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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第104話 紹介した者に残る責任

 昼営業を終えたClub Moon Dropでは、夜に向けた準備が進められていた。


 窓から差し込む光はまだ明るいが、店内には夜営業で使う酒瓶とグラスが並び始めている。


 ロイは受付台の横で登録帳を開き、その日の予約を一組ずつ確認していた。


「今夜の初来店は一組です」


 報告を受け、レンは帳場から顔を上げた。


「紹介者は?」


「正式会員のラルフさんです。同行者は一人。トーマスという商人だと聞いています」


「ラルフさんなら、これまで問題はなかったな」


「はい。来店は七度。誰かを紹介するのは今回が初めてです」


 そばで別の帳面を確認していたノアが答えた。


 ラルフは服飾品を扱う商人だった。


 派手な取引をする人物ではないが、約束した期日を守り、店員にも丁寧に接する。Club Moon Dropでも騒ぐことなく酒と会話を楽しみ、帰り際には必ずキャストや黒服へ礼を告げていた。


「店内で必要な配慮は?」


「特にありません。酒量も多くありません」


「分かった」


 レンは頷いた。


 正式会員が初めて誰かを紹介する時、店側は普段以上に慎重になる。


 紹介者本人が信頼できる人物であっても、その知人まで同じ人柄とは限らない。


 とはいえ、最初から疑ってかかれば紹介制そのものが成り立たなくなる。


 紹介者の信頼を尊重しながら、初来店客は店側が直接見る。


 その両方が必要だった。


 客席では、リリアとエルナがテーブルを整えている。


「今夜、初めてのお客様がいらっしゃるのですよね」


 リリアがロイへ尋ねた。


「はい。ラルフさんのご紹介です」


「担当は決まっていますか?」


「最初はリリアさんにお願いします。もう一卓の様子を見ながら、途中でエルナさんにも入ってもらいます」


「分かりました」


 リリアは丁寧に返事をした。


 初来店客には、店の雰囲気と規則を理解してもらう必要がある。そのため、落ち着いて説明できるリリアが最初に担当することが多い。


 ただし、常に彼女一人へ任せるわけではない。


 客の性格や卓の空気を見ながら、エルナやセレナ、ミーナへ交代する。誰か一人へ頼る店にしないという方針は、リリアへの指名が集中した頃から変わっていなかった。


「料理の準備はどうだ?」


 レンが厨房へ声をかける。


「問題ない」


 ルークは煮込み鍋の蓋を少し開け、香りを確かめた。


「今日は肉の香草焼きと、白身魚の煮込みを中心に出せる。菓子は蜂蜜を使った小さな焼き菓子だ」


「ティアの作業は?」


「野菜の下処理と、焼き菓子の材料の計量を任せた」


 ティアは作業台の前で、粉を量っていた。


 少し前までなら、袋を持つ手にも緊張が現れていた。


 今は決められた手順を一つずつ確認し、量り終えた材料を自分で分けて並べている。


「終わりました」


「もう一度だけ数字を確かめてから、次へ進め」


「はい」


 レンはその様子を見てから客席へ戻った。


 厨房も、黒服も、キャストも、それぞれが自分の仕事を進めている。


 以前のレンなら、全ての作業へ細かく口を出していたかもしれない。


 だが今は、任せるべき相手へ任せることを意識している。


 店主の役目は、全てを自分で行うことではない。


 必要な者が、必要な判断をできる状態を整えることだった。


 ◇◇◇


 夜営業が始まって間もなく、入口の扉が叩かれた。


 ロイが扉を開き、来店者を確認する。


「こんばんは」


 先頭に立っていたのはラルフだった。


 四十代半ばほどの細身の商人で、落ち着いた茶色の上着を身につけている。いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。


 その隣には、ラルフより少し若い男が立っていた。


 赤みを帯びた上着に大きな指輪。腹部はわずかに出ている。酒場へ慣れていることを隠さない態度だったが、衣服の仕立てや革靴の質を見る限り、ただ見栄を張るだけの男ではなさそうだった。


「本日はご紹介のお客様と伺っております」


 ロイが言うと、ラルフは一歩横へ下がった。


「ええ。こちらはトーマスです。以前から取引のある商人で、私の知人でもあります」


「トーマスです」


 男はそう名乗ると、店内を一度見回した。


 入口から客席までの距離。


 受付台の位置。


 黒服が立つ場所。


 酒瓶が並ぶ棚。


 短い時間の中で、視線がいくつもの場所を確かめていた。


「噂より狭い店だな」


 言い方は無遠慮だったが、ただ見下しているというより、商人として規模を測っているようにも聞こえた。


「初めまして。Club Moon Dropの黒服をしております、ロイです」


 ロイは相手の言葉には反応せず、丁寧に名乗った。


「初めてのお客様には、紹介者の方と一緒に店の規則をご説明しております」


「規則?」


 トーマスは眉を上げる。


「酒を飲む店に、そんなに難しい決まりがあるのか」


「難しいものではありません」


 ロイは落ち着いた口調を崩さなかった。


「ほかのお客様や従業員へ迷惑となる行為はご遠慮いただくこと。過度に酔われた場合は酒の提供を止めること。従業員が対応できない要求はお断りする場合があること。この三点が基本となります」


「随分と客へ注文の多い店だな」


「トーマス」


 ラルフが小さく声をかけた。


「私も最初に同じ説明を受けた。誰に対しても行っているものだよ」


「分かっている。ただの感想だ」


 トーマスは肩をすくめる。


 だが、その笑い方にロイは軽い引っかかりを覚えた。


 規則へ不満を持ったというより、どこまでなら許されるかを確かめているように見えた。


「ご理解いただけましたか?」


「ああ。騒がず、店員を困らせなければいいんだろう」


「ほかのお客様と従業員が安心して過ごせるよう、ご協力ください」


「はいはい」


 ラルフは困ったように笑い、トーマスの肩へ軽く触れた。


「行こう」


 二人はロイに案内され、入口から近い卓へ向かった。


 リリアが二人を迎える。


「いらっしゃいませ。リリアと申します。本日はよろしくお願いいたします」


「君が一番人気の子か」


 トーマスは席へ着く前から、リリアの顔をじろじろと見た。


 リリアは一瞬だけ戸惑ったが、笑みを崩さなかった。


「多くのお客様に支えていただいておりますが、当店にはそれぞれ異なる接客をする者がおります」


「なるほど。自分だけが特別だとは言わないわけか」


「はい。皆でお客様をお迎えしておりますので」


 トーマスは面白そうに口元を緩めた。


「答え方は上手いな」


 褒めているようにも聞こえるが、相手を試している気配がある。


 ラルフはリリアへ頭を下げた。


「今日は彼が一度来てみたいと言うので連れてきました。私はいつもの果実酒を」


「かしこまりました」


「俺は一番高い酒を出してくれ」


 トーマスが口を挟む。


「一番高い物、でございますか?」


「高い酒が一番うまいんだろう」


 リリアはすぐに酒を選ばず、相手へ尋ねた。


「普段は、どのようなお酒を召し上がりますか?」


「強い酒だ」


「香りの強いものと、口当たりが柔らかいものでは、どちらがお好みでしょうか」


「一番高い物と言っている」


 少し強い声だった。


 周囲の客が振り返るほどではない。


 だが、リリアの表情がわずかに硬くなるには十分だった。


 ロイは別の卓へ水を運びながら、その変化に気づいた。


 すぐには近づかない。


 リリアが自分で対応できる距離を保ちながら、意識だけを向ける。


「当店では、価格だけで酒をおすすめしておりません」


 リリアは丁寧に答えた。


「お好みに合わない酒をお出ししても、楽しんでいただけないためです」


「金を払うと言っているのに?」


「はい。お客様に合うものを選びたいと考えております」


 トーマスは酒棚へ視線を向けた。


「左から三番目の褐色の酒は、樽で寝かせているのか」


 突然の問いに、リリアは少し驚いた。


「はい。香りを落ち着かせるため、一定期間保管しております」


「なら、それでいい」


「香りは強く、後味も重い酒です。普段から似たお酒を?」


「南方の蒸留酒を扱ったことがある。あれより色が薄いが、樽の香りは近そうだ」


 ラルフが小さく頷く。


「彼は酒の取引もしています。品質を見る目は確かです」


「そうでしたか」


 リリアは少し安心しながらも、確認を続けた。


「まずは少量でお試しになりますか?」


「最初から大きな杯で出せ」


「初めて召し上がる強いお酒は、少量からご案内しております」


「また規則か」


「安全に楽しんでいただくためです」


 トーマスは不満そうに鼻を鳴らした。


「客が酒量も決められないのか」


「お好みはお客様が決められます。ただし、店としてお出しできる量は、こちらでも判断しております」


「酒場の女が、随分と商人気取りだな」


 ラルフの表情が曇った。


「トーマス、その言い方はよくない」


「褒めたんだよ。客の求める物を、そのまま出さずに理由をつける。商売人としては立派だ」


「そうは聞こえない」


 リリアは二人の間へ割って入ろうとはしなかった。


 紹介者と同行者であっても、それぞれ別の客だ。


 ただ、今の言葉を流してしまえば、同じ態度が繰り返される可能性がある。


「恐れ入ります」


 リリアはトーマスへ向き直った。


「当店では、働いている者へ見下すように受け取れる言葉は、お控えいただいております」


「見下していない」


「そのおつもりでなかったとしても、私にはそのように聞こえました」


 トーマスの笑みが消えた。


「客に言い返すのか?」


「必要なことをお伝えしております」


 声は震えていない。


 リリアは紹介者を伴わずに来店したゴードを断った時も、迷いながら店の決まりを守った。


 相手を思いやることと、規則を伝えることは両立できる。


 そう学んできたからこそ、謝って流すだけでは終わらせなかった。


 トーマスはしばらくリリアを見つめたあと、椅子へ深く座り直した。


「ラルフ、お前はこんな店へ通っているのか」


「気に入っているから通っている」


「女に注意されるのが好きなのか?」


「トーマス」


 今度はラルフの声にも強さがあった。


「やめなさい」


「冗談の通じない奴だな」


 トーマスはリリアから視線を外した。


「分かった。少量でいい。味を見せてくれ」


「かしこまりました」


 リリアは卓を離れ、ロイの近くへ向かった。


「ロイさん」


 声を落とす。


「トーマスさんへ、褐色の蒸留酒を少量お願いします」


「分かりました」


「少し言葉が強い方です」


「聞こえていました」


 ロイは短く答えた。


「次に同じような発言があれば、私かディーノが近くへ入ります」


「ありがとうございます」


 ディーノも客席の反対側から二人の様子を確認していた。


 料理を運びながらトーマスの卓へ近い位置を通る。


 露骨に監視しているとは思わせない。


 だが、問題が起きればすぐに動ける場所を取っていた。


 ◇◇◇


 最初の一杯を口にしたトーマスは、すぐには飲み込まなかった。


 舌の上で転がし、鼻から静かに息を抜く。


「悪くない」


「お気に召しましたか?」


 リリアが尋ねる。


「樽の香りは強いが、酒そのものの癖は残っている。薄めてごまかしていない」


「ありがとうございます」


「これなら倍の値をつけても売れるな」


 商人としての評価には、確かな観察があった。


 ラルフが彼を取引相手として信頼してきた理由も、少しだけ分かる。


 だが次に口を開いた時、その印象は再び崩れた。


「量が少ない」


「強いお酒ですので、まずはお食事と共にゆっくりお楽しみください」


「次は倍にしてくれ」


「お身体の様子を見てからご用意いたします」


「俺の身体は俺が分かっている」


「もちろんでございます。ただ、店として安全にお出しできる量を判断しております」


 リリアは同じ説明を繰り返した。


 トーマスは不満を見せながらも、酒を飲み干す。


 料理が運ばれてくると、しばらくは口数が減った。


 ルークの作った肉の香草焼きを一口食べ、断面を確かめるように肉を見た。


「火の通し方が上手い」


「ありがとうございます」


「表面は焼いているのに、中の水分が残っている。香草も肉の匂いを消しすぎていない」


 リリアが礼を告げると、トーマスはもう一口食べた。


 品質を見る目がある。


 酒にも料理にも、正しい評価を下せる。


 それだけに、自分が価値を認めない相手へ向ける態度の悪さが際立っていた。


「厨房に女はいないのか?」


 リリアは質問の意図を測りかねた。


「料理人と見習いが担当しております」


「その見習いは若い女だと聞いたが」


 ティアのことだろう。


 どこで聞いたのかは分からない。店内で見かけたことがある者から話を聞いたのかもしれない。


「厨房の者は調理の仕事をしております」


「呼べないのか?」


「ご用件があれば、私がお伺いいたします」


「獣人の娘なんだろう。一度見てみたい」


 リリアの笑みが消えた。


「申し訳ございませんが、厨房で働いている者を、見世物のようにお呼びすることはできません」


「見世物なんて言っていない」


「ですが、料理についてではなく、獣人であることを理由に呼ばれています」


「珍しいから見たいだけだ」


 トーマスは悪びれもせず答えた。


 ラルフは目を伏せ、額へ手を当てた。


「トーマス。もうやめてくれ」


「何が悪い?」


「この店へ来る時に、規則は守ると言っただろう」


「獣人を呼ぶなという規則は聞いていない」


 その言葉を聞き、ディーノが料理を置いたあと、そのまま卓の近くへ残った。


「失礼いたします」


 ディーノはトーマスへ一礼する。


「先ほどリリアから説明がございましたとおり、厨房で働く者を、種族を見る目的でお呼びすることはできません」


「黒服まで出てくるのか」


「必要なため、お伝えしております」


「客に説教するのが、この店の接客なのか?」


「店で働く者が安心して仕事を続けられるようにすることも、私たちの仕事です」


 ディーノの声は静かだった。


 エルナへ向ける時の柔らかさとは違う。


 黒服として、相手へ必要な線を示す声だった。


「俺は金を払っている」


「お支払いいただくことと、働く者へ何を求めてもよいことは同じではありません」


 トーマスの顔が赤くなる。


 酒の影響だけではない。


「ラルフ」


 トーマスは隣へ顔を向けた。


「お前は俺に恥をかかせるため、この店へ連れてきたのか?」


「私はこの店を気に入っているから、君にも知ってほしかった」


「なら、少しくらい店へ話を通しておくのが普通だろう」


「何をだ」


「俺が楽しめるようにしておくことだ」


 ラルフは言葉を失った。


 自分が知っているトーマスは、取引の場では慎重だった。


 品物の質を見る目もあり、契約を破ったこともない。


 職人の技術を認めれば、相応の金も払う。


 だからこそ、信頼できる商人だと思っていた。


 だが、これまで二人が会ってきたのは、互いに利益のある仕事の場ばかりだった。


 トーマスが酒場の従業員や、自分より立場が低いと考える者へどう接するのか。


 ラルフは知らなかった。


 見えていなかったのではない。


 見ようとしてこなかったのだ。


「トーマス」


 ラルフは重い声で言った。


「君を紹介したのは私だ。だが、この店で君が何をしても許されると約束したつもりはない」


「今さら店の側へつくのか」


「店の側ではない。君の言葉が間違っていると言っている」


 トーマスは杯をテーブルへ強く置いた。


 中に残っていた酒が少し跳ねる。


 近くの卓にいた客が振り返った。


 ロイがすぐに近づく。


「恐れ入ります」


 トーマスとラルフの間へ入り込むのではなく、卓の横へ立った。


「ほかのお客様もいらっしゃいます。声を抑えていただけますか」


「俺たちの会話へ口を挟むな」


「店内全体へ影響が出ております」


「まだ何もしていないだろう!」


 今度ははっきりと大きな声だった。


 客席の会話が止まった。


 リリアはトーマスから少し距離を取る。


 ディーノは、トーマスが急に立ち上がっても対応できる位置へ移った。


 レンも帳場を離れ、卓へ向かう。


「トーマスさん」


 レンの声は大きくなかった。


 だが、静まった店内には十分に届いた。


「店主のレンです」


「店主か。ちょうどいい」


 トーマスは椅子へ座ったまま、レンを見上げた。


「この店は、客へ指図する者ばかりだな」


「これまでの話は聞いていました」


「なら、俺が何も悪いことをしていないのも分かるだろう」


「働いている者へ見下すような言葉を使い、種族だけを理由に厨房の者を呼ぶよう求め、店内で大声を出されました」


「それが退店を求めるほどのことか?」


「今の段階では、まず言葉を改めていただくようお願いしています」


「何度も言われた」


「それでも改めていただけなかったため、私が来ました」


 トーマスはレンを見つめる。


「まだ子どもじゃないか」


 その言葉へ、レンは反応しなかった。


「年齢は今の話と関係ありません」


「この店では、従業員を種族や立場で見下す言葉を認めていません」


「俺は客だ」


「はい。だからこそ、入店時に規則をご説明しました」


「金を払う客へ、偉そうにするのか」


「お金をいただくからこそ、安全に過ごせる場所を用意する責任があります」


 レンはトーマスだけでなく、周囲の客にも届くように言葉を選んだ。


「その安全には、客だけではなく、働く者も含まれます」


「俺を追い出すつもりか?」


「これ以上、同じ言動を続けられるのであれば、退店をお願いします」


 店内に緊張が走る。


 トーマスは、まさか本当に追い出されるとは考えていなかったのだろう。


 紹介者を伴い、代金も支払っている。


 酒と料理の質を正しく評価できる自分なら、多少の言葉は許される。


 これまで利用してきた場所では、そう扱われてきたのかもしれない。


「ラルフ」


 トーマスは隣の男をにらんだ。


「お前が何とか言え」


 ラルフはゆっくりと息を吐いた。


「店の説明を受けた時、君は守ると言った」


「そんな細かいことまで覚えていない」


「私は覚えている」


「友人を追い出されて黙っているのか?」


「君は、私が止めても同じ言葉を続けた」


 ラルフの声には苦しさがあった。


「今の君を、店へ残してほしいとは言えない」


「臆病者め」


 トーマスが立ち上がる。


 椅子が後ろへ下がり、床をこすった。


 ディーノがすぐに椅子の背へ手を添え、倒れないよう支える。


 ロイはトーマスの正面へ立たず、出口へ向かう道を空けた。


「お帰りの準備をいたします」


「勝手に決めるな」


「店主から退店をお願いしております」


 ロイの声は変わらない。


「お代は、召し上がった分だけで結構です」


 レンが言った。


「まだ飲み終わっていない」


「残りを飲んでいただくことはできません」


「金は払う」


「代金の問題ではありません」


 その言葉に、トーマスは唇を歪めた。


「こんな店、二度と来るか」


「本日はお帰りください」


 レンは頭を下げなかった。


 威圧することも、怒鳴ることもしない。


 ただ、判断を変えないことを示した。


 トーマスは卓へ硬貨を置くと、ラルフへ目を向ける。


「お前との取引も考え直す」


「それは仕事の場で話そう」


 ラルフは答えた。


「今日は君を止められなかった私にも責任がある」


「勝手に反省していろ」


 トーマスは入口へ向かう。


 ロイが先導し、ディーノは客席との間へ入る。


 扉が開き、トーマスは一度も振り返らず外へ出ていった。


 ロイは店の外へ数歩だけ同行し、男が通りを離れるまで確認してから戻ってくる。


 扉が閉じる。


 店内には、重い沈黙が残った。


 ◇◇◇


「皆様、失礼いたしました」


 レンは客席へ向けて頭を下げた。


「営業はこのまま続けます。何か気になることがございましたら、近くの者へお声がけください」


 常連客の一人が小さく頷く。


「気にするな。止めてくれて助かった」


 ほかの客たちも、それぞれ会話へ戻り始める。


 リリアは一度深く息を吸った。


 エルナが近くへ寄り、小声で尋ねる。


「大丈夫?」


「はい」


「少し代わろうか?」


 リリアは首を横へ振った。


「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」


「無理はしないでね」


「はい」


 エルナはそれ以上言わず、自分の担当卓へ戻った。


 ロイもリリアの様子を確認する。


「少し休憩へ入っても構いません」


「いえ、続けられます」


「分かりました。何かあればすぐに呼んでください」


 続けるか休むかは、リリア自身が決める。


 ただ、助けを求められる状態だけは整えておく。


 一方、ラルフは席に残ったまま、テーブルを見つめていた。


 目の前の果実酒には、ほとんど口をつけていない。


「ラルフさん」


 レンが声をかける。


「少しお話しできますか」


「もちろんです」


 ラルフは立ち上がろうとしたが、レンは手で制した。


「ここで構いません」


 レンとロイが卓の近くへ立つ。


 ノアは少し離れた場所で、必要なことだけを書き留められるよう手帳を開いた。


「まず、トーマスさんの言動について、ラルフさんが全て責任を負う必要はありません」


 レンが先にそう伝えると、ラルフは顔を上げた。


「ですが、私が連れてきました」


「はい」


「私が彼を信頼できる人物だと言ったのです」


「その点については、何もなかったことにはできません」


 レンは曖昧に慰めなかった。


 紹介者が全て悪いわけではない。


 だが、全く関係がないわけでもない。


「ラルフさんは、トーマスさんが従業員へあのような態度を取ると知っていましたか」


「知りませんでした」


 ラルフは苦しそうに答えた。


「仕事の場では多少尊大なところはありました。ですが、品を見る目もあり、約束を破ったこともありません」


「取引相手へ怒鳴る姿も見たことはなく、店員へあのような話し方をするとも思っていませんでした」


「この店の方針は、来店前に伝えていましたか?」


「紹介制であることと、騒ぐ店ではないことは話しました」


「働いている者へ無礼な態度を取らないことや、店が要求を断る場合があることは?」


「そこまでは、はっきり伝えていません」


 ラルフは目を伏せる。


「普通に考えれば分かると思っていました」


「人によって、普通の基準は違います」


 レンは責める口調ではなかった。


「紹介制度は、連れてきた人の行動を全て保証する制度ではありません。誰かが店の中で何をするかまで、完全に予測することはできませんから」


 ラルフは黙って聞いている。


「ただ、店へ紹介するということは、その人なら規則を守れると判断した、という意味でもあります」


「はい」


「ですから、今回はラルフさんご自身の会員資格はそのままとします。ただし、しばらく新しいお客様の紹介はお受けできません」


「どれほどの間でしょうか」


「三か月です」


 ラルフは小さく息を止めた。


「その間も、ラルフさんご自身はこれまでどおり来店できます。三か月後、改めて紹介の条件をご説明します」


「これは罰でしょうか」


「罰という意味だけではありません」


 レンは答えた。


「紹介する相手を、どのように見るのか。来店前に何を伝えるのか。それを考えていただく期間です」


「同時に、店側も見直します。紹介する方が同行者へ何を説明するべきか、今まで明確にしていませんでした」


 ロイが口を開く。


「今後は、来店前に店の方針を伝えていただきます。ただし、問題客を紹介者が力ずくで止める必要はありません」


「危険な場面では、黒服へ任せてください」


 ラルフは二人を見た。


「私は途中から、自分が彼を止めなければと思っていました」


「ですが、声を荒らげられた時、怖いとも感じました」


「止められなかったことを責めるつもりはありません」


 レンははっきり言った。


「紹介者だからといって、自分を危険にさらす必要はありません」


「ただ、問題が起きた後に、自分は関係ないとは言えない。それが紹介した者に残る責任だと考えています」


 ラルフはしばらく黙ったあと、深く頭を下げた。


「三か月間、新しい客を紹介しないという措置を受け入れます」


「今後は、仕事での態度だけではなく、立場の違う者へどう接する人物なのかも考えます」


「お願いします」


 レンはそこで話を終わらせなかった。


「リリアにも、一言お願いできますか」


「もちろんです」


 ラルフは席を立ち、リリアが手の空くのを待った。


 リリアが近づくと、深く頭を下げる。


「リリアさん。今日は申し訳ありませんでした」


「ラルフ様が全て悪いわけではございません」


「そう言っていただきました。ですが、紹介した者として、何も感じずにはいられません」


「彼を止めようとしてくださったことは、分かっております」


「ありがとうございます」


「次に誰かを紹介する時は、この店が大切にしていることを、私の言葉できちんと伝えます」


「はい」


 リリアは穏やかに頷いた。


「その方も、ラルフ様も、安心して過ごせるようにしていただければ嬉しいです」


 ラルフはもう一度頭を下げた。


「今日は、このまま帰ります」


「果実酒もほとんど飲んでおられませんが」


「今は楽しめそうにありません」


「かしこまりました」


 ロイが会計を整え、ラルフを入口まで見送った。


 扉の前で、ラルフは一度振り返る。


「また来てもよいのでしょうか」


「もちろんです」


 ロイは答えた。


「新しい方のご紹介はしばらくお受けできませんが、ラルフ様ご自身の会員資格は変わっておりません」


「ありがとうございます」


 ラルフは安心したように小さく笑い、店をあとにした。


 ◇◇◇


 営業終了後。


 最後の客を見送り、片付けを終えると、レンは全員へ声をかけた。


「少しだけ時間をもらえるか」


 キャスト、黒服、厨房、裏方が客席へ集まる。


 長い話し合いにするつもりはなかった。


 必要なことだけを決め、次の営業へつなげるためだった。


「まず、リリア。今日の対応で迷ったことはある?」


 リリアは少し考えてから答えた。


「最初の言葉を受けた時、柔らかく流した方がよいのか迷いました」


「でも、流していたら、ティアさんを呼ぶよう求められた時も、強く断れなかったと思います」


「言い方を間違えていたでしょうか」


「間違えていない」


 レンは答えた。


「丁寧さを失わず、嫌だと伝えていた」


 ロイも頷く。


「必要なことだけを説明できていました。ただ、ティアさんを呼ぶよう求められた時点で、黒服が入った方がよかったと思います」


「俺も同じです」


 ディーノが続ける。


「リリアさんが断れていたので待ちましたが、相手が言葉を重ねる前に、こちらから同じ説明をした方が負担は少なかったです」


「次からは、その段階で入ろう」


「はい」


 レンはティアへ目を向けた。


「今日、君を厨房から呼ぶよう求められた」


「聞きました」


「出なくてよかったと思っている」


 ティアは小さく息を吐いた。


「以前の厨房では、獣人の嗅覚を見せろと言われて、傷んでいない食材まで匂いを嗅がされたことがあります」


 店内が静まる。


「嫌だと言うと、仕事なんだから我慢しろと」


 ルークの表情が険しくなった。


「ここでは、そんなことはさせない」


「はい」


 ティアは少しだけ笑った。


「リリアさんが断ってくれたと聞いて、嬉しかったです」


「ティアさんは厨房で仕事をしているのであって、見られるためにいるのではありません」


 リリアが答える。


「ありがとうございます」


 ノアが手帳を開いた。


「今後、紹介者へ事前に伝える内容を整理します」


「店の基本方針を同行者へ説明すること」


「問題が起きた時は、黒服の対応を妨げないこと」


「重大な問題があった場合、会員資格とは別に、新しい客を紹介する権限を一時停止できること」


 エルナが少し首を傾げる。


「紹介した人が悪い人だと知らなかった時も止めるの?」


「すぐに会員資格を失わせることはしません」


 ノアが答える。


「ですが、紹介する判断や、事前に伝えた内容は確認します」


 セレナが静かに付け加える。


「紹介者が問題客を力ずくで止める必要はない、という点も明記した方がよいと思います」


「危険を感じたら黒服へ任せる。それでも、問題の後には話し合いへ参加してもらう」


 レンは頷いた。


「止める責任ではなく、無関係ではないという責任だ」


 それが、今回の結論だった。


 誰かを紹介しただけで、全てを背負わせることはしない。


 だが、自分の信頼を使って店の扉を開いた以上、何も知らないとは言えない。


「今日のトーマスさんは、再入店不可として記録します」


 ノアが確認する。


「理由は、従業員への侮辱的な発言を繰り返し、注意後も改善しなかったため。これだけでよいでしょうか」


「それでいい」


 レンが答えた。


「会話の細かな内容や、ラルフさんとの取引までは残さない」


「はい」


 ノアは必要な部分だけを書き留めた。


 客の安全を守るための記録と、客の事情を覗き見る記録は違う。


 その線を越えないことも、Club Moon Dropの決まりだった。


「レンさん」


 リリアが声をかけた。


「今日、トーマス様を退店させたことで、ラルフ様が取引を失うかもしれません」


「そうだな」


「それでも、あの判断でよかったのでしょうか」


 レンは少し考えてから答えた。


「ラルフさんの取引を守るために、リリアやティアが我慢する店にはできない」


「はい」


「それに、店が規則を曲げれば、ラルフさんがこれまで信用してくれていたClub Moon Dropもなくなる」


 リリアはゆっくりと頷いた。


「誰か一人の都合を守るために、ほかの人の安心を削ることはできない」


「紹介者にも、問題を起こした本人にも、それぞれ事情はある。事情を聞くことは必要だ」


「でも、事情があることと、何をしても許されることは違う」


「分かりました」


 リリアは穏やかに笑った。


「次に同じことがあれば、今日より迷わず伝えられると思います」


「その時も、一人で抱えなくていい」


「はい」


 入口を守るのは、一人ではない。


 接客する者が言葉で線を示し、黒服が安全を守り、店主が最終的な判断をする。


 裏方は必要なことだけを記録し、厨房で働く者も守られる。


 紹介者の信頼だけに頼らず、店全体で一人の客を見る。


 それが、今のClub Moon Dropだった。


 ◇◇◇


 同じ頃。


 王都へ続く街道沿いの宿で、二人の男が遅い夕食を取っていた。


 片方は、王都の社交事業へ関わる商人。


 もう片方は、Club Moon Dropの周辺を調べている部下だった。


 部下が一枚の報告書を差し出す。


「今夜、初来店客が退店させられました」


「理由は?」


「従業員への無礼な発言を繰り返し、注意にも従わなかったためです」


 商人は料理の手を止めずに尋ねる。


「紹介した会員は?」


「会員資格はそのままです。ただし、三か月は新しい客を紹介できません」


 商人はそこで初めて顔を上げた。


「紹介した側まで客を増やせなくするのか」


「はい」


「随分と遅い店だな」


 部下は答えず、報告書の続きを待った。


「一日に何十人も客を入れたい店なら、そんな制度は作らん」


「店側も、客数が増えにくくなることは承知しているはずです」


「それでもやるということは、売上より店内の空気を選んだわけか」


 商人は小さく笑った。


「狭い店だからできる」


「大きな店では難しいでしょう」


「百人の客へ、一人ずつ紹介者を求めるわけにはいかんからな」


 報告書を閉じ、卓の端へ置く。


「誰でも入れる店なら、断られた客も拾える」


「身元を確かめる手間も少ない」


「客が望む物を断らなければ、満足したと思わせることもできる」


 部下は少し迷ってから口を開いた。


「その分、問題客も増えます」


「黒服を多く置けばいい」


「人数だけで止められるでしょうか」


 商人は答えず、杯を口へ運んだ。


 窓の外では、王都へ向かう馬車の灯りが遠く揺れている。


「少なくとも、あの店より早く客を集めることはできる」


 その声には、守られる空気への関心はなかった。


 見ているのは、断られた客と空いた席。


 そして、そこへ入り込める商機だけだった。


 Club Moon Dropは、紹介した者にも責任が残る制度を選んだ。


 それは店の信頼を守るための仕組みだった。


 同時に、客数を増やすことだけを考える者たちには、扱いやすい弱点にも見えていた。

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