第102話 教える者になったルーク
ティアの試用初日。
Club Moon Dropの開店までは、まだかなり時間があった。
それでも厨房では、すでに豚バラ肉と根菜を煮込む鍋から湯気が立ち上り、作業台には朝の仕込みに使う食材が並べられている。
ルークは、いつもよりかなり早く店へ来ていた。
今日からは、自分の仕事を進めるだけではない。
ティアへ厨房の決まりを説明し、作業の見本を示し、実際に行わせて確認しなければならない。
教えながら進めれば、普段より時間がかかる。
その分、ティアが来る前に火へかけられる鍋や、自分だけで確認できる食材を先に進めておこうと考えたのだ。
鍋の火加減を確かめた後、隣へ置いた大豆の戻り具合を見る。
問題はない。
ここまで進めておけば、野菜の洗い方から教えても、昼営業には間に合うはずだった。
厨房の外では、レンが客席の一卓へ帳簿を広げていた。
普段、売上や注文数の確認は二階の事務所で行っている。
しかし、今日はティアの初出勤日である。
二階にいれば、店の扉を叩く音へすぐに気づけないかもしれない。
初めて働きに来た者を、誰もいない店の前で待たせたくない。
そのためレンは帳簿を一階へ持ち下ろし、前日の記録を確認していた。
ひと区切りついたところで帳簿を閉じ、厨房へ顔を出す。
「仕込みは間に合いそう?」
「今のところは問題ありません」
ルークは鍋の蓋を僅かにずらし、香りを確かめた。
「教えながらでは時間がかかります。その分、先に進められるところは進めています」
「最初から、ルークと同じ速さではできないからね」
「分かっています」
そう答えながらも、ルークの視線は食材と器具の間を何度も行き来していた。
何から教えるのか。
どこまで任せるのか。
失敗した時は、どの時点で手を出すのか。
料理を作る順番なら迷わない。
だが、人へ教える順番については、まだ考え切れていなかった。
「今日は帳簿を一階へ持ってきたのですね」
「うん。ティアを迎えるためでもあるけど、店主として最初に話しておきたいこともあるから」
レンは厨房の奥にある保冷庫の蓋を開いた。
毎朝の日課である氷魔法を補い、庫内へ冷気を広げる。
「試用期間の働き方や賃金について、ルークへ任せきりにはできない。ティアを雇うのは、この店だからね」
「ありがとうございます」
厨房での指導は自分の役目になる。
それでも、ティアを受け入れる責任まで、一人で背負う必要はない。
ルークの肩から、僅かに力が抜けた。
その時、静かな店内に扉を叩く音が響いた。
「来たみたいだね」
「少し早いですね」
ルークは鍋へ視線を戻した。
「こちらの準備はできています」
「僕が迎えてくるよ。ルークは鍋を見ていて」
「お願いします」
レンが入口の扉を開くと、外には一人の少女が立っていた。
動きやすい簡素な上着と、足首まである丈夫そうなズボン。
淡い茶色の髪は、後ろで一つにまとめられている。
三角形の耳は緊張したように立ち、長い尾は身体の近くへ寄せられていた。
「おはようございます」
ティアはレンを見ると、深く頭を下げた。
「今日から、お世話になります」
「おはよう。少し早かったね」
「遅れたらいけないと思って、早めに家を出ました」
「もう仕込みは始まっているから大丈夫だよ。入って」
「はい」
ティアを客席の一卓へ案内すると、レンは椅子を示した。
「厨房へ行く前に、少し話をしておこう」
ティアは緊張した表情のまま腰を下ろす。
「面接でも説明したけど、今日から数日間は試用期間になる。その間も、働いた時間に応じた賃金は支払うよ」
「はい」
「最初から一人前の料理人として働いてもらうわけではない。野菜洗い、皮むき、器具の洗浄、食材の確認。まずは仕込みの基本から覚えてもらう」
「分かりました」
「分からないことを勝手に決めないこと。失敗した時も、隠さずに伝えること」
ティアの耳が僅かに動いた。
「失敗したら、辞めさせられますか?」
「一度の失敗だけで決めるつもりはないよ」
レンは落ち着いた声で答えた。
「ただし、危険なことを隠したり、同じ注意を無視し続けたりすれば、厨房で働いてもらうのは難しくなる」
「同じ失敗をしないようにします」
「それは大切だね。ただ、焦って別の危険を起こさないように。特に刃物や火を扱う時は、早さより安全を優先すること」
「はい」
「それから、客の注文や店の事情を外で話さないこと。厨房にいても、客について知ることはあるからね」
「守ります」
「今のところ、何か聞いておきたいことはある?」
ティアは少し考えた後、首を横へ振った。
「まだ、何を知らないのかも分からないので、今はありません」
「それでいいよ。働きながら出てきたことを、その都度聞いてくれればいい」
レンが立ち上がる。
「では、ルークのところへ行こう」
「はい」
厨房の入口まで来ると、ティアは床との境目で足を止めた。
中ではルークが鍋の蓋をずらし、湯気と香りを確かめている。
「おはようございます」
ティアは深く頭を下げた。
「本日から、よろしくお願いします」
「おはようございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
ルークは作業の手を止め、ティアの服装を確認した。
汚れてもよい服。
短く整えられた爪。
後ろでまとめられた髪。
面接で伝えた準備は、きちんと守られている。
「厨房へ入る前に、髪を布で覆ってもらいます」
「はい」
ティアは自分の耳へ触れた。
「耳も隠すのですか?」
「無理に押さえるつもりはありません。耳の動きを妨げず、髪が落ちない形を考えます」
ルークは清潔な布を取り出し、自分が普段巻いている形を示した。
しかし、ティアが同じように布を巻こうとすると、耳の付け根へ布が触れた途端、反射的に耳が伏せられた。
「動かしにくいです」
「その形はやめましょう」
レンが予備の布を細長く折った。
「耳の間の髪だけ、先にこれで押さえたらどうかな」
細い布で額から耳の間にある髪をまとめ、その上から大きな布で耳の後ろと髪全体を覆う。
ティアが首を左右へ動かし、屈んでから立ち上がっても、布はずれなかった。
「苦しくありませんか?」
「大丈夫です。耳も動かせます」
「では、今日はこの形で作業してください」
ルークは結び目を確認した。
「髪や頭へ触れた後は、必ず手を洗ってください」
「はい」
「ノアが来たら、もっと簡単に身につけられる形を相談しよう」
レンの言葉に、ティアは頷いた。
身支度を終えると、ルークは厨房の中を示した。
「今日は料理を作る前に、この厨房の決まりを覚えてもらいます。まず、手を洗ってください」
ティアは水場へ向かい、並んでいる木桶の一つへ手を伸ばした。
「待ってください」
ルークの声に、ティアの手が止まる。
「その水は野菜を洗うためのものです」
「手を洗う水ではないのですか?」
水場には、同じ形の桶が三つ並んでいた。
「右が手洗い用。中央が野菜や果物用。左は器具を最初にすすぐためのものです」
ティアは三つの桶を順に見比べた。
「置く場所で分けているのですか?」
「はい」
「誰かが動かしたら、分からなくなりませんか?」
ルークは答えようとして、言葉を止めた。
これまでは、ほとんど自分一人で使っていた。
自分で決めた場所へ置き、自分で使うため、迷うことはなかった。
だが、初めて厨房へ入った者には、同じ桶が並んでいるだけである。
「確かに分かりにくいね」
レンも桶へ目を向けた。
「用途ごとに印をつけた方がよさそうだ」
「そうですね。ノアへ相談します」
ティアは手洗い用の桶で、手のひら、指の間、爪の周囲まで丁寧に洗った。
洗い終えて近くの布巾へ手を伸ばそうとしたところで、自ら手を止める。
「これは、手を拭く物ですか?」
「違います。作業台用です。手を拭く布は右側にあります」
「先に聞いてよかったです」
「その調子で、分からない時は使う前に確認してください」
桶だけでなく、布巾も置き場所だけで用途を分けている。
自分には当たり前だったが、誰にでも分かる状態ではない。
教え始めて間もないうちに、ルークは厨房の問題を二つ見つけていた。
「次は野菜を洗ってもらいます」
作業台には、じゃがいも、人参、玉ねぎが並んでいた。
「ポトフに使う分と、夜営業前の賄いに使う分です」
ルークは人参を一本取り、見本を示した。
表面の土を落としながら、くぼみや傷みを確認する。
「強くこすりすぎれば表面を傷つけます。弱すぎれば土が残ります」
「匂いも確認しますか?」
「気になるものがあれば。ただし、一つずつ長く確かめる必要はありません。目的は、使えない状態を見落とさないことです」
「分かりました」
ティアは人参を手に取った。
最初の一本は、ルークの倍以上の時間がかかった。
二本目も慎重だったが、三本目から少しずつ手の動きが整い始める。
四本目を洗っている途中、ティアの耳が動いた。
「ルークさん。この人参だけ、匂いが違います」
「どのように違いますか?」
「土の匂いが強くて、少し湿った木のような匂いがします」
ルークは人参を受け取り、表面を確かめた。
傷んでいる様子はない。
だが、深いくぼみへ湿った土が残っている。
細い木の棒で土を取り除き、もう一度洗ってからティアへ返した。
「確かめてください」
「さっきの匂いが、ほとんどなくなりました」
「違いへ気づいたことは間違いではありません。ただ、その違いが何を意味するのかは、確かめなければ分かりません」
「次に同じ匂いを感じたら、まず土を確認します」
「それでも分からなければ、私を呼んでください」
「はい」
ティアは次の人参へ手を伸ばした。
今度は匂いだけへ意識を向けず、くぼみに土が残っていないかも確かめる。
同じ理由で手を止めることはなかった。
野菜を洗い終えると、次は皮むきである。
「小さなナイフは使ったことがあると言っていましたね」
「はい。前の厨房で、じゃがいもや人参の皮をむいていました」
「では、持ち方を見せてください」
ティアは右手で柄を握り、左手にじゃがいもを持った。
刃の動かし方に大きな危なさはない。
しかし、皮の下にある白い実まで厚く削り取っていた。
ルークは一つ目を最後まで見てから、ティアがむいた皮を拾う。
裏側には、かなりの厚さで実が残っていた。
「以前も、このくらい厚くむいていましたか?」
「皮が残らないように、早くむけと言われていました」
「この部分は食べられます」
「もっと薄くむくのですか?」
「はい」
ルークは別のじゃがいもを手に取り、刃を深く入れず、表面へ滑らせるように皮をむいた。
「急がなくて構いません。まずは安全に、捨てる部分を減らしてください」
ティアは新しいじゃがいもへ刃を当てた。
今度は慎重になりすぎ、皮が何度も途中で切れる。
それでも、最初の一つより実を削り取る量は減っていた。
「先ほどよりよくなっています」
「もう一つやってもよいですか?」
「そのために用意しています。ただし、むいた物を先に水へ入れてください」
「あ……」
「一つの作業を終えたら、次に進む前に、その食材をどうするのか確認します」
「皮をむくことだけを考えていました」
「厨房では、今手にしている物だけを見ていてはいけません。むいた後、切った後、火を入れた後。その次も考えます」
ティアはじゃがいもを水へ入れ、皮を決められた器へ入れた。
次からは、むき終えるたびに同じ手順を繰り返す。
少しずつ動きが整っていったが、用意したじゃがいもの半分を終えたところで、ポトフへ加える時刻が近づいていた。
このまま任せれば、鍋が遅れる。
「ポトフ用の残り三つは、私がむきます」
ティアの耳が下がった。
「遅いからですか?」
「今必要な分を、決めた時刻までに鍋へ入れるためです」
「急げば――」
「急いで手を切ってはいけません」
そう答えながらも、ルークの中には焦りがあった。
鍋だけではない。
ムースとパンケーキの生地も準備しなければならない。
ティアへ教えることで、予定より遅れているのは事実だった。
「全部、今すぐ必要なの?」
厨房の入口からレンが尋ねた。
「ポトフ用は必要です。残りは賄い用です」
「なら、今必要な三つだけルークがむいて、賄い用は昼営業の後にティアへ続けてもらえばいいんじゃないかな」
ルークは籠の中を見た。
一人で作業する時は、同じ食材をまとめて処理した方が早い。
だが、練習させながらでは、同じ方法が最善とは限らない。
「分かりました」
ルークは必要な三つを取り出した。
「ティア、残りは昼営業の後に続けてください」
「任せるのをやめるのではないのですか?」
「違います。料理を時刻へ間に合わせることも、厨房の仕事です」
「はい。昼から続きをします」
ルークは三つの皮を素早くむき、大きさを揃えて切って鍋へ加えた。
ティアは使ったナイフを片付けようとしたが、置き場所が分からず手を止める。
「これは、どこへ置きますか?」
「洗う前の器具を置く場所です」
続いて、むいた皮へ目を落とす。
「薄くむけた皮も捨てるのですか?」
「今日は使い道を決めていないので、残しません」
「食べられるのに、もったいなくありませんか?」
「何でも残すことが、食材を大切にすることではありません」
ルークは鍋を混ぜながら答えた。
「残した物を忘れず、傷む前に使い切れるなら構いません。しかし、予定もないのに残せば、保管する場所と確認する仕事が増えます」
「残すことにも、仕事が必要なのですね」
「はい。使い道を決めてから残します」
その後、ルークはムースを入れる器を並べるよう指示した。
ティアは倒れないよう広い間隔を空けて置いたが、それでは必要な数が作業台へ収まらない。
ルークが適切な間隔を示すと、ティアは残りを同じように揃えた。
完成したムースを運ぶ時には、一度に四つ持とうとしたため、ルークが止める。
「最初は二つずつ運んでください」
「四つ持てます」
「持てる量ではなく、安定して運べる量を基準にします。慣れたら増やします」
「分かりました」
ティアは二つずつムースを保冷庫へ運んだ。
最初に置く場所を教わり、二度目は確認し、三度目には自分で正しい位置へ置く。
「覚えました。ムースは右側で、奥の金属板へ触れさせません」
「パンケーキの生地は?」
「まだ教わっていません」
「その答えで構いません。分からないのに、同じ場所だと決めないでください」
「はい」
すべてのムースを収めた頃、開店準備のために仲間たちが出勤し始めた。
最初に厨房へ顔を出したノアは、見慣れない巻き方の頭布を見て足を止めた。
「その形は、ルークさんとレンさんが考えたのですか?」
「はい。耳を押さえず、髪が落ちないようにしました」
ティアが答える。
ノアは結び目と布の重なりを確認した。
「毎朝二枚を巻くのは、少し大変そうですね。耳の位置を避けて留められる頭布を作った方がよいと思います」
「作っていただけるのですか?」
「店で必要な物ですから。今日の営業後に、頭と耳の位置を測らせてください」
「ありがとうございます」
「それから、桶と布巾にも印が必要です」
ルークが言った。
「同じ物が並んでいて、初めて使う者には用途が分かりませんでした」
「文字だけでなく、絵でも区別できるようにします」
「文字は読めます」
ティアが答える。
「今後、文字を十分に読めない見習いが入る可能性もあります」
ノアは手帳へ書き留めた。
「手洗い用には手。食材用には葉。器具用には皿の形をつけましょう」
「それなら、すぐに分かります」
ティアの表情が少し明るくなった。
やがて昼営業が始まった。
ティアは厨房の端に立ち、ルークの動きを見学する。
客席から注文が届く。
ポトフを小鍋へ移し、アクアパッツァを取り分け、鶏もも肉へ火を入れる。
パンケーキの生地を取り出しながら、次に必要な皿を並べる。
複数の注文が重なっても、ルークの手は止まらなかった。
ロイが料理を受け取りに入ってくると、ティアは慌てて壁際へ寄った。
しかし、下がった先には空の籠が置かれていた。
踵が触れ、籠が床を滑る。
「動く前に、後ろを確認してください」
ルークは火から目を離さずに言った。
「はい。すみません」
ティアは籠を元の位置へ戻した。
しばらくすると、ルークから木べらと小さな器を渡される。
「これを洗ってください」
「はい」
ティアは器具用の桶を使い、汚れを落とした。
洗い終えて差し出すと、ルークは木べらの先へ指を当てる。
「まだ生地が残っています」
「見えませんでした」
「洗えているかは、見た目だけで確かめません。触れて、溝や継ぎ目も確認してください」
ティアが指で触れると、僅かなぬめりが残っていた。
もう一度洗い、今度は自分で見て触れてから乾燥用の棚へ向かう。
だが、似た棚が並んでおり、どちらの下段だったのか分からなくなった。
「乾かす場所は、どちらでしたか?」
「先ほど教えた棚です」
忙しさの中で、ルークの声が少しだけ強くなった。
ティアの耳が伏せられる。
聞き直すこともできず、器具を持ったまま立ち尽くした。
その様子に気づいたノアが厨房へ入り、棚の一角へ簡単な絵を描いた紙を貼る。
雫のついた皿の絵だった。
「洗った器具はこちらです」
「これなら分かります」
ティアは器具を置いた。
「必要だと分かったので、先に一つ作りました」
ノアは予備の紙を示した。
「昼営業後、ティアさんにも印を描いてもらいます。自分で作れば、場所も覚えやすいでしょう」
「私が描くのですか?」
「見て分かれば、上手である必要はありません」
「やります」
昼営業が終わる頃には、ティアの顔へ疲労が浮かんでいた。
それでも食事を済ませると、すぐに厨房へ戻ろうとする。
「休憩してください」
ルークが止めた。
「でも、じゃがいもの続きをしなければいけません」
「休憩の後です」
「ルークさんは、もう働いています」
「私は慣れています」
「私も早く慣れます」
「休まないことへ慣れてはいけません」
口にした直後、ルークは僅かに黙った。
無理に働き続けてはいけない。
体調が悪い時は隠してはいけない。
そう教えながら、自分は休憩を後回しにしている。
「ルークさんも休みますか?」
「私は夜営業の準備が――」
「二人とも、今から半刻休んでください」
ノアが手帳を見ながら言った。
「仕込み量を確認しました。今休んでも、夜営業には間に合います」
「ですが」
「教えるルークさんが休まず、ティアさんだけ休ませても、ティアさんは働き続けることが正しいと考えます」
ルークは反論できなかった。
「……分かりました」
二人は客席の隅で休憩を取った。
ティアは水を飲み、椅子へ座った途端、小さく息を吐く。
「疲れましたか?」
「少しだけです」
「無理に少なく言わなくてよいです」
「では、とても疲れました」
正直な答えに、ルークは僅かに笑った。
「料理を作っていないのに、こんなに覚えることがあるとは思いませんでした」
「料理を作る前の仕事も、厨房の仕事です」
「はい。でも、楽しいです」
「間違えてばかりでも?」
「知らなかったことが、分かるようになるからです」
ティアは自分の手を見た。
「じゃがいもの皮も、最初より薄くむけました」
「まだ練習は必要です」
「はい。休憩が終わったら続きをします」
休憩後、ティアは朝に残したじゃがいもの皮むきを再開した。
今度は始める前に、むいた物を入れる水と、皮を分ける器を自分で用意する。
一つ目は、一部分だけ深く削った。
二つ目は皮が何度も切れたものの、捨てる実は少なくなった。
三つ目では刃が滑りかけた時に手を止め、持ち直してから再開した。
ルークは少し離れた場所で夜営業に使う肉を確認しながら見守った。
代わった方が早い。
そう思う場面は何度もあった。
だが、そこで手を出せば、ティアは次も同じところで止まる。
「ルークさん。ここだけ、皮の色が違います」
ティアが示した場所には、小さな緑色の部分があった。
「そこは厚めに取り除いてください」
「匂いは、ほかとほとんど同じです」
「匂いだけでは分からない変化もあります」
「見た目も覚えます」
すべてをむき終えると、ティアはじゃがいもを一つずつ並べた。
表面は滑らかなものばかりではない。
それでも、朝の最初の一つほど小さくなった物はなかった。
「これは少し皮が残っています」
ルークが一つを示す。
「深く削らず、表面だけ取ってください」
ティアが残った皮を取り除く。
「ほかは大丈夫です」
「朝より、よくなっていますか?」
「はい」
ティアの尾が小さく揺れた。
次は包丁の扱いである。
ティアが使ったことのある刃物は、皮むき用の小さなナイフだけだった。
ルークはすぐに食材を切らせず、持ち方と置き方から教えた。
刃へ触れない渡し方。
使わない時は、まな板の外へ刃先を出さないこと。
落とした時は手で掴もうとせず、離れること。
「今日は、持つだけですか?」
「柔らかい食材だけ切ってもらいます」
ルークは賄いへ使う茹でたじゃがいもを置いた。
「生の人参や肉は、まだ切らせません」
「はい」
ティアは柄の端を持ちすぎていたため、ルークが位置を直した。
左手の指を伸ばしたまま食材へ置いたため、指先を曲げるよう教える。
「怖いです」
「怖いと思うくらいで構いません。慣れていないのに、怖くない方が危険です」
ルークは茹でたじゃがいもを、ほぼ同じ大きさに切り分けた。
「同じように切ってください」
ティアはゆっくりと刃を下ろした。
一切れ目は厚く、二切れ目は薄い。
三切れ目は斜めになり、最後に残った部分はかなり小さくなった。
「揃いません」
「最初から揃う者はいません」
「ルークさんは、同じ大きさでした」
「私は何度も切っています」
「何回くらいですか?」
「覚えていません」
「それくらい切れば、私も揃いますか?」
「考えながら続ければ、揃うようになります」
ルークは新しいじゃがいもを置いた。
「切り始める前に、全体を見てください。これは、いくつに分けられそうですか?」
ティアはしばらく見つめた。
「四つです」
「では、最初に半分。その半分を、さらに半分へ切ってください」
言われたとおりに切ると、最初より四つの大きさが近づいた。
「揃いました」
「まだ完全ではありませんが、先ほどよりよくなっています」
次のじゃがいもも、切る前に数を考える。
まだ同じ大きさにはならない。
それでも、最初より差は小さくなった。
切り終えたティアが包丁を置くと、刃先が作業台の外へ僅かに出た。
ティアは自分で気づき、すぐに刃を内側へ向け直す。
「次からは、置く前に確認します」
「はい」
少し離れた場所では、ノアが朝から気づいたことを手帳へまとめていた。
桶と布巾の印。
器具の置き場所。
作業前に用意する物。
野菜を洗う際の確認。
皮むきと包丁の扱い。
それらを一枚の大きな紙へ、簡単な手順として書き出す。
一、身支度と手洗いを確認する。
二、必要な桶、布巾、器具を用意する。
三、その日に使う量だけ食材を運ぶ。
四、洗う。
五、皮をむく。
六、切る。
七、料理ごとに分ける。
八、使った器具を洗い、決めた場所へ戻す。
文字の横には、簡単な絵も添えられていた。
「ルークさん、確認してください」
ルークは手順を一つずつ読む。
「食材の量は、毎日変わります」
「数字を書き換えられる欄を作ります。朝、ルークさんが必要量を決め、ティアさんが確認する形です」
「この順番どおりに進めればよいのですか?」
ティアが紙を覗き込む。
「基本はそうです。ただし、鍋の状態や注文によって変わることもあります」
「変わった時は?」
「ルークさんの指示を優先してください」
ノアが答えた。
「この紙は、考えなくてよいようにするためのものではありません。忘れないためと、確認するために使います」
「はい」
ルークは手順を見つめた。
書かれているのは、普段自分が無意識に行っている作業である。
だが、順番に並べられたことで、改善できる部分が見えてきた。
必要以上の食材を作業台へ出し、使わなかった分を戻すことがある。
包丁を取りに行った後、反対側へまな板を取りに戻ることもあった。
最初から必要な物だけを揃えれば、作業台を広く使え、無駄な移動も減る。
「籠にも、料理ごとの札をつけた方がよいですね」
ルークが言った。
「ポトフ用と賄い用だけですか?」
「鶏もも肉の付け合わせや、オムレツへ使う材料も分けます」
「取り外せる札を作ります」
ノアは手帳へ書き加えた。
ティアを教えるために厨房を見直したことで、ルーク自身も、自分の動きにある無駄へ気づき始めていた。
「ルークさん」
ティアが、切り終えたじゃがいもを見ながら尋ねた。
「大きさの違うものは、使えませんか?」
「使えます。ただし、同じ鍋へ同時に入れれば、火の通り方が変わります」
「小さいものは、早く柔らかくなるのですね」
「はい」
「では、小さいものを後から入れますか?」
ルークはティアを見た。
失敗したと落ち込むだけではなく、どう使うかを考えている。
「今日は賄いへ使うので、大きいものと小さいものを分けてください。入れる時刻を変えます」
「切り方を失敗しても、使い方を変えられるのですね」
「傷んだ物を使うという意味ではありません」
「分かっています。形や大きさが揃わなかっただけなら、料理に合わせられるということです」
「その通りです」
夜営業前の賄い作りでは、ティアが切ったじゃがいもを使った。
大きいものを先に鍋へ入れ、小さいものを後から加える。
ティアはルークの指示を受け、木べらで鍋を混ぜた。
力を入れすぎて、一つが鍋の縁へ押しつけられ、崩れる。
「あっ」
「止めなくて構いません。次は、縁へ押しつけないようにしてください」
「はい」
今度は力を弱める。
香りだけでなく、鍋の底や木べらへ伝わる重さも確かめた。
「料理を作っているように見えます」
ティアが鍋を見つめたまま言う。
「今、作っています」
「私もですか?」
「ティアが洗い、皮をむき、切ったじゃがいもを使っています。今も鍋を混ぜています」
ティアの尾が大きく揺れかけ、慌てて身体の近くへ戻された。
「尾も、鍋や器具へ触れないよう気をつけてください」
「はい」
賄いが完成すると、仲間たちが客席へ集まった。
試用期間中のティアも、同じ卓で食事を取る。
リリアが煮込みを一口食べ、笑顔を見せた。
「今日も美味しいです」
「じゃがいもの大きさが少し違うね」
エルナが器の中を見た。
ティアの耳が下がる。
「すみません。私が切りました」
「謝っているわけじゃないよ」
エルナは小さなじゃがいもをすくった。
「小さい方は柔らかくて、大きい方は形が残ってる。食べた感じが違って面白いね」
「それは、ルークさんが入れる時刻を変えてくださったからです」
「ティアが大きさを分けたから、入れる時刻を変えられました」
ルークが答える。
「では、二人で作った賄いですね」
リリアが丁寧な口調で言った。
ティアは一瞬、言葉を失った。
「私も、作ったことになりますか?」
「野菜を洗って、皮をむいて、切って、鍋も混ぜたのでしょう?」
ミーナが尋ねる。
「はい」
「でしたら、ティアさんが作った料理でもあります」
ティアは自分の器を見つめた。
じゃがいもの形は揃っていない。
皮むきには時間がかかった。
鍋を混ぜた時には、一つ潰してしまった。
それでも、自分が触れた食材が、皆の食事になっている。
「美味しいです」
ティアが小さく言った。
「自分で作ったから?」
エルナが笑う。
「それもあります。でも、味を整えたのはルークさんです」
「そこは冷静なんだね」
皆の間に笑いが広がった。
ノアは食事をしながら、ルークへ尋ねた。
「初日はどうでしたか?」
「予定より時間がかかりました」
ルークは率直に答えた。
ティアの耳が伏せられそうになる。
「ですが、予定の立て方にも問題がありました。一度に多くのことを覚えさせようとし、今必要な作業と、後でもよい作業を分けていませんでした」
「でも、私が早くできれば――」
「今日初めて厨房へ入った者が、私と同じ速さで働けるはずがありません」
ルークは言った。
「早くできることを前提に予定を立てる方が間違っています」
「では、明日は何をしますか?」
「今日と同じ作業を繰り返します。ただし、任せる量を少し増やします」
「新しいことは教えないのですか?」
「今日の作業を、一度で覚えましたか?」
「……まだです」
「なら、先に確実にできるようにしてください」
ティアの表情が明るくなる。
「包丁も使えますか?」
「賄い用の柔らかい食材だけです。客へ出す料理の材料は、まだ任せません」
「分かりました」
食事を終えると、ティアは器を片付けようとした。
三つ持ち上げかけたところで一度止まり、二つだけを手に取る。
「二つずつ運びます」
ルークは僅かに目を見開いた後、頷いた。
「お願いします」
夜営業の準備へ戻ると、ティアは賄いに使った器具を洗い始めた。
何度か壁の印を見て、置く場所を確認する。
一度、使用前の棚へ置きかけたが、自分で気づいて乾燥用の場所へ移した。
動きはまだ遅い。
洗った器具を一つずつ確かめるため、時間もかかる。
それでも、ルークが火の前で仕込みを進めている間に、作業台の端へ積まれていた器具は少しずつ減っていった。
夜営業が始まる前には、すべて決められた場所へ戻されていた。
「ティア」
「はい」
「今日は、ここまでです」
「夜営業は?」
「試用期間中は、朝の仕込みから夜営業前までです」
「まだ働けます」
「働けるかどうかではなく、決めた時間までです」
ティアは残念そうに客席の方角を見たが、無理に残るとは言わなかった。
「分かりました」
「帰る前に、明日の確認をします」
ルークは壁の手順を指した。
「身支度と手洗い。その後、野菜洗いと皮むき。賄い用の柔らかい食材を切ります。器具の洗い方も、もう一度確認してください」
「はい」
「分からなくなった時は、まず壁の印と手順を確認する。それでも分からなければ、私へ聞いてください」
ティアは少しだけ目を見開いた。
「聞いてもよいのですか?」
朝、ルークが強い声で言ったことを思い出し、胸の奥が僅かに痛んだ。
「はい。聞かずに勝手な場所へ置く方が困ります」
「分かりました。先に自分で確かめて、それでも分からなければ聞きます」
「それでお願いします」
ノアはティアの頭と耳の位置を測りながら頷いた。
「頭布は、明日までに今日より簡単に身につけられる形を用意します。ただし、実際に動いて問題がないかは、また確認します」
「ありがとうございます」
ティアは自分が使った場所を見回した。
ナイフは戻されている。
布巾も決められた場所にある。
床へ野菜くずは落ちていない。
厨房を出てから頭の布を外し、全員へ頭を下げた。
「お疲れさまでした。明日もよろしくお願いします」
「お疲れさまでした」
ルークが答える。
ティアは店を出ていった。
扉が閉まると、レンが厨房へ入ってくる。
「どうだった?」
「遅いです」
ルークは答えた。
「野菜を洗うにも、皮をむくにも時間がかかります。器具の置き場所も何度か間違えました」
「辞めてもらう?」
「いいえ」
返事はすぐに出た。
レンが僅かに笑う。
「即答だね」
「同じ間違いを繰り返さないよう確認していました。分からないことも、勝手に決めずに尋ねようとしていました」
「途中から、聞けなくなっていました」
ノアが静かに言った。
ルークは黙る。
「私が、先ほど教えたはずだと強く言ったからですね」
「ティアさんは、分からないことを隠さないと約束しました。しかし、聞いた時に責められると思えば、隠すようになるかもしれません」
「何度でも、同じことへ答えるべきでしょうか」
「一度教えたことなら、まず印や手順を確認してもらう。それでも分からなければ聞いてもらう。その順番を決めればよいと思います」
「尋ねることを止めるのではなく、自分で確かめる方法を教えるのですね」
「はい」
ルークは壁の手順へ目を向けた。
教えるとは、答えを伝えることだけではない。
次に自分で判断できるようにすることでもある。
「今日、ティアへ教えたことで、私の動きにも無駄があると分かりました」
「どこ?」
レンが尋ねる。
「食材を必要以上に作業台へ出していました。器具も、使う順番ではなく、空いている場所へ置いていました」
一人なら、どこへ置いても自分で分かる。
だが、もう一人が動けば、置き場所が曖昧なだけで迷いが生まれる。
「人が増えれば、その分だけ厨房が動きにくくなると思っていました」
ルークは続けた。
「ですが、決まりを整えれば、二人とも動きやすくなるのかもしれません」
「もう厨房責任者らしくなってきたね」
「一日目が終わっただけです」
「それでも、昨日までは自分の仕事をどう減らすかを考えていた。今日は、二人でどう動くかを考えている」
ルークは厨房を見回した。
水桶には用途を示す印がつき、棚にも器具の絵が貼られている。
壁には作業の順番をまとめた紙がある。
ティアへ教えるために作ったものだった。
だが、使いやすくなったのはティアだけではない。
ルーク自身も、どこへ何を置き、次に何をすべきかが以前より明確に見えた。
「明日は、何を教えるの?」
「今日の続きを繰り返します」
「火は?」
「まだです」
「包丁は?」
「柔らかい食材だけです。大きさを揃える練習をさせます」
「休憩は?」
レンに尋ねられ、ルークは少し黙った。
「……私の分も、予定へ入れます」
「それがいいね」
客席から、夜営業の準備を進めるロイとディーノの声が聞こえた。
ルークは保冷庫を開き、鶏もも肉とパンケーキの生地を取り出す。
これから始まる夜営業に、ティアはいない。
まだ、客へ出す料理を任せられる段階ではなかった。
包丁も満足に使えず、皮むきにも時間がかかる。
洗った器具の置き場所も、壁の印を見なければ迷う。
それでも、作業台の端には洗い物が残っていなかった。
ティアが一つずつ洗い、決められた場所へ戻したからだ。
小さな違いだった。
だが、ルークはその分だけ、夜営業の仕込みへ早く取りかかることができている。
自分で行った方が早い。
今日だけを見れば、それは間違いではない。
実際に、自分で行った方が早く終わる作業ばかりだった。
しかし、明日も、明後日も、すべてを自分で行い続ければ、ティアが早くなる日は来ない。
ルークは壁の作業手順へ目を向けた。
教える順番。
任せる量。
確認する方法。
自分にも、覚えなければならないことが多くある。
ティアが料理人見習いなら、自分は教える者としての見習いだった。
「ルーク、夜営業の準備は大丈夫?」
レンが尋ねる。
「はい」
ルークは必要な材料だけを作業台へ並べた。
「今日は、昨日より少し早く準備を終えられそうです」
そう答え、火の前へ向かう。
明日の朝、ティアがどの桶を選ぶのか。
ノアが作る頭布を正しく身につけられるのか。
じゃがいもの皮を、今日より薄くむけるのか。
気づけばルークは、夜営業が始まる前から、次に教えることを考えていた。
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