第111話 光の店、最初の満席
ルミエールの開店日、西通りには日が沈む前から人が集まり始めていた。
乳白色に塗られた大きな建物。
窓枠と入口を飾る金色の装飾。
正面上部には、無数の灯りに囲まれた店名が掲げられている。
ルミエール。
光や輝きを意味する古い言葉を、知らない者も多かった。
それでも、大きな金文字と建物全体を照らす明かりを見れば、この店が従来の酒場とは違うものを目指していることは伝わった。
入口の脇には、開店を知らせる告知板が置かれている。
紹介者不要。
入場料を支払えば、貴族、商人、冒険者、旅人を問わず歓迎。
歌、踊り、楽器演奏を披露する大舞台。
王都から仕入れた高級酒。
好みの接客係を選べる指名制度。
そして、告知板の中央には、ほかの文字より大きく一つの文句が書かれていた。
――ルミナスでは珍しい、猫系獣人の踊り子が舞台へ。
その下には、ラナ本人の名前よりも大きく、猫耳と尾を持つ踊り手の簡単な絵が描かれている。
絵の中の少女は、実際のラナが練習してきた衣装とは違い、耳と尾が目立つよう誇張された姿で踊っていた。
「獣人が踊るらしいぞ」
「本当に舞台へ出るのか?」
「珍しいな。一度くらい見ておくか」
告知板を見た者たちが、興味深そうに話している。
その声は、入口の内側に立つラナにも聞こえていた。
開店前の最終確認を終え、舞台へ向かうために通路を歩いていた足が、ほんの少し止まる。
彼女は告知板の文面を事前に見せられていなかった。
踊り手として大きく宣伝されるとは聞いていた。
だが、自分の名ではなく、種族が客を呼ぶための言葉として使われているとは思っていなかった。
「ラナ、どうしたの?」
後ろから声をかけたのは、同じ踊り手の少女だった。
練習中に衣装の裾を踏み、転びかけた娘である。
「何でもない」
ラナは告知板から視線を外した。
「足は大丈夫?」
「少し痛みはあります。でも、歩けます」
「跳ぶ動きは無理にしない方がいいよ」
「今日休んだら、次から後ろへ回されるかもしれません」
少女は不安そうに舞台の方を見る。
出演者の位置は、演出担当者によって決められていた。
前へ立つ者ほど客に見られやすい。
客に見られれば、名前を覚えられる。
名前を覚えられれば、客席へ出た時に酒を注文してもらえる可能性が高くなる。
それが評価と給金につながると、繰り返し教えられていた。
「転びそうになったら、私につかまって」
「でも、ラナさんまで失敗したら……」
「二人で倒れるよりいいから」
ラナはそう言って、少女と共に舞台裏へ向かった。
狭い通路には、すでに多くの者が行き交っている。
衣装を着た歌手。
楽器を抱えた演奏者。
大皿を持つ給仕。
酒瓶を入れた籠を運ぶ黒服。
舞台へ上がる者と、客席へ向かう者が同じ道を使っていた。
「通ります!」
盆を持った黒服が声を上げる。
出演者たちは壁際へ身体を寄せた。
その横を酒瓶が通り過ぎる。
壁へ取り付けられた灯りと衣装の袖との間には、腕一本ほどの余裕しかなかった。
「火へ近づきすぎるな!」
黒服の一人が注意する。
だが、衣装を火から遠ざければ、今度は反対側を通る給仕へぶつかりそうになる。
ラナは自分の尾を身体の近くへ寄せ、ほかの者の足へ絡まないよう気をつけながら進んだ。
今日だけは、失敗できない。
誰もがそう考えていた。
正面入口では、黒い制服を着た者たちが客を迎える準備を整えていた。
中央に立つのは、元執事のエドガー。
少し後ろには、元店主のドミニクがいる。
そのほかにも、入口、会計、案内、客席巡回を命じられた黒服が並んでいた。
「開店したら、一組ずつ入場料を受け取る」
エドガーが最後の確認を行う。
「身分の高い方や、大商人と思われる方は、正面に近い席へ案内する。席へ着く前に希望する酒と接客係を確認すること」
「上客用の席が埋まったら?」
若い黒服が尋ねる。
「その時は私かドミニク殿へ報告してください」
「カイル様は、支払額の少ない客を動かせと言っていました」
「実際に注文する前では、支払額は分かりません」
エドガーは静かに答えた。
「衣服だけで決めつければ、商人を侮ることになります。まずは所持品、同行者、話し方を確認します」
「そんなことをしていたら、入口が詰まるぞ」
ドミニクが横から口を挟む。
「今日は外にこれだけ並んでいるんだ。最初から細かく見ていたら、客が怒る」
入口の外には、すでに長い列ができていた。
裕福そうな商人。
仕事帰りの冒険者。
新しい店を見ようと集まった若者。
貴族の家紋が入った馬車から降りた男。
Club Moon Dropの噂を聞きながら、紹介者がいないため利用できなかった者。
目的も立場も異なる客たちが、同じ入口へ並んでいる。
「まずは入れろ」
ドミニクは黒服たちへ告げた。
「席へ座らせ、酒を注文させてから分ければいい。立たせたまま待たせる方が問題になる」
「客席への案内が追いつかなくなります」
「空いている卓へ順に座らせろ。満席になってから考える」
エドガーは僅かに眉を寄せた。
「最初から役割を崩せば、案内の基準が失われます」
「客を入れない店よりはましだ」
二人の間に短い沈黙が流れる。
黒服たちは、どちらの指示へ従うべきか迷った。
入口と上客対応を任されたエドガー。
客席全体を任されたドミニク。
どちらもカイルから責任者として扱われている。
しかし、片方は客の立場と順序を整えようとし、もう片方は人数を入れることを優先する。
開店前から、判断は揃っていなかった。
「扉を開けろ」
奥から聞こえた声に、全員が振り返った。
カイルが客席中央に立っていた。
仕立ての良い上着を身につけ、完成した店内を見渡している。
乳白色の壁。
金色の装飾。
天井から吊るされた大きな照明。
舞台を囲むように並べられた客席。
王都から取り寄せた酒が並ぶ棚。
そして、黒い制服を着た大勢の従業員。
すべて、自分が作ったものだった。
「外の客を待たせるな」
カイルが言う。
「今夜は、ルミエールの名を街へ刻む夜だ」
エドガーは一礼し、正面扉へ手をかけた。
重い扉が左右へ開く。
外で待っていた者たちから、歓声が上がった。
「ようこそ、ルミエールへ」
エドガーが丁寧に告げる。
「本日は開店初日となります。入口で入場料をお支払いいただき、順に客席へご案内いたします」
最初の客が足を踏み入れる。
続いて、二人。
三人。
五人。
入口で金を受け取る黒服が、客の数と支払額を帳面へ書き込む。
案内係が席へ連れていく。
だが、外の列はほとんど短くならなかった。
「もっと早く入れろ!」
後ろの方から声が飛ぶ。
「いつまで待たせるんだ!」
若い黒服の手元が焦りで乱れる。
受け取った銀貨を落としそうになり、慌てて握り直した。
「二名様ですね。ご希望の――」
「中で決める。早く入れてくれ」
「ですが、お席の――」
「空いているところでいい」
客は黒服の返事を待たず、入口の奥へ進もうとする。
エドガーが自然に前へ出た。
「恐れ入ります。ご案内いたしますので、こちらでお待ちください」
声は穏やかだったが、客が勝手に客席へ進めない位置へ立っている。
客は不満そうな顔を見せたものの、足を止めた。
エドガーが手を上げる。
別の黒服が来て、客を空いている席へ案内した。
一組を整える間にも、次の客が入ってくる。
会計。
案内。
希望確認。
上着の預かり。
同行者の確認。
すぐに入口は人で埋まった。
「後ろを空けろ!」
ドミニクが声を上げる。
「入場料を払った者から、中へ進ませろ!」
「案内役が足りません!」
「客席の黒服を二人、入口へ回せ!」
「客席の酒が止まります!」
「給仕に運ばせろ!」
指示が飛び交う。
一人の黒服が入口へ向かう。
その穴を別の者が埋めようとする。
だが、誰がどの卓を見ているのか、全員が把握しているわけではない。
開店して間もなく、客席の半分以上が埋まった。
「酒はまだか?」
「接客係を頼んだんだが」
「舞台はいつ始まる?」
各所から声が上がる。
黒服たちは盆を持って通路を行き来する。
椅子を引いた客が道を塞ぐ。
声をかけて戻してもらい、その横を身体を傾けて通る。
別の客が立ち上がり、知人へ挨拶する。
その背後で酒瓶を持つ黒服が立ち止まる。
入口から新しい客が次々と入ってくるため、空いている席を探す案内係も通路を歩いていた。
「そちらの卓は空いているか?」
「二席だけです」
「三人連れだ」
「椅子を足せば入ります」
「通路が狭くなるぞ」
「ほかに空きがない!」
開店前に決めた配置は、少しずつ崩れていく。
二人用の卓へ三人。
四人用の卓へ五人。
後方では、立ったまま酒を飲む客も増えていた。
それでも、店内から不満よりも驚きの声が多く聞こえていた。
「広いな」
「本当に舞台があるぞ」
「あの酒は王都のものか?」
「これだけ人が入る店は、この街にはなかったな」
目新しさが、多少の待ち時間や混雑を覆い隠していた。
客たちは周囲を見回し、見知った者を見つけて声をかけ、壁や照明を眺めている。
やがて、店内の灯りが少し落とされた。
舞台へ向けて、複数の光が集まる。
楽器の最初の音が鳴った。
客席の声が、少しずつ静かになる。
「皆様」
舞台脇から、華やかな衣装を着た女性が現れた。
客へ演目を紹介する役を任された者だった。
「本日は、ルミエールの開店へお越しいただき、誠にありがとうございます」
大きな拍手が起きる。
「ルミエールでは、これまでの酒場では味わえなかった歌、演奏、踊り、そして会話をお楽しみいただけます」
言葉に合わせ、楽器奏者たちが音を重ねる。
「最初の舞台を飾るのは、ルミナスでも滅多に見ることのできない踊り手です」
舞台裏にいたラナの耳が動いた。
紹介役の女性の言葉は、練習で聞かされていたものと違っていた。
「猫系獣人ならではの、しなやかで野性的な踊りを、間近でご覧ください!」
客席からどよめきが起きる。
「本当に獣人か!」
「耳があるのか?」
「早く出せ!」
ラナは舞台へ続く階段の前で、動けなくなりそうになった。
自分が練習してきたのは、一座で学んだ踊りだった。
足運び。
静止。
視線。
音楽との呼吸。
種族に頼らず、何年もかけて身につけた技術だ。
野性的な踊りとして教わったものではない。
「ラナ、出番だ」
演出担当者が背後から告げる。
「紹介の言葉が違います」
「客の反応はいい」
「私は、獣人らしい踊りをするとは――」
「同じことだ。お前が踊れば、客は喜ぶ」
舞台から名前が呼ばれる。
「ラナ!」
客席の拍手が大きくなる。
ラナは唇を結び、階段へ足をかけた。
今ここで出なければ、舞台全体が止まる。
ほかの踊り手も、楽器奏者も待っている。
ラナは光の中へ出た。
その瞬間、客席からさらに大きな声が上がった。
「本当に猫耳だ!」
「尾もあるぞ!」
「こっちを向け!」
誰も、まだ踊りを見ていない。
それでも、ラナが舞台へ現れただけで店内は沸いた。
ラナは客席を見渡した。
舞台正面には、華やかな服を着た商人たちがいる。
少し離れた席には冒険者。
後方には立ったまま舞台を見上げる若者。
多くの目が、自分の耳と尾へ向けられていた。
太鼓が鳴る。
弦の音が続く。
ラナは息を吸った。
踊ればいい。
自分が積み重ねてきたものを見せる。
客が何を目当てに来たとしても、舞台の上では踊り手として立つ。
最初の一歩を踏み出す。
足先を滑らせるように進め、両腕を広げた。
ざわめいていた客席の声が、少しだけ小さくなる。
身体を回す。
尾が遅れて軌跡を描く。
音が止まる直前に動きを止め、顔だけを客席へ向ける。
次の拍子で低く沈み、床を蹴った。
高く跳ぶ。
着地。
すぐに次の動きへ移る。
猫系獣人だからできるのではない。
何度も転び、足を痛め、身体の重心を覚えてきたからできる動きだった。
客席の声が消えていく。
代わりに、太鼓と足音が店内へ響いた。
ラナは舞台の端へ進む。
最前列の客が近い。
手を伸ばせば、衣装へ触れられそうな距離だった。
一人の客が興奮して身を乗り出す。
ラナは予定していた動きを僅かに変え、舞台中央へ戻った。
客へ気づかれないほど自然に距離を取る。
音が速くなる。
舞台脇から、ほかの踊り手たちが上がってくる。
階段は一つしかない。
ラナが中央へ移動する間に、五人の踊り手が続いた。
一人が衣装の裾を踏みそうになる。
ラナは視線だけで合図を送り、動きを半歩ずらした。
全員が腕を広げる。
回る。
踏み込む。
再び回る。
練習では何度も位置がずれた動きだった。
今も完璧ではない。
だが、ラナが周囲へ合わせることで、大きな崩れは起きなかった。
客席から見れば、揃った華やかな踊りに見える。
演目の最後。
ラナが中央へ立つ。
ほかの踊り手たちが左右へ広がる。
音が一斉に止まった。
ラナは片腕を伸ばし、顔を上げる。
一瞬の静寂。
次の瞬間、店内を揺らすような拍手と歓声が起きた。
「すごいぞ!」
「もう一度踊れ!」
「ラナと言ったな!」
「酒を持ってこい! 一番高いものだ!」
客席の熱気が一気に高まった。
ラナの胸に、小さな喜びが生まれる。
名前を呼ばれた。
耳や尾ではなく、踊りへ拍手している者もいた。
舞台の上で積み重ねてきた技術を見てもらえた。
その喜びは嘘ではなかった。
同時に、紹介された言葉への違和感も消えなかった。
ラナが頭を下げる。
ほかの踊り手たちと共に階段へ向かう。
次の歌手たちが、同じ階段から上がろうとしていた。
「待って」
ラナが小声で止める。
「先に降ります」
「早く入れ替われ!」
舞台脇から演出担当者の声が飛ぶ。
降りる踊り手と、上がる歌手。
狭い階段で身体が重なる。
楽器を持った者も後ろから来る。
客席では、まだラナの名を呼ぶ声が続いている。
一人の踊り手の衣装が階段の角へ引っかかった。
ラナがすぐに布を外す。
「大丈夫?」
「はい」
「止まるな!」
また声が飛ぶ。
出演者たちは急いで舞台裏へ入った。
その直後、歌が始まる。
客席の注意は新しい演目へ向かい、舞台裏の混雑へ気づく者はいなかった。
「成功だ」
二階から客席を見下ろしていたカイルは、満足そうに呟いた。
すべての席が埋まっている。
後方には立ち見客。
入口の外には、まだ入店を待つ列がある。
酒の注文は絶えない。
ラナが踊り終えた直後には、高級酒の注文が一気に増えた。
告知に獣人の踊り子と大きく書いた判断は正しかった。
「ラナの舞台後に、高級酒が十四本出ています」
会計係が帳面を見ながら報告する。
「入場料だけでも、予定を大きく上回りました」
「Club Moon Dropの一晩分を、すでに超えたのではないか?」
「単純な売上で比較するなら、超えている可能性があります」
カイルの口元へ笑みが浮かぶ。
「可能性ではなく、正確に確認しろ」
「Club Moon Dropの本日の売上までは分かりません」
「席数を見れば分かる。あの店には、これだけの客を入れられない」
会計係は否定しなかった。
客数だけを比べれば、その通りだった。
ルミエールには、Club Moon Dropの何倍もの客がいる。
入場料を払った上で、酒と料理を注文する。
舞台を見て気分が高まれば、さらに高い酒を頼む。
一人の客が使う金額だけでなく、人数そのものが違う。
カイルが目指した形は、確かに結果を出していた。
「ラナを次の演目にも出せ」
カイルが命じる。
会計係が顔を上げる。
「次の出演は、二つ後の予定です」
「客が今求めている」
「衣装替えと休憩があります」
「衣装は同じでいい。水を飲ませて、すぐ出せ」
「最初の舞台は、ほぼ一人で中心を務めています」
「だから客が喜んだ」
「疲労で動きが鈍れば、評判を落とします」
「一度踊った程度で動けなくなる者へ、三倍の給金は払っていない」
会計係は黙った。
「演出担当者へ伝えろ。ラナをもう一度出す」
「承知しました」
命令はすぐに舞台裏へ届いた。
ラナは、壁際に置かれた椅子へ腰を下ろしたばかりだった。
額から汗が流れている。
息を整えながら、水の入った杯を受け取る。
「ラナ、次の歌の後にもう一度出ろ」
演出担当者が告げた。
「次は二つ後では?」
「客が求めている」
「ほかの踊り手の演目があります」
「順番を変える」
「でも、皆も準備を――」
「店の判断だ」
ラナは周囲を見た。
次に踊る予定だった者たちが、衣装を整えている。
その中には、足首を痛めた少女もいた。
彼女たちは驚いた表情でこちらを見ていた。
「私ではなく、予定どおり皆を出してください」
ラナは立ち上がった。
「私だけを続けて出せば、ほかの人の出番が減ります」
「客が見たいのはお前だ」
「まだ、ほかの人の踊りを見ていません」
「見る前から客が求めていないものを出して、何になる」
演出担当者は冷たく言った。
「お前は高い給金を受け取る。その分だけ働け」
ラナの耳が僅かに伏せる。
以前の一座では、客を集めても給金は低かった。
ここでは高い給金を払う代わりに、客が求める限り踊ることを求められる。
扱いは変わった。
けれど、自分の希望が尊重されているわけではなかった。
「分かりました」
ラナは杯の水を飲み干した。
予定を外された踊り手の一人が、顔を背ける。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
ラナには分からなかった。
話しかける時間も与えられず、再び舞台へ向かうことになった。
客席では、酒が次々と運ばれていた。
「この酒は高すぎる」
一人の中年商人が、卓へ来た接客係へ言った。
「もう少し安いものはないのか?」
「もちろんございます」
女性は笑顔で答えた。
「ただ、開店を記念して、こちらの酒をご注文いただいたお客様には、舞台後に踊り手がご挨拶へ伺うことになっております」
「踊り手?」
「先ほど中央で踊っていたラナです」
商人の目が変わる。
「本当に席へ来るのか?」
「順番にはなりますが」
「なら、それを頼もう」
「ありがとうございます」
接客係は黒服へ合図した。
高級酒の注文が、また一つ増える。
ラナ本人は、自分が客席へ挨拶に回ることをまだ知らなかった。
舞台の熱気を酒の注文へ変える。
カイルが考えた仕組みは、開店初日から機能していた。
一方で、客席の奥では別の問題が起きていた。
「この席は舞台が見えにくい」
遅れて入店した豪商が、不満そうに言った。
同行者を含めて四人。
入口で多額の金を持っていると判断され、エドガーが対応していた。
「申し訳ございません。ただいま正面のお席は埋まっております」
「開店祝いに、これだけの酒を注文するつもりで来た。それでも後ろへ座れというのか?」
豪商は大きな金貨袋を卓へ置いた。
「正面へ移してもらおう」
エドガーは客席を見る。
上客用として用意された舞台正面の卓には、すでに三人の商人が座っていた。
最初に入店し、酒と料理を注文している。
ただし注文額は、目の前の豪商が示した金額より少ない。
カイルからは、支払額の少ない客を移せと言われていた。
「少々お待ちください」
エドガーは正面席へ向かった。
「お楽しみのところ、失礼いたします」
三人の商人が振り返る。
「何だ?」
「店内の都合により、別のお席へご移動をお願いできますでしょうか」
「なぜだ?」
「こちらより落ち着いた席をご用意いたします。お詫びとして、酒を一本お付けいたします」
三人の顔から笑みが消える。
「俺たちは先に来た」
「承知しております」
「なら、後から来た者を別の場所へ座らせればいい」
周囲の客も、やり取りへ気づき始めていた。
エドガーは声を低くする。
「店内全体の席を調整しております。ご理解いただけますと――」
「誰のために動けと言っている?」
商人の一人が、豪商のいる方向を見る。
高価な服。
金貨袋。
立って待つ黒服。
理由は明らかだった。
「金を多く使う客のためか」
エドガーは否定できなかった。
「それがルミエールのやり方なら、最初から書いておけ」
商人は立ち上がった。
「席を動くくらいなら帰る」
「お待ちください」
「入場料は返せ」
周囲がざわつく。
ドミニクがすぐに近づいてきた。
「どうした?」
エドガーが事情を短く説明する。
ドミニクは商人へ笑顔を向けた。
「お気を悪くされたなら申し訳ありません。こちらの酒を二本お付けします。別の席には、人気の接客係を優先して――」
「いらん」
「ですが――」
「俺たちは席と女を買いに来たのではない」
商人は同行者を見た。
「帰るぞ」
三人は席を離れた。
その空いた卓へ、豪商が案内される。
高級酒が何本も注文され、会計上は利益が増えた。
しかし、帰った三人が二度と来るかは分からない。
カイルは二階からその様子を見ていたが、損をしたとは考えなかった。
「正しい判断だ」
豪商の卓へ高級酒が運ばれるのを見て言う。
「一卓から得られる利益が違う」
会計係は帳面へ金額を書き込んだ。
入口では、入店を待つ客がまだ残っている。
帰った三人の代わりなど、いくらでもいる。
少なくとも、今夜はそう見えた。
店内が再び暗くなる。
「ラナだ!」
客の一人が声を上げた。
舞台へ、ラナが再び現れる。
大きな歓声。
高級酒の杯が掲げられる。
客たちは熱狂していた。
誰もが光の店の開店を楽しんでいるように見えた。
ラナは疲労を見せないよう、背筋を伸ばす。
最初の演目より短い踊りだった。
それでも、足へかかる負担は消えない。
回転した時、視界が僅かに揺れた。
ラナはすぐに歩幅を小さくし、動きを整える。
客席は気づかない。
拍手が起きる。
舞台袖へ戻ると、演出担当者が満足そうに頷いた。
「次は客席だ」
「客席?」
「高級酒を注文した卓へ挨拶に回れ」
「私は、聞いていません」
「開店初日だ。予定は変わる」
「少し休ませてください」
「客を待たせるな」
ラナは何か言おうとした。
だが、その横を黒服が慌ただしく走っていく。
「後方で杯が足りません!」
「倉庫から出せ!」
「搬入口の前に酒樽が積まれていて、奥へ入れません!」
「手前の樽から使え!」
「注文が分かりません! この卓は誰の担当ですか!」
「空いている者が行け!」
大勢の従業員がいる。
それでも、全員が足りないように動いていた。
客が多すぎる。
注文が多すぎる。
指示が重なりすぎる。
ラナは自分の息を整え、客席へ向かうために衣装を直した。
「ラナさん」
後ろから、穏やかな声がかかる。
振り返ると、一人の女性が立っていた。
柔らかな栗色の髪をまとめ、接客係の衣装を着ている。
年齢は二十代半ばほど。
派手な雰囲気ではないが、相手の目を見て落ち着いて話す女性だった。
「顔色が良くありません」
「大丈夫です」
「でも、息がまだ――」
「客席へ行くよう言われました」
女性は少し迷い、手にしていた布を差し出した。
「せめて、汗を拭いてください。水も持ってきます」
「あなたの席は?」
「お客様が舞台をご覧になっています。その間なら、少し離れられます」
「ありがとう」
「フィオナです」
女性は小さく笑った。
「同じ店で働くのですから、名前くらいは覚えてください」
「ラナです」
「知っています。今夜、一番名前を呼ばれている方ですから」
フィオナの言葉に、羨望や皮肉はなかった。
ただ事実を伝えるような口調だった。
ラナは受け取った布で額を拭った。
「フィオナは、舞台へ出ないの?」
「歌も踊りも得意ではありません」
「会話が得意なんだね」
「得意かどうかは分かりません。ただ、人のお話を聞くのは好きです」
フィオナは客席の方へ目を向けた。
「以前話してくださったことを、次に会った時も覚えていたいと思います」
その時、客席から声が飛ぶ。
「フィオナ! 酒が空いているぞ!」
フィオナの肩が僅かに揺れた。
すぐに笑顔を作る。
「ただいま参ります」
ラナへもう一度頭を下げ、客席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、ラナは布を握った。
ルミエールには、さまざまな才能を持つ者が集められている。
踊る者。
歌う者。
楽器を奏でる者。
会話を聞く者。
大人数を動かす者。
礼儀を知る者。
誰もが、これまでより良い働き方や、正当な評価を求めてここへ来た。
店は満席だった。
客は喜んでいた。
酒も売れている。
開店初日だけを見れば、ルミエールは疑いようのない成功を収めていた。
夜が深くなる頃、入口の列はようやく短くなった。
それでも、客席には空席がない。
歌が続く。
踊りが続く。
酒が運ばれる。
接客係たちは笑顔で卓を回る。
黒服たちは狭い通路を何度も往復する。
疲れた者がいても、代わりに入れる者は別の仕事へ追われていた。
「満席です」
会計係が報告する。
「立ち見を含めれば、予定した人数を超えています」
「売上は?」
「想定の倍近くです」
カイルは客席を見下ろした。
舞台ではラナが三度目の挨拶を終え、客席へ向かっている。
彼女が歩くたびに、客が手を上げて呼び止めようとする。
高級酒を注文した者は、自分の席へ来るよう求める。
接客係たちは、空になった杯へ次の酒を注ぐ。
上客用の席では金貨が行き交っていた。
「Club Moon Dropは、紹介者がいなければ入口にも立てない」
カイルは静かに言った。
「こちらは、金を払う者なら誰でも迎える。それだけで、これほどの客が集まった」
「はい」
「レンは、自分の規則で客を捨てていたのだ」
カイルの目には、満席という結果しか映っていなかった。
移動を求められ、帰った客。
舞台裏で足を痛めた踊り手。
休憩を取れず、三度目の出演へ向かうラナ。
担当の分からない卓を走り回る黒服。
笑顔を作り直して客席へ戻ったフィオナ。
それらは、大きな成功の中に生じた小さな乱れにすぎないと考えていた。
「最初の段階は成功だ」
カイルは、遠くにあるClub Moon Dropの小さな灯りへ目を向けた。
「あとは、あの店の客までこちらへ向かせればいい」
その夜、ルミエールの売上は、カイルが予想していた額を大きく上回った。
西通りには歌と楽器の音が遅くまで響き、帰る客たちは口々に新しい店の華やかさを語った。
広い舞台。
高級酒。
揃いの黒服。
美しい歌手。
大勢の踊り手。
そして、猫系獣人のラナ。
翌朝には、ルミエールの名と共に、彼女の種族が街の各所で語られることになる。
けれど、その踊りがどれほど優れていたかより先に、多くの者が口にしたのは同じ言葉だった。
「珍しい獣人の踊り子を見たか?」
満席となった光の店で、ラナの名は確かに知られ始めていた。
ただし、彼女が望んだ形とは、少し違う光の当たり方によって。
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