#5 ピーマンのレシピ2
オルソンは多く語らなかった。
「近いうちにまたどうぞ」
図書館のドアを引き、外に出ると赤土の道。
不思議なことは思った通りにはいかないらしい。
図書館を背に、トモはあえて足早に、見知らぬ赤土の道を歩いていた。
目的を果たせば、あの奇妙な存在は霧のように消滅するか、あるいはあの埃っぽい部屋に留まるものだと思っていた。
だが、現実は都合のいいようには動かない。
──ついてくる。
トモが右へ曲がれば、裾の長い白い衣がふわりと右へ翻る。トモが苛立ちに任せて歩調を速めれば、寸分の狂いもなく速度を合わせ、あの金髪の美しい「何か」が音もなく背後を維持する。
すれ違う街の住人たちが、泥だらけの赤土にはあまりにも不釣り合いな、汚れなき純白の衣を纏った彼女を、何度も驚きの表情で振り返っていた。
露骨に目立っている。
トモは周囲の視線が己にまで突き刺さるのを感じ、居心地の悪さに眉間を険しくした。
「ついてくるな。どこへでも好きなところへ行け」
トモは足を止めず、前を向いたまま顎を引き、声を低く押し殺した。
「私は従者ですので。あなた以外のどこへ行くこともありません」
その苦情は虚しく三歩後ろから、平坦な声で鈴を転がされるように返ってくる。彼女の表情には抑揚がなく、ただ唇だけが機械的に動いていた。しばらくして同じ問答を繰り返しても、状況は何も変わらなかった。
入り組んだ市場の喧騒を抜け、ひたすら上り坂を歩く。トモの薄い胸が上下し、息がわずかに荒くなり始めた頃、視界が急に開けた。
街が一望できる、人気の途絶えた高台。
眼下には、赤土の路地と雑多な布天幕が網の目のように広がるナカレ領ルーミナスの全景が見えた。
遠くには、教会のものらしき巨大な石の尖塔が、街を支配する権力の象徴のように傲然とそびえ立っている。
トモは踵を返し、ようやく彼女と正面から向き合った。
驚いたことに、これだけの坂道を歩いておきながら、彼女の白い衣には砂埃一つ付いておらず、その喉元は呼吸すら一厘も乱れていない。
やはり人間ではない。トモの背筋に冷たいものが走る。
「この街は、以前は小さな村だったのです」
彼女はトモから視線を外し、木彫りの偶像のように完璧で穏やかな横顔で、眼下の街を見つめた。
「あの図書館も、昔は村はずれにある、ただの小さな小屋でした。それがいつの間にか、人が増えて、ナボク村はこんなにも騒がしくなったのですね」
「この街は、ナカレ領ルーミナスって街らしいぞ」
「……そう、ですか」
ぽつりぽつりと語られる言葉は、どこか遠い過去を懐かしむようでありながら、奇妙な空虚さを含んでいた。
まるで、自分の名前の書かれた頁だけを破り取られた迷子のような佇まいだ。細い指先が、白い生地を所在なさげに小さく一縮みさせた。
「……だいぶ昔のことなのか?」
「わかりません。本の中にいた時のことは、あまりよく思い出せません。ただ、ここがナボク村だったことは確かにわかるのです」
彼女は首をゆっくりと巡らせ、視線をこちらに戻した。その瞳には、張り詰めた刺々しさの一切がない。
不気味に優しく、すべてを見透かすような眼差しがトモを射すくめる。
「教えてくれ。なぜ、俺を主人だと言う。俺はお前と主従の関係を結んだつもりはない。ただ、本を開いて、そこに書かれていた文字を読んだだけだ」
トモの鋭い問いに、彼女はダボついた白い服の裾を音もなく揺らし、一歩、間合いを詰めてきた。
「見つけてくださったからです」
その声に、氷が溶けるような微かな熱が混ざる。
「本の中にいるときは、何も感じないはずなのです。時間も、光も、肉体すらありません。なのに……なぜか、ずっと寂しかった。暗闇の底で、誰かが頁を開いても違う名前を呼ばれもせず、私の意識は彷徨うばかりでした。私を正しく呼んでくれる誰かを、ずっと待っていたのです」
表情は無いはずなのに、微かに伏せられた睫毛の影に、深い哀愁が滲んでいた。
「あなたが私の名前を呼んでくださったとき、暗闇の底に、灯火が灯ったように温かかった。だから私は、あなたを主人と定めました」
……頭の悪い寓話だと思っていた。あの司書の老人の顔が脳裏をよぎる。
言葉を失うトモを置いて、彼女は瞬きもせず、真っ直ぐにトモを見つめ続けている。
突き放すのは簡単だ。
だが、願ってもない話でもあった。この世界のことも、なぜ自分がここにいるのかすら未だ掴めていないのだ。
迷子か、俺と同じだ。
ただ、考え無しに行動を共にするわけにはいかない。これが善意なのも判断できないまま信じるほど、おめでたい頭はしていない。
「お前には、何ができる」
トモは目を細め、値踏みするように彼女を睨みつけた。見極めなければならない。自分にとっての利害を。
「できないことの方が少ないでしょう。必ずやお役に立つとお約束します」
大きくでたな。
小さく顎を引き、堂々と言い放つ。
「お前は、その対価に俺に何を求めるんだ」
トモの身体に自然と力がこもる。ポケットの中の数枚の銅貨を、皮膚が白くなるほど無意識に握り込んでいた。
「俺は他人を無償で優しくできるような人間じゃない。都合よく使い潰すかもしれないし、酷い扱いをするかもしれない。それでもいいのか?」
「私の存在目的は、ただあなたの成長です」
「成長?」
トモは眉をひそめた。その「成長」という乾いた響きに、何か見えない枷をはめられるような不気味な予感を覚える。
しかし彼女の瞳には、打算も、見返りへの期待も、自己犠牲の悲壮感すら微塵もなかった。ただ、無機質なほど完璧な、絶対的な従者としての宣言。
「話はわかった、だがその前に」
トモは鼻から息を抜き、肩の力を少しだけ抜いた。彼女は小首を傾げる。
「その堅苦しい話し方はどうにかならないか? 横でそう畏まられると居心地が悪い。それと、その格好もだ」
「わかりました。であれば姿も変えましょう。街に溶け込む方が都合がいいでしょうから」
淀みのない返答。トモが何を不都合とし、何を求めているのかを、彼女は正確に察知していた。
「本を開いて、目を閉じて下さい」
(私が望むのは、あなたの望むこと──)
脳裏に直接、あの音のない鈴のような声がこだまする。
トモが薄く目を開いた瞬間、目の前の景色が歪んだ。
無垢な白衣の輪郭が陽炎のように揺らめき、彼女の身体が目に見えて縮んでいく。長かった金糸の髪が、目元や耳の輪郭をなぞるようにパラパラと短く零れ落ちた。
彫刻のようだった左右対称の顔立ちは、肉的な柔らかさを帯び、肌に血色が通っていく。
ほんの数呼吸の間。そこに立っていたのは、十代半ばの、どこにでもいる人間の少女だった。
「こんな感じでどうかな? トモ」
少女は首を悪戯っぽく傾け、形の良い眉を少しだけ下げてトモを覗き込んできた。
腰まであった金髪は、初夏の風に揺れる軽やかな短髪となり、瞳は柔らかな栗色に変わっている。着ている衣服こそ白いままだが、その佇まいは、先ほどまで市場ですれ違った町娘そのものだった。
「器用なもんだな」
あまりの冷静さに自分でも驚いていた。
一瞬で姿形を、声の調子まで変えてみせるなど、魔法そのものだ。到底理解できる範疇を超えている。
だが、トモは決して驚きの表情を外に出さなかった。唇を真一文字に結び、冷徹な仮面を張り付け直す。
仮にも自分を主人と呼ぶ相手に、圧倒されて気圧される姿を見せるのは、そう、負けだ。と思ったのだ。
「今この瞬間からお前の名前は……そうだな。ピマだ」
「ピマ……うん。わかった」
少女──ピマは、今度は形の良い唇を三日月のように歪め、先程までの無機質な雰囲気とは打って変わって、満面の笑みを浮かべた。その瑞々しい笑顔に、トモは一瞬だけ視線を泳がせた。
「行くぞ、ピマ」
トモはぶっきらぼうに言い捨てて歩き出す。
ピマは弾むような足取りで、トモのすぐ隣へと並び、楽しげに歩調を合わせてきた。
疑いはもちろんあった。
類は友を呼ぶ、自分もピーマンも孤独。
ただ放って置きたくなかった。
そうする理由を途中から探していた。




