第100話 店を離れた二人の時間
Club Moon Dropの定休日。
普段なら昼営業の準備が始まっている時間になっても、店の扉は閉じられたままだった。
入口には休業日を知らせる札が掛けられ、厨房の火も入っていない。
客席から杯の触れ合う音が聞こえることもなく、従業員たちはそれぞれの休日を過ごしていた。
エルナも、その一人だった。
ただし、今日は一人ではない。
「少し早く来すぎたかな」
待ち合わせ場所に指定された中央広場の噴水前で、エルナは周囲を見回した。
朝の市場が一段落し、昼へ向けて人通りが増え始める時間だった。
露店では焼いた肉やパンが並べられ、行商人が荷車を押している。
買い物を終えた女性たちは、野菜や果物を入れた籠を抱えて歩いていた。
約束の時刻までは、まだ少しある。
それでもエルナは、家で落ち着いて待つことができなかった。
着ているのは、店の制服ではない。
淡い橙色の上着に、足首まである茶色のスカート。
髪も営業中のように整えすぎず、後ろで緩くまとめている。
何度も鏡を見た。
派手すぎないか。
逆に、普段と変わらなさすぎないか。
行き先が分からないため、歩きやすさも考えなければならなかった。
今日の予定を考えたのは、ディーノだった。
数日前、営業を終えて一緒に帰っていた時、突然誘われた。
「次の定休日は、空いているか?」
「空いてるけど、どうして?」
「一緒に出かけたい」
普段なら、先に誘うのはエルナの方だった。
帰り道を少し遠回りしようと提案するのも、温かい飲み物を買おうと声を掛けるのも、ほとんどがエルナだった。
だからこそ、ディーノから誘われたことが嬉しかった。
「どこへ行くの?」
「当日まで言わない」
「秘密なの?」
「ああ」
「ディーノが全部決めてくれるの?」
「そのつもりだ」
それから何度か行き先を尋ねたが、ディーノは教えてくれなかった。
市場なのか。
食事をするだけなのか。
街の外へ出るのか。
何を聞いても、当日になれば分かるとしか答えなかった。
普段のディーノなら、必要な情報は先に共有する。
店内の配置。
予約客の到着時刻。
料理を運ぶ順番。
曖昧なままにせず、相手が困らないよう説明する。
そのディーノが行き先を隠していること自体、エルナには新鮮だった。
「何を笑っているんだ?」
聞き慣れた声がして、エルナは振り返った。
ディーノが、広場の向こうから歩いてきていた。
黒服の制服ではなく、濃い灰色の上着と黒いズボンを身につけている。
服装が違っても、背筋を伸ばした姿勢や、周囲へ自然に目を向ける歩き方は店にいる時と変わらない。
「私、笑ってた?」
「ああ」
「ディーノが、本当に行き先を教えてくれなかったなって思ってたの」
「当日まで分からない方が楽しいと言っていただろう」
「私が?」
「以前、お客様から旅の話を聞いた時だ」
エルナは記憶をたどる。
確かに以前、友人に行き先を知らされないまま旅へ連れていかれたという客の話を聞いた。
その時、どこへ行くか分からないのも楽しそうだと言った覚えがある。
「覚えてたの?」
「ああ」
「そんな前に話したことを?」
「今日の予定を考えている時に思い出した」
エルナの胸が、少しだけ温かくなる。
ただ驚かせたかったわけではない。
エルナが以前口にした言葉を覚え、それに合わせて予定を考えてくれたのだ。
「待たせたか?」
「ううん。私も今来たところ」
「嘘だな」
「どうして?」
「噴水の前を二度歩いていた」
「見てたの?」
「広場へ入った時に見えた」
「早く来たなら、すぐ声を掛けてよ」
「楽しそうだったから、少し待った」
「何それ」
エルナは不満そうな顔を作ったが、すぐに笑った。
「それで、最初はどこへ行くの?」
「市場の向こう側だ」
「それだけ?」
「すぐ分かる」
ディーノが歩き始める。
エルナは慌てて隣へ並んだ。
「お昼を食べる場所も決めてるの?」
「ああ」
「その後も?」
「考えてある」
「すごい」
「何がだ?」
「ディーノが、仕事じゃないことをそこまで準備してくれたのが」
「エルナと出かけるための準備だ」
ディーノは普段と変わらない声で答えた。
だが、その言葉はエルナの胸へ真っ直ぐ届いた。
「そういうの、急に言うのはずるいよ」
「何がずるいんだ?」
「こっちは、何て返せばいいか分からなくなるの」
「嬉しくなかったか?」
「嬉しい」
「ならよかった」
それだけ答え、ディーノは歩き続ける。
エルナは少し遅れて、その隣へ追いついた。
◇
二人が向かったのは、市場の奥にある職人通りだった。
普段、食材や日用品を買う区画とは違い、木工品、装飾品、革製品、楽器などを扱う小さな店が並んでいる。
「こんなところがあったんだ」
「来たことがないのか?」
「市場にはよく来るけど、こっちまでは来ないかも」
「店で使う物を買う場所とは反対側だからな」
「ディーノは来たことあるの?」
「一度だけ」
「何を買いに?」
「ロイに頼まれて、会員証を入れる革袋を探しに来た」
「やっぱり仕事なんだ」
「ああ」
「今日は?」
「仕事ではない」
ディーノは迷わず答えた。
その言葉だけで、今日が特別な時間なのだと改めて感じる。
職人通りには、小さな装飾品を並べた店がいくつもあった。
金属を細く曲げた腕輪。
木を削って作られた置物。
色石をはめた首飾り。
布で作った花や鳥の飾り。
エルナは足を止め、小さな鳥の置物を覗き込んだ。
「これ、かわいい」
「エルナが好きそうだと思った」
「私が?」
「ああ」
「だから、ゆっくり見てていい?」
「そのために来た」
短い言葉だったが、エルナには十分だった。
置物や装飾品を眺めながら進み、やがて髪飾りを並べた店の前で、ディーノが足を止めた。
細い金属へ色のついた石をはめたもの。
花を模した布飾り。
小さな羽根を使ったもの。
普段使いできる簡素な髪留めから、宴で使うような華やかな飾りまで並んでいる。
「ここへ来たかったの?」
エルナが尋ねる。
「ああ」
「どうして?」
「エルナへ何か贈りたいと思った」
ディーノの答えに、エルナは目を瞬いた。
「私に?」
「ああ」
「今日出かけるから?」
「それもある」
「ほかにもあるの?」
ディーノは少しだけ視線を逸らした。
「恋人になってから、エルナへ何も贈っていなかった」
「そんなの、気にしなくていいよ」
「俺が贈りたいと思った」
言葉は短い。
だが、誰かに言われたからではなく、ディーノ自身が考えていたのだと分かった。
「私、何も用意してない」
「返してもらうためではない」
「でも」
「今日は、俺が贈りたいだけだ」
ディーノは並べられた髪飾りへ目を向ける。
「好きなものを選んでくれ」
エルナも髪飾りを見た。
嬉しい。
だが、自分だけで選ぶのは少し違う気がした。
「ディーノが選んで」
「俺が?」
「うん。私に似合うと思うもの」
「エルナが気に入らないかもしれない」
「その時は、ちゃんと言う」
「分かった」
ディーノは一つずつ髪飾りを見る。
目立つ赤い花。
淡い黄色の飾り。
青い石を使った細い髪留め。
すぐに決めると思っていたが、意外にも長く迷っている。
「迷ってる?」
「ああ」
「黒服の時は、何でもすぐ決めるのに」
「店では、必要な方を選べばいい」
「今日は?」
「エルナが喜ぶものを選びたい」
エルナは、何も言えなくなった。
ディーノはしばらく考えた後、薄い橙色の小さな花がついた髪飾りを手に取った。
「これがいいと思う」
「赤い方じゃなくて?」
「ああ」
「どうして?」
「今日の服に合っている。それに、エルナが好きそうだと思った」
エルナは髪飾りを受け取り、店に置かれた鏡の前で髪へ当てた。
派手ではない。
だが、淡い橙色の上着とよく合っている。
「どう?」
「似合っている」
「本当に?」
「それを選んだ理由だ」
店主の女性が微笑みながら近づいてくる。
「よくお似合いですよ。恋人の方が選んでくださったのですか?」
何気ない問いだった。
エルナの手が止まる。
店の仲間たちには、すでに交際を伝えている。
隠してはいない。
だが、知らない相手から恋人なのかと尋ねられたのは初めてだった。
「はい」
エルナは答えた。
声が少しだけ高くなる。
「そうです」
ディーノも続けた。
店主は二人を見比べ、さらに笑みを深める。
「では、大切に使わないといけませんね」
「はい」
ディーノが代金を払い、髪飾りを受け取る。
その場でエルナの髪へつけようとして、手を止めた。
「俺がつけてもいいか?」
「うん」
エルナはディーノへ背を向け、少し頭を下げた。
普段、料理や飲み物を運ぶ手が、自分の髪へ触れる。
ディーノは髪を乱さないよう慎重に飾りを差し込んだ。
「痛くないか?」
「大丈夫」
「外れそうでもない」
エルナは鏡へ顔を向けた。
薄い橙色の花が、まとめた髪の横へ静かに添えられている。
「ありがとう」
「ああ」
「大事にする」
エルナが言うと、ディーノの表情が僅かに和らいだ。
職人通りを離れるまで、エルナは何度も髪飾りへ触れた。
◇
ディーノが選んだ食堂は、中央通りから少し外れた場所にあった。
木造の小さな建物で、入口には香草を束ねた飾りが掛けられている。
店内には木の卓が並び、家族連れや商人が食事をしていた。
Club Moon Dropのような静けさはない。
料理を運ぶ店員の声や、客たちの笑い声が響いている。
「ここ、来たことない」
「俺も初めてだ」
「え?」
エルナは驚いてディーノを見る。
「来たことがある店を選んだんじゃないの?」
「静かに食事のできる店を、ロイに教えてもらった」
「ロイに相談したの?」
「ああ」
「誰と行くかも言った?」
「エルナと行くと伝えた」
「何か言われた?」
「楽しんでこいと言われた」
それ以上、ディーノは話さなかった。
ロイがどのような顔で答えたのかは分からない。
だが、余計に冷やかすことなく、店だけを教えたのだろう。
二人は窓際の小さな卓へ案内された。
料理札には、肉の煮込み、魚の香草焼き、野菜のスープ、焼きたてのパンなどが書かれている。
「何にする?」
エルナが尋ねる。
「肉の煮込みにする」
「決めるの早いね」
「これが美味しいと聞いた」
「料理まで聞いたんだ」
「何も分からないまま選ぶよりいいと思った」
「すごく準備してる」
「今日は俺が決めると言ったからな」
エルナは魚の香草焼きを選んだ。
注文を終えると、二人の間に短い沈黙が生まれた。
営業後の帰り道なら、店であったことを話せばよい。
今日は店で何も起きていない。
朝から一緒に過ごしているため、今日の出来事も互いに知っている。
それでも、沈黙は気まずくなかった。
「ディーノは、休みの日はいつも何をしてるの?」
「洗濯や掃除をする」
「それから?」
「身体を休める」
「遊びに出たりしないの?」
「あまりしない」
「友達と会うことは?」
「以前働いていた場所の知り合いと、たまに会う」
「知らなかった」
「話したことがなかったからな」
「聞いてもいい?」
「ああ」
「前は、どんな仕事をしてたの?」
「倉庫で荷の出し入れをしていた」
運び込まれた荷物を並べる。
書かれた数と実際の数を確かめる。
指示された場所へ運ぶ。
決められた手順どおりに動けば、大きな問題は起きなかった。
「一度だけ、自分で考えて荷物の置き場所を変えたことがある」
「どうして?」
「通路が狭くなっていたからだ。荷車が通れないと思った」
「それなら、よかったんじゃないの?」
「移した先が、翌朝使う荷を置く場所だった」
「あ……」
「俺が勝手に動かしたせいで、朝の作業が遅れた」
怒鳴られたわけではない。
だが、それ以降ディーノは、自分で判断して動くことへ慎重になった。
「Club Moon Dropへ入ったばかりの頃も、同じだった」
「ロイの指示を待ってた?」
「ああ」
「でも、今は自分で動いてるよね」
「ロイに言われた」
「何て?」
「勝手に動くことと、周りを見て動くことは違う、と」
自分だけの考えで持ち場を変えれば、周囲が困る。
だが、状況を見て仲間の位置を確認し、必要な場所へ動くことは黒服の仕事だった。
「それから、動く前に周りを見るようになった」
「だから、手をつなぐ時も周りを見るのかな」
「まだ、つないでいない」
「今はね」
エルナが笑うと、ディーノは僅かに目を細めた。
「エルナは、Club Moon Dropへ入る前から、人と話すのが得意だったのか?」
「得意だと思ってた」
「違ったのか?」
「話すのは好きだったよ。でも、相手が楽しんでるかより、場を静かにしたくないって考えてたかも」
会話が止まると、自分が失敗したように感じる。
周囲が困っている時も、明るく話せば何とかなると思っていた。
「前に、知り合いの店を手伝ったことがあるの」
忙しい時間に注文を取り違えた。
だが、迷惑を掛けたと思われたくなくて、笑いながら大丈夫だと言い続けた。
その結果、何を間違えたのか周囲へ伝わるのが遅れ、さらに料理を待たせてしまった。
「その時、明るくしてればいいわけじゃないって初めて思った」
「今でも、何かを隠す時に明るくすることがある」
「分かる?」
「ああ」
「いつから?」
「相談するようになってから」
「もっと早く言ってよ」
「本人が話したくなるまで待った」
「そういうところが、ずるいんだよね」
「なぜだ?」
「私より私のことを分かってるみたいに言うから」
「全部は分からない」
「でも、分かろうとしてくれてる」
「ああ」
料理が運ばれてくる。
エルナの前には魚の香草焼き。
ディーノの前には肉と根菜の煮込みが置かれた。
二人はそれぞれの料理を一口食べる。
「美味しい?」
エルナが尋ねる。
「ああ」
「少しもらっていい?」
「いい」
ディーノが自分の皿から肉を一切れ取り、エルナの皿へ置いた。
エルナも魚を一切れ分ける。
店では見せない動作が、一つずつ増えていく。
恋人になったからといって、急に何もかも分かり合えるわけではない。
これまで話していなかったこと。
知らなかった過去。
互いに迷っていたこと。
店を離れた時間の中で、それらを少しずつ知っていく。
◇
食堂を出た後、ディーノが選んだ次の場所は、街の西側にある小さな丘だった。
市場や中央通りから離れるにつれ、人通りが減っていく。
石造りの家々の間を抜け、緩やかな坂を上る。
丘の頂上には大きな木が一本立ち、その下には古い長椅子が置かれていた。
そこからは、ルミナスの街並みを広く見渡すことができる。
屋根の連なり。
中央広場の塔。
遠くに見える城壁。
西通りの建物も、小さくではあるが確認できた。
「すごい」
エルナは思わず声を上げた。
「こんな場所、知らなかった」
「以前、リオネルさんに教えてもらった」
「ディーノをレンへ紹介した方だよね」
「ああ。考えを整理したい時に来ると言っていた」
「ディーノも来たことあるの?」
「一度だけ」
「いつ?」
「Club Moon Dropへ入る前だ」
リオネルから店を紹介され、自分に黒服の仕事が務まるのか迷っていた時だった。
「ここから西通りを見た」
「店も見えた?」
「あの時は、今より暗かった」
ディーノは遠くに見える西通りへ目を向ける。
「Club Moon Dropの灯りだけが、通りの中で目立っていた」
「それで、働こうと思ったの?」
「すぐには決められなかった」
「何が不安だったの?」
「指示を待つだけでは務まらないと言われた」
客が規則を守らない時には、自分で止めなければならない。
キャストが困っていても、目の前の問題を優先しなければならない場合がある。
何かが起きた後ではなく、起きる前に判断して動く必要がある。
「自分にできるか分からなかった」
「でも、入ったんだよね」
「ああ」
「どうして?」
「分からないまま断れば、ずっとできないと思ったからだ」
ディーノは、初めから自信があったわけではない。
ロイへ教わり、レンや仲間たちの動きを見ながら、自分の役割を覚えてきた。
「どうして、今日はここへ連れてきてくれたの?」
エルナが尋ねる。
「エルナへ見せたいと思った」
「景色を?」
「ああ」
「それだけ?」
ディーノは少し迷った。
「俺が、Club Moon Dropへ入ることを考えた場所だからだ」
エルナは横に座るディーノを見る。
「大切な場所なんだ」
「そうかもしれない」
「私を連れてきてよかったの?」
「ああ」
「どうして?」
「今の俺にとって、大切な相手だからだ」
エルナは言葉を失った。
ディーノは、店の中では感情をほとんど表へ出さない。
営業後に二人で話す時も、聞かれなければ自分の気持ちを詳しく話さない。
だが今日は違う。
自分で予定を考え、贈り物を選び、自分にとって大切な場所へ連れてきた。
言葉だけではなく、行動で気持ちを見せてくれている。
「今日は、ずっと驚かされてる」
「嫌だったか?」
「嬉しいって言ってるでしょ」
「そうだったな」
「でも、ディーノがこんなに考えてくれてたとは思わなかった」
「普段は考えていないように見えるのか?」
「仕事のことは考えてるって分かるよ」
「エルナのことも考えている」
「いつ?」
「営業中に、エルナの卓ばかり見ているという意味ではない」
「それは分かってる」
「営業後に話したことや、困っていたことは覚えている」
「うん」
「今日、どこへ行けば喜ぶかも考えた」
ディーノは前を向いたまま続ける。
「恋人になっても、店では今までどおり働くと決めた」
「うん」
「だから、店の外で過ごす時間は、今までと違うものにしたかった」
エルナは膝の上で両手を重ねた。
「私も、恋人になったら何が変わるのか、よく分からなかった」
「今日のように出かけることは増やせる」
「うん」
「仕事と関係のない話もできる」
「うん」
「贈り物もできる」
エルナは髪飾りへ触れた。
「それから?」
ディーノは少し考える。
「エルナが望むなら、手をつなぐこともできる」
エルナは目を瞬いた。
「今?」
「嫌ならしない」
「嫌じゃない」
エルナが手を差し出す。
ディーノは一度だけ周囲を確認し、その手を取った。
「どうして周りを見るの?」
「癖だ」
「見られたら嫌?」
「嫌ではない」
「じゃあ、離さないでね」
「ああ」
エルナはディーノの指を握り返した。
仕事中にはしないこと。
営業後の帰り道でも、人通りの多い場所では控えていたこと。
今日は店から離れた場所で、二人は初めてゆっくりと手をつないだ。
しばらくの間、二人は何も話さずに街を眺めた。
沈黙を埋める必要はなかった。
隣にいることだけで、十分だった。
◇
丘を下り、川沿いの道へ出たところで、前方から見覚えのある男性が歩いてきた。
仕立てのよい上着。
腕には、小さな包みを抱えている。
Club Moon Dropの正式会員であり、何度かエルナが担当したことのある商人だった。
相手も二人へ気づき、足を緩める。
「おや」
商人は驚いたように二人を見る。
「エルナさんと、黒服のディーノさんでしたか」
「こんにちは」
エルナは反射的に、営業中と同じ笑顔を浮かべた。
「本日は店がお休みですが、お買い物ですか?」
口にしてから、エルナは少し違和感を覚えた。
今は店の中ではない。
自分は制服も着ていない。
相手も客として来店しているわけではない。
「ああ。妻に頼まれた物を買った帰りです」
商人は答えた後、二人を見比べる。
「お二人も、店のお仕事ですか?」
「いえ」
ディーノが答える。
「今日は定休日ですので、二人で出かけています」
「お二人で?」
商人はすぐに意味へ気づいたらしい。
「失礼しました。お二人は、その……」
エルナの胸が少し高鳴る。
職人通りの店主へ聞かれた時とは違う。
Club Moon Dropの客だ。
自分たちの関係を知れば、次の来店時に意識されるかもしれない。
だが、ディーノは落ち着いたまま答えた。
「交際しています」
エルナも頷く。
「はい」
商人は一瞬驚いた後、穏やかに笑った。
「そうでしたか。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
エルナは頭を下げた。
「店の中では、まったく気づきませんでした」
「勤務中は、仕事を優先していますので」
ディーノが答える。
「なるほど」
商人は感心したように頷いた。
「気づかなかったということは、お二人がきちんと仕事を分けている証拠なのでしょう」
その言葉に、エルナの肩から少し力が抜けた。
「次にご来店された時も、これまでどおり接していただけますか?」
「もちろんです」
商人は迷わず答えた。
「本日はお休みなのでしょう。どうぞ、ゆっくりお過ごしください」
商人はそれ以上尋ねず、二人へ軽く頭を下げて歩き去った。
姿が遠ざかるまで、エルナはその背中を見つめていた。
「思っていたより、普通だった」
「何を言われると思っていた?」
「ディーノが私だけ特別に助けてるんじゃないかとか、次に店で会った時に気まずくなるとか」
「実際にしていない」
「うん」
「なら、これからも仕事で示せばいい」
ディーノの答えは変わらない。
誤解を恐れて恋人ではないふりをするのではなく、店での行動によって信頼を保つ。
「外では、普通に一緒にいていいんだね」
「ああ」
「でも、お客様へわざわざ話す必要はない」
「聞かれなければな」
「聞かれたら、嘘はつかない」
「ああ」
それだけ確認すると、エルナは隣を歩くディーノの手へ、自分の手を近づけた。
ディーノも気づき、自然にその手を取った。
誰かに見られるかもしれない。
知っている客とまた会うかもしれない。
それでも、隠すために手を離そうとは思わなかった。
仕事をしていない今の自分たちは、ただのエルナとディーノだった。
◇
夕方が近づき、二人は中央広場へ戻ってきた。
朝よりも人は少なくなり、露店も片づけを始めている。
噴水の近くにある長椅子へ並んで座った。
「今日の予定は、ここまで?」
エルナが尋ねる。
「ああ」
「全部、ディーノが考えたんだよね」
「そうだ」
「すごく楽しかった」
エルナが言うと、ディーノの肩から僅かに力が抜けた。
「安心した」
「緊張してたの?」
「少し」
「全然分からなかった」
「失敗したくなかった」
「私が楽しめなかったら?」
「何が嫌だったか聞いて、次に直すつもりだった」
「次も考えてくれるつもりだったんだ」
「ああ」
「じゃあ、次の定休日もディーノが決める?」
ディーノは少し考える。
「次は、エルナが決めてくれ」
「私?」
「俺も、エルナが選んだ場所へ行きたい」
「分かった」
「ただし、先に教えてほしい」
「どうして?」
「俺は、行き先を知っている方が落ち着く」
「ずるい」
「エルナは秘密にされる方が楽しいと言った」
「ディーノは違うんだ」
「ああ」
「じゃあ、ちゃんと先に教える」
空が橙色に染まり始める。
営業日であれば、今頃は夜の客を迎える準備をしている時間だった。
だが今日は、店の扉は閉じたままだ。
誰かを迎える必要もない。
次の注文を気にする必要もない。
二人はただ、隣に座っていた。
「そろそろ帰るか」
ディーノが言う。
「送ってくれる?」
「ああ」
二人は長椅子から立ち上がった。
帰り道も、自然に手をつないだ。
◇
エルナの家へ続く道の手前で、二人は足を止めた。
「今日はありがとう」
エルナが言う。
「俺も楽しかった」
「本当に?」
「ああ」
「一番よかったのは?」
「一つに決める必要があるのか?」
「聞きたいだけ」
ディーノは少し考えた。
「エルナが、俺の選んだ髪飾りを喜んでくれたことだ」
「市場を歩いたこととか、丘へ行ったことじゃなくて?」
「それもよかった」
「でも一番は髪飾り?」
「ああ」
エルナは、朝からつけたままの髪飾りへ触れた。
「私は、丘に連れていってくれたことかな」
「景色がよかったからか?」
「それもあるけど、ディーノの大切な場所を教えてくれたから」
ディーノは黙ってエルナを見る。
「次の営業では、いつもどおりだね」
エルナが言う。
「ああ」
「でも、営業が終わったら、今日のこともまた話そうね」
「分かった」
「ディーノも、思ったことを話してよ」
「ああ」
「本当に?」
「今日も話した」
「うん。だから、これからもね」
ディーノは小さく頷いた。
「じゃあ、また次の営業で」
「ああ」
エルナは家へ向かって歩き出し、数歩進んだところで振り返る。
「ディーノ」
「何だ?」
「髪飾り、本当にありがとう」
「似合っている」
「それも、ありがとう」
エルナは手を振り、今度こそ家へ向かった。
ディーノは、その姿が見えなくなるまで見送った。
◇
次の営業日。
Club Moon Dropには、いつものように開店準備の音が戻っていた。
ルークは厨房で食材を確認し、ノアは備品の数を記している。
ロイとディーノは予約帳と会員帳を確かめた後、それぞれ店内へ目を向けた。
エルナは制服へ着替え、客席の卓を整えている。
その髪には、淡い橙色の小さな花が飾られていた。
ディーノは、客席へ向かう途中で一度だけ足を緩めた。
エルナと目が合う。
ディーノは何も言わなかった。
エルナも、髪飾りについて尋ねなかった。
ただ、互いに僅かに笑う。
その直後、入口の鈴が鳴った。
ディーノはすぐに入口へ視線を向ける。
エルナも自分の担当する卓へ向かった。
「いらっしゃいませ」
二人の声が、それぞれの場所から店内へ響く。
恋人として過ごした定休日。
黒服とキャストとして働く営業日。
どちらかを隠す必要はない。
どちらかを理由に、もう一方を軽くすることもない。
エルナの髪には、二人で過ごした時間の形が残っている。
それでもディーノは店全体を見渡し、エルナは目の前の客へ笑顔を向ける。
店を離れた二人の時間があったからこそ、二人は安心して、それぞれの仕事へ戻ることができていた。
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