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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第107話  紹介制を破る店

 翌日の午後。


 カイル・バルドンは、バルド酒商会の執務室で、普段より早くその日の仕事を切り上げようとしていた。


 机の前には三人の職員が並び、それぞれ納品書や販売報告書を抱えている。


「北地区の三店舗へは、前月と同じ数量を出せ」


 カイルは帳面から顔を上げずに言った。


「新しく契約した酒場には三樽までだ。店主は十樽を求めているが、初回から増やす必要はない」


「ですが、ほかの商会からも仕入れると話しているそうです」


「構わん」


 職員の言葉を、カイルは短く切った。


「一度に多く売ることだけが利益ではない。支払い能力も分からない相手へ十樽を渡し、代金を回収できなければ損失になる」


「承知いたしました」


「支払いが遅れている二店舗については、入金を確認するまで追加分を止めろ。長い付き合いだからといって、条件を曖昧にするな」


 三人が順に頭を下げ、執務室を出ていく。


 扉が閉じると、カイルは机の上へ残された書類を整えた。


 急ぎの判断は終えている。


 残りは担当職員の権限で処理できるよう、必要な指示も出した。


 普段であれば、まだ商会を離れる時刻ではない。


 だが、このあとには融資を担当する王都商人、エドガルド・サヴィーニとの約束が入っていた。


 カイルは机の引き出しを開く。


 奥へ収めていたのは、宰相ヴィットリオから渡された新しい社交事業の計画書だった。


 融資元。


 返済条件。


 経営権。


 顧客情報の扱い。


 候補となる建物。


 記されている内容は具体的だが、正式な契約書ではない。


 カイル自身も、計画を受け入れるとは返答していなかった。


 それでも商会の仕事を前倒しし、店の構想に関する資料を確認しようとしている。


 受けるかどうかを考える者ではなく、すでに成功させる方法を考える者の動きだった。


 その事実を意識から追い出し、計画書を上着の内側へ収める。


 直後、扉が叩かれた。


「入れ」


「失礼する」


 入ってきたのは、会長のバルド・グランツだった。


 カイルはわずかに動きを止めたが、すぐに平静を装った。


「何かございましたか」


「今日は早く切り上げると聞いた」


「外で確認する仕事があります」


「商会の仕事か」


 短い問いだった。


 カイルは椅子へ座り直す。


「個人的な商談です」


「宰相との話だな」


「内容を話すよう求められてはいません」


「話すなと命じられたのか」


「不要に他言しないよう言われています」


 バルドは、整えられた机へ目を向けた。


 普段なら、午後のこの時間にも複数の帳面が開かれている。


 今は途中の仕事が残らないよう、すべて片づけられていた。


「昨夜も、一昨日と同じ高級社交店へ行ったそうだな」


 カイルの目が細くなる。


「私を監視しているのですか」


「していない」


 バルドは平然と答えた。


「お前ほど知られた顔の商人が、二晩続けて同じ店へ出入りすれば、見た者が話す」


「誰と会ったかまでは知られていません」


「今のところはな」


 バルドは向かいの椅子へ座らなかった。


 扉の近くに立ったまま、カイルを見ている。


「何を作ろうとしている」


「まだ何も決まっていません」


「決まっていない者が、商会の仕事を前倒しして出かけるのか」


 カイルの眉が動いた。


「何を見に行くかまで、ご存じなのですか」


「知らん」


 バルドは即座に答えた。


「物件か、人材か、金の流れか。何を見るにしても、お前はもう話を聞くだけの段階ではない」


 カイルは返さなかった。


「商会の外で、自分の商売を始めたいなら、止める権利は私にはない」


「ならば、なぜ何度も止めようとするのです」


「止めているのではない」


 バルドの声は変わらなかった。


「お前が自分で選んでいるつもりの道を、誰が先に用意したのか考えろと言っている」


「条件は確認しています」


「融資元も、返済方法も、担保も聞きました」


「何も考えずに飛びついてはいません」


「それでも進めるつもりか」


「利用できる話なら、利用します」


 カイルは迷わず答えた。


「宰相であろうと王都商人であろうと、互いに利益があるなら商売は成立する」


「そうか」


 バルドは、それ以上止めようとはしなかった。


 代わりに、机へ置かれていた販売報告書へ視線を向ける。


「大きな店を作るなら、客数と売上以外も数えろ」


「ほかに何を数えるのです」


「働く者が何日続けられるか」


 バルドは一本ずつ指を折るように言った。


「一度来た客が、何度戻ってくるか」


「問題が起きた時、責任者の指示を待たずに動ける者が何人いるか」


「休んだ者の代わりを、誰が無理なく埋められるか」


「一日に入れられる客ではなく、毎日迎え続けられる客が何人か」


 カイルは口を閉ざした。


「広い建物を満席にするだけなら、金と宣伝で一度はできる」


 バルドは続けた。


「満席を何日も続けながら、客と働く者を壊さない店を作れるかは別の話だ」


「それを判断するのが経営者です」


「そうだ」


 バルドはカイルから目を逸らさなかった。


「だから、数字に表れる前の異変を見ろと言っている」


「数字へ表れた時には遅いと?」


「倒れた者の数を正確に記録できても、倒れる前に止められなければ意味はない」


 カイルは答えなかった。


 バルドはそれ以上言葉を重ねず、執務室を出た。


 扉が閉じたあとも、カイルはしばらく動かなかった。


 バルドの言葉には一理ある。


 それは認められる。


 だが、バルドもレンも、目の前にいる一人を重視しすぎる。


 一人の客。


 一人の職員。


 一つの問題。


 それらへ時間をかけて向き合う。


 小さな組織なら、それでも成り立つ。


 しかし、大規模な店を動かすなら、すべてを個人の信頼や善意へ任せることはできない。


 数字。


 評価。


 役割。


 報酬。


 誰が働いても一定の結果が出る仕組み。


 異変を早く見つけるためにも、感覚ではなく記録が必要になる。


 バルドの忠告さえ、自分の方法を補強するものに思えた。


「小さな店の考え方だ」


 カイルは呟いた。


 そう口にしたあと、外套を手に取り、執務室を出た。


 ◇◇◇


 待ち合わせ場所には、エドガルド・サヴィーニが先に到着していた。


 前夜と同じ上質な服を着ている。


 ただし今日は、商談用の大きな革鞄を持っていた。


「お待ちしておりました」


「宰相閣下は?」


「後ほど合流されます」


「先にご覧いただきたいものがございます」


「候補物件ではないのですか」


「建物だけを見ても、何を作るか決まっていなければ、必要な広さも設備も判断できません」


 エドガルドは馬車の扉を開いた。


「まずは、王都の社交店が何を売っているのか、ご確認いただきます」


 カイルが乗り込むと、向かいの席には革鞄とは別に、筒状へ巻かれた大きな紙が置かれていた。


 エドガルドも乗り込み、御者へ合図を送る。


 馬車がゆっくりと動き出した。


「どこへ向かうのです」


「王都商人が所有する会館です」


「普段は商人同士の会合や、高額商品の展示に使われています」


「今日は貸し切ってあります」


「ずいぶん大がかりですね」


「大きな金額を動かす商談です」


 エドガルドは革鞄を開いた。


「小さく見せる必要はありません」


 取り出したのは、数冊の帳面だった。


 表紙には、カイルでも聞いたことがある王都の社交店の名が記されている。


「これは?」


「客席数、入場料、酒の価格帯、接客係の人数、舞台演目、指名方法」


「客一人が平均して使う金額と、再来店までの日数もまとめてあります」


 カイルは一冊を受け取り、頁を開いた。


 貴族用の個室。


 上級商人向けの広間。


 演奏家を囲む席。


 人気接客係の予約枠。


 高額酒を注文した客へ行われる特別な演出。


 数字が細かく記されている。


「ここまで調べたのですか」


「一部は私どもの出資先です」


「経営改善へ関わった店もあります」


 エドガルドは別の帳面を開いた。


「こちらは失敗例です」


「二年で閉店した社交店」


「原因は?」


「広い建物を借り、開店前から多くの接客係と演奏家を雇った」


「しかし客が定着する前に、給金と建物の維持費が利益を上回った」


 カイルは帳面から顔を上げる。


「今回も同じ危険があります」


「もちろんです」


 エドガルドは否定しなかった。


「広い店を作れば、必ず成功するわけではありません」


「では、何が違うのです」


「比較される店が、すでに存在していることです」


「Club Moon Dropですか」


「ええ」


 エドガルドは淡々と答えた。


「紹介者がいないため利用できない者」


「正式会員になるまで待ちたくない者」


「予約を断られた者」


「高い酒を注文しても、優先されないことへ不満を持つ者」


「静かな会話より、華やかな酒宴を好む者」


「Club Moon Dropが受け入れない者だけではありません」


「そもそも、あの店が対象としていない客もいます」


 Club Moon Dropの扉を無理にこじ開ける必要はない。


 扉の外にいる者へ、別の店を示す。


 それが今回の計画だった。


「ただし」


 カイルは帳面を閉じた。


「不満を持つ者を集めるだけでは、長く続く店にはなりません」


「一度は来るでしょう」


「だが、二度目に来る理由が必要だ」


「そのために、舞台、接客係、高級酒、指名制度を組み合わせます」


「組み合わせれば成功するほど、簡単ではない」


 カイルは即座に返した。


「舞台だけなら劇場へ行けばいい」


「高級酒だけなら、上級酒場でも飲める」


「接客係だけなら、既存の社交店にもいる」


「一つの場所へ集めることで、何が生まれるのか」


 エドガルドはわずかに口元を緩めた。


「その答えを、これから考えていただきます」


 ◇◇◇


 会館は、ルミナス中心部に建つ横に広い二階建ての建物だった。


 大きな窓が並び、入口の上には王都商人の組合を示す紋章が掲げられている。


 中へ入ったカイルは、広間の様子を見て足を止めた。


 複数の机。


 壁に掛けられた店内絵図。


 接客係の衣装。


 高級酒。


 舞台の配置図。


 中央には、客席と舞台の関係を確認するための簡素な模型も置かれていた。


「昨日から準備したものではありませんね」


「当然だ」


 奥から声がした。


 ヴィットリオが、二人の文官を伴って姿を見せる。


 宰相としての正式な衣服ではない。


 だが、広間へ入った瞬間に空気が変わった。


「王都では以前から、社交店の経営と人の流れについて調べさせていた」


「Club Moon Dropが現れてから、初めて考えたわけではない」


「では、ルミナスへ店を作る可能性も以前から?」


「調査はしていた」


 ヴィットリオは並べられた資料へ目を向けた。


「誰へ任せるかは決めていなかったがな」


 カイルは広間を見回す。


 数日で集められる量ではない。


 ヴィットリオはClub Moon Dropだけを見て動き始めたのではない。


 人が集まる場所を把握する手段として、社交店へ以前から目を向けていた。


 Club Moon Dropは、その計画へ具体的な標的と、急ぐ理由を与えたにすぎない。


「順に見てもらおう」


 ヴィットリオが最初の机へ進む。


 そこには、広い舞台を中心に描いた店内絵図が置かれていた。


 歌う者。


 踊る者。


 演奏家。


 その周囲を囲むように客席が並んでいる。


「王都の上級社交店では、酒と会話だけを売っているわけではない」


「舞台を見るために来る客もいる」


「舞台が主なら、劇場と競合します」


 カイルは絵図を見ながら言った。


「客は食事や酒を楽しみながら演目を見る」


「演奏中にも接客係が席を回る」


 ヴィットリオが答える。


「劇場より自由で、酒場より特別感がある」


「その代わり、舞台を見ない客にとっては騒がしい」


「すべての客を満足させる必要があるか?」


 カイルは答えなかった。


「Club Moon Dropを選ぶのは、静かに話したい者だ」


 ヴィットリオは続ける。


「ならば、こちらは別の客を集めればよい」


「大勢の中で酒を飲みたい」


「珍しいものを見たい」


「金を使ったことを周囲へ示したい」


「自分が特別な場にいると感じたい」


「そのような者を迎える」


「舞台だけでは、客は定着しません」


 カイルは反論した。


「演目が同じなら飽きる」


「毎回王都から新しい演奏家を呼ぶには費用がかかる」


「店内の者だけで回すなら、出演者を交代させる人数も必要になる」


 付き添いの文官がわずかに眉を寄せる。


 ヴィットリオは絵図へ目を落としたまま言った。


「少なくとも、資料を見て頷くだけの者よりは使えそうだ」


 褒めているというより、値踏みする声だった。


 カイルは返さず、次の机へ目を向けた。


 複数の接客係の名と数字が並んだ板が置かれている。


 指名数。


 酒の売上。


 贈り物の額。


 舞台へ呼んだ客の人数。


「人気を競わせるのですか」


「王都の多くの店では、接客係ごとの成績を把握している」


 エドガルドが答えた。


「上位には良い衣装や報奨金を与える」


「下位は?」


「担当席が減る」


「給金が下がる」


「裏方へ回される店もあります」


 カイルは板に並ぶ数字を見つめた。


「短い期間なら、売上は伸びるでしょう」


「だが、一つの数字だけで競わせれば、客を奪い合う」


「互いに情報を隠す」


「高い酒を無理に勧める者も出る」


 ヴィットリオが目を細めた。


「反対か?」


「いいえ」


 カイルは否定した。


「競争は必要です」


「結果を出した者へ報いる仕組みも必要になる」


「ただし、順位を作れば人が勝手に育つと思うのは危険だと言っている」


 カイルは板の横に置かれた衣装へ目を向けた。


 華やかな刺繍が施されている。


 目を引くが、近くで見れば袖口の縫い目は粗い。


「上位へ良い衣装を与える一方で、下位へ衣装代を負担させる店もあるのではありませんか」


「あります」


 エドガルドが答えた。


「報奨金より衣装代の方が高くつく者もいる」


「それでは競争ではなく、店が負担を押しつけているだけです」


 カイルは衣装から目を離した。


「売上だけで評価すれば、会話が得意でも高額な酒を勧めない者は下へ落ちる」


「舞台で客を集めても、客席で酒を売れない者は評価されない」


「では、何を評価する」


「指名数」


「再来店率」


「酒の売上」


「舞台へ集めた人数」


「役割ごとに分けるべきです」


「一つの順位で全員を並べれば、全員が同じことをしようとする」


 ヴィットリオは一瞬だけ黙った。


「管理が複雑になる」


「大きな店を作るなら、単純な数字だけで人を動かそうとする方が危険です」


 カイルはそう答えた。


 数字によって人を評価する考えそのものには魅力を感じていた。


 Club Moon Dropでは、接客係ごとに支持する客が異なる。


 丁寧な接客を好む者。


 明るい会話を好む者。


 静かに話を聞いてほしい者。


 店は、その違いを単純な上下にはしていない。


 だが、その方法では、誰がどれほど利益を生んでいるか分かりにくい。


 数字を示せば、働く者は自分の位置を知る。


 上を目指して動く。


 店側も、誰へ何を任せるべきか判断できる。


 違う才能を守るための記録ではない。


 利益へつながる能力を分け、比較するための記録。


 カイルが考えていたのは、そちらだった。


 次の机には、高級酒が並べられていた。


 希少な葡萄酒。


 長期熟成された蒸留酒。


 王都でも限られた者しか手に入れにくい酒。


 エドガルドが一本を手に取る。


「客が求めるのは、味だけではありません」


「希少であること」


「値段が高いこと」


「周囲より先に飲めること」


「注文したことで注目されること」


「その価値も売るのです」


「高額な酒を注文した客の名を、舞台から告げる店もあります」


 ヴィットリオが続ける。


「接客係が全員で挨拶へ行く店もある」


「客は、自分が金を使ったことを見せられる」


 カイルは酒瓶の封印を確かめた。


 王都でも名の知られた酒蔵の印だった。


「酒の品質ではなく、注文した行為にも価値を付ける」


「気に入らないか?」


「商売としては理解できます」


 カイルは酒瓶から手を離した。


「ただし、すべての客が注目を望むわけではない」


「静かに飲みたい上客もいる」


「ならば選ばせればよい」


 エドガルドが答えた。


「人前で祝われたい者には演出を付ける」


「望まない者には、目立たない別の価値を返す」


「高い金を払った者へ、ほかの客を押しのける権利を与える必要はありません」


「別の価値を選べるようにする」


 カイルはわずかに頷いた。


 Club Moon Dropでは、高額な酒を注文しても客の順番は変わらない。


 先約を動かすこともしない。


 以前のカイルには、それが利益を逃しているようにしか見えなかった。


 今も、その考えが消えたわけではない。


 だが、金を使った者へ何でも許せば、店の秩序が崩れることも理解し始めていた。


 Club Moon Dropを調べる中で得た理解だった。


 レンから学んだとは、決して認めなかった。


「次が、最も重要だ」


 ヴィットリオが広間奥の机へ向かった。


 そこには、何冊もの厚い帳面が置かれていた。


 表紙に記されているのは、店名ではない。


 貴族。


 商人。


 軍関係者。


 職人。


 冒険者。


 客の分類だった。


 カイルが一冊を開く。


 氏名。


 職業。


 同行者。


 来店日。


 支払額。


 好む酒。


 指名した接客係。


 次に勧める商品。


 祝い事。


 家族構成。


 前回、どのような話題で機嫌がよくなったか。


「これを、すべての客について残すのですか」


「上客を中心にだ」


 ヴィットリオが答えた。


「一度しか来ない者へ、多くの手間をかける必要はない」


「だが何度も来る者、金を使う者、人脈を持つ者は記録する」


「接客には使える」


 カイルは頁をめくる。


「前回の話を覚えていれば、自分が大切にされていると感じる」


「好みを知っていれば、注文前に提案できる」


「商談の成功を覚えていれば、祝いの酒も勧められる」


「そのとおりです」


 エドガルドが言った。


「客は、自分を覚えている店へ戻ります」


 Club Moon Dropにも記録はある。


 本人確認。


 紹介者。


 初来店時の担当。


 必要な配慮。


 だが、相談内容や仕事上の悩みは残さない。


 カイルは、それを以前から非効率だと考えていた。


 情報を持っていれば、商売へ使える。


 客へ適した商品を勧められる。


 しかし、帳面の後半へ進むにつれ、項目の意味が変わっていった。


 誰と不仲なのか。


 どの商人へ関心を示したか。


 最近、王国の制度へどのような不満を口にしたか。


 どの貴族と親しくなろうとしているか。


 その頁で、カイルの指が止まった。


「ここまで残す必要はありません」


 帳面を閉じる。


「客の好みと支払額は商売へ使える」


「誰と来店したかも、接客や営業へ役立つ場合がある」


「だが、政治への不満や個人的な悩みまで記録すれば、店の信用を失う」


「客へ知らせなければよい」


 ヴィットリオの言葉に、カイルはすぐ顔を上げた。


「それでは、発覚した時に終わります」


「規則へ記録すると書けば、隠したことにはならない」


「細かな内容を読まなかった客の責任だと?」


「規則を示す以上、店だけの責任ではない」


「私は、宰相府の記録所を作るつもりはありません」


 カイルの声が低くなった。


「社交店を作るのです」


 文官たちの表情が硬くなる。


 ヴィットリオは変わらずカイルを見ていた。


「Club Moon Dropから客を奪いたいのでしょう」


「ならば、あの店が持つ強みを理解すべきです」


「客は、店の者へ話したことが外へ出ないと信じている」


「その信用へ対抗できなければ、静かに話したい客は移らない」


「秘密を守る店を作れと言うのか」


「すべてを守れとは言っていません」


 カイルは答えた。


「具体的な犯罪計画」


「誰かへ危害を加える相談」


「店や客を危険へさらす話」


「そうしたものを報告することには反対しません」


「では、王国や役人への不満は?」


「不満を口にしただけで記録されると分かれば、客は口を閉ざします」


「それで店へ何が残るのです」


「酒を飲み、舞台を見るだけの客です」


「それでも利益は出せる」


「短い間なら」


 カイルはヴィットリオから目を逸らさない。


「ですが、長く通う客は、自分を理解する接客係を求める」


「理解されるためには、話す必要がある」


「話せない店では、関係が浅くなる」


「私は、Club Moon Dropを上回る店を作るのであって、客数だけ多い酒場を作るつもりはありません」


 広間へ沈黙が落ちた。


 エドガルドは黙ったまま、二人を見比べていた。


 ヴィットリオは少しの間、何も言わなかった。


 やがて顧客帳へ視線を落とす。


「少なくとも、私の言葉へ頷くだけの者ではないようだ」


「それでは店を任せられませんから」


「君は、私の目的より自分が作る店を優先する」


「当然です」


 カイルは即座に答えた。


「日々の経営判断を私へ任せない条件なら、引き受ける価値はありません」


「ならば両立させろ」


 ヴィットリオは顧客帳へ手を置いた。


「店の信用を保ちつつ、人の動きを知る」


「その境界を君が作れ」


「引き受けると決めたわけではありません」


「だが、すでに方法を考えている」


 カイルは答えなかった。


 否定はできない。


 客へ何を知らせるか。


 何を記録し、何を残さないか。


 誰が報告し、誰が確認するか。


 頭の中では、すでに仕組みを組み始めていた。


 ヴィットリオの要求を受け入れたわけではない。


 自分が線を引き、相手に守らせればよい。


 カイルはそう考えていた。


 宰相が、必要となればその線を動かす可能性より、自分なら要求を制御できるという自信が勝っていた。


 ヴィットリオはそれ以上追及せず、中央の模型へ向かった。


 模型は、候補となる建物を再現したものではない。


 舞台と客席。


 入口と会計。


 厨房と搬入口。


 それぞれの位置関係を検討するための、簡易的なものだった。


「大規模な社交店を作る場合の配置案だ」


「客席は?」


「八十人前後を想定している」


 エドガルドが答える。


「催しの日には、追加の席を置くことも可能です」


「追加するかどうかは、人員を見て判断します」


 カイルは模型を覗き込んだ。


「広い店だからといって、最初から限界まで客を入れる必要はない」


「慎重だな」


「失敗した店の帳面を見せられたばかりです」


 カイルは答えた。


「客が定着する前に人と席を増やせば、同じ結果になります」


「舞台前の通路は、もう少し広くした方がよい」


 カイルは模型の卓を動かした。


「客が立てば、酒を運ぶ者とぶつかる」


「壁際には、舞台より会話を楽しみたい客の席を置く」


「入口と会計も一か所へ集めない方がよいでしょう」


「まだ建物も見ていない段階だ」


 エドガルドが言った。


「だからこそ、必要な条件を決めておくのです」


 現時点の判断は堅実だった。


 だからこそカイルは、自分なら過去の失敗を避けられると考える。


 危険を知った者は失敗しない。


 その思い込みが、すでに最初の危険となっていた。


「受付には何が必要だ」


 ヴィットリオが尋ねる。


「紹介者も会員証も必要ありません」


 カイルは入口近くの人形を動かす。


「料金の確認」


「荷物と武器の扱い」


「すでに酔いすぎていないか」


「それだけを短時間で判断する」


「泥酔している者は?」


「入れません」


「客を断れば、紹介制の店との差が減る」


「誰でも利用できることと、何をしても許すことは別です」


 その言葉を口にした瞬間、カイルはわずかに眉を寄せた。


 Club Moon Dropを調べた報告の中で、似た考えを何度も聞いていた。


 だが、自分の判断として口にした以上、レンの考えとは違う。


 そう片づけた。


「入場料は身分にかかわらず同じにする」


「ただし、席と接客係によって追加料金を取る」


「高い金を払う客には、より良い席や人気の接客係を選べるようにする」


「利用実績へ応じた優先予約も作れる」


「結局、会員制度ではないのか」


「違います」


 カイルは模型から顔を上げた。


「人柄を見て、店が認める制度ではない」


「利用した回数と支払った額によって得られる権利です」


「誰でも条件を満たせば、同じ権利を得られる」


 声に熱が宿り始めていた。


「紹介者がいない者も」


「店へ認められるまで待ちたくない者も」


「予約を断られた者も」


「こちらなら、その日のうちに客になれる」


「Club Moon Dropの扉を無理に開ける必要はない」


 カイルは入口に置かれた人形へ指を置く。


「扉の外にいる者へ、別の入口を示せばいい」


「紹介制を壊すのではない」


 ヴィットリオが言った。


「紹介を必要としない店を作る」


「そういうことです」


 カイルは頷いた。


「店へ認められるのではなく、客が自分で利用方法を選ぶ」


「大勢で賑やかに過ごす」


「舞台を見る」


「接客係を選ぶ」


「高級酒を注文する」


「支払った金に応じて、選択肢が増える店です」


「客数で勝てる」


「売上でも上回れる」


 ヴィットリオが続けた。


「舞台と高級酒を組み合わせればな」


「舞台を置くだけでは駄目です」


 カイルはすぐに返した。


「同じ演目だけでは客は飽きる」


「一人の人気者へ負担を集中させれば、長くは続かない」


「交代できる人数と、定期的に演目を変える仕組みが必要です」


「人材を集められるか」


「探します」


 カイルの頭には、すでに複数の候補が浮かび始めていた。


 酒場で働いた経験を持つ者。


 商家や貴族家で客を迎えていた者。


 歌や踊りを仕事にしたい者。


 宴会を扱ってきた元店主。


 現在の職場や給金に不満を持つ者。


「Club Moon Dropの者も対象にするか」


「条件を示すことはできます」


 カイルは答えた。


「ですが、中心にいる者は金だけでは動かないでしょう」


「それを認めるのか」


「相手を低く見積もって、同じ失敗をするつもりはありません」


 Club Moon Dropの者たちが、簡単にレンを離れるとは思えない。


 それなら、すでに技術を持ちながら、今の場所で正当に評価されていない者を集めた方が早い。


「高い給金」


「人気に応じた報奨金」


「大きな舞台」


「上へ行ける役職」


「その条件を示せば、人は集まります」


「理念ではなく、金と地位で集めるのか」


「人は理念だけでは生活できません」


 カイルは言い切った。


「結果を出した者へ報いる仕組みがあれば、競って働く」


「誰か一人の夢を信じることへ頼らなくても、大きな組織を動かせる」


 その言葉の奥で、バルドの忠告が蘇る。


 働く者が何日続けられるか。


 カイルは、その答えも数字で管理できると考えた。


 疲労した者。


 休んだ者。


 辞めた者。


 すべて記録すれば、異変へ気づける。


 代わりを用意すれば、営業も止まらない。


 カイルが思い描き始めたのは、誰も無理をせずに続けられる店ではない。


 誰かが続けられなくなっても、別の者によって営業を続けられる店だった。


 その違いを、本人は大規模経営に必要な現実性だと考えていた。


「今日見せた資料は持ち帰って構わない」


 ヴィットリオが言った。


「複写はさせるな」


「承知しました」


「明日は候補物件を見ろ」


「そのあとで、正式な契約書を確認すればよい」


「まだ引き受けると決めたわけではありません」


「分かっている」


 ヴィットリオは模型を見下ろした。


「では、最後に一つ聞こう」


「何でしょう」


「この店は、何を売る」


 カイルは模型へ目を落とした。


 広い入口。


 舞台。


 客席。


 高級酒。


 接客係。


 ただ多くの客を入れる酒場ではない。


 Club Moon Dropと同じものを、より大きくする店でもない。


「客が、支払った金に応じて選べる時間です」


 カイルは答えた。


「静かに飲む席」


「舞台を見る席」


「人気の接客係」


「高級酒を注文した者が選べる特別な演出」


「使う金が増えれば、その分だけ選択肢も増える」


「Club Moon Dropでは、客が店の規則へ合わせる必要がある」


「こちらでは、客が自分の金と意思で、望む楽しみ方を選べる」


 ヴィットリオの口元がわずかに上がる。


「それでよい」


「その店を作れ」


「まだ正式な返答は――」


 カイルは言葉を止めた。


 自分でも、その否定が形だけのものになっていると分かった。


 資料を見ている時。


 顧客帳の線引きを考えた時。


 受付の役割を決めた時。


 すでに自分は、店を作る側として話していた。


 ◇◇◇


 夕方。


 資料を積んだ馬車で商会へ戻る途中、カイルは王都の社交店についてまとめられた帳面を読み続けていた。


 入場料。


 指名料。


 舞台の出演回数。


 客一人当たりの平均支払額。


 再来店率。


 帳面に並ぶ数字は、店で起きた結果を示している。


 だが、その結果を生むまでに、誰が疲れ、誰が無理をし、誰が離れたのかまでは書かれていなかった。


 バルドが見ろと言ったのは、そこなのだろう。


 カイルは理解した。


 記録へ表れていないなら、自分の店では記録すればよい。


 疲労した者の数。


 休んだ者の数。


 辞めた者の数。


 代わりに入れられる者の数。


 数字にすれば管理できる。


 カイルはそう考えた。


 疲労する原因を取り除くより、疲労した者を早く見つけて交代させる仕組みを先に思い浮かべたことには気づかなかった。


 窓の外へ目を向ける。


 馬車は、西通りへ続く道を横切ろうとしていた。


「少し速度を落とせ」


 御者が手綱を調整する。


「何かございましたか」


「いや」


 カイルは窓の布を持ち上げた。


 離れた先に、Club Moon Dropの正面入口が見える。


 昼営業を終え、夜営業へ向けて準備をしている時刻だった。


 扉の外には客はいない。


 入口近くで、ロイとディーノが何かを確認している。


 片方が扉の留め具を見ている間、もう片方は店内へ顔を向け、客席の様子を確かめていた。


 受付だけに立っているわけではない。


 必要な場所へ動きながら、入口も守っている。


 そこへリリアが紙を持って現れた。


 三人で短く話したあと、ロイが店の外へ出る。


 ディーノが扉の内側へ立ち、リリアは紙を手にしたままロイへ声をかけた。


 初来店客を迎える練習らしい。


 ロイが何かを尋ねる。


 リリアが答える。


 ディーノは二人だけを見ているのではなく、途中で店内へ目を向けた。


 説明している間も、ほかの場所への注意を失わないための確認だろう。


 Club Moon Dropは、入口を狭くしようとしているのではない。


 一人ずつ同じ内容を伝え、迎えたあとの行き違いを減らそうとしている。


 カイルは窓の布を下ろした。


「進めろ」


 馬車が再び速度を上げる。


 上着の内側には、広い入口を持つ店の構想がある。


 紹介者を求めない。


 初めて訪れたその日に客となれる。


 金を払えば、望む席と接客を選べる。


 Club Moon Dropが一人を迎えるための言葉と動きを整えている間に。


 カイルは、大勢を早く迎えるための仕組みを作ろうとしていた。


 ◇◇◇


 同じ頃。


 Club Moon Dropでは、夜営業前の短い時間を使い、紹介者向けの説明書を確認していた。


 客席の一卓へ、レン、リリア、ロイ、ディーノ、ノアが集まっている。


 厨房では、ルークとティアが仕込みを続けていた。


 ノアが下書きを読み上げる。


「初めての方をご紹介いただく前に、店の方針と基本的な決まりをお伝えください」


「店内で困ったことが起きた場合でも、紹介者の方がご自身で止める必要はありません」


「危険を感じた時は、黒服へお知らせください」


 レンは下書きへ目を落とした。


「分かりやすくなった」


「ただ、『困ったこと』だけだと少し曖昧かな」


「例を加えますか」


 ノアが尋ねる。


「無理な飲酒や、ほかの方が不安になる振る舞いなど」


「細かく書きすぎると、それ以外ならよいと思われるかもしれません」


 リリアが言った。


「例は少なくして、最後に店の判断で対応する場合があると加えるのはどうでしょうか」


「それがいいと思う」


 レンが頷く。


「紹介する方も、紹介される方も、最初から問題を起こすつもりで来るわけじゃない」


「疑うための説明にはしたくない」


「ですが、何か起きた時に、紹介者の方が無理に止めようとするのは危険です」


 ロイが言った。


「対応するのは黒服です」


「紹介者へ求めるのは、こちらの対応を妨げず、あとから状況確認へ協力していただくことです」


「全部を背負ってくださいと読まれない方がよいと思います」


 ディーノが続けた。


「その方が、紹介すること自体を怖がらずに済みます」


 ノアが手帳へ修正を書き加える。


「紹介する前に方針を伝える」


「困ったことが起きた時は黒服へ任せる」


「紹介者が危険を冒して止める必要はない」


「あとから状況確認へ協力していただく」


「この四つへまとめます」


「いいと思う」


 レンが頷いた。


 休憩を終えたエルナが客席へ戻ってくる。


「説明書ができたら、誰が入口にいても同じように言えるように練習する?」


「そうしよう」


 レンは答えた。


「ロイもディーノも受付専任じゃない」


「客席へ行っている時は、俺やキャストが最初に声をかけることもある」


「人によって説明が変わらないようにしたい」


「それなら、今やってみませんか」


 リリアが説明書を持ち上げた。


「読むだけでは、どこで言葉が長くなるか分かりません」


「誰が客役をする?」


 エルナが尋ねる。


 ロイが立ち上がった。


「私が行います」


「紹介者を伴った初来店客として入ります」


「では、私が最初に対応します」


 リリアも席を立つ。


 ディーノが二人へ続いた。


「俺は入口の内側にいます」


「リリアが説明している間、客席と扉の両方を確認します」


 三人が入口へ移動する。


 ロイは一度外へ出てから、初めて店へ来た客のように扉を開いた。


 リリアが自然な笑顔で迎える。


「いらっしゃいませ。本日は、どなたのご紹介でお越しくださいましたか?」


「アルフレッド様です」


「アルフレッド様ご本人は?」


「店の近くまで一緒に来ましたが、急な仕事が入り、先に帰りました」


 リリアの返答が一瞬止まる。


「ご紹介者様には、受付までご一緒いただく決まりとなっております」


「アルフレッド様から来てもよいと言われました」


「申し訳ございません。ご本人から伺っている場合でも、初めてのご来店では、紹介者様とご一緒に受付へお越しいただいております」


「なぜですか?」


 客役のロイが尋ねる。


 リリアは説明書へ視線を落としかけ、途中で止めた。


 紙を読むのではなく、ロイの顔を見る。


「紹介者様とのご関係を、店側でも直接確認させていただくためです」


「お客様を疑うためではございません」


「皆様に安心してお過ごしいただくため、初めての方には同じ確認をお願いしております」


 ロイが頷いた。


「分かりました。出直します」


「ありがとうございます。紹介者様とご都合を合わせてお越しいただければ、改めてご説明いたします」


 ロイが店内へ戻る。


「どうだった?」


 レンが尋ねた。


「最後の説明は分かりやすかったです」


 ロイが答える。


「ですが、最初に紹介者がいないと分かった時、説明書へ目を落としかけました」


「ごめんなさい」


「責めているわけではありません」


 ロイは落ち着いた声で続ける。


「実際の客が不満を示した場合、紙を探している間に、こちらの迷いだと思われる可能性があります」


「最初に伝える言葉は、紙を見なくても言えるようにした方がよいです」


「そうですね」


 リリアは説明書の冒頭へ印を付けた。


「紙は説明を助けるためのもので、紙がなければ対応できない状態にはしない」


 ノアが手帳へ書き加える。


「その点も練習項目へ入れます」


「次は、紹介者と一緒に来た場合をやろう」


 レンが言った。


「説明が長すぎないかも確認したい」


 エルナが手を挙げた。


「今度は私が初来店客をやる」


「ちょっと質問が多い客ね」


「わざと困らせるのは駄目だよ」


 リリアが苦笑する。


「困らせるんじゃなくて、本当に分かりにくいところを聞くの」


 エルナはそう言いながら、入口へ向かった。


 ロイとディーノも位置を入れ替える。


 誰かが説明している間、誰が客席を見るのか。


 ほかの客が退店する場合、どちらが通路を空けるのか。


 説明書の文章だけではなく、立つ位置と動く順番まで確かめていく。


「紙を渡して終わりでは駄目ですよね」


 ミーナがノアへ尋ねた。


「読まない方もいると思います」


「大切なところは口で説明する」


 レンが答えた。


「紙は、あとで確認してもらうためのものにしよう」


「読まなかった客の責任です、とはしたくない」


 ノアが筆を止める。


「では、説明した者の名前も残しますか」


「どういうこと?」


「初来店の方へ、誰が規則を説明したのかです」


「あとから説明漏れが分かった時、客だけの問題にせず、店側の対応も確認できます」


 レンは少し考えた。


「残そう」


「客が何を話したかじゃなく、俺たちが何をしたかの記録だから」


 ノアは新しい項目を書いた。


 説明した日。


 紹介者。


 初来店客。


 説明を担当した者。


 確認した内容。


 客の秘密ではない。


 店が自分たちの仕事を曖昧にしないための記録だった。


「すみません」


 厨房の入口から、ティアが顔を出した。


「ルークさんが、味を見てほしいそうです」


「今行く」


 レンが立ち上がる。


 入口では、エルナが客役として次々に質問をしている。


 リリアは一つずつ答え、ディーノは二人の横を通って会計へ向かう動きを確認していた。


 ロイは少し離れた場所から、入口と客席の両方を見ている。


 誰か一人を迎えるために。


 店にいる全員が、同じ意味を共有しようとしていた。


 その頃。


 西通りから離れていく馬車の中では、カイルが何も描かれていない紙を広げていた。


 中央に大きく、入口と記す。


 その下へ続ける。


 紹介者不要。


 当日利用可。


 入場料。


 席の選択。


 接客係の指名。


 高級酒。


 舞台。


 顧客記録。


 カイルは、顧客記録の横で筆を止めた。


 何を残すか。


 何を宰相府へ渡すか。


 その境界は自分が決める。


 そう考え、項目の横へ小さく「経営者が管理」と書き加えた。


 Club Moon Dropでは、リリアが一枚の説明書を持って入口に立っている。


 誰か一人へ伝わるよう、言葉を選び直している。


 カイルの紙の上では、大勢を迎えるための店が、最初の輪郭を持ち始めていた。


 まだ店名はない。


 建物も手に入れていない。


 契約も結ばれていない。


 それでもカイルは、すでに最初の人材をどこから集めるか考え始めていた。


 紹介制を破る必要はない。


 その外側へ、より広く、より明るく、より多くの者を引きつける扉を作ればよい。


 Club Moon Dropとは異なる光を掲げる店は、まだ存在しない建物の中で、すでに客を迎え始めていた。

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