第97話 No.1の席に集まる期待
ファビオが一人でClub Moon Dropを訪れた夜から、数日が過ぎた。
昼営業を終えた店内では、夜営業へ向けた準備が進んでいる。
ルークは厨房で肉の煮込み具合を確かめ、ノアは客席を回りながら、予約に合わせて卓上の札を置いていた。
入口近くでは、ロイとディーノが会員帳と予約帳を見比べている。
「今日も、リリアさんを希望する方が多いですね」
ディーノが予約帳を見ながら言った。
その日の予約欄には、時間をずらして、リリアを希望する三人の客の名前が並んでいた。
特定のキャストを希望する客が増えてから、店では予約を受ける際に、担当できる時間の目安を伝えるようになっている。
客の滞在時間そのものを区切るためではない。
同じキャストへの希望が重なった時、どの時間に誰が席を共にするのかを明確にし、先に約束した客を待たせないためだった。
「一人目のお客様とのお話が長くなれば、次の方をお待たせすることになりますね」
「ああ。料理や酒の提供が遅れれば、その分だけ予定もずれる」
ロイは、それぞれの来店予定時刻を指で追った。
「予定より早く着いた方には、受付で先に説明しておこう。リリアが担当中なら、そのまま待つか、別のキャストと先に過ごすかを選んでいただく」
「別のキャストを望まれなかった場合は?」
「無理に勧める必要はない。待っていただくか、その日は利用せず、別の日に予約を取り直すこともできる」
「分かりました」
少し離れた場所では、リリアがエルナとミーナと共に予約帳を確認していた。
「最初は、革製品を扱っているヘンリック様ですね」
「前にもリリアを希望してた人?」
エルナが尋ねる。
「はい。奥様への贈り物について相談してくださった方です」
「次は?」
「ファビオ様です」
「また来るんだ」
エルナは少し意外そうに目を丸くした。
「前に飲んだお酒、そんなに気に入ったのかな?」
「ご予約の際にも、同じ酒を希望されたそうです」
「リリアとも話したいんじゃないですか?」
ミーナが控えめに言うと、リリアは少し困ったように笑った。
「それは、来店されてから伺ってみないと分かりません」
「三人目は宝石商の人か。前にもリリアを希望してたよね」
「はい」
「三件ともリリアか……」
エルナの声から、先ほどまでの軽さが少し消えた。
リリアはその変化に気づいたが、すぐには何も言わなかった。
指名制度が始まってから、リリアを希望する客は少しずつ増えている。
初めてClub Moon Dropを訪れた客は、緊張を和らげてくれるリリアの穏やかな接客を好むことが多かった。
相手の話を急かさず、必要以上に踏み込まない。
客がどのように過ごしたいのかを丁寧に聞き、落ち着いた時間を作る。
それはリリアが営業を重ねる中で身につけた接客であり、彼女自身の優しさとも合っていた。
リリアの予約が増えたからといって、ほかのキャストの仕事がなくなるわけではない。
Club Moon Dropへ来店する客そのものが増えており、エルナやセレナ、ミーナを希望する者も少しずつ増えている。
それでも、同じ日の予約欄へ一人の名前だけが続けば、気にならないはずはなかった。
「私は、今日は予約のない時間が多いです」
ミーナが小さく言った。
「私も最初は空いてる」
エルナが答える。
「予約なしで来るお客さんもいるから、何もすることがないわけじゃないけどね」
「はい」
リリアは二人の顔を見た。
「もし私の担当が予定より長くなった時は、お客様へのご挨拶や、お飲み物の確認をお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「分かりました」
二人はすぐに頷いた。
だが、リリアの胸には、小さな重さが残った。
自分を希望してくれることは嬉しい。
以前に話した客が、もう一度会いたいと思ってくれたことも嬉しかった。
それなのに、予約帳へ自分の名前が並んでいるのを見ると、喜びだけでは済まなくなっている。
すべての客を満足させられるのか。
待たせた客を不快にさせないか。
ほかのキャストと比べられることで、仲間へ余計な思いを抱かせてしまわないか。
考えるほど、何をすれば正しいのか分からなくなる。
「リリア」
声をかけられ、振り向く。
レンが少し離れたところから、予約帳を見ていた。
「準備が終わったら、少し話せる?」
「はい」
リリアは返事をし、予約帳を閉じた。
◇
夜営業が始まる前、リリアは店の奥にある小さな休憩場所でレンと向かい合っていた。
「予約を見て、不安になった?」
レンは遠回しに尋ねなかった。
リリアは一瞬迷ったが、正直に頷いた。
「少しだけ」
「予約が多いことが?」
「希望していただけることは嬉しいです」
リリアは膝の上で両手を重ねた。
「でも、お待たせしたり、時間が足りなくなったりして、期待に応えられなかったらと思うと……」
「全員の期待へ、すべて応えることはできないよ」
レンの答えは早かった。
リリアが少し驚いて顔を上げる。
「できないのですか?」
「うん」
レンは穏やかに続けた。
「どれだけ丁寧に接客しても、もっと長く話したいと思う人はいる。自分だけを担当してほしいと思う人もいる。予約をしていなくても、すぐ席についてほしいと言われることもあると思う」
「でも、お客様に満足していただくのが、私たちの仕事ではないのでしょうか」
「満足してもらうために努力するのは仕事だよ。でも、相手の望みを全部かなえることが仕事じゃない」
「全部ではない……」
「リリアが一人しかいないのに、同じ時間に何人もの客を担当することはできない。後から来た人を優先するために先約を断れば、先に予約してくれた人との約束を破ることになる」
「はい」
「一人の客だけを満足させるために、ほかの客や仲間へ無理をさせる店にはしたくない」
レンの言葉を聞き、リリアはゆっくりと息を吐いた。
「それでも、断れば嫌われるかもしれません」
「そうだね」
レンは否定しなかった。
「別の店へ行く人もいるかもしれない。対応が悪かったと、ほかの客へ話す人もいると思う」
「それで、よいのでしょうか」
「よいとは言わないよ。来てもらえなくなれば寂しいし、店にとっても痛い」
レンは一度言葉を切った。
「でも、店の約束を曲げなければ残ってくれない客を、どこまで追いかけるのかは考えないといけない」
リリアは視線を落とした。
「リリアを希望する人が増えたのは、リリアが頑張ってきた結果だよ」
「私一人の力ではありません」
「もちろん。料理や酒があって、黒服が安全を守って、ほかのキャストが店の空気を作っている。その中で、リリアの接客を好きになった人がいる」
レンは少し笑った。
「だからこそ、リリア一人だけへ頼る店にはしない」
「私が、皆さんの仕事を奪っているのでしょうか」
「逆だよ」
レンの声が少し強くなった。
「リリアを目的に来た人が、エルナやミーナやセレナの良さを知ることもある。前にファビオがエルナと話した時みたいにね」
「エルナとの時間も、楽しんでいらっしゃいました」
「リリアが無理に担当を続けていたら、ファビオはエルナと話す機会がなかったかもしれない」
その言葉に、リリアは顔を上げた。
「交代することも、悪いことではないのですね」
「誰でもいいから代わる、では駄目だけどね」
レンは笑った。
「その人がどう過ごしたいのかを聞いて、合いそうなキャストを案内する。それも接客だよ」
「分かりました」
「それと、困るような要求をされた時は、一人で背負わないで」
「困るような要求ですか?」
「店の決まりを変えてほしいとか、ほかの客との約束を取り消してほしいとか」
レンは立ち上がった。
「判断に迷ったら、ロイでもディーノでも俺でも呼んで。リリア一人が客の機嫌も売上も背負う必要はないから」
「はい」
リリアも立ち上がる。
不安がすべて消えたわけではない。
それでも、すべての客へ応えられないことは、自分の努力が足りないからではない。
そう考えられるだけで、胸にあった重さは少し軽くなっていた。
◇
夜営業が始まり、最初の予約客が来店した。
革製品を扱う商人の名は、ヘンリックという。
四十歳ほどの穏やかな男性で、以前は妻へ贈る手袋についてリリアへ相談していた。
「本日もお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、時間を取ってくれて助かる」
リリアが席へ案内すると、ヘンリックは小さな革片を卓へ置いた。
深い青色に染められた、柔らかな革だった。
「以前相談した手袋と同じ革だ」
「奥様への贈り物ですね」
「ああ。完成した手袋は、もう妻へ渡した」
「お喜びになりましたか?」
「驚いた顔をしていたよ。普段なら茶色か黒を選ぶ私が、青を選ぶとは思わなかったらしい」
ヘンリックは少し照れくさそうに笑った。
「君に相談しなければ、また自分の好みだけで決めていただろう」
「私は、奥様がお好きな花について伺っただけです。色を選ばれたのはヘンリック様です」
「そう言うと思った」
ヘンリックは果実酒へ口をつけた。
その後も妻との暮らしや、最近増えた注文について穏やかに話し続けた。
予定していた担当時間が近づいたところで、リリアは卓上の小さな時計へ目を向ける。
次の予約まで、残りは僅かだった。
しかしヘンリックは、新しく雇った職人について話し始めたところだった。
「若いが腕はいい。だが、失敗を隠そうとする癖があってな」
「失敗を伝えると、叱られると思っているのでしょうか」
「以前の工房では、革を一枚駄目にすれば、その日の賃金を引かれていたらしい」
大切な話だ。
途中で打ち切りたくはない。
だが、次の予約客を待たせるわけにもいかない。
リリアは迷った末、正直に伝えることにした。
「ヘンリック様。もう少し詳しく伺いたいのですが、間もなく次にご予約くださったお客様がお見えになります」
「ああ、もうそんな時間か」
「この後、別のキャストがお席をご一緒することもできます。それとも、お話の続きは次回にいたしましょうか」
ヘンリックは一瞬だけ残念そうな顔をした。
「できれば、もう少し君に聞いてほしかったが……先約があるなら仕方がない」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
「次に来た時、この話を覚えているか?」
「はい。若い職人の方が、失敗を隠してしまうことについてですね」
リリアが答えると、ヘンリックは満足そうに頷いた。
「なら、今日はここまでにしよう。妻も、また相談するなら同じ娘にしろと言っていた」
「奥様にも、よろしくお伝えください」
リリアは席を立ち、ロイへ会計を頼んだ。
話を途中で終わらせたような後ろめたさは残っている。
それでもヘンリックは怒らず、次も続きを話すと言ってくれた。
すべての客が同じように受け入れてくれるとは限らない。
それでも、約束を守るために必要なことだった。
ヘンリックを見送った直後、入口の鈴が鳴った。
訪れたのはファビオだった。
「お待ちしておりました」
ロイが仮会員証を受け取り、本人の顔と番号を確認する。
今回は照合石を使う必要もなかった。
「前回と同じ酒はあるか?」
「ございます」
「それと、リリア殿をお願いしたい」
「ご予約を確認しております。すぐにご案内いたします」
ロイはリリアへ目を向けた。
リリアは呼吸を整え、ファビオの前へ進む。
「本日もお越しいただき、ありがとうございます」
「前回の続きを問いただしに来たわけではない」
「はい」
「酒を飲みに来た」
「承知しております」
リリアが柔らかく笑うと、ファビオは僅かに眉を寄せた。
「なぜ笑う?」
「ファビオ様ご自身から、そうお伝えくださったことが嬉しかったからです」
「妙なところを喜ぶな」
そう言いながらも、ファビオの声は以前より柔らかかった。
リリアは前回と同じ卓へ案内する。
すぐにディーノが、香りの強い酒と水を運んできた。
「これだ」
ファビオは杯へ口をつけ、僅かに息を吐いた。
「宿へ戻ってからも、この香りを思い出した」
「それほど気に入ってくださったのですね」
「王都へ送った報告書には書いていないがな」
「報告書は、もう送られたのですか?」
「ああ。王都へ戻る使者へ預けた」
ファビオは再び酒を飲んだ。
「前回の話も記した」
「私とのお話もですか?」
リリアの表情に僅かな緊張が浮かぶ。
「名前や細かな言葉までは書いていない」
ファビオはそれに気づいたようだった。
「この店では、身分より本人の希望を優先し、客の会話を必要以上に記録しない方針である、と記した」
「そうでしたか」
「不満か?」
「いいえ。店の仕組みについて尋ねられたことは承知しております」
「だが、私が何を報告するかまでは分からない」
「はい」
「怖くはないのか?」
リリアは少し考えた。
「全く怖くないとは言えません」
「正直だな」
「ただ、ファビオ様が王宮へ報告されることを、私が止めることはできません」
「では、話す内容を変える?」
「お伝えしてはいけないことは、最初からお話しいたしません」
「それ以外は?」
「普段どおりお話しいたします」
ファビオは杯を見つめた。
「君は、私を信用しているのか、していないのか分からないな」
「まだ、すべてを知っているわけではございませんから」
「前回より慎重になった」
「学びました」
「誰から?」
「ファビオ様からです」
ファビオは一瞬言葉を失い、それから小さく笑った。
「なるほど。私も客として役に立ったらしい」
「はい」
「それは褒めているのか?」
「もちろんです」
その後は王都の制度についてではなく、ルミナスで見つけた書店や、ファビオが好む古い紀行文の話になった。
「公的な文書には、必要な事実だけが残る」
ファビオは酒の入った杯を指先で揺らした。
「だが紀行文には、宿の寝台や名物料理の感想まで残っている。その方が、書いた者の見た町が想像しやすい」
「それなら、ファビオ様の報告書にも、感じたことを書かれるのですか?」
「書かない」
即答だった。
「書かないのですか?」
「王宮文書官の報告書に、酒が気に入ったなどと書けるものか」
リリアは思わず笑ってしまった。
「何がおかしい?」
「本日は酒を飲みに来たと、最初におっしゃった理由が分かりました」
「それ以上は言うな」
「はい」
ファビオも僅かに笑っている。
前回は心の中だけで認めていた来店理由を、今回は自分の言葉で伝えている。
王宮文書官としてではなく、一人の客として過ごすことを、少しずつ受け入れ始めているのかもしれない。
やがてファビオへ伝えていた担当時間も終わりに近づいた。
「間もなく、次のお客様がお見えになる時間です」
リリアが伝える。
「今日は早めに言うのだな」
「前回は、お話の途中になってしまいましたので」
「私が不満を言うと思ったか?」
「そうなる前にお伝えした方が、落ち着いて残りのお時間を過ごしていただけると思いました」
「正しい判断だ」
ファビオは残っていた酒を飲み切った。
「酒も飲み終えた。今日はここまでで構わない」
「ありがとうございます」
「次も同じ酒を頼む」
「承知いたしました」
「リリア殿を希望する場合は、早めに予約した方がよいらしいな」
「ご希望の日がお決まりでしたら、その方が確実です」
「分かった。次の予定を確認してから連絡する」
ファビオは立ち上がった。
リリアは入口まで見送り、頭を下げる。
「またのお越しをお待ちしております」
ファビオが店を出ると、入れ替わるように次の予約客が入ってきた。
宝石商のヨハンだった。
ロイが会員証を確認し、リリアが挨拶する。
「お待ちしておりました」
「ああ」
ヨハンは返事をしたが、その表情はどこか不満そうだった。
「何かございましたか?」
「今出ていった男も、君を希望していたのか?」
「はい。ご予約をいただいておりました」
「最近、君を希望する客が増えていると聞いた」
「ありがたいことに、ご希望くださる方が増えております」
「私も早く予約しておいて正解だったというわけか」
リリアは微笑み、ヨハンを席へ案内した。
だが、席についてからもヨハンの機嫌は戻らなかった。
「本日は、何をお飲みになりますか?」
「前と同じものでいい」
「承知いたしました」
注文を伝えようとした時、ヨハンが呼び止める。
「今日は、私が帰るまで君が担当するのだろうな」
「ご予約の際にお伝えした時間までは、私がお席をご一緒いたします」
「その後は?」
「次にご予約いただいているお客様のお席へ参ります。ヨハン様が引き続き滞在される場合は、別のキャストをご案内いたします」
ヨハンは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「私は、この店へ何度も来ている」
「ありがとうございます」
「酒も料理も、少なくない額を使っている」
「はい」
「それでも、後から来た客と同じなのか?」
リリアは言葉を選んだ。
「初めてのお客様には、初めての方に必要なご説明をいたします。ヨハン様には、これまでのお好みや過ごし方を踏まえて対応しております」
「そういう意味ではない」
ヨハンは卓を指先で軽く叩いた。
「長く通い、多く金を使う客なら、もう少し融通を利かせてもよいだろう」
「どのようなご希望でしょうか」
「次からは、私が来る日には同じ時間を空けておいてほしい」
「来店日がお決まりでしたら、ご予約をお取りできます」
「毎回、先に連絡しなければならないのか?」
「はい。ほかのお客様とのご予約を確認する必要がございますので」
「私が来るかもしれない日は、空けておけばいい」
リリアは僅かに息を止めた。
「来店されるか分からない時間を、ほかのお客様へご案内しないということでしょうか」
「そうだ。毎日とは言わない。少なくとも、普段私が来るこの時間は空けておけ」
「恐れ入りますが、そのような形で時間を確保することはできません」
ヨハンの目が細くなる。
「私を断るのか?」
「ご来店される日がお決まりでしたら、その日の予約をお受けいたします」
「ほかの店なら、人気のある接客係でも、私が行くと言えば予定を調整する」
「Club Moon Dropでは、先にいただいたご予約をもとにお時間をお取りしております」
「予約が取りにくいほど希望されているなら、今は君が一番人気なのだろう」
突然の言葉に、リリアは瞬いた。
「一番人気……でございますか?」
「違うのか?」
「私は、ほかのキャストの予約数を詳しく知りません」
「店は教えないのか?」
「はい」
「競わせた方が、もっと客へ尽くすようになる」
リリアは、胸の奥が僅かに冷えるのを感じた。
ヨハンに悪意があるとは限らない。
客へ尽くすほど高く評価されることが、よい接客だと考えているのかもしれない。
それでも、誰が一番で、誰が下なのかを決めるために働いているわけではなかった。
「私たちは、それぞれ異なる接客をしております」
「きれいごとだな」
「そのように聞こえるかもしれません」
「私が君を一番だと言っているのだ。喜べばいい」
「希望していただけることは、とても嬉しく思っております」
リリアは丁寧に答えた。
「ですが、そのために、ほかの方とのお約束を変えることはできません」
「なら、私が別の店へ行っても構わないのか?」
リリアの胸が苦しくなる。
ここで断れば、ヨハンは本当に来なくなるかもしれない。
自分の対応が悪かったと周囲へ話すかもしれない。
店の売上を失わせることになるかもしれない。
分かっていたはずなのに、実際に客を前にすると、すぐに答えが出てこなかった。
「リリア」
少し離れた場所から、落ち着いた声が届いた。
ロイだった。
料理を運び終えた後、ヨハンの声が僅かに大きくなったことへ気づき、卓から距離を置いて様子を見ていたのだ。
リリアが振り向くと、ロイは小さく頷いた。
一人で背負う必要はない。
その合図だと分かった。
「ご予約について、私からもご説明してよろしいでしょうか」
ロイが卓の近くへ進む。
「呼んでいない」
「はい。ですが、店の決まりに関するお話ですので、黒服として確認させていただきます」
ロイはヨハンを威圧しない距離で立った。
「当店では、ご利用金額によって予約の順番を変更しておりません」
「商売が分かっていないな」
「そう思われることは承知しております」
「私が来なくなれば、困るのは店だぞ」
「来店いただけなくなることは残念です」
ロイは静かに答えた。
「しかし、ほかのお客様の予約を取り消したり、ご来店されるか分からない時間を継続して確保したりすることはできません」
「では、この娘の対応が悪かったと店主へ伝えても同じか?」
リリアの肩が僅かに揺れる。
「ご意見は伺います」
ロイは表情を変えなかった。
「ただし、店の決まりを守ったことを理由に、リリアだけの責任とすることはございません」
「金を払っている客より、働いている者の都合を優先するのか?」
「従業員を守ることと、お客様を粗末に扱うことは同じではありません」
ヨハンはロイを睨むように見た。
その時、少し離れた卓から話し声が途切れた。
大声ではなかったものの、周囲の客もこちらの様子に気づき始めている。
ヨハンはその視線を感じたのか、卓を叩いていた指を止めた。
宝石商として、周囲の目を気にしたのかもしれない。
自分が店で特別扱いを求めている姿を、ほかの商人や客に見られることは望んでいないようだった。
ヨハンは一度だけ店内を見回し、僅かに姿勢を正した。
卓の上へ運ばれてきた酒から、甘い香りが漂っている。
入口付近では、ディーノが会員証の確認を続けながらも、すぐ動けるよう周囲へ注意を向けていた。
リリア一人が対応しているわけではない。
そのことに気づき、強張っていた指先から力が抜けた。
「ヨハン様」
リリアが改めて声をかける。
「本日、あらかじめお取りした時間は、私がお席をご一緒いたします。その間は、ヨハン様がどのように過ごされたいのかを伺い、できる限りお応えいたします」
「その後は?」
「次のお客様とのお約束があれば、別のキャストへ交代いたします」
「私より、その客を選ぶのか」
「どちらか一人を選ぶのではございません」
リリアはヨハンの目を見た。
「ヨハン様とのお約束も、次のお客様とのお約束も、どちらも守りたいのです」
ヨハンはすぐには答えなかった。
やがて椅子へ深く座り直す。
「……今日は、予約した時間までいる」
「ありがとうございます」
「次のことは、後で考える」
「承知いたしました」
ロイは一礼し、すぐには離れず、少し離れた場所で別の卓の様子を確認し始めた。
ヨハンは酒を一口飲む。
「前より甘く感じる」
「本日も同じ酒ですが、別のものへお替えしましょうか?」
「いや。今日はこれでいい」
声にはまだ不満が残っていた。
それでも、それ以上リリアへ優先を求めることはなかった。
リリアは無理に場を明るくしようとせず、ヨハンが話し始めるのを待った。
しばらくして、ヨハンが口を開く。
「王都から、大きな宝石商が来る」
「お取引のお相手ですか?」
「今のところは競争相手だ」
ヨハンは杯を見つめた。
「私より大きな店を持ち、珍しい宝石も扱っている。ルミナスの貴族や富裕層を奪われるかもしれない」
そこでリリアは、ヨハンが自分を優先させようとした理由を、少しだけ理解した気がした。
ほかの客より優先されれば、自分は大切な客だと確かめられる。
王都から来る大商人にも、まだ負けていないと思えるのかもしれない。
「それほど大きな相手なのですね」
「商人が競争相手を警戒するのは当然だ」
「はい」
リリアは謝らなかった。
「ヨハン様のお店にも、影響が出るかもしれないのですね」
ヨハンは返事をせず、杯へ目を落とした。
「……不安なのかもしれない」
やがて、小さな声でそう言った。
リリアは何も急いで言わなかった。
ヨハンは、王都から来る商人の規模や、取引先を奪われる可能性について話し始めた。
先ほどまでの圧力は消え、代わりに、一人の商人が抱える恐れが言葉になっていく。
リリアは最後まで静かに耳を傾けた。
あらかじめ伝えていた時間が終わる頃、リリアは卓上の時計を確認した。
「間もなく、次のお客様がお見えになる時間です」
「ああ」
ヨハンは先ほどとは違い、それ以上食い下がらなかった。
「この後は、エルナがお席をご一緒できます。明るくお話しすることを得意としております」
「今日は帰る」
「承知いたしました」
ヨハンは立ち上がり、会計を済ませた。
入口へ向かう前に、一度だけリリアを振り返る。
「私は、今日の対応に納得したわけではない」
「はい」
「だが、話したことを後悔もしていない」
「お話しくださり、ありがとうございました」
「次に来るかは、まだ決めていない」
「またお越しになる時は、お待ちしております」
ヨハンはそれ以上何も言わず、店を出た。
扉が閉まった後、リリアは長く息を吐いた。
「大丈夫か?」
ロイが近づいてくる。
「はい。助けてくださって、ありがとうございました」
「リリアが間違った説明をしていたわけじゃない。ただ、店の決まりまで一人で背負う必要はない」
「分かっていたつもりでした」
「実際に、来なくなると言われると迷うよな」
「はい」
正直に答えると、ロイは小さく頷いた。
「次も同じようなことがあれば呼んでくれ」
「ありがとうございます」
その後、リリアは別の客の席へ移り、残りの営業を続けた。
◇
夜営業の終わりが近づき、エルナが担当していた客を入口まで見送った。
客が店を出た後、エルナはリリアのそばへ近づいてきた。
「さっきの人、大丈夫だった?」
「はい。ロイが来てくださいました」
「私、途中で代わった方がいいのかなって思ってた」
「気づいていたのですか?」
「声が少し聞こえたから」
エルナは不満そうに入口を見た。
「リリアを一番って言うのは勝手だけど、だからって全部思いどおりにできるわけじゃないよね」
「でも、ヨハン様はお仕事のことで不安を抱えていらっしゃいました」
「だからリリアを困らせていいの?」
「それは違います」
今度は迷わず答えた。
エルナは少し安心したように頷く。
「リリアは優しいから、相手に事情があると、自分が我慢しそうなんだよ」
「気をつけます」
「本当に?」
「はい」
リリアは少し笑った。
「それに、エルナが気にかけてくださっていることも分かりました」
「それは、いつも見てるから」
エルナは答えた後、少し視線を逸らした。
「でも、やっぱりリリアを希望する人、多いよね」
リリアはすぐには答えなかった。
「エルナは、予約帳をご覧になった時から気にしていましたか?」
「少しだけ」
エルナは素直に認めた。
「前に、リリアと比べて悩む必要はないってデュークに言われたのにね」
「比べてしまうことは、悪いことではないと思います」
「リリアも比べるの?」
「はい」
エルナが驚いたように見る。
「私を希望してくださる方が増えるほど、ほかの皆さんより上でなければならないような気がしていました」
「上って……」
「でも、誰かより上になることと、お客様に喜んでいただくことは、同じではないのだと思います」
リリアはエルナの目を見る。
「ファビオ様も、前回エルナがお勧めした酒を、今日もう一度飲みに来られました」
「私が選んだ酒?」
「はい」
「そっか」
エルナの声が、少しだけ明るくなる。
「私を希望してくださった方が、いつも私だけを望んでいるとは限りません。静かに話したい時は私を選び、明るく過ごしたい時はエルナを選ぶ方もいらっしゃると思います」
「じゃあ、リリアより上になる必要もない?」
「私も、エルナより上になる必要はありません」
二人はしばらく見つめ合った。
やがてエルナが吹き出す。
「私たち、同じことで違う悩み方をしてたんだね」
「そうかもしれません」
「でも、少し楽になった」
「私もです」
二人は並んで、空いた杯を集め始めた。
◇
営業を終えた後、レンは従業員たちを客席へ集めた。
リリアがヨハンから求められた内容は、店の運営に関わる問題として共有された。
ただし、ヨハンが王都の宝石商へ不安を抱えていることまでは話さない。
それはリリアへ話された個人的な内容だった。
「今後も、特定のキャストを優先するよう求める客は出てくると思う」
レンが皆を見回す。
「ほかの客との約束を取り消す。来店するか分からない時間を空けておく。そういう要求は受けない」
「利用金額が多い方でもですか?」
ミーナが尋ねた。
「金額では変えない」
「よく酒を飲み、何本も店へ預けてくださる方が、来なくなるかもしれません」
「ああ」
レンは頷いた。
「それでも変えない。ただし、断るだけでは終わらせない。空いている時間を案内する。ほかのキャストを提案する。別の日の予約を受ける。店としてできることは探す」
客の機嫌を損ねないために、働く者が限界を越える店だけは作らない。
前世で、自分自身が断れないまま酒を飲み続けた記憶を持つレンにとって、それは譲れない一線だった。
「指名数については、どうしますか?」
ノアが尋ねた。
「順位にはしない」
レンは迷わず答えた。
「ただ、予約が一人へ集中していないか、負担が増えていないかは確認したい」
「では、予約数は勤務調整のために記録します。ほかのキャストと比べるための順位表にはいたしません」
「お願いする」
ノアは手帳へ書き加えた。
「リリアさんを希望した方へ、ほかのキャストも案内していくのですか?」
ディーノが尋ねる。
「無理に代えさせることはしない」
レンはエルナたちへ視線を向けた。
「リリアがいないから仕方なく別のキャストを案内するんじゃない。その客がどんな時間を過ごしたいのかを聞いて、合いそうな人を提案する」
「それぞれ違う接客だからですね」
セレナが言った。
「うん」
レンは頷いた。
「誰か一人がNo.1になる店にするつもりはない」
全員が静かに耳を傾ける。
「静かに話を聞いてほしい日もあれば、明るく笑いたい日もある。考えを整理したい時もあれば、率直な言葉をもらいたい時もある」
レンは予約帳へ目を向けた。
「その時々で、合うキャストは変わる。店が増やしたいのは順位じゃなくて、客が選べる時間の種類だ」
「特定のキャストだけを希望する方がいることは、悪くないのですよね」
リリアが尋ねる。
「もちろん。希望できる時は、できる限り応える」
「できない時は?」
「できないと、正直に伝える」
レンは迷わず答えた。
「そのことで圧力をかけられたら、黒服か俺が対応する。キャスト一人に、店の売上も客の機嫌も背負わせない」
リリアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
ヨハンへ断りを伝えた時、自分の返事一つで店の客を失うかもしれないと思った。
だが、それはリリア一人の責任ではない。
店の決まりは、皆で守るものだった。
「リリア」
レンが呼ぶ。
「はい」
「今日は大変だったと思う」
「ロイが来てくださいましたので、大丈夫でした」
「次も呼んでいいからね」
「はい」
「予約が多いからといって、全部一人で完璧にやろうとしなくていい」
「できないことは、できないとお伝えします」
今度は迷わず答えた。
「うん。それでいい」
話し合いを終え、皆が片付けへ戻っていく。
リリアも空いた杯を集めようと立ち上がった。
その隣へエルナが並ぶ。
「明日は、最初の時間が空いてるんだよね」
「はい」
「リリアを希望して来た人が、私じゃ嫌だって言うかもしれない」
「そうおっしゃる方もいらっしゃると思います」
「そこは否定してくれないんだ」
「でも、エルナと話したことで、次もエルナを希望したいと思う方もいらっしゃると思います」
エルナは一瞬黙り、それから笑った。
「じゃあ、そう思っておく」
「はい」
二人は並んで、厨房へ空いた杯を運んだ。
リリアの予約が増えたからといって、ほかのキャストの価値が減るわけではない。
客から集めた期待を、一人で抱える必要もない。
Club Moon Dropは、誰か一人の人気によって完成する店ではなかった。
一つずつ、できることを行う。
できない時は正直に伝え、必要なら仲間へつなぐ。
それもまた、客を大切にする接客なのだ。
片付けを終えたリリアは、翌日の予約帳を開いた。
自分の名前だけではない。
ミーナの名前。
セレナの名前。
そして、まだ誰の名も記されていない時間もある。
リリアは予約帳を閉じ、隣で片付けを続けるエルナへ目を向けた。
誰かの代わりではない接客が、明日もこの店で始まる。
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