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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第105話 宰相が選んだ商人

 朝のバルド酒商会には、荷車の車輪が石床を鳴らす音と、職員たちの呼び声が絶え間なく響いていた。


 正面の広い出入口からは、大小さまざまな酒樽を積んだ荷車が次々と入ってくる。


 荷受けを担当する職員が納品書と樽に刻まれた印を照合し、運搬人たちへ倉庫の位置を指示する。


 別の一角では、各地の酒場や商店へ送られる樽が並べられていた。


 縄の緩み。


 蓋の浮き。


 封印の欠け。


 輸送中に問題が起きないよう、職人たちが一つずつ確かめている。


 酒を運ぶ者。


 契約を管理する者。


 在庫を数える者。


 取引先を回る者。


 新しい酒を探す者。


 バルド酒商会は、一人の会長だけで動いている組織ではない。


 何十人もの職員と、多くの生産者や取引相手によって、ルミナスと周辺地域の酒の流れを支えていた。


 その商会本部の二階。


 営業責任者であるカイル・バルドンは、自分の執務室で複数の報告書へ目を通していた。


 机の上には、前月の販売量、取引先ごとの支払い状況、新規契約の見込み、納品の遅れ、金獅子亭やClub Moon Dropに関する調査結果が並べられている。


 その中でも、カイルが何度も手に取っていたのは、Club Moon Dropについてまとめられた報告書だった。


 正式会員が伴ってきた初来店客が、女性キャストへ無礼な言葉を繰り返した。


 問題客には退店を求めた。


 紹介者本人の会員資格は維持された。


 ただし、新しい客を紹介する権限は、一定期間停止された。


 カイルは、その部分へ指先を置いた。


「面倒な制度だ」


 誰へ聞かせるでもなく呟く。


 Club Moon Dropへ初めて入るには、原則として正式会員の紹介が必要になる。


 紹介者本人と共に受付へ立ち、店の規則を聞く。


 一度利用しただけで、すぐ正式会員になれるわけでもない。


 店内での振る舞いと本人の意思を確認し、店側から認められて初めて、一人で利用できるようになる。


 金を持っている。


 身分が高い。


 有名な商会に属している。


 それだけでは、入口を越えられない。


 さらに、紹介した客が問題を起こせば、紹介者にも一定の制限が加えられる。


 店へ来る者の数だけを増やすなら、非効率的な仕組みだった。


 入口を広く開く。


 利用条件を少なくする。


 支払える者は受け入れる。


 高額な酒を注文する客には、より多くの時間と人員を使う。


 そうした方が、短い期間で売上を伸ばせる。


 少なくとも、カイルはそう考えていた。


 だが、報告書には別の結果も記されている。


 問題客を退店させたあとも、店内のほかの客は大きく騒がなかった。


 女性キャストは接客を続けた。


 紹介者も店側の措置を受け入れた。


 騒ぎが店全体へ広がらなかったのは、黒服とキャストが早く対応したからだと報告されている。


 カイルは紙面を睨むように見つめた。


「客を減らす仕組みのはずが、残った客の信頼を増やしている」


 それが、厄介だった。


 紹介権を止められた者が反発し、ほかの会員も制度を窮屈だと感じる。


 カイルはそう予想していた。


 だが実際には、問題を放置しない店として評価する声が出ている。


「客の数を増やしたいのか、選びたいのか……相変わらず分かりにくい店だ」


 報告書を閉じた時、執務室の扉が叩かれた。


「入れ」


「失礼いたします」


 若い職員が扉を開き、両手で一通の封書を持って入ってきた。


「カイル様宛てに、使者の方が届けに来られました」


「取引先からか?」


「いえ」


 職員の声には、隠しきれない緊張があった。


「宰相府からです」


 カイルの手が止まった。


「宰相府?」


「はい。正式な使者の装いではありませんでしたが、封蝋を確認したところ、宰相府で使用されているものに間違いないとのことです」


 職員は慎重に封書を机へ置いた。


 厚手の白い紙。


 表には、カイル・バルドン本人へ直接渡すよう記されている。


 裏には、深い紺色の封蝋。


 刻まれているのは、剣と天秤を組み合わせた紋章だった。


 王国宰相ヴィットリオ・フォン・モンテフェルトが使用する印である。


 カイルはすぐに手を伸ばさなかった。


「使者は?」


「返事は不要だと言い残し、すでに帰られました」


「誰かに見られたか」


「受付と、封書を運んだ私だけです」


「内容は?」


「もちろん確認しておりません」


「分かった。下がれ」


「はい」


 職員が退室すると、室内へ静けさが戻った。


 カイルは椅子へ背を預け、封書を見つめた。


 宰相府が、なぜ自分へ直接書状を送るのか。


 バルド酒商会はルミナスでも大きな影響力を持っている。


 だが、王都の政務を担う宰相が、一地方商会の営業責任者へ個人的な連絡を寄越す理由は多くない。


 王宮への酒の納入。


 新しい税制。


 流通に関する調査。


 いくつか可能性を考えたが、どれもしっくりこなかった。


 王宮への納入であれば、会長のバルドへ話が届くはずだ。


 商会ではなく、カイル個人を指名している。


 そこには、別の意図がある。


 カイルは細い刃を取り出し、封蝋を崩さないよう慎重に開いた。


 中に入っていた紙は一枚だけだった。


 文章は短い。


 翌日の夜。


 ルミナス中心部にある高級社交店の個室。


 今後の酒流通と、新しい社交事業について意見を聞きたい。


 同行者は認めない。


 書状については、不要に他言しないよう求める。


 最後には、宰相府に属する文官の名が記されていた。


 ヴィットリオ本人の署名はない。


 正式な命令でも、王宮からの招待でもない。


 それでも、宰相府の意向であることは間違いなかった。


 カイルは二度、三度と文章を読み直した。


「新しい社交事業……」


 酒流通だけではない。


 その言葉に、思い当たるものがあった。


 Club Moon Drop。


 王都の関係者があの店を調べていることは、ゴードからの報告や、周辺の商人から集めた情報によって把握していた。


 王宮文書官らしき人物が来店し、受付方法、黒服の人数、キャストとのやり取りを観察していたという話もある。


 会員名簿の提出を求めた者がいたことも、完全な形ではないが耳に入っている。


 宰相府は、Club Moon Dropに関心を持っている。


 そしてカイルも、あの店を調べ続けてきた。


「なるほど」


 口元がわずかに上がった。


 宰相府は、自分の商才を評価したのかもしれない。


 既存の酒市場へ突然現れたレンの酒を、早い段階で危険視した。


 金獅子亭へ圧力をかけ、製法や流通を商会の管理下へ置こうとした。


 結果としてレンを囲い込むことはできなかったが、脅威を見抜いた判断そのものが間違っていたとは思っていない。


 Club Moon Dropについても、受付、会員制度、役割分担、客層、紹介者の責任まで調べてきた。


 王都の者が自分へ声をかけたのは、その能力を認めたからではないか。


 商会内では、バルドがレンを一人の商人として認めている。


 酒の販売を妨げるどころか、物件契約や資金面で助言まで与えた。


 レンを危険視するカイル。


 成長を見守ろうとするバルド。


 二人の考えは、すでに大きく分かれている。


 もし宰相府から直接評価されれば、商会内での自分の立場も変わる。


 会長の判断より、自分の判断が正しかったと示す機会になるかもしれない。


 地方の営業責任者ではなく、王都の政策に関わる商人となる。


 カイルは書状を折り直し、机の引き出しへ収めた。


 鍵をかけようとしたところで、手が止まる。


 書状には、他言しないよう求める言葉がある。


 だが、完全な口止めではない。


 このままバルドへ何も知らせずに出向けば、後から商会を巻き込む話になった時に問題が生じる。


 カイルは迷った。


 バルドへ見せれば、招待を断るよう命じられるかもしれない。


 あるいは、会長である自分が行くべきだと言われる可能性もある。


 宰相府が選んだのは、カイルだ。


 その機会を手放すつもりはなかった。


 それでも、商会の肩書を持つ以上、完全に隠して動くのは危険だった。


 しばらく考えた末、カイルは書状を手に立ち上がった。


 ◇◇◇


 バルド・グランツの執務室は、カイルの部屋よりも広かった。


 だが、高価な装飾品が並べられているわけではない。


 大きな机。


 各地の街道と酒の産地が記された地図。


 取引先から贈られた酒瓶。


 過去の帳簿を収めた棚。


 商会の会長室というより、長年商売を続けてきた男の仕事場だった。


 カイルが入室すると、バルドは開いていた取引帳を閉じた。


「どうした」


「少し、お時間をいただきたいことがあります」


「珍しいな。お前から時間を求めるとは」


 バルドは向かいの椅子を示した。


 カイルはすぐには座らず、書状を机へ置いた。


「先ほど、私宛てに届きました」


 バルドは封蝋を見る。


 表情はほとんど変わらなかったが、目の奥に警戒が浮かんだ。


「開いても?」


「どうぞ」


 バルドは書状を取り出し、一度だけ目を通した。


 読み終えると、紙を机へ置いた。


「行くな」


 あまりに早い返答だった。


 カイルの眉が動く。


「内容を確認した上での判断ですか?」


「だから言っている」


「宰相府からの招待です」


「正式な招待ではない」


 バルドは書状を指で軽く叩いた。


「王宮へ来いとも、商会を代表して意見を聞きたいとも書いていない」


「同行者を禁じ、他言を控えさせ、宰相府とは直接関係のない店へ呼び出している」


「表へ出せない話をするということです」


「そうだ」


「ならば、なおさら価値があるのではありませんか」


 バルドの目が細くなる。


「何の価値だ」


「王都とのつながりです」


 カイルは椅子へ腰を下ろした。


「商会がさらに大きくなるには、王都との関係が必要です」


「宰相府が私へ声をかけたのなら、機会を捨てる理由はありません」


「お前へ声をかけた理由を、都合よく考えすぎている」


「私はClub Moon Dropの仕組みを調べてきました」


 カイルは答えた。


「宰相府も、あの店へ関心を持っている」


「私が呼ばれた理由は、そこにあるはずです」


「必要とされているのか、使われようとしているのかは分からん」


「商売では、利用されることと利用することは両立します」


「互いに利益があるなら問題ありません」


 バルドは太い指を机の上で組んだ。


「お前は何を望んでいる」


「商会の利益です」


「それだけか」


「それ以外に何があるのですか」


「レンを負かしたい」


 低い声だった。


 カイルの表情が硬くなる。


「そのためなら、宰相の力を借りてもよいと考えている」


「個人的な感情だけで動いているわけではありません」


「Club Moon Dropが成長すれば、酒商会の影響力は下がります」


「新しい市場を作る者が現れるたび、押さえつけるつもりか」


「管理できなければ、商会の存在意義が失われます」


「違う」


 バルドは短く言った。


「商会の仕事は、すべての酒と店を支配することではない」


「酒を必要とする場所へ運び、作り手と売り手をつなぎ、互いに利益を得られるようにすることだ」


「市場を管理することも必要です」


「市場が壊れないよう整えることと、自分の言うことを聞かない相手を潰すことは違う」


 カイルは口を閉ざした。


「会長は、あの少年を高く評価しすぎています」


「お前は低く見積もりすぎた」


 バルドは即座に返した。


「酒を押さえれば終わると思った」


「悪評を流せば客が離れると思った」


「だが、あの店は酒だけで成り立っていない」


「分かっています」


「本当に分かっている者は、ゴードを使って受付を試すような真似はしない」


 カイルの視線が鋭くなる。


「ご存じだったのですか」


「商会の人間を動かせば、いずれ耳へ入る」


「店へ危害は加えていません」


「受付が例外を認めるか確かめただけです」


「お前は調査と呼ぶ」


 バルドはカイルから視線を外さなかった。


「だが、相手から見れば、自分たちの決まりへどこから手を入れられるか探られたことになる」


「呼び方は、自分だけでは決められん」


 カイルは返さなかった。


 バルドは書状へ視線を落とす。


「今回も同じだ」


「宰相が何を望んでいるのか分からないまま、自分が評価されたと思い込むな」


「では、会長ならどう考えますか」


「Club Moon Dropを調べている宰相が、お前を呼ぶ」


「お前があの店へ対抗心を持ち、過去に妨害したことも把握している可能性が高い」


「必要としているのは、お前の商才だけではなく、執着かもしれん」


「執着も、正しく使えば力になります」


「正しく使っていないから言っている」


 室内へ重い沈黙が落ちた。


 カイルは声を荒らげなかった。


 だが、胸の奥では苛立ちが膨らんでいた。


 自分は長年、この商会の利益を増やしてきた。


 新しい取引先を開拓し、売れ残る酒の販路も作った。


 それなのに今は、一人の少年と比べられている。


「私は行きます」


 カイルは静かに言った。


 バルドは驚かなかった。


「そう言うと思っていた」


「なら、なぜ行くなと?」


「考えずに飛びつくなと伝えるためだ」


「話を聞いてから判断します」


「断るべき内容なら断ります」


 バルドはカイルをじっと見つめた。


「本当に断れるのか」


「当然です」


「宰相から、お前が望んでいたものを示されても?」


「私が望んでいるものとは?」


「レンの店を上回る機会だ」


 カイルは答えなかった。


 それが答えでもあった。


 バルドは小さく息を吐く。


「一つだけ覚えておけ」


「何でしょう」


「宰相が相手でも、契約は契約だ」


「支援という言葉で条件を隠す者はいる」


「成功した時の利益だけを見るな」


「失敗した時、誰が何を失うのかを先に見ろ」


「私は契約書を読むことができます」


「文字を読めるかどうかの話ではない」


 バルドの声は低いままだった。


「相手が、なぜその条件を出すのかを考えろ」


 カイルは書状を上着の内側へ収めた。


「ご忠告は受け取っておきます」


「私へ確認せず、商会の資金や信用を約束することは認めん」


「承知しています」


「職員を勝手に動かすことも許さん」


「私個人の話として聞きます」


「ならば、商会として出向くのではないことを忘れるな」


 カイルは立ち上がった。


「失礼いたします」


 扉へ向かう背中へ、バルドが声をかける。


「カイル」


 カイルは振り返った。


「宰相に選ばれたと思うな」


「選ばれた者が、必ず大切にされるとは限らん」


「使いやすい駒として選ばれることもある」


 カイルは数秒だけバルドを見つめた。


「駒として使われるだけかどうかは、私が決めます」


 そう答え、執務室を出た。


 扉が閉じたあと、バルドはしばらく動かなかった。


「まったく……」


 カイルは無能ではない。


 むしろ商人としての能力は高い。


 数字を読み、市場の変化へ気づき、競争相手の強みを分析できる。


 だからこそ危うい。


 利益につながると判断すれば、人の信頼まで取引材料として扱う。


 その性質を宰相が利用しようとしているのなら、今回の話は一商人同士の競争では終わらない。


 バルドは新しい紙を取り出した。


 宰相府からカイル個人へ、非公式の招待が届いたこと。


 商会を代表する権限は与えていないこと。


 資金、職員、信用の使用は認めていないこと。


 記したのは、確認した事実だけだった。


 後になって何か起きた時、誰が何を決めたのかを曖昧にしないための記録だった。


 ◇◇◇


 翌日の夕方。


 カイルは普段より早く執務を切り上げた。


 商会の紋章が大きく入った外套は使わず、濃い灰色の上着へ着替える。


 目立つ護衛も連れない。


 目的地と帰宅予定時刻だけを、長く使っている御者へ伝えた。


 呼び出された店は、ルミナスの中心部に近い高級社交店だった。


 石造りの三階建て。


 入口には二人の従業員が立ち、馬車が止まるたび、客の身なりや同行者を確認している。


 Club Moon Dropのように、紹介者との関係を一人ずつ確かめている様子はない。


 ただし、誰でも入れる大衆酒場でもなかった。


 衣服。


 肩書。


 使っている馬車。


 同行する従者。


 そうしたものによって、客を迎える場所を変える店だった。


 カイルが入口へ近づくと、従業員が一礼した。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「カイル・バルドン」


「お待ちしておりました」


 書状を見せるよう求められることはなかった。


「こちらへどうぞ」


 正面の広い客席ではなく、入口脇の階段へ案内される。


 一階からは、弦楽器の演奏と客たちの笑い声が聞こえていた。


 高価な香油の匂い。


 柔らかな絨毯。


 金色の縁取りが施された壁。


 Club Moon Dropの落ち着いた内装とは違い、訪れた者へ富と格式を示す造りだった。


 二階の奥。


 従業員は一枚の扉の前で止まった。


「こちらでございます」


 扉を二度叩く。


「カイル・バルドン様がお越しになりました」


「入れ」


 中から男の声が聞こえた。


 従業員が扉を開く。


 個室には、二人の男がいた。


 一人は黒に近い深緑の礼服を身につけた初老の男。


 髪には白いものが混じっているが、姿勢は崩れていない。


 穏やかな表情を浮かべているものの、目だけはカイルを値踏みするように見ていた。


 もう一人は、書類を抱えた若い文官だった。


 カイルは初老の男の顔を知っている。


 王国宰相。


 ヴィットリオ・フォン・モンテフェルト。


 カイルは深く頭を下げた。


「お招きいただき、光栄に存じます」


「顔を上げてくれ」


 ヴィットリオは正面の椅子を示した。


「今夜は公務として呼んだわけではない」


「形式ばった挨拶は必要ない」


「承知いたしました」


 カイルは椅子へ腰を下ろす。


 卓上には酒と軽い料理が用意されていた。


 だが、給仕は室内にいない。


 扉が閉じると、外の音もほとんど聞こえなくなった。


「バルド酒商会の営業責任者」


 ヴィットリオが確認する。


「はい」


「酒の取引だけでなく、新規店舗の調査や、競合する商人への対応も担当していると聞いている」


「必要な範囲で行っております」


「Club Moon Dropについても?」


 遠回しな探り合いをするつもりはないらしい。


 カイルは一瞬だけ考えてから答えた。


「調べております」


「なぜだ」


「新しい酒を作る少年が、既存の酒場とは異なる店を開いた」


「酒商会として、無関心ではいられません」


「商会としてか?」


 ヴィットリオは静かに尋ねた。


「それとも、君個人としてか」


「両方です」


 カイルは取り繕わなかった。


「正直でよい」


 ヴィットリオは杯へ酒を注いだ。


「君はあの店を、どのように見ている」


「小規模ですが、完成度は高い店です」


 カイルは答えた。


「受付で客を選び、紹介者と会員制度によって問題客を減らしている」


「女性キャストだけでなく、黒服、厨房、裏方まで役割を分けている」


「酒そのものより、安心して会話できる時間を売っている」


「高く評価しているように聞こえる」


「競争相手の強みを理解せず、勝つことはできません」


「では、弱みは?」


「客を増やすのが遅い」


 カイルは迷わなかった。


「紹介者を必要とし、初来店だけでは正式会員になれない」


「問題客を紹介すれば、紹介者の権限まで止める」


「客席も少なく、働く者の人数に合わせて予約を制限する」


「急速な拡大には向きません」


 ヴィットリオの口元がわずかに動いた。


「興味深い」


「宰相閣下も、同じ点へ注目されたのではありませんか」


「私が何を考えていると思う」


「Club Moon Dropを、そのまま放置するべきではないと考えておられる」


 若い文官の手がわずかに止まった。


 ヴィットリオは表情を変えない。


「理由は?」


「王宮関係者が、あの店を調べている」


「身分に応じた席や担当を求めても、店側は受け入れなかった」


「会員名簿も提出していない」


 カイルは、集めてきた情報を一つずつ並べる。


「貴族、商人、冒険者が同じ場所で会話する」


「その内容を、店は記録しない」


「王都の管理が及ばない社交の場を、危険と見ているのではありませんか」


 ヴィットリオは杯を持ち上げ、一口だけ飲んだ。


「君を呼んだ理由が分かるか」


「私の見方が、閣下の目的に役立つからでしょう」


「半分は正しい」


 ヴィットリオは杯を置いた。


「私は、あの店を危険だと決めつけているわけではない」


「ただし、見過ごしてよいとも考えていない」


 カイルは黙って続きを待った。


「貴族が商人へ不満を話す」


「商人が冒険者へ仕事を頼む」


「王宮関係者が制度への疑問を漏らす」


「立場の異なる者たちが集まり、誰が何を話したのか外部から確認できない」


「それが直ちに罪だとは言わない」


「だが、影響力を持つ場所であることは確かだ」


「客の秘密を守ることが、問題なのですか」


「秘密そのものが問題なのではない」


 ヴィットリオの声は穏やかだった。


「人が集まる場所を、誰も把握できないまま放置することが問題になり得る」


「今は善意ある少年が経営している」


「だが、店が大きくなった時はどうなる」


「店主が変わった時は?」


「信頼を利用しようとする者が現れた時は?」


「国家は、問題が起きてから初めて考えるわけにはいかない」


「理解できます」


 カイルは答えた。


 完全に同意したわけではない。


 だが、ヴィットリオがClub Moon Dropを警戒していることは分かった。


「君があの店を警戒する理由は、私とは違う」


 ヴィットリオは言った。


「嫌っているとは申し上げておりません」


「言葉を選ぶ必要はない」


「君はレンという少年を管理下へ置こうとして拒まれた」


「悪評を使っても潰せず、店まで開かれた」


「今では商会の会長まで、あの少年を評価している」


 カイルの目が細くなる。


「よくお調べです」


「必要なことは調べる」


「不快か?」


「いいえ」


 カイルは答えた。


「私も同じことをしています」


「そうだろう」


 ヴィットリオは満足したように頷いた。


「君は、あの店の客と人材を奪いたい」


「私は、あの店だけが新しい社交の形として広がることを避けたい」


「目的は違う」


「だが、今のClub Moon Dropへ対抗できる場所が必要だという点では一致する」


 カイルは正面の男を見つめた。


「具体的には、何をお望みでしょうか」


「新しい社交店を作ってもらいたい」


「店?」


「Club Moon Dropより大きく、華やかで、利用しやすい店だ」


 カイルの胸がわずかに高鳴る。


「紹介者は必要としない」


「入場料を支払えば利用できる」


「広い客席」


「歌や踊りを披露する舞台」


「多くの接客係」


「高級酒」


「王都の社交店が持つ華やかさを、ルミナスへ持ち込む」


 ヴィットリオは、あらかじめ形が見えているように語る。


「Club Moon Dropが少人数を丁寧に迎える店なら、新しい店は大勢を一度に迎える」


「紹介を受けられず、あの店へ入れなかった者も利用できる」


 カイルの頭の中で、店の姿が組み上がり始めた。


 広い建物。


 中央の舞台。


 多くの接客係。


 酒の売上。


 入場料。


 指名制度。


 会員から紹介される必要もない。


 客数と売上で圧倒できる。


「資金は?」


 カイルは尋ねた。


「大規模な店を作るには、相応の費用が必要です」


「用意できる」


「宰相府からですか」


「表向き、宰相府は関与しない」


 ヴィットリオは即答した。


「王都の商人を通じて融資する」


「建物の取得、改装、初期の人材確保まで支援させる」


「見返りは?」


 バルドの言葉が頭をよぎった。


 支援という言葉で条件を隠す者はいる。


 カイルは高揚を抑え、条件を確認する。


「まずは、店の利用状況を把握できる仕組みを作ってもらう」


「利用状況?」


「客の氏名、職業、利用金額、同行者」


「どの接客係を希望し、どのような酒を好んだか」


「その程度は、客へより良い接客をするためにも必要だろう」


「それだけですか」


 カイルは尋ねた。


 ヴィットリオはすぐには答えなかった。


「店が人を集めれば、そこには情報も集まる」


「会話の内容まで記録させるおつもりですか」


「すべてを書き取る必要はない」


 ヴィットリオは、わずかに言葉を選んだ。


「客が何へ関心を持っているのか」


「何を望んでいるのか」


「どのような相手と付き合っているのか」


「今後の接客や商売に役立つ範囲で残せばよい」


 カイルはすぐには答えなかった。


 客の好みを記録すること自体は珍しくない。


 だが、ヴィットリオが求めているものは、その境界を越えようとしている。


「その記録は、店の中だけで使うのですか」


「必要に応じて、こちらにも共有してもらう」


「どのように使われるおつもりですか」


「王都とルミナスの安定のためだ」


「曖昧な答えですね」


 若い文官がカイルへ視線を向けた。


 ヴィットリオは怒らなかった。


「気に入った」


「何がでしょう」


「権力者の言葉を、そのまま信じないところだ」


 ヴィットリオは椅子へ背を預ける。


「客の交友関係や関心を知れば、商売の流れを予測できる」


「危険な動きがあれば、早く気づくこともできる」


「店は記録する」


「判断はこちらで行う」


「客には、どこまで知らせますか」


「利用規則へ、接客向上のため記録を行うと書けばよい」


「記録が外部へ渡ることも?」


 ヴィットリオは一拍置いた。


「すべての詳細を、入口で説明する必要はない」


 室内の空気が少し変わった。


 カイルは理解した。


 ヴィットリオは、新しい店へ客を集めたいだけではない。


 集めた客の情報を、宰相府が利用できる形へ整えたい。


「迷っているのか」


「条件を確認しています」


「慎重なのはよい」


「だが、君が望んでいた機会でもあるのではないか」


 その通りだった。


 Club Moon Dropを上回る大規模店。


 王都の資金。


 人材。


 建物。


 自分の価値を示す機会。


 だが、情報提供の条件は軽くない。


「店の経営権は、誰が持ちますか」


「君だ」


 ヴィットリオは答えた。


「出資者は融資を行う」


「日々の営業と人材の配置は、君が決めればよい」


「酒の仕入れも、バルド酒商会の力を使える」


「商会の資金や名義を使うには、会長の承認が必要です」


「君自身が、新しい商事組織を作ってもよい」


「酒の供給契約だけを商会と結ぶ方法もある」


 すでに、商会内部で反対された場合まで考えられている。


「すぐに返事を求められますか」


「いや」


 ヴィットリオは穏やかに答えた。


「今夜は、互いの考えを知るための場だ」


「ただし、長く待つつもりはない」


「期限は?」


「七日だ」


 カイルは頷いた。


「条件を書面でいただけますか」


「概要だけなら用意させよう」


「融資元、返済条件、経営権、情報提供の範囲を確認したい」


「よい」


 ヴィットリオは若い文官へ視線を向ける。


 文官が一礼し、抱えていた書類から数枚を取り出した。


 まだ正式な契約書ではない。


 出資の枠組み。


 候補となる建物。


 想定する客席数。


 必要な人員。


 収益の見込み。


 顧客情報として記録する項目。


 すでに、かなり具体的な計画が記されていた。


 候補地はClub Moon Dropから遠くない。


 以前、宴会場として使われていた大きな建物。


 広い客席。


 二階の控室。


 搬入口。


 中央に舞台を作れる空間。


「なぜ私なのですか」


 カイルは書類から目を上げる。


「資金も人脈もある王都商人へ任せた方が、早いのではありませんか」


「王都商人では、この街の客を知らない」


 ヴィットリオは答えた。


「酒場の流通も、人材も、商人同士の関係も知らない」


「何より、Club Moon Dropを上回ることへの執着がない」


 カイルは何も言わなかった。


「利益だけを求める者は、別の商売の方が儲かると分かれば途中で移る」


「だが君は、あの店を上回るまでやめない」


「それが、私を選んだ理由ですか」


「理由の一つだ」


 バルドの警告が、再び思い出される。


 使いやすい駒として選ばれることもある。


 ヴィットリオは、カイルの執着を利用するつもりだ。


 だが、利用されるだけで終わるつもりもなかった。


「七日以内に返答いたします」


「期待している」


 ヴィットリオは杯を持ち上げた。


「今夜の話は、まだ外へ出さないように」


「会長へもですか」


「商会の資金を使うなら、いずれ話す必要はある」


「だが、決まっていない計画を広める必要はない」


「承知しました」


 カイルも杯へ手を伸ばした。


 用意されていた酒は、王都から運ばれた高級な蒸留酒だった。


 香りは深く、刺激も強い。


 一口飲めば、原料も熟成も優れていることが分かる。


 だが、温度が少し高い。


 香りは十分に立っているが、口へ含んだ時の強さが前へ出すぎている。


 レンなら、この酒をそのまま出すだろうか。


 客の好みを聞き、少し温度を下げるか、氷を添えるか。


 あるいは、香りを楽しみたい者には今のまま勧めるかもしれない。


 酒そのものの価値だけなら、目の前の一杯は高い。


 だが、誰がどのように飲むのかまで含めれば、Club Moon Dropの方が一歩深く考えている。


 その違いへ自然に気づいた自分に、カイルはわずかな苛立ちを覚えた。


「新しい店は、Club Moon Dropの真似では成功しません」


「ほう」


「受付、黒服、指名、会員制度」


「形だけを真似ても、同じ店にはならない」


「では、どうする」


「逆を行います」


 カイルは書類の上へ指を置く。


「紹介者を必要としない」


「客席を増やす」


「会話だけでなく、歌と踊りを見せる」


「一人の客へ長い時間を使わず、大勢が同時に楽しめる形にする」


「高額な酒を求める客には、望むだけ売る」


「Club Moon Dropへ入れなかった者まで取り込む」


 ヴィットリオの目に満足が浮かぶ。


「それでこそ、君を呼んだ意味がある」


「ただし、店を大きくするなら人材も必要です」


「王都から連れてくるだけでは、給金が高くなりすぎる」


「この街で集めなければならない」


「見込みはあるか」


「あります」


 酒場の元店主。


 商家で来客対応をしていた者。


 歌や踊りを仕事にしたい女性。


 貴族家を辞めた使用人。


 働く場所を探す者は多い。


「高い給金を示せば、一度に集められます」


「金で集めた者は、金でほかへ移る」


 ヴィットリオが言う。


「だから、ほかより高く払える店にします」


「その分、入れ替わりも多くなるだろう」


「働く者が替われば、接客の質は安定しません」


「構わん」


 ヴィットリオは迷わず答えた。


 カイルの目がわずかに細くなる。


「構わないのですか」


「全員へ同じ水準の信頼を求める店ではない」


「客が求めるものは、華やかさと賑わいだ」


「歌える者が辞めれば、別の歌える者を雇う」


「酒を売れる者が移れば、次に売れる者を前へ出す」


「店そのものが人を育てるのではなく、競争の中で使える者を残せばよい」


「人材が定着しなくても、客が集まり続ければ問題ないと?」


「店が長く愛されることより、短期間で多くの者を集めることを優先する時期もある」


 ヴィットリオは杯を静かに置いた。


「私が必要としているのは、家族のように結ばれた小さな店ではない」


「人と情報が絶えず流れ込む場所だ」


 カイルは答えなかった。


 ヴィットリオは、人材が金で移る危険を理解している。


 理解した上で、問題とは考えていない。


 働く者が替わっても、客が集まり、情報が残ればよい。


 店そのものが傷んだ時でさえ、別の経営者や人材へ入れ替えればよいと考えているのかもしれない。


「君には不満か」


「いいえ」


 カイルは静かに答えた。


「経営する以上、私は接客の質も売上も守ります」


「それでよい」


「私が人の流れを求め、君が店の成功を求める」


「目的が完全に同じである必要はない」


 その言葉によって、二人の関係がより明確になった。


 協力者ではある。


 だが、同じものを守ろうとしているわけではない。


 会談は、それから一刻ほど続いた。


 候補地。


 資金の流れ。


 酒の仕入れ。


 客層。


 人材募集。


 王都から招く演奏家。


 大きな店を作るために必要な項目が、一つずつ確認されていく。


 ただし、正式な契約はまだ結ばない。


 今夜は、互いが使える相手かどうかを確かめる場だった。


 カイルは、自分がヴィットリオに選ばれた理由を理解した。


 商才があるからだけではない。


 Club Moon Dropを上回りたいという欲望があるからだ。


 その欲望が、自分を前へ進ませる力になるのか。


 それとも、相手に手綱を握らせる弱みになるのか。


 まだ判断はできなかった。


 ◇◇◇


 会談を終え、店の外へ出ると、夜の風が熱を冷ました。


 御者が馬車を寄せる。


「商会へ戻られますか?」


 カイルはすぐに答えなかった。


 上着の内側には、ヴィットリオから渡された計画書がある。


 このまま商会へ戻れば、バルドはまだ起きているかもしれない。


 何を話したのか尋ねられるだろう。


 書類を見せれば、反対される可能性は高い。


「自宅へ向かえ」


「かしこまりました」


 馬車が動き出す。


 窓の外を、夜のルミナスが流れていく。


 酒場の前で笑う冒険者。


 店を閉める商人。


 帰宅を急ぐ職人。


 その中に、Club Moon Dropのある西通りへ向かう者の姿も見えた。


 カイルは窓の外へ目を向けたまま、計画を考える。


 Club Moon Dropは、客の安心を優先する。


 紹介者を求める。


 問題客を断る。


 働く者へ無理をさせない。


 一人ずつ信用を積み上げる。


 だから成長が遅い。


 新しい店は、速さで勝てる。


 誰でも迎える。


 大勢を入れる。


 高い給金で才能を集める。


 華やかな舞台で話題を作る。


 高級酒を売り、指名と競争によって売上を伸ばす。


「勝てる」


 カイルは小さく呟いた。


 だが、その言葉は確信というより、自分へ言い聞かせるものに近かった。


 胸の奥には、バルドの忠告が残っている。


 失敗した時、誰が何を失うのかを先に見ろ。


 カイルは計画書を取り出した。


 融資条件の詳細は、まだ記されていない。


 経営権は自分が持つと説明された。


 だが、資金を出す王都商人が、何の担保も求めないはずはない。


 情報提供の範囲も曖昧だった。


 客へどこまで知らせるのか。


 宰相府へ何を渡すのか。


 拒否できる範囲はあるのか。


 そして、ヴィットリオは店そのものの永続より、人と情報が集まることを重視している。


 もし店が傷んでも、宰相にとっては損失ではない可能性がある。


 だが、経営者となる自分は違う。


 失敗すれば、信用も立場も失う。


 カイルは計画書を閉じた。


「条件次第だ」


 今度の言葉は、先ほどよりも慎重だった。


 参加すると決めたわけではない。


 少なくとも、自分ではそう考えている。


 それでも、計画を断るための理由より、受け入れるための条件を考え始めていることに、カイル自身は気づいていた。


 ◇◇◇


 同じ夜。


 Club Moon Dropでは、最後の客を見送る準備が進められていた。


 ロイが会計を確認し、ディーノが空いた皿を厨房へ運ぶ。


 リリアは帰り支度をする客へ、次回の予約について丁寧に案内している。


 エレナは常連客と笑いながら、入口まで見送った。


 厨房では、ルークが火の始末を確認し、ティアが使った器具を決められた場所へ戻していた。


 ノアはその日の記録を整理している。


 大きな問題はない。


 予約の変更が一件。


 料理の提供が少し遅れた卓が一つ。


 グラスの欠けが一つ。


 次の仕入れで補充する備品が二種類。


 客が何を話したかは書かない。


 店を安全に続けるために必要な事実だけを残す。


「今日は静かだったな」


 レンが帳場の金額を確かめながら言った。


「はい」


 ロイが答える。


「初来店のお客様もいませんでした」


「昨日のこともあったし、少し助かった」


「昨日のお客様は……もう来店されないのでしょうか」


 リリアが小さく尋ねた。


 無礼な言葉を繰り返した客ではない。


 その客を紹介し、途中まで止められなかった男性のことだった。


「会員資格は残っている」


 レンが答える。


「本人が来たいと思えば、予約は受けるよ」


「紹介できない期間はあるけど、店から追い出したわけじゃない」


「そうですよね」


 リリアは頷いたが、まだ少し表情が曇っている。


「私には謝ってくださいました」


「ですが、ご自分が連れてきた方のことで、店に来づらくならなければよいのですが」


「そこまで俺たちが決めることはできない」


 レンは帳簿を閉じた。


「ただ、次に来た時に気まずくならないよう、普段どおり迎えることはできる」


「はい」


 リリアの表情がわずかに和らいだ。


「昨日決めた紹介者向けの説明は、早めに形へした方がよいと思います」


 ノアが手帳から顔を上げた。


「明日までに下書きを作ります」


「頼む」


「長くしすぎない方がよいですね」


 リリアが言う。


「説明が多すぎると、読む前から難しい制度だと思われるかもしれません」


「大切なところだけでいい」


 レンは頷いた。


「紹介する前に、店の方針を伝える」


「問題が起きた時は、黒服の対応を妨げない」


「紹介者がすべてを止める責任を負うわけじゃない」


「それでも、完全に無関係ではない」


「そのくらいでしょうか」


 ディーノが確認する。


「まずはそれでいいと思う」


「細かな判断まで書きすぎると、逆に抜け道を探す人もいるからな」


「説明を増やせば、すべて防げるわけではありません」


 ロイが言った。


「最後は、入口と店内で判断する必要があります」


「うん」


 レンはロイとディーノへ目を向けた。


「だから、何のための決まりなのかも共有しておきたい」


「客を疑うためじゃない」


「店にいる全員が、安心して同じ時間を過ごすためだ」


 ディーノが静かに頷く。


 ティアは器具を戻し終えたあとも、厨房の入口から話を聞いていた。


「紹介した人も、もう一回来てもいいんですか」


「もちろん」


 レンが答える。


「紹介できない期間があるだけで、その人自身を嫌ったわけじゃないから」


「よかったです」


 ティアは小さく息を吐いた。


 以前の職場では、一度問題へ関わった者は事情を聞かれず、まとめて責められることも多かった。


 Club Moon Dropは、起きたことを曖昧にはしない。


 だが、関係した者すべてへ同じ罰を与えるわけでもない。


 何をしたのか。


 何を止められなかったのか。


 これからどうするのか。


 一つずつ分けて考えようとしている。


 店内では、前夜の問題を受けて新しい仕組みが整えられようとしていた。


 急いで客を増やすためではない。


 今いる客と、これから来る客。


 そして働く者が、同じ場所で安心して過ごせるようにするためだった。


 レンは、自分たちの店の近くで、Club Moon Dropとは異なる考えを持つ大規模店の計画が動き始めたことを知らない。


 カイルが宰相と会ったことも。


 紹介者を必要としない店が構想されていることも。


 客の好みだけでなく、交友関係や関心まで記録しようとしていることも。


 まだ何一つ、Club Moon Dropには届いていなかった。


 ただ、その夜。


 レンたちが一日の小さな問題を確認し、次の営業へ備えている間に、別の場所では巨大な店の輪郭が描かれ始めていた。


 一人ずつ信頼を積み重ねる店。


 一度に多くの客を集めようとする店。


 働く者を時間をかけて育てる店。


 人材を入れ替えながら競争させる店。


 客の秘密を必要以上に残さない店。


 客の好みや欲望を、商売と管理のために記録する店。


 互いに異なる考えから生まれる二つの店は、まだ顔を合わせていない。


 カイルもまだ、計画を受け入れると正式に決めたわけではない。


 それでも、その道はすでに、同じ場所へ向かって伸び始めていた。

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