第103話 過去を売る演奏依頼
昼営業を終えたClub Moon Dropには、夜営業までの短い休息が訪れていた。
先ほどまで客の話し声で満ちていた客席には、食器を重ねる音と、布でテーブルを拭く音が静かに響いている。
ロイは入口に近い席から順に、椅子の位置を整えていた。受付付近へ視線を配りながらも、客席に残されたグラスや皿があれば自分で片付け、厨房へ運んでいく。
ディーノは回収したグラスを洗い終えると、一つずつ灯りへ透かし、曇りが残っていないか確かめていた。
「昼は甘い酒の注文が多かったな」
「焼き菓子と一緒に頼まれる方が増えましたからね」
ロイが答えると、ディーノは磨き終えたグラスを棚へ戻した。
「夜の分まで足りるか?」
「予備も含めれば問題ありません。ただ、背の低いグラスは残りが少ないので、先に補充しておきます」
「分かった。俺は厨房から料理用の皿を持ってくる」
二人は短く言葉を交わし、それぞれの仕事へ戻っていく。
厨房では、ルークとティアが夜営業へ向けた仕込みを進めていた。
煮込み鍋からは香草の匂いが立ち上り、作業台の上には皮をむいた野菜が種類ごとに分けられている。
「ティア、人参はそこまででいい」
ルークは切り揃えられた人参を確認した。
「残りは夜の注文を見ながら追加する。昼の記録を見る限り、今日はポトフより香草焼きの方が出そうだからな」
「はい。では、次は器具を洗います」
「その前に手を洗い直してくれ。さっき乾物の棚を触っただろ」
「あっ……はい」
ティアはすぐに右側の桶へ向かう。
最初の頃は、次の作業へ移るたびにルークが指示を出さなければならなかった。だが今では、指摘を受ければ自分で理由を考え、同じ失敗を繰り返さないようになっている。
ルークも、自分で全てを終わらせるのではなく、ティアが覚えられるよう仕事を任せることに慣れ始めていた。
客席の端では、ノアが営業記録をまとめていた。
昼に出た料理と飲み物の数、食材の残量、提供に時間がかかった注文、割れかけた皿や緩みの見つかった椅子。
客同士が何を話していたかではなく、今後の営業に必要な情報だけを選び、短い言葉で書き込んでいく。
レンは帳場で売上を確認したあと、客席へ出てきた。
「ロイ、入口近くの二つ目の椅子だけ、少し脚が揺れていなかったか?」
「確認してあります。床との間に薄い木片を挟むだけでは危ないので、夜営業では使わないよう外しておきました」
「ありがとう。あとで修理しよう」
「はい」
レンが問題の椅子を確認しようとした時、入口の扉が三度、控えめに叩かれた。
営業時間外の来客だった。
ロイは作業の手を止めると、周囲を確認してから扉へ向かった。
「どちら様でしょうか」
扉を少しだけ開けると、外には三十代半ばほどの男が立っていた。
深い藍色の上着に、よく磨かれた革靴。派手な装飾はないが、身につけている物はいずれも質が良い。
男は胸元へ手を当て、礼儀正しく頭を下げた。
「営業時間外に申し訳ございません。私はアルドと申します。演奏家や劇団への仕事を仲介しております」
「演奏の仲介人ですか」
「はい。こちらにセレナ様がいらっしゃると伺いまして、本日はご相談に参りました」
ロイはすぐに扉を大きく開けず、レンへ視線を向けた。
セレナを名指しした来客である以上、安易に店内へ通すべきではない。
「レンさん」
「聞こえているよ」
レンは入口まで歩み寄り、男へ軽く一礼した。
「店主のレンです。セレナへの相談とのことですが、どなたからこちらの店を聞かれましたか」
アルドは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに笑みを戻した。
「以前、貴族の屋敷で働いていた者からです。セレナ様がリュートを演奏できると聞き、ぜひ仕事をお願いしたいと思いまして」
「店で働いていることまで、その方から?」
「いえ。こちらについては、商人たちの間で評判を聞きました。紹介を受けた者だけが入れる、接客の優れた店であると」
言葉だけを聞けば、怪しいところはない。
しかし、セレナが貴族の屋敷で演奏していたことと、現在この店で働いていることを別々の場所から調べて訪ねてきたことになる。
レンは相手の顔を見ながら尋ねた。
「依頼内容を、先に私へ説明していただけますか」
「もちろんです」
「でしたら、中へどうぞ」
レンが判断すると、ロイはようやく扉を開いた。
アルドを入口に近い客席へ案内し、ディーノが水を用意する。
「ありがとうございます」
アルドは席へ腰掛けながら、店内を見回した。
壁や床は丁寧に手入れされているものの、高価な装飾品が並んでいるわけではない。
それでも、椅子の間隔や照明の位置、従業員の動きには細かな気配りが感じられた。
壁には、一本のリュートが掛けられている。
アルドの視線がそこへ向けられたことを、レンは見逃さなかった。
「セレナ本人へ話す前に、概要をお聞きします」
「承知しました」
アルドは鞄から一通の封筒を取り出した。
「来月、商人と貴族を招いた夕食会が開かれます。場所は中央広場近くにある商会所有の会館です。その席で、セレナ様にリュートを演奏していただきたいのです」
「演奏時間は?」
「食事の前に一曲。途中に二曲。最後に一曲を予定しています。全て合わせても長い時間にはなりません」
「演奏以外の仕事はありますか」
「簡単な挨拶をお願いする可能性はございますが、接客や給仕をしていただく必要はありません」
「報酬は、この書面に?」
「はい。衣装はこちらで用意いたします。会場までの馬車と、護衛も手配いたします」
条件だけを見れば、正式な演奏依頼として大きな問題はない。
報酬も低くはなかった。
レンは書面を一通り確認してから、ノアへ目を向けた。
「ノア、セレナを呼んできてくれるか」
「分かりました」
ノアは記録帳を閉じると、休憩中の女性たちがいる部屋へ向かった。
しばらくして、セレナが姿を現した。
落ち着いた色合いの給仕服を身につけ、背筋を伸ばして歩いてくる。
その後ろからリリアとエルナも顔をのぞかせたが、客人との話だと分かると離れた場所で仕事を始めた。
「お待たせいたしました」
セレナが一礼すると、アルドは立ち上がった。
「お目にかかれて光栄です、セレナ様。私はアルドと申します」
「現在はただのセレナです。様を付けていただく必要はございません」
「失礼いたしました。では、セレナさんと」
アルドは椅子を勧め、自分も席へ戻った。
レンは先ほどの書面をセレナへ渡す。
「来月の夕食会で、リュートを演奏してほしいそうだ」
「私に、ですか」
セレナの視線が壁の楽器へ向かう。
「どちらで、私が演奏できるとお知りになったのでしょうか」
「かつてヴァレンティーニ家と交流のあった貴族の屋敷で、何度か演奏されたことがあると伺いました」
セレナの指先が、書面の端でわずかに止まった。
貴族であった頃、客を招いた夜会や食事会で演奏したことはある。
だが、それは演奏家として招かれたものではない。
家の娘として、客を楽しませるために求められた振る舞いの一つだった。
「随分と昔のことです」
「それでも、聴いた方の記憶に残るほど見事な演奏だったのでしょう」
「直接、私の演奏を聴かれたのですか」
「いえ、残念ながら」
アルドは正直に認めた。
「ですが、複数の方が、繊細で美しい音色だったと話しておられました」
セレナは書面へ目を落とした。
演奏すること自体に抵抗があるわけではない。
リュートは今でも好きだった。
店が静かな時には弦へ触れることもあり、仲間たちの前で短い曲を奏でたこともある。
自分の音楽を必要としてくれるのであれば、外で演奏することにも興味はあった。
「曲目はこちらで決めてもよろしいのでしょうか」
「基本的にはお任せいたします。ただ、会の雰囲気に合う穏やかな曲を中心にお願いできればと」
「演奏前の挨拶とは、どのような内容でしょう」
その質問を受けたアルドは、すぐには答えなかった。
「それについては、少しご相談がございます」
レンは男の表情を見た。
ここからが本題なのだろう。
「演奏だけの依頼ではないのですね」
「演奏が第一であることは間違いございません」
アルドは両手を組み、慎重に言葉を選ぶ。
「ですが今回の夕食会は、通常の商談会とは異なります。参加者に強く印象を残す催しが求められております」
「印象を残すために、私へ何を求めておられるのですか」
「セレナさんのこれまでの歩みを、演奏の前に簡単に紹介させていただきたいのです」
セレナの目がわずかに細くなった。
「これまでの歩み、とは」
「名門貴族の令嬢として生まれながら、家の事情によって全てを失い、現在は新たな人生を歩んでいる。そうした物語です」
店内から、食器の触れ合う小さな音が消えた。
リリアは手にしていた布を握り、エルナはアルドの方を見た。
厨房へ向かいかけていたディーノも足を止めている。
アルドは周囲の反応に気づいていたが、商談を続けた。
「ただの演奏会として紹介するよりも、多くの方が関心を持ちます」
「元貴族令嬢が、苦難を乗り越えて再び奏でる音色。そのように告知すれば、夕食会の価値も高まるでしょう」
「私の家名も出すおつもりですか」
「可能であれば」
「没落したことも?」
「表現は慎重に選びます」
「答えになっておりません」
セレナの口調は穏やかだった。
しかし、声に宿るものが変わっていた。
「私がかつて貴族であり、家と財産を失ったことを、客を集めるために使いたいということでしょうか」
アルドは一度、息を整えた。
「不快に思われたのであれば、申し訳ございません」
「ですが、これは決してセレナさんを侮辱する意図ではありません。むしろ、困難の中でも前を向いている姿を称えるためのものです」
「誰が、私の人生を困難から立ち上がった物語として語るのでしょう」
「紹介文は私どもで作成し、事前に確認していただきます」
「そうではありません」
セレナは書面をテーブルへ置いた。
「私の過去を語る権利を、誰が持っているのかとお聞きしています」
アルドは言葉を失った。
セレナは怒鳴ってはいない。
相手を責めるような表情もしていない。
それでも、その問いを曖昧な営業の言葉でかわすことはできなかった。
「もちろん、最終的な判断はセレナさんにございます」
「でしたら、私は望みません」
「まだ条件の調整は可能です」
「報酬の問題ではございません」
アルドはすぐに鞄から別の書面を取り出した。
「当初の金額では不足という意味ではありません。ですが、この催しには有力な商人も参加いたします。演奏が評価されれば、次の依頼にもつながります」
「元貴族令嬢として知られることが、次の依頼につながるのでしょうか」
「最初に注目を集めるきっかけは必要です」
「その後は演奏そのものが評価されます」
「本当にそうでしょうか」
セレナは静かにアルドを見つめた。
「次の会場でも、元貴族令嬢の演奏として紹介されるのではありませんか」
「それは……依頼主の希望にもよります」
「私が何を弾いたかより、どのように家を失ったかを知りたがる方が増えるのではありませんか」
アルドは否定できなかった。
話題性を求める客が、演奏だけで満足するとは限らない。
むしろ、家を失った理由や今の暮らし、貴族であった頃との違いを聞きたがる者も現れるだろう。
「言葉を変えることはできます」
アルドは食い下がった。
「没落という表現を使わず、かつて貴族社会で教養を身につけた演奏者として紹介するのはいかがでしょう」
「それでも、私の過去を売りにすることは変わりません」
「では、家名は伏せます」
「元貴族という部分を残すのであれば同じです」
「全てを伏せてしまえば、今回セレナさんへお願いする意味が薄れてしまいます」
その言葉が落ちた瞬間、アルド自身が失言に気づいた。
レンの表情がわずかに厳しくなる。
リリアは心配そうにセレナを見た。
だがセレナは、傷ついた顔を見せなかった。
むしろ、確かめたい答えが得られたように、静かに頷いた。
「やはり、そうなのですね」
「今の言葉は、その……」
「責めているのではありません」
セレナは首を横へ振った。
「確認したかっただけです」
そして、アルドの目を真っ直ぐに見つめた。
「私が元貴族でなかったとしても、この依頼を持って来られましたか」
アルドの唇が動く。
しかし、答えは出なかった。
セレナがどの程度の腕前なのか、アルドは直接確かめていない。
過去に演奏したという噂を聞いただけだ。
それでも店まで足を運んだのは、彼女の経歴に客を集める価値があると判断したからだった。
「……正直に申し上げれば」
アルドは視線を下げた。
「同じようには動かなかったと思います」
「ありがとうございます」
セレナは微笑んだ。
それは喜びの笑みではない。
けれど、曖昧な言葉を重ねられるよりも、はっきりとした答えを得たことへの安堵があった。
「その答えで十分です」
セレナは書面と封筒を揃え、アルドの前へ戻した。
「今回の依頼はお断りいたします」
「本当に、演奏だけの依頼へ変更することもできませんか」
「演奏だけを求めてくださるのであれば、改めてお話を伺います」
「しかし、この夕食会では――」
「でしたら、私である必要はございません」
アルドはレンへ顔を向けた。
「店主としては、いかがでしょう」
「私から説得してほしいということですか」
「この店にとっても、名を広める機会になります」
「セレナさんの演奏が評判になれば、Club Moon Dropへ足を運びたいと考える者も増えるでしょう」
レンはすぐには答えなかった。
店にとって利益になるかどうかだけを考えれば、アルドの話にも一理はある。
紹介制の店であっても、評判が広がることには意味がある。
店の外で働く者が評価されれば、そこで育った人材や接客への関心も高まるだろう。
だが、だからといってセレナの過去を店の利益へ変えてよい理由にはならない。
「この店は、働いている人間の過去を売って客を集める場所ではありません」
レンは静かに答えた。
「セレナが自分の意思で演奏し、その音を聴いてほしいと望むなら、俺は背中を押します」
「けれど、本人が望まない形で注目を集めさせるつもりはありません」
「店の宣伝になるとしても、ですか」
「店の宣伝になるからこそ、してはいけないこともあります」
アルドはレンを見つめた。
「商売である以上、話題は必要です」
「そうかもしれません」
「ですが、話題のために誰かを傷つければ、その傷は話題が消えたあとも残ります」
レンはセレナへ視線を向けた。
「それに、今ここで働いているセレナを評価せず、昔の身分だけを利用して得た評判は、この店が望むものではありません」
セレナは何も言わなかった。
ただ、膝の上で重ねていた手から、ゆっくりと力が抜けていった。
アルドはしばらく黙り込んでいたが、やがて書面を封筒へ戻した。
「承知いたしました」
声には落胆が混じっている。
「こちらの意図を押しつける形になってしまい、申し訳ございませんでした」
「謝罪していただく必要はございません」
セレナは答えた。
「私も、自分が何を望んでいるのかを確認できました」
「演奏そのものを求める依頼であれば、また伺っても?」
「その時は、曲目や会場についてお話を聞かせてください」
「分かりました」
アルドは立ち上がり、レンとセレナへ頭を下げた。
「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
ロイが扉まで案内する。
アルドが外へ出ると、扉は音を立てないよう静かに閉じられた。
◇◇◇
店を離れたアルドは、大通りへ向かわず、建物と建物の間にある細い路地へ入った。
少し進んだ先には、灰色の外套をまとった男が待っていた。
装飾の少ない服装ではあるが、靴も手袋も上等な品だ。腰には商会の印が刻まれた小さな革袋を下げている。
「随分と時間がかかったな」
「交渉しましたから」
「結果は?」
「断られました」
男は驚いた様子を見せなかった。
「報酬を上げてもか」
「金額の問題ではないそうです」
「家名を伏せる案は?」
「元貴族という経歴を使うこと自体を拒否されました」
アルドは先ほどの会話を思い返しながら続ける。
「彼女は、演奏だけを求めるなら考えると言いました」
「店主はどうした」
「説得しませんでした」
「むしろ、店の宣伝になるとしても、従業員の過去を利用するつもりはないと」
灰色の外套の男は腕を組んだ。
「従業員本人の判断を優先したということか」
「はい」
「雇い主の命令で、外部の仕事へ出させる様子もありません」
「セレナという女が、店の外でも客を集められるかは分からなかったな」
「演奏をさせていませんから」
「だが、判断材料は得られた」
男は小さな手帳を取り出した。
「過去の身分を使えば話題を集められる可能性はある。しかし、本人も店主も、その方法を受け入れない」
「店で働く者を外の催しへ出し、客を引きつける計画には向かないかもしれません」
アルドが言うと、男は首を横へ振った。
「そうとは限らない」
「命令で動かないからこそ、本人が納得する依頼を作ればよい」
「王都で計画されている社交施設は、貴族や商人を集めるだけでは足りない。何度も訪れたいと思わせる接客や催しが必要だ」
「Club Moon Dropの人材が、店の外でも同じ価値を持つのか」
「それを確かめたいということですか」
「そのために、お前へ依頼した」
男は手帳へ短く書き込んだ。
「セレナの演奏は確認できず。過去を利用した宣伝には強く反発。店主は従業員の意思を優先する」
「さらに、外部からの依頼に対して警戒が強い」
アルドは苦笑した。
「受付の男も、すぐには中へ入れませんでした」
「紹介制の店なら当然だろう」
「ですが、私がセレナの所在を知っている理由まで確かめられました。単に評判の店というだけではありません」
「分かった」
男は手帳を閉じる。
「王都へは、そのまま報告する」
「次も私が?」
「いや。続けて同じ仲介人を使えば警戒される」
「次は客として様子を見る者を送る」
アルドは眉を寄せた。
「店の客になるには紹介が必要なのでは」
「すでに入店できる者は何人かいる」
灰色の外套の男は、それ以上説明しなかった。
「お前の仕事はここまでだ」
小さな革袋が差し出される。
アルドは受け取りながら、Club Moon Dropの方角を振り返った。
「演奏だけの依頼なら、彼女は受けるかもしれません」
「そう言っていたな」
「ええ」
アルドは、セレナが最後に見せた表情を思い出す。
「過去を隠したいというより、過去だけで見られたくないのでしょう」
「同じことではないのか」
「違います」
アルドは答えた。
「あの方は、過去を恥じているようには見えませんでした」
「ただ、今の自分よりも過去の身分を価値があるものとして扱われることを拒んだのだと思います」
男は少しだけ考えたあと、路地の奥へ歩き出した。
「その違いも、報告に加えておこう」
二人は別々の方向へ去っていった。
◇◇◇
Club Moon Dropの店内には、アルドが去ったあとの静けさが残っていた。
最初にセレナへ歩み寄ったのはリリアだった。
「セレナ、大丈夫ですか?」
「ええ」
「無理に平気なふりをしていませんか?」
客へ向ける時とは違う、親しい相手を気遣う声だった。
セレナは少し迷ったあと、素直に答える。
「全く何も感じなかったと言えば、嘘になります」
「そうですよね」
「けれど、以前とは違います」
エルナも近づいてきた。
「怒っていい話だと思うよ。元貴族だから客が集まるって、演奏を聴いたこともないのに決めてたんでしょ?」
「アルドさんにも、仕事としての事情があったのでしょう」
「それでも、セレナの人生だよ」
エルナは不満そうに扉を見る。
「勝手に人を呼ぶための飾りにするなんて、私は嫌だな」
「ありがとう、エルナ」
セレナは小さく笑った。
「ですが、今日の話を聞けたことは、悪いことばかりではありませんでした」
「どういうことですか?」
ミーナも客席へやって来る。
セレナは壁に掛けられたリュートを見上げた。
「家を離れたばかりの頃でしたら、私はあの依頼を受けていたかもしれません」
「嫌でも?」
「嫌だと考えることさえ、できなかったと思います」
かつてのセレナにとって、自分の価値は家名と身分に結びついていた。
家を失い、財産を手放し、爵位も返上した時、自分には何も残っていないように感じた。
貴族として身につけた礼儀や教養が役に立つのであれば、どのような形であっても使うべきだと思っていた。
「元貴族であることを求められたなら、それでも必要としてもらえるだけありがたいと考えたでしょう」
「でも、今は違う?」
エルナが尋ねた。
「はい」
セレナは迷わず頷いた。
「今は、ここで働いている私を見ていただきたいと思っています」
「誰かの話を聞くことも、飲み物を選ぶことも、店の皆さんと一緒に働くことも、まだ学んでいる途中です」
「それでも、過去の身分とは関係なく積み重ねてきたものです」
リリアは優しく微笑んだ。
「セレナが頑張ってきたことは、私たちが知っています」
「ありがとうございます」
「お客様も分かってくださっていますよ」
「以前、貴族だったからセレナへ話しかけるのではありません」
「セレナが落ち着いて話を聞いてくれるから、安心して相談されるのだと思います」
ミーナも頷いた。
「演奏も同じだと思います」
「セレナさんが弾く音を好きだと思ってくださる方なら、昔の身分を知らなくても聴いてくださいます」
「そうであれば、嬉しいです」
厨房から様子を見ていたティアが、おそるおそる口を開いた。
「私も……少しだけ、分かる気がします」
全員の視線が集まり、ティアの耳がわずかに伏せられる。
「すみません。私とは全然違う話なのに」
「構いません。聞かせてください」
セレナに促され、ティアは作業台の端で手を握った。
「前に働いていた場所では、獣人だから乱暴だとか、細かい料理はできないとか、最初から決めつけられていました」
「私が何を作ったかを見る前に、です」
ルークは手を止めずに鍋を混ぜていたが、ティアの言葉を静かに聞いていた。
「ここでは、できないことはできないって言われます」
「でも、それは獣人だからじゃなくて、私がまだ覚えていないからです」
「できるようになったら、ちゃんと任せてもらえます」
ティアはセレナを見る。
「だから、昔の身分だけで決められるのが嫌だという気持ちは、少しだけ分かる気がしました」
「ありがとう、ティア」
セレナは柔らかく笑った。
「私も、今のあなたが一生懸命働いていることを知っています」
ティアの耳が嬉しそうに立ち上がる。
その様子を見て、重くなっていた空気が少し和らいだ。
「セレナ」
レンが声を掛けた。
「演奏の依頼そのものは、どう感じた?」
セレナは少し考える。
「驚きました」
「嫌だった?」
「過去を宣伝に使われることは嫌でした」
「ですが、演奏を依頼されたこと自体は……嬉しかったのだと思います」
自分で口にしてから、セレナはその感情を確かめるように胸元へ手を添えた。
「以前は、家のために弾くものでした」
「客を退屈させないため、教養があると示すため、娘として役目を果たすために」
「音楽は好きでしたが、演奏する理由を自分で選んだことは、ほとんどありません」
「今回は選べた」
レンの言葉に、セレナは頷いた。
「はい。断ることも含めて、自分で決めることができました」
「それなら、今日の依頼にも意味はあったのかもしれないな」
「そう思います」
ノアは少し離れた場所で会話を聞いていたが、やがて記録帳を手にした。
「レンさん」
「どうした?」
「今回の件を、どこまで記録しますか」
ノアの問いに、セレナの表情がわずかに強張る。
それに気づいたノアは、すぐに続けた。
「相談内容やセレナさんの過去を書くつもりはありません」
「ただ、店で働く人を名指しした外部依頼があったという事実は、今後のために残した方がよいと思います」
「同じような依頼が続く可能性がありますから」
レンは頷いた。
「外部の仲介人から、店外での演奏依頼があった。本人が条件を確認したうえで断った。それだけでいい」
「依頼の理由は?」
「書かなくていい」
「分かりました」
ノアは記録帳へ短く書き込んだ。
セレナの家名も、元貴族という言葉も、アルドとの詳しい会話も残さない。
店の安全と今後の対応に必要な情報だけだった。
「ありがとうございます」
セレナが言うと、ノアは顔を上げた。
「必要のないことを記録しないのは、いつものことです」
それだけ答え、再び帳簿へ視線を戻した。
レンは店内を見回す。
「そろそろ夜営業の準備に戻ろう」
「はい」
リリアたちはそれぞれの持ち場へ戻っていく。
セレナも仕事へ戻ろうとしたが、一度だけ壁のリュートを振り返った。
◇◇◇
夜営業が始まると、Club Moon Dropにはいつもの客たちが訪れた。
昼の出来事を知る者はいない。
セレナも普段と変わらない笑顔で客を迎え、上着を預かり、席へ案内した。
「今夜は少し冷えますね」
商人の男が手をこすりながら言った。
「温かいお飲み物をご用意いたしましょうか」
「そうですね。食事の前なので、あまり強くない物がいい」
「でしたら、香草を使った温かい酒はいかがでしょう。香りはございますが、口当たりは穏やかです」
「それをお願いしよう」
「かしこまりました」
セレナは注文をロイへ伝え、別の席へ向かう。
過去の身分を知っているから頼られているのではない。
目の前の客が何を求めているのかを考え、自分の言葉で提案する。
その積み重ねが、今のセレナの仕事だった。
しばらくして、先ほどの商人が壁に掛けられたリュートへ気づいた。
「この店には楽器もあるのですね」
「はい」
セレナはリュートへ視線を向ける。
「私が大切にしている物です」
「セレナさんが弾かれるのですか」
「時々、練習しております」
「それは聴いてみたい」
商人は純粋に興味を示した。
「何かの祝いの時にでも、演奏していただけると嬉しいですね」
「ありがとうございます」
「昔から演奏を?」
その問いに、セレナは一瞬だけ言葉を止めた。
だが、男の目に探るような色はない。
ただ楽器を見つけ、音楽について尋ねているだけだった。
「はい。長く触れてきた楽器です」
「なるほど。だから大切にされているのですね」
商人はそれ以上、過去について尋ねなかった。
「演奏される日が決まりましたら、教えてください」
「その時は、ぜひお聴きください」
セレナは自然に微笑むことができた。
元貴族令嬢の演奏だからではない。
壁にある楽器を大切そうに見つめた自分を見て、この人は音を聴きたいと言ってくれた。
それだけのことが、胸の奥へ温かく残った。
◇◇◇
夜営業を終え、最後の客を見送ったあと。
ロイとディーノは客席を片付け、ルークとティアは厨房の火と水場を確認していた。
リリアたちも着替えるため、順番に奥の部屋へ戻っていく。
セレナは一人、壁の前で立ち止まった。
手を伸ばし、リュートを外す。
木の表面へ触れると、長い間手に馴染んできた感触が返ってきた。
椅子へ腰掛け、調弦を始める。
弦を一つ鳴らし、音を確かめる。
次の弦へ指を移し、わずかなずれを整える。
準備を終える頃には、店内の片付けもほとんど終わっていた。
「弾くのか?」
少し離れた場所からレンが尋ねる。
「はい」
セレナはリュートを抱え直した。
「今日は、弾きたいと思いました」
「そうか」
レンは演奏を頼まなかった。
何を弾くのかも尋ねない。
ただ、入口の鍵を確認すると、客席の明かりを一つだけ残した。
「片付けは終わっている。急がなくていいよ」
「ありがとうございます」
セレナは弦へ指を置いた。
最初の音が、静かな店内へ広がる。
貴族の屋敷で弾いていた頃、演奏を間違えることは許されなかった。
客の好みに合う曲を選び、長すぎず、短すぎず、会話を邪魔しない音を求められた。
曲が終われば拍手を受けた。
美しい演奏だったと褒められることもあった。
けれど、その言葉が自分へ向けられたものなのか、家の娘へ向けられたものなのか、当時のセレナには分からなかった。
家を離れてからは、リュートを見るたびに、失ったものを思い出した。
楽器を手放すことはできなかったが、素直に音楽を楽しむこともできなかった。
それでも、この店で暮らし、働き、仲間たちの前で少しずつ弾くようになった。
誰も、貴族らしい曲を求めなかった。
演奏を失敗しても責めなかった。
エルナは明るい曲をもう一度聞きたいと言い、ミーナは歌を合わせてもよいかと尋ねた。
ティアは初めて近くで聞くリュートの音に、目を輝かせていた。
今夜、セレナが奏でているのは、誰かの期待へ応えるための曲ではない。
家名を価値あるものとして見せるためでもない。
過去を悲しい物語へ整え、客の関心を引くためでもない。
ただ、自分が好きだった曲を、自分が弾きたいと思ったから奏でている。
途中で、指が一度だけ弦を外した。
かすかな濁りが混じる。
セレナは手を止めなかった。
誰かに評価される場ではない。
音の乱れも含めて、今の自分の演奏だった。
曲が終わると、店内に静かな余韻が残った。
レンは拍手をしなかった。
代わりに、しばらく音の消えた空間を一緒に味わったあと、穏やかに尋ねる。
「もう一曲、弾く?」
セレナはリュートを抱えたまま笑った。
「はい。もう少しだけ」
「分かった」
レンは帳場の椅子へ腰掛けた。
聞くために近くへ来るのではなく、かといって一人にもしない。
セレナが自由に演奏できる距離を保っていた。
セレナは次の曲を選ぶ。
昔、母が好きだった穏やかな旋律。
以前なら、その曲を弾けば失った屋敷や家族のことばかり考えていた。
だが今は違う。
過去は消えていない。
セレナが貴族の娘として生きていた時間も、家を失った苦しみも、自分の一部だった。
けれど、それだけが自分の全てではない。
Club Moon Dropで働き始めてから出会った人々。
自分を名前で呼び、今の仕事を見てくれる仲間。
飲み物の提案を喜んでくれる客。
また話を聞いてほしいと訪ねてくれる者。
そうした新しい時間も、すでにセレナの中へ積み重なっていた。
弦から生まれる音が、夜の店内を満たしていく。
過去を否定する音ではない。
過去へ戻る音でもない。
自分の歩いてきた道を抱えたまま、それでも今いる場所から前へ進むための音だった。
曲を終えたセレナは、しばらく弦へ指を置いたまま目を閉じていた。
やがて目を開き、静かに息を吐く。
「レンさん」
「うん?」
「いつか、店の外でも演奏してみたいと思います」
レンは驚かず、続きを待った。
「ですが、元貴族の演奏としてではありません」
「セレナの演奏として?」
「はい」
セレナははっきりと頷いた。
「それを聴きたいと言ってくださる方の前で、弾いてみたいです」
「その依頼が来たら、セレナが自分で決めればいい」
「店の予定との調整は必要だけど、演奏することには反対しないよ」
「ありがとうございます」
「ただし」
レンは少しだけ笑った。
「今のままだと、演奏を始めたら帰りたくないと言う客が出るかもしれない」
「それは困りますね」
「閉店時間を決めてからにしよう」
「はい」
セレナも笑った。
その顔には、アルドの依頼を受けた時にあった硬さは残っていない。
レンが最後の明かりを落とすまで、セレナはもう一度だけ同じ曲を奏でた。
今度は先ほどよりも指の動きが滑らかだった。
誰かに与えられた役目としてではない。
売るための過去を飾る音でもない。
自分が選び、自分のために奏でた音色が、静かな夜のClub Moon Dropにゆっくりと広がっていった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




