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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第108話 Club Moon Dropを見下ろす建物

 翌日の午前。


 カイル・バルドンは、約束の時刻よりわずかに早く、西通りの入口へ到着した。


 空は薄い雲に覆われている。


 陽射しは弱いが、雨が降る気配はなかった。


 荷車を引く商人。


 店先を掃く職人。


 市場で仕入れた品を抱え、足早に通りを進む者。


 昼の営業へ向けて、街が少しずつ動き始めている。


 Club Moon Dropの開店までは、まだ時間があった。


 正面の扉は閉じている。


 それでも厨房側の煙突からは細い煙が上がっていた。


 中では、すでに仕込みが始まっているのだろう。


 カイルは通りの向かい側から、その建物を眺めた。


 Club Moon Dropは大きな店ではない。


 正面から見れば、周囲の商店より少し手入れが行き届いている程度だ。


 客席数は限られている。


 紹介者がいなければ入れない。


 正式会員として認められるまでには、店から人柄や振る舞いを見られる期間もある。


 それでも、店の前を通る者の中には、無意識に扉へ視線を向ける者がいた。


 店内を知っている者。


 いつか利用してみたい者。


 紹介してくれる相手を探している者。


 閉ざされた扉そのものが、店への関心を高めている。


 カイルは以前、それを客を選ぶ傲慢な仕組みだと考えていた。


 今も好ましいとは思わない。


 しかし、商売の仕組みとしての強さは認めていた。


 簡単には入れないからこそ、入りたい者が生まれる。


 正式会員が次の客を連れてくるため、多額の宣伝費を使わずとも新しい客が訪れる。


 紹介者との関係を確認することで、店内の秩序も守りやすい。


 Club Moon Dropの紹介制は、単に入口を狭くしているのではない。


 客を増やす仕組みと、客を見極める仕組みを一つにしている。


 簡単に真似できる制度ではなかった。


 だからこそ、真似る必要はない。


 Club Moon Dropが迎えない者へ、別の価値を示せばよい。


「お待たせいたしました」


 背後から声が聞こえた。


 振り返ると、エドガルド・サヴィーニが二人の男を伴って歩いてくる。


 一人は書類鞄を抱えた若い商人。


 もう一人は、腰に工具袋を下げた白髪交じりの男だった。


「約束の時刻より前です」


 カイルは答えた。


「待ってはいません」


「ご紹介いたします」


 エドガルドは、書類鞄を持つ男へ手を向ける。


「王都商人ヘルマン・グリッティの代理人、ニコラ・ベルティです」


「本日の物件について、所有者との連絡を担当しています」


「ニコラ・ベルティと申します」


 男は丁寧に頭を下げた。


「所有者本人は来ないのですか」


「王都を離れられません」


「ルミナスにある所有物件については、私へ管理を任されています」


 続いて、工具袋を下げた男が前へ出た。


「建物の状態を確認する職人、オットーです」


「大工と石工の仕事を長くやっております」


「改装費まで考えるなら、必要でしょう」


 カイルは二人を順に見た。


 所有者の代理人。


 建物を確認する職人。


 契約へ必要となる書類。


 物件を見せるだけの準備ではない。


 今日のうちに、改装の可否と購入条件まで検討させるつもりなのだ。


「ずいぶん手回しがよいですね」


「候補を見せる以上、借りられるかも分からない建物では意味がありません」


 エドガルドは穏やかに答えた。


「気に入らなければ、断っていただいて構いません」


「ほかにも候補はあるのですか」


「ございます」


「ただし、これほど今回の構想へ合う建物は多くありません」


 エドガルドは西通りの奥へ視線を向けた。


「参りましょう」


 四人はClub Moon Dropの前を通り過ぎた。


 カイルは歩きながら、正面の扉へ目を向けなかった。


 わざわざ見比べていると思われたくはない。


 だが、目的の建物は遠くなかった。


 Club Moon Dropから通りを進み、二つの細い路地を越えた先。


 西通りがわずかに広がる場所に、その建物はあった。


 周囲の商店より、明らかに大きい。


 二階建ての横長の建物。


 正面には、かつて三か所の入口があったらしい。


 中央の扉だけが残され、左右は古い木板で塞がれていた。


 上部には、取り外された大きな看板の跡がある。


 壁は汚れている。


 窓も曇り、いくつかは内側から板が打ち付けられていた。


 だが、外壁に大きな傾きはない。


 屋根も、遠目には崩れていなかった。


「以前は宴会場だったと聞いています」


 カイルが言った。


「はい」


 ニコラが答える。


「商人の集会、結婚祝い、冒険者団の祝勝会、貴族家の従者を集めた宴席などに使われていました」


「閉店した理由は?」


「前の経営者が、別の街で大きな宿を始めたためです」


「こちらは雇われ支配人へ任せましたが、売上の一部を抜いていたことが判明しました」


「支配人を解雇したあと、再開を引き受ける者が見つからず、現在まで使われていません」


「建物に問題があったわけではないと?」


「全くないとは申しません」


 ニコラは言葉を濁さなかった。


「長く使われていない建物です」


「屋根、床、水回り、厨房設備は確認が必要です」


「そのために職人を連れてきたのですね」


「隠して契約すれば、あとで問題になりますから」


 カイルは建物を見上げた。


 二階の窓が横一列に並んでいる。


 控室として使えるなら、接客係や出演者を客席から離して休ませられる。


 正面の間口も広い。


 三つの入口を再び使えるなら、人の流れを分けられる。


 Club Moon Dropの入口は一つだ。


 紹介者と初来店客を丁寧に確認するには適している。


 しかし、大勢を短時間で迎えるには向いていない。


 この建物なら違う。


 一つを入店用。


 一つを退店用。


 残る一つを、混雑時の補助や高額席の客へ使うこともできる。


「中を見せてください」


「どうぞ」


 ニコラが鍵を取り出した。


 錠前は新しい。


 長く使われていない建物へ取り付けられているものとしては不自然だった。


「鍵は交換したのですか」


「以前の支配人が複製を持っている可能性がありましたので」


「正しい判断です」


 扉が開かれる。


 重い木が軋む音が響いた。


 中から、長く閉じられていた建物特有の乾いた匂いが流れてくる。


 埃。


 古い木。


 布。


 そして、わずかな酒の匂い。


 以前ここで大勢が飲み、料理を食べ、騒いでいた痕跡が、匂いだけになって残っている。


 カイルは中へ入った。


 正面には、小さな受付用の空間がある。


 その先へ進むと、想像以上に広い客席が現れた。


 天井が高い。


 中央には柱が少ない。


 壁際には古い長卓と椅子が積まれているが、それらを取り除けば、入口から奥まで見渡せる。


 Club Moon Dropの何倍もの客を入れられる広さだった。


 二階の一部は一階客席の上へ張り出し、吹き抜けを囲む形になっている。


「二階から一階が見えるのか」


 カイルは呟いた。


「以前は上客用の席でした」


 ニコラが説明する。


「一階の宴席を見下ろしながら、別の料理や酒を楽しめます」


 カイルは二階の欄干を見上げた。


 二階へ高額客用の席を作る。


 一階は一般客。


 舞台を奥へ置けば、二階席からも見える。


 高い金を払った客へ、ほかの客を押しのける権利を与える必要はない。


 だが、より良い位置から舞台を見られる席なら、明確な価値になる。


「二階へ上がりましょう」


 階段は客席の左右に一つずつ設けられていた。


 カイルは右側の階段へ足をかける。


 踏み板が低く軋んだ。


「端を歩いてください」


 オットーがすぐに声をかける。


「中央の板が弱っています」


 カイルは足を止めた。


「使えないのですか」


「板を替えれば使えます」


「下の骨組みは、見える範囲では腐っていません」


「見える範囲では?」


「床板を外さなければ、すべては確認できません」


 カイルは壁際へ足を寄せ、慎重に階段を上がった。


 二階には廊下があり、その両側へ複数の部屋が並んでいる。


 上客用の個室。


 料理を一時的に置く配膳室。


 従業員の控室。


 食器や布を保管していた倉庫。


 カイルは廊下の奥にある一室へ入った。


 ほかより少し広い。


 一階の客席側と、通り側の両方に窓がある。


 通り側の窓を開けると、冷たい空気が入り込んだ。


 埃が舞う。


 カイルは目を細めながら外を見た。


 西通りの屋根が並んでいる。


 少し離れた先には、Club Moon Dropの看板が見えた。


 正面からではない。


 斜め上から、建物の全体を見下ろせる位置だった。


「なるほど」


 カイルは低く呟いた。


「何かございましたか」


 エドガルドが尋ねる。


「いえ」


 カイルは窓辺から離れた。


 建物の高さで、店の価値が決まるわけではない。


 バルドの言葉が頭をよぎる。


 広い建物を満席にするだけなら、一度はできる。


 理解している。


 それでも、二階の窓から見たClub Moon Dropは小さかった。


 あの店の客席数。


 厨房の広さ。


 正面入口。


 通りへ向いた看板。


 すべてが、この建物より小さい。


 自分の店が開けば、この窓からClub Moon Dropの客の出入りまで見える。


 紹介者を伴わず、あの店へ入れなかった者。


 予約を断られた者。


 静かな会話では満足できなかった者。


 その者たちが、こちらへ向かう姿を見ることもできる。


「この部屋は使えます」


 カイルが言った。


「上客用の個室ですか」


 ニコラが尋ねる。


「違います」


 カイルは部屋を見回した。


「経営と記録を管理する部屋にする」


「客席から離れています」


「金や帳簿を置くなら、入口近くより安全です」


「顧客帳も?」


 エドガルドが何気ない口調で尋ねた。


「何を残すかは、まだ決めていません」


 カイルは窓へ背を向けた。


「置くとしても、閲覧できる者は限ります」


 一階側の窓からは、店内全体を見下ろせる。


 入口に並ぶ者。


 舞台前の混雑。


 酒を運ぶ者。


 接客係の動き。


 客席で起きる小さな問題。


 経営者が店全体を確認する部屋としては適している。


 その反対側の窓には、Club Moon Dropが映る。


 自分の店の内側と、競争相手の外側。


 どちらも上から見渡せる部屋だった。


 カイルは、そのことに奇妙な満足を覚えた。


 ◇◇◇


 一階へ戻った一行は、客席の奥へ進んだ。


 以前は料理を並べる大卓が置かれていた場所に、低い段差がある。


「ここが舞台ですか」


 カイルが尋ねる。


「宴会の余興へ使われていました」


 ニコラが答えた。


「演奏家や踊り手を複数並べるには狭いですね」


「広げることはできます」


 オットーが壁と床を順に確かめる。


「奥の仕切り壁は、建物全体を支える主な壁ではありません」


「撤去できれば、今の倍近い広さになります」


「壁の向こうは?」


「倉庫です」


 ニコラが扉を開ける。


 中には壊れた酒樽と、古い布が残されていた。


 奥行きは十分にある。


 舞台へ取り込めば、歌い手、踊り手、演奏家を同時に立たせられる。


 左右に舞台袖も作れる。


「天井から装飾を吊せますか」


 カイルが尋ねた。


 オットーが梁を見上げる。


「詳しく調べる必要があります」


「軽い布や小さな灯りなら可能でしょう」


「重い装飾は勧めません」


「支柱を増やせば?」


「支えられますが、客席から舞台を見る邪魔になります」


 カイルは舞台前に立ち、客席を振り返った。


 奥まで視線が通る。


 柱が少ないことは大きな強みだ。


 ただし舞台を広げれば、最前列との距離が近くなる。


 卓を詰めれば、より多くの客を入れられる。


 同時に、舞台前と通路が狭くなる。


「舞台前には卓を置かない」


 カイルが言った。


「広く空けるのですか」


 ニコラが尋ねる。


「演目によっては、客が立ち上がる」


「酒を持ったまま舞台へ近づく者も出るでしょう」


「立たせなければよいのでは?」


「黒服が止めきれない数を入れれば、規則だけでは止まりません」


 カイルは床へ視線を落とした。


「舞台前には卓一列分の空間を残す」


「左右にも人が通れる幅を確保する」


「それでは客席数が減ります」


「最初から限界まで入れるつもりはありません」


 昨日、会館で模型を見た時と同じ判断だった。


「この広さなら、最初は五十人程度です」


「人材が揃い、動きを確認してから使用する範囲を広げる」


「八十人以上入れられる建物へ、五十人だけですか」


「空席が目立てば、人気がない店だと思われるかもしれません」


「すべての空間へ卓を置かなければよい」


 カイルは即座に答えた。


「使わない部分は衝立や装飾で区切る」


「客が少ないうちは、熱気が集まる範囲だけを開ける」


「実際に客が増えた時、順に広げればよい」


 エドガルドが小さく笑った。


「商売を知っておられる」


「当然です」


 カイルは客席の中央を歩いた。


「広い建物を持つことと、広さのすべてを客へ見せることは違います」


「客が少ないうちは、満たせる範囲だけを使う」


「満席に見える場所を作れば、賑わいも生まれる」


 入口から客席。


 客席から舞台。


 舞台から二階席。


 カイルの中で、人の流れが組み上がっていく。


 安全な広さを守る。


 客数は段階的に増やす。


 出演者を交代させる人数も確保する。


 失敗した店の資料で見た問題を、自分は理解している。


 少なくとも、今のカイルは、その判断を守るつもりだった。


 客が増えた時にも同じ判断を続けられるかではなく、危険を理解している自分なら失敗しないと考えていた。


 その自信が、判断を鈍らせる可能性までは考えていなかった。


 ◇◇◇


 客席の奥には、大きな厨房があった。


 Club Moon Dropの厨房より、はるかに広い。


 調理台が三つ。


 大鍋を置ける炉。


 壁際には食器棚。


 厨房の奥からは、裏口へ続く通路も延びている。


 ただし、長く使われていないため、炉には煤が固まり、水桶にはひびが入っていた。


 オットーが壁へ手を当てる。


「煙突は掃除が必要です」


「炉は二つ使えますが、一つは作り直した方がよいでしょう」


「水は?」


「井戸から引く仕組みが残っています」


「詰まりと管の傷みを確認します」


「大人数へ料理を出せるか」


「料理の内容によります」


 カイルは厨房を見回した。


「注文ごとに別の料理を作るなら、多くの料理人が必要になります」


 オットーが答える。


「宴会場だった頃は、大鍋料理や焼いた肉をまとめて提供していました」


「ならば、料理は絞る」


 カイルはすぐに判断した。


「酒と舞台が中心です」


「温め直せる煮込み」


「切り分けて出せる肉」


「保存の利く菓子」


「高額席だけ、別の料理を用意する」


 一皿ごとの完成度を追えば、舞台の始まる前後に集中する注文へ対応できない。


 誰が作っても大きく味が変わらず、同じ量を短時間で出せる料理へ絞る必要がある。


「厨房責任者が必要です」


 カイルは言った。


「料理を作れるだけでは足りない」


「予約と予想客数から、仕込み量を決められる者」


「余れば損失になる」


「足りなければ注文を逃す」


「金獅子亭から料理を仕入れることは?」


 エドガルドが尋ねる。


「無理でしょう」


 カイルは即答した。


「マルクは受けません」


「条件を上げても?」


「金の問題ではない」


「レンとの関係を切って、こちらへ料理を出す人物ではありません」


「ずいぶん高く評価しておられる」


「相手を低く見積もれば、商売で負けます」


 カイルは厨房の裏口へ進んだ。


 扉を開ける。


 建物の裏手には、大きな搬入口があった。


 二台の荷車を並べても、まだ人が通れる。


 酒樽。


 食材。


 衣装。


 舞台装飾。


 客の目に触れず、まとめて運び込める。


「ここは使えます」


 カイルが言った。


「通り側を塞がずに納品できる」


「酒樽の保管場所は?」


 ニコラが奥の部屋を示す。


 扉を開ける。


 内部は暗い。


 壁沿いへ古い棚が並び、床には樽を置いた丸い跡が残っている。


「地下はないのですか」


「ありません」


「夏場は酒が傷みます」


「北側の部屋ですので、客席よりは涼しいです」


 オットーが答えた。


「壁を厚くし、窓を塞げば温度は上がりにくくなります」


「氷を保管する場所も作れます」


「氷は高い」


「Club Moon Dropには冷たい酒があります」


 エドガルドが言った。


「対抗するなら、必要ではありませんか」


 カイルはすぐには答えなかった。


 レンの店では、冷たい酒を安定して出している。


 同じことを普通の方法で行えば、大量の氷を買い続けなければならない。


 客が多いほど費用は膨らむ。


「すべてを冷やす必要はありません」


 カイルは考えをまとめた。


「高級酒と、一部の果実酒だけにする」


「冷たい酒を特別な商品にすれば、氷の費用も価格へ乗せられる」


「一般客には常温の酒を出すのですか」


「客は、冷たさだけで店を選ぶわけではない」


「こちらには舞台がある」


「大勢で楽しむ客席がある」


「Club Moon Dropと同じ価値を、同じ方法で出す必要はありません」


 すべての部分で上回る必要はない。


 酒の冷たさでは負けてもよい。


 静かな会話でも敵わない。


 その代わり、広さ。


 舞台。


 高級酒。


 大勢が一度に集まる熱気。


 金によって客自身が選べる仕組み。


 異なる価値を組み合わせればよい。


 ◇◇◇


 建物の確認を終える頃には、昼を過ぎていた。


 一行は一階客席の中央へ戻った。


 埃の積もった古い卓を囲む。


 ニコラが書類鞄から、物件の概要と購入条件を記した書類を取り出した。


「所有者は、売却を希望しています」


「賃貸ではないのですか」


 カイルが尋ねる。


「長く使うのであれば、購入した方が改装しやすいでしょう」


「所有者も、再びこの建物を管理するつもりはありません」


 カイルは提示された金額へ目を落とした。


 そのまま数度読み返し、目を細める。


「高い」


「建物の広さと立地を考えれば、適正です」


「長く使われていない」


「改装費も必要になる」


「その分は考慮されています」


「十分ではありません」


 カイルは書類を卓へ置いた。


「屋根の状態は未確認」


「階段と床板には交換が必要」


「炉も一つ作り直す」


「酒の保管室も改装しなければならない」


「正面の入口は三か所ありますが、二か所は板で塞がれたままです」


「舞台を広げるなら壁も撤去する」


「改装後の価値で買うつもりはありません」


「現状の価値で買います」


「では、いくらなら妥当だと?」


 ニコラが尋ねる。


 カイルは即答しなかった。


 客席を見回す。


 Club Moon Dropより広い。


 二階もある。


 舞台を作れる。


 搬入口もある。


 場所も近い。


 逃したくない。


 その思いを見せた時点で、交渉では不利になる。


「提示額の七割」


「低すぎます」


「改装へ必要な費用を考えれば妥当です」


「所有者は八割五分までしか下げないでしょう」


「では、ほかの候補を見ます」


 カイルは書類から手を離した。


 立ち上がろうとすると、ニコラが書類へ手を置く。


「お待ちください」


「七割では即答できません」


「ですが、条件次第では八割まで調整できる可能性があります」


「条件とは?」


「契約後、一定期間以内に改装を始めること」


「短期間での転売を行わないこと」


「所有者の名を、この事業の表へ出さないこと」


 カイルの視線が鋭くなる。


「なぜ、所有者の名を隠す必要がある」


「王都には複数の取引があります」


「特定の社交店へ関わっていると知られたくないのでしょう」


「ヴィットリオ閣下との関係もですか」


 ニコラは答えなかった。


 代わりに、エドガルドが口を開く。


「資金は、王都商人を通じて用意されます」


「宰相府が直接建物を購入するわけではありません」


「誰の金です」


「正式な契約書には、融資元を記載します」


「今この場で、口頭の説明だけを信じていただく必要はありません」


 カイルはエドガルドを見た。


 ヴィットリオは表へ出ない。


 王都商人を通じて金を動かす。


 建物の所有者も名を隠す。


 成功すれば、裏から情報と影響力を得る。


 失敗すれば、自分との関係を薄く見せられる。


 予想していた構造だった。


「購入資金の返済条件は、昨日示されたものと同じですか」


「基本は同じです」


「基本では困ります」


 カイルは言った。


「建物の担保価値」


「改装費の扱い」


「返済が遅れた場合の猶予」


「営業権へ介入できる条件」


「すべて書面で確認します」


「もちろんです」


「顧客帳の扱いは、物件契約と分ける」


 エドガルドの目がわずかに動く。


「物件購入と情報提供を、同じ契約へ入れないでください」


「なぜです」


「建物を失う条件と、情報の範囲を争う条件が同じでは、交渉になりません」


 エドガルドはしばらくカイルを見つめた。


「承知しました」


「別の契約として用意させます」


 カイルは再び書類へ目を落とす。


「購入額は八割」


「ただし、屋根と床を詳しく調べ、重大な損傷が見つかった場合、その修繕費は差し引く」


「正面入口の板を外し、扉として再使用できない場合も同じです」


「舞台裏の壁を撤去できないと判明した場合は?」


「契約自体を見直します」


「この建物を選ぶ理由が一つ失われるからです」


 ニコラは条件を書き留めていく。


「所有者へ伝えます」


「正式な返答は、いつまでに必要ですか」


「明日までに」


「急がせる理由は?」


「ほかにも関心を示している者がいます」


「誰です」


「それはお答えできません」


 カイルはニコラの表情を読む。


 本当に別の希望者がいる可能性もある。


 契約を急がせるための言葉である可能性も高い。


「明日までには決めません」


「詳しい調査結果と、正式な融資条件が先です」


「ほかの買い手が先に契約するなら、それまでの物件だったということです」


 言葉とは反対に、胸の内では焦りが生まれていた。


 この建物を逃せば、Club Moon Dropの近くに同規模の物件が見つかるとは限らない。


 だが、焦りを見せた時点で条件を握られる。


 自分はヴィットリオの言いなりになるつもりはない。


 金を出させても、経営するのは自分だ。


 契約の境界も、自分が決めなければならない。


「分かりました」


 ニコラは書類をまとめた。


「調査結果を急がせます」


 ◇◇◇


 話を終えたあと、ニコラは先に外へ出た。


 オットーは屋根裏を詳しく確認するため、建物へ残る。


 カイルも帰ろうとしたが、正面入口の前で足を止めた。


 広い客席。


 二階の控室。


 奥へ作る舞台。


 大きな搬入口。


 今は埃と古い家具しかない。


 それでも、カイルの目には別の光景が見えていた。


 舞台で踊る者。


 楽器を演奏する者。


 高級酒を注文し、周囲から歓声を受ける客。


 人気を競う接客係。


 入口へ列を作る者たち。


 Club Moon Dropでは、一日に迎えられる人数が限られている。


 こちらは違う。


 五十人。


 やがて八十人。


 催しの日には、それ以上。


 客数が積み上がる。


 売上が増える。


 評判が広がる。


 Club Moon Dropの客も、一度は興味を持つ。


 静かな会話とは違う熱気を知れば、こちらへ通う者も現れる。


「気に入りましたか」


 エドガルドが扉の外から尋ねた。


「条件次第です」


「建物そのものの感想を聞いております」


 カイルはすぐには答えなかった。


「使える建物です」


「Club Moon Dropより大きい」


「広さだけなら、比べるまでもありません」


「広いだけで勝てるとは思っていません」


 カイルは客席を振り返った。


「ですが、広くなければできないことがある」


「舞台」


「大人数の宴席」


「複数の接客係から、客が望む者を選べる仕組み」


「支払った金額に応じて、席や楽しみ方を選べる店」


「この建物なら作れます」


「では、購入へ進めますか」


「調査と契約を確認してからです」


「慎重ですね」


「失敗しないためです」


 エドガルドはわずかに口元を緩めた。


「カイル様は、失敗した店の原因をご存じです」


「知っているだけでは足りません」


 カイルは答えた。


「避けるための仕組みを作ります」


 必要な人数を雇う。


 休む者が出れば、代わりを入れる。


 辞める者がいれば、新しい者を雇う。


 誰か一人が欠けても営業を止めない店にする。


 カイルが考えていたのは、働く者が無理なく続けられる店ではなかった。


 誰かが続けられなくなっても、別の者によって動き続ける店だった。


 本人は、その違いを大規模な組織に必要な強さだと考えている。


 エドガルドはそれ以上何も言わず、先に馬車へ向かった。


 カイルは最後にもう一度、二階の窓を見上げた。


 あの部屋からは、店内全体を見下ろせる。


 反対側の窓からは、Club Moon Dropまで見える。


 働く者も。


 客も。


 競争相手も。


 一つの部屋から把握できる。


 カイルは建物の外へ出た。


 正面に並ぶ三つの入口へ目を向ける。


 すべてを開けば、大勢の客を迎えられる。


 紹介者は必要ない。


 正式会員として認められるまで待つ必要もない。


 入場料を払い、自分の望む楽しみ方を選ぶ。


 それだけで扉を越えられる。


 Club Moon Dropの近くに、Club Moon Dropとは反対の店を作る。


 隣ではない。


 正面でもない。


 だが、客が行き先を迷うには十分に近い。


 この建物が偶然残されていたわけではない。


 ヴィットリオたちは以前から調べていた。


 Club Moon Dropの近くで、人が集まり、話し、金を使う場所を作るために。


 カイルは利用される危険を理解している。


 だからこそ、自分も相手を利用できると考えていた。


 金を出させる。


 建物を手に入れる。


 王都の資料と人脈も使う。


 ただし、経営権は渡さない。


 顧客帳の境界も、自分が決める。


 危険を知っている自分なら、相手の思惑を制御できる。


 その自信を抱いたまま、カイルは馬車へ乗り込んだ。


 ◇◇◇


 同じ頃。


 Club Moon Dropでは、昼営業が始まっていた。


 四つの卓のうち、三つが使われている。


 エミリアが紹介した商家の女性たち。


 甘い菓子を楽しみに訪れたサラ。


 アルフレッドと、仕事の報告へ来たオスカー。


 客数は多くない。


 大きな音もない。


 リリアは初来店の女性へ、酒を飲まなくても利用できることを説明している。


 エルナはサラへ、新しく試している菓子の感想を尋ねていた。


 ミーナはオスカーの話を聞きながら、帳簿の間違いに気づいた経緯を一つずつ確かめている。


 ロイは入口へ目を配りつつ、料理を運ぶディーノの動きを見て、空いた器を先に下げた。


 ディーノは客席から戻る途中で入口を確認し、そのまま厨房前へ向かう。


 厨房から出てきたティアと狭い通路で向かい合い、互いに一歩ずつ位置をずらした。


「すみません」


「大丈夫です」


 ディーノは皿を受け取ると、客席へ戻っていく。


 入口では、リリアが初来店の女性へ説明を続けていた。


 その横を、退店する客が通ろうとする。


 ロイがすぐに台を壁際へ寄せ、通路を空けた。


 紹介者と初来店客の話を妨げない。


 帰る客も待たせない。


 狭い入口で、誰がどこへ立つかを全員が少しずつ調整している。


 Club Moon Dropは大きくない。


 できることにも限りがある。


 だからこそ、一人の客が困っていることへ気づける。


 働く者の動きが遅くなった時にも、誰かが声をかけられる。


 同時に、店が少しずつ狭くなっていることも確かだった。


 客が増えれば、入口で説明する場所が足りなくなる。


 厨房から客席へ出る通路では、人が行き違うたびに譲り合わなければならない。


 倉庫へ置く酒や食材も増えている。


 今すぐ営業できなくなるほどではない。


 だが、客と働く者が増え続ければ、いずれ見直さなければならない。


 レンは、この建物を完成形だとは考えていなかった。


 厨房。


 客席。


 倉庫。


 休憩場所。


 黒服の人数。


 広げる時には、今守れているものまで失ってはいけない。


「レン」


 ノアが手帳を持って近づいてきた。


「どうした?」


「昼営業前、西通りの奥へ王都商人らしい方々が来ていました」


「西通りの奥?」


「以前、宴会場だった大きな建物です」


 レンは通りの奥へ視線を向けた。


 店内から建物そのものは見えない。


「借り手が決まったのかな」


「分かりません」


 ノアは答えた。


「ですが、書類を持った方と職人らしい方が出入りしていました」


「工事が始まる場合、荷車が増える可能性があります」


「こちらの搬入時間と重なるかもしれません」


「分かった」


 レンは頷いた。


「誰が使うのか分かったら、挨拶へ行こう」


「はい」


 空き店舗が使われること自体は悪くない。


 西通りへ人が増える。


 昼も夜も、新しい目的で訪れる者が現れる。


 近隣の店へ客が流れる可能性もある。


 どのような店になるのか。


 誰が始めるのか。


 今はまだ分からない。


 レンは目の前の営業へ意識を戻した。


 その時、入口の扉が開く。


 ロイがすぐに振り返った。


 入ってきたのは、昼会員の女性だった。


 その後ろには、初めて見る女性が立っている。


 紹介者と初来店客。


 ロイが入口へ向かう。


 リリアも客席での会話を一度区切り、自然に立ち上がった。


「いらっしゃいませ」


 昨日、全員で確認した説明を、実際に使う時が来た。


 レンは二人へ任せ、少し離れた場所から動きを見守る。


 Club Moon Dropでは、新しい一人を迎えるために扉が開いた。


 同じ西通りの奥では。


 まだ契約さえ結ばれていない大きな建物が、何十人もの客を迎える形へ変わろうとしていた。


 ◇◇◇


 その日の夕方。


 カイルの執務室へ、オットーから建物の調査結果が届けられた。


 屋根の一部に修繕が必要。


 床板は複数交換。


 階段の踏み板も補修。


 三つある炉のうち、一つは作り直し。


 井戸から水を引く管にも掃除と一部交換が必要。


 一方、舞台裏の仕切り壁は撤去可能。


 正面にある三つの入口も、扉と枠を修繕すれば再使用できる。


 二階の主要な梁にも、現時点で大きな腐食は見つかっていない。


 最後の頁には、改装費の概算が記されていた。


 決して安い金額ではない。


 建物の購入費と合わせれば、カイル個人の資金だけでは手が届かない。


 それでも、ヴィットリオ側の融資を受ければ進められる。


 報告書とは別に、エドガルドから短い書状が添えられていた。


 所有者は、購入額を当初の八割まで下げる。


 重大な損傷が追加で発見された場合は、その修繕費を差し引く条件も受け入れる。


 融資契約と顧客情報に関する契約は、別々に用意する。


 ただし。


 三日以内に購入の意思を示さなければ、別の希望者との交渉へ移る。


 カイルは書状を机へ置いた。


 正式な契約書は、まだ届いていない。


 返済不能となった場合の条件も確定していない。


 顧客情報をどこまで渡すかも決まっていない。


 人材はいない。


 店名さえない。


 それでも、あの広い客席と二階の窓が頭から離れなかった。


 店内を見下ろす窓。


 Club Moon Dropまで見える窓。


 三つ並んだ入口。


 奥へ広げられる舞台。


 カイルは新しい紙を取り出した。


 最上部へ、建物購入と記す。


 その下に、確認すべき項目を並べていった。


 融資元。


 返済期間。


 返済猶予。


 担保。


 営業権。


 改装費。


 顧客帳。


 人材募集。


 舞台設備。


 必要な黒服の人数。


 料理と酒の種類。


 書き終えたあと、一番下へ新しい項目を加える。


 開店予定日。


 まだ書き込める段階ではない。


 カイルは空欄のまま、その文字を見つめた。


 購入の意思を示しただけでは、建物を手に入れたことにはならない。


 正式契約へ署名するまでは、引き返すこともできる。


 それでも。


 契約条件ではなく、開店日を考え始めた時点で、自分がどちらへ進もうとしているのかは明らかだった。


 カイルは別の紙を引き寄せる。


 宰相ヴィットリオへ送る返答を書くための紙だった。


 筆へ墨を含ませる。


 少しの間だけ止めたあと、最初の一文を記した。


 ――調査結果を確認しました。正式契約の内容が提示された場合、物件購入へ進む意思があります。


 まだ購入は成立していない。


 建物は、今も王都商人の所有する空き店舗だ。


 だが、ただの空き店舗ではなくなった。


 カイルの頭の中では、すでに舞台へ灯りがともっている。


 三つの扉が開き、大勢の客が入ってくる。


 二階の窓からは、Club Moon Dropの小さな看板が見える。


 屋根も。


 入口も。


 客が出入りする姿も見える。


 だが、扉の内側で一人ずつ積み重ねられているものまでは、その高い窓から見ることはできない。


 カイルは、それに気づかないまま返答を書き終えた。


 誰も知らない対抗店は、Club Moon Dropを見下ろす建物の中で、最初の灯りをともそうとしていた。

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