のため」


「また、順位を守りたいだけだと言われます」


「言わせておけばいい」


 ラナは舞台へ続く通路を見る。


「でも今度は、舞台の外から言うだけじゃ駄目なのかもしれない」


「どうするの?」


「分からない」


 ラナは自分の足へ視線を落とした。


 今夜も、あと二度踊らなければならない。


 その合間に客席へ回る。


 さらに慣れない者たちを支えなければならない。


 一人で全員を守ることはできない。


 それでも、何もしなければ次は本当に誰かが倒れる。


 客席から、ラナの名を呼ぶ声が聞こえた。


 高級酒を注文した卓へ挨拶に行く時間だった。


「行かないと」


 ラナが言う。


「はい」


「フィオナ」


「何?」


「さっき、出られないって言った時の顔」


 ラナはフィオナを見た。


「笑ってなかった」


 フィオナは頬へ触れる。


「怖そうだった。でも、嘘には見えなかった」


「怖い顔を客へ見せるわけにはいきません」


「今は客はいないよ」


 ラナはそれだけ言って、客席へ向かった。


 フィオナは舞台裏に残る。


 周囲では、次の出演準備が始まっていた。


 演奏者は楽器の傷を確認している。


 ヘレナは赤くなった腕へ布を巻く。


 給仕たちは、客席へ降りるための階段周辺から卓を動かす相談をしていた。


「この卓を少し下げます」


「通路が狭くなる」


「では、椅子を一脚減らす」


「満席だから減らせない」


「客へ立ってもらうか?」


「高い酒を頼んでいる席だぞ」


 誰も、簡単な答えを出せない。


 舞台を広げれば客席が狭くなる。


 客席を守れば出演者の通路がなくなる。


 人数を減らせば豪華さが失われる。


 休ませれば売上機会が減る。


 安全を優先するためには、何かを諦めなければならない。


 だがルミエールでは、何一つ諦めることを許されていなかった。


 客数。


 席数。


 酒の売上。


 舞台の人数。


 出演回数。


 すべてを増やすことだけが求められていた。


 その夜、フィオナは二度目の演目にも出演した。


 客席へ降りる動きは、直前になって取りやめられた。


 階段前の卓を動かせず、通路を確保できなかったためだった。


 演出担当者は不満を示した。


 カイルは、次回までに客席配置を変えるよう命じた。


 出演者を減らすという案は、最後まで出なかった。


 二度目の舞台で、フィオナは一度も大きく動かなかった。


 足を間違えそうになれば止まる。


 周囲へぶつかりそうになれば、その場で腕だけを動かす。


 笑顔は作った。


 客から見れば、最初より失敗の少ない演目に見えた。


 営業後。


 評価表へ、その日の数字が加えられた。


 フィオナの舞台集客数には、僅かな数字が記されていた。


 演目中に客が増えた分を、出演者全員へ分けた結果だった。


 指名数は零。


 贈り物も零。


 酒の売上も低い。


 それでも総合順位は、一つだけ上がっていた。


「良かったわね」


 近くの接客係が言う。


「舞台へ出た効果があったじゃない」


「はい」


 フィオナは笑顔で答えた。


 一つ上がった。


 笑われたこと。


 足が震えたこと。


 出られないと言ったのに撤回したこと。


 それらと引き換えに、順位が一つ上がった。


 壁の上位表では、ラナが一位を維持している。


 その名の横に、舞台集客数と酒の売上が増えていた。


 ラナもまた、今日一日でさらに高い値札を付けられたことになる。


 フィオナは、自分の順位を見る。


 昨日より一つ上。


 喜ぶべき数字。


 給金を守るために必要な数字。


 けれど、その数字を見ても、胸は少しも軽くならなかった。


 控室の奥では、演出担当者とドミニクが翌日の舞台について話している。


「今日の反応なら、接客係をさらに増やせる」


「楽器奏者にも客席を回らせよう」


「舞台後に名前を伝えさせれば、指名へつながる」


「フィオナの失敗も、客には受けていた」


「なら、会話が得意な者だけでなく、不器用な者も出した方が面白い」


 笑われたことまで、成功として使われていく。


 フィオナは笑顔を崩さず、衣装を脱いだ。


 鏡の前へ座る。


 頬の化粧を布で拭う。


 一度。


 二度。


 三度。


 舞台用の濃い色が少しずつ落ちていく。


 最後に口元を拭いた時、笑顔も一緒に消えた。


 鏡の中の自分は、疲れていた。


 楽しそうには見えない。


 華やかにも見えない。


 ただ、怖かったことを隠しきれなかった一人の女性が座っている。


 フィオナは、その顔をすぐには笑顔へ戻さなかった。


 ほんの僅かな時間だけ、黙って見つめた。


 翌朝。


 客席には新しい告知が追加された。


 ――今夜も、ルミエール総出演の特別舞台。


 歌。


 踊り。


 演奏。


 接客係による華やかな共演。


 その下には、前夜の演目を見た客の言葉として、こう書かれていた。


 ――思いがけない失敗まで楽しめる、二度と同じものは見られない舞台。


 誰が失敗したのか。


 その者が何を感じたのか。


 告知には書かれていない。


 ただ、開店前の舞台では、今日も出演者の人数が増やされていた。

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