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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第98話 リリアではない彼女の魅力

 翌日の昼営業を終えたClub Moon Dropでは、夜の開店へ向けた準備が進んでいた。


 ルークは厨房で煮込み料理の鍋を確認し、ノアは客席の椅子を一脚ずつ見ながら、位置のずれを直している。


 入口近くでは、ロイとディーノが予約帳を挟んで話していた。


「この方が、昨日連絡をくださったお客様ですね」


 ディーノが予約帳の一か所を指す。


 そこには、若い商人の名が記されていた。


 名はマティアス。


 二十四歳で、父親が経営する雑貨商会の一店舗を任されている。正式会員になってから何度か来店しており、これまでは主にリリアを希望していた。


「ああ。今回も、最初はリリアを希望していた」


 ロイが答える。


「ですが、リリアさんには先に予約が入っています」


「そのことは伝えてある。別の日にするか、ほかのキャストと過ごすかを選んでいただいた」


「それで、本日いらっしゃることを選ばれたのですね」


「ただ、納得しているとは限らない」


 ロイは予約帳を閉じた。


「受付で改めて説明する。最初から不満を抱えている可能性もあるから、席へ案内した後も様子を見ておこう」


「分かりました」


 二人の話を、少し離れた場所でエルナが聞いていた。


 卓上の杯を確認していた手が、ほんの僅かに止まる。


 今日、マティアスを担当するのはエルナだった。


 前日の営業後、リリアと話した時には、自分らしい接客をすればよいと思えた。


 リリアより上になる必要はない。


 誰かの代わりになる必要もない。


 そう考えたはずだった。


 しかし、実際にリリアを希望していた客を担当するとなると、胸の奥には落ち着かないものが残っている。


 自分では嫌だと言われるかもしれない。


 リリアを呼んでほしいと、何度も求められるかもしれない。


 明るく話しかけても、うるさいと思われるかもしれない。


「エルナ」


 名前を呼ばれ、エルナは顔を上げた。


 リリアが、準備を終えた卓からこちらを見ていた。


「どうしたの?」


「少し緊張されていますか?」


「分かる?」


「少しだけ」


 リリアは穏やかに笑った。


「マティアス様のことですか?」


「うん」


 エルナは隠さずに頷いた。


「リリアを希望してたんでしょ?」


「はい」


「私が担当しても、ずっとリリアの方がよかったって思われるかもしれない」


「そう思われる可能性はあります」


「そこは否定してくれないんだ」


「まだお会いしていないのに、大丈夫だと言い切ることはできませんから」


 リリアらしい答えに、エルナは少し笑った。


「でも、エルナが私の真似をする必要はありません」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


 エルナは自信なさそうに答えた。


「静かに話を聞こうとして、いつもより何も言わなくなったらどうしようって考えてた」


「それは、エルナらしくありませんね」


「だよね」


「マティアス様は、今日は私とお話しすることができません」


 リリアは予約帳へ目を向けた。


「ですが、それを承知した上で、Club Moon Dropへ来ることを選んでくださいました」


「少なくとも、別の人が担当でも来てみようとは思ってくれたってこと?」


「はい。そう考えてよいと思います」


 エルナは、その言葉をゆっくり受け止めた。


 マティアスは、リリアが担当できないと知らされた上で来店を決めた。


 完全に納得しているわけではないかもしれない。


 それでも最初から、エルナを拒絶しているわけでもない。


「私、最初に何を話せばいいかな」


「普段どおりでよいと思います」


「普段どおりって、一番難しいんだけど」


「それなら、ご本人へ聞いてみてはいかがでしょうか」


「何を?」


「今日は、どのように過ごしたいのかを」


 リリアはそう言い、次の卓の準備へ戻った。


 エルナはしばらくその背中を見つめた。


「どう過ごしたいのか、か」


 小さく呟いた時、背後から声がした。


「聞いてみればいい」


 振り返ると、ディーノが空いた皿を運んでいた。


「聞いてたの?」


「全部ではない」


「じゃあ、どこから?」


「最初に何を話せばいいか、というところから」


「ほとんど聞いてるじゃん」


「声が聞こえた」


 ディーノは真顔で答えた。


「何か言いたいことある?」


「リリアと同じ接客をしても、リリアにはならない」


「それ、前にも言われた」


「忘れているように見えた」


「忘れてないよ」


「なら大丈夫だ」


「簡単に言うね」


「エルナが難しく考えすぎている」


「だって、最初から私を希望してるお客様じゃないんだよ?」


「初めから希望されなければ、何も始まらないのか?」


 ディーノの問いに、エルナは返事を止めた。


「初めて担当するお客様は、誰でも最初はエルナを知らない」


「そうだけど」


「今日も同じだ」


「リリアは知ってるよ」


「エルナを知らないことは変わらない」


 ディーノは皿を持ち直した。


「知ってもらえばいい」


 それだけ言うと、厨房へ向かって歩いていく。


 エルナはその背中へ向かって小さく口を尖らせた。


「簡単に言ってくれるんだから」


 だが、不思議と先ほどより呼吸は楽になっていた。


     ◇


 夜営業が始まって間もなく、入口の鈴が鳴った。


 現れたのは、濃い茶色の上着を着た若い男性だった。


 丁寧に整えられた髪と、質のよい革靴。


 しかし表情は硬く、入口へ立った時から店内を探すように視線を動かしている。


「ようこそお越しくださいました」


 ロイが迎え、差し出された会員証を確認した。


「マティアス様でございますね」


「ああ」


「ご予約を確認しております」


 ロイは登録帳と会員証を見比べた後、会員証を返した。


「ご連絡の際にもお伝えしましたが、本日はリリアに先約がございます」


「聞いている」


「そのため、別のキャストが担当いたします」


「それも聞いた」


 マティアスの声には、隠しきれない不満が含まれていた。


「ただ、空いたら少しくらい来られるのだろう?」


「先にご予約いただいているお客様との時間が終わり、リリア本人にも余裕がある場合は、ご挨拶に伺うことはできます」


「担当はできない?」


「本日は難しいかと存じます」


「そうか」


 マティアスは短く答えた。


 そこへエルナが近づく。


「本日は、私がお席をご一緒します。エルナです」


 普段と同じ明るい声で挨拶したつもりだった。


 だが、自分でも少しだけ力が入っていることが分かった。


 マティアスはエルナの顔を見て、それから店内にいるリリアへ視線を向けた。


 リリアは別の客を迎えているところだった。


「君が代わりか」


 その一言に、胸の奥が少しだけ痛む。


 代わり。


 覚悟していた言葉だった。


 エルナは笑顔を崩さず、首を横へ振った。


「今日は私が担当です。リリアと同じにはできませんけど、退屈はさせないつもりです」


 マティアスが、少し意外そうに眉を上げた。


「普通は、同じように楽しませると言うところではないのか?」


「同じにはできないので」


「最初から認めるのか」


「できないことまで、できるとは言えません」


 エルナは少しだけ笑みを深めた。


「まずは座りませんか? 入口でずっと比べられてると、私も緊張するので」


「客に緊張していると言うのか?」


「隠しても顔に出るかもしれませんから」


 マティアスは返事をしなかった。


 しかし怒ることもなく、案内された席へ歩き始めた。


 エルナは向かい側へ座る前に尋ねる。


「今日は、どんなふうに過ごしたいですか?」


「何だ、その聞き方は」


「静かに飲みたいのか、たくさん話したいのか、それとも何か相談したいことがあるのかで、私も話し方を変えたいので」


「客に合わせるのが接客係の仕事だろう」


「だから聞いてるんです」


 エルナが答えると、マティアスは僅かに言葉を詰まらせた。


「以前、リリアには商会のことで話した」


「それなら、今日も商会のお話をしますか?」


「君に話して分かるのか?」


「分からないところは聞きます」


「商売をしたこともないのだろう?」


「ないです」


 エルナは正直に答えた。


「でも、分からないから、最初から決めつけずに聞けることもあると思います」


 マティアスの眉が僅かに動いた。


「便利な言い方だな」


「そうですか?」


「何も知らなくても許される」


「知らないことを知ったふりするよりは、いいと思いますけど」


 マティアスは、卓の上へ視線を落とした。


 少し離れた場所では、ディーノが別の卓へ水を運んでいる。


 すぐに助けを求めるような状況ではない。


 それでも、エルナが一人で対応している様子を気にしていることは分かった。


「お酒は、何にしますか?」


 エルナが尋ねる。


「リリアなら、前に飲んだものを覚えている」


「私は覚えてません。今日が初めてなので」


「聞いていないのか?」


「担当する前に、飲み物の好みを全部聞いておけばよかったですか?」


「普通はそうするだろう」


「好みは聞けば分かります。でも、前回どんな気分で選んだかまでは、マティアス様に聞かないと分かりません」


 エルナは酒の一覧を卓へ置いた。


「前と同じものにしますか? それとも、今日は別のものを試しますか?」


「前と同じでいい」


「少し苦みのある果実酒ですね」


「知っているではないか」


「注文の記録は見ました。でも、好きだから選んだのか、勧められて飲んだのかまでは書いてなかったので」


 マティアスは記録という言葉に僅かに反応した。


「客が話したことは書いていないのか?」


「飲んだお酒や料理は残してます。でも、相談したことまでは残してません」


「それでは、担当が代われば話がつながらない」


「話したくないことまで、ほかの人に知られる方が嫌じゃないですか?」


「リリアは覚えていた」


「リリア自身が覚えてたんだと思います」


「君は、今日の話を覚えられるのか?」


「大事なことなら」


「自信があるのか?」


「全部は無理です」


 エルナは笑った。


「でも、次に来た時に忘れてたら、もう一度教えてください。今度は前よりちゃんと聞きます」


「随分と開き直るな」


「忘れないようにはします。でも、絶対に忘れませんって言って、忘れる方が嫌なので」


 マティアスはしばらくエルナを見ていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「酒を頼む」


「はい。すぐにお持ちします」


 エルナが注文を伝えると、ディーノが果実酒と水を運んできた。


「お待たせいたしました」


 杯を置きながら、ディーノはマティアスへ一礼する。


 次にエルナへ一瞬だけ視線を向けた。


 困っていないか確かめる目だった。


 エルナは小さく頷く。


 それを確認したディーノは、何も言わず別の卓へ向かった。


 マティアスはその動きを見ていた。


「あの黒服は、君の様子を気にしていたな」


「店全体を見てるんです」


「君だけではなく?」


「はい。私だけを見ていたら、仕事にならないですから」


「そうか」


 マティアスは杯を持ち上げた。


 酒を一口飲み、ようやく僅かに肩の力を抜く。


「前と同じだ」


「よかったです」


「君が作ったわけではないだろう」


「でも、違ったら困るので」


「妙な娘だな」


「よく言われます」


「褒めてはいない」


「嫌われてないなら大丈夫です」


 エルナの返事に、マティアスの口元がほんの僅かに動いた。


 笑ったのかどうかは分からない。


 それでも、席へ着いた時より空気が柔らかくなったことは感じられた。


「それで、商会のお話でしたよね」


 エルナが切り出す。


「聞いても分からないのではなかったか?」


「分からないところは聞くって言いました」


「本当に聞く気なのか」


「話したくないなら、別の話でもいいですよ」


 マティアスは杯を指先で回した。


「父が経営する雑貨商会の店舗を任されている」


「お父様は、もうお仕事をされていないんですか?」


「商会全体は父が見ている。私が任されたのは、東通りにある一店舗だけだ」


「店主になったんですね」


「名目上はな」


「名目上?」


「仕入れ先も、扱う商品も、働いている者も、ほとんど父が決めたものだ」


「それでも、お店を任されているんですよね?」


「失敗すれば私の責任になる」


 マティアスの声が少し硬くなる。


「それなのに、従業員たちは私の指示を聞かない」


「全員ですか?」


「全員ではない。だが、古くから働いている者ほど、私より父の言葉を優先する」


「お父様が直接、お店へ指示を出すんですか?」


「時々な」


「それなら、従業員の人も、どちらの言うことを聞けばいいか迷いそうですね」


 マティアスは眉を寄せた。


「私が店を任されているのだから、私の指示を聞くべきだ」


「でも、お父様が違うことを言ったら?」


「父には、口を出さないよう伝えている」


「聞いてくれますか?」


「必要な助言だと言う」


「じゃあ、マティアス様が困ってるのは、従業員の人が信用してくれないことだけじゃなくて、お父様が任せきってくれないことですか?」


 エルナが尋ねると、マティアスは杯を置いた。


「話を勝手に変えるな」


「違いました?」


「従業員が私を軽く見ていることも問題だ」


「どういう時に、軽く見られてると思うんですか?」


「新しい商品を置こうとしても、売れないと言って反対する。値引きの方法を変えても、常連客には以前と同じ条件で売る」


「どうして反対するのかは聞きますか?」


「聞かなくても分かる。変化を嫌っているだけだ」


「本当に?」


「何が言いたい」


「常連のお客様には今までと同じ条件で売ったんですよね?」


「そう言っているだろう」


「お客様は怒りました?」


「いや。むしろ喜んでいた」


「じゃあ、従業員の人は、お客様が離れないようにしたかったのかもしれませんね」


「私の決めた条件を守らなかったことは変わらない」


「それは駄目だと思います」


 エルナが即座に答えると、マティアスは少し意外そうに見た。


「従業員の肩を持つのではないのか?」


「勝手に変えるのは駄目ですよ。店主が決めたことなら、まず相談しないと」


「なら、私が正しいだろう」


「でも、相談できない雰囲気だったのかもしれません」


「私が話を聞かないと言いたいのか?」


「聞いてますか?」


 エルナはまっすぐ尋ねた。


 マティアスの目が細くなる。


 怒らせたかもしれない。


 そう思ったが、言葉を引っ込めることはしなかった。


「私なら、言いにくいかもしれません」


「なぜだ」


「反対した時に、店主である自分に従えって言われるんですよね?」


「命令を守らせるのは当然だ」


「はい。でも、理由を話す前にそう言われたら、次から何も言わなくなるかもしれません」


「口答えをしなくなるなら、その方がよい」


「本当に?」


 エルナは首を傾げた。


「お店で起きてることを、誰も教えてくれなくなっても?」


 マティアスは答えなかった。


「私、前はお客様を楽しませようとして、自分ばっかり話してたんです」


「突然、何の話だ」


「似てる気がしたので」


「私が君と?」


「私も、相手のためだと思ってたんです。楽しい話をたくさんした方が、お客様は喜ぶって」


「接客係なら、間違ってはいないだろう」


「でも、私が話し続けたら、お客様が話したいことを言えないですよね」


 エルナは杯の横に置かれた水差しを見た。


「自分がよいと思うことをするだけじゃ、相手が何を考えてるか分からないって教わりました」


「リリアにか?」


「違います」


「では、レンか」


「ディーノです」


 エルナは少しだけ笑った。


「さっきお酒を運んだ黒服です」


「黒服に接客を教えられたのか?」


「教えられたというか、相談したら気づかされました」


「何と?」


「お客様が私を指名したなら、私と話したいと思ってる。だったら、私が話したいことだけじゃなくて、その方が何を話したいか聞けばいいって」


「それと私の店に、何の関係がある」


「従業員の人も、そのお店でずっと働いてきたんですよね?」


「ああ」


「だったら、マティアス様がまだ知らないことも知ってるんじゃないですか?」


「古いやり方しか知らない」


「マティアス様は、新しいやり方ばかり見てるんですよね?」


 エルナは少し考えてから続けた。


「だったら、お互いに知らないことを聞けばいいんじゃないですか?」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないと思います」


「なら、なぜそのように言える」


「話を聞くところからなら、始められるからです」


 マティアスは黙り込んだ。


 エルナは、急いで言葉を足さなかった。


 普段なら沈黙が生まれると、何か話さなければと焦っていた。


 しかし今は、マティアスが自分で考えていることが分かる。


 沈黙を埋めるより、待った方がよい時もある。


 リリアのように穏やかに待つことはできないかもしれない。


 それでも、エルナなりに待つことはできる。


「一人だけ、よく反対する男がいる」


 やがてマティアスが口を開いた。


「父の代から店にいる。私が何を言っても、以前はこうだったと返す」


「その人が一番嫌いですか?」


「嫌いとは言っていない」


「じゃあ、苦手?」


「腹が立つ」


「何ていう人ですか?」


「ブルーノだ」


「ブルーノさんは、マティアス様のお父様と長く働いてたんですよね?」


「ああ」


「マティアス様が小さい時も知ってる?」


「知っている」


「それで、子ども扱いされてる気がするんですか?」


 マティアスの顔が僅かに強張った。


「勝手なことを言うな」


「違いました?」


「……父の息子として見ているのは確かだ」


「マティアス様は、店主として見てほしい?」


「当然だ」


「だったら、ブルーノさんが知ってることを聞いた上で、自分で決めた方が店主らしくないですか?」


「話を聞けば、相手の言うとおりにしなければならなくなる」


「どうして?」


「聞いた上で断れば、余計に反発する」


「それなら、どうして断るのか説明すればいいと思います」


「納得しなければ?」


「決めるのは店主です」


 エルナは迷わず答えた。


「でも、聞かずに決めるのと、聞いてから決めるのは違うんじゃないですか?」


 マティアスは、何も言わず杯を傾けた。


 お酒はほとんど残っていない。


 エルナは追加を勧めようとして、少し考える。


「もう一杯飲みますか?」


「いつもなら、もっと勧めるのではないのか?」


「飲みたいですか?」


「売上にはなるだろう」


「なります。でも、マティアス様、今はお酒より考える方に集中してるので」


「飲ませることが仕事ではないのか?」


「お酒を飲みたい時に勧めるのは仕事です。でも、考えたい時に無理に勧めるのは違います」


「この店の者は、皆そのようなことを言うな」


「誰かにも言われました?」


「以前、リリアにも似たことを言われた」


「やっぱりリリアの方がよかった?」


 口にしてから、エルナは少し後悔した。


 自分から比べてどうするのか。


 だが、マティアスはすぐには答えなかった。


「君は、リリアとは違う」


「はい」


「リリアなら、ここまで直接は言わないだろう」


「たぶん」


「私が話を聞いていないと、よく本人へ言えるな」


「怒られるかもしれないとは思いました」


「怖くなかったのか?」


「少しは」


 エルナは笑った。


「でも、マティアス様が本当に困ってるなら、何でも大丈夫ですって言う方が失礼かなって」


「私が困っているように見えたか?」


「見えました」


「どの時点で?」


「リリアじゃないって不満そうにしてた時から」


 マティアスの眉が動く。


「なぜ、それで仕事の悩みが分かる」


「自分の思いどおりにならないことに、すごく腹を立ててるように見えたので」


「随分な言い方だな」


「違いました?」


「……大きくは違わない」


 マティアスは、初めてはっきりと笑った。


 声を上げるほどではない。


 それでも、席へ着いてから浮かべた中で、最も自然な表情だった。


「君は、誰にでもこのように話すのか?」


「お客様によります」


「私は、遠慮しなくてよい相手に見えた?」


「遠慮したら、ずっとリリアの方がよかったって顔をされそうだったので」


「まだ言うか」


「だって、本当ですよね?」


「最初はな」


「今は?」


 エルナは少し身を乗り出した。


 マティアスは答えようとして、やめた。


「すぐ答えを求めるな」


「気になるので」


「君は、待つことが苦手らしい」


「さっきは待ったんですよ」


「一度できただけだろう」


「ちゃんと見てたんですね」


「目の前にいたからな」


 二人の間に、先ほどまでとは違う沈黙が生まれた。


 重くも、気まずくもない。


 互いの言葉を待てる、短い間だった。


     ◇


 マティアスが席を立つ頃には、最初に伝えていた時間を僅かに過ぎていた。


 次の予約は入っていなかったため、エルナは最後まで席を共にすることができた。


「お帰りですか?」


「ああ」


「今日は、ブルーノさんと話してみますか?」


「まだ決めていない」


「そうですか」


「明日、開店前に全員を集める」


 マティアスは上着を整えた。


「まずは、客から何を聞いているのかを話させる」


「いいと思います」


「君に許可を求めているわけではない」


「分かってます。でも、嬉しかったので」


「なぜ君が喜ぶ」


「話したことを、やってみようと思ってくれたからです」


「うまくいくとは限らない」


「それでも、聞いてみるんですよね?」


「ああ」


 マティアスは短く答えた。


 エルナは入口まで見送るために立ち上がった。


 受付では、ロイが会計を確認している。


 ディーノは入口の外に不審な者がいないか、一度扉を開けて周囲を確かめていた。


「本日は、ありがとうございました」


 エルナが頭を下げる。


 マティアスは会員証を受け取りながら、少し迷うようにエルナを見た。


「次の予約についてだが」


「はい」


「リリアの空いている日は、いつだ?」


 エルナの胸が、僅かに沈む。


 楽しく話せたと思った。


 それでも、次はリリアを希望するのかもしれない。


 今日一度話しただけで、好みが変わるとは限らない。


「予約帳を確認しますね」


 エルナが答えようとすると、マティアスは続けた。


「いや、やめておこう」


「え?」


「次も、今日と同じ時間に来たい」


「その日は、私を希望しますか?」


 思わず聞き返した。


「ほかに誰がいる」


「リリアを希望されるのかと思いました」


「リリアには、以前の相談の続きを話すつもりだった」


「では、リリアでもよいのでは?」


「今日の話は、君にした」


 マティアスは少し不機嫌そうに言った。


「ブルーノと話した結果を、別の者へ最初から説明するのは面倒だ」


「それだけですか?」


「何を期待している」


「私との話が楽しかったとか」


「自分で言うな」


「気になるので」


 マティアスは呆れたように息を吐いた。


「少なくとも、退屈ではなかった」


 エルナの表情が明るくなる。


「それなら、次も私で予約を取りますね」


「空いているのか?」


「確認します」


 ロイが予約帳を開き、次に来店できる日をいくつか伝えた。


 マティアスはその中から一日を選ぶ。


「では、その日の同じ時間でお願いいたします」


 ロイが記入する。


 エルナは予約帳に自分の名が書き加えられるのを見つめていた。


 誰かの代わりとしてではない。


 マティアス自身が、次もエルナと話すことを選んだ。


「では、またお待ちしてます」


「ああ」


 マティアスは扉へ向かい、ふと足を止めた。


「エルナ」


「はい?」


「次に来た時、今日の話を忘れていたら、もう一度説明しろと言うのだったな」


「はい」


「忘れるな」


「努力します」


「そこは必ず覚えておくと言え」


「できない約束はしません」


 エルナが笑うと、マティアスは僅かに口元を緩めて店を出た。


 扉が閉まる。


 エルナはその場で小さく息を吐いた。


「よかったな」


 隣からディーノの声がした。


「聞いてた?」


「最後だけだ」


「本当に?」


「今回は本当だ」


「次も私だって」


「ああ」


「私を希望したんだよ」


「見ていれば分かる」


「もう少し驚いてよ」


「驚いている」


「顔に出てない」


「そうか」


 ディーノはいつもどおりの表情で答えた。


 だが、声が僅かに柔らかいことに、エルナは気づいた。


「最初は、ずっとリリアと比べられてた」


「それでも話した」


「うん」


「なら、エルナが接客した結果だ」


 その言葉を聞き、エルナは予約帳へ目を向ける。


 自分の名前が、確かに書かれていた。


「リリアの代わりじゃないんだよね」


「ああ」


「私だから、次も話すんだよね」


「本人がそう決めた」


 ディーノは空いた杯を持ち上げた。


「片付けるぞ」


「もう少し余韻に浸らせてよ」


「営業中だ」


「分かってるって」


 エルナは笑いながら、残っていた皿を集め始めた。


     ◇


 夜営業を終えた後、エルナは予約帳を開いていた。


 マティアスの名。


 その横に書かれた、自分の名。


 そこへリリアが近づいてくる。


「次のご予約をいただいたのですね」


「うん」


「おめでとうございます」


「最初は、リリアじゃなきゃ意味がないって顔してたよ」


「そうでしたか」


「代わりって言われた」


「つらかったですか?」


「少しだけ」


 エルナは正直に答えた。


「でも、私はリリアと同じことはできないって言った」


「はい」


「その代わり、私と話して退屈させないように頑張るって」


「エルナらしいです」


「途中で怒らせるかと思ったけどね」


「何をお話ししたのですか?」


「お店の従業員が、自分の言うことを聞かないって悩んでた」


 エルナは、そこで言葉を止めた。


 マティアスが話した細かな事情まで、リリアへ伝える必要はない。


 店で共有すべき危険や問題ではなく、客から預かった仕事上の悩みだった。


「詳しいことは言わないけど、自分が相手の話を聞いてないことに気づいたみたい」


「エルナが気づかせたのですね」


「私は聞いただけ」


「何をですか?」


「本当に相手の話を聞いてるのかって」


 リリアは穏やかに微笑んだ。


「それは、エルナだからできた接客だと思います」


「リリアなら、もっと優しく言う?」


「同じ場にいなかったので分かりません」


「また正直だね」


「ですが、マティアス様が次もエルナを希望されたことが、答えではないでしょうか」


 エルナは予約帳へ目を落とす。


「前は、指名される人が多い方がすごいと思ってた」


「今は違いますか?」


「一人でも、自分と話したいって思ってくれたら、すごく嬉しい」


「はい」


「リリアの予約が多いのを見たら、また気にするかもしれないけど」


「その時は、またお話ししましょう」


「うん」


 エルナは予約帳を閉じた。


 リリアを希望して訪れた客が、次はエルナを選んだ。


 それは、エルナがリリアより上になったということではない。


 客が選べる時間が、一つ増えたのだ。


 静かに言葉を探したい時には、リリアと話す。


 明るい言葉で迷いを動かしたい時には、エルナと話す。


 どちらかが誰かの代わりなのではない。


 エルナは片付けの終わった客席を見渡した。


 今日マティアスが座っていた卓には、もう空の杯も皿も残っていない。


 それでも、そこで交わした言葉は、エルナの中に残っていた。


 次に来店した時、マティアスが従業員とどのような話をしたのか聞く。


 うまくいかなかったのなら、その話を聞く。


 うまくいったのなら、一緒に喜ぶ。


 それは、リリアの代わりに続く時間ではない。


 エルナとマティアスの間で、初めて始まった時間だった。

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