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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第109話 高値で集められる才能

 西通りの古い宴会場に、朝から何台もの荷車が出入りしていた。


 長く閉ざされていた正面扉は大きく開かれ、床には剥がされた板材や古い布が積まれている。


 建物の中からは、金槌を打つ音と木材を削る音が絶えず響いていた。


 二階の窓も開け放たれ、溜まっていた埃が外へ吐き出されている。


 以前は大人数の宴会に使われていた建物だったが、今は新しい店へ生まれ変わるため、急速に姿を変えつつあった。


「正面の壁は、もっと明るい色にしろ」


 広い客席の中央に立ったカイルは、職人へ指示を出した。


「夜でも遠くから目立つようにする。入口には大きな照明を置け。看板も、Club Moon Dropより高い位置へ掲げられるようにしておけ」


 職人の男が、天井近くを見上げる。


「そこまで高くすると、取り付ける支柱を太くする必要があります。風が強い日は揺れますから、壁の補強も――」


「必要な費用は払う。見上げなければ見えないほど高くしろ」


「ですが、建物の古い部分まで負担がかかります」


「問題があるなら補強すればいい。できない理由ではなく、できる方法を考えろ」


 職人は何か言いかけたが、カイルの横に立つ会計係へ視線を向け、口を閉じた。


 資金は十分に用意されている。


 少なくとも、表面上はそう見えた。


 改装費用を出しているのは、ルミナスではほとんど名を知られていない王都の商人だった。


 契約書には宰相府の名も、ヴィットリオの名も書かれていない。


 王都で複数の倉庫と社交店へ出資している商人が、この街の新事業へ将来性を感じ、資金を提供する。


 書面上は、それだけの話だった。


 しかし、実際にその商人を動かした者が誰なのか、カイルは理解している。


 だからこそ、失敗するわけにはいかなかった。


 広い客席。


 二階の控室。


 中央へ作られる舞台。


 大量の酒や食材を直接運び込める搬入口。


 建物だけを見れば、Club Moon Dropよりはるかに大きい。


 カイルは改装中の空間を見渡した。


 職人が床板を剥がし、その下を確かめている。


 別の職人たちは、壁際に並んでいた古い棚を撤去していた。


 客席の中央には、舞台の広さを示す縄が四角く張られている。


 その周囲へ、できる限り多くのテーブルを置く予定だった。


「舞台の正面には、最も高い席を用意する」


 カイルは、同行していた店内設計の担当者へ告げた。


「王都の貴族や大商人が来た時に使う席だ。一般客と同じ椅子では困る」


「ほかの席と段差をつけますか?」


「いや。高い位置から舞台を見る形では、周囲の客に背を向けることになる」


 カイルは少し考え、舞台正面の床を指した。


「椅子とテーブルだけを変えろ。見れば、誰が上客なのか分かるようにする」


「Club Moon Dropでは、客によって席を――」


 担当者が口にした言葉を、カイルは視線だけで止めた。


「ここはClub Moon Dropではない」


「失礼しました」


「同じことをするために、これだけの建物を用意したのではない。あの店に入れない客も、あの店では満足できない客も、すべて受け入れる。その上で、金を使う客には、使っただけの扱いを与える」


 カイルにとって、それは当然の商売だった。


 同じ料金しか払わない客を、同じように扱う。


 多く払った客には、それに見合う席、酒、接客を用意する。


 その違いを誰の目にも分かるように示せば、客はさらに金を使おうとする。


 それが競争を生み、売上を増やす。


 レンが守ろうとしている安心や規則も、客を集める一つの方法にすぎない。


 ならば自分は、より強い欲望を使う。


 特別に扱われたい。


 ほかの客より良い席に座りたい。


 人気のある女性を自分だけのために呼びたい。


 周囲から金を持つ者として見られたい。


 人が持つその欲を、カイルは誰より理解しているつもりだった。


「それで、募集の準備はどうなっている?」


 カイルが尋ねると、会計係が手元の書類を開いた。


「今日から受付を始めます。酒場、宿、劇団、演奏所、貴族家、大商家へ募集を出しました」


「給金は?」


「ルミナスの同種の仕事より、三割から五割ほど高く設定しています。経験者にはさらに上乗せします」


「それでいい」


 カイルは即答した。


 人材は信用ではなく、条件で動く。


 Club Moon Dropの者たちがレンを信じているのなら、それを崩すのは簡単ではない。


 だが、街にいる才能のすべてがレンと出会っているわけではない。


 歌える者。


 踊れる者。


 楽器を扱える者。


 客の機嫌を取り、酒を勧め、会話を盛り上げられる者。


 そうした者たちへ高い給金と大きな舞台を示せば、自然と集まってくる。


 Club Moon Dropが時間をかけて一人ずつ育てている間に、自分は完成した人材を金で揃える。


 規模の違いを見せつけるには、それが最も早い。


「ただし、給金を高くする分、求める仕事も多いと明記しておけ」


 カイルは続けた。


「歌だけ、踊りだけ、会話だけでは困る。客を集め、酒を売り、店の利益へ貢献できる者を評価する」


「募集の段階で、そこまで書きますか?」


「当然だ。高い給金だけを見て、役に立たない者が集まっても意味がない」


 会計係は頷き、書類へ書き加えた。


 その日の昼前。


 改装中の建物の入口へ、応募者を受け付ける机が置かれた。


 正式な店名は、まだ決まっていない。


 看板もない。


 それでも、高い給金で新しい社交店が人を集めているという噂は、すでにルミナスの各所へ広がっていた。


 最初に現れたのは、四十代半ばの太った男だった。


 名をドミニクという。


 かつて東通りで大きな酒場を経営していたが、共同経営者との揉め事によって店を手放していた。


 十年以上、大人数の客を扱ってきた経験がある。


「一晩で百人近く入れたこともあります」


 ドミニクは胸を張った。


「祭りの夜などは、客席だけでは足りません。立ったまま飲ませ、外にも樽を出しました。酒が切れそうになれば、水で薄めてでも数を保たせる。酔客同士が喧嘩を始めれば、力のある給仕を三人向かわせる。大きな店は、多少の騒ぎを恐れていては回せません」


 応募を受けていたカイルは、興味深そうに話を聞いた。


「満席の時、さらに客が来たらどうする?」


「詰めます。椅子を減らし、立たせれば入ります。客を帰すのは、金を道へ捨てるのと同じですから」


「なるほど」


 カイルは満足そうに頷いた。


 客を断らない。


 空いている場所へ詰め込む。


 店の大きさを最大限に利益へ変える。


 レンとは正反対の考え方だった。


「採用だ。客席全体の管理を任せる」


「ありがとうございます」


「ただし、酒を薄める必要はない。ここでは安酒だけでなく、高級酒も扱う。客に気づかれるような真似をすれば、店の評判に関わる」


「もちろんです。以前は仕入れが足りなかっただけで、在庫さえあれば、そのようなことはいたしません」


 ドミニクは何度も頭を下げた。


 次に訪れたのは、背筋を伸ばした五十歳ほどの男だった。


 衣服は質素だったが、立ち姿には長く礼儀作法を身につけてきた者特有の隙のなさがある。


 名はエドガー。


 以前は貴族家へ仕え、来客の案内や会食の準備を担っていた元執事だった。


「なぜ屋敷を離れた?」


 カイルが尋ねる。


「仕えていた家の当主が代替わりし、使用人の多くが入れ替えられました」


「問題を起こしたわけではないのだな?」


「はい。紹介状もございます」


 差し出された書面を、カイルは会計係へ渡した。


「身分の高い客が来た場合、どのように対応する?」


「事前に家名と爵位を確認し、入口から席までの動線を整えます。ほかの客と不用意に接触しないよう配慮し、希望される酒や料理を先に把握します」


「平民客と席が近い場合は?」


「貴族の方が不快に感じられるようであれば、席を移していただくべきかと」


「平民の方をか?」


 エドガーは一瞬だけ迷った。


「状況によりますが、身分の高い方へ移動をお願いするよりは、その方が問題は少ないでしょう」


 カイルは口元を緩めた。


「よく分かっている」


 Club Moon Dropでは、先約があれば貴族であっても後から来た者を優先しない。


 カイルには、それが商売として不自然に思えてならなかった。


 影響力のある客。


 多額の金を使う客。


 店の評判を上げられる客。


 そうした者を優先するのは、差別ではない。


 利益を守るための合理的な判断だ。


「採用する。入口と上客の案内を任せたい」


「承知いたしました」


「服装はこちらで用意する。ほかの案内係にも、礼儀を教えろ」


 エドガーが去った後も、応募者は途切れなかった。


 旅芸人の一座を離れた歌手。


 宿屋で長く給仕をしていた女性。


 小さな酒場で楽器を演奏していた老人。


 商人の宴会へ呼ばれ、即興で笑い話を披露してきた男。


 踊りを学んだ若い女性。


 客の顔と注文を覚えることを得意とする元給仕。


 カイルは一人ずつ経歴を確認した。


 歌が上手いだけでは足りない。


 客を何人呼べるのか。


 踊れるだけでは足りない。


 舞台を見た客へ酒を注文させられるのか。


 会話が得意なだけでは足りない。


 客が持つ金を、どれだけ店へ使わせられるのか。


 応募者の中には、質問の意味へ戸惑う者もいた。


「歌を聴いていただければ、それで……」


 若い歌手が不安そうに答える。


「それでは店の利益にならない」


 カイルは冷静に告げた。


「客が歌を気に入り、もう一度聞きたいと思う。ならば、次の曲まで席へ残ってもらい、その間に酒を注文してもらう必要がある。お前の歌へ、そこまでの力があるかを聞いている」


 歌手は唇を結んだ。


「努力します」


「努力ではなく、結果で評価する。ただし結果を出せば、これまでの倍近い給金を得ることもできる」


 その言葉を聞き、歌手の目に再び希望が戻った。


 高い給金。


 広い舞台。


 多くの客。


 名前を知られる機会。


 それらは、これまで小さな場所で働いてきた者にとって魅力的だった。


 一方で、契約書には細かな条件が並んでいた。


 指示された演目へ出演すること。


 必要に応じて客席で接客を行うこと。


 店が指定した酒を勧めること。


 客から得た情報を営業後に報告すること。


 店の評判を損なう発言を外部で行わないこと。


 カイルは、それを特別に厳しい条件だとは考えていなかった。


 高い給金を払うのだから、その分だけ店へ従うのは当然だ。


 夕方が近づいた頃、受付の前に一人の少女が立った。


 年齢は、二十歳前後に見える。


 軽く波打つ赤褐色の髪。


 細身だが、腰や脚には鍛えられたしなやかさがあった。


 頭には三角形の猫耳があり、腰の後ろから伸びた尾が、緊張を隠しきれないようにゆっくりと揺れている。


 周囲の応募者たちが、僅かに視線を向けた。


 少女はそれに気づいていたが、顔を伏せることなく受付の前へ進んだ。


「踊り手の募集を見て来ました」


「名前は?」


 受付係が尋ねる。


「ラナです」


「姓は?」


「ありません」


 受付係は一瞬だけ手を止めた。


 家名を持たない者は珍しくない。


 だが、獣人であることと重なると、その経歴を低く見る者も多い。


「踊りの経験は?」


「十二歳の頃から、一座で踊っていました。街の祭りや、商人の宴会、貴族の祝いへ呼ばれたこともあります」


「一座を辞めた理由は?」


 ラナの尾が僅かに下がった。


「給金のことで、座長と話が合いませんでした」


「詳しく話せるか?」


「同じ舞台へ立っても、私はほかの踊り手の半分しか受け取れませんでした」


「技術に差があったのでは?」


 受付係が問うと、ラナの猫耳がわずかに伏せた。


 しかし、声は崩さなかった。


「座長からは、獣人を舞台へ出してやっているだけでも感謝しろと言われました。客は私の踊りではなく、獣人が踊る珍しさを見に来るのだと」


 そのやり取りを近くで聞いていたカイルが、ラナへ視線を向けた。


「実際に、客は集まったのか?」


 突然話しかけられ、ラナはカイルを見る。


「……はい」


「お前が舞台へ出る日は、ほかの日より多かった?」


「多いこともありました」


「ならば、座長の言葉にも一部は事実がある」


 ラナの表情が固くなる。


「だが、客を集められる者へ低い給金しか払わないのは、経営者として間違っている」


 カイルはそう続けた。


 ラナの耳が僅かに上がる。


「客が何を見に来たかは関係ない。お前が舞台へ立つことで客が増え、金を使った。それなら、その利益に応じた給金を受け取るべきだ」


「私の踊りを見ていなくても、ですか?」


「見ているかどうかを決めるのは客だ。技術を評価する者もいれば、珍しさを求める者もいる。店は、そのどちらからも金を得る」


 カイルの言葉は、ラナが求めていたものと少し違っていた。


 彼女は、獣人だからではなく、踊り手として見てほしかった。


 だが同時に、働いた分に見合う給金を受け取りたいという気持ちも本物だった。


「踊ってみろ」


 カイルは、改装中の客席中央を示した。


「ここで、ですか?」


「舞台はまだないが、広さは十分だ。音楽が必要なら、演奏者に頼む」


 応募に来ていた楽器奏者の一人が、小型の太鼓を持ち上げた。


 ラナは床へ置かれた木材や道具へ目を向ける。


「危なくありませんか?」


「空いている場所を使えばいい」


 カイルが答えるより先に、職人の一人が口を挟んだ。


「待ってください。床板を外している場所があります。印の縄より奥へは行かない方が――」


「ならば、縄の内側だけで踊ればいい」


 カイルは告げた。


 ラナは数秒迷った後、荷物を壁際へ置いた。


 履いていた外靴を脱ぎ、薄い踊り靴へ履き替える。


 両足で床を確かめ、踏み込んだ時に板が沈まないか確認した。


 その慎重な動きを、カイルは技術ではなく緊張だと受け取った。


 太鼓の音が鳴り始める。


 最初は、低く一定の響きだった。


 ラナは両腕をゆっくりと広げた。


 赤褐色の髪が揺れる。


 足先が床を滑るように動き、身体が音に沿って回転する。


 猫系獣人らしい柔軟さはあった。


 だが、それだけではない。


 止まるべきところで身体を静止させる力。


 次の動きへ移る直前まで視線を残す間。


 大きく跳ばなくても、腕と尾の動きだけで空間を広く見せる技術。


 太鼓の速さが増すと、ラナの動きも変わった。


 足を細かく踏み替え、床を蹴る。


 一度だけ高く跳び、着地と同時に身体を低く沈めた。


 周囲で作業していた職人たちも、いつの間にか手を止めていた。


 受付の前に並んでいた応募者も、ラナを見ている。


 太鼓の音が途切れる。


 ラナは片膝を床へつき、伸ばした片腕の先へ視線を向けたまま動きを止めた。


 数秒の静寂。


 その後、誰かが手を叩いた。


 ほかの者も続く。


 ラナは立ち上がり、少しだけ息を弾ませながら頭を下げた。


 カイルは拍手をしなかった。


 だが、目の前の少女が客を集められることは理解した。


「採用する」


「ありがとうございます」


「給金は、以前の一座で受け取っていた額の三倍を出す」


 ラナが顔を上げる。


「三倍……?」


「ただし、店が指定する日は必ず舞台へ出ろ。客席へ出て酒を勧めてもらうこともある」


「私は、接客はほとんどしたことがありません」


「覚えればいい。踊りを見た客は、お前から酒を勧められれば断りにくい」


 ラナの尾が止まった。


「踊りだけでは、駄目でしょうか」


「高い給金を受け取りたいのなら、それに見合う働きが必要だ」


 先ほどまで浮かんでいた喜びが、ラナの表情から僅かに薄れる。


 それでも彼女は、契約書へ目を落とした。


 以前の一座へ戻るつもりはない。


 ほかの場所で働いても、獣人であることを理由に同じような扱いを受ける可能性は高い。


 ここなら、少なくとも給金は支払われる。


 広い舞台にも立てる。


「分かりました」


 ラナは答えた。


「必要なことは覚えます。ただ、舞台について意見を伝えてもよいでしょうか」


「内容による」


「踊る人数と広さです。床が狭い場所へ大勢を上げると、足がぶつかります。衣装が長い場合は、さらに間隔が必要です」


「舞台の設計は、こちらで決める」


 カイルは即座に返した。


「まだ何人が踊るかも決まっていない。必要になれば考える」


「はい」


 ラナはそれ以上言わず、契約書を受け取った。


 だが、客席中央に張られた縄を見た時、猫耳が僅かに伏せた。


 舞台として示された場所は広い。


 けれど、その周囲へ多くの客席を置く計画なら、出演者が出入りする場所はどこになるのか。


 楽器奏者はどこへ座るのか。


 舞台袖へ戻る道へ、酒を運ぶ給仕が重ならないのか。


 ラナには分からなかった。


 ただ、聞いても今は必要ないと言われることだけは分かっていた。


 日が傾く頃には、採用者の名簿はかなりの厚さになっていた。


 カイルはドミニクとエドガーを呼び、改装中の客席を歩かせた。


「ドミニク。客席全体の責任者として、給仕と案内係をまとめろ」


「承知しました」


「エドガーは入口と上客対応だ。王都式の礼儀を、ほかの者へ教えろ」


「かしこまりました」


 カイルは二人を並べて見た。


 ドミニクは以前、大きな酒場を回していた。


 エドガーは貴族家で来客を扱っていた。


 異なる経験を持つ二人を組み合わせれば、大人数の客と高い身分の者、その両方へ対応できる。


「服は全員、揃える」


 カイルは告げた。


「黒を基調とした服だ。客席に立った時、誰が店の者か一目で分かるようにする」


「黒ですか」


 ドミニクが自分の腹を見下ろした。


「酒場の給仕には、少し堅すぎませんか?」


「新しい店だ。これまでの酒場と同じ服にする必要はない」


 カイルの頭には、Club Moon Dropで見たロイやディーノの姿があった。


 揃いの黒い服。


 入口と客席を行き来し、必要な場所へ立つ男たち。


 客から見ても、キャストから見ても、誰へ頼ればよいかが分かりやすい。


 その仕組み自体は悪くない。


 ならば、使えばいい。


「その服を着る者たちは、何と呼ぶのでしょう」


 エドガーが尋ねた。


「案内係と給仕では、担当が異なります。呼び名が分かれていた方が、指示を出しやすいかと」


 カイルは少し考えた。


 Club Moon Dropで、レンが彼らを何と呼んでいたか。


 答えはすぐに浮かんだ。


「黒服だ」


「黒服……ですか?」


「揃いの黒い服を着て働く。分かりやすいだろう」


「役職名というより、そのままですね」


 ドミニクが笑う。


「客に覚えられれば、それでいい。受付、案内、酒や料理の配膳、問題客への対応。必要な仕事はすべて黒服へさせる」


 エドガーが静かに尋ねた。


「問題客への対応は、どこまで認められますか?」


「店の利益を損なわない範囲だ」


「身分の高い方や、多額の金を使われる方が、女性へ無理な要求をした場合は?」


 カイルはエドガーを見る。


「まずは穏便に収めろ。担当を替える。別の酒を勧める。周囲の客へ見えない場所で話す。客を怒らせずに済む方法はいくらでもある」


「それでも収まらない場合は?」


「その時に考えればいい」


 エドガーは一礼した。


「承知いたしました」


 しかし、その返事には僅かな迷いがあった。


 貴族家で長く働いてきた彼は、命令へ従うことに慣れている。


 同時に、身分の高い客を怒らせた時に何が起きるかも知っていた。


 店の規則より客の立場が上に置かれるなら、黒い服を着せられても、自分たちに客を止める権限はない。


 それでもエドガーは、何も言わなかった。


 店を失ったドミニクも。


 働く場を求めて集まった給仕たちも。


 以前より高い給金を提示された歌手や踊り手たちも。


 条件に疑問があっても、採用される前から経営者へ逆らう者はいなかった。


 カイルは、名簿をめくった。


 歌手十二名。


 踊り手九名。


 楽器奏者七名。


 会話を得意とする女性十五名。


 給仕と案内係、合わせて二十名以上。


 さらに募集は続いている。


 Club Moon Dropの従業員数を、すでに大きく上回っていた。


「足りないな」


 カイルが呟く。


 会計係が驚いて顔を上げる。


「まだ増やすのですか?」


「当然だ。この建物を満席にするなら、これでは足りない」


「給金だけでも、かなりの額になります」


「開店直後に客を待たせれば、二度目はない。最初から圧倒する必要がある」


 カイルは採用者名簿を閉じ、改装中の広い客席を見渡した。


 Club Moon Dropは、四つの卓を丁寧に回している。


 一人ずつ客を見て、紹介者を確認し、規則を説明し、入店できる者まで選んでいる。


 その慎重さが信用を作ったことを、カイルも認めていた。


 だが、その方法では一晩に迎えられる客の数に限界がある。


 こちらは違う。


 入口を広く開く。


 金を払える者なら誰でも入れる。


 歌と踊りで客を集める。


 高級酒を並べる。


 人気のある者を競わせる。


 大人数の黒服が店内を動く。


 紹介制という狭い扉の向こうで、レンが少しずつ客を増やしている間に、自分は一夜で街の話題を奪う。


 それができれば、Club Moon Dropへ入ることに価値を感じていた者たちも、より華やかな場所へ流れてくる。


「募集の掲示を増やせ」


 カイルは命じた。


「王都から来る旅芸人にも声をかけろ。商人の宴会で評判の者がいれば、今の倍を出してでも連れてこい」


「Club Moon Dropで働く者にも、声をかけますか?」


 会計係が小声で尋ねた。


 カイルは、一瞬だけ黙った。


 リリア。


 エルナ。


 セレナ。


 ミーナ。


 彼女たちを引き抜ければ、レンへ大きな打撃を与えられる。


 特にリリアは、すでに多くの客から希望されている。


 だが、今すぐ正面から条件を出しても応じない可能性が高い。


 レンとの関係を金だけで崩せないことは、これまでの調査から分かっていた。


「今は必要ない」


 カイルは答えた。


「まずは、あの店にいない才能だけで、あの店を上回る」


「承知しました」


「それでも客が動かなければ、その時は別の方法を使う」


 会計係が頭を下げる。


 カイルは二階へ続く階段を上がった。


 二階の窓からは、西通りの建物が見渡せる。


 屋根の向こう、少し離れた場所にClub Moon Dropの看板があった。


 この建物の方が高い。


 窓の位置も上だ。


 客席の広さも、雇う人数も、用意できる酒の量も上回っている。


 小さな店の明かりを見下ろしながら、カイルは胸の奥へ満足感が広がるのを感じた。


 レンは仕組みを作ることに長けている。


 人を信じさせ、店の規則へ従わせ、客同士にまで空気を守らせる。


 だが、商売の勝敗を決めるのは、最後には規模と金だ。


 どれほど丁寧な接客をしても、席がなければ客は入れない。


 どれほど信頼を積み重ねても、より華やかで、より大きく、より多くの者を受け入れる店ができれば、客はそちらへ目を向ける。


「ようやく、お前の先へ行ける」


 カイルは、誰にも聞こえない声で呟いた。


 その背後では、採用された者たちへ黒い制服の採寸が始まっていた。


 入口を守る者。


 客席を見回る者。


 酒を運ぶ者。


 問題が起きた時に動く者。


 同じ黒い服を着せられ、同じ名で呼ばれる。


 けれど、彼らが最初に教えられたのは、客と働く者の安全を守る方法ではなかった。


 どの客へ頭を下げるべきか。


 誰へ高い酒を勧めるべきか。


 満席でも、あと何人入れられるか。


 客を怒らせず、どれだけ長く席へ留められるか。


 カイルが真似たのは、黒服という名前と外見だけだった。


 その服を着る者が、何のために店内へ立つのか。


 誰を守るために、時には客へ背を向けなければならないのか。


 その意味を、まだ誰も教えられてはいなかった。

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