#4 ピーマンのレシピ
動かなければならない。
何かをしなければ、自分はどうなってしまうのだろう。
街並みから離れ、田舎との境といったところまで歩いてきた。
見えてきたのは、あの僧侶の女性に言われた図書館。
少し古びた外装、古民家のような佇まいの建物だった。敷地を囲む石の塀には、所々、青黒い苔が頑固に張り付いている。
ぱっとみた印象、敷居は高くない。
司書はきっと物静かなお爺さんか何かなのだろう。
勝手にそんな想像をしてしまう類の、のどかな佇まいだ。
ただ、初めて入る場所というのは、どうして何の意味もなく緊張するものだ。
薄い膜を破るような感覚で、意を決して扉に手をかける。
──ギィ、と。
建物の静寂を裂くように音が響いた。重さはない。
ただの立て付けの悪さだ。
構造の磨耗による摩擦音が、耳の奥に残る。
扉を開けると、暗い廊下の先に、もう一つ別の扉が開け放たれているのが見えた。
そこが、目的の図書室なのだと分かった。
中は、古本屋のそれに近かった。
案の定というべきか、並ぶ本や棚の角には、薄く埃が積もっている。
管理行き届いていないのか、あるいは、それだけ人の出入りがないのか。おもむろに適当な本を手に取って開いてみる。
やはり、案の定読めやしない。
幾何学模様のような、あるいはただのミミズの這い跡のような羅列。視覚情報としては認識できても、脳が意味を結ばない。
「どんな本をお探しですか」
背後からの声。
振り返ると、背の低い、眼鏡をかけた白髪の老人が立っていた。
衣服は掠れているが、その歳の割には背筋が丸まっておらず、腰が折れていない。
「世界のことがわかればと思ってきてみたんですが……文字が読めないんです」
老人は眼鏡の奥の目を少しだけ細め、咎める風でもなく、ただ静かに頷いた。
「なるほど。では、私が読みましょう。私はオルソン。この図書館の司書をしております。文字が読めなくても、聞くだけなら問題ないでしょう」
オルソンは迷いのない足取りで棚の奥へ向かい、1冊の、簡単な薄い本を選び取ってきた。
子供に読み聞かせる寓話のような装丁だった。オルソンは座るように椅子を勧め、乾いた声で、ページを繰り始めた。
オルソンの低い声が部屋の埃に溶けるように響く。
最初に聞かされたのは、『洞窟を掘る男』という寓話だった。
ただひたすらに宝を求めて世界の底へ向かって暗闇を掘り進めたが、何も見つからない。本人は何も得ないまま去っていった男の物語。後から来た者がその洞窟でランタンを灯したとき、その男が掘り抜いたその道全体が、実は無数の宝石だったと気づき巨万の富を得る。そんな話。
パタン、と老人が静かに本を閉じた。
室内に、再び埃っぽい沈黙が戻る。
「なんとも腑に落ちない話ですね」
「何故そう思うので?」
「努力が報われないというか、その手柄を他に取られるあたりが、」
オルソンはククク、と笑った。
「確かにそうですな、使い方を知らねば使われる。男も暗闇の中で没頭するばかりでなく光を灯せば良かったのです」
それはその通りだ。
物は使うためにあるのだから。
「……ありがとうございました。なんとなく、楽しい時間でした」
トモは礼を言い、席を立った。
「オルソンさん」
「おや、何ですかな」
「……何故、私にこの本を?」
文字の読めない自分に、何故あえてあの物語を選んで聞かせたのか。
オルソンは眼鏡の奥の目を少しだけ細め、窓の外のどこか遠くを、じっと見つめた。
「なに、深い意味はありませんよ。ただ、私が好きな本です」
そう言ったオルソンの声には、微かな期待とも取れる、奇妙な響きがあった。
「中は自由に、どこでも見ていかれるといい」
オルソンもそれ以上は何も言わない。ただ、眼鏡の奥からの静かな視線を背中に感じていた。
(……変な話だったな)
そもそも有益な情報だったかと言われればそうではない。これでは、司書の自己満足に付き合っただけではないか。もっと、今の自分に必要な何かを聞かせてくれるとばかり思っていた。
特に目的もなく、本の並ぶ棚の間をなんとなく、ぶらぶらと歩き回り始めた。ただ埃っぽい部屋の中をあちこち歩く。
その度に文字の読めない本を適当に開き眺める。文字が読めなければ使いようがない。
足の向くまま、部屋の隅、術もなく入り口の近くへと、なんとなく足が戻ってきた。
さっき聞かされたあの寓話が、頭の裏側でぼんやりと反芻される。
光も照らさずに暗闇を、ただがむしゃらに掘り進んだ男。
掘ることに固執し、何も得られない。その上何処の馬の骨ともわからないものに横取りされるとは、頭が悪いとしか思えなかった。
「物の使い方、ね」
また何気なくに本に手をかける。
だとすれば、読めない本をどう使えというのだろう。
「……あ?」
表紙には、先ほどから見ている幾何学模様のような文字が並んでいる。
読めないはずだった。
「ピーマンの、レシピ、、?」
意味がわからない。何故、異世界の魔導書の装丁で、そんなあまりにも日常的で、場違いな単語が、そもそも読めないはずの文字が読めたのか。
その時、本が、内部から爆発するような強烈な光を放った。
「──っ、」
視界が急激に白く染まり、世界の輪郭が、ぼやけて崩れていく──。
強烈な耳鳴りと共に、ゆっくりと視界が戻ってくる。
周囲の風景は、元のままだった。古本屋のような、埃っぽい図書室。
視点が定まったその先。
そこに、いた。
子供とも大人ともいえない、女性のような気もするが、どちらかすぐに判別ができない。
それの背後から差し込むわずかな光を吸い込むように、腰まで伸びた金色の髪が、まるで極細の金属糸のように鈍く輝いている。
顔立ちはパーツの一つ一つが、彫刻のように奇妙なほどくっきりと左右対称に整っていた。
それでいて、こちらを見つめる眼差しには、張り詰めた刺々しさが一切ない。むしろ、すべてを受け入れるような、不気味なほどに優しい穏やかさを湛えていた。
その身体を包んでいるのは、ダボっとした仕立ての、一枚の白い衣服だった。
ワンピースというには装飾がなく、かといって教会近くで見かけた修道服ほど厳格な形でもない。
生地を贅沢に使った、どこか現実味のない無垢な白。それが、その輪郭の曖昧な身体をふわりと覆っている。
育ちの良さを感じさせるそれは、古びた机の前にぽつんと佇んでいる。
幽霊、ではない。衣服が擦れる微かな音が聞こえる。
なんだ、これは。
トモは無意識に息を詰め、半歩下がって身構えた。
それの手が、ゆっくりと動いた。
指先は、トモの右手に握られたままの『ピーマンのレシピ』を、じっと差している。
その時、トモの脳裏に、「音のない言葉」が流れ込んできた。
(見つけてくださったのですね。)
不思議な声だ。心地のいい昔聞いたことのあるような、そんな響きの声。
頭に直接語りかけてくるとはこのような感じなのだろう。
「おい、お前は──」
トモが声をかけようとした、その時だった。
「おや」
そこに立っていたのは、いつの間にか帳場から戻ってきた司書、オルソンだった。
「もう帰られたと思いましたが、こちらにいましたか、そちらはお連れの方ですか」
オルソンは、その横に佇むそれを交互に見つめた。
その驚きの表情は一瞬で収まり、すぐにいつもの、温厚な空気に戻る。
視線は、トモの手にある一冊の本、そしてその光によって呼び出された存在に注がれていた。
「いやこいつは──」
「お初にお目にかかります。私はこの方の従者、ピーマンと申します」
流暢に響いたその声は、いましがた脳裏に直接流れ込んできた『声』と、まったく同じ音色だった。
にもかかわらず、口にされたのはあまりにも場違いな野菜の名。
名乗ると同時に、それはダボついた白い服の裾を、両手でそっと優雅につまみ上げた。そして、片足を斜め後ろに引き、音もなく静かに膝を折る。
背筋は一本の糸で吊り下げられているかのように微動だにせず、首元だけを傾ける。どこぞの最高位の貴族の夜会を思わせる、完璧なカーテンシーだった。
言いたいことがあるとすれば、ただ一つ。
こいつは一体、なんなんだ。
1人でいることが嫌いじゃない。
誰かと繋がっていたいとも思う。
それが、自分にとって都合のいい誰かなら。




