#6 安心感
トモの足取りは、現実を這うように重苦しい。
その後ろを、ピマは弾むような軽やかさで付いていく。
勢い余って背中を追い越しそうになり、おっとっと、と慌てて歩調を緩めていた。
煤けた木造の建物の前で、トモは足を止めた。 入り口のドアの上には、ひどく歪んだ文字で何かが書かれた木製の看板が掲げられている。トモにはその文字が読めない。
この世界の文字は、彼にとってただの不規則な線の羅列に過ぎなかった。
トモの視線に気づいたピマが、小首をかしげて看板を見上げた。
「トカゲの尻尾亭?」
「そう、あれが今晩の宿だ」
トモは表情を変えずに応じる。
ピマはふむ、と自分の顎に人差し指を当て、少し申し訳なさそうな目をトモに向けた。
「うん。でもそっか、僕が泊まるならお金がかかるかな。」
ピマの心配に対して、トモの口元にはわずかな勝算があった。
「それは心配ない。お得に済ませるとしよう」
ドアを開けると、油の匂いが鼻腔を突いた。 カウンターの奥には、宿屋の主人が不機嫌そうに帳簿を眺めている。
トモたちの足音に気づいた主人は、顔を上げるなり、隣に立つピマへと品定めするような視線を走らせた。主人はガタリと椅子を鳴らして身を乗り出してきた。
「おい。2人なら料金はきっちり倍だぞ」
この世界の相場などトモには正確に分からないが、この手の人間が「正当な要求」をするときの顔ではないことくらいは、これまでの経験からも容易に察しがつく。
トモはカウンターへ歩み寄り、冷ややかな視線を主人に固定する。
「2人分の料金なら昨日払っているはずだが?」
主人の顔が、あからさまに不快げに歪んだ。
「そんなはずないだろ、おい。あんまり舐めたことを言うと、衛兵に突き出すぞ。お前みたいな身元の怪しい余所者、一発で牢屋行きだ」
この主人は一泊銅貨2枚のところを7枚と、かなりの額をくすねている。お釣りの時に何も言われなかったら、それでよしという考えなのだろう。身元不明のトモが衛兵を恐れて引き下がる、と踏んでの脅しだった。
二人の間に漂う険悪な空気を破ったのは、奥の厨房からやってきたジーナだった。手には分厚い宿の台帳を抱えている。
「ちょっと、父さん! また今月の仕入れの計算が合わないんだけど。勝手に売り上げから酒代抜いたでしょう!」
ジーナはトモたちの存在に気づくと、文句を言うのを一旦止め、眉をひそめてこちらを交互に見つめた。
「なによ、なんの騒ぎ?」
ジーナは日頃から宿の勘定をきっちり管理しているのだろう。父親の金癖の悪さに目を光らせているのもいつものことなのかもしれない。
「君には、飯代を払わないとな」
ジーナは呆れたように息を吐き、腰に手を当てた。
「なーんだ、そんなこと。あれは私の賄いをあんたに分けただけだから、お金はいらないわよ」
「そうか、なら今日からの飯代だな」
トモがそう言い切ると、ジーナは少し面食らったように瞬きをし、それからフンと鼻を鳴らした。
「そ。また明日の朝から、あんたのその辛気臭い顔を見るのはごめんよ」
「今朝の飯、美味かった。ありがとう」
「な、何よ気持ち悪い……急にそんな素直なこと言って」
ジーナは頬を染め、気まずさを誤魔化すように、トモの隣に佇むピマへと視線を向けた。
「気持ち悪いついでに、そちらのお嬢さんは? あんたの雰囲気に全然似合ってない、可愛い子だけど」
ピマは待ってましたとばかりに、一歩前に出て完璧な笑顔を作った。
「私はピマ、トモの従者だよ!よろしくね!」
「従者ぁ?」
「そう!トモは私のご主人様だよ」
ジーナは怪訝そうに目を細め、再びトモを睨みつける。
「どんな関係かは知らないしどうでもいいわ。でもこの宿は慈善事業じゃないのよ、払うもんはきっちりいただかないと、ご飯どころか泊めたりしないわ」
その言葉を、トモは待っていた。
勘定に厳しいジーナと、後ろ暗い父親。この宿の権力バランスが完全に娘にあるなら、勝算は大いにある。
「ちょうどその話をしていたんだ」
トモはゆっくりと主人へ視線を戻し、皮肉に満ちた声を響かせた。
「ここの主人は素晴らしいな? 昨日部屋をとる時に、前もって俺の連れが1人増えることを見越して、余分に料金を受け取ってくれていたらしい。まさに、先見の明ってやつだ」
主人の顔から、一瞬で血の気が引いた。
昨日自分がトモから金を騙し取ったことが、ジーナの目の前で「先見の明による前払い」という名目にすり替えられた。
ジーナの目にはまたやらかした父親とその客という構図になっているだろう。
ここで「そんな金は受け取っていない」と言えば、昨日トモを騙したことがジーナにバレて、ただでさえ怪しい自分の立場が完全に終わる。
主人は自ら逃げ道を塞がれた。
ジーナの視線が、一気に冷徹なものへと変わり、父親を突き刺す。
「……父さん、またやったの?」
「っ……」
主人は額に汗を浮かべ、トモの乾いた笑みとジーナの冷ややかな目の板挟みになり、最後にはがっくりと肩を落とした。
前科あるのかよ。
娘のその目はダメージが大きそうだ。
「……わかった、降参だ。悪かったよ。ほら、晩飯もできてる。食っていってくれ」
食堂の片隅の席に着くと、すぐにジーナがスープとパンを運んできた。ジーナが厨房に戻るのを見届けてから、ピマが身を乗り出して小声で尋ねてくる。
「トモ、お金大丈夫だったの?」
「あぁ、昨日くすねられてたからな。ちょうどよかったんだ」
トモはスープをスプーンですくい、淡々と口に運ぶ。 酸味の奥からピリッと広がる、確かなスパイスの刺激。
「んん!美味しいねこのスープ!胡椒が入ってるんだね、もしかしてここの料理高い?」
「1日で飯代が銅貨3枚らしい」
「そーなの!?」
ピマはスプーンを持ったまま硬直した。
「スープに、胡椒までついてたったの銅貨3枚!? 昔なら、胡椒をひと振りするだけで銀貨が必要だったのに……いい時代になったんだねぇ」
「やはりピマの記憶は、だいぶ昔のものみたいだな」
トモがスープの皿を見つめたまま呟くと、ピマは少しシュンとしたように肩をすくめた。
「ごめんね、今のところ全然役に立ってないや」
「役立っている」
「え?」
ピマが意外そうに目を丸くする。トモはスプーンを置き、まっすぐにピマを見据えた。
「役に立っていると言ってるんだ。そもそも俺には文字が読めない。この店の名前も、さっきピマが読んでくれたからわかったようなものだ。これは大きい」
現状、文字が読めないことこそが最大の不利益だった。ピマが「翻訳」してくれるのであれば、選択肢は広がる。
「次に、ここのオヤジに対する印象も今のところ悪くない。お前が『従者』を名乗ってくれたおかげで、俺のことは相応の身分がある上客と思っているだろう。あの手の人間は、格上だと思った相手には滅法弱いからな」
ピマは驚いたようにパチパチと瞬きをし、それから嬉しそうに目を細めた。
「なるほど、トモって頭いいんだね」
「残念ながらそれも違う。たまたま状況が噛み合っただけ、というのが正直なところさ」
「そうは見えなかったけど……でも、なんとなくわかったよ」
ピマのその全肯定に、トモはふと、胸の奥が妙に落ち着かない感覚を覚えた。彼女は自分の都合のいいように動き、自分の言葉を疑わない。それはあまりにも完璧な、理解者のように感じたからだ。
だからこそ、あえて最大の秘密を口にすることにした。この完璧な全肯定が、自分の歪みをどこまで許容するのかを試すように。
「あぁ、最初に言っておくことがある。俺は、この世界の人間じゃない」
静かな告白だった。 だが、ピマの反応は予想を超えていた。
「そうなの?」
ピマはまるで「明日の天気は晴れなの?」とでも聞くような軽さで、小首をかしげただけだった。トモはわずかに眉を動かす。
「意外だな。もっと驚くことかと思ったが」
「驚いてるよ」
ピマはクスリと笑った。その笑顔には、一切の拒絶も恐怖もない。
「でも納得した気もするし……それに、ここで大袈裟に驚いたら、トモ困っちゃうでしょ?」
トモの言葉が詰まる。
その通りだ。
他の宿泊者が同じ部屋で食事をしている。
そこで大それた反応をされたら、対応に困るのは目に見えている。
ピマの目は、トモの胸の奥にある「傷つきたくない」「拒絶されたくない」という臆病な本心を、完全に透かしているようだった。
その都合の良さは、心地よくもあり、同時に底知れない恐ろしさをも孕んでいる。
トモはそれ以上追及することをやめ、椅子を引いて立ち上がった。
「……部屋に戻ろう。こっちだ」
ギチギチと鳴る狭い階段を上がり、あてがわれた簡素な部屋に戻ると、トモは即座に思考を「次なる作戦」へと切り替えた。
「さて、今後についてだが……まずは安定した生活を送ることが先決だ。ここで寝泊まりするなら長くはもたない。何か安定した収入が欲しい」
「そうだね。じゃあ、教会に行くのはどうかな」
ベッドに腰掛けたピマが、足を揺らしながら提案してくる。
「教会?」
トモの頭に、昼間に見かけたあの威圧的な教会の尖塔と、傲慢な口ぶりの僧侶の姿が浮かんだ。
「うん、教会なら困ってる人を助けてくれるかもしれないし、もしかしたら仕事を紹介してもらえるかも」
「そう簡単な話なのか?」
トモの口調には、隠しきれない警戒心が混じる。前世でも今世でも、巨大な組織が「無償の善意」で動くはずがないというのが、トモの持論だった。
「ずいぶん疑り深いんだね?」
ピマはクスクスと笑いながらトモを見つめる。
「この町じゃないけど、私の知る教会は困った人に手を差し伸べて、導いてくれる場所だったよ」
「今日その教会の僧侶と話したんだ」
トモは腕を組み,、窓の外の闇にそびえる尖塔を睨みつけた。
「なかなかに偏った思想を持っている印象だ。なんというか……胡散臭いんだよ。上の人間たちの都合のいいルールを、神の言葉として押し付けているだけのように見える」
「ふふ、トモくんは怖いのかな? それともその性格のおかげで、ここまで上手く事を運んできたとか?」
怖い。
その指摘は、またもトモの確信を突いている。人間が怖いから、社会のシステムが怖いから、だからこそ過剰に観察し、粗を探し、身を守る。
トモは自嘲気味に息を吐いた。
「そうかもな。確かに、いつか行くつもりだったんだ。それが明日になるだけの話なら、それでいい」
「じゃあ決まりだね!」
ピマの明るい声が、狭い部屋に響いた。
***
翌朝。
雲一つない青空から降り注ぐ陽光とは裏腹に、トモの思考は冷ややかに冴え渡っていた。
ルーミナスの中心部に位置する教会の前は、朝の祈りを捧げる信徒の列や、物乞いをする貧民たちの熱気でごった返している。
トモはその喧騒から少し離れた石壁に背を預け、大理石の重厚な門を見つめていた。どうやって内側に入り込み、安定した生活基盤という実利を引き出すか。
その時だった。
雑踏の空気が、一瞬でピリッと張り詰める。
「アリカ様だ」 「勇者様!!」
さざ波のような歓声が上がり、人々が自然と道をあけていく。トモはわずかに目を細め、その視線の先を追った。
──これが、勇者か。
現れたのは、栗色のロングヘアをなびかせた、一人の人間の少女。
身に纏っているのは、軽そうなのに鈍い金属光沢を放つ、頑丈そうな青い鎧。その腰には、手入れの行き届いたすらりとした細い剣を携えている。
大衆の前に立つ彼女の佇まいは、実に堂々としている。背筋をすっと伸ばし、向けられる羨望や期待の視線を真っ向から受け止めながら、毅然とした足取りで歩を進めていく。
「普通の女の子じゃないか」
「この間の演舞はとても美しかった」
「なんだってこの町に?」
「そりゃあ勇者は神が選ぶものだからな、教会に来るのは変じゃねぇよ」
周囲の野次馬たちが口々に囁き合う。「正義の象徴」として、非の打ち所のない凛とした少女だ。
「あれが噂の勇者様、か」
離れていく勇者の背中を、トモはピマと2人で静かに見送る。
「やっぱり勇者ってのは魔王かなんかと戦うのかね」
「そうだね。それは昔から変わらないみたい」
どの世界線にも共通悪は存在するのだろう。
「不憫なものだな」
ピマの返答を待たず、トモは踵を返す。
トモとピマは、自分たちの目的を果たすべく、巡礼の列に向かって歩き始めた。
安堵していた。
他の世界からやってきたのだから、何かを為さなければならない。
そんな重荷を背負わせられなかったことに。




