第112話 笑顔を脱げないフィオナ
ルミエールが開店してから、六日が過ぎた。
最初の夜ほど長い列ができることはなくなったものの、店は連日、多くの客で賑わっていた。
日が沈む頃には大きな看板へ灯りがともり、乳白色の壁と金色の装飾が西通りを明るく照らす。
窓の内側からは楽器の音が漏れ、扉が開くたびに、酒と料理の匂い、客たちの笑い声、舞台へ向けられた拍手が通りへ流れ出していた。
珍しい店ができたという話は、すでにルミナスの外から訪れる商人や旅人にも広がり始めている。
歌と踊りが見られる。
王都から運ばれた酒が飲める。
紹介者がいなくても入れる。
入場料さえ支払えば、身分や職業に関係なく利用できる。
さらに、気に入った接客係を選ぶ指名制度まで用意されていた。
客にとって、分かりやすい魅力が揃っている。
その夜、開店前の控室で、フィオナは一枚の小さな紙を見つめていた。
紙には、今夜来店する予定の客の名前が書かれている。
ハインツ。
北通りで乾燥果実を扱う商人だった。
派手な服を着る男ではない。
高価な装飾品も身につけていない。
最初にルミエールを訪れた時に注文したのも、店で最も安い果実酒だった。
それでも、フィオナは彼が話したことを覚えている。
妻が香辛料の強い料理を苦手としていること。
十二歳になる娘が、最近、店の帳簿へ興味を持ち始めたこと。
遠方へ仕入れに出た際、留守中の店を任せられる者がまだ育っていないこと。
そして、自分が家を空ける日が増え、幼い息子から本当に顔を忘れてしまうと言われたこと。
酒の種類より、そうした話の方がフィオナの記憶には残っていた。
客が口にした言葉のすべてを覚えているわけではない。
ただ、相手が少しだけ声を落とした時。
笑っているのに、目だけが寂しそうに見えた時。
言い終えた後、こちらの反応を待つように杯へ視線を落とした時。
フィオナは、その言葉を忘れないようにしていた。
今夜、ハインツは再び来る。
前回の帰り際、仕事が落ち着いたらまた寄ると話していた。
予約ではない。
正式な指名でもない。
入口でフィオナを希望すると伝えたわけでもない。
それでも、事前に来店予定を聞いた黒服が、以前担当した者として知らせてくれた。
フィオナは、それが少し嬉しかった。
「フィオナ」
控室の入口から名前を呼ばれ、顔を上げる。
同じ接客係の女性が立っていた。
「開店前の確認だって」
「今、行きます」
フィオナは紙を衣装の小さな内ポケットへしまった。
鏡の前でもう一度、髪の乱れを整える。
柔らかな栗色の髪を後ろでまとめ、頬の横へ残した髪を指で揃える。
衣装の襟元を確かめる。
最後に、鏡の中の自分へ笑いかけた。
口元を上げる。
目を少し細める。
驚いても、困っても、疲れていても、客へ不快な顔を見せない。
それが接客係に必要なことだと、以前働いていた酒場でも教えられてきた。
笑っていれば、客は機嫌を悪くしない。
笑っていれば、失敗しても許してもらえることがある。
笑っていれば、嫌なことを言われても、相手をそれ以上刺激せずに済む。
そして笑っていれば、自分が本当は何を感じているのか、誰にも悟られずに済む。
フィオナは鏡へ向けた笑顔を崩さず、控室を出た。
客席の脇には、接客係たちが並べられている。
その前に立っているのは、客席全体を任されたドミニクだった。
少し離れた場所には、演出担当者と会計係もいる。
「昨日の売上を確認する」
ドミニクは帳面を開いた。
「酒の販売数は前日より増えた。特にラナが客席へ回った卓では、高級酒の注文が多い」
接客係たちの視線が、少し離れて立つラナへ向けられる。
ラナは踊り手であり、本来なら舞台の準備へ向かう時間だった。
しかし、開店初日の反応が良かったため、それ以降も開店前の接客確認へ参加させられている。
「今夜もラナの舞台後は、指定された卓へ挨拶に回ってもらう」
ドミニクが続けた。
「ほかの者は、その前に高級酒を勧めろ。ラナが席へ来ると伝えれば注文しやすい」
ラナの猫耳が僅かに動いた。
「すべての卓へ行くのですか?」
「高級酒を注文した卓だ」
「舞台の出演が三度あります」
「舞台の合間を使えばいい」
「着替えと休憩も必要です」
「開店したばかりの今が大事なんだ」
ドミニクは取り合わなかった。
「客が求めている時に応えなければ、次は来ない」
ラナは口を閉じた。
フィオナは彼女の横顔を見る。
開店初日、息を切らしていたラナへ布を渡した時と同じ表情だった。
怒っているようにも見える。
諦めているようにも見える。
それでも客前へ出れば、ラナは背筋を伸ばし、踊り手として振る舞う。
フィオナには、自分と少し似ているように思えた。
「次に、指名数だ」
ドミニクが帳面の頁をめくる。
「ラナを除けば、踊り手のマリサ。歌手のエリゼ。接客係ではヴィオラが多い」
名前を呼ばれた女性たちが、僅かに誇らしそうな顔を見せる。
「指名された者は、それだけ店へ客を連れてきている。店としても優先して良い席と良い客を回す」
何人かの接客係が、互いへ視線を向けた。
フィオナの名は呼ばれなかった。
開店から六日間で、彼女を明確に指名して来店した客は、まだ一人もいない。
最初に案内された卓へ座り、客の話を聞く。
途中で舞台が始まれば、客の視線は舞台へ向く。
踊りが終われば、客はラナを呼ぶ。
歌手が客席へ来れば、次の曲を頼む。
華やかな衣装を着た接客係が酒を勧めれば、そちらへ関心が移る。
フィオナは客を怒らせたことも、大きな失敗をしたこともない。
けれど、自分を目当てに扉をくぐる者もいなかった。
「フィオナ」
突然名を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「はい」
「昨日、お前が担当した三卓は、すべて追加の高級酒がなかった」
ドミニクが帳面を見ながら告げる。
「一卓は果実酒を二杯。もう一卓はエールを三杯。最後の卓は入場料を払った後、安酒一本だけだ」
「はい」
「客と何を話していた?」
「一卓目のお客様は、ご家族のお話をされていました。もう一卓は、仕入れ先での失敗を――」
「聞いているのは内容ではない」
ドミニクが遮った。
「なぜ高い酒を勧めなかった?」
「お勧めはしました」
「断られたのか?」
「はい」
「そこで終わった?」
フィオナは少し迷った。
「無理に勧めれば、お困りになると思いました」
「客は最初から高い酒を頼もうとはしない」
ドミニクは呆れたように息を吐く。
「値段を気にする。自分には必要ないと言う。だから、注文したくなる理由を作るのが接客係の仕事だ」
「理由……ですか?」
「舞台の出演者が挨拶へ来る。次の曲を客のために歌う。特別な杯で提供する。方法はいくらでもある」
「でも、そのお客様は、ご家族へ持ち帰る品を買うために節約していると――」
「それで?」
フィオナは言葉を止めた。
「家族のために金を残したい客へ、高い酒を勧められなかったということか?」
「はい」
「お前は客の財布を守るために雇われたのではない」
周囲にいる接客係たちは、黙って二人の会話を聞いている。
フィオナは笑顔を保った。
責められている時こそ、表情を崩してはいけない。
不満そうな顔をすれば、反省していないと思われる。
泣きそうな顔をすれば、周囲へ気を遣わせる。
笑って聞けば、話は早く終わる。
「申し訳ありません」
「謝るなら、今夜は結果を出せ」
「はい」
「客の話を覚えること自体は悪くない。次に来た時、前の話を出せば喜ぶ。そこから注文へつなげろ」
「承知しました」
ドミニクは次の接客係へ話を移した。
フィオナは笑顔のまま、一歩後ろへ下がった。
隣にいた女性が小声で言う。
「気にしない方がいいわ」
「ありがとうございます」
「でも、少しは強く勧めないと。本当に指名をもらえなくなるよ」
「そうですね」
「嫌われないようにするだけじゃ駄目なんだって」
悪意のない助言だった。
フィオナも、それが分かっている。
ルミエールでは、客に嫌われないだけでは評価されない。
誰を何人呼んだか。
どれほど高い酒を注文させたか。
舞台の後に生まれた熱気を、どれだけ売上へ変えられたか。
笑顔で話を聞くだけでは、店へ利益をもたらしたとは見なされない。
開店時刻が近づく。
黒服たちが入口へ立つ。
楽器奏者が音を確かめる。
歌手と踊り手が舞台裏へ向かう。
接客係たちは、それぞれの持ち場へ分かれた。
フィオナは今夜、入口から見て右奥の卓を担当することになった。
舞台からは少し遠い。
正面の上客席ほど視界は良くないが、大きな音が直接響きにくいため、会話はしやすい場所だった。
最初の客が入店する。
続いて、二人連れ。
商人の一団。
若い冒険者たち。
華やかな服を着た女性客もいた。
黒服が順番に客を案内していく。
やがて、フィオナが待っていた男が入口から姿を現した。
ハインツだった。
前回と同じ、飾り気の少ない茶色の上着を着ている。
ただし今日は一人ではなかった。
二十歳を少し過ぎたほどの青年を伴っている。
青年は周囲の華やかな装飾へ目を奪われながらも、どこか落ち着かない様子だった。
黒服が二人を空いている卓へ案内しようとする。
ハインツは客席を見回し、フィオナを見つけた。
目が合う。
彼は少しだけ表情を緩めた。
「前に話を聞いてくれた娘は、あそこにいる」
黒服へそう告げた。
正式な指名ではない。
入口で名を伝えたわけでもない。
それでも、自分を覚えていた。
フィオナの胸が僅かに温かくなる。
黒服はフィオナへ視線を送り、担当している卓がまだ空いていることを確かめた。
「では、こちらへどうぞ」
二人が案内されてくる。
フィオナは笑顔で頭を下げた。
「お久しぶりです、ハインツ様」
「覚えていたのか」
「はい。またお越しいただけて嬉しいです」
ハインツは少し驚いた後、同行している青年を見た。
「こいつはロルフだ。うちで働いている」
「初めまして。フィオナと申します」
「どうも」
ロルフは緊張したように頭を下げた。
ハインツが椅子へ腰を下ろす。
「今日も前と同じ果実酒を頼む」
「承知しました。香りの穏やかなものですね」
「そこまで覚えていたのか」
「前回、強い香りの酒は奥様が苦手だとおっしゃっていましたので」
「俺が飲む酒だぞ」
ハインツは苦笑する。
「でも、家へ帰った時に香りが残ると嫌がられると」
「確かに言ったな」
フィオナはロルフへ顔を向けた。
「ロルフ様はいかがなさいますか?」
「一番高い酒は?」
フィオナは一瞬だけ意外に思った。
開店前に注意された直後に、客から高級酒を求められた。
「樽で長く熟成させた蒸留酒になります。ただ、香りも強く、飲み慣れていない方には少し刺激が強いかもしれません」
「それを一本」
「おい」
ハインツが眉を上げる。
「せっかく来たんです。珍しい酒くらい頼んでもいいでしょう」
「仕入れで失敗したばかりの者がよく言う」
ロルフの表情が曇る。
「その話はしないでください」
フィオナは二人の様子を見た。
「仕入れで、何かございましたか?」
「こいつが革を買いすぎたんだ」
ハインツが答える。
「王都近くなら高く売れる品だが、南の町では同じ値がつかない。荷馬車二台分も抱えて、どうするつもりだか」
「安くすれば売れます」
「運賃まで考えれば赤字だ」
「分かっています」
ロルフは視線を落とした。
フィオナは、以前ハインツが話していたことを思い出した。
遠方へ出た時に店を任せられる者が育っていない。
その言葉の中に、ロルフも含まれていたのかもしれない。
「ロルフ様へ、初めて仕入れを任されたのですか?」
「初めてではない」
ハインツが答える。
「だが、大きな額を任せたのは今回が初めてだ」
「何も任せてもらえないままでは、いつまで経っても覚えられません」
ロルフが言う。
「失敗して覚えることもあります」
「荷馬車二台分を失敗に使うな」
「だから、売る方法を考えています」
二人の声に険が混じる。
フィオナはすぐに結論を出さず、ロルフへ尋ねた。
「その革は、どのようなところが良い品なのですか?」
「丈夫です。雨にも強い。王都では馬車の覆いに使われていました」
「雨に強いのですね」
「はい」
フィオナは、以前担当した冒険者の話を思い出した。
雨の日に薬草を運んだところ、袋の中まで濡れてしまい、採取した品の一部が使えなくなった。
その客は、濡れにくい袋があれば高くても買うと話していた。
ただし、フィオナは革にも道具にも詳しくない。
防具へ使えるか。
袋に加工できるか。
それを判断する知識はなかった。
「以前、冒険者のお客様から、雨で荷物が濡れて困ったというお話を伺いました」
フィオナは慎重に言葉を選ぶ。
「薬草や地図を運ぶ袋に、雨へ強い革を使うことはできるのでしょうか」
ロルフが顔を上げた。
「袋に?」
「私には作り方までは分かりません。ただ、そのお客様は、濡れない袋なら少し高くても欲しいとおっしゃっていました」
ハインツが顎へ手を当てる。
「厚さは足りるな」
「でも、馬車の覆いより小さく切ることになります」
「端材が出る」
「小さな袋も作れるかもしれません」
「縫える職人を探す必要があるな」
二人の会話が、失敗の責任から商品の使い道へ変わっていく。
フィオナは口を挟まず、酒を運んできた黒服から瓶を受け取った。
ハインツの杯へ果実酒を注ぐ。
ロルフには蒸留酒を少量だけ注いだ。
「最初は、少しずつお飲みください」
ロルフは一口含み、すぐに顔をしかめた。
「強い」
「だから言っただろう」
「水で割れますか?」
「はい。すぐにご用意いたします」
フィオナは黒服へ水を頼んだ。
ロルフは水で薄めた酒を飲みながら、革の加工方法を考え始める。
「この街の冒険者ギルドへ行けば、話を聞けるでしょうか」
「職員へ売り込むより、道具屋を回った方が早いかもしれん」
ハインツが答える。
「明日、行ってみます」
「俺も行く」
「一人で行かせてください」
「また荷馬車二台分を買う気か?」
「もう買いません」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
フィオナもつられて笑う。
今度の笑顔は、鏡の前で作ったものとは少し違っていた。
「君は商売の経験があるのか?」
ハインツが尋ねる。
「いいえ。私は、お話を思い出しただけです」
「客が話したことを覚えているのか?」
「すべてではありません。ただ、大切そうにお話しされたことは、なるべく覚えていたいと思っています」
ハインツは感心したように頷いた。
「前に話した家族のことも覚えていたな」
「娘さんは、その後も帳簿を見ていらっしゃるのですか?」
「ああ。今度は勝手に数字を書き直して、妻に叱られていた」
「お手伝いしたかったのかもしれませんね」
「俺もそう言ったが、計算が合わなくなるから困る」
ハインツの表情が柔らかくなる。
「息子さんは?」
「今度は、顔を忘れるとは言わなくなった」
「良かったです」
「代わりに、帰るたびに土産を要求するようになった」
フィオナは思わず笑った。
「それは、覚えてもらえた証拠かもしれません」
「金のかかる覚え方だ」
ハインツも笑う。
会話の中で、ロルフの表情も少しずつ明るくなっていた。
先ほどまで失敗を責められる者として座っていた青年が、今は明日の売り先を考えている。
「君は、話を聞くのが上手いな」
ハインツが言った。
「俺たちは革の話をするつもりで来たわけではなかった」
「私は、きっかけをお伝えしただけです。使えるかどうかは、お二人の方がよくご存じです」
「それでも、話す前よりは前へ進んだ」
その言葉に、フィオナの胸が僅かに温かくなった。
酒を売ったからではない。
自分が覚えていた話が、別の客の役に立った。
それを認めてもらえたことが嬉しかった。
だが、客席を巡回していたドミニクが卓の近くを通りかかる。
高級酒の瓶を見る。
残量を見る。
追加注文がないことを確認すると、フィオナへ視線を送った。
次を勧めろ。
言葉にしなくても、その意図は分かった。
「お飲み物ですが、次に甘い果実酒はいかがでしょうか」
フィオナは二人へ尋ねた。
「この酒がまだ半分以上残っている」
ハインツが瓶を見る。
「そうですね」
「全部飲んでから考える」
「承知しました」
フィオナはそれ以上勧めなかった。
ドミニクの表情が僅かに険しくなる。
だが、客の前で注意されることはなかった。
舞台の照明が落ちる。
ラナの出演を知らせる太鼓が鳴り、客席の視線が一斉に舞台へ向かった。
「獣人の踊り手か」
ロルフが身を乗り出す。
「これを見たかったのか?」
「店の話を聞いた時から、少し興味はありました」
フィオナは二人の視界を邪魔しないよう、卓の端へ身体を寄せた。
舞台へラナが現れる。
歓声が上がる。
ラナは前日までと同じように、技術の高い踊りを見せた。
ただ、フィオナには分かった。
最初の跳躍が、開店初日より少し低い。
回転後に身体を止めるまでの時間が僅かに長い。
笑顔は崩していない。
客は気づかない。
それでも、疲れている。
演目が終わる。
大きな拍手が起きた。
ロルフも手を叩いている。
「高級酒をもう一本頼めば、あの踊り手が来るのか?」
ロルフがフィオナへ尋ねた。
開店前に教えられたとおりなら、ここで強く勧めるべきだった。
注文すればラナが来る。
今夜だけの機会だ。
もう一本買わなければ損をする。
そう言えば、ロルフは注文するかもしれない。
だが、卓の上には、まだ半分以上残った蒸留酒がある。
これ以上頼めば、飲みきれない。
ラナはこの後も舞台へ立つ。
高級酒を注文した卓が増えれば、そのすべてへ挨拶に回らなければならない。
「高級酒をご注文いただいた卓へ、ご挨拶に伺うことはございます」
フィオナは答えた。
「ただ、今あるお酒がまだ残っております。無理に追加されなくても、舞台はお楽しみいただけます」
ロルフが少し驚いた顔をする。
「店の者が、買うなと言うのか?」
「買わないでくださいとは申しません。ただ、飲みきれないほど頼まれる必要はないと思います」
ハインツが笑った。
「前もそうだったな」
「前も?」
「家族へ持ち帰る品を買う金まで酒へ使う必要はないと、遠回しに止められた」
「止めたつもりではありません」
「だが、あの時に高い酒を頼まなかったから、息子へ土産を買えた」
「それなら、良かったです」
「変わった接客係だ」
ハインツはそう言ったが、声に不満はなかった。
ロルフがまだ舞台を見つめている。
「では、追加はやめておきます」
「革だけでなく、酒まで抱えるところだったな」
「師匠はすぐ、それを言いますね」
二人はまた軽く言い合いを始めた。
フィオナは笑顔で、その会話を聞いた。
舞台脇では、ラナが次の卓へ呼ばれている。
客から杯を差し出され、勧められた酒を断るために、何度も頭を下げていた。
フィオナの胸へ、少しだけ痛みが走る。
ハインツたちが帰る時、ロルフは明日、道具屋を回ってみると話した。
ハインツはその横で、勝手に大きな契約をするなと釘を刺している。
入口へ向かう直前、ハインツがフィオナへ振り返った。
「次も、君がいる日に来る」
フィオナは一瞬、返事が遅れた。
「ありがとうございます」
「その時は、息子の新しい要求も聞いてくれ」
「はい。覚えておきます」
「フィオナという名だったな」
「はい」
「次は入口で伝える」
二人は店を出ていった。
正式な指名ではなかった。
それでも、次に自分を希望すると言ってくれた。
開店以来初めて、フィオナ自身との会話を目的に、また来たいと言ってくれた客だった。
フィオナは、その喜びを胸の中で大切に抱えた。
しかし営業は続いている。
次の客が空いた卓へ案内された。
一人で来た中年の男だった。
衣服は古い。
高価な酒を注文するようには見えない。
「果実酒を一杯だけ」
「承知しました」
フィオナは注文を黒服へ伝えた。
「お仕事帰りですか?」
「そうだ」
「今日は、お疲れのように見えます」
「分かるか」
男は苦笑した。
「顔に出ていますか?」
「少しだけ」
「なら、笑わせてくれ」
フィオナは一瞬、言葉を失った。
「私が、ですか?」
「接客係なら、客を楽しませるんだろう」
「はい」
「何か面白い話をしろ」
フィオナは歌えない。
踊れない。
即興で人を笑わせることも得意ではない。
「申し訳ありません。面白い話は、あまり得意ではなくて」
「では、何ができる?」
男の言葉に悪意はなかった。
単純に尋ねている。
それでも、フィオナの胸が詰まった。
「お客様のお話を、聞くことなら」
「俺が話すのか」
「はい。お嫌でなければ」
男は果実酒を一口飲んだ。
「妻と喧嘩した」
「そうだったのですね」
「俺が悪いと思うか?」
「内容を伺わなければ、分かりません」
フィオナが正直に答えると、男は少し笑った。
「普通は、客に合わせて妻が悪いと言うものじゃないのか」
「奥様のお話を知らないまま、悪いとは言えません」
「本当に変わっているな」
男は杯を置いた。
「明日が結婚記念日なんだ」
「おめでとうございます」
「まだめでたくない。贈り物を買ったが、妻が欲しかったものと違った」
「何を贈られたのですか?」
「銀の髪飾りだ」
「奥様は何を欲しがっていたのでしょう」
「家の屋根を直してほしいと言っていた」
フィオナは返事に迷った。
男自身も、答えを口にしたことで気づいたらしい。
「髪飾りより、屋根か」
「髪飾りも嬉しいと思います。ただ、雨が入るのは困りますね」
「そうだな」
男は深く息を吐いた。
「俺は、記念日に形が残るものを渡したかった」
「そのお気持ちも、奥様へ伝えてはいかがでしょう」
「髪飾りを返して、屋根を直した方がいいか?」
「私には決められません」
「また、それか」
「申し訳ありません」
「いや。勝手に決めつけないのは悪くない」
男は杯を持ち上げた。
「帰ったら、聞いてみる」
「はい」
「屋根と髪飾り、どちらがいいか」
「両方と言われるかもしれません」
フィオナがそう言うと、男は初めて声を上げて笑った。
「それは困るな」
フィオナも笑った。
男は果実酒を一杯だけ飲み、追加を頼まずに帰った。
別れ際には、また来ると言ってくれた。
しかし会計へ残った金額は、入場料と安い果実酒一杯だけだった。
営業の終わりが近づく。
客が少しずつ帰り始める。
接客係たちは見送りを行い、黒服が空いた卓を片付ける。
フィオナも使われた杯を盆へ載せていた。
「フィオナ」
背後からドミニクに呼ばれる。
「はい」
「今夜、最初の卓で高級酒が一本出た」
「はい」
「それだけだ」
フィオナは盆を持ったまま、頭を下げる。
「申し訳ありません」
「二本目を勧めただろうな?」
「お勧めしましたが、まだ残っていたため――」
「また客の代わりに判断したのか」
「飲みきれないと思いました」
「飲みきるかどうかを決めるのは客だ」
「はい」
「次の客は果実酒一杯だけだった」
「その方は、奥様とのことで悩んでおられて――」
「だから何だ?」
ドミニクの声が強くなる。
近くで片付けをしていた接客係たちが、一瞬だけこちらを見る。
フィオナは反射的に笑顔を作った。
「申し訳ありません」
ドミニクの目が細くなる。
「何を笑っている」
思いがけない言葉に、口元が止まる。
「……笑っているつもりでは」
「注意されていることが面白いのか?」
「違います」
「なら、その顔は何だ」
フィオナは笑顔を消そうとした。
けれど、長く続けてきた癖はすぐには消えなかった。
口元が僅かに上がったままになる。
「申し訳ありません」
「また笑っている」
「これは、客前で不快な顔を見せないようにしているだけで――」
「今は客の前ではない」
「はい」
「なら、普通にしろ。笑う必要はない」
フィオナは視線を落とした。
普通の顔。
そう言われても、どの表情が普通なのか分からなかった。
客の前へ出る時は笑う。
困った時も笑う。
怒られた時も笑う。
嫌なことを言われた時も笑う。
そうしてきたうちに、笑顔を作らず人の前へ立つことの方が怖くなっていた。
「明日から、高級酒を頼まない客へ長くつくな」
ドミニクは続けた。
「話を聞くだけなら、誰でもできる。客が金を使う会話をしろ」
「承知しました」
「それと、舞台が始まったら、客と一緒に黙って見るな。その間に次の注文を取れ」
「はい」
「分かったなら、片付けへ戻れ」
フィオナは頭を下げ、盆を持ってその場を離れた。
笑ってはいけないと言われた。
それなのに、近くを通る黒服と目が合うと、反射的に笑顔を向けてしまう。
黒服は忙しそうに通り過ぎた。
誰も、フィオナの表情を気に留めなかった。
営業後の控室では、接客係たちが衣装を着替えていた。
「今日もラナの卓、すごかったね」
「高級酒を何本出したんだろう」
「踊れる人はいいわよね。舞台へ出るだけで、客が名前を覚えるもの」
「でも、あんなに何度も踊るのは大変そう」
「その分、給金も高いんでしょう」
話題の中心はラナだった。
歌手や派手な接客係の名も出る。
フィオナは自分の衣装を丁寧に畳み、決められた場所へ置いた。
ハインツから、次は入口で自分の名を伝えると言われたことを、誰かへ話そうかとも思った。
けれど、それはまだ指名数として帳面へ残っていない。
話したところで、自慢していると思われるかもしれない。
結局、何も言わなかった。
「フィオナ」
控室の入口からラナが声をかけた。
すでに踊りの衣装から普段着へ着替えている。
「少し、いい?」
「はい」
二人は人の少ない廊下へ出た。
ラナはフィオナの顔を見つめた。
「何かあった?」
「何もありません」
「さっき、ドミニクさんに注意されていたでしょう」
「聞こえたの?」
「舞台裏から戻る時に」
「大丈夫です。私が、酒をあまり勧められなかっただけです」
フィオナは笑顔で答えた。
ラナの猫耳が僅かに伏せる。
「それ、本当に大丈夫な顔?」
「え?」
「開店の日もそうだった。疲れている私へ声をかけてくれた時、客に呼ばれた瞬間に笑っていた」
「接客係ですから」
「今は客はいないよ」
フィオナは言葉を失った。
ドミニクにも同じことを言われた。
今は客の前ではない。
笑う必要はない。
それでも、笑顔が消えない。
「怒っているの?」
ラナが尋ねる。
「いいえ」
「悲しい?」
「分かりません」
「分からない?」
フィオナは自分の頬へ指を当てた。
笑っている。
けれど、胸の奥は少し重い。
怒っているのか。
傷ついているのか。
自分が役に立たないと思われたことが悲しいのか。
客のためだと思った判断を否定されたことが悔しいのか。
本当に分からなかった。
「前の酒場でも、笑っていれば問題にならなかったから」
フィオナは静かに話した。
「注文を間違えても、笑って謝れば許してくださるお客様がいました。酔った方に嫌なことを言われても、笑っていれば、それ以上怒らせずに済みました」
「嫌なことを言われても?」
「接客係ですから」
「それで笑うの?」
「笑わないと、客を不快にさせてしまいます」
「でも、フィオナが不快だったら?」
ラナの問いに、フィオナは答えられなかった。
自分がどう感じるかを、接客の判断に入れたことがなかった。
客が怒るか。
店へ迷惑がかかるか。
仕事を失わないか。
周囲に嫌われないか。
考えてきたのは、そればかりだった。
「私は踊っている時、嫌な顔をしないようにしてる」
ラナが言った。
「苦しくても、足が痛くても、舞台では見せない。そこはフィオナと同じかもしれない」
「ラナも笑っているでしょう」
「うん。でも舞台から降りたら、疲れたって言いたい」
「言えるの?」
「言っても聞いてもらえないけど」
ラナは苦く笑った。
「それでも、自分が疲れていることまで分からなくなりたくない」
フィオナは頬へ触れたまま、ラナを見る。
「私は、分からなくなっているのかな」
「少しだけ」
ラナは穏やかに答えた。
「笑顔が悪いとは思わない。でも、笑わない顔もフィオナの顔でしょう」
控室から、誰かがラナを呼んだ。
明日の演目について、演出担当者が話したいらしい。
「行かないと」
「うん」
「また明日ね」
「はい」
ラナは廊下を歩いていった。
フィオナはその場に残った。
窓の外には、営業を終えたルミエールの看板が見える。
灯りは半分ほど消されている。
それでも金色の文字は、残った光を受けて輝いていた。
フィオナは窓へ映る自分の顔を見る。
口元は、まだ僅かに上がっている。
ゆっくりと力を抜いた。
笑顔を消そうとする。
だが、真顔になった自分が、ひどく不機嫌に見える気がした。
誰かを怒らせるような顔。
役に立たない接客係の顔。
客から選ばれない女の顔。
怖くなり、すぐに口元を上げる。
いつもの笑顔へ戻ると、少しだけ安心した。
これなら、誰にも責められない。
これなら、客へ嫌われない。
これなら、仕事を失わずに済む。
フィオナは笑顔のまま、控室へ戻った。
その夜、彼女が担当した二組の客は、どちらも満足して店を出ていた。
ハインツとロルフは、売れ残った革の新しい使い道を考えながら。
もう一人の男は、妻へ何を望んでいるのか尋ねると決めて。
ハインツは、次からフィオナの名を入口で伝えると約束していた。
けれど、その約束は、まだ帳面の数字にはなっていない。
会計に残されたのは、注文された酒の本数と金額だけだった。
フィオナが覚えていた客の言葉も。
客が少しだけ軽くなった表情も。
次も話を聞いてほしいと告げた声も。
ルミエールの評価には、まだ何一つ書き込まれていなかった。
そして翌朝。
控室の壁へ、新しい紙を掲げるための板が運び込まれた。
接客係たちは、それが何に使われるのか知らない。
ただ、会計係の抱えていた書類には、すでに全員の名前と、指名数、酒の売上、贈り物の金額を書き込むための欄が作られていた。
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