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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第99話 少年ではなく一人の商人として

 オスカーが父アルフレッドと共にClub Moon Dropへ戻ってから、しばらくが過ぎた。


 来店を許された後も、オスカーが以前のように頻繁に店へ通うことはなかった。


 任された帳簿を終える。


 納品数と請求額を確かめる。


 翌日の仕事へ影響が出ないか考え、使う金額と帰る時刻を決めた上で、自分で来店する日を選ぶ。


 ミーナと話したいという気持ちは、今も変わっていない。


 だが、その気持ちのために仕事や日常を置き去りにすることはなくなっていた。


 その日の昼営業を終えたClub Moon Dropでも、夜の開店へ向けた準備が進んでいた。


 ルークは厨房で鶏もも肉へ香草をなじませ、ノアは昼営業で使った器の数と、夜に必要となる備品を手帳へ記している。


 入口近くでは、ロイが会員帳を確認し、ディーノが予約帳を見ながら、最初に迎える客の順番を確かめていた。


「本日の最初のお客様は、オスカー様ですね」


 ディーノが予約帳の一か所を指す。


「ああ。ミーナを希望されている」


 ロイが答えた。


「一人でのご来店ですか?」


「その予定だ。予約の際、仕事を終えてから向かうとおっしゃっていた」


 少し離れた場所で卓上の杯を整えていたミーナは、その言葉に顔を上げた。


 オスカーが来店することは、予約を受けた時から知っている。


 今回も、ただ会いたいから来るのではない。


 商会で任された仕事について、自分の考えを聞いてほしいと伝えられていた。


 以前のミーナなら、何を相談されるのだろうと不安になっていたかもしれない。


 商売の知識はない。


 織物の価値も、取引の方法も詳しく知らない。


 正しい助言ができなければ、オスカーを失望させるのではないか。


 だが今は、分からないことまで知っているふりをする必要はないと理解している。


 オスカーも、商売の答えをミーナへ決めてもらおうとしているわけではなかった。


 自分なりに考えたことが、商売の外にいる者からどのように見えるのか知りたい。


 予約の際、彼はそう話していた。


「少し緊張してる?」


 隣の卓を整えていたエルナが尋ねる。


「少しだけです」


「オスカー様が来るから?」


「はい。お仕事のお話をしたいとおっしゃっていました」


「ミーナに決めてもらいたいってこと?」


「いいえ」


 ミーナは首を横へ振った。


「ご自分で考えたことがあるので、私にはどのように聞こえるか知りたいそうです」


「じゃあ、前とは違うんだね」


「前?」


「できたことを報告して、ミーナに褒めてもらいたいって感じじゃないってこと」


 エルナの言葉に、ミーナは少し考えた。


 以前のオスカーは、仕事でできたことをミーナへ報告するのを楽しみにしていた。


 その姿を悪いとは思っていない。


 誰かに認めてもらえることが、次の努力につながることもある。


 だが、ミーナの言葉だけを自分の価値にしようとしたことで、仕事への集中を失い、父との約束まで破った。


 店へ戻ってからのオスカーは、褒め言葉を求めることが少なくなっている。


 できたことだけでなく、自分で考えたことや、その結果についても話すようになった。


「はい。今回は、ご自分の考えを持って来られるのだと思います」


「だったら、ミーナも思ったことを言えばいいんじゃない?」


「商売のことを知らなくてもですか?」


「私も商売は分からなかったけど、だから気づけたこともあったよ」


「マティアス様とお話しした時ですか?」


「うん」


 エルナは明るく頷いた。


「細かい商売のことは分からなくても、話を聞いてるかどうかなら分かったから」


「そうですね」


「ミーナは、ミーナの聞き方で聞けばいいよ」


「はい」


 ミーナは小さく笑った。


 エルナは自分の卓へ戻りながら、最後に振り返る。


「それに、オスカー様なら、ミーナが分からないって言っても怒らないでしょ」


「はい。きっと」


 その答えを口にした時、ミーナは以前よりオスカーを信じられるようになっていることに気づいた。


     ◇


 夜営業が始まって間もなく、入口の鈴が鳴った。


 濃紺の上着を着たオスカーが、一人で入ってくる。


 以前のように、店へ入った瞬間からミーナを探して視線を動かすことはなかった。


 まず受付に立つロイへ会員証を差し出す。


「ようこそお越しくださいました」


「こんばんは」


 ロイは会員証と会員帳を確認した。


「オスカー・ローゼン様ですね。ご予約を承っております」


「ありがとうございます」


「本日はミーナが担当いたします」


 確認を終えた会員証が返される。


 その後で、オスカーは店内へ視線を向けた。


 ミーナと目が合う。


 彼女が微笑むと、オスカーも僅かに表情を緩めた。


「本日もお越しいただき、ありがとうございます」


「こちらこそ、時間を取っていただき、ありがとうございます」


「いつものお席でよろしいですか?」


「はい。お願いします」


 ミーナは、オスカーがよく利用する卓へ案内した。


 席へ着いたオスカーは、鞄を椅子の脇へ置く。


 その動きは落ち着いていたが、鞄の中へ折れ曲げたくないものを入れてきたらしく、倒れない位置を確かめている。


「本日は、何をお飲みになりますか?」


「果実水をお願いします」


「承知いたしました」


 ミーナが注文を伝えると、ディーノが果実水と水を運んできた。


「お待たせいたしました」


「ありがとうございます」


 ディーノは二つの杯を置き、卓上の状態を確かめてから離れた。


 オスカーは果実水へ口をつけた後、鞄の中から数枚の紙を取り出した。


「こちらを見ていただいてもよろしいですか?」


「はい。ですが、私は商会の帳面を読めないかもしれません」


「帳簿そのものではありません」


 オスカーは紙を卓上へ並べた。


「商会の記録をそのまま持ち出すことはできませんので、必要な数字だけを自分で書き写してきました。店の名前も書いていません」


 一枚目には、それぞれの店が昨年扱った織物の量。


 二枚目には、今年希望している量。


 三枚目には、オスカーが考えた配分が記されていた。


 店名の代わりに、新しい仕立屋、南通りの取引先、東通りの仕立屋とだけ書かれている。


「冬物の織物を、どの仕立屋へ、どれだけ送るか考える仕事を任されました」


「以前より、大きなお仕事ですね」


「はい」


 オスカーは素直に頷いた。


「最終的に決めるのは父ですが、まず私が配分案を作るよう言われています」


「お父様から、どのように考えるかも教えていただいたのですか?」


「昨年の数字だけを見るのではなく、今年の店の状況も確かめるよう言われました」


 アルフレッドから与えられたのは、答えではなかった。


 昨年の取引量。


 今年の希望数。


 店の規模。


 現在の注文。


 それらを確かめた上で、自分の案を作るよう求められていた。


「それで、二つの仕立屋へ自分で話を聞きに行きました」


「どのようなお店ですか?」


「一つは、北通りにできた新しい仕立屋です」


 店主は王都の仕立屋で修業した若い職人だった。


 技術は高い。


 だが、開店して間もないため、どれだけ商品が売れるのか分からない。


「もう一つは、南通りで長く取引している仕立屋です」


「長くお付き合いしているお店なのですね」


「はい。ただ、店主が病気になり、今は娘が店を守っています」


「注文は減っているのですか?」


「昨年の半分ほどです」


 オスカーは、二つの店について書いた箇所を指した。


「倉庫にある織物の量は決まっています。すべての店が希望する量を、そのまま送ることはできません」


「どこかへ多く送れば、別のお店へ送る量を減らさなければならないのですね」


「はい」


「新しいお店へ多く送るか、長く取引しているお店へ多く送るかで迷ったのですか?」


「最初は、そうでした」


 オスカーの返事に、ミーナは僅かに目を見開いた。


「今は違うのですか?」


「両方の店で、扱える量を聞きました」


 新しい仕立屋では、どのような客が来ているのか。


 すでに受けている注文はどれほどあるのか。


 売れ残った場合、代金の支払いが苦しくならないか。


 南通りの店では、現在の人手でどれほどの注文を受けられるのか。


 長年利用している客から、どれほど冬物を求められているのか。


 オスカーは、店主たちの話を聞いた上で、自分なりの案を作っていた。


 新しい仕立屋には、希望数より少ないが、現在の注文と店の規模に対して不足しない量。


 南通りの仕立屋には、昨年より減らしながらも、すでに受けている注文を満たせる量。


 残りは、急な追加注文へ対応するため、商会の倉庫へ置いておく。


「最初は、すべての店が希望した数から、同じ割合だけ減らせば公平だと思いました」


「同じ割合ですか?」


「はい。希望数の八割ずつを送るというように」


「それなら、どのお店も同じように減るのですね」


「計算の上では」


 だが、それでは新しい仕立屋へは、すでに受けている注文へ足りない量しか届かない。


 一方、南通りの店には、現在の注文数に対して多すぎる織物が届く。


「同じ割合にすることと、公平に扱うことは違うのではないかと思いました」


「はい」


「ですが、私が店の事情を考えすぎているだけかもしれません」


 オスカーはミーナを見る。


「ミーナさんには、どのように聞こえますか?」


 以前のオスカーなら、ここで正しいと思うかと尋ねていたかもしれない。


 自分の案へ安心を与えてもらうために。


 だが今は、答えを決めてもらおうとしているのではない。


 自分が見落としているものを知ろうとしている。


 ミーナは紙を見ながら、慎重に言葉を選んだ。


「私は、織物がどれほど売れるのか分かりません」


「はい」


「ですから、この数が正しいかはお答えできません」


「分かっています」


「ですが……」


 ミーナは、新しい仕立屋について書かれた箇所を指した。


「こちらのお店は、希望より少ないのですよね?」


「はい」


「店主の方へ、その理由をお話しするのですか?」


 オスカーの指が止まった。


「理由ですか?」


「希望した数より少ない織物が届いたら、自分の店は信用されていないと思うかもしれません」


 オスカーは紙へ目を落とした。


「売れ残る危険があるため、最初の量を少なくしたと伝えるつもりでした」


「それだけですか?」


「ほかに何を……」


 言いかけて、オスカーは考える。


 ミーナは答えを急がせなかった。


「オスカー様は、そのお店へ期待していないのでしょうか」


「いいえ」


 オスカーはすぐに否定した。


「技術の高い仕立屋です。固定客が増えれば、今後は多くの織物を扱っていただけると思っています」


「それなら、そのこともお伝えした方がよいのではありませんか?」


「期待していることを?」


「はい」


 ミーナは静かに頷いた。


「数が少ないという結果だけでは、オスカー様が何を考えているのか伝わらないと思います」


 新しい仕立屋を低く評価したから、希望より減らしたのではない。


 初めから大量の在庫を抱え、資金を失う危険を避けるため。


 まずは扱える量から始め、売れ行きを見ながら追加で納品するため。


 その考えを伝えなければ、相手は商会から信用されなかったと受け取るかもしれない。


「追加で納品できる織物を、倉庫へ残すつもりです」


 オスカーが言った。


「ですが、それを案へ書いただけで、店主へどう説明するかまでは考えていませんでした」


「南通りのお店にも、理由をお話しするのですか?」


「昨年より減らす理由は、現在の注文が少ないからです」


「店主の娘さんは、どのようにおっしゃっていましたか?」


「父親が戻るまで、自分が店を守りたいと」


「それなら、量を減らされたことで、商会から見放されたと思うかもしれません」


 ミーナの言葉に、オスカーは黙った。


 父親の代から続く取引。


 店を守ろうとしている娘。


 そこへ昨年より少ない織物を送れば、商会が今後の取引を縮小しようとしているようにも見える。


「必要な量は、確保できています」


「はい」


「それでも、理由をお伝えした方がよいのですね」


「私は、その方ではないので、何を思うかは分かりません」


 ミーナは正直に答えた。


「ですが、私がお客様でしたら、少なくなった理由が分からないと不安になると思います」


 オスカーは二つの店について書かれた箇所を見比べた。


「私は、数を決めることばかり考えていました」


「数を考えることがお仕事なのではありませんか?」


「そうです」


 オスカーは一度頷き、それから首を横へ振った。


「ですが、数を知らせれば終わりではありません」


 織物を受け取るのは、帳簿ではない。


 店を営む人間だ。


 数字が正しくても、伝え方を誤れば、相手との信頼を失うことがある。


「ミーナさんに聞いていただいてよかったです」


「私は、思ったことをお伝えしただけです」


「それを聞きたかったんです」


 オスカーは紙の余白へ短い言葉を書き加えた。


 新しい仕立屋には、最初の納品量を抑えた理由と、売れ行きに応じて追加納品できるよう準備していることを説明する。


 南通りの店には、取引を縮小する意図ではなく、現在の注文量に合わせた配分であることを伝える。


「ご自分でお伝えするのですか?」


「できれば、私の言葉で説明したいと思っています」


「お一人でですか?」


「いいえ」


 オスカーは首を横へ振った。


「父や取引を担当している者にも確認します。必要なら、どちらかに同席してもらいます」


「では、オスカー様だけで決めるわけではないのですね」


「はい」


 オスカーは紙を揃えた。


「自分で決めることと、誰にも聞かないことは違うと分かりましたから」


 その言葉に、ミーナは穏やかに微笑んだ。


「ですが、自分で考えた理由は、私の言葉でお伝えしたいです」


「それでよいと思います」


「この案を出した以上、結果から逃げたくありません」


「もし、思っていたとおりにならなかったらどうするのですか?」


 オスカーは少し考えた。


「どこで見誤ったのか確認します。余ったなら、別の店へ回せるか考えます。足りなければ、追加で用意できるか調べます」


「はい」


「謝る必要があるなら、自分も一緒に謝ります」


 最終的な責任を負うのはアルフレッドだ。


 だが、父が確認したからといって、自分が案を出した事実まで消えるわけではない。


 オスカーは、自分の考えがどのような結果につながったのかを、最後まで見届けようとしていた。


「怖くありませんか?」


 ミーナが尋ねる。


「怖いです」


 オスカーは隠さずに答えた。


「ですが、怖いから昨年と同じ数にするのでは、私が考える意味がありません」


「昨年と同じにすることが悪いわけではないですよね?」


「はい。それが今年も必要な数なら、同じでよいと思います」


「では、変えるために変えるのではないのですね」


「違います」


 オスカーは紙を見つめた。


「昨年と同じにすることも、変えることも、理由を持って選びたいんです」


 その答えを聞き、ミーナはオスカーが以前とは違う場所に立っていることを感じた。


 少年ではなく見てほしいと願いながら、大人らしく見える答えを探していた頃とは違う。


 知らないことを隠さない。


 必要な相手へ話を聞く。


 自分で考えた案を出す。


 決めた後の結果からも逃げない。


 オスカーは、商人らしく見せようとしているのではない。


 一人の商人として、自分の仕事へ向き合おうとしていた。


     ◇


 話が一段落すると、オスカーは紙を鞄へ戻した。


「お腹は空いていませんか?」


 ミーナが尋ねる。


「少しだけ」


「本日は、ルークが鶏もも肉の香草焼き、レモンバターソースを用意しています」


「では、それをお願いします」


「パンもお付けしますか?」


 オスカーは少し考えた。


「お願いします。ただ、量は少なめにできますか?」


「はい。ルークへ伝えます」


 ミーナが注文を伝えると、しばらくしてロイが料理を運んできた。


「お待たせいたしました」


 皮目を香ばしく焼き上げた鶏もも肉に、淡い黄色のレモンバターソースがかけられている。


 皿の端には、香草と少量の温野菜が添えられていた。


 爽やかなレモンの香りと、溶かしたバターの濃厚な香りが、湯気と共に広がる。


 その隣へ、小さく切り分けられたパンが置かれた。


「ありがとうございます」


 オスカーは一礼し、料理へ視線を落とした。


 鶏もも肉へナイフを入れると、香ばしく焼かれた皮の下から柔らかな肉汁が滲む。


 レモンバターソースを絡めて口へ運ぶと、鶏肉の旨味の後から、ほどよい酸味が広がった。


「お味はいかがですか?」


「とても美味しいです」


 オスカーは素直に答えた。


「バターの味はしっかりしていますが、レモンの酸味があるので重く感じません」


「ルークにもお伝えします」


「お願いします」


 ミーナが席へ戻ると、オスカーが静かに話し始めた。


「以前は、こちらへ来ると、できるだけ長くいたいと思っていました」


「今は、違うのですか?」


「長くいたい気持ちはあります」


 オスカーは正直に答えた。


「ですが、長くいることが大切なのではないと思うようになりました」


「では、何が大切なのでしょうか」


「今日話したいことを、きちんと話せることです」


 オスカーはミーナを見る。


「それから、ミーナさんのお話も聞くことです」


「私のお話ですか?」


「はい」


 以前のオスカーは、ミーナのことを知りたいと言いながら、自分の悩みや気持ちを話すことが多かった。


 ミーナが何を考え、どのような一日を過ごしたのかを尋ねても、そこから自分へ向けられる気持ちを探そうとしていた。


 今は違う。


「最近、お仕事で何かありましたか?」


 ミーナは少し考える。


「以前、私の歌を聞いてくださった常連のお客様から、また歌ってほしいと言われました」


「歌ってほしいと望まれたのですね」


「はい」


「歌うのですか?」


「まだ決めていません」


 ミーナは胸元へ手を置いた。


「以前は、自分が歌いたいと思った時に歌いました。今度は、お客様から望まれています」


「望まれるのは、嬉しくありませんか?」


「嬉しいです」


「では、迷う理由は何ですか?」


「期待されているから歌うのか、自分が歌いたいから歌うのか、分からなくなりそうで」


 オスカーは、すぐに答えなかった。


 自分の仕事について聞いてもらったように、今度はミーナの言葉を待つ。


「歌いたくないわけではありません」


「はい」


「ですが、望まれた時に必ず歌うようになれば、断れなくなるかもしれません」


「それは、ミーナさんが決めることだと思います」


 オスカーは答えた。


「はい」


「歌いたい日に歌い、歌いたくない日は断ってよいのではありませんか?」


「お客様を残念な気持ちにさせるかもしれません」


「残念に思うことと、ミーナさんを嫌うことは同じではありません」


 その言葉を口にした後、オスカーは僅かに目を伏せた。


「以前の私は、思いどおりにならないと、拒まれたように感じていました」


 ミーナがほかの客を優先する。


 自分がいない日にも楽しそうに働いている。


 会いたい時に会えない。


 それだけで、自分が必要とされていないように感じていた。


「ですが、相手が自分の望みどおりにしてくれないことと、大切にされていないことは違います」


 オスカーはミーナを見る。


「お客様が歌を聞きたいと思っていても、歌うかどうかを決めるのはミーナさんです」


「そうですね」


「歌えないと伝えた後も、そのお客様が会いに来てくださるなら、歌だけを望んでいるわけではないと分かるのではありませんか?」


 ミーナは、その言葉を静かに受け止めた。


 オスカーは商売の答えをミーナへ決めてもらわなかった。


 ミーナの歌についても、自分が決めるとは言わない。


 互いに考えを伝えながら、最後の判断は本人へ返している。


「ありがとうございます」


「私は、思ったことを話しただけです」


 ミーナは少し笑った。


「先ほど、私も同じことを言いました」


「そうでしたね」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


「次に歌う時は、聞きたいです」


 オスカーが言う。


 その後で、すぐに言葉を足した。


「ですが、私が来る日に歌ってほしいという意味ではありません」


「分かっています」


「本当に?」


「はい」


 ミーナは微笑んだ。


「オスカー様が、今のように言ってくださる方だと分かっていますから」


 その言葉に、オスカーは一瞬だけ息を止めた。


 以前なら、特別に思われている証拠を探したかもしれない。


 今は、その信頼を静かに受け取る。


「ありがとうございます」


 それだけを答え、料理へ手を伸ばした。


     ◇


 オスカーが食事を終える頃には、店内の卓もほとんど埋まっていた。


 エルナは若い商人と楽しそうに話し、リリアは初来店の客へ料理を勧めている。


 セレナは会話へ入りきれずにいた女性客へ、穏やかに話題を渡していた。


 ロイとディーノは受付だけに留まらず、料理や飲み物を運びながら、店内全体へ目を配っている。


 オスカーは懐中時計を確認した。


「そろそろ帰ります」


「もうですか?」


 ミーナは口にした後、少しだけ驚いたように自分の言葉を止めた。


「まだ話したいことはあります」


 オスカーは笑った。


「ですが、今日話したかったことは話せました」


「お父様へ、これからお話しするのですよね?」


「はい。帰ってから、もう一度紙をまとめます」


「では、明日お父様へ見せる準備が残っているのですね」


「はい」


 オスカーは鞄を持ち上げた。


「今日聞いたことを加えて、明日父へ見せたいと思います」


「お気をつけてお帰りください」


「ありがとうございます」


 二人は入口へ向かった。


 ロイが会計を確認し、会員証を返す。


「本日もありがとうございました」


「ありがとうございました」


 オスカーは会員証を受け取り、ミーナへ向き直った。


「次の予約は、まだ取りません」


「お忙しいのですか?」


「この仕事が、どのような結果になるか見てから来たいんです」


「成功してから、ということですか?」


「いいえ」


 オスカーは首を横へ振った。


「失敗していても来ます」


 ミーナは目を瞬いた。


「ただ、決める前の話をしたので、次は決めた後のことをお話ししたいと思っています」


「では、お待ちしています」


「はい」


 オスカーは一礼し、扉へ向かう。


 その途中で、足を止めた。


「ミーナさん」


「はい」


「今日は、褒めてもらうために来たわけではありません」


 突然の言葉に、ミーナは少し驚いた。


「ですが、ミーナさんに話してよかったと思っています」


「私も、お話ししてくださって嬉しかったです」


 オスカーはその答えを聞き、静かに笑った。


「では、また来ます」


「お待ちしております」


 扉が閉じた後、ミーナはしばらくその場に立っていた。


「よかったね」


 エルナが、空いた皿を持って近づいてくる。


「はい」


「前より、話し方が変わった気がする」


「そうですね」


「ミーナに決めてもらおうとしなかった」


「はい」


 ミーナは、オスカーが置いていった空の杯へ視線を向けた。


 彼は自分の考えを持って来た。


 調べられることを調べた。


 関係する者の話を聞いた。


 そのうえで、商売の外にいるミーナからどう見えるのかを尋ねた。


「オスカー様は、もう一人で決められるんだね」


 エルナが言う。


 ミーナは少し考えてから首を横へ振った。


「一人で決められるようになったのではないと思います」


「違うの?」


「一人だけで決めなくてもよいと、分かったのだと思います」


 誰かに答えを決めてもらうのではない。


 必要な者の言葉を聞いた上で、最後は自分の考えを選ぶ。


 それが今のオスカーが目指している商人の姿なのだろう。


「それって、大人になったってこと?」


 エルナが尋ねる。


「分かりません」


 ミーナは正直に答えた。


「ですが、以前よりオスカー様らしいと思います」


「オスカー様らしい?」


「はい」


 父親と同じ商人になろうとしているのではない。


 レンのような十六歳になろうとしているのでもない。


 ミーナへ認められる姿を演じようとしているわけでもない。


 自分で見て、聞いて、考えて決める。


 それが、少しずつオスカー自身の形になっている。


「ミーナも嬉しそうだね」


 エルナが笑う。


「はい」


 ミーナは隠さずに頷いた。


「またお話ししたいです」


「好きだから?」


「それは……」


 ミーナは言葉を止めた。


 エルナは答えを急かさず、にやりと笑う。


「今は分からなくてもいいんじゃない?」


「はい」


「オスカー様も、すぐに答えを求めなくなったみたいだし」


 ミーナは、閉じた扉へ一度だけ目を向けた。


 次にオスカーが訪れる時、配分した織物が売れているかは分からない。


 新しい仕立屋から感謝されるかもしれない。


 もっと多く送ってほしかったと不満を言われるかもしれない。


 南通りの店から、取引を続けてくれたことを喜ばれるかもしれない。


 量を減らされたことへ反発されるかもしれない。


 どのような結果になっても、オスカーは話しに来ると言った。


 成功した姿だけを見せるのではない。


 失敗を隠すのでもない。


 自分が何を考え、どう決め、その結果をどう受け止めたのかを話すために。


 ミーナも、その時には結果だけを褒めたり責めたりするのではなく、最後まで話を聞こうと思った。


     ◇


 夜営業を終えた後、ミーナはノアと共に、使った杯と料理の数を確認していた。


「オスカー様は、果実水一杯と鶏もも肉の香草焼き、レモンバターソース、パンですね」


 ノアが手帳へ記す。


「はい」


「次回予約はありません。来店予定は未定としておきます」


 ノアはそれだけを書き、筆を次の欄へ移した。


 オスカーが何を任され、どのように考えていたのかは記録しない。


 次に話を聞くために覚えておくのは、ミーナ自身だった。


 そこへレンが、客席から回収した水差しを持ってくる。


「今日は、オスカーと長く話していたね」


「はい」


「困ったことはなかった?」


「ありませんでした」


「そう」


 レンは詳細を尋ねなかった。


 ミーナも、商会の事情や、オスカーが何を決めようとしていたのかは話さない。


 ただ、自分が感じたことだけを口にした。


「以前より、一人の商人としてお話しされているように感じました」


「一人の商人として?」


「はい」


 レンはミーナの続きを待った。


「何もかも一人で決めるという意味ではありません」


 ミーナは静かに言う。


「必要な方へ話を聞き、その上で最後は自分で選ぼうとしていました」


 レンは少し笑った。


「それなら、成長したんだろうね」


「はい」


「ミーナは、答えを教えたの?」


「いいえ」


「では、どのように話したの?」


「商売の答えではなく、相手へどのように伝わるかについて、思ったことをお話ししました」


 レンは水差しを持ったまま、少し考える。


「なるほど」


「数字が正しくても、考えていることが伝わらなければ、違う受け取られ方をするかもしれないと思ったので」


「それは大切なことだね」


 レンはClub Moon Dropの客席を見回した。


「同じお酒を出しても、勧め方や説明が違えば、受け取られ方も変わる」


「はい」


「商売でも、同じなのかもしれない」


 ミーナは頷いた。


 オスカーは、正しい数だけを探していたのではない。


 その数を受け取る相手が、どのように感じるのかまで考え始めた。


 その姿を、ミーナは誇らしく思っている。


 だが、その誇らしさは、自分がオスカーを成長させたというものではなかった。


 彼が自分で仕事へ向き合い、自分の足で進んでいることが嬉しかった。


 次にいつ会えるのか、約束はない。


 それでも不安ではなかった。


 オスカーは店へ来ない間も、自分の仕事と向き合っている。


 ミーナもまた、Club Moon Dropで一人のキャストとして成長していく。


 二人がそれぞれの場所で進んだ先に、次の会話がある。


 オスカーはもう、子どもではないと認めてもらうために店へ来たのではなかった。


 大人らしく見える答えを、ミーナから与えてもらうためでもない。


 自分で調べ、自分で考え、自分の案を持った一人の商人として、異なる考えを持つ相手の言葉を聞きに来た。


 そしてミーナも、ただ優しく話を聞く少女としてではなく、自分の考えを伝えられる一人のキャストとして、彼と向き合っていた。

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