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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第110話 光を掲げる対抗店

 改装中の宴会場には、以前の面影がほとんど残っていなかった。


 正面の壁には明るい乳白色の塗料が塗られ、窓枠には金色の装飾が取り付けられている。


 入口の上には大きな金具が組まれ、まだ文字の入っていない看板が吊るされていた。


 客席の中央では舞台の骨組みが完成し、職人たちが床板を一枚ずつ固定している。


 二階の控室には鏡台が運び込まれ、衣装を掛けるための棒が壁へ並べられていた。


 長く使われていなかった古い宴会場は、わずかな期間で、街の誰も見たことがないほど華やかな社交店へ姿を変えようとしていた。


 しかし、建物の中にはまだ名前がなかった。


 入口に立つ職人も、舞台を作る大工も、採用された歌手や踊り手も、今はただ「新しい店」と呼んでいる。


「店名が決まらないままでは、宣伝を始められません」


 広い客席の一角に置かれた机で、会計係が何枚もの書類を広げていた。


「募集の掲示には新店舗としか書いていませんが、開店告知には正式な名が必要です。酒商会へ発注する瓶や樽の印も、早く決めなければ間に合わなくなります」


 カイルは舞台へ向けていた視線を戻した。


「候補は集めたのか?」


「はい」


 会計係が別の紙を差し出す。


 紙には、ルミナスの商人や、王都から派遣された担当者が考えた名前が並んでいた。


 黄金宮。


 白銀の宴。


 王都の夜。


 星の館。


 輝夜殿。


 どれも高級さや華やかさを意識したものだった。


 だが、カイルは一つずつ目を通しながら、表情を変えなかった。


「古い」


「古い、ですか?」


「似たような名の店が王都にもある。金や銀を付ければ高級に聞こえると思っているだけだ」


 カイルは紙を机へ戻した。


「ここは、ルミナスにこれまでなかった店だ。歌も、踊りも、酒も、接客もある。名前を聞いただけで、今までの酒場とは違うと分からなければならない」


「では、王都風の言葉を使いますか?」


「王都の店をそのまま移すわけではない」


 カイルは椅子へ腰を下ろした。


 Club Moon Drop。


 初めてその名を聞いた時、意味は分からなかった。


 ルミナスの者が日常で使う言葉ではない。


 それでも一度聞けば忘れにくく、ほかの酒場と並べてもすぐに区別できる。


 異世界の言葉であることを、カイルは知らない。


 だが、意味が分からないからこそ客の興味を引き、レンの店だけが特別なものに聞こえていることは理解していた。


「Club Moon Dropの名を聞いた者は、意味を知らなくても、あの店を思い浮かべる」


 カイルが言うと、会計係は僅かに身構えた。


「似た名にするのですか?」


「なぜ私が、あの店の後を追う」


 低い声に、会計係はすぐに頭を下げた。


「失礼しました」


「必要なのは、あの店とは違う形で、同じように覚えられる名だ」


 その時、机の端で書類を整理していた王都の商人が口を開いた。


 改装資金を表向き提供している人物の代理として、王都から来ていた男である。


「古い言葉を使うのはいかがでしょう」


「古い言葉?」


「現在では日常的に使われませんが、王都の貴族や学者なら知っている言葉です。意味を知らない者にも、響きだけで華やかに聞こえるものがあります」


 男は持っていた帳面の余白へ、いくつかの名を書き始めた。


「たとえば、クラルテ。明るさを示す古語です。エクラ。輝きや華やかさ。あるいは――」


 男が最後に書いた文字を、カイルは目で追った。


「ルミエール」


 聞き慣れない音だった。


 だが、柔らかく口にしやすい。


 王都風でありながら、ルミナスの者にも覚えられそうだった。


「どういう意味だ?」


「光、明かり、輝き。そのような意味を持つ古い言葉です」


「光か」


 カイルは、正面の窓から差し込む昼の光へ目を向けた。


 乳白色へ塗られた壁が明るく照らされている。


 夜になれば、大きな照明と金色の装飾が光を反射する。


 舞台にも多くの灯りを置く予定だった。


 歌手を照らす光。


 踊り手を照らす光。


 高級酒の瓶を輝かせる光。


 客が遠くからでも店の存在へ気づく光。


「悪くない」


 カイルが呟いた。


 会計係が確認する。


「ルミエール、ですか?」


「ああ」


 カイルは立ち上がり、まだ空白の看板を見上げた。


「新しい店の名は、ルミエールだ」


 その言葉が、客席にいた者たちへ伝わっていく。


 職人が作業の手を止め、入口の看板を見た。


 採用された歌手の一人が、小さく名を繰り返す。


「ルミエール……」


「変わった名前ね」


「でも、きれいな響きだわ」


 踊り手たちの間から、好意的な声が上がった。


 ラナも舞台の近くでその名を聞いた。


「光……」


 誰に聞かせるでもなく呟き、完成しつつある舞台へ顔を向ける。


 暗い一座の裏方で、ほかの踊り手より低い給金しか与えられなかった自分が、広い舞台の中心へ立てるかもしれない。


 店の名が光を意味するのなら、その光が自分の踊りそのものを照らしてくれるかもしれない。


 ラナは、そう信じたかった。


 ただし、カイルがこの名前を選んだ理由に、月へ対抗する意図はなかった。


 Club Moon Dropという名が何を意味するのか、彼は知らない。


 月も、雫も、夜空も、カイルの考えにはなかった。


 ただ、明るく、華やかで、高級に聞こえる。


 ほかの酒場よりも強い光で客の目を奪える。


 それだけで十分だった。


「看板の文字は大きくしろ」


 カイルは職人へ向けて命じた。


「金色で縁取る。店名の周囲へ灯りを置き、夜でも西通りの入口から見えるようにする」


 看板職人が壁の高さを確認する。


「灯りを置くなら、油を補充する足場も必要になります」


「裏から上がれるようにしろ」


「看板の支柱と重なります。整備する者が通るには、少し狭くなるかと」


「人一人が通れれば足りる」


「ですが、油壺を持って上がるとなると――」


「細かなことは現場で合わせろ」


 カイルは看板職人の言葉を打ち切った。


「まずは、遠くから見えることが重要だ」


 職人は口を閉じ、図面へ線を書き加えた。


 その横で、別の担当者が客席の配置図を広げる。


「店名が決まりましたので、開店告知へ載せる客席数も確定したいのですが」


「最大で何人入る?」


「現在の配置ですと、着席で百二十人ほどです」


 カイルの眉が動く。


「この広さで、それだけか?」


「舞台と楽器奏者の場所を確保し、給仕の通路を残すなら、その程度になります」


 担当者は図面を指した。


「舞台正面には上客用の席を置きます。左右に一般席、後方に立ち見の場所を少し設けます。入口から舞台まで中央通路を一本、左右にも配膳用の通路を――」


「左右の通路が広すぎる」


「給仕が酒と料理を運びます。客が立ち上がることも考えれば、これでも余裕は多くありません」


「片側を半分にしろ。その分、卓を増やせる」


 担当者は困ったように図面を見た。


「片側だけでは、客が椅子を引いた時に通れない場所ができます」


「給仕が声をかければ、客は避ける」


「酔っていれば、すぐに動いていただけないこともあります」


「そのために黒服を多く雇った」


 カイルは当然のように答えた。


「通路へ出た客がいれば戻せばいい。椅子が邪魔なら詰め直せ。客席を減らす理由にはならない」


 担当者は、舞台と客席の間へ視線を移した。


「それから、舞台正面の席が近すぎるという意見が出ています」


「誰からだ?」


「踊り手のラナです。大きく回る演目や、長い衣装を使う場合、舞台の端から客席まで距離が必要だと」


 少し離れた場所にいたラナの耳が、会話を拾って動いた。


 カイルがこちらを見る。


「ラナ」


 呼ばれた少女は、舞台脇から歩いてきた。


「はい」


「舞台が狭いのか?」


「広さだけなら、今まで踊っていた場所より大きいです」


「なら問題はないだろう」


「舞台の広さではなく、周囲との距離です」


 ラナは配置図を見た。


「舞台へ上がる人数が増えると、端まで使います。踊り手が滑ったり、足を取られたりした時、客席が近いと巻き込むかもしれません。長い布を使う演目では、客の杯や照明へ触れる危険もあります」


「落ちなければいい」


 カイルの返答に、ラナは言葉を失った。


「踊り手は落ちないように練習する。客席へ布を触れさせないよう振り付けを考える。それが技術ではないのか?」


「もちろん、気をつけます。ただ、絶対に失敗しないとは――」


「客は舞台を近くで見たい」


 カイルは配置図の最前列を指した。


「遠くから眺めるだけでは、酒場へ大きな舞台を置く意味がない。目の前で歌い、踊るから金を払う。近さは、この店の魅力になる」


 ラナは唇を結んだ。


 客の近くで踊ること自体は、珍しくない。


 祭りでは観客に囲まれた広場で踊ったこともある。


 ただ、そこには椅子も、テーブルも、酒瓶も、大きな照明もなかった。


 酔った客が突然立ち上がることも考えなければならない。


「舞台へ上がる階段も、一か所だけでは足りません」


 ラナは、それでも伝えた。


「次の組と入れ替わる時、降りる者と上がる者がぶつかります。楽器を持つ人もいますから、左右に一つずつあった方が――」


「正面から見て、左右が同じ形では美しくない」


「階段は小さくても構いません」


「客席を一つ潰すことになる」


「でも、出演者が――」


「舞台の構成を決めるのは、お前ではない」


 静かな声だった。


 怒鳴られたわけではない。


 だが、それ以上の意見を許さない強さがあった。


「お前には、踊り手として最も目立つ場所を与える。以前の一座より高い給金も払う。ならば、客へ最高の踊りを見せることへ集中しろ」


 ラナの尾が、ゆっくりと下がる。


「……承知しました」


 カイルは満足そうに頷き、担当者へ向き直った。


「客席を増やせ。開店直後に満席となっても、外へ列ができる程度に宣伝する。その客を入れられない配置では意味がない」


「最大で、どこまで増やしますか?」


「百五十」


 担当者が目を見開く。


「着席で、ですか?」


「難しければ、後方は立ち飲みにする」


「立ち見客と、酒を受け取る客が同じ場所へ集まります」


「黒服を置け」


 また同じ答えだった。


 人が集まる場所には黒服を置く。


 通路が狭ければ黒服に整理させる。


 客が酔えば黒服になだめさせる。


 出演者と給仕が重なるなら、黒服に順番を調整させる。


 カイルにとって黒服は、店の設計や仕組みで解決しなかった問題を、その場で処理するための人員だった。


 黒服が何人必要となるのか。


 一人がどれだけの客を見なければならないのか。


 問題が同時に起きた場合、誰が何を優先するのか。


 その判断基準は、まだ決められていなかった。


 午後になると、採用された黒服たちが初めて揃いの制服を着た。


 黒い上着。


 黒いズボン。


 白い襟元。


 胸には、店名が入る予定の小さな金具が付けられている。


 大人数の酒場を経営していたドミニクも、貴族家で来客を扱っていたエドガーも、同じ黒い服に袖を通した。


「見た目は悪くありませんな」


 ドミニクは鏡の前で腹回りを確かめた。


「少し窮屈ですが、客には立派に見えるでしょう」


「立っているだけなら問題ありません」


 エドガーは袖口を整えながら答えた。


「ただ、酒樽や大皿を運ぶ者には、肩周りが動かしにくいかと」


「給仕用は別に作らせればいい」


「黒服は受付、案内、配膳、問題対応をすべて行うと伺いました」


「なら慣れさせればいい」


 カイルは、新しい制服を着た者たちを見渡した。


 人数が揃うと、それだけで迫力がある。


 Club Moon Dropで働くロイとディーノは二人だけだった。


 こちらには十人以上の黒服が並んでいる。


 経験もさまざまだ。


 酒場で働いていた者。


 商家で荷運びをしていた者。


 貴族家の使用人だった者。


 腕力を買われた元冒険者。


 言葉遣いに慣れた案内係。


 これだけいれば、どれほど多くの客が来ても対応できる。


 カイルはそう考えた。


「今日から、開店へ向けた研修を始める」


 黒服たちへ告げる。


「入口では入場料を受け取り、客の身分と支払能力を見極めろ。貴族や大商人は、上客用の席へ案内する。一般客が先に座っていても、必要なら別の席へ動かせ」


 エドガーが一礼する。


「移動を拒まれた場合は?」


「少し安い酒を付けるなどして納得させろ」


「上客用の席がすべて埋まっている場合は?」


「最も支払額の少ない客を移せばいい」


 黒服の何人かが、互いに顔を見合わせた。


 まだ入店したばかりの客が、後から来た者のために席を移される。


 酒を飲み、キャストと話している途中でも、相手の方が多く金を使うと判断されれば場所を譲らされる。


 不満が出ることは想像できた。


 だが、カイルはそれを問題とは考えていない。


「客へは、店の格に応じた振る舞いを求める。席を移るだけで騒ぐ者は、上客ではない」


 ドミニクが笑って頷く。


「酔って騒ぐ者は、力のある者で囲めば大抵は大人しくなります」


「店の外へ出すのか?」


「必要なら」


「待て」


 カイルが制した。


「まずは酒を替えろ。担当する女性を替える。別の席へ移す。金を使う客を簡単に外へ出すな」


「暴れた場合でもですか?」


「店の備品を壊すようなら止めろ。だが、声が大きい程度で追い出す必要はない」


「女性へ手を出した場合は?」


 元冒険者の黒服が尋ねた。


 カイルは少し考えた。


「嫌がっているようなら、担当を替えろ」


「腕をつかんだり、離さなかったりしたら?」


「客を刺激せず、手を放させろ」


「それでも放さなければ?」


「その場で判断しろ」


 具体的な線引きは、また示されなかった。


 客を怒らせてはいけない。


 高額客を追い出してはいけない。


 女性を守れとは命じられない。


 だが問題が起きれば、黒服がその場で収めなければならない。


 何を優先すべきか分からないまま、責任だけが黒服へ渡されていた。


 エドガーが、慎重に口を開く。


「店として、してはならない行為を先に決めておくべきではないでしょうか」


「してはならない行為?」


「たとえば、働く女性へ無断で触れる。刃物を持ち込む。泥酔した状態で入店する。ほかの客へ危害を加える。そうした場合は、身分や支払額に関係なく――」


「客を断る規則を増やせば、Club Moon Dropと同じになる」


 カイルは不快そうに言った。


「あの店へ入れない者を受け入れるために、ルミエールを作る。入口で細かな規則を並べ、客を選んでいては意味がない」


「しかし、何も決めずに開店すれば、黒服ごとに判断が変わります」


「エドガー」


 カイルは、元執事の男を正面から見た。


「お前は長く貴族家で働いていたのだろう。すべての状況が書面で決められていたのか?」


「いいえ」


「主人が何を望んでいるかを考え、自分で判断したはずだ」


「その通りです」


「ならば、ここでも同じことをしろ」


「この店の主人が望むことは、何でしょうか」


 エドガーの問いに、カイルは迷わなかった。


「客を満足させ、利益を上げることだ」


 それがルミエールの黒服へ与えられた、最初の判断基準となった。


 研修は続いた。


 入口から席まで客を案内する。


 客の衣服や装飾品から、どれほど金を持っているかを判断する。


 人気が出そうなキャストを、支払額の高い客へ優先して付ける。


 酒が減る前に次の注文を勧める。


 舞台へ客の視線が集まっている間に、高級酒を席へ運ぶ。


 客が帰ろうとした時には、次の演目や別のキャストを勧めて引き留める。


 黒服たちは、覚えるべき仕事の多さに追われた。


 入口。


 会計。


 案内。


 配膳。


 客席の確認。


 舞台の出演順。


 控室への連絡。


 問題客への対応。


 それぞれに担当を分ける案も出たが、カイルは固定しすぎるなと命じた。


「全員がすべてできるようにしろ。誰かが休んでも、ほかの者が埋めればいい」


 言葉だけなら、Club Moon Dropの黒服と似ていた。


 ロイとディーノも、受付だけ、配膳だけと持ち場へ固定されてはいない。


 互いの位置を確認し、その時に必要な場所へ動く。


 だが、彼らは同じ規則と判断基準を共有している。


 客と働く者の安全を守る。


 無理な要求を認めない。


 問題が起きる前に止める。


 誰かが入口へ立てば、もう一人が店内を見る。


 誰かが客へ対応すれば、ほかの者が周囲へ注意を向ける。


 ルミエールの黒服たちには、その共通した基準がなかった。


 ある者は身分を優先した。


 ある者は支払額を優先した。


 ある者は客数を優先した。


 ある者は揉め事を起こさないことを優先した。


 全員が黒い服を着ていても、同じ方向を見てはいなかった。


 舞台では、歌手、踊り手、楽器奏者の合同練習が始まっていた。


 ラナを中心に、複数の踊り手が音へ合わせて動く。


 しかし、個々の経験は大きく異なっていた。


 長く一座で踊ってきた者。


 祭りで数度踊っただけの者。


 酒場で客と一緒に簡単な踊りをしていた者。


 身体の大きさも、歩幅も、得意な動きも違う。


「次は全員で前へ出て、同時に回れ」


 舞台を任された演出担当者が命じる。


 ラナが周囲を見た。


「この人数で一度に回ると、端の二人がぶつかります」


「少し間隔を詰めれば入る」


「詰めたら、もっとぶつかります」


「客から見れば、離れているより揃っていた方が華やかだ」


「振り付けを二組に分ければ――」


「舞台へ一度に多く出した方が豪華に見える」


 ラナは、隣に立つ若い踊り手へ目を向けた。


 緊張で肩へ力が入っている。


 先ほどの練習でも、回転した際に足をもつれさせていた。


「せめて、慣れていない人は後ろへ――」


「後ろでは客から見えない」


 担当者は取り合わなかった。


「お前が先頭で合わせろ。ほかの者は、お前を見て動けばいい」


 ラナは反論を飲み込んだ。


「分かりました」


 太鼓と弦楽器が鳴り始める。


 踊り手たちが一斉に前へ出た。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 腕を広げ、身体を回す。


 ラナは自分の動きを小さくし、隣の者と接触しないよう調整した。


 だが、その分だけ反対側の踊り手との動きがずれる。


 一人の衣装の裾が、別の者の足へ触れた。


 小さな悲鳴。


 身体が傾く。


 ラナは腕を伸ばし、倒れかけた踊り手の肩を支えた。


 音楽が止まる。


「大丈夫?」


「はい……すみません」


「謝らなくていい。足は?」


「少し引っかかっただけです」


 演出担当者は、深く息を吐いた。


「本番では止めるな」


 ラナが顔を上げる。


「今は練習です」


「だから言っている。失敗しても踊り続ける練習をしろ。客は転びかけた者より、音楽が止まったことに気づく」


「怪我をしたら続けられません」


「怪我をしないように覚えろ」


 カイルと同じ答えだった。


 失敗しなければいい。


 事故を起こさなければいい。


 疲れなければいい。


 危険を減らすのではなく、働く者が危険を避け続けることを求める。


 ラナは倒れかけた少女を立たせ、衣装の裾を整えた。


「次は回る前に、右側を見て」


 小声で伝える。


「でも、前を見ろと言われました」


「全部を向かなくていい。目だけで確かめて。私も少し位置をずらすから」


「ありがとうございます」


 ラナは、自分たちでできる範囲の工夫を始めた。


 経営者へ意見を聞いてもらえないのなら、踊り手同士で守るしかない。


 その頃、正面入口では開店を知らせる告知板が取り付けられていた。


 大きく書かれた店名。


 ルミエール。


 その下には、店の特徴が並んでいる。


 紹介者不要。


 歌と踊りの大舞台。


 王都から取り寄せた高級酒。


 人気の接客係を選べる指名制度。


 貴族、大商人、冒険者、旅人を問わず歓迎。


 開店日には特別料金で入場できることも記されていた。


 告知板の前へ、通行人が次々と足を止める。


「紹介者はいらないのか」


「誰でも入れるらしいぞ」


「踊りを見るだけでもいいのか?」


「Club Moon Dropへ入れなかった奴も行けるんじゃないか」


「大きな店だな」


「王都の酒も置くらしい」


 人々の声を、二階の窓からカイルが聞いていた。


 狙いどおりだった。


 まだ開店していない。


 それでも通りの者たちは、ルミエールの話を始めている。


 Club Moon Dropの紹介制に興味を持ちながら、紹介者がいないため入れなかった者。


 正式会員になるまで待てなかった者。


 静かな会話より、大勢で騒ぐことを好む者。


 人気のある女性を金で指名したい者。


 貴族と同じ場所で酒を飲むことへ憧れる者。


 そうした客は、すべてルミエールへ来る。


 Club Moon Dropが自ら閉じている扉を、こちらは大きく開く。


 客数で圧倒する。


 売上で圧倒する。


 華やかさで圧倒する。


 やがて、レンの店にしかないと思われていた価値まで、こちらへ移る。


「宣伝はもっと増やせ」


 カイルは会計係へ告げた。


「市場、冒険者ギルド、商業ギルド、東門、西門。人が集まる場所すべてへ掲示を出せ」


「開店日まで、あまり時間がありません」


「だから急ぐ」


「職人からは、舞台脇の通路と、裏の搬入口について、もう一度確認が必要だと――」


「何を確認する?」


「舞台脇が狭く、出演者と給仕が同時に通れないそうです。搬入口も酒樽を積み上げると、裏口の一部を塞ぎます」


「時間を分ければいい」


「営業中は、酒の追加と出演者の移動が重なる可能性があります」


「黒服に調整させろ」


 会計係は、言葉を選びながら続けた。


「その黒服たちも、まだ役割を十分に覚えていません。入口、会計、案内、配膳、舞台との連絡を同時に行うには、もう少し研修が必要かと」


「開店後に覚えればいい」


「客を入れた状態で、ですか?」


「実際の客がいなければ分からないこともある」


「それは、その通りですが……」


 会計係は、手元の書類を見た。


 開店を一週間遅らせれば、追加の通路を作れる。


 舞台脇の階段も増やせる。


 黒服の役割分担を試す時間もできる。


 出演者同士の動きを合わせる余裕も生まれる。


 しかし、一週間遅らせれば改装費と給金が増える。


 すでに街へ広がった期待も薄れるかもしれない。


 何より、カイルは一日でも早くClub Moon Dropへ勝ちたがっていた。


「カイル様」


 会計係は、それでも尋ねた。


「開店日を数日だけ延ばすお考えはありませんか?」


「ない」


 即答だった。


「今、街はルミエールへ興味を持っている。この熱が残っている間に開ける」


「ですが、準備が不十分なままでは、最初の評判を落とす恐れがあります」


「最初から完璧な店などない」


 カイルは告知板の前へ集まる人々を見下ろした。


「客が来なければ、どれほど安全な通路を作っても意味がない。客を集めてから直せばいい」


「事故や問題が起きてからでは――」


「起こさなければいい」


 カイルは振り返った。


「職人には予定どおり仕上げさせろ。黒服には客を待たせるなと伝えろ。歌手と踊り手には、開店日までに演目を完成させろ。必要なら練習時間を増やせ」


「休憩は?」


「交代で取らせろ」


「交代できるほど、演目が揃っていません」


「なら全員が複数の演目を覚えればいい」


 会計係は、それ以上言えなかった。


 カイルの中では、すでにルミエールは成功している。


 大きな建物を手に入れた。


 高い給金で人材を集めた。


 歌も踊りも酒もある。


 紹介者なしで、誰でも入れる。


 Club Moon Dropより多くの客を迎えられる。


 足りないものがあるとすれば、それは時間だけだった。


 だから、すべてを急がせる。


 職人が間に合わないなら人数を増やす。


 出演者の練習が足りないなら時間を延ばす。


 黒服が迷うなら、現場で覚えさせる。


 人を増やせば解決する。


 金を払えば進む。


 そう信じていた。


 夕暮れが近づく。


 入口上の大きな看板へ、金色の文字が取り付けられた。


 ルミエール。


 職人が一文字ずつ固定し、周囲へ灯りを吊るしていく。


 油へ火が入れられると、乳白色の壁と金色の文字が明るく照らされた。


 まだ営業前だというのに、通りを歩く者たちが足を止める。


 看板を見上げる。


 店内から漏れる音楽へ耳を傾ける。


 開いた窓の向こうでは、歌手が声を合わせ、楽器奏者が旋律を繰り返している。


 舞台ではラナたちが、狭い間隔の中で何度も同じ動きを練習していた。


 黒服たちは入口から客席までの案内を繰り返し、酒杯を載せた盆を持って細い通路を歩いている。


 一人が椅子へぶつかる。


 杯が揺れる。


 別の黒服が慌てて盆を支える。


「本番では気をつけろ!」


 ドミニクの声が響いた。


 問題が起きるたび、気をつけろと命じられる。


 だが、椅子と椅子の間は広がらない。


 舞台と客席の距離も変わらない。


 出演者が上り下りする階段も一つのまま。


 搬入口の酒樽は増え続け、裏口へ通じる道を少しずつ狭くしている。


 それでも、正面から見えるルミエールは美しかった。


 明るい壁。


 金色の装飾。


 大きな看板。


 広い舞台。


 揃いの黒服。


 華やかな衣装を着た歌手と踊り手。


 目に映るものだけなら、Club Moon Dropより大きく、豪華で、新しい。


 カイルは二階の窓から、そのすべてを見下ろした。


 少し離れた先には、Club Moon Dropの小さな看板がある。


 営業前のため、まだ入口の灯りは点いていない。


 ルミエールの光と比べれば、存在を見落としそうなほど静かだった。


「これでいい」


 カイルは満足そうに呟いた。


「客は、明るい方へ集まる」


 その言葉を証明するように、通りでは開店日を尋ねる者が増えていた。


 会計係が告知板へ日付を書き加える。


 職人たちへ、作業を急ぐよう声が飛ぶ。


 黒服たちへ、研修時間を延ばすと伝えられる。


 歌手と踊り手には、夜遅くまで練習を続けるよう命じられる。


 ラナは汗を拭いながら、舞台の端を見た。


 客席との距離は、初めに見た時よりさらに狭くなっている。


 舞台正面へ上客用の大きな椅子が置かれたためだった。


「ラナ、もう一度最初からだ」


 演出担当者が呼ぶ。


「はい」


 返事をして、ラナは舞台の中央へ戻る。


 隣に立つ踊り手は、足首を気にしていた。


「痛いの?」


 ラナが小声で尋ねる。


「少しだけです」


「休んだ方がいい」


「休んだら、立つ位置を替えられるかもしれません」


「でも――」


「大丈夫です。開店までに覚えないと」


 少女は笑おうとした。


 ラナはそれ以上言えず、自分の位置へ立った。


 太鼓が鳴る。


 弦が鳴る。


 歌声が重なる。


 看板の光が窓から差し込み、舞台の上を照らす。


 ルミエール。


 光と輝きを意味する名を掲げた店は、開店前から街の視線を集めていた。


 しかし、その光が強くなるほど、客席の隙間に残された狭い通路も、疲労を隠して踊る者の表情も、判断する権限を与えられない黒服の迷いも、外からは見えにくくなっていく。


 カイルは華やかな店内を見渡し、確信していた。


 Club Moon Dropへ勝つ準備は整った。


 あとは扉を開き、客を入れるだけだと。


 けれど、ルミエールの大きな扉の内側では、誰もまだ知らなかった。


 客が一斉に押し寄せた時、どの道を空けるのか。


 舞台で誰かが倒れた時、誰が音楽を止めるのか。


 高額な酒を注文した客が働く者を傷つけた時、誰が店の利益より人を守るのか。


 その答えを持たないまま、開店の日だけが迫っていた。

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