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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第106話 異なる欲望、重なる標的

 翌朝、カイル・バルドンは普段と変わらない時刻にバルド酒商会へ姿を見せた。


 正面の広い出入口では、夜明け前に到着した荷車から酒樽が下ろされている。


「北部産の赤葡萄酒、十二樽!」


「印を確認してから第三倉庫へ運べ!」


「西地区へ出す分は、昼までに荷車へ積み直せ!」


 納品書を読み上げる職員。


 樽を転がす運搬人。


 蓋や封印を確かめる職人。


 商会の朝は、いつもどおり慌ただしかった。


 王国宰相から非公式に呼び出され、新しい社交店の計画を見せられたからといって、酒の流れが止まるわけではない。


 カイルも、出会った職員へ普段どおり指示を出した。


「南の酒場へ送る三樽は、支払い確認後に出せ」


「承知しました」


「昨日届いた蒸留酒のうち、封印に傷のあった一本は鑑定へ回せ。問題がなければ値引きして売る」


「はい」


 外から見れば、いつもの営業責任者だった。


 だが、灰色の上着の内側には、昨日まで存在しなかった書類が入っている。


 Club Moon Dropより広い建物。


 紹介者を必要としない入口。


 歌や踊りを披露する舞台。


 多くの接客係。


 高級酒。


 そして、客の職業、支払額、同行者、交友関係まで残す顧客帳。


 自分の執務室へ入ったカイルは扉を閉じた。


 鍵まではかけない。


 不自然な行動をすれば、かえって周囲の注意を引く。


 上着から計画書を取り出し、机の上へ広げた。


 昨夜、馬車の中でも何度か読み返したものだ。


 それでも朝の光の下で見ると、華やかな新店舗の姿より先に、数字が目へ入った。


 建物の取得費。


 改装費。


 舞台設備。


 酒と食材の初期仕入れ。


 人材募集の費用。


 王都から演奏家を招くための報酬と滞在費。


 どれも、小規模な酒場を一軒開く金額ではない。


 計画どおり進めれば、バルド酒商会でさえ、何の準備もなく負担できる規模を超える。


 その資金を、宰相府と直接関係のない王都商人が融資するという。


「善意ではない」


 カイルは低く呟いた。


 商人が金を貸すのは、返済と利益を得るためだ。


 そこに問題はない。


 問題は、計画書に書かれていない部分だった。


 返済できなかった場合、何を失うのか。


 土地か。


 建物か。


 設備か。


 店名か。


 顧客帳か。


 それとも、経営者としての立場そのものか。


 ヴィットリオは、日々の経営はカイルへ任せると言った。


 だが金を出す者が、何の権利も持たないはずがない。


 カイルは新しい紙を取り出した。


 融資元。


 利率。


 返済開始時期。


 返済不能時の担保。


 経営者を解任できる条件。


 顧客帳の所有権。


 情報提供の範囲。


 王都から派遣される者の権限。


 一つずつ書き出していく。


 バルドの声が、頭の中へ残っていた。


 成功した時の利益だけを見るな。


 失敗した時、誰が何を失うのかを先に見ろ。


 成功すれば、ヴィットリオは人の集まる社交場を得る。


 融資した王都商人は利息を得る。


 カイルはClub Moon Dropを上回る店の経営者となる。


 では、失敗すれば。


 ヴィットリオは、宰相府は関与していないと距離を取れる。


 王都商人は担保を回収する。


 カイルだけが、巨額の借金と失敗した店の名を背負う可能性がある。


「分かりやすい罠なら、俺を選ぶ必要はない」


 カイルは筆先を止めた。


 ヴィットリオが欲しいのは、命じられるまま署名するだけの男ではない。


 店を作り、客を集め、利益を生み出せる経営者だ。


 最初から逃げ道のない契約を示せば、カイルが警戒することも分かっているはずだった。


 おそらく、最初は利益を与える。


 店が成功するほど離れにくくなる条件を、少しずつ積み上げる。


 そうして最後には、店の経営者でありながら、ヴィットリオの求める情報を断れない立場へ置く。


 そこまで考えたところで、カイルは小さく笑った。


「ならば、その前にこちらが利用すればいい」


 王都の資金。


 宰相府の人脈。


 大規模な建物。


 高い給金で集められる人材。


 それらを使い、店を成功させる。


 返済を終え、外部の支援を必要としない状態へ持っていけばよい。


 自分はいつまでも、バルドの下で営業責任者を続けるつもりはない。


 レンを負かすだけではない。


 自分の名で、大きな商売を動かす。


 その考えが胸へ熱を生んだ時、扉が叩かれた。


 カイルは計画書を伏せ、その上へ通常の販売報告書を重ねた。


「入れ」


「失礼いたします」


 入ってきたのは、部下のゴードだった。


 目立たない茶色の商会服。


 整えられた髪。


 街の酒場へ入っても、調査目的だと見抜かれにくい男である。


「お呼びでしょうか」


「ああ。Club Moon Dropについて、新しい報告はあるか」


 ゴードは持っていた紙を机へ置いた。


「大きな変化はありません」


「先日の問題を受けて、紹介者へ事前に伝える内容を整理しているようです」


「制度を緩める話は?」


「聞いておりません。むしろ、紹介前の説明を増やす方向です」


「面倒な入口を、さらに面倒にするのか」


「店側は、客数を増やすより、問題が起きる可能性を下げることを優先しているようです」


 カイルは報告書を手に取った。


「問題客を退店させた件について、ほかの会員はどう見ている」


「対応を評価する声が多いです」


「紹介した会員への措置が厳しすぎるという反発は?」


「本人の会員資格は残されています」


「新しい客を紹介できない期間が設けられただけなので、必要な措置だったと受け止められているようです」


 カイルは紙面から目を上げた。


「問題客だけを切り捨て、紹介者まで失うことは避けた」


「そのように見えます」


「厳しいようで、反発の広がりにくい線を選んだか」


 相手の行動をすべて保証させるわけではない。


 だが、紹介した以上は完全に無関係とも認めない。


 しかも紹介者が問題を止めようとしたことまで見た上で、会員資格は維持している。


 レン一人の判断か。


 店の者たちと相談して決めたのか。


 どちらにしても、問題が起きるたびにClub Moon Dropの制度は整っていく。


「働いている者に変化は?」


「厨房へ獣人の少女が加わっています。ティアという名です」


「本格的な料理人か」


「見習いです。現在は食材確認や下処理を担当しているようです」


「ほかには?」


「大きな入れ替わりはありません」


「エルナとディーノの交際も、勤務へ影響している様子は見られません」


 カイルの眉がわずかに動いた。


「その話まで調べたのか」


「隠している様子はありません。店の外で二人を見かけた者もいます」


「客は気にしていないのか」


「勤務中に互いを優先していないため、問題にする者は少ないようです」


 カイルは指先で机を軽く叩いた。


 小さな店だから、仲間同士の関係で保っている。


 以前はそう考えていた。


 だが実際には、近しい関係を持つ者がいても、仕事へ影響を出さない基準を決めている。


 人間関係を排除するのではない。


 店内へ持ち込ませない。


 それもまた、Club Moon Dropが客と働く者の両方から信頼を得ている理由なのだろう。


「調査は続けろ」


「承知いたしました」


「ただし、もう受付を試す必要はない」


 ゴードがわずかに顔を上げた。


「よろしいのですか」


「例外を認めないことは分かった」


「同じ手を繰り返せば、こちらの意図を知らせるだけだ」


「今後は周辺の酒場、商店、利用客から情報を集めろ」


「店へ入る場合も、正式な紹介を受けられる時だけにしろ」


「はい」


 ゴードは一礼したが、その場を動かなかった。


「何だ」


「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」


「言え」


「新しい店をお考えなのですか」


 カイルの目が止まる。


「なぜそう思う」


「最近は、Club Moon Dropの売上や客数だけではなく、働いている者の得意分野や、周辺で仕事を探している人材についても確認するよう指示されています」


「競合店の調査としては、以前より範囲が広いと感じました」


「お前が知る段階ではない」


「失礼いたしました」


 ゴードはすぐに頭を下げた。


 忠実だが、何も考えていない男ではない。


 指示の変化から、カイルが別の準備をしている可能性へ気づいたのだ。


「ゴード」


 退室しようとした男が振り返る。


「仮の話だ」


「はい」


「紹介者を必要とせず、歌や踊りを見せ、大勢の客を一度に受け入れる社交店ができたとする」


「お前なら利用するか」


 ゴードはすぐには答えなかった。


「客として、でしょうか」


「そうだ」


「一度は行くと思います」


「一度だけか」


「華やかな店には興味があります」


 ゴードは言葉を選びながら続けた。


「ただ、仕事の相談や、外へ知られたくない話をするなら、静かな店を選ぶかもしれません」


「Club Moon Dropを選ぶと?」


「同じように安心して話せる店がほかになければ」


 カイルは目を細めた。


「なぜ、安心できると思う」


「客の会話を外へ広めないと聞いております」


「噂を信じるのか」


「少なくとも、店の者から客の相談内容が漏れたという話は聞きません」


「大きな店でも、守らせればいい」


「それが徹底されているなら、利用する理由になります」


 ゴードは意見を変えなかった。


 カイルはしばらく黙り、やがて手で退室を示した。


「下がれ」


「はい」


 扉が閉じたあと、カイルは重ねていた報告書をどけた。


 その下から、ヴィットリオの計画書が現れる。


 広い客席。


 華やかな舞台。


 多くの接客係。


 安くはない入場料。


 高級酒。


 それだけでClub Moon Dropの客をすべて奪うことはできない。


 静かに話したい客。


 自分の悩みを外へ知られたくない客。


 規則が守られることに価値を感じる客。


 そうした者は残る。


 だが、すべてを奪う必要はない。


 客数で上回る。


 売上で上回る。


 人材を集める。


 街の話題を支配する。


 Club Moon Dropが新しい客を得られなくなれば、いずれ成長は止まる。


 それでも、ゴードの言葉が残った。


 客の会話を外へ広めない。


 ヴィットリオが最も危険視しているのは、まさにその部分だった。


 カイルが欲しいのは、成功する社交店だ。


 ヴィットリオが欲しいのは、人が集まり、その関心や交友関係を把握できる場所。


 同じ店を求めているようで、見ているものは違う。


 その違いが、いずれ問題になる可能性はある。


 だが、まだ契約すら結んでいない。


 今から考えることではない。


 カイルはそう結論づけ、計画書を引き出しへ戻した。


 ◇◇◇


 昼を過ぎた頃、カイルのもとへ小さな封書が届いた。


 前日と同じ紺色の封蝋は使われていない。


 差出人は、王都で建物や娯楽事業へ融資している商人の代理人となっていた。


 内容は簡潔だった。


 新しい社交事業について追加の確認がある。


 今夜、前日と同じ店へ来てほしい。


 宰相府の名はどこにもない。


 だが、誰の意向であるかは明らかだった。


 七日の猶予を与えると言いながら、翌日には再び呼び出す。


 ヴィットリオもまた、昨夜の会談だけでカイルを信用してはいないのだろう。


 計画へ乗るのか。


 バルドへすべてを話したのか。


 どの程度まで情報提供を受け入れるのか。


 確かめるつもりなのかもしれない。


 カイルは出席の返事を出した。


 朝に書き出した確認事項を、持ち運べる紙へ清書する。


 今夜は、相手の話を聞くだけでは終わらせない。


 自分が何を得て、何を失う可能性があるのか。


 その境界を見極めるつもりだった。


 ◇◇◇


 夜。


 カイルが案内されたのは、前夜とは別の個室だった。


 少し狭く、卓上に料理はない。


 酒と水だけが用意されている。


 窓には厚い布が下ろされ、外から室内をうかがうことはできなかった。


 ヴィットリオはすでに席へ着いていた。


 昨夜同席していた若い文官の姿はない。


「連日呼び出して悪いな」


「必要があるからお呼びになったのでしょう」


「そうだ」


 ヴィットリオは向かいの席を示した。


「昨夜の話を受けて、君がどのように考えたのか聞きたい」


「まだ返答は決めておりません」


「七日は待つ」


「ですが、考えを聞くために翌日には呼ばれた」


 カイルは椅子へ腰を下ろした。


 ヴィットリオの目に、かすかな笑みが浮かぶ。


「不満か?」


「いいえ。私にも確認したいことがあります」


「聞こう」


 カイルは用意した紙を卓上へ置いた。


「融資元となる商人」


「利率と返済開始時期」


「返済不能となった場合の担保」


「経営者を解任できる条件」


「顧客帳の所有権」


「提供する情報の範囲」


 ヴィットリオは紙へ目を落とした。


「一晩でよく考えたようだ」


「考えずに受け入れれば、私は経営者ではなく名義人になります」


「昨夜の様子では、もっと早く飛びつくと思っていた」


「執着だけでよいなら、私を選ぶ必要はありません」


 カイルは正面から見返した。


「Club Moon Dropを嫌う者を探せば済む」


「私を呼んだのは、実際に店を成立させられると判断したからでしょう」


「そのとおりだ」


 ヴィットリオは認めた。


「私は、命じられたことしかできない者へ、大きな店を任せるつもりはない」


「ならば、条件を明確にしてください」


「よいだろう」


 ヴィットリオが卓上の呼び鈴を鳴らす。


 しばらくして、中年の男が入室した。


 上質な服を身につけているが、商会を示す紋章はない。


 表情からは、相手へ必要以上に取り入ろうとする様子も見えなかった。


「王都で不動産と娯楽事業への融資を行っている、エドガルド・サヴィーニだ」


「お会いできて光栄です」


 エドガルドはカイルへ一礼した。


「計画が進む場合、資金は私の商会から出します」


「返済条件を伺いたい」


 カイルはすぐに本題へ入った。


「総額は物件と改装内容を確認してから決めます」


 エドガルドは落ち着いて答える。


「開店後、半年は元金の返済を求めません。利息のみです」


「七か月目から返済を始め、五年以内の完済を基本とします」


「担保は?」


「建物の権利、設備、店名を含む営業権です」


「顧客帳も含まれるのですか」


「店の運営に必要な記録は、営業資産の一部として扱います」


 予想どおりだった。


 カイルはヴィットリオへ視線を向ける。


「店が失敗しても、記録は残る」


「商人が担保を求めるのは当然だ」


「記録を手に入れることも、計画の目的ですか」


「目的の一つではある」


 ヴィットリオは隠さなかった。


「君がすでに気づいていることを否定しても、意味はない」


「店が成功すれば、多くの客と情報が集まる」


「失敗しても建物と営業権が残れば、別の経営者へ任せられる」


「つまり、始める者として私が必要でも、最後まで私である必要はない」


「結果を出し続ける限り、君が経営者だ」


 簡潔な返答だった。


 ヴィットリオにとって、人より仕組みが重要なのだ。


「解任できる条件は?」


「返済の長期延滞」


 エドガルドが答える。


「重大な契約違反」


「資産の無断売却」


「顧客記録の意図的な隠匿や破棄」


「店の信用を著しく損なう犯罪行為です」


「売上が想定より低いだけで解任されることは?」


「ありません。ただし返済できなければ、いずれ営業権を失います」


「明快ですね」


「曖昧な契約は、双方のためになりません」


 少なくともエドガルドは、ヴィットリオの意思を隠すためだけの名義人ではない。


 融資を行う商人として、利益と担保を確実に得るつもりだ。


「情報の提供範囲は?」


 カイルが尋ねると、ヴィットリオが答えた。


「客の氏名、職業、同行者、利用金額、来店頻度」


「好む酒や接客係」


「交流のある相手」


「仕事や政治に関する主な関心」


「必要な項目を定期的にまとめてもらう」


「私的な相談まで記録させるおつもりですか」


「すべてではない」


「では、何を残し、何を残さないかは誰が決める」


「基準はこちらで示す」


「日々の判断は、君と店の責任者へ任せる」


「こちらが不要と判断した情報を残さなければ、契約違反になりますか」


「意図的に隠した場合はな」


「判断が食い違った場合は?」


「協議する」


 聞こえはよい。


 だが力を持つ側が協議を求めれば、弱い側が拒み続けるのは難しい。


「客へは、どこまで説明しますか」


「接客向上と安全管理のため、利用記録を残すと伝える」


「外部へ提供することも?」


「規則へ記載はできる」


 ヴィットリオは一拍置いた。


「ただし、入口で一人ずつ詳しく読み上げる必要はない」


「読まなかった客の責任にするのですか」


「示している以上、隠してはいない」


 Club Moon Dropとは正反対だった。


 あの店は、本人確認と安全に必要な情報だけを残す。


 相談内容や家族の事情、仕事上の悩みは記録しない。


 カイルは以前、その方法を非効率だと考えていた。


 情報を持てば、高額な酒を勧める相手も分かる。


 商談へ利用できる人間関係も見える。


 客の欲望を知れば、次の利益へつなげられる。


 だが、客が十分に理解しないまま宰相府へ情報を渡すことは、通常の顧客管理とは違う。


「閣下は、Club Moon Dropを最終的にどうしたいのですか」


 カイルは尋ねた。


「管理できない社交場の影響力を失わせたいと話したはずだ」


「その先です」


 カイルは退かなかった。


「店を閉じさせたいのか」


「制度を変えさせたいのか」


「会員情報を提出させたいのか」


 ヴィットリオはしばらく答えなかった。


 エドガルドも口を挟まず、二人を見ている。


「最も望ましいのは、必要な情報を店側から得られることだ」


 やがてヴィットリオが答えた。


「Club Moon Dropは受付制度と会員帳を持っている」


「誰が利用しているかは、店側が把握している」


「犯罪や政治的な動きにつながる情報だけでも共有すれば、危険は減る」


「レンが応じなければ?」


「客が別の店を選び、影響力が小さくなればよい」


「それでも残った場合は?」


「その時に考える」


「閉店へ追い込むことも否定はしないのですね」


「違法な手段を使えとは言っていない」


 ヴィットリオの口調は変わらなかった。


「より多くの客が新しい店を選ぶ」


「働く者も、より高い給金と大きな舞台を選ぶ」


「その結果、Club Moon Dropが経営を続けられなくなるなら、市場による選択だ」


 ヴィットリオは自分の手で店を潰すつもりはない。


 別の店へ客と人材を移し、残った結果だけを受け入れる。


 失敗した責任はレンに残る。


 その考えは、カイルが望んでいた方法と近かった。


 ただし、その先にある目的は異なる。


「君はどうしたい」


 ヴィットリオが逆に尋ねた。


「Club Moon Dropの客を奪うだけで満足するのか」


「レンへ負けを認めさせたいのか」


 カイルはすぐに答えなかった。


 以前なら、閉店させると迷わず言っていただろう。


 だが、今は違う欲望が生まれている。


「私は、自分の店を成功させたい」


 カイルはゆっくりと言った。


「Club Moon Dropより多くの客を集める」


「高い売上を作る」


「優れた人材を得る」


「ルミナスで最も注目される社交店にする」


「その結果として、レンの店が続けられなくなるなら構いません」


「だが、閉店させることだけを目的に店を作るつもりはない」


 ヴィットリオはわずかに笑った。


「安心した」


「なぜですか」


「憎しみだけで動く者は、店を育てられない」


「君が自分の成功を望んでいるからこそ、任せる価値がある」


「閣下は、店が失敗した場合にも備えている」


「当然だ」


「成功する方がよい」


 ヴィットリオは迷いなく答えた。


「多くの客が集まり、利益が出て、情報も集まる」


「それが最善だ」


「だが私は、失敗すれば何も残らない計画を認めない」


「君が失敗しなければ問題はない」


 冷たいが、分かりやすい。


 ヴィットリオはカイルを成功させたいのではない。


 必要な仕組みを作るため、成功する可能性が高い者として選んだだけだ。


 カイルも、宰相へ情を求めてはいなかった。


「Club Moon Dropから人材を引き抜くことは認められますか」


「違法でなく、本人が望むなら止める理由はない」


「客へ新しい店を勧めることは?」


「選ぶのは客だ」


「では、悪評を流すことは」


 ヴィットリオの目がわずかに鋭くなった。


「必要ない」


「なぜですか」


「新しい店が本当に優れているなら、比較によって客は移る」


「嘘を使えば、露見した時にこちらの信用が傷つく」


「君は以前、それで失敗しているはずだ」


 カイルの表情が硬くなる。


「そこまで調べておられましたか」


「同じ失敗を繰り返す男へ、資金を出すつもりはない」


 ヴィットリオは静かに続けた。


「Club Moon Dropを上回りたいなら、正面から上回れ」


「広さ」


「華やかさ」


「酒の種類」


「舞台」


「給金」


「利用しやすさ」


「相手が持たないものを示せ」


「紹介制の穴を探す必要はない」


「紹介を必要としない店を作ればよい」


「会員証を盗む必要も、受付を欺く必要もない」


「Club Moon Dropの扉の外にいる者へ、こちらの扉を開け」


 カイルは、その言葉に強く引かれた。


 紹介を受けられない者。


 正式会員として認められなかった者。


 予約が取れなかった者。


 静かな会話より、華やかな時間を求める者。


 身分や支払額に応じた特別扱いを望む者。


 Club Moon Dropが積極的に迎えようとしない客は、数多く存在する。


 同じ客だけを奪い合う必要はない。


 相手が閉じている入口を、すべて開けばよい。


「私からも条件があります」


 カイルは言った。


「聞こう」


「顧客帳へ記録する項目は、契約前に明文化してください」


「後から際限なく増やされては、店の信用を維持できません」


「情報提供を理由に、宰相府の者が日々の営業へ直接命令することも認めない」


「報告窓口は一つに限定する」


「人事、給金、酒の仕入れ、接客方針は私が決める」


「営業権を失った場合も、私個人へ無制限の負債が残る契約には応じません」


 エドガルドの口元がわずかに緩んだ。


「商人らしい条件です」


「当然です」


「検討しましょう」


 ヴィットリオも拒まなかった。


「ただし、こちらにも譲れない点がある」


「Club Moon Dropへ対抗する店であることだ」


「単に大きな酒場を作るだけでは意味がない」


「身分の異なる者が集まり、新しい関係を生む場所にする」


「そして、その動きを把握できるようにする」


「理解しています」


「本当に?」


 ヴィットリオは試すように問いかけた。


「君は昨夜、酒を飲んだあと考えていた」


「Club Moon Dropなら、どのように出すか比べていたのだろう」


 カイルの目がわずかに動く。


「お気づきでしたか」


「競争相手から学ぶことは悪くない」


 ヴィットリオは頷いた。


「ただし、同じ店を作るな」


「レンが一人の客へ時間を使うなら、君は大勢を一度に楽しませろ」


「レンが時間をかけて人を育てるなら、君は技術を持つ者を高値で集めろ」


「レンが紹介者を求めるなら、君は入場料を払える者へ入口を開け」


 そこでヴィットリオは一度言葉を切った。


「レンが客の秘密を残さないなら、君は情報を商売へ変えろ」


 最後の言葉だけは、カイルの胸へ重く沈んだ。


 だが、同じ店を作っても、すでに信用を積み上げているClub Moon Dropには勝てない。


 正反対の価値を作る必要がある。


 大きさ。


 速さ。


 華やかさ。


 競争。


 高い給金。


 情報。


「まだ正式な返答ではありません」


 カイルが言った。


「分かっている」


「ですが、候補物件は確認したい」


「明日の午後、案内させよう」


 ヴィットリオはエドガルドへ視線を向けた。


「手配しておけ」


「承知いたしました」


「人材についても、個人で調査を始めます」


 カイルは続けた。


「バルド酒商会の職員は使いません」


「会長から許可を得ていない以上、商会の資金と信用を無断で利用するつもりもありません」


「バルド・グランツは反対しているのか」


「宰相府からの呼び出しへ応じることには反対しました」


「計画の内容は、まだ話していません」


「会長を恐れている?」


「違います」


 カイルは即座に否定した。


「商会の信用と資金は、会長が預かっている」


「自分に権限のないものを使わないだけです」


「なるほど」


 ヴィットリオは満足そうに頷いた。


「君はバルドへ反発しながらも、商人としての境界は守る」


「だから使える」


「また、使うという言葉ですか」


「互いに利用する関係だと、君自身が言ったはずだ」


 カイルは薄く笑った。


「そうでした」


 それからも話は続いた。


 必要な接客係の人数。


 舞台へ立つ者。


 黒服。


 料理人。


 演奏家。


 受付方法。


 入場料。


 酒の価格帯。


 正式な契約前であるにもかかわらず、カイルは次々と意見を出した。


 自分では、条件を確認しているだけだと思っている。


 だが実際には、すでに計画を受け入れた後のことを考えていた。


 カイルが欲しいのは、商人としての成功。


 ヴィットリオが欲しいのは、人の動きを把握できる社交場。


 エドガルドが欲しいのは、融資による利益と確実な担保。


 三人は、同じ未来を見ていない。


 互いを信頼しているわけでもない。


 それでも、Club Moon Dropの客と影響力を減らすという一点だけは、確かに重なっていた。


 ◇◇◇


 会談を終えたカイルは、御者へ商会へ戻るよう命じた。


 すでに夜も遅い。


 バルドは帰宅している可能性が高い。


 それでも、確認しておきたい資料があった。


 閉店した酒場。


 仕事を探している演奏家。


 貴族家や大商家を辞めた使用人。


 宴会を扱える料理人。


 大人数の客を案内した経験を持つ元店主。


 Club Moon Dropが時間をかけて人を育てるなら、こちらは完成された技術を金で集める。


 そのためには、誰がどこにいるのかを先に知る必要がある。


 馬車の窓から、西通りへ続く道が見えた。


 Club Moon Dropの前には、小さな灯りがともっている。


 広くはない入口。


 限られた客席。


 紹介者を求める受付。


 カイルはその方向を見つめた。


「今のうちだ」


 さらに客が増える前に。


 新しい人材が育つ前に。


 店を広げる前に。


 王都との関係が深まる前に。


 より大きな店を作り、街の話題を奪う。


 ただし、ヴィットリオの店にはしない。


 経営するのは自分だ。


 情報を求める宰相。


 利益と担保を求める王都商人。


 Club Moon Dropを上回り、自分の名を残したいカイル。


 誰も同じものを望んではいない。


 だからこそ、最後に最も多くを得るのは自分でなければならない。


 カイルは胸元の計画書へ触れた。


 まだ契約はしていない。


 正式な返事もしていない。


 だが明日には候補となる建物を見る。


 人材の調査も始める。


 計画を断るかどうかではない。


 すでに、どのように成功させるかを考えている。


 その変化を認めれば、バルドの警告が正しかったことになる。


 カイルは、自分の意思で選んでいるのだと考えた。


 ◇◇◇


 カイルの馬車が去ったあとも、高級社交店の個室にはヴィットリオとエドガルドが残っていた。


「契約すると思われますか」


 エドガルドが尋ねる。


「する」


 ヴィットリオは迷わなかった。


「危険を理解している男です」


「だから断る可能性もあるのでは?」


「逆だ」


 ヴィットリオは、カイルが持ってきた確認事項の紙へ目を落とした。


「危険を理解した上で、自分なら制御できると考えている」


「条件を変え、こちらを利用し、最後には店を自分のものにできると思っている」


「実際、その能力はあるでしょう」


「だから選んだ」


「失敗すれば?」


「別の経営者を置く」


「成功すれば?」


「店も情報も手に入る」


 エドガルドはしばらくヴィットリオを見つめた。


「カイル・バルドンは、自分の成功のために店を使う」


「閣下は、人の動きを知るために店を使う」


「いずれ衝突します」


「いずれはな」


 ヴィットリオは否定しなかった。


「だが、今ではない」


「今、彼が見ているのはレンという少年だ」


「Club Moon Dropを上回るまで、こちらとの関係を切ることはない」


「レンは?」


「まだ気づいていない」


 ヴィットリオは窓を覆う厚い布へ目を向けた。


「Club Moon Dropは、一人ずつ信頼を積み上げる店だ」


「ならば、こちらは積み上げる時間を与えなければよい」


 ◇◇◇


 同じ頃。


 Club Moon Dropでは、最後の客を送り出したあと、ロイとディーノが客席の椅子を整えていた。


 ロイは入口近くの卓を戻しながら、床へ酒がこぼれていないか確かめる。


 ディーノは空いたグラスを厨房へ運び、戻る途中で窓の留め具へ目を向けた。


「少し緩んでいます」


「明日の昼に確認しよう」


「はい」


 受付だけではない。


 配膳。


 片付け。


 店内の安全確認。


 二人は必要な場所へ自然に動いていた。


 厨房では、ルークが鍋の火を確かめ、ティアが洗い終えた器具を戻している。


「その小鍋は右の棚だ」


「はい」


 ティアは棚へ置いたあと、一度離れて位置を見直した。


「これで合っていますか」


「ああ。次に使う者が取りやすい向きになっている」


 ノアは帳場近くで、その日の営業記録をまとめていた。


 予約変更が一件。


 料理の提供が遅れた卓が一つ。


 欠けたグラスが一つ。


 紹介者向け説明書の下書きが未完成。


 客が誰と何を話したかは記さない。


 店を安全に続けるために必要なことだけを残す。


「明日の昼までに、説明書の下書きを作ります」


 ノアが言った。


「頼む」


 レンは会計を確認しながら頷いた。


「長くなりすぎないようにします」


「紹介する人が読む前から嫌になると困るからね」


 エルナが笑う。


「でも、大切なところは抜かない方がいいよね」


「はい」


 ノアは手帳へ目を落とした。


「来店前に、店の方針を同行者へ伝えること」


「問題が起きた時は、黒服の対応を妨げないこと」


「紹介者が危険を冒して、問題客を力ずくで止める必要はないこと」


「ただし、紹介した以上は、問題が起きた後の話し合いへ参加していただくこと」


「それでいいと思う」


 レンは答えた。


「規則を増やすことが目的じゃない」


「誰かを疑うためでもない」


「何かあった時に、誰が何をするのか分からなくならないようにするためだ」


 リリアが静かに頷いた。


「先日の紹介者の方が、また来店された時は、普段どおりお迎えしてよいのですよね」


「もちろん」


「紹介できない期間はあるけど、本人の会員資格まで失ったわけじゃない」


「分かりました」


 リリアの表情が少し和らいだ。


 ティアも厨房の入口から会話を聞いている。


「紹介した人も、もう来てはいけないのかと思っていました」


「その人自身が、店の決まりを無視したわけじゃないからね」


 レンが答えた。


「何が起きたかを、全部同じにして考えないようにしたい」


「はい」


 ティアは小さく頷いた。


 Club Moon Dropは、大勢を一度に迎える店ではない。


 問題が起きれば、話し合う。


 必要なら規則を見直す。


 誰を守るための決まりなのかを、一つずつ確かめる。


 その進み方は遅い。


 だが、レンたちは急いでいるつもりもなかった。


 自分たちの知らないところで、速さと規模を武器にする新しい店が動き始めていることも知らない。


 宰相が、客の会話と交友関係を集めようとしていることも。


 カイルが、明日には候補となる建物を見に行くことも。


 まだ何一つ届いていなかった。


 ただ、その夜。


 Club Moon Dropでは、欠けたグラスと緩んだ窓の留め具が記録された。


 高級社交店の個室では、人の欲望と秘密を集めるための計画が進められた。


 一方は、小さな危険を見落とさないために記録する。


 もう一方は、人の動きを把握するために記録する。


 同じように帳面を開きながら、二つの店が目指すものは正反対だった。


 まだ名前さえ持たない新しい店は、Club Moon Dropを標的として動き始めている。


 そして、その店を作ろうとする者たちもまた、互いを利用する機会を狙っていた。

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