第113話 値札を付けられたキャストたち
翌朝、ルミエールの控室へ入った者たちは、壁際に置かれた大きな板へ目を向けた。
前日の営業後にはなかったものだった。
板は、接客係たちが身支度を整える鏡の向かい側に置かれている。
誰もが出勤し、誰もが客席へ向かう前に必ず通る場所だった。
その中央には、白い紙が何枚も並べて貼られていた。
紙の一番上には、大きな文字で書かれている。
――ルミエール週間評価表。
その下に、働く者たちの名前が縦に並んでいた。
踊り手。
歌い手。
楽器奏者。
接客係。
役割ごとには分けられていない。
全員の名前が同じ欄へ並べられ、それぞれの横には四つの数字が記されていた。
指名数。
酒の売上。
贈り物の金額。
舞台へ集めた客数。
さらに一番右には、それらを足し合わせた総合順位が書かれている。
「これ……何?」
控室へ入ってきた若い接客係が、立ち止まった。
後ろから来た者たちも、次々と足を止める。
「順位表みたい」
「全員一緒なの?」
「楽器の人まで入っているわ」
「舞台へ集めた客数って、どうやって決めたの?」
「分からない」
小さな声が広がっていく。
誰も板へ近づこうとしなかった。
けれど誰も、そこから目を離すこともできなかった。
名前の横に書かれた数字は、昨日まで本人と会計係しか詳しく知らなかったものだ。
誰が何人から指名されたのか。
誰の席でどれだけ酒が売れたのか。
誰が高価な髪飾りや布を贈られたのか。
それらが今は、誰にでも見える形で並べられている。
最上段にあったのは、ラナの名前だった。
指名数は多くない。
ラナは舞台を中心に働いており、客席へ長く座ることはできないためだ。
しかし酒の売上と舞台へ集めた客数は、ほかの者を大きく上回っていた。
開店初日から、ラナが舞台へ出るたびに高級酒が注文された。
ラナの挨拶を求める客も多い。
その結果、総合順位では二位以下へ大きな差をつけている。
二位には、華やかな歌声と外見で人気を集めているエリゼ。
三位には、客席で積極的に高級酒を勧めるヴィオラ。
四位に踊り手のマリサ。
その下にも、歌、踊り、客との会話で目立つ者たちが続いていた。
フィオナの名前は、かなり下にあった。
指名数は零。
酒の売上は、接客係の中でも低い。
贈り物は一つもない。
舞台へ集めた客数も当然、零だった。
総合順位は、下から数えた方が早い。
フィオナは控室の入口付近で、その数字を見つめていた。
昨夜、ハインツは次に来る時には自分の名を入口で伝えると言ってくれた。
フィオナ自身との会話を目的に、また来たいと告げてくれた。
それは彼女にとって、初めて得られた指名に近い約束だった。
しかし、まだ実際の数字にはなっていない。
表の上では、指名数は零のままだった。
「下の人は、給金が下がるのかな」
誰かが呟いた。
「まさか」
「でも、順位を付けるだけなら、わざわざ全員に見せる必要はないでしょう」
「上位に褒賞があるって聞いたわ」
「下位は?」
その問いに答える者はいなかった。
控室の奥から、衣装係が現れる。
「ここで立ち止まらないでください。身支度を始めてください」
「この表は何ですか?」
接客係の一人が尋ねた。
「私には分かりません。ドミニク様か会計係へ聞いてください」
衣装係は板を見ようともせず、棚から衣装を取り出した。
「上位の方は、こちらの衣装へ変わります」
手にしているのは、これまでより飾りの多い衣装だった。
金糸の刺繍。
光を受ける小さな飾り。
質のよい薄布。
客席へ出れば、遠くからでも目立つだろう。
「誰が着るの?」
「上位五名です」
控室の空気が変わった。
視線が、再び順位表へ向かう。
ラナ。
エリゼ。
ヴィオラ。
マリサ。
そして、楽器演奏をしながら客席にも出ていた一人の女性。
名前を呼ばれた者たちは、喜んでよいのか迷っているようだった。
ヴィオラだけは、すぐに衣装へ目を向けた。
「これを着て客席へ出られるの?」
「今夜からです」
「良かった。前の衣装は地味すぎたもの」
ヴィオラは笑みを浮かべ、衣装を受け取った。
その様子を見ていた下位の接客係が、無意識に自分の衣装の裾をつかむ。
同じ店で働いていても、順位によって見た目から差がつけられる。
上位者は目立つ衣装を着る。
客の目に留まりやすくなる。
目立てば、さらに指名されやすくなる。
指名されれば酒の注文も増える。
下位の者は、今までと同じ衣装のまま、上位者より多くの成果を求められる。
「ラナさんも、こちらを」
衣装係が声をかける。
ラナは板の前に立っていた。
自分の名が最上段にある。
それでも表情に喜びはなかった。
「舞台衣装は、もう決まっています」
「客席へ挨拶に回る時はこちらへ着替えるよう、指示を受けています」
「舞台の合間にですか?」
「はい」
「着替える時間は?」
「演目が終わり次第、急いでください」
ラナは衣装を見た。
猫耳を隠さないよう、頭部には何もつけない形になっている。
背中と腰回りには、尾が目立つように布が少なく、金色の飾りが付けられていた。
舞台で踊るための衣装ではない。
客へ近くで種族を見せるための衣装だった。
「この飾りは、踊る時に引っかかります」
「客席用です」
「舞台へ戻る前に、また着替えるのですか?」
「そうなります」
「休む時間は?」
衣装係は答えなかった。
「私に言われても困ります」
ラナは衣装を受け取らず、板へ視線を戻した。
その横を、マリサが通る。
彼女も上位者用の衣装を受け取っていた。
「良かったですね」
マリサが言った。
声は明るい。
だが、笑ってはいなかった。
「一位です」
「マリサも四位でしょう」
「私は四位です。ラナさんとは違います」
「何が?」
「分かっているでしょう」
マリサの視線が、ラナの耳へ向いた。
すぐに逸らされる。
「私は舞台で踊って、客に名前を覚えてもらわなければいけません。でもラナさんは、出ただけで客が集まる」
「私も踊っています」
「知っています」
「なら――」
「踊りが上手いことも知っています」
マリサは衣装を強く抱えた。
「でも、客が最初に見ているのはそこじゃないでしょう」
近くにいた者たちが、会話を聞いている。
誰も割って入らない。
「告知板に一番大きく書かれたのは、ラナさんの名前じゃなかった」
マリサが続ける。
「珍しい猫系獣人の踊り子。客はそれを見に来た。踊りが始まる前から歓声を上げる。あなたが失敗しても、獣人が舞台に立っただけで喜ぶ客だっている」
ラナの尾が、身体の近くへ寄る。
「失敗してもいいと思ったことはありません」
「私は、そんなことを言っていません」
「言っているのと同じです」
「違う。私はただ、同じ順位表に並べられるのがおかしいと言っているだけです」
マリサの声が少し大きくなった。
「私が何度踊っても、客はラナさんのようには名前を呼ばない。私には耳も尾もないから」
「私が望んで宣伝させたわけじゃない」
「でも、その宣伝で一位になった」
ラナは返す言葉を失った。
否定できない部分があった。
客を集めたのは、自分の踊りだけではない。
猫系獣人が舞台へ立つという珍しさが、多くの客を呼んだ。
自分がどれほど技術を磨いてきたとしても、店はそれを一番の売りにはしていない。
ラナ自身が嫌悪している扱いが、順位表の上では成果として数えられている。
「マリサ」
フィオナが二人の間へ近づいた。
「ラナさんを責めても、順位を決めた人は変わりません」
マリサが振り返る。
「フィオナには分からないでしょう」
「分からないかもしれません」
「あなたは舞台へ出ないもの」
「はい」
「私は踊るためにここへ来た。でも、同じくらい踊れる人が、種族だけで前に立つ」
マリサはラナを見た。
「悔しいと思うことまで、悪いの?」
「悪くありません」
ラナが答えた。
声は低かった。
「でも、私が踊ってきた時間まで、種族だけで片づけないで」
二人の間に沈黙が流れた。
マリサは目を逸らす。
「……分かっています」
小さな声だった。
「分かっているから、余計に腹が立つの」
マリサは衣装を持ったまま、その場を離れた。
ラナは追わなかった。
フィオナも何も言えなかった。
誰が悪いのか、簡単には決められない。
マリサはラナの技術を認めている。
ラナもマリサが努力していることを知っている。
それでも、順位表は二人を隣へ並べ、一位と四位という差をつけた。
理由の違う数字を一つにまとめ、優れている者と劣っている者へ分けた。
「開店前の確認を始める」
ドミニクの声が客席側から聞こえた。
控室にいた者たちは、会話を止める。
衣装を受け取った上位者。
自分の順位を何度も見直す者。
見ないふりをして身支度を急ぐ者。
それぞれが客席脇へ集まった。
ドミニクの隣には、会計係が立っている。
さらに少し後ろには、カイルの姿もあった。
普段、開店前の細かな確認へカイルが立ち会うことは少ない。
今日は順位制度を始めるため、自ら説明に来たらしい。
「壁の表は見たな」
カイルが言った。
誰も返事をしない。
「声が聞こえない」
「はい」
ばらばらの返事が返る。
「これは、お前たちを不当に競わせるためのものではない」
カイルは全員を見渡した。
「努力と成果を正しく評価するためのものだ」
ラナが僅かに眉を動かす。
「今までは、よく働いている者も、そうでない者も、似たような給金を受け取っていた。それでは優れた者が報われない」
会計係が別の紙を開いた。
「上位五名には、今週の給金へ報奨金を加えます。また特別衣装を使用し、客席と舞台で目立つ位置を優先します」
何人かの顔が上がる。
「六位から中位までは、現状の給金を維持します」
会計係が一度、言葉を止めた。
「下位十名については、次週も順位が改善しない場合、給金の一部を減らします。担当卓、舞台位置、演目への参加も見直します」
控室で予想されていた言葉が、現実になった。
小さなどよめきが起きる。
「給金を下げられるのですか?」
一人の楽器奏者が尋ねた。
「成果がなければ当然だ」
カイルが答える。
「でも、私は演奏が担当です。客へ酒を勧める時間はありません」
「演奏で客を集めればよい」
「舞台へ集めた客数は、どうやって数えるのですか?」
「演目の前後で、客席の人数と注文を確認する」
「複数人で演奏した場合は?」
「責任者が判断する」
「歌手の伴奏をした時は、歌手の成果になるのですか?」
質問が続く。
カイルの表情に苛立ちが浮かぶ。
「細かい不満を並べる前に、客へ見てもらう努力をしろ」
「ですが――」
「舞台へ立つ者が客を集める。接客係が酒を売る。黒服が客を滞りなく動かす。自分の仕事で店へ利益をもたらせば、それは数字へ表れる」
フィオナは、自分の順位を思い出した。
昨夜、ハインツとロルフは笑って帰った。
革の売り方を考えるきっかけを得た。
もう一人の客も、妻へ本当の希望を聞こうと決めた。
どちらも、また来ると話してくれた。
けれど、今の数字には表れていない。
「次に来ると約束してくださったお客様は、評価へ入らないのでしょうか」
気づけば、フィオナは尋ねていた。
カイルが彼女を見る。
「実際に来てから数えればいい」
「昨日、私を次に指名すると言ってくださった方がいます」
「なら、次に来れば指名数が一つ増える」
「その方は、昨日の接客へ満足してくださったのだと思います」
「それで?」
「昨日の評価には、何も残っていません」
周囲の視線がフィオナへ集まる。
フィオナは反射的に笑顔を作った。
カイルは少し考えるように目を細める。
「未来の約束まで成果として数えろと言うのか?」
「そうではありません。ただ、客がまた来たいと思ってくださったことも、接客の結果ではないかと――」
「客は口では何とでも言う」
カイルは遮った。
「また来る。次は指名する。今度は高い酒を頼む。客が気分よく帰るために言うこともある」
「ハインツ様は、そのような方ではありません」
「お前が客を信用するのは自由だ。だが店は、実際に残った金と人数で判断する」
「……はい」
「その客が本当にお前を評価したなら、再来店して金を使う。そこで初めて証明される」
フィオナは頭を下げた。
「承知しました」
笑顔は崩さなかった。
けれど胸の奥で、昨夜大切に抱えたものが、少し小さくなったように感じた。
ハインツがまた来ると言ったこと。
自分の名を入口で伝えると約束してくれたこと。
それは店にとって、まだ何の価値もない。
客が実際に来て、酒を買い、数字を増やして初めて認められる。
「順位は毎週更新する」
カイルが続けた。
「上位へ入れば報われる。下位へ落ちれば、何が足りないか考えろ」
一人の接客係がおそるおそる手を上げる。
「同じ客を、ほかの人と一緒に担当した場合は?」
「指名された者の成果だ」
「指名がなく、途中で担当を代わった場合は?」
「酒を注文させた者へ付ける」
「では、最初に長く話を聞いていても、最後に別の人が高い酒を勧めたら――」
「注文を取った者の成果だ」
接客係の顔が曇る。
これまでなら、客に合う者へ担当を代えることもあった。
商売の話が得意な者。
旅の話を知る者。
歌の知識を持つ者。
一人では会話を続けられない時、別の接客係が助けることもあった。
だが、数字が注文を取った者だけへ付くなら、助けを呼ぶことは自分の成果を渡すことになる。
「客が最初に誰を選ぶかも重要だ」
カイルは言った。
「自分の客は、自分でつかめ」
その言葉が、静かに全員へ染み込んでいく。
協力ではなく、競争。
客を店全体で迎えるのではなく、自分の数字として抱える。
順位を上げたい者にとって、隣にいる接客係は仲間ではなく、同じ客を奪う相手になる。
「今夜から、客へ積極的に自分の名を覚えさせろ」
ドミニクが補足する。
「席を離れる時は、次に誰がつくか確認すること。ただし、自分の客をそのまま渡すな。戻る時間を伝え、指名を取れ」
「舞台中は?」
「舞台を見ながらでも酒は勧められる」
「客が話したいと言った場合は?」
「話を聞きながら勧めろ」
「飲みすぎている客は?」
一瞬、場が静かになる。
カイルが答えた。
「倒れるほどでなければ問題ない」
「かなり酔っていても、高級酒を求めたら出すのですか?」
「黒服が様子を見る」
近くにいた元執事のエドガーが、僅かに顔を上げる。
だが何も言わなかった。
「客の判断を勝手に奪うな」
カイルはフィオナへ視線を向けながら言った。
「金を使いたい客へ、従業員が止める理由はない」
開店準備が始まった。
楽器奏者たちは舞台裏へ向かう。
踊り手は衣装を整える。
接客係たちは客席の卓を確認する。
いつもと同じ準備のはずだった。
しかし、昨日までとは空気が違っていた。
「今夜、入口に近い卓は私が担当するわ」
ヴィオラが言う。
そこは、入店直後の客が最初に案内されやすい場所だった。
「昨日までは、私の担当だったでしょう」
別の接客係が返す。
「順位が上の者へ良い卓を回すと言われたでしょう」
「でも、担当はまだ変えると言われていない」
「ドミニク様へ聞けばいいわ」
二人は睨み合った。
少し離れた場所では、楽器奏者同士が演目の順を確認している。
「今夜の独奏、私にも一曲ください」
「昨日まで決まっていた順番があります」
「独奏がなければ、舞台へ集めた客数を増やせません」
「全員が独奏を求めたら、合奏ができなくなります」
「順位が下がれば給金を減らされるんです」
「私も同じです」
誰もが、自分の数字を守ろうとしていた。
フィオナは右奥の卓へ向かった。
昨日、ハインツを担当した席だった。
今夜も彼が来るわけではない。
次に来る時は名を伝えると言っただけで、日までは決まっていない。
それでもフィオナは、椅子の位置を整え、卓を丁寧に拭いた。
「そこ、私が使うわ」
背後から声がかかる。
振り返ると、ヴィオラが立っていた。
「ここは私の担当と聞いています」
「今夜、正面の卓へ大商人が来るの。同行者が多いから、この卓まで使うことになった」
「誰から聞いたのですか?」
「ドミニク様よ」
ヴィオラは当然のように椅子を確認した。
「あなたは後方の立ち席を見て」
「立ち席ですか?」
「そこなら、安いエールだけの客も多いでしょう。あなたは高い酒を無理に勧めないから、合っているんじゃない?」
悪意を隠していないわけではない。
だが完全な嫌がらせとも言い切れなかった。
順位上位のヴィオラへ、より金を使う可能性の高い客が回される。
カイルが説明した方針どおりだった。
「分かりました」
フィオナは笑顔で答えた。
「何で笑っているの?」
ヴィオラが不思議そうに言う。
「いえ」
「怒っているなら、そう言えば?」
「怒っていません」
「ならいいけど」
ヴィオラは興味を失ったように卓へ背を向けた。
フィオナは後方へ向かう。
立ち席には、背の高い簡素な卓がいくつか並んでいる。
客は椅子へ座らず、舞台を見ながら酒を飲む。
長く会話をする場所ではない。
接客係も一人の客へ付き続けず、複数の卓を回る。
フィオナの得意な接客とは、最も遠い場所だった。
正面扉が開く。
今夜最初の客が入ってくる。
次々と入場料が支払われ、黒服が客を席へ案内する。
上位の接客係たちは、自分の名を積極的に伝えていた。
「ヴィオラと申します。次回も私をご希望でしたら、入口で名前をお伝えください」
「今夜の歌は私が担当します。よろしければ、舞台後にエリゼとお呼びください」
「次の踊りでは前列に立ちます。マリサを覚えてくださいね」
それぞれが客の前で笑う。
しかしその笑顔の奥では、周囲の接客係が同じ客へ近づかないかを見ている。
一人の商人が、近くを通った女性へ声をかけた。
「先ほど話していた娘はどこへ行った?」
「あちらの卓へ移りました」
「なら、戻るまで君が座ってくれ」
「ありがとうございます。私はヴィオラです」
元の担当者が戻ってきた時、客はすでにヴィオラから高級酒を勧められていた。
「こちらの酒を注文すると、舞台後にラナがご挨拶へ伺います」
「では頼もう」
注文を取ったのはヴィオラになる。
最初に客を迎え、好みを聞いていた女性は、何も言えずに立っていた。
「この卓は私が担当しています」
小声で告げる。
ヴィオラは笑顔のまま答えた。
「お客様が私を呼んだのよ」
「一時的に席を外しただけです」
「でも注文したのは私からでしょう」
客の前では争えない。
元の担当者は頭を下げ、別の卓へ向かった。
その背中を見ながら、近くにいた接客係たちが視線を交わす。
今夜から、席を離れること自体が危険になった。
水を取りに行く。
黒服を呼ぶ。
別の客へ挨拶する。
そのわずかな時間に、自分の客を取られるかもしれない。
誰もが担当卓から離れにくくなった。
結果として、客から頼まれた水や料理が遅れる。
黒服を呼びに行く者も減った。
後方の立ち席で、フィオナは三人の若い冒険者を担当していた。
「エールを三つ」
「承知しました」
「高い酒は勧めないのか?」
一人が冗談めかして尋ねる。
「ご希望でしたら、ご案内いたします」
「ほかの席では、頼んでもいないのに何本も説明されたぞ」
「こちらでは、まずお好みを伺います」
「変わっているな」
昨日も言われた言葉だった。
フィオナは笑った。
「苦いものと、甘いものでは、どちらがお好きですか?」
「俺は苦い方だ」
「俺は何でもいい」
「こいつは酒の味なんて分からん」
「分かる。高いか安いかくらいは」
三人は笑い合う。
フィオナは、それぞれの好みを尋ねた。
冒険の帰りらしく、服や靴には土が残っている。
一人は左腕を僅かにかばっていた。
「お怪我をされているのですか?」
「少しひねっただけだ」
「杯を持つのは大丈夫ですか?」
「右手がある」
「料理をお持ちする時は、小さく切られたものの方がよいでしょうか」
「そこまでしなくても――」
「いや、頼もう。こいつは強がるからな」
「余計なことを言うな」
会話が始まる。
三人は森での依頼について話した。
大きな成果を得たわけではない。
薬草を採り、途中で小型の魔物へ遭遇し、逃げる際に一人が腕を痛めた。
仲間を置いて走った者。
荷物を捨てて戻った者。
帰還できたことを笑いながら話している。
フィオナは、誰が勇敢だったのかを決めなかった。
ただ、それぞれが何をしたのかを聞いた。
「置いて走ったと言っても、ギルドへ助けを呼ぶつもりだったんでしょう?」
「まあな」
「戻った方も、荷物を捨てたことを責めてはいませんね」
「命より薬草を選ぶ奴はいない」
「なら、皆さんが無事に戻れたのは、それぞれが必要なことをしたからかもしれません」
三人が少しだけ黙る。
腕を痛めた男が、エールの杯を持ち上げた。
「俺は、こいつが逃げたと思っていた」
「お前を背負って走れないだろうが」
「分かってる」
「なら最初から言え」
「今、分かったんだ」
空気が少し和らぐ。
フィオナは追加のエールを尋ねようとした。
その時、視界の端でドミニクがこちらを見ていることに気づく。
三人が注文しているのは、安いエールだけだ。
長く話すほど、売上に対する時間は増える。
順位表の上では効率が悪い。
「こちらの蒸留酒もございます」
フィオナは、言葉を選びながら勧めた。
「ただ、かなり強いお酒です。お怪我もありますので、無理にはお勧めいたしません」
「では、やめておこう」
男はすぐに答えた。
「明日もギルドへ報告に行く」
「そうですね」
フィオナはそれ以上勧めなかった。
ドミニクの表情が険しくなる。
近くを通ったヴィオラが、三人の卓へ視線を向けた。
「皆様、舞台はお好きですか?」
華やかな衣装で近づいてくる。
三人の目がそちらへ向いた。
「この後、ラナが踊ります。特別な蒸留酒をご注文いただくと、演目後に近くでご挨拶できますよ」
「さっきの獣人か?」
「はい」
「一度近くで見てみたいな」
一人が興味を示した。
フィオナは言った。
「お怪我をされている方もいらっしゃいます。強い酒は――」
「一杯ずつ飲めばいいでしょう」
ヴィオラが笑顔で遮る。
「瓶は皆様でお楽しみいただけます」
「それなら頼むか」
「ありがとうございます」
ヴィオラが黒服へ合図する。
高級酒の注文が入った。
数字はヴィオラへ付く。
フィオナが三人の話を聞いていた時間は、何も残らない。
それでもフィオナは、酒が運ばれた時に水も一緒に頼んだ。
「最初は少量ずつお飲みください」
ヴィオラが離れた後、腕を痛めた男がフィオナへ尋ねた。
「さっきは勧めなかったな」
「強いお酒ですから」
「店としては売りたいんじゃないのか?」
「はい」
「では、なぜ止めた?」
フィオナは笑顔のまま答えた。
「明日、痛みが強くなってはいけませんので」
男はしばらくフィオナを見た。
「君の名前は?」
「フィオナです」
「覚えておく」
その言葉が嬉しかった。
だが同時に、壁の順位表が頭に浮かんだ。
覚えておくという言葉は、まだ数字ではない。
今夜の売上はヴィオラへ加えられる。
自分には何も残らない。
舞台が暗くなる。
ラナが現れると、客席から歓声が上がった。
上位者用の客席衣装へ着替える時間を確保するため、今夜の演目は以前より短くされていた。
それでも踊りの速さは変えられていない。
ラナは短い時間へ動きを詰め込んでいる。
跳躍。
回転。
静止。
再び跳ぶ。
客席は喜んでいる。
だが、踊り手たちは予定より速い入れ替わりを求められ、舞台袖では何人もが息を切らしていた。
演目が終わる。
ラナはすぐに舞台裏へ下がる。
衣装係が待っていた。
「急いでください。高級酒の卓が八つあります」
「次の出演まで、どれくらい?」
「四曲です」
「八卓を回って着替えれば、休む時間がありません」
「順位一位を維持するためです」
その言葉に、ラナの動きが止まる。
「私が頼んだの?」
「何がですか?」
「一位にしてほしいと、私が頼みましたか?」
衣装係は困った顔をする。
「私は指示どおりにしているだけです」
「分かっています」
ラナは目を閉じ、息を整えようとした。
だが客席から、すでに名前を呼ぶ声が聞こえる。
「ラナ!」
「こちらへ来てくれ!」
「酒を頼んだぞ!」
ラナは上位者用の衣装へ着替えた。
尾を目立たせる金の飾りが、腰へ取り付けられる。
舞台衣装よりも動きにくい。
それでも客席へ出た。
最初の卓では、客が耳の形を近くで見ようと身を乗り出した。
「本物なのか?」
「はい」
「触ってもいいか?」
「申し訳ありません。お断りしております」
「少しくらいいいだろう。高い酒を頼んだんだぞ」
ラナは笑顔を保った。
「酒は、皆様でお楽しみください。私に触れるための代金ではございません」
客の表情が変わる。
「ずいぶん偉そうだな」
近くにいた黒服が視線を向ける。
しかし、まだ間へ入らない。
高額な酒を注文した客だった。
ラナは頭を下げる。
「ご挨拶へ伺いました。次の舞台もお楽しみいただければ嬉しいです」
早めに席を離れる。
客は不満そうだったが、追いかけてはこなかった。
二つ目の卓。
三つ目の卓。
名前ではなく、獣人と呼ばれる。
踊りを褒める者もいる。
耳や尾の話しか尋ねない者もいる。
「一位なんだってな」
四つ目の卓で、客が順位表の話をした。
「控室の表をご覧になったのですか?」
「店の者が教えてくれた。人気一位の踊り子だと」
客は酒瓶を持ち上げる。
「これを頼めば、一位の娘が来る。分かりやすくていい」
ラナは笑顔を作ったまま、胸の内側が冷えていくのを感じた。
自分の踊り。
積み重ねた技術。
舞台での判断。
仲間を支えるために位置を変えたこと。
それらは客へ伝わっていない。
一位という言葉と、猫系獣人という珍しさ。
店が付けた値札によって、客は自分を見ている。
「次も一位でいろよ」
「……ありがとうございます」
ラナは席を離れた。
舞台裏へ戻る途中、マリサとすれ違う。
マリサは次の演目へ向かうところだった。
二人の目が合う。
朝の会話が残っている。
「マリサ」
ラナが呼び止める。
「何ですか?」
「次の踊り、前に立つんでしょう」
「はい」
「左側の床、少し滑る。回転する時に気をつけて」
マリサは一瞬、驚いた顔をした。
「……分かりました」
「それだけ」
ラナは通り過ぎる。
マリサはその背中を見た。
敵ではない。
順位表がなければ、普通に助言し合える相手だった。
それでも今は、ラナが失敗すれば自分の順位が上がるかもしれないという考えが、一瞬でも頭に浮かんでしまう。
そのことが、マリサ自身を苦しめていた。
客席では、さらに小さな争いが増えていた。
「その客は私を指名したの」
「最初に案内したのは私よ」
「でも高級酒を頼んだ時、私の名前を呼んだ」
「舞台の説明をしただけでしょう」
「名前を呼ばれたなら指名よ」
客の見えないところで、接客係たちが声を抑えて争う。
演奏者たちは、誰の独奏を増やすかで揉める。
歌手は、人気のある曲を自分の持ち時間へ入れようとする。
踊り手は、舞台の中央へ近い位置を求める。
全員が以前より努力している。
以前より積極的に客へ近づいている。
以前より自分の名を伝えている。
その一方で、誰かを助ける者は減っていた。
酒瓶を運ぶ接客係へ道を譲らない。
衣装の紐が緩んでいることに気づいても、自分の出番を優先する。
客との会話に困っている者がいても、助ければその客の売上が相手へ付くため、近づかない。
順位表は、目に見える成果を増やし始めていた。
同時に、帳面には残らない協力を消し始めていた。
営業終了後。
接客係、踊り手、歌手、演奏者たちは、控室へ戻った。
誰もが最初に見たのは、壁の順位表だった。
会計係が新しい数字を書き加えている。
ヴィオラの酒売上が増える。
ラナの舞台集客数が増える。
マリサの順位が一つ上がる。
フィオナの指名数は、まだ零のままだった。
酒売上にも大きな変化はない。
高級酒を注文した三人の冒険者を長く担当したが、その注文はヴィオラの成果として記録されている。
フィオナが彼らの話を聞いたこと。
怪我をした男へ水を用意したこと。
名前を覚えておくと言われたこと。
それらは、どの欄にも入らない。
「今日も低いままね」
近くの接客係が、悪気なく言った。
「はい」
「高級酒の卓にいたでしょう?」
「注文を受けたのはヴィオラさんでした」
「それは残念だったわね」
残念。
その一言で終わる。
フィオナは笑顔で頷いた。
板の前では、上位者たちが自分の数字を確認している。
ヴィオラは二位へ上がり、満足そうだった。
「明日にはラナを抜けるかもしれない」
冗談のように言う。
「舞台へ集めた客数が違いすぎるわ」
「なら、酒の売上で追いつけばいいでしょう」
ラナは少し離れた場所で、その会話を聞いていた。
今夜も一位だった。
けれど、喜びはない。
マリサが近づいてくる。
「左の床、滑りました」
「大丈夫だった?」
「はい。教えてもらったので」
「そう」
「……朝は、ごめんなさい」
ラナはマリサを見る。
「何が?」
「種族だけで一位になったみたいに言って」
「実際、種族で集まった客は多い」
「それでも、踊りが下手なら、二度目は見てもらえない」
マリサは順位表へ視線を向けた。
「分かっているのに、あの数字を見たら、あなたが私の前にいることだけが気になった」
「私も、四位のマリサより一位の自分が上だとは思っていない」
「でも店は、そう決めています」
「うん」
二人は並んで順位表を見る。
同じ踊り手。
同じ舞台で、互いの動きを補う者。
それでも表の上では、競争相手だった。
「この表がある限り、また嫌なことを考えるかもしれません」
マリサが言う。
「私も」
ラナが答える。
「負けたくないとは思う。踊り手として評価されたいから」
「私もです」
「でも、誰かが怪我をした方が順位が上がるなんて、思いたくない」
マリサは何も答えなかった。
その考えが一瞬、自分の中へ生まれたことを否定できなかったからだ。
控室の入口から、ドミニクが入ってくる。
「全員、聞け」
会話が止まる。
「初日の数字は、明日から客席にも一部掲示する」
「客席にも?」
驚きの声が上がる。
「上位者の名前を知らせる。人気の者が分かれば、客も指名しやすい」
「下位の順位も出すのですか?」
「上位十名だけだ」
安堵する者と、落胆する者がいた。
上位者はさらに客へ知られる。
下位者は名を見てもらう機会すら減る。
「それから、来週から下位者は一部の舞台と良い席の担当から外す」
ドミニクが続ける。
「客は、人気のない者より、人気のある者を求める」
「でも、客に知られなければ指名は増えません」
フィオナの近くにいた女性が言った。
「自分で増やせ」
「どうやって?」
「高い酒を売れ。客へ名前を覚えさせろ。贈り物をもらえ。成果を出せば上へ行ける」
簡単な理屈だった。
しかし下位へ落ちるほど、良い席を失う。
舞台への出演も減る。
客から見つけてもらえなくなる。
数字を上げる機会そのものが減っていく。
「今日は以上だ」
ドミニクが去る。
会計係も書類を抱えて続いた。
控室には、順位表と働く者たちだけが残された。
フィオナは自分の名を見る。
下から数えた方が早い位置。
ハインツが次に来れば、指名数は一つ増える。
だが一つだけでは、上位へは届かない。
高い酒を勧めなければならない。
贈り物を求めなければならない。
客が節約していると知っていても。
家族のために金を残したいと知っていても。
順位を上げるには、使わせなければならない。
フィオナは笑顔のまま、表を見つめた。
「笑っているの?」
隣から声がした。
ラナだった。
「笑っているつもりはありません」
「そっか」
ラナはそれ以上、笑うなとは言わなかった。
「私は一位だって」
「はい」
「でも、今日、何度も嫌だと思った」
「一位でも?」
「一位だから、客席へ多く回された。耳へ触れたいと言われた。人気一位だから喜べと言われた」
ラナは自分の名前を見上げる。
「一位なら幸せになるのかと思っていた」
「私は、下にいるから苦しいです」
「なら、上へ行けば苦しくなくなるのかな」
フィオナは答えられなかった。
順位表は、上にいる者へ報奨金と目立つ衣装を与える。
下にいる者から給金と機会を奪う。
だから全員が上を目指す。
けれど一位になったラナも、自分の働き方を選べていない。
「フィオナは、上へ行きたい?」
「分かりません」
「給金を下げられるかもしれないよ」
「困ります」
「なら、上へ行かないと」
「はい」
フィオナは頷いた。
その答えしか選べなかった。
仕事を失いたくない。
給金を下げられれば生活に困る。
良い席から外されれば、ハインツが来た時に担当できないかもしれない。
自分との会話を望んで来てくれた客へ、別の接客係が高い酒を勧めるかもしれない。
それを防ぐためにも、順位を上げなければならない。
誰かを押しのけたいわけではない。
高い酒を無理に売りたいわけでもない。
ただ、自分が大切にしたい客の隣へ座り続けるために、数字が必要だった。
フィオナは笑顔のまま、順位表から目を離した。
控室を出る者たちの足音が続く。
上位者は特別衣装を抱えている。
下位者は、明日どの客へ何を勧めるかを考えている。
舞台の者は、自分の出番を増やす方法を探している。
客の名前より、注文額を覚えようとする者もいた。
誰かが何を悩んでいたかより、何本の酒を買ったか。
どんな会話をしたかより、誰を指名したか。
どれほど安心して帰ったかより、いくら使ったか。
ルミエールでは、働く者一人ひとりへ値札が付けられ始めていた。
その値札を上げるためには、客にもより高い値札を付けさせなければならない。
翌日の営業前。
客席へ置かれた新しい告知板には、こう書かれていた。
――ルミエール人気上位十名。
最上段には、ラナの名があった。
その横には、彼女の踊りの技術ではなく、客の興味を最も引く言葉が添えられていた。
猫系獣人の人気踊り子。
そしてフィオナの名前は、告知板のどこにもなかった。
それでも、その日の夕方。
ルミエールの入口へ、一人の中年商人が姿を現した。
ハインツだった。
受付に立つ黒服へ、迷わず一人の名を告げる。
「フィオナを頼む」
その声は、まだ控室まで届いていなかった。
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