第101話 一人では回らない厨房
Club Moon Dropの定休日が明けてから、数日が過ぎた朝。
まだ客を迎える前だというのに、厨房では二つの鍋から絶えず湯気が立ち上っていた。
ルークは、大きさを揃えて切ったじゃがいもを、豚バラ肉と根菜が入った鍋へ加えた。
豚バラ肉とじゃがいものポトフは、朝のうちに一日分を仕上げておく。
肉と野菜へ十分に火を通し、味をなじませておけば、営業中は注文ごとに必要な量を小鍋へ移し、温め直して盛り付けられる。
隣では、イワナの燻製と大豆のアクアパッツァが煮えていた。
こちらも朝に一日分を仕込み、注文が入れば、イワナと大豆が偏らないよう取り分ける。
どちらも、営業中の手間を減らしながら味を揃えるために、ルークが整えてきた手順だった。
鍋の火加減を確かめると、ルークは作業台へ向かった。
薄皮を取り除いたグレープフルーツの果肉とヨーグルトを混ぜ、固さを調整する。
グレープフルーツとヨーグルトのムースも、朝のうちに一日分を器へ分け、保冷庫へ収めておく。
同じ保冷庫には、蜂蜜とオレンジのパンケーキに使う生地と、鶏もも肉の香草焼きに添えるレモンバターソースも入れる。
注文を受けてから仕上げる料理も、肉や野菜の下処理、材料の計量までは先に済ませておく。
リンゴとクルミのクッキーだけは、前日の注文が落ち着いた時間に焼いていた。
昼も夜も注文が続き、焼く時間を取れなかった日は、夜営業を終えてから翌日分を用意することもある。
朝にできる作業は朝へ。
前日にできる作業は前日へ。
ルークは、すでにできる限りの工夫を重ねていた。
それでも、厨房の仕事は減らなかった。
Club Moon Dropが盛況になり、昼も夜も予約で埋まる日が増えたからだ。
手順を整えても、必要な料理の量そのものが増えれば、仕込みに必要な時間も増える。
営業中には、温める料理と、盛り付ける料理と、注文ごとに焼く料理が重なる。
一つずつなら問題なく作れる料理も、同時に注文が入れば、ルーク一人の手では追いつかなくなり始めていた。
「おはよう、ルーク。保冷庫を整えるね」
厨房の入口からレンが声をかけた。
「おはようございます。お願いします」
保冷庫へ氷魔法を補い、庫内を冷たい状態へ整えることは、レンが毎朝行っている仕事だった。
保冷庫を作ったのは、ルークがClub Moon Dropの厨房を任されて間もない頃である。
当時は、肉や魚、乳製品を長く冷たい状態で保つことが難しかった。
冷たい水へ容器を浸し、店の中でも日が当たらない場所へ移す。
一度に仕込む量を減らし、食材の状態を何度も確かめる。
そうして傷まないよう注意していたが、気温の高い日には限界があった。
「冷たい状態を、厨房の中で保てればよいのですが」
ルークがそう口にしたことをきっかけに、レンは厚い木材で作った箱の内側を氷魔法で冷やせないかと考えた。
最初に作った箱は、冷気が一か所へ偏った。
奥へ置いた食材は凍りかけ、蓋に近い場所は十分に冷えない。
二人は食材の状態を何度も確かめ、箱の内側へ薄い金属板を張った。
仕切りも設け、容器を冷えすぎる場所へ直接置かないよう工夫した。
試作と調整を重ね、ようやく完成したのが、今使っている保冷庫である。
ただし、氷魔法の冷気は一日使ううちに少しずつ弱くなる。
そのためレンは毎朝厨房へ入り、冷気を補っていた。
レンの後ろから、洗った布巾を入れた籠を抱えたノアも入ってくる。
「新しい布巾を持ってきました。どちらへ置きますか?」
「作業台の端へお願いします」
ノアが籠を置く間に、レンは保冷庫の蓋を開いた。
箱の内側へ手を添え、いつものように氷魔法を流す。
冷気が金属板を伝い、庫内全体へ広がっていった。
その間にも、ルークは手を止めない。
ポトフの鍋を確かめ、アクアパッツァの火を弱める。
作業台へ戻ると、途中まで器へ分けたムースへ手を伸ばした。
毎朝の仕事を続けながら、レンは厨房の中を見渡した。
火にかけられた二つの鍋。
器へ分けられている途中のムース。
パンケーキの生地。
香草をなじませた鶏もも肉。
切り分ける前のチーズ。
洗ったばかりのマッシュルーム。
作業台の端には使い終えた器具が置かれ、その隣には、これから使う器具も並んでいる。
どれも毎朝目にしているものだった。
だが、並んでいる量は以前より明らかに増えていた。
「ルーク、ポトフはあとどのくらい?」
「じゃがいもへ火が通れば、一度火を止めます」
「アクアパッツァは?」
「もう少し味をなじませます」
「ムースは、まだ半分くらいだね」
「はい。保冷庫を整えていただいている間に、分け終えます」
「鶏もも肉とオムレツの材料は?」
「これから確認します」
「マッシュルームとチーズは?」
「昼営業の合間に準備します」
レンは保冷庫へ氷魔法を流しながら、ルークへ視線を向けた。
「昼営業の合間には、ほかに何をする予定?」
「夜に使う材料の補充と、器具の洗浄です」
「休憩は?」
「注文が落ち着いた時に取ります」
レンの隣で、ノアが手帳を開いた。
「今日は、昼も夜も予約の段階で料理の注文が多く入っています」
「追加も出そう?」
「これまでの記録では、予約時の注文だけで終わることはほとんどありません」
「夜営業は?」
「四卓すべて予約済みです。ポトフは五皿、アクアパッツァは三皿、すでに注文が入っています」
「予約分だけを仕込んでいるわけではないんだよね?」
「はい。追加注文を見込んで、ポトフは四皿分、アクアパッツァは三皿分多く仕込んでいます」
ルークは答えながら、ムースを次の器へ分けた。
夜営業では、予約時に料理を決めていても、酒を飲みながら追加を頼む客が多い。
予約分だけでは足りなくなることがあるため、ルークはノアの記録をもとに、必要と思われる量を多めに仕込んでいた。
「昨日も、注文が落ち着いた時間にクッキーを焼いていたよね」
レンが尋ねる。
「今日の分が必要でしたので」
「夜営業の片付けが終わった後も、厨房に残っていました」
ノアが続けた。
「今日使う大豆とイワナを確認していました」
「店を出たのは何時?」
「それほど遅くはありません」
「どのくらい?」
ルークの手が僅かに止まった。
「……皆さんが帰った後、一刻ほどです」
「十分に遅いよ」
「ですが、今朝すぐにアクアパッツァへ取りかかれました」
「昨日はクッキーを焼いて、営業後には今日の食材を確認した。それで今朝は、一日分の仕込みをしている」
「必要な作業です」
「ルークが休む時間は、どこにあるの?」
ルークは答えなかった。
手順が悪いわけではない。
怠けているわけでもない。
むしろ、効率を上げるために作業の順番を何度も見直している。
それでも追いつかないのは、一人で担当する量が増えすぎているからだった。
レンは途中まで器へ分けられたムースへ目を向けた。
「僕が保冷庫へ並べるよ。ノア、手伝ってもらえる?」
「はい」
「レンに厨房の仕事をさせるわけにはいきません」
ルークがすぐに言った。
「保冷庫へ氷魔法を補うのは、もともと僕の仕事だよ。そのままムースを並べるくらいはできる」
「ですが――」
「ルーク」
レンは強い口調ではなかった。
それでも、ルークはそれ以上断れなかった。
「……分かりました」
ノアが器をレンへ渡し、レンが保冷庫の中へ順番に並べる。
ルークは、その間に二つの鍋の仕上げへ集中した。
三人で作業を分けたことで、朝の仕込みは開店前に終わった。
だが、それは今日だけの応急処置にすぎなかった。
◇
昼営業を終えたClub Moon Dropでは、夜営業へ向けた準備が進められていた。
客席の一角には九人分の深い器が並べられ、中央にはルークが作った賄いの鍋が置かれている。
今日の賄いは、じゃがいも、豆、ベーコン、玉ねぎ、人参、形の崩れたマッシュルームを入れた具沢山のスープだった。
具を多めに入れ、これだけで夜営業を乗り切れる量に仕上げている。
レン、リリア、ロイ、エルナ、セレナ、ミーナ、ディーノ、ルーク、ノアの九人が席につき、食事を始めた。
「今日のスープも美味しいです」
リリアが穏やかに言った。
「香草を少なくしたからだと思います」
ルークは答えながら、皆の反応を確かめていた。
「ポトフへ使う時と同じ量では、豆の味が弱くなりましたので」
「また賄いで試しているの?」
エルナが笑う。
「はい。食材を無駄にせず、香草の使い方や食材の相性も確認できますから」
ルークにとっては、いつものことだった。
その日に使える食材を確かめ、短い時間で九人分の賄いを作る。
そこで確かめた香草の量や食材の相性を、ポトフやオムレツなど、今ある料理の味つけや仕込みへ生かすこともあった。
皆が食べ進める中、レンはノアへ目を向けた。
「今朝のことだけど、ルークの仕事を一度整理した方がいいと思う」
「私もそう考えていました」
ノアは器を脇へ寄せ、手帳を開いた。
「今からですか?」
ルークが尋ねる。
「夜営業が始まれば、全員で話す時間は取れないからね」
レンの言葉に、皆が食事の手を緩めた。
「ルークは、朝の仕込みだけでも、ポトフ、アクアパッツァ、ムース、パンケーキの生地、レモンバターソース、肉や野菜の下処理を行っています」
ノアが手帳を確認しながら言う。
「営業中は調理と盛り付け。合間には器具を洗い、材料を補充する。前日にクッキーを焼けなければ、夜営業後に作ることもあります」
「料理を運ぶ時に厨房へ入ると、洗い物が溜まっていることがあります」
ディーノが言った。
「私たちが片付けようとしても、客席へ戻るよう言われることがあります」
ロイも続ける。
「黒服の仕事がありますから」
ルークは当然のように答えた。
「だからといって、ルークがすべて引き受けることにはならないでしょう」
エルナが言うと、ルークは返事に詰まった。
「それから、今食べている賄いです」
ノアは手帳へ新たな項目を書き加えた。
「賄いまで数えるのですか?」
「数えます」
ノアは迷わず答えた。
「食材を確認し、献立を考え、九人分を夜営業前までに作っています」
「客へお出しする料理ほど、手をかけたものではありません」
「手間が少ないことと、手間がないことは違うよ」
レンが言った。
「今日のスープだって、食材を選んで、九人が夜まで働ける量と味に整えている」
「食材を無駄にしないためです。それに、今ある料理の味つけを考える参考にもなります」
「そのことは、みんな分かってるよ」
レンは穏やかに答えた。
「ルークが賄いを負担だと思っていないこともね」
リリアも小さく頷く。
「いつも、私たちが食べた時の反応を見ていらっしゃいますものね」
「美味しいかどうかは、確認する必要がありますから」
「楽しんで作っている仕事なら、時間を使っていないことになるのですか?」
ノアが尋ねた。
「それは……」
「ルークが時間と手を使っている以上、厨房の仕事として数えます」
ルークは反論しようとしたが、九人分の器を見て言葉を止めた。
賄いを作ることは嫌いではない。
食材を無駄にせず、今ある料理の味を見直す機会にもなる。
だが、献立を考え、調理し、鍋や器を片付ける時間が必要なことも事実だった。
「必要な仕事だからこそ、一人で続ける必要があるのかを考えたい」
レンが言った。
「ルークの料理を減らしたいわけじゃない。今の料理を続けるために、厨房へもう一人必要だと思ってる」
「料理人を雇うのですか?」
ルークが尋ねた。
「経験のある料理人を雇う方法もあると思う」
レンは否定せずに答えた。
「包丁や火の扱いに慣れている人なら、教えることも少なくて済むかもしれない」
「それなら、その方が早いのではありませんか?」
ノアが手帳から顔を上げた。
「今、ルークが最初に任せたい仕事は何ですか?」
「食材と器具の洗浄。材料の運搬。計量。在庫の確認です」
「すぐに料理を一皿任せたいわけではないのですね」
「はい」
Club Moon Dropで客へ出す料理は八品である。
仕込み方も味つけも、営業を重ねながらルークが整えてきた。
別の店で経験を積んだ料理人であっても、そのまま同じ料理を作れるわけではない。
「経験者でも、この店の手順は最初から覚えてもらう必要がある」
レンが言った。
「それに、今すぐ必要なのは、ルークの代わりに料理を作る人より、ルークが調理へ集中できるよう支える人だと思う」
「洗い物や材料運びなら、長い調理経験がなくても始められますね」
ディーノが言う。
「経験のある料理人に限らず、ルークの手順を仕込みから覚える意思がある者を探した方がよいかもしれません」
ロイも続けた。
ルークは少し考え込んだ。
経験者なら、包丁や火の扱いを一から教える必要はない。
その一方で、今の厨房に必要なのは、別の料理や別の手順を持ち込む者ではなかった。
Club Moon Dropの料理と作業の流れを覚え、ルークの手を支える者である。
「調理経験の有無にかかわらず、仕込みから学ぶ者を募集するということですか?」
「うん」
レンは頷いた。
「最初は洗浄や運搬から始めてもらう。慣れたら計量や下処理を任せて、その先はルークが教えられる範囲で料理も覚えてもらう」
「私の料理を覚えてもらうのですか?」
「ルーク一人しか作れないままでは、これから先も何も変わらないからね」
まずは火や味つけを扱わない仕事から始める。
食材を洗う。
器具を洗う。
材料を運ぶ。
ムースの器を保冷庫へ並べる。
使った道具を決められた場所へ戻す。
慣れてきたら、計量や下処理へ進む。
その先で、ルークの手順と判断も少しずつ学んでもらう。
「料理人を雇うというより、料理人になる者を育てるのですね」
リリアが言った。
「そういうことだね」
レンが答える。
「見習いとして募集するということですか?」
「うん。ただし、経験者を断るわけじゃない。経験の有無より、この店のやり方を仕込みから学ぶ意思があるかを見たい」
ルークはすぐには答えなかった。
自分の仕事を手伝わせるだけではない。
いつか料理を任せられる者を、自分が育てることになる。
「ですが、慣れていない者へ教える間は、自分で行うより時間がかかります」
「最初はそうなると思う」
「失敗した時、私は待てるでしょうか」
「そこも含めて覚えていけばいいよ」
レンが答える。
「ルークは厨房で料理を作るだけではなく、厨房全体を任されている責任者なんだから」
責任者。
その言葉に、ルークは僅かに目を伏せた。
「採用するかどうかは、一緒に決める。実際に教えるルークの考えを無視するつもりはないよ」
レンは皆を見回した。
「厨房の見習いを募集したいと思う。反対する人はいる?」
誰も反対しなかった。
「私は賛成です」
リリアが最初に答える。
「ルークさんには、これからも無理なく美味しい料理を作っていただきたいです」
「私も賛成」
エルナが続いた。
「ルークが倒れたら、賄いも食べられなくなるしね」
「賄いだけではありません」
ルークが答えると、皆の間に小さな笑いが広がった。
「募集条件を決めましょう」
ノアが手帳の新しい頁を開いた。
「調理経験は問わない。ただし、仕込みから学ぶ意思があること」
レンが言う。
「衛生を守れることも必要です」
リリアが付け加えた。
「分からないことを隠さず、報告できる者がよいです」
ルークも口を開く。
「食材と道具を粗末にしないこと。気づいた変化を、自分だけで判断しないことも必要です」
ノアは一つずつ書き留めていく。
「勤務時間は、朝の仕込みを中心にしましょう」
「必要に応じて、夜営業前の準備にも入ってもらう」
レンが答える。
「ただし、毎日、夜営業が終わるまで残らせるつもりはない」
ルークを休ませるために雇う者へ、同じ働き方を求めては意味がない。
「面接は営業へ影響が出ないよう、三日ほどに分けます」
ノアが言った。
「一日に多くても二人までにしましょう」
「分かりました」
ルークはしばらく考えた後、小さく頷いた。
話がまとまる頃には、皆の器は空になっていた。
ルークはいつものように真っ先に席を立ち、鍋と器を片付けようとする。
「今日は、僕たちが運ぶよ」
レンが鍋へ手を伸ばした。
「ですが、夜営業の準備が」
「だからだよ」
ロイとディーノが空いた器を重ね、リリアたちも卓の上を片付け始める。
ノアも手帳を閉じ、自分の器を持って立ち上がった。
ルークは皆を見回し、やがて小さく息を吐いた。
「……お願いします」
◇
厨房の料理人見習いを募集する札は、その日の営業後に作られた。
翌朝には、店の入口と商業ギルドの掲示板へ貼り出された。
経験は問わない。
食材や器具の洗浄。
材料の運搬と計量。
在庫の確認。
仕込みから料理を学ぶ仕事。
食材と道具を大切に扱い、店の決まりを守れる者。
募集を出すと、数人から応募があった。
ノアは希望日時を確認し、面接を三日間へ分けた。
◇
面接一日目。
最初の応募者は、酒場で調理を手伝った経験のある青年だった。
包丁を扱え、大きな鍋も一人で運べると自信を見せる。
「最初は、野菜や果物を洗うことと、器具の洗浄から始めてもらいます」
ルークが説明すると、青年は顔をしかめた。
「俺は料理ができます。洗い物をするために来たわけじゃない」
「料理を任せる前に、食材の扱い方と厨房の決まりを覚えていただきます」
「ポトフや魚料理なら、すぐ作れます」
「当店の作り方を知っているのですか?」
「煮て味をつけるだけでしょう」
その言葉を聞いた時点で、ルークの中では答えが決まった。
朝に一日分を仕込む料理だからこそ、失敗すれば一日分すべてを出せなくなる。
豚肉とじゃがいもの状態。
大豆の固さ。
イワナの燻製から出る塩気。
温め直した後にも崩れない味。
ただ煮ればよい料理ではない。
青年は、すぐに火を使わせてもらえないなら働かないと言い、帰っていった。
二人目は、家で長く家族の料理を作ってきた女性だった。
受け答えは丁寧で、基本的な調理にも慣れている。
洗い物や材料運びから始めることにも、不満は示さなかった。
「朝は、どのくらい早く来ればよいのでしょうか」
女性が尋ねる。
「開店よりかなり前です。昼と夜の仕込みを、朝のうちに進めます」
ルークが答えると、女性は困ったように目を伏せた。
「毎日は難しいと思います。子どもを預けられる日なら来られるのですが」
料理への姿勢にも、人柄にも問題はなかった。
ただ、今Club Moon Dropが必要としているのは、朝の仕込みへ安定して入れる者である。
「勤務時間が合わないだけで、あなたの働き方が悪いわけではありません」
レンが言った。
「無理をして続けてもらう仕事でもないからね」
女性も事情を理解し、互いに残念に思いながら面接を終えた。
面接が終わると、ルークはすぐ厨房へ戻った。
昼営業の開店まで、残された時間は多くない。
チーズを切り分け、マッシュルームを確認し、使った器具を洗う。
昼営業では、鶏もも肉の香草焼きとパンケーキの注文が重なった。
営業が終わると、夜営業前の賄いを作る。
食事を終えれば、すぐに夜の準備へ戻る。
その日は注文が途切れず、翌日分のクッキーを焼く時間を取れなかった。
結局、ルークは夜営業後も厨房に残ることになった。
◇
面接二日目。
三人目の応募者は、菓子職人を目指している少年だった。
リンゴとクルミのクッキーや、蜂蜜とオレンジのパンケーキへ強い関心を示す。
「菓子の作り方だけを教えていただけますか?」
「最初は、食材と器具の洗浄からです」
「肉や魚の下処理も行うのですか?」
「厨房全体の仕事ですから、いずれは覚えてもらいます」
「私は菓子職人になりたいんです。肉や魚へ触れる必要はないと思います」
「菓子に使う器具だけが、厨房の仕事ではありません」
作業台を清潔に保ち、肉や魚へ使った器具と菓子用の器具を混ぜない。
洗浄と保管の決まりを知らず、菓子だけを作ることはできない。
少年は納得せず、菓子だけを任せてもらえる店を探すと言って帰った。
四人目は、市場の肉屋で働いていた男性だった。
肉の状態を見ることには慣れており、鶏肉や豚肉の下処理にも自信を持っている。
「ムースの器を並べたり、パンケーキの生地を保冷庫へ入れたりする仕事もあります」
ノアが説明する。
「それは、誰か別の者がすればよいでしょう」
「見習いには、厨房の仕事を一通り覚えてもらいます」
ルークが言う。
「肉の仕事ならできます。菓子や細かい盛り付けは、俺には向きません」
能力がないわけではなかった。
ただ、男性が求めているのは、肉を扱う仕事へ専念できる場所である。
Club Moon Dropが求めている働き方とは合わなかった。
二日目の面接を終えた後も、ルークは休めなかった。
昼営業ではパンケーキの注文が続き、鶏もも肉の香草焼きも重なった。
夜営業では、ポトフとアクアパッツァを温めながら、オムレツとマッシュルームの調理が重なる。
使った器具が作業台の端へ増えていった。
面接を三日に分けても、その間、仕込みと営業と賄いがなくなるわけではない。
ルークの疲れは、少しずつ積み重なっていた。
「明日の面接者は一人です」
営業後、ノアが言った。
「名前はティア。十五歳。以前は食堂の厨房で働いていたそうです。調理経験は多くありません」
「分かりました」
「今日は、もう帰ってください」
「明日の大豆を確認してからです」
「私が量だけ確認します。状態は明朝、ルークが見てください」
ノアは静かに続けた。
「一人増やすための面接で、ルークが倒れては意味がありません」
ルークは反論しかけたが、言葉を飲み込んだ。
イワナと大豆の保管場所をノアへ伝え、その日はそれ以上残らず店を出た。
◇
面接三日目。
ルークは、いつもどおり朝から厨房へ立っていた。
前夜にノアが大豆の量を確認していたため、普段より僅かに早く仕込みを進められた。
それでも、一日分の準備を終える頃には、額へ汗が浮かんでいた。
約束の時刻より少し前、店の扉が控えめに叩かれた。
営業前のため、入口にいたディーノが扉を開く。
外に立っていたのは、小柄な少女だった。
淡い茶色の髪の間から、三角形の耳が覗いている。
長い尾は、落ち着かないように足元で揺れていた。
服は古いが、丁寧に洗われている。
「料理人見習いの面接へ来ました」
「名前を確認してもよろしいですか?」
「ティアです」
「承っております。こちらへどうぞ」
ディーノはティアを店内へ案内した。
客席へ向かう途中、ティアの視線が厨房の入口へ引き寄せられる。
そのまま足を止めかけ、慌ててディーノの後を追った。
客席へ案内されると、ティアはレンとルークへ深く頭を下げた。
「ティアと申します。よろしくお願いします」
「店主のレンです。こちらが厨房を任せているルーク」
「ルークです。お掛けください」
「はい」
ティアは椅子へ浅く座った。
背筋を伸ばし、両手を膝の上で握っている。
「以前の食堂では、何をしていたの?」
レンが尋ねる。
「食材を運んだり、器を洗ったりしていました」
「料理に関わる仕事は?」
「野菜の皮をむいたり、豆を選り分けたりしていました。使ったことがある刃物は、皮をむくための小さなナイフだけです。包丁はまだ使ったことがありません」
「分かりました」
ルークはティアの手元へ視線を向けた。
刃物へまったく触れたことがないわけではない。
だが、食材をまな板の上で切り分ける包丁仕事は、最初から教える必要がある。
「どうして食堂を辞めたのですか?」
ルークの質問に、ティアの耳が伏せられた。
「辞めたというより、来なくていいと言われました」
「理由を聞いても?」
「匂いのことを、何度も言ったからです」
「匂い?」
「私は、ほかの人より匂いが分かります」
古くなり始めた肉。
傷みかけた油。
泥のような臭みが残った魚。
洗ったはずの器具に残る古い油の匂い。
ティアは気づくたびに、以前の食堂の料理人へ伝えていたという。
「最初は、本当に肉が悪くなっていて、褒められました」
「その後は?」
「忙しい時にも、何度も呼び止めてしまいました」
「間違っていたこともあった?」
「あります」
傷んでいると思った肉が、珍しい香草へ漬けたものだったこともある。
魚の匂いが違うと伝えたが、使われている香辛料を知らなかっただけのこともあった。
「謝りました。でも、また気づくと、すぐに言ってしまって」
ティアは俯いた。
「何が違うのか、上手く説明できませんでした。確かめ方も知りませんでした」
以前の厨房にも忙しさがあった。
ティア自身も、自分の感覚をどう伝えればよいのか分かっていなかった。
それでも、違和感を覚えた食材が料理へ使われるのを、黙って見ていることはできなかった。
「間違えることはあります。でも、分からないまま料理へ使う方が怖かったので」
食材の僅かな変化へ気づく力は、厨房で役に立つ。
一方で、本人の感覚だけで傷んでいると決めつければ、まだ使える食材を無駄にする可能性もある。
「以前の厨房では、最後に何を言われましたか?」
「獣人の鼻を自慢したいなら、料理人ではなく狩人にでもなれ、と」
ティアの尾が身体の近くへ巻きついた。
「それでも、料理人になりたいの?」
レンが尋ねる。
「はい」
「どうして?」
「美味しい料理の匂いが好きだからです」
ティアは少しだけ顔を上げた。
「空腹の時に温かい料理の匂いがすると、安心します。疲れている時に甘い匂いがすると、少し嬉しくなります」
「自分でも、そういう料理を作りたい?」
「はい」
返事には迷いがなかった。
その直後、厨房から香草の匂いが流れてきた。
ティアの耳が動き、無意識にそちらへ顔を向ける。
「ティア」
ルークが呼ぶ。
「はいっ」
ティアは慌てて姿勢を正した。
「匂いが気になりますか?」
「すみません。途中から話を聞いていませんでした」
「隠さなかったことはよいですが、作業中に気を取られれば危険です」
「はい。気をつけます」
嗅覚は優れている。
だが、まだそれを仕事の中で扱う方法は身につけていない。
「最初は、食材や器具を洗う仕事が中心になります」
「はい」
「包丁も、すぐには使わせません」
「分かりました」
「匂いに違和感があっても、自分だけで食材を捨てたり、手順を変えたりしてはいけません」
「必ず確認します」
「私が使えると判断した場合は?」
ティアは少し迷った後、尋ねた。
「理由を教えていただけますか?」
「納得できなければ従わないという意味ですか?」
「違います」
ティアは慌てて首を横へ振った。
「使うかどうかは、ルークさんの判断に従います。でも、私が間違えた理由を知りたいです」
「次に同じ匂いを感じた時のために?」
「はい」
ルークはレンを見た。
レンは口を挟まず、ルークの判断を待っている。
「厨房を見てもらってもよいですか?」
「はい」
◇
厨房へ入ったティアは、入口で一度立ち止まった。
朝に仕込んだポトフ。
イワナの燻製と大豆のアクアパッツァ。
香草をなじませた鶏もも肉。
前日に焼いたクッキー。
複数の香りが狭い厨房へ重なっている。
「匂いが多くても、違いは分かりますか?」
「全部をすぐに分けることはできません。でも、強いものからなら分かります」
「今、一番強く感じるものは?」
「燻製した魚です。その次に、豚肉と野菜。それから香草をつけた鶏肉です」
「甘いものは?」
「リンゴとクルミの匂いがします」
「クッキーは昨日焼いたものです」
「焼きたてより、匂いが落ち着いています」
ルークは厨房の奥に置かれた厚い木の箱を示した。
「こちらは保冷庫です」
「保冷庫?」
「店主のレンが作りました。氷魔法を利用して中を冷やし、食材や仕込みを保管しています」
「箱の中が、ずっと冷たいのですか?」
「レンが毎朝、氷魔法を補っています」
ティアは驚いたように保冷庫を見つめた。
以前働いていた食堂でも、冷たい水を使って食材を冷やすことはあった。
だが、冷たい状態を保てる箱など見たことがない。
「中の匂いを確かめてください」
ルークが蓋を開くと、冷たい空気が流れ出した。
ティアはすぐに顔を近づけず、流れてきた冷気の匂いを確かめる。
「ヨーグルトと、少し苦い果物。甘くない生地と、レモンとバターの匂いもします」
「ムース、パンケーキの生地、レモンバターソースです」
「冷たいと、外にあるものより匂いが弱いです」
「その通りです。食材は、温度によって香り方も変わります」
ルークは蓋を閉じ、二つの香草の束を取り出した。
一つは今朝届いたもの。
もう一つは、数日前に仕入れ、ポトフやアクアパッツァへ使うために分けていたものだった。
「この二つの違いは分かりますか?」
ティアは順番に香りを確かめた。
「今朝の方が強いです。もう一つは乾いています。でも、腐った匂いではありません」
「使えないと思いますか?」
「分かりません」
ティアは正直に答えた。
「前なら、古い方は使わない方がいいと言っていたと思います」
「今は?」
「何に使うのか、聞きたいです」
ルークは新しい方を示した。
「こちらは、鶏もも肉の香草焼きへ使います。肉へ香りを移したいからです」
次に、乾いた方を示す。
「こちらは、ポトフやアクアパッツァへ使えます。香りを確かめ、加える量を変えます」
「傷んでいるかだけではなく、使う料理でも決めるのですね」
「そうです」
ルークは、形の崩れたマッシュルームを一つ手に取った。
「これは盛り合わせから外したものです」
ティアが匂いを確かめる。
「変な匂いはしません」
「傷んでいるわけではありません。見た目が揃わないだけなので、賄いへ使えます」
「傷んだものを、火を通して使うのではないのですね」
「もちろんです。傷んだ食材は使いません」
ルークははっきり答えた。
「ただし、形が悪い、少し乾いている、香りが弱いというだけで捨てる必要もありません。状態を確かめ、使い道を考えます」
「匂いも、そのための確認の一つなのですね」
「はい。匂いだけで決めるのではありません」
ティアは真剣に頷いた。
「匂いだけでは、料理人になれませんか?」
「匂いだけでは足りません。味、状態、量、火を入れた後の変化も覚える必要があります」
「それでも学びたいですか?」
「学びたいです」
ルークは、すぐには答えなかった。
これまでの応募者は、自分に何ができるかを中心に話していた。
ティアは、自分に何が足りないのかを認め、それを学ぼうとしている。
「レン」
ルークが振り返る。
「はい」
「短い試用期間を設けてもよいでしょうか」
ティアの耳がぴんと立った。
「働かせていただけるのですか?」
「食材と器具の扱いからなら、教えられると思います」
「ルークがそう判断したなら、僕も賛成だよ」
レンはティアへ向き直った。
「正式に採用する前に、数日間、厨房の仕事を体験してもらいます。その間も、働いた分の賃金は支払います」
「本当ですか?」
「ただし、続けられるかは、ティアだけでなくルークも判断する」
「はい」
「分からないことを隠さない。気づいたことは伝える。でも、自分だけで食材を捨てたり、手順を変えたりしない」
「守ります」
「厨房で聞いた客の注文や、店の事情を外で話さないこと」
「はい」
「体調が悪い時は、隠さず言うこと」
ティアは一瞬だけ驚いた顔をした。
「休んでも、すぐに辞めさせられませんか?」
「一度休んだから辞めさせることはないよ」
「前の食堂では、休めば代わりはいくらでもいると言われました」
「Club Moon Dropでは、体調が悪いまま厨房へ立つ方が困ります」
ルークが答えた。
「食材や料理へ触れる仕事です。無理をして隠してはいけません」
その言葉を口にしながら、ルークは自分にも向けられているように感じた。
「私も、気をつけます」
小さく付け加えると、レンが僅かに笑った。
「試用期間は、明後日からにしよう」
「何を準備すればよいですか?」
「動きやすく、汚れてもよい服を用意してください」
ルークは答えた。
「厨房では、私も含めて髪をまとめ、頭部を布で覆います。ティアの耳に合う形は、一緒に考えましょう」
「耳を押さえつけなくても大丈夫ですか?」
「無理に押さえるつもりはありません。毛が食材へ入らず、作業の邪魔にならない形を探します」
「分かりました」
「爪も短く整えてください」
「はい」
「初日は、食材の置き場所と器具の洗い方からです」
「包丁は使いませんか?」
「まだ使ったことがないのでしょう」
「はい」
「まずは、持ち方や置き方から覚えてもらいます。実際に食材を切るのは、その後です」
ティアは素直に頷いた。
「分かりました。最初に教えていただいたことから覚えます」
「それで構いません」
ルークは、初めてはっきりと頷いた。
◇
ティアを見送った後、厨房にはレンとルークだけが残った。
「どうだった?」
レンが尋ねる。
「まだ分かりません」
「試用期間を提案したルークでも?」
「働き始めなければ分からないこともあります」
「そうだね」
「作業は遅いかもしれません。匂いへ気を取られるところもあります。包丁も使ったことがありません」
「それでも、試してみようと思った?」
「分からないことを、分からないままにしようとはしていませんでした」
ルークは、先ほど使った二つの香草へ目を向けた。
「以前なら古い方を使わない方がいいと言っていたと、自分で認めました。その上で、何に使うのかを尋ねた」
「そこがよかった?」
「はい」
同じ食材でも、状態や使う料理によって判断は変わる。
ティアの嗅覚は、その違いへ気づく助けになる。
だが、力だけでは料理人にはなれない。
どのように確かめ、どう生かすかを学ぶ必要がある。
「教えられそう?」
「やってみます」
ルークは答えた。
「ただ、自分で行った方が早いと思うことはあるでしょう」
「最初は仕方ないよ」
「待てずに手を出してしまうかもしれません」
「その時は、止めるよ」
「すでに止められています」
ルークは困ったように笑った。
「ティアが入る前に、任せる仕事を決めておこう」
「食材と器具の洗浄。材料の運搬。保冷庫へムースや生地を入れる作業からです」
「計量は?」
「最初は私と一緒に行います」
「食材の確認も?」
「はい。私の判断と、ティアの感じ方がどの程度違うのか知る必要があります」
「採用の判断を、ルークに任せてよかった」
レンが言った。
「まだ、正式に採用したわけではありません」
「それでもだよ。もう、ティアの力をどう生かすか考えてる」
ルークは返事をしなかった。
「ティアが仕込みを覚えるように、ルークも人へ教えることを覚える」
「人へ教えることについては、私も見習いということですか?」
「そういうこと」
「……否定はできません」
◇
その日の夜営業が始まると、厨房では朝に仕込んだポトフとアクアパッツァが、注文ごとに小鍋へ移された。
「豚バラ肉とじゃがいものポトフ、二皿です」
ルークは温め直したポトフを器へ盛り付け、ロイへ渡す。
「受け取ります」
続いて、アクアパッツァの注文が入る。
必要な量を温め、イワナと大豆が偏らないよう器へ分ける。
「イワナの燻製と大豆のアクアパッツァ、一皿です」
「こちらは私が運びます」
ディーノが受け取った直後、別の卓から鶏もも肉の香草焼きが二皿注文された。
ルークは下処理済みの肉を火へかける。
焼き加減を確かめている間に、マッシュルームとチーズの盛り合わせが入った。
さらに、別の卓からオムレツも頼まれる。
鶏もも肉を焼く。
マッシュルームへ火を入れる。
卵とベーコン、バジルを混ぜる。
使った器具を作業台の端へ避ける。
朝に仕込みを終えていても、注文が重なれば手は足りなくなる。
「鶏もも肉の香草焼き、レモンバターソース、二皿です」
準備してあったソースを合わせ、ディーノへ渡す。
その直後、蜂蜜とオレンジのパンケーキが一皿注文された。
保冷庫から生地を取り出し、必要な量を焼く。
さらに、食後のムースも二皿入る。
盛り付けを終えた時には、作業台の端へ洗い物が増えていた。
ルークは一瞬だけ、積み重なった器具へ目を向けた。
明後日からは、あの場所にティアが立つかもしれない。
まだ包丁も、火も任せられない。
それでも、器具を洗い、材料を運び、保冷庫へ仕込みを並べてもらえるだけで、自分は火の前へ集中できる。
「ルーク、ポトフをもう一皿お願いします」
ロイが厨房へ声をかける。
「分かりました」
ルークは朝に仕込んだ鍋から、必要な量を小鍋へ移した。
その横には、まだ洗えていない器具が残っている。
これまでは、それを見ても、自分が次の注文の合間に洗えばよいとしか考えなかった。
だが今は、そこへ別の手が加わる光景を、僅かに想像できる。
温め終えたポトフを器へ盛りながら、ルークはティアへ最初に教える洗い方を考えていた。
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