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#3 善意

思い出す記憶は苦しいものばかりだが、

その中になぜか温かみを感じる。

朝、目を覚ますたびに、まず自分の身体を確かめる。

腕は上がるか。足は動くか。


布団の中で手足を伸ばすと、関節の奥で小さな火花が散るように痛みが走る。その瞬間、自分の輪郭が曖昧になり、世界が遠のく。


薄いカーテンの向こう、学校へ向かう子供たちの足音だけが、頭の中で響いていた。


「今日はどうする?」


廊下に響く母の声には、いつも薄膜のような疲弊と不安が混ざっていた。


行けると思う、と答えて立ち上がろうとするが、膝が裏返るように崩れる。

母は何も言わず、隣に座ってくる。その沈黙が、何より胃の奥を焼いた。


原因の分からない病。病院を転々とする日々。

ある白々しい診察室で、医者が母に告げた、あの安易で傲慢な言葉。


(─これは、あなたの愛情不足が原因かもしれません)


と医者から言われていたのは後から聞いた話だ。

根拠のない不条理。それに対して怒ることもせず、ただ黙って頭を下げて泣いた母の背中。


身体に症状が現れるたびに、母は静かに自分を責めていた。その姿を見ることが、関節を削る痛みよりもずっと苦しかった。


生まれた瞬間の血筋、遺伝子の不具合、あるいは運の悪さ。

努力や論理ではどうにもならない理不尽が、あの頃から俺の前に立ちはだかる。


たまの登校では、周囲から仮病と言われた。ちゃんとした意味は分からなかったが、良くない言葉だということだけは、その場の空気で理解できた。他人はいつだって、内情を知らない部外者の言葉で簡単に歪められる。


季節がいくつか過ぎた朝。


外に出て歩いてみる。痛みはあったがどうにかなりそうだと思った。


ある日を境に、驚くほど自然に身体は回復していった。あの暗闇の日々は、新しい自分を形づくるため、蛹のような時間だったのではないか。

その無意な時間は、いつから感じなくなったんだろう。


「……っ、」


小さく息を詰まらせながら、俺は目を開いた。


視界に映るのは、実家の天井ではない。ナカレ領ルーミナスの安宿の、ひび割れた粗末な木目だった。

どっと不快な汗が首筋を伝い、強制終了していた意識が、無理やり嫌な音を立てて起動していく。


継ぎ目の粗い記憶の残痕が、強烈な頭痛となって側頭部を内側から締め付けている。

だが、それ以上に生々しい感覚が、思考の雑音をすべて掻き消した。


胃袋が、悲鳴を上げるように収縮している。

飯はいらない、という突っぱねは、現在の俺の腹具合の前に、何の意味もなさなくなっていた。


薄い床板の隙間を抜けて、一階の食堂から油の爆ぜる音と、大雑把に刻まれた肉が炒められる匂いが、容赦なく上がってくる。


俺はゆっくりと上半身を起こし、ベッドの脇に転がる泥を被った靴を履いて階段をゆっくりと降りる。

階段横の厨房からけたたましい料理の音がする。


腹が減った。

油と肉の匂いを嗅いで余計に腹が空く。


食堂で忙しく給餌をする若い娘が見える。ぼーっとみているとこっちに気づいてズンズンとこちらに向かってきた。低い背丈の下からこちらを睨んでくる。


「お客さんご飯いらないっていった人でしょ、ほら、なに突っ立ってるの。早く座って」


返事をする暇もなく食堂の席に座らされる。

なんだ、この強引な女は。


呆気に囚われものの数十秒。


目の前に料理を乗せた皿が目の前に置かれた。

野菜と肉が小さめに刻まれて混ざっている焼き飯に、半生の卵が上から載せてある。

なんだ、食べろといっているのか。


「そんな顔されてちゃ、こっちがいじめてるみたいじゃないの。だいたい昼前に起きてきてだらしがない。勘違いしちゃ駄目よ、夜はちゃんとお代を払ってもらうんだからね」


そう言い捨てた娘の言葉を、俺は額面通りには受け取れずにいた。

後から理屈をつけられて、銅貨を(むし)り取られるのではないか。


──などという論理的な警戒は、しかし、右手に握ったスプーンが焼き飯に突き刺さった瞬間にすべて霧散した。


スプーンを口に運ぶ動作は、もはや食事というより、乾いた胃袋への配給だった。


絶妙な火加減で炒められた米と、小さく刻まれた肉の旨味が、半生の卵のまろやかさと混ざり合って喉を滑り落ちていく。噛むことすらもどかしい。文字通り、飲み物のように焼き飯を胃袋へ流し込み、ものの数分で皿を空にした。


「……ふぅ、」


一息つき、ふと我に返る。

食器はどうするべきか。どこか返却する場所が用意されている気配はない。周囲のテーブルを見渡すと、先客たちの汚れた皿が雑然と放置されていた。どうやら、置きっぱなしが普通なようだ。


余計な詮索をされる前に、早いところ外に出よう。

そう思って席を立ちかけた時、薄い壁を隔てた厨房の奥から、低く抑えられた話し声が漏れて聞こえてきた。


「ジーナ、いらんことをするな。あぁ見えてあいつは上客なんだぞ。銀貨なんて持ち出してきたんだから。」


「うるさいわね、私はいい気分で仕事がしたいの。あんな顔されちゃ私がいい気分じゃなくなるんだから。しかもあれは私の賄いでしょ、どうしようと勝手だわ」


「そうはいってもなぁ」


「なによ。あー、お腹すいたわね。そんなに言いたいことあるなら私の賄い早くしてちょうだい」


俺の不躾な警戒を置き去りにして、厨房の向こうでは、あまりにも身勝手で、他愛のない押し問答が転がっていた。


急激に、居心地の悪さが胸の奥をせり上がってきた。

オヤジの方は俺をカモか上客と算段をつけようとしていたようだが、あの強引な娘のは、ただ、自分のいい気分の邪魔になる『不景気なツラ』が気に入らなかったのだ。


他人の悪意やどうなるかを計算することでしか動けない自分。そんな歪んだの塊のような俺は、この、あまりにも無防備で真っ直ぐな善意の空間に、居心地が悪かった。


トモは逃げるように席を立ち、腰に下げた袋の中の、銅貨十三枚の重みを確かめる。

胃袋を満たした温かい焼き飯が、まるで自分には不釣り合いなもののように、腹の底で重く沈んでいた。


安宿の扉を押し開け、目の前に広がっていたのは、昨日と変わらない赤土の舞い上がる活気と熱気に満ちた露店街だった。


エルフのような長い耳を持った人間が、青黒い鱗を持つ巨大なトカゲの背に揺られながら大量の積み荷を運び、その傍らでは毛皮を羽織った商人と客たちがやんやと声を張り上げて商売をしている。


行き交う雑多な声をよく聞き捨てていけば、どの露店でも執拗なまでの値切り交渉が横行しているのが分かった。そういう文化、そういう地の巡りなのだろう。


「なんだ! 商人のくせにボケてるんじゃないか!? 銀貨の釣りがなんでこれっぽっちなんだよ!」


「そりゃお前、鑑定代も含んだらそうなるのが相場だよ。嫌なら他に行きな!」


「あのなぁ、銀貨一枚が銅貨二十枚なんてのはガキでも知ってるぞ!」


──っ、!


すれ違いざまに耳に飛び込んできた罵声に、俺は足元をすくわれるような感覚を覚えた。


やられた。


すぐにポケットの銅貨を取り出す。──十三枚。

飯抜きで交渉したはずなのに、本来あるべき取り分から七枚も減っている。五枚どころの話ではない。


「あの親父……」


沸々と湧いてくる感情を大きく吐き出す。

よくない兆候だ。確認を怠り、この街の流儀を知らなかった俺の落ち度だ。


怒り狂っても半端な知識で戦っても負ける。そんなのは道理だ。相手の土俵で戦ってはいけない。同じ土俵に立つための情報が、まだ圧倒的に足りていない。


「とりあえず、この街を歩いてみよう」


歩いてみて、分かったことがある。

この街はある程度、明確に区分けされて整備されている。


今いる賑やかな露店街は通りに所狭しと布棚が並んでいるが、そこから一本横に入ると、様子が一変した。

やや大きめの石造りの建物が整然と並ぶ通り。道は綺麗に平らな石畳に整えられ、装飾の施された馬車が何台も往来している。

歩いている人間たちの身なりも、仕立ての良い衣服を着ていてみんな綺麗な感じだ。


この通りには金持ちが集まるらしい。店の面構えも重厚で高級感がある。


さっきまでの赤土の場所はスラム街とまではいかないが、いわゆる庶民のエリアなのだろう。

その石畳の通りの隙間、建物の合間から、街の中央にそびえ立つ建造物が視界に飛び込んできた瞬間、俺は無意識に足を止めていた。


──巨大な、城、いや教会か。


白磁のような鈍い光沢を放つ巨石が天に向かって幾層にも積み上げられ、その頂点には街のすべてを見下ろすような鋭い尖塔が何本も突き刺さっている。


壁面に施された精緻な彫刻の数々は、どれほどの過酷な労働力を要すれば完成するのか想像もつかない。

通りを見渡せば、粗末な麻の法衣を纏った宣教師らしき人間が何人も領民に声をかけ、その足元では、教会の威光に跪いて祈りを捧げる老人の姿があった。


俺は背筋に走る奇妙な悪寒を誤魔化すように、教会の尖塔を視界の端に据えたまま、人流の集まる方へと足を向けた。


石畳の緩やかな坂を上りきる。教会の影が文字通り街を飲み込むように長く伸びる。

視界が開け、円形の広場へと出た。中央には、精緻な彫刻が施された石造りの噴水が涼しげな音を立てて水を吹き上げている。


その噴水の前に、白い頭巾を被った、シスターのような服を着た若い女性が立っていた。集まった数人の領民を前に、彼女は朗々と説法を響かせている。


──神を信じよ、そうすればいつか救われる、と。


「神なんぞいるのかね、」


ボソリと、本当に無意識に口を突いて出た小さな呟きだった。だが、説法をちょうど終えたらしいその女性の耳は、驚くほど聡かったらしい。即座に鋭い視線がこちらに突き刺さった。


「不敬な。そんなことを言ってはいけませんよ」


まっすぐ俺に向かって歩み寄ってくる。明らかにトゲのある、面倒な手合いに目を付けられた。


ここで神はいないと論破したところで俺に微塵の利益もない。そもそもいないことが証明できないし、もしかしたら本当にいるのかもしれない。

ただ、この街の最大権力であろう一派に喧嘩を売っても何にもならない。


俺は即座に表情を消し、あえて困惑したような無知な迷い人を装うことにした。


「失礼、何か誤解を与えてしまいましたね。……実は、先程この街に来たばかりの旅の者なのです」


俺はあえて声を落とし、視線を少し下げてみせた。


「私の故郷はひどく荒れていましてね、神の救いなどという言葉とは無縁の場所でした。だから、あなたの美しい声に惹かれて立ち止まったものの、つい、そんな温かい存在が本当にこの世界にあるのだろうかと……羨むあまり、不躾な言葉が出てしまいました。不快にさせたのなら、どうか許してほしい」


我ながら白々しいハッタリだ。だが、効果は覿面だった。


女性の眉間の皺がみるみるうちに解け、代わりに「哀れな迷える子羊」を見るような、特有の自己満足に満ちた光がその瞳に宿る。


「……まぁ、そうだったのですか。それは災難でしたね。神の光が届かぬ地から来られたのなら、疑ってしまうのも無理はありません」


この手の『教えを説く側』の人間は、最初から盲信している信者よりも、自分の言葉で「導いてやった元不信心者」を一番好む。歯向かってくる相手より、教えて欲しいと助けを求めてくる相手は可愛いものだろう。


「何も知らない私に、よければその優しき神様について、少しだけでも教えてくれませんか」


本心を隠して頭を下げる。少しでも何かを教えて欲しい、そんな気持ちもあった。


「私も僧侶になって間もないですが、神をお慕いする気持ちは誰よりも強いと思ってます」


彼女は、大層満足そうに胸を張り、先端の説法をさらに詳しくなぞり始めた。

彼女の話を整理すると、この世界は神々によって創造されたということ。悪しき存在が魔族になり、その頂点たる魔王は何度でも蘇り、人間はそれと戦い続けなければならないということ。


いつか真の平和が訪れれば、人は神の世界に行けるということ。敬虔に神に祈ること、術理の類いはすべて神のみわざであるということ。


ただの怪しい宗教家にしか見えなかったが、この世界の宗教感覚はだいぶこちら側に偏っているようだ。思えば、昨日話したあのおばさんも似たようなことを言っていた。


会話の端々から察するに、彼女のような街頭に立つ者は『僧侶』であり、教会の上層部でこの街の統治や神の奇跡を司る階級は『神官』と明確に区別されているらしい。


彼女はその僧侶。

つまり、ただの拡声器だ。


「素晴らしいお話だ。もっと深く、この世界の神の教えについて勉強したいのですが……私のような余所者でも読めるような、本が置いてある場所はあるでしょうか」


「まぁ、素晴らしい心がけですね。この先を少し進むと、教会の薦める図書館がありますよ。そこなら、あなたのように文字が……いえ、失礼。読みやすいものから置いてあるでしょう」


僧侶は気まずそうに言い直したが、旅人はあまり字が読めないということなのだろう。この世界の一般領民は、著しく識字率が低いという仕組みのようだ。


「ありがとうございます。あなたの導きに感謝を」

トモが一礼すると、僧侶の女性は至上の喜びに浸った顔で胸の前で聖印を結び、そのままどこかへ歩いて行ってしまった。


図書館か。


俺はポケットの中の硬貨の重みを確かめながら、教えられた方向へと歩き出した。

歩けば出会いがある。

幸か不幸か、それが誰も答えを教えてやくれない。

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